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活動を評価するということ

立岩 真也 19960229
千葉大学文学部社会学研究室『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』
千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会,1500,第3章追記,pp.72-74


 米国のNPOの人の用い方について報告された。NPOについては最近いろいろ紹介があるけれども、人材にかかわるこういった細かな話はあまり知られていないのではないか。貴重な情報を提供してくださった今田克司氏に感謝する。
 ここで一つに注目されるのは、NPOに参加することに対して、企業や大学の中で評価するシステムがあるということである。そこで、進学・就職にあたって社会貢献活動を評価することの是非、意義について検討する。
 評価がボランティア活動を振興させるために有効であるとかないとかという観点から語られることが多い。しかし、それだけでは十分ではない。この社会がかくも選抜・試験のはびこっている社会であるにもかかわらず、私達はあまり気にしないところがあるが、何を評価してよいのか、評価すべきでないのかという問題がある。ボランティアする人はよい人だとしよう。しかし、そういう人を選ぶか選ばないかは別のことである。
 評価が行われる要因を大きく2つに分けることができる。評価する組織の活動に直接関係する場合と、直接には関係しない場合である。特に問題になるのは後者である。
 企業の場合には組織の目的が比較的はっきりしており、評価の動因としては前者が基本になるとしよう。ならば、ボランティア活動、NPOでの活動が、その企業なり(でその人に働いてもらう際)の基本的な目的・機能に関係がある場合には、活動が評価されることがありうるだろうし、あってよいだろう★01。特に採用するか否かの決定時には、事前にどれだけ働けるかどうかは正確にはわかりようがなく、職務遂行能力と関連するだろう何かの指標を使うしかない。ここでは社会貢献活動の経験は職歴と基本的には同格のものである(もちろん、経験する内容、得られることは同じでない部分があるにしても)。企業はその利害関心から評価を行う(cf. 第5章)。報告された限りでは、実際米国での評価は、少なくとも相当程度、このように行われているようである。もちろんこうした評価が実際に意味を持つためには、NPOでの活動がそれなりの経験・技術等々を提供できるものでなければならないのだが、この条件も満たしているようだ。
 では学校ではどうだろうか★02。難しいのは、学校が何をすべきところなのか、はっきりしないということだ。
 @:それでも学校はひとまず何かを知るところではあるだろう。例えば「世間を知る」ための一つの方法として、活動に参加させるということはありうる。この場合には、それは実習として、正規の科目(の一部)として位置づけられることになる。
 A:学校とは(単に)「勉強」するところではない、「人間性」を育てるところであるという主張がある。そうかもしれない。しかし、仮にそうだとして、この「人間性」に関する項目で選抜するのは奇妙である。既にある程度何らかの活動に従事したことのある人でなければそういう「人間性」をより発展させることができないといった因果を考えない限り、選抜の項目としてこれをあげる理由にはならない。
 以上は選抜とは無関係である。学校における選抜の評価項目の一つとして社会的活動実績を用いることの正当性はどのように主張されうるのだろうか。
 B:なぜ選抜をするのか。ついていけなさそうな人を排除する、大きな効果をあげそうな人からとるということだろうか。とすると、社会的活動の経験がその指標になるかである。例えば活動歴の有無は積極性といった項目に関連があって、それは学業に影響があるかもしれない。また、ある種の職業に就く人を養成する課程でも、職業や学習に対する意欲そして適性や成績に関係があるかもしれない。また教育が、もっぱら学生に教えられるものではなく、学生の参加が求められ、学生の経験が他の学生や教育活動全般に役に立つこともあるかもしれない。こうした相関が実際にあるなら、経験の有無は選抜の際に有効な指標ではあるだろう。問題は、どの程度こうした相関が実際にあるのかである。(そして、その前に、このようなことが選抜する側に意識されているのかである。)
 C:学校での成績や卒業資格なりが、「社会」に出た時、特に就職時に――それが職務遂行能力にかかわる限りにおいて――評価されることを受け入れ、さらに、そこでは「学業」だけでなく、他の能力や経験も評価されてよいとしよう。その部分も学校が繰り入れて評価しておけば、社会にとって、企業にとって便利ではないか。代行して予備選抜するというわけである。しかし、少なくとも高校入学前の活動だけが不明瞭に評価される現在のシステムがその役に立つとは思えない。
 次にあげるものは、当該の学校(における教育)で何を提供するのかということと別の動機に発している。
 D:「人のために何かしようという気」を起こさせるために評価をもちこもうというものである。そういう「人間性」があることそれ自体はよいことだとしよう。だが、人間性は大切だということと、人間性というものを評価するとよいということ、両者は別のことである。ここでは、この大切な「やる気」をこの世に増やすために賞罰を与える、という具合に両者が結びつけられる。
 E:「させる」ことがめざされる。することがよいことだから、することが求められているから、というものである。政府なら政府がボランティアの「振興」を考えていて、そこが教育にも権限をもつので、そこを介して振興をはかる。ここでは単にやらせることが主題であり、自発性があること自体が第一義的な要件ではないとしよう。
 Dに関連してよく語られるのは、評価し奨励することと自発性との矛盾である。自発的であるべきものが手段化されることになる。これでは自発性はうまれない。かえって、やる気をなくさせることにもなる。それだったらやりたくない。自発性を本来要求されるような活動にとってもマイナスだ。こうしたことが指摘される。
 さらに、DE双方に関連し、自発性対報酬(賞罰)という問題とは別の問題もある。つまりAという活動に従事する/しないことによって、(Aと無関係な)Bという活動に従事する/しないことが決定されるということである。よいことをすることと引き換えに与えられ、よいことをしないことと引き換えに奪われることにもなる。多くの学生にとって、学校は、いなければ、行かなければならないところである。あるいは例えば希望の学校に行けるための、あるいは職を得るという目的を実現するための手段としてある。そのためにボランティア活動が行われることになる。ここで行われていることは、多少誇張して言えば、就職の機会を与える/与えないことによって、社会貢献活動を行わせようということである。兵隊に行くことを奨励するために、あるいは環境美化を奨励するために、それに従事しなければ就職させないということである。学校は就職のための手段ではないと言われるかもしれない。その通りだとしよう。それでも同じである。純粋に「勉強」したい「学問」したいという人もたまにはいるかもしれない。それをかなえるための条件として活動を課し、活動に従事しない者にはそれを阻むことになる。
 Aも(その人にとって)大切かもしれないが、Bも大切だ。だから、BもやればAも与える(BをやらなければAは与えない)、これでよいではないかと、それが教育だと言われるかもしれない。そうかもしれない。しかし、このような場合には慎重である必要がある。両方が大切であることは認めるとしよう。しかしAとBが同一の場で一緒に評価されなければならないのか、連結されねばならないのかが問われる。選抜の際には必ず機会を失う者がいる。もし、(建前はともかく)現実に、ある場がAを得る場として存在している場合には、BがAの獲得のための必要条件であることによって、Aに関する能力・適性と無関係に排除されることにもなる。また同時に、BがAのための手段となることによって、BはAに従属するものともなる。Bの価値が下がってしまうのである。★03
 以上で区別してみてきたことが慎重に検討されねばならない。その前に、@〜Eが区別されうるということに十分自覚的でなければならない。だが実際にはどうだろうか。ずいぶんと曖昧なままなされているのではないか。
 そして、学校や学校の教師が現実にどのような存在であるのかということ。このところ出てきている動きは、それを反省し、たとえばこれまでの学校教育が「知育偏重」のものであったことを反省しての上のことであるかもしれない。しかし、現状に「活動の評価」を加えることによって、それが変わるのかである。これは全く明らかではないし、むしろ、逆の効果を与えうる。これは自発的な活動を評価するということ自体の問題ではなく★04、誰が、どのような位置で、なんのために(というより現実にどのような効果を生じさせるものとして)評価するのかという問題である。何か証拠があって言うのではないが、私達が民主主義を信じないその一因は、生徒会・自治会なるものが学校から与えられ、そしてその役員であったりすることが評価さえされてしまうことにあるような気がする。これがDEについて最後に述べたことである。同じことは「ボランティア活動」――これが学校で奨励されるのは今に始まったことではない――についても言えるかもしれない。


★01 そう簡単に「あってよい」と言えないことについては立岩[1994b][1996a]。能力を評価すること、能力以外のものを評価することについて考察している。
★02 小熊[1993]、田代[1994d:57-58]、永井[1995]、早瀬[1995:118-121]、池田[1995]等が、生涯学習審議会[1992]や、その後の学校、入試における評価のあり方について議論している。
★03 またここではコストがかかっていないようにみえるが、それはやらせる側にとってのことであって、従事している人にとっては負担である。また、Bという基準を介在させることによって、Aという機能の遂行が効果的に達成されないということもある。これが本当に効率的であり効果的なのか。
★04 自発的行為を評価する、例えば褒める。この順序が逆転し評価されるために活動をする。この逆転は評価してしまったとたん必ず生じうることで、避けられない。また「他者の評価」に対置されるのが「自己満足」(もちろんこれ自体にどんな悪いところもない)だとすれば、後者は前者に優越するか。また両者はそう簡単に分けることができるか。


REV: 20161031
『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』
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