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学校を出る/学校にこだわる

立岩 真也 19960229
千葉大学文学部社会学研究室『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』
千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会,1500,第20章追記,pp.334-336


 一方に学校ではない場、学校ではない学校を作るという方向(伊藤志野の報告、第15章)がある。他方に(出る人がいるその)学校に入ろうとする方向がある(斉田の報告、第19章)。例えば「アカデミア・小さな学校」はその間くらいのところにいて、苦労しているという感じもする。矛盾しているようにも思える。どのように考えたらよいのだろうか。  具体的にはどうしたらよいものだかわからない。AとBと2つあって、両者にはかなり水と油的なところが確かにあると思うからである。しかし、どちらか一方だけというのはもっとつらい。両方とも捨てられない。捨てられないところから考えていくしかないような気がする。さてその2つとは何か。
 A:Aは全体からBを引いた残りである。経験する、学ぶ(べき)ことの中で、Bと独立に獲得されうる部分である。
 B:他者があることの経験、他者がいる社会があるという経験である。
 Aは特定の「教科」を指さない。同じ教科の中にAとBが存在する。またBの中には、Aについて差異があることの経験も含まれる。しかし、AとBとは連続的ではあるのだが分れる。教えられることの全てが人間の具体性、関わりと関係をもつはずだという主張は否定しうると思う。
 学校は生活の場だという主張は、Aを教える場として機能していると思われている学校が、そのために長い時間を過ごす生活の場であることによって、Bの場となっており、ならば障害児も含めた生活の場としてあるべきだという主張である。現実として、「学校」という、誰もがいく、行かねばならないことになっている場を、いわゆる「勉強」の場とは別の関係の契機としようとする行いである。
 これに対して、学校というのはたかだかAを得るための手段ではないか、そこに「生活」を言う必要はないのではないかという主張もある。そしてこのような意見は別段「勉強」を何よりも大切なものと考える人達からだけ言われるわけではない。学校がなんでもやろうとしすぎてはいないか、それで息苦しくなっているのではないかという見方からも出てくる。こういうことをどう考えたらよいのか。


 生活のための「よすが」としてであれ、「趣味」としてであれ、Aを学ぶことを否定する必要はない。できなくてもそれはそれだけのことだ。しかしそのことはできること、できるようになることを否定するものではない。そしてAについて能力の差はある。教育方法が悪いのであって、うまくやれば同じだけを獲得できるはずだという考え方は全く支持できない。また、個別に対応した方がよい場合がある。各自の内容、スピードを違えた方がよい場合がある。このことと関わって、AとBはうまく沿い遂げられないことがある。
 Aを学ぶことと、場に集まること(ゆえにBが関わってくること)の関連は自明でない。今まで教育は学校で提供されてきた。しかし全てについて本来集まる場が必要だとはいえない。個別の学習はかなりの部分外在的な要因によって妨げられてきたが、これを変えることができるし、変わる可能性はある。例えば、伊藤志野(第15章)が触れているホームスクーリングの試み。また例えば、コンピュータ利用の進展によって、個別に学習できる度合いが高くなることは考えられなくはない。ここでは、「共に」という契機は必ずしも必要ではなく、Aだけで成立しうる場面が少なくともある程度ある。そのことはそれ自体としては拒絶すべきことではない。つまり、Aに関する限り、学校という場である必要はなく、さらに子どもたちが集まる場でさえなくてもよいということである。


 とすると、Bという要素はどうなるのか、どうするのか。
 ひとつに、Aの学習における個別的な対応可能性が大きくなっていく時、別の可能性もまた見えるのではないか。場を分けるというより、むしろ一人一人がてんでばらばらにやっているという状態に近くなり、そのことによって逆に、それ以外の全ての場は、Aという要件によって規定される必要のない場となり、そういう場が広がる。学校と学校外、教室と教室外と考える必要はない。建物や部屋に必要な設備があってそれを利用しに人は入ってくるが、一人一人が必要なものは例えばその中の一人分の機器(あるいは人)であって、それが置かれる建物や部屋は開かれたものとされる。ただ単に、人はただその設備を使うためにそこを訪れるだけということもあるだろうが、他方で、余剰の時間・空間や、そこに形成される関係も生まれていくのではないか。いくつかの塾やフリースクールの現実はそれに近いものになってもいる。
 次に、(義務として課される場としての)学校が果たす役割は本来はAだが、「同時に」Bの機能を果たすべきだという言い方をする必要はない。Bは常にAと抱き合せでなければいけないというものではない。仮にAが必要とされているとしても、それと別に、独立に、Bが義務として与えられることが必要だと主張することもできる。Aの方はほおっておいても人々は得ようとするものなのかもしれない。だから、斉木(第20章)が述べた、学校は人間関係を育成したり、社会性を発達させたりするだけで、学力を身につけさせるという面は、民間教育に任せる」という荒唐無稽なアイデアも考えうるのだ。
 そして、今現在人が集まる場、ゆえにBという契機を含む場においては、隔離を禁止する。しかし、その場が、たとえばAという目的によって規定される限り、どちらをどの程度重視するのかという問題は残る。これは当然のことで、AとBの二つを立ててしまった時、両者が完全に調和する可能性はないことは見えている。ただ、Aと同時にBを必要なものとして立てる時、Aにおける効率性だけが計算されればよいというわけではなくなる。AをBより常に優先しなければならないとは言えなくなる。ここで、排除しようとする理由を説明し、納得を求めなければならないのは排除しようとする側である。排除しないことがどれほどマイナスなのかということの拠証責任は排除しようとする側にある。労働の場では、能力が一定以上の人を一定数必要として、それ以外の人を排除できるとしよう。(このことにしてもなぜと問われて何か「正しい」理由があるわけではない。このことは立岩[1994b][1996a]で論じられている。)教育の場でも能力という言葉が使われるのでなんとなく同じように考えてしまうが、純粋に職業のための予備教育と言える場合を除けば、教育の場と労働の場は同じ性質をもってはいない。教育の場にやって来る人はサービスを受ける人なのであり、たとえばサービスをよく享受できない(だろうと予測される)というだけの理由で――そもそも何かを自分に有用なサービスとして受け止めるのはサービスを享受する側である――、排除することはできない。
 繰り返すと、Bという契機は各人の自由の範囲にないと主張することが可能である。どちらか一方が同意しなければ契約は成立しないというのが契約の自由だが、公教育であろうとなかろうと教育という関係――に限られないはずだ――において、排除の自由は無制限に行使されてはならないと言うことができる。つまり、私は嫌だから、私にとって都合が悪いから、あなたはここにいてはならないとする主張はそのまま受け入れられるわけではないのである。最後に、こうして制限されて残るAの「自由度」について少し考える。

自由
 自由化すればよいではないか。行きたい人が行きたいところに行って、好きな教育を受ければよいではないか。こういう「教育の自由化」に批判的な考え方もある。ここに、体制を批判する人達がしばしば「公教育を守る」立場に立ち、「教育の自由化」を唱える人達は批判者達にとって体制の側にいるとみなされているという奇妙に思える構図がある。どうなっているのだろうか。
 一つに、自由化は行ける人と行けない人の格差につながり、平等に反するという意見がある。しかし、斉木報告(第20章)で述べられたように、資源の供給の問題と内容の問題とは別に考えることができる。フリードマンのアイディアのように、教育クーポン券が各人に支給され、それをもって教育を買いに行ってもよいかもしれない。例えば東京シューレは学校法人化の道をとっていない。しかし、これは学校法人になると教育内容に干渉がありすぎるからで、この部分が変われば、親の負担を軽減するためにこの方法を受け入れることはありうる。(ただいわゆる高等教育についてはどうか。教育を利用しない人は負担するだけになる。また人より長い間学校に行くのは、多分行かないより利益が大きいからだろう。とすると公平でない。こうした場合には、奨学金の超拡張版のようなものを考えればよい。お金は基本的に返さねばならない。しかし返せない人は返済を免除される。)
 もう一つ、自由化は受験のための教育を過熱化させるだけ、より明確な序列化をうむだけだという。同じようなことは保育についても議論される。措置制度から契約制へという自由化によって、「英語の勉強」等々を始める保育園が出てくる、等々。そういうことが起こるかもしれない。ただ、もしそういうことが起こったとしても、それは消費者が愚かだ――無論それは愚かな選択ではないという主張もありうる――ということであって、愚かな選択であっても、消費者の選択は認めるべきだという考え方もありうる。だから、自由化の批判者は消費者を信用していないのだとも言える。これに対して、批判者は、消費者に外圧として働く力があまりに強く、ゆえに消費者にとって本来は有利な選択が実際には行われない可能性が高いので、消費者保護として自由化の制限が行われるべきだと主張することになる。このような論点がある。
 ここに加えるべき論点は、これが子どもに関わることだということである。実質的な決定者は、多くの場合、子どもではなく親である。親は親が好きなような早期教育・英才教育・山村留学等々を子どもにさせる権利があるのか。子どもにとっては、親以外の者も他人であると同時に、親も他人である。常に親が子の一番の代弁者だとは言えないだろう。どこまで、誰の、どういう自由を認めるべきなのか。この問題が残る。


REV: 20161031
障害者と教育  ◇『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』
立岩 真也
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