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(非政府+非営利)組織=NPO、は何をするか

立岩 真也・成井正之 19960229 千葉大学文学部社会学研究室『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』
千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会,1500,第2章,pp.48-60

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 NPOは政府でなく、営利企業でない。このような性格をもつNPOの、市場・政府との関係における意義について検討する――なお以下(の全ての章)で、NPOは米国の法制度のもとでの組織だけを指すのでなく、法人格の有無を問わず、非営利の活動を行なう組織全般の略称として用いられる。
 NPOの存在意義について既にある議論としては経済学のものがある★01。それは「政府の失敗」「契約の失敗」を言う。
 ただその前に、こちらはどんな経済学の教科書にも書いてあることだが、A:「市場の失敗」を見ておく必要がある。「市場の失敗」としてあげられるのは、「公共財」★02の存在、「外部不経済」★03の存在、等である。また、「情報の非対象性」(売り手に比べ買い手の側が商品についての情報をもっていない)も市場の失敗の要因の一つである。その中で、特に公共財の供給について、市場の限界が指摘される。
 この場合、通常政府による供給が求められる。しかしここでさらにB:「政府の失敗」が指摘される★04。たとえば次のように、政府による供給の不適格、非効率が言われる。
 1.:情報コストの問題。政府は、サービスの需要者である住民から必要な情報を引き出し、それに対応することが難しい。2.:政府を構成する政治家や官僚が、議会や委員会で自分本意の戦略的な行動をとるため、政府の公共支出が過大になり、政府の財政は慢性的な赤字に悩まされることになる。こうした戦略的行動の存在による最適決定に至るまでの取引費用の増大。3.:多数決ルールの採用という民主主義そのものに内在する欠陥。決定は中位投票者の選択にあわせてなされ、他の人にとっては過大だったり過小だったりする。特に過小と感じる人にとってはもの足りないものになる。(山田[1993:35-36])
 また、営利企業との比較でNPOの優位を言うのが、C:「契約の失敗」という議論である。市場の失敗(の要因)の一つでもある情報の非対象性が特に指摘され、この場合に、利益を得るために商品の質を消費者に隠れて落とす等、消費者によい商品が提供されない(あるいはその危険を回避できない)から、営利企業による供給が不適格だと言う★05。
 少なくとも以上見た限りの論理については、十分なものとは思えない。
 第一に、政府/営利企業/NPOは、財の供給主体として並列されている。あらゆる活動を財の供給活動と捉えることはできるから、分類としてはそれで問題はないが、私達は、NPOが市場や政府との関係において果たす役割に注目したいと思う。この側面についてU、そしてVの一部で検討する。
 第二に、「失敗」を指摘し、NPOを指定するに至る順序、論理の運びについて。大きく言って2つあると考えるが、その違い、違いの意味が明確に捉えられていないのではないか。その一つは、財の供給者として、政府でもなく(「政府の失敗」)、営利企業でもなく(「契約の失敗」)、NPOが選択されるというものである(下図★06のα)。もう一つは、「市場の失敗」→政府による供給→「政府の失敗」→市場(政府による市場の利用)→「契約の失敗」→NPO(政府によるNPOへの供給)といったもの(下図のβ)。この場合には、政府が資源の供給者となることは認められている。両者の違いを曖昧にすべきでない。そしてこの違いは、政府の果たす役割(同時に「政府の失敗」)をどう捉えるかに関連する。この辺りが十分に検討されていないのではないか。また、これと関連して、「市場の失敗」の要因として「公共財」の存在が主に指摘されるが――たとえ「準」公共財といったかたちで概念を拡張していくにしても――それで足りるのか。これらについてはVで考察する。なお、下図で、G−P、G−Pは、財の供給のあり方を政府が決定すること、また供給のための資源を直接に政府が支出することを意味しない。たとえば政府がいったん利用者に渡し、その使用先を利用者が決める、つまりG−Pの間、G−Pの間に財の利用者が入るという形態がありうる。このことについては第4章付論で述べる。

         P
     β α
        P    P         
                       
        G    P         P:営利企業
                       P:非営利組織
             G         G:政府


T NPOと市場1:供給主体としてのNPO

 財の提供者として営利企業とNPOはひとまず同格でありうる。そこに自分のために、あるいは少なくとも直接には自分の利益のためでなく(利他的としておく)、料金を払うなどのかたちで人(あるいは政府、等)は資源を提供する。前者については、教育・福祉サービスなどに既に営利企業とNPOの両者が参入している。後者でも営利企業の参入は考えられないことではない。利用者当人に代って料金を支払うといった場合がありうる。またたとえば(株)グリーンピースなる環境問題の解決を請け負う会社があるとしよう。環境問題を解決したいという自らの需要(これも自分の利益のためと言えなくはないが)を持つ人は利用料金を払い、(株)グリーンピースはその料金に見合った仕事を行う。
 他方、組織の側をみれば、経済的な利得以外の動機があることがNPO存在の前提になっている。こうした動機が存在しない領域にはNPOは出現しない。他方、利益が期待できない領域には営利企業は存在しない。また、動機が存在すると同時に、利益も期待できるような領域では両者が並存し競合する。
 なお以上は、志のある株式会社等々の存在を否定しない。配当を出すことを想定していない、形だけの株式会社があるというだけではない。何かよいことをしたいという動機とそれで儲けたいという動機が並存していることはありうるし、実際いくらもある。また組織を運営する人が利益以外の動機で事業を行おうとし、また組織運営に関与する全ての人が前者だけを追求するのであれば、得られた利益はそのしたいことの実現に費やされることになり、この時組織はNPOになるのだが、その動機に賛同し経済的利益を放棄する出資者が十分に得られず、資金を株式発行で調達しようとする(この時には利益が出ることが前提になる)といったこともありうる(他に銀行から資金を借りるという手もあるが、ここでも利息は払わねばならない)。
 以上、財を得よう(あるいは供給させよう)とする(そして、そのために資源・対価を与える)側にとって営利企業とNPOがまず同格の存在としてありうることを確認し、次にNPOと営利企業の存在のための条件を述べ、両者が競合しうる場面があることを述べた。次に、この競合する場面において、組織の利用者にとって、NPOの営利企業に対する優位性があるのかどうかを検討すべきである。誰かが払う場合、払う相手として、営利組織ではなくNPOが指定されるのかどうか。その理由は何か。
 第一に、利益が個人、資本家に分配されるとなると、その分配された利益の分だけ、本来の目的でないところに使われる。これは対価を支払う側にとって、また資源を提供する側にとって好ましくない、嫌だという場合がある。けれどもこれに対しては、問題はそういう不快さではなく、かけた費用に対する結果こそが重要だとも言える。
 第二に、こうした理念あるいは感覚とは少し異なり、あくまで上に指摘したように結果を問題にする場合がある。NPOにとってはその財の供給自体が目的で、利益が出てもそれは事業に使われる。資本金にあたる部分は、その活動の理念に同意する人達が資金を提供し、それに対する経済的な見返り(配当)を求めない。これに対して営利企業に支払われた総額の一部は利益にまわり、その分だけ財の供給が減るから、目的にとって有益でないと考えるのである。ただ、これは必ずしも当たらない。価格競争が働く中で利益を追求することによって、営利企業が効率的なよりよいサービスを供給できるということもありえないことではないからである。けれども、もしコストを同じにすることができるのであれば、NPOは、営利企業が確保しようとする利益の分だけ安く、また同じコストでより多く、財を提供できるかもしれない。以上、まず、目的を利益より優先する主体、目的遂行のためにそれによって期待されるかもしれない利益を放棄する主体、すなわちNPOがあり、なおかつ、この条件を活かして、実際にNPOが営利企業以下のコストで財を供給できる場合に、NPOによる提供が選択されることになる。常に後者の条件が満たされるというわけではないが、満たされる場合にNPOの供給主体としての有利さを言いうる。
 第三に、利益を追求しなくてはならない結果、より利益を多くあげられる方に活動自体が変質していくことが考えられる。提供される財についての完全な情報が提供され、財の提供のあり方(企業活動のあり方)が消費者によって完全に把握されているなら、こうした問題は起こらないかもしれない。しかし、実際にその実現が困難であると考えられるならば、利益の追求を要件としないNPOが供給主体として選択されることになる。
 第二・第三点は、要するにNPOに比して営利企業から期待するだけの財が得られない可能性を排除できないということだ。この一部に、「情報の非対称性」から「契約の失敗」を言う論が位置づけられる。つまり、支払ったものがどのように使われるかわからない。営利企業の方がより有効に財を供給できる可能性がないのではないが、この情報の非対称性が解消されない以上、NPOに委ねた方が安全だと考えるのである。これは先の図で、市民が直接支払う対象としてNPOと営利企業との間で選択する場合(α)と、政府を介して支払う場合(β)の双方について言える。特に後者の場合に、政府がより安全な依託先としてNPOを求めるという議論もある。★07

U NPOと市場2:市場に対する活動

 Tでは供給主体としてのNPOの存在意義についてみた。ここでは営利企業とNPOは供給主体としてひとまず同格であり、その上で両者が比較されたのだが、それと別に、NPOの市場に対する活動という側面がある。
 経済学では市場メカニズムでうまくいかない部分として、「完全情報の欠如」「外部不経済」等があげられることを述べた。市場で起こるこのような問題に直接的に介入する活動、その活動の主体としてのNPOがある。なお以下では、NPOがとりあげ介入の対象とする「問題」が、上で指摘されているより広い範囲のものであることも合わせて述べる。
 まず「完全情報の欠如」(情報の非対称性)がある。ある種の商品について、消費者は十分な情報が得られないことがある。また「外部不経済」が存在する。企業はそれを知って行っている場合もあるし、意図しない、予期しない結果として不利益を与えている場合もある。また、不利益自体を認識していない場合もある。
 このような問題がある時、その問題に対応し、市場・企業を監視し、制御する主体として一つあるのは政府である。後にも述べるように、政治の領域は唯一、強制力を付与された領域であり、強制力を背景に監視・制御がなされるべき場合(それは少なからずあるだろう)には、政治的な関与が要請される。
 しかし、まず第一に、そうした政治領域の介入の必要性を訴え、要請し要求する主体としてのNPOの役割がある。法律の制定・改善を要求し、その履行を求める。裁判所に問題を提起し、法的な制裁を要求する。またそのために必要な情報を入手し、案を作る。こうした活動を個人で行うのは難しい。その活動主体としてのNPOの役割がある。
 と同時に、NPOが政府と独立に独自に果たしうる役割もある。意見が一致せず、なかなか政治的決定・規制・制裁に至らない場合もある。また、どこまで規制すべきか、微妙な場合も多い。政治領域の介入の前に、それと同時に、並行させ、組み合わせて、民間の活動が行われてよい。
 消費者は限られた情報しか得ることができない。一人一人の消費者が通常行えることは限られている。情報を入手し、それを消費者に理解可能なかたちにして提供することによって情報の欠如(非対象性)の問題はかなりの程度解決される。十分な情報さえ入手できれば、消費者は問題のある商品に手を出すことはしなくなり、その商品は売れなくなり淘汰される。情報自体の入手については法的な強制力を必要とすることもあるだろう。だが、自発的な情報提供が一般化され(問題のない、あるいは自信のある商品であれば販売戦略上も情報を提供するはずだ)、自発的に情報を提供しないということ自体がマイナスに評価されるようになれば、強制力を介することなくかなりの情報を入手することもできよう。
 実際、日本の消費者運動は、隠されている商品の質を明らかにする、明らかにさせる活動を行ってきた。現在でもその意義が失われたわけではなく、むしろ医療といった領域では、依然として何が提供されているのか消費者にはよく見えず、この問題に対する民間の活動が始まっている★08。これらは「情報の非対象性」という問題に対する対応と言える。
 だが、NPOが行えることはこれに限られるものではない。「外部不経済」の問題についても、ある条件さえ存在するなら、一定の対応が可能である。その条件とは、消費者が外部不経済をもたらすような商品を選好しない消費者であることである。もし消費者がこのような消費者であれるなら、外部不経済についての情報が適切に提供されれば、その情報にもとづいて消費者は消費行動を行うようになる。つまり、外部化されていた部分が、情報の介在、そしてそれの消費者の選好への繰り入れによって内部化され、外部不経済を生じさせる財が市場において淘汰されることになる(ことがありうる)。★09
 そして企業が「社会的責任」を考慮するなら(考慮せざるをえないなら)、こうしたNPOの活動は企業にとって迷惑なものであるとは限らない。市民が組織するNPOが企業にアイディアを提供したり、NPO自らが企業に社会貢献の機会を提供するなどして、市民の側から企業に働きかけている。
 このような働きかけがでてきたのは1970年代ぐらいからだろう。1970年代以降消費者運動、反公害運動の盛り上がりに基づく企業の社会的責任論議が起こった。これらの論議はやがて企業そのもの、高度経済成長そのものへの批判となっていった。こうした批判に対し企業は、環境保全や公害防止対策、省資源・省エネルギー、消費者窓口設置やアフターサービスの徹底、地域社会対策としての工場等の施設公開等々といった広範囲にわたる対策をもって答えていった(電通総研編[1991:48])。つまり、市民の声を反映するようになったのである。そして今では企業は積極的に社会貢献をしたいと思っており、その方法を模索している。このように変わってきた背景には、前に述べた潮流の他に、企業自身が、「無公害」や「環境にやさしい」という言葉の持つ宣伝効果に気付いたことがあげられる。そして、このような企業に援助を依頼したり、社会貢献をするためのアイディアを提供したりすることは、NPOと企業の両方にとって利益あることとなったのである。
 さらに、このような手法を、商品自体の製造・使用がもたらす問題だけでなく、もっと広い範囲に用いることができる。問題化され介入の対象になるのは、商品の供給自体がもたらす不都合(「外部不経済」)だけではない。商品の質として直接に現れない企業行動の問題(あるいは意義)について知り、それを消費行動に反映させていくことによって、企業の行動全体を変えていくことも可能なのである。
 この部分でもNPOが果たせる役割は大きい。(こうした活動の主体として、政府以外に、NPOだけがあるわけではない。企業行動を監視する企業といったものを考えることはできる。だがTに見たように、営利企業は利益を出すことが求められているために本来の目的を遂行しにくいという限界があるなら、こうした活動の主要な主体としてはNPOが指定されることになる。)企業の事業内容、雇用の仕方、等々についての情報を収集し、それを消費者に提供し、消費者がその情報に基づいて消費行動を決定することによって、企業・市場をコントロールする、等。これらについても米国等で種々の事例がある★10。
 私達の国の社会運動は、長らく、市場を前提としそれをコントロールしていくという発想をしなかったから、こういう活動はまだそれほど盛んではない。米国の場合には、市場経済を積極的あるいは消極的に承認した上で、それをどう制御していくか考えるのに対して、少なくとも理念としては別の経済体制を想定してきた日本の社会運動にはこういう発想はあまりなかった。だが、それも徐々に変わってきている。この時、様々な手法を考案し、あるいは学び、その実現を可能にする仕組みを作っていくことが求められる。

V NPOと政府

 1 政府であること・政府でないこと

 非政府組織であることの利点について。政治・政府との関係におけるNPO(むしろNGOというべきだろうが…)のメリットは、政府でないことのメリットである。この点もまだまだ基本的な問題が考えられていない。
 政府による「公共財」の提供が、そして次に「政府の失敗」があげられた。このように、政府の失敗とは、政府とNPOが同じことを行う場合の性能の違いとして捉えられる。ただそれはことの一部分である。非政府組織の活動の意義を捉えるためには、政治という領域、政府という主体がどのような性格をもっているのかを基本的に考える必要がある。政治的決定、及び決定の実行が、政治的決定でありその実行であることによる性格があり、それと同時に、政府が持てない、あるいは持ちにくい性格、性能があるはずで、しかもそれが必要とされる性格であるなら、非政府組織がそれを担うのがよいということである。このことを、ここでは、かなり単純かつ初歩的な政治・政府像を前提にして見ていこう。(その前提を問題にすべきだという議論はありうるが、それは以下に行う議論を終えてから始めても遅くはないと思う。)
 @:政府は、ある地域(国・都道府県・…)について一つしかない、単一の主体である。
 A:政府は、近代社会においては唯一、強制力を行使することが正当化された主体である。@とAは関連している。同一の対象に対して、強制力を持つ複数の主体が並存することはないからである。同じ場に複数の法は存在しないということである。
 B:政治的決定手続きにおいては、代議制が採用され、さらに多数決による決定がなされる。確かに市民が主権者でありながら、個々人の意志がそのつど直接的に反映されるわけではない。@ABは互いに関連する。多数決は決定の単一性を確保する方法である。利害の対立、意見の多様性がある場合に、単一の決定を確保するために強制力が求められる。
 C:近代的法・政治体系のもとでは、少なくとも理念として、人は平等に扱われる。
 D:政府組織に限ったことではなく、特に大規模な、官僚化された組織に見られることだが、同時にBの決定メカニズムにも関連して、社会に必要があり→それを受けた決定がなされ→それに基づく実行が必要なところに届く、ここまでの間隔が大きい。
 E:政治的決定の実行の場面では、その実務の多くを、行政機関が、具体的な担い手としては官僚・公務員が行う。この点で、市民の直接的活動からは分離・独立している。
 以上との比較において、また以上との関係から、NPOの性格、意義が捉えられる。以上述べたことをもう少し詳しくしながら、説明しよう。
 @:「政府ではない」活動主体であること。一つに、NPOは政府であることによる制約から逃れられる。このことは、特に国境を超えて活動するNGOの活動について言える。政府であるがゆえに政府間の関係が問題になり、時には内政干渉ということにもなる。これに対してNPO、NGOは、もちろんその国々の国内法に拘束される以上全く自由ではないにしても、政府に比べれば自由に活動できることがある。
 一つには、政府でないことによる「政府に対する」意義である。これは単純なことで、政府は政府でしかありえず、それに対して要求する、反対する、対案を出すのは政府以外の主体だということである。
 その主体としてのNPOの存在意義がある。要求する主体が要求される側と同一であることはありえない。もちろん、政治的決定を行うのは最終的には有権者であり、一人一人の主権者が、選挙等を通じてその意志を反映させることが基本ではある。また審議会等々の政治的な決定過程の中に「民意」が反映されるようにすべきではあろう。しかし、それが十分に行われたとしても、NPOの意義が消えてなくなるわけではない。個人としてできることはそう多くない。NPOは住民と政府との仲介役・媒介役になることができる。NPOが両者の間に入ることにより、両者の間がもっと円滑になる。また、住民が政府に関する情報が欲しいときも、このような組織が間にあった方が便利な場合もある。
 NPOが「アドボカシー(advocacy=権利の擁護、主張、代弁)」――これには既にある規定の遵守を求める場合と制度自体の変更を求める場合とがある――の機能を果たす組織であるということの意味の一つはここにある。もちろん、政府自体がそうした責務を果たすべきであろう。しかし、ここでも私達は万能を期待することはできない。また、別の機関があることの積極的な意義がある。NPOは、選挙だけでは行政に反映されない少数者の意見や、政府の方針に合わない意見を組織的に提言し、政治に反映させようとする。また、NPOとして常に市民と近い位置にいることによって、政府にいる人々には見つけにくいものを、すぐに発見できる。女性問題に関する団体が女性問題を社会的に認知させたのは、これのよい例だろう。★11
 A:強制力の不在。NPOは人々を強制的にその活動に従わせることはできない。強制的に参加させることもできないし、強制的に寄付金を集めることもできないし、全ての人がその活動方針に従うように強制することもできない。
 B:活動の自由。全員が一致しているのであれば、全員がその規則に服することに問題はさほどないかもしれない。しかし、決定は多数決でなされ、結果として少数派の主張は採用されず、また多数派の決定に従わねばならない。これに対して、NPOの活動は参加者の自由な意志に基づく。
 もちろん、その活動は政治的決定によって制約されるのであり、たとえば刑法によって許容される/許容されない行為は縁取られているのだから、NPOはなんでもできるというわけではない。行うことについて過半の合意は得られないが、許容の範囲ではあることについて、非政府組織が活動を行いうるということになっている。
 ただこれは、根本的にはかなり大きな問題である。自分の意に沿わないことを強制される(たとえば軍備に反対する人の税金も軍事費に使われ、社会福祉に反対する人の税金も社会福祉に使われる)のは嫌だ、自分のお金の使い道は自分で決めたいという要求をどう考えるのか。これを全面的に認めるなら、つまり何事についても強制はよくないという立場に立つなら、政治・政府はその存在自体が悪であり、すべてのことが非政府の活動として行われるのがよいということになる。このことについては、Vで検討する。
 C:多様性、個別に対する対応。たとえば同じように困っている人達がいる時、国家はその範域にいる人達を同じように扱うことになるが、NPOは選ぶことができる。「公益性」を掲げる時には、誰に何をするのかを全く恣意的に選ぶことはできない、少なくとも法的な保護・特典を得ることはできないのだが、それでもNPOの各々はある分野、ある対象についての活動を得意とし、そこで活動する。これがNPOの利点としてあげられる。
 D:改善できる部分も多々あるだろうが、しかし同時にある程度やむをえないこととして、政治的決定においては、決定までに時間がかかる場合がある。純粋に手続きに時間がかかるということでもあり、新しいことで理解を得にくく、承認を得るのに時間がかかる場合もある。やがてそれは理解を得られることになるかもしれないが、それまで何もしなくてよいというわけにはいかないなら、こうした部分を非政府組織が行うことになる。政府自体が先駆性を持ち、開拓性を持てばよいのだとは言えるかもしれない。しかし、実際には難しい。また慎重な手続きを経ることに利点がないわけでもない。こうしたことから、NPOの活動の特徴として、先駆性・開拓性、多様性等があげられる。
 E:(公務員以外の)市民の参加。@とも関係するが、政府が供給主体としてある場合には、単一の主体になる。その結果、競争が起こらない。このことに関連してよく言われることは、(営利セクターも含めて)民営化した方が公務員を雇うより安くあがるということである。これが、もっぱら労働者側が組織されておらず、交渉力が弱いことによって実現されるような場合、ただコストが低廉であるという理由でそれを認めてよいかどうかは問題である。だが仮に労働に関わるコストを一定にしても、供給主体(の少なくとも候補)が複数化され、競合が起こることによる、サービスの質の向上の可能性はある。
 第一に、公務員があたるのでは適切でない場合がある。この国の場合、新卒一括採用、終身雇用制といった特殊事情による部分もあり、この現在の雇用システムのもとでは有能であることを求める方が無理なのかもしれない。別の雇用システムが採用されれば、事情は変わり、ある程度の改善も可能だろう。だが、明らかに不可能なこともある。たとえば、当事者の組織であってこそ意味をもつセルフヘルプグループ★12で、公務員が公務員として活動するといったことはまず考えられない。
 第二に、活動への直接的参加を可能にするということである。直接に参加できることによって関心が高まることが求められている場合、また参加自体が求められているとすれば、これは民間で実現されることである。

 2 政府がすること・NPOがすること

 以上から、何をNPOが担えばよいか、政府は何を行うべきなのかを考える。全てをNPOに全面的に委ねるべきだという主張はあまりない。多くの場合は分業が主張される。ただ、分業と言うが、どのような分業のあり方が可能なのか。
 先に「政府の失敗」としてあげられたことはすべて事実である。中でも基本的な問題は、まず、本章冒頭であげた3.=V−1のBだろう。たとえば次のような場合を考えてみる。
 1)意見aの人が51人、意見bの人が49人いた。多数決によってaが採用され、aの供給量は 100(bは0)になった。a側の人の負担は51、b側の人の負担は49だった。
 2)政治的決定を介さない分散的な決定・供給がなされ、その結果aの供給は51、bの供給は49となった。負担については1)と同じ。★13
 ただ実際には、NPOによって政府機能を完全に代替してしまおうというのではなく、NPOは政府による供給を補う付加的なシステムとして考えられている(たとえば「過小」であることが問題な場合、多い方が望ましいのだから、政府による供給は前提になっているとも考えられる)。そこで
 3)政治的決定によってaが 100供給された。民間からbがなにがしか(たとえば49)供給された。aを主張する側の負担は51、b側は49+49=98だった。
 b側にとっては、2)が最も望ましく、ついで3)ついで1)である。他方、a側にとっては1)(aの供給がマイナスと考えられる場合はついで)3)、ついで2)である。abのもつ意味合い(たとえばaを支持する人にとって、bはaより少なく有益なのか、無害なのか、有害なのか)、計算の仕方は様々あるはずだが、ともかくaを支持する人の利害とbの利害は異なり、どの状態がよいかいちがいに決定できない。
 ただし、強制の度合いから見ると、1)が最もその度合いが強く、ついで3)ついで2)ということになる。ここにある基本的な問題は、政府を介する、すなわち強制という回路を通すか、それとも自発性に委ねるかである。
 NPOでは、活動に参加すること、そして行う事業(内容、相手)が自発的に決定され、それ自体は強制力をもたない。参加するかしないかは個人の自由であり、参加しないからといって罰せられたりはしない。また、基本的に事業を行う対象も任意である。強制力を持つのは、(近代の社会においては)政治領域だけである。政治的決定だけが全ての人に「義務」を負わせることができる(=強制力がある)。
 NPOによる供給を肯定する議論には、2)を支持するものが多く見られる。これを否定しようというのではない。重要な提起だと思う。ただ、少し慎重に検討しておく必要はある。ここには、基本的な人間観に対する認識の対立があり、また行為や関係のあり方に対する基本的な立場の対立があり、それらが交差しあっているから、問題はより複雑になる。
 政府の役割を認めない、あるいは役割を小さくしようとする立場は、強制すること、義務を課すことを認めないという立場である。一つに、A:無政府主義の立場がある。1:その原則をとった場合の帰結を全く問題にしない立場もありうるし、また効果を問題にする場合でも、2:自由に委ねることによる帰結、たとえば「自然淘汰」をよしとする立場もあり、3:人間には利他的な性向が備っているから皆がうまく生きていけるだろういう楽観主義の立場に立つ場合もある。
 ただし多くの論者は完全な無政府主義の立場はとらず、B:私権(私的所有権)だけを認め、政府の基本的な役割をそれを護持することにだけ求める★14。ここでもこの立場は、1:それ以上遡れない(遡る必要のない)最初の原理として主張される場合もあるし、これが生じせしめる効果を考慮する場合でも、上と同様、2:淘汰・競争(が生じさせる結果)をよいものとし、それゆえに是認する立場と、3:人間の連帯について楽観主義をとる場合とがある。そして実際になされている議論では、上のAとBとが、そしてその1〜3が様々の割合で混合されていることが多い。
 これに対して、1について完全な自由あるいは私的所有権を最上の価値とは考えず、2を是認せず、3について楽観的でない場合、これらのいずれかあるいはいくつかを組み合わせた立場をとる場合には、全面的に自発性に委ねることを受け入れない。
 A・Bの1・2を巡ってあるのは基本的な立場の対立である。けれども、フィランソロピー、民間の公益活動の意義を主張する人の場合には、A・Bの1・2だけを強く主張することはなく、3に強調点が置かれる。この場合には、望ましいとする状態はあまり変わらないとも言える。
 ただ、自由を言う者は、それがあくまで自発的に達成されるべき(されるとよい)ことを言う。ここでまず異なるのは「動機」に関わる事実判断である。人が常に「利己的」に行動するなら、自発性に委ねることはできないということになる★15。しかし、そういうものではない。人は「利他的」な心性を持っている。具体的には「寄付」といった行為を行うことがある。この自発性が遍く必要な部分を覆うことができればよい。それが可能だという楽観論に立てば、政府の行うべきことはなくなる(たとえば先の例で、a側の51人には実は拠出できる資源が何もなく、2)の方法をとった場合、もっぱらb側がbだけの供給を志向する場合にはa側は何も受け取れないのだが、実はそうではなく、b側の人もa側の人の利害を顧慮して十分なaがa側の人に供給されるといった場合――aとbを逆にしても可)。
 第一に、この実現可能性に対して悲観的で、人々の恣意=自由に任せることによっては目的が十分には達成できないと考える時、その部分は政治−政府が担うべきだと主張される。不足する、偏在が生ずる★16可能性があると言うのだ。だから政府の責任を言う議論は悲観論であり、現実的なのである。これは、場としての市場、組織としての政府・営利企業の性格・性能の手前の問題、人々の「動機」に関わる事実についての判断である。
 第二に、以上みた、期待される結果が期待できない、不足が予期されるからという主張と少し異なり、人に、特に全ての人に義務があると考える場合に、政治領域の介在が要請される。(たとえば家族・女性によってサービスが現に供給されていたとしても、それを正当と認めず、社会的な義務とすべきだと考えた場合。)
 もちろん政治的供給にしてもそれが十分に行われる保証はない。政治的な決定によって、期待されることの実行も、期待される分配率の達成も予め保障されるわけではない。先の例でbを正義と考える者にとっては1)の決定は不正義の実現でしかない。
 さらに、どれだけ人に自発性があるのかは現在の現実を見て判断すればよいというわけにはいかない。現実には、民間の寄付に比べて政府支出の方が圧倒的に多い。しかし、それは政府が担当している結果であり、政府が撤退すれば民間の拠出は多くなるはずだ、政府、強制に委ねているがゆえに自発性が発揮されないのだという主張が可能だ。
 ただ、以上を受け入れた上でも、第一に、自発性の限界(と政治的決定の相対的な優位の可能性)は指摘されるだろうし、第二に、(特に全ての人に)義務が課されるべきことがあると考えた場合には、義務を設定し、負担を求める領域として政治・政府の役割を認めることになる。たとえばある人が権利を有するとは、彼のまわりの全ての人達が(個々にどのような考えをもっているかと独立に)その権利を認める義務を負うことであるだろう。少なくとも私は、全ての人がその権利の実現のための義務を負うべき権利があると考える。それが(どの程度)実現されるか、その保障は予め何も与えられてはいない。しかし、それでも、そういう権利があると考えるなら、それは(その実現は困難だとしても、政治領域が強制力を独占する部分であるとすれば、否応なく)政治領域に求める他ない。
 ではその権利・義務とはどのようなものか。問われるのはこうした問題である★17。そしてもちろん、このように考えていく道筋は、「公共財」の存在→市場の限界→…という論の立て方と同じでない。NPOの一つの源泉が貧困に対するいわゆる「慈善団体」であることだけを考えても、不平等や権利の問題がNPOを巡る論議の中で十分に扱われないのは、その多くが「経済学的」分析だという事情があるにせよ、不思議なことである。
 第15章以下で民間教育が取り上げられる。教育の現実は先の例の1)のような具合になっている。そこで仕方なく、bという教育を求める側は3)の方向に行く。これはbの側に立つ人にとって二重の負担をすることに他ならない。ならば2)の方がよいのではないか。こういう考え方は確かにありうる。しかし、aとbのいずれもが(そのいずれかを個々が選択した上で)個々が受けることを請求できる権利としての(すべての人がその供給に義務を負うものとしての)「教育」であると主張する道(=資源供給の一元化と内容に関わる自由)もある。いずれが妥当か。考えるべきはこうした問題であり、それを回避して議論するなら、議論すべきことの大きな部分が予め失われてしまうだろうことを繰り返して強調しておこう。そしてもちろんここで、NPOは、何を権利・義務とすべきかを考え、提案し、要求する主体でもあるのだ。
 このように、何を政治領域を介して負担を求める(義務を課す)ことのできるものとするのか、何を負担を請求できる(そしてどれだけの自由度を許容する)権利とするのか、これは大きな問題である。ただ、仮にこの問題に決着がついて、負担(「資源」の徴収と提供)について政治領域に委ねるという決定が行われるなら、あとは実行についての判断だけになる。そして、あるものについて、政府が担当するか民間組織が担当するかという選択しかないのかというとそうではない。ある財の供給について政府とNPOを互いに排他的に捉える必要はない。Tで既に指摘したことだが、費用の徴収・供給の責任主体と実施主体を分けて考えることができる。
 たとえば同じ金額をある目的のために使う時、それを有効に使うためにどの主体が適しているかを決めるのはより容易である。この場合には供給主体としての性能についてだけ論議すればよい。同じ資源を分配するにしても、政府が実施まで担当するのでは、非効率性が生じうる。財の提供主体として政府が適していない場面が多々ある。このことを先に見た。ここにNPOの活躍する場がある。これは供給の実施主体として政府が不適格であるということであって、供給(のための資源の供給)の責任主体としての政府の意義を否定するものではない。だがそれではNPOは政府の下請け機関に過ぎないではないかと考えられるかもしれない。しかし、そうではない。以上で行ってきた主張は、政府の機能を、禁止、そして通常再分配(必要に応じた再分配)と呼ばれる機能に限定すべきだという主張でもある(集金係・配分係としての政府)。さらに、政府から利用者・消費者に資源を供給した上で、利用者がNPOのサービスを選択・利用するといった方法(→第4章付論)の採用を含め、利用者・消費者主権の実現手段の一つとしてNPOを位置づけることができるならば、NPOは政府に従う存在ではない。そして繰り返すが、政府との関係におけるNPOの活動領域はここだけでない。提案・批判・反対勢力としての意義があり、これは政府が権力を独占するからこそ重要である。★18
 本章では以下のようなことを述べてきた。
 人の自発性に期待できない場合には、また義務として請求されるべきものについては、政治的な決定、(必要な財の供給のための)資源の配分を介する他ない。このことを看過した議論は一面的なものになってしまうだろう。次に、様々な財を適切に供給する主体として民間組織の意義があり、さらに場合によるがNPOの営利企業に対する優位がある。
 同時に、市場・政府に「対する」NPOの役割がある。すなわち、非政府組織・非営利組織としてのNPOは、政府・営利企業が担えない部分を担うというだけでなく、政府・市場に介入しこれらを制御する役割を有する。



★01 James ; Rose-Ackerman[1986=1993]、本間・出口[1993]、細田[1993]、山田太門[1993]を参照したに過ぎない。
★02 「公共財とは…国防、司法、警察などのサービス、あるいは道路、橋、港湾、灯台、公園、下水道などの施設が例示するような公共的な財貨・サービスの総称であり、それらはつぎの二つの特性をもつ…第一に、公共財は非排除性(non-exclusiveness) を具えており、このことはそれらの財が誰彼の区別なしに供給される財であることを意味している。…第二に、公共財は非競合性(non-rivalness) をも具えている。これはある成員がいくら公共財を消費しても、それによって他の成員の消費できる量が減ることはないという意味である。」(福岡[1986:229])
★03 「外部効果とは、ある経済主体の活動が他の経済主体の選好や生産関数に、市場を経由しない形で影響を及ぼすことをいい、その場合当該の影響が…好ましくない方向に作用する場合にそれを外部不経済(external diseconomies)という。」(福岡[1986:40])
 騒音や大気汚染などの公害現象がよくあげられる。
★04 「政府の失敗」はWeisbrod[1977→1980][1988:20ff]等によって論じられた。James ; Rose-Ackerman[1986=1993:27-29]、山田[1993:35-39]で紹介されている。
★05 「契約の失敗」を論じたのはHansmann[1980→1986][1986]等。James ; Rose-Ackerman[1986=1993:19-26]、山田[1993:43-47]で紹介されている。
★06 他にも考えられないわけではない。たとえばNPOがその仕事の一部を営利企業に依託する場合がある。様々な商品を購入しつつNPOが事業を行っていることまで考えると、これはごく一般的に行われているのだが、この図ではこれらを省略している。
★07 James & Rose-Ackerman が、政府による支出の支出先としてNPOが政府・営利企業より適切だとする論を以下のように整理している。民間組織の方がサービスの料金をよりうまく請求することができるかもしれないので、それに生産責任が依託されると、総費用に占める政府のシェアが減少することになる。民間組織が、特に労働に関して政府機関よりも低いコストに直面することがある。政府はその立場上、言語や宗教などによって差別化されたサービスができないことがあるかもしれない。それに加え営利企業に委託するのではなく、NPOに対して助成を行うことにより、助成金が金銭的利潤として個人に分配される危険性がなくなる。(James ; Rose-Ackerman[1986=1993:30-31])
★08 医療の場での「消費者主権」を巡る問題について 立岩[1996b]でごく簡単にだが述べた。「医療人権センターCOML」について田中伸尚[1992:136-149]。堀越・根本編[1991]、根本+アルス[1993]等が、医療関連領域で活動する組織を紹介している。もちろん、その多くは民間の内部で完結する運動を行なっているのではない。後論にも関わり、どこが何をどこまで行なう(べきな)のかが問題になる。たとえば薬害エイズ(東京HIV訴訟原告団[1995:286]に関連書籍が14冊あげられている)について考えること。
★09 環境に対する企業の取り組みについて調査し、その結果を消費者へのガイドブックとして提供している団体の刊行物として、ごみ問題市民会議[1991][1993]、グリーンコンシューマー・ネットワーク[1994]。環境倫理を企業に遵守させるために活動する団体として「バルディーズ研究会」(NGO活動推進センター編[1994:227]に紹介)がある。Hollender・グループ環編[1995]は様々な行動の手法、活動団体を紹介している。石井[1995]がこうした問題領域の分析を目指している。
★10 「倫理的」な資本主義の使用法について Lowry[1991=1992]。米国のNPOのボイコット運動について青木[1993a][1993c]、秋山[1993]、柏木[1993b][1993c]、デアンジェリス[1993]。
★11 障害者のアドボカシーについて高嶺[1993]、秋山[1994d]、寺本[1995]。
★12 セルフヘルプグループについて岡[1994a][1995a]、Gartner[1977=1985]、村山・上里編[1979]所収の諸論文、園田[1992]、吉田・穀山[1993]、平野[1995]等々。セルフヘルプグループを援助する機関、セルフヘルプ・クリアリングハウスについて岡[1992][1994b][1995a:341-407][1995b]。
★13 寄付と税金を完全に代替できるようにした場合(寄付した金額の全額分、税金が少なくなる)にはこうなりうる――実際にはそのような税体系をとっている国はないが。
★14 たとえば、自由(私的所有権)を第一の価値とし「最小国家」を唯一正当化可能な国家とする Nozick[1974=1985,1989]。「国家民営化論」などというものもある(笠井[1995」)。立岩[1994b][1996b]で、私的所有について一定の検討を行なっている。
★15 政治的決定も結局は自発性の集計によるのだから、政治的決定を介すれば問題が解決するなどとはもちろん言えない。にもかかわらず、個々の自発性に委ねるより政治的決定による方がよい場合があるとすると、それはなぜだろうか。このことは政治的決定というものを考える時に意外に重要だと思われる。たとえば一つ、公衆の前では正義と論理が語られねばならないという規範があるのかもしれない。その場は利己的でもあり利他的でもある存在としての人間が前者をいくらか自己制約する場である(ありうる)とも言える。
★16 Salamon[1992b]等を含むClotfelter ed.[1992]。また第1章で引用されたReich[1991=1991:380-381]の発言。
★17 たとえば、自然環境の維持を全ての人に課される義務と考える人にとっては、NPOが「環境財の最適な供給主体」(細田[1993:85-86])であると言うことはできない――もちろんそれは、NPOの活動の意義を否定するものではないのだが。またたとえば、政府より民間の活動を重んじるという合衆国という国が、同時に、差別禁止の法律をもつ国であること(私達の国にはそういう法律はないこと)について考えてもよいだろう。「ADA(障害をもつアメリカ人法)」について八代・冨安編[1991]。
★18 本章冒頭の「政府の失敗」の論点について。1.(〜V−1のD):NPOの方が性能がよい場合があることは述べた。2.については、政治的決定・実行の基本的な構造に起因する部分があり、様々な部分的な改善案はあろうが、基本的な原理を承認すれば決定的な代替案はなく、政府による供給が以上述べてきた理由で要請される場面については、政府の役割は消去されない。ここでNPOは、一人一人の要求と政府との間をつなぐ役割、政府を監視し、批判し、提言する役割を果たすことになる。そしてこの場合で(さえ)も、反対するための資源を政府が(つまり全ての人が)負担すべきだと主張することは可能である――ただ、「金は出すが口は出さない」ことの実現可能性にそう楽観的になれないから、政府からの支出を拒絶するNPOがある(たとえば国際的な人権擁護団体「アムネスティ・インターナショナル」は政府からの資金援助を求めないことを組織の方針としている)のだし、また、その実現を確実にするためには制度上の工夫が必要とされるのだが。

UP:1996 REV: 20141109
『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』  ◇NPO
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