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だれが“ケア”を語っているのか

立岩 真也 1995
RSW研究会・講演


 →『生の技法 第3版』

※ 以下は講演の予告として研究会の会報に書かせていただいた文章です。

 ここ10年ほど障害者の運動を追ってきたからか,私としては,高齢者福祉や医療をめぐって言われていること,なされていることに,すなおに,違和感を感じてしまう。また,あまりうきうきした気分にならない。では障害者は何をやってきたか。まずこれを紹介する。「自立生活運動」。「自立生活センター」の試み。(共著『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』,藤原書店,1995年,2900円)
 家族ではない。ボランティアではない。お金はない。政府から供給されるサービスに不満。特に施設はいやだ。暮らす場・暮らし方を決められなくてはならないいわれはない。(それにしても,私達は「ではない」ということの意味,「単に嫌だ」ということの意味をどれほど考えてきたか。)それではどうにもならない?。そうではない。資源を出すことと,資源を使うということを分ければよいのだ。政府に金を出させる。自分で好きなように使う。それで何か悪いか。とは言っても,自分一人ではできない。次に,自分達で供給・媒介の組織を作る。元気を出して暮らしていくためのプログラムも自分達で作る。カウンセリングを自分達でやる。権利擁護活動をする。それが何か悪いか。
 こう考えると,「トータル」「連携」はそんなによいものなのだろうか。「専門職」でなければならないような仕事はどこにどれだけあるのか。「利用者本位」を,誰が,どういう立場の人が,どのような意味で言っているのか。
 ただ,病者や,たとえば寝たきりや痴呆と呼びならわされる老人を考えた時,当事者・利用者に委ねるという道をどこまで行けるのかという疑問は当然出てくる。病は一時的で,部分的な時,何かしようという気にならない。あるいは活動能力がおとろえ,あるいは死んでしまう時,何かするのは難しい。(それに対し長く障害とつきあいながら暮らしていく人達は有利な立場にある。)ここが思案のしどころではある。一つに考えるべき課題は「生命倫理」と呼ばれる領域にも関わる(例えば何も言わない存在にどう対するのか)。同時に,どこまで委ねられるか,「支援する」というあり方を具体的にどう作っていくか。まず,当事者として活動することが困難だとされてきた知的障害者そして精神障害者は行動を始めている。その当事者を支援する人が必要ではある。だがそれはどこにいる人か。
 供給者と利用者の利害が対立するのは当然のことだ。代弁や調停を供給サイドに委ねてどうするのか。実際,給料をもらいながら,どれほどを代弁し,やってきたのか。ここでも当事者・民間の,手弁当の活動の方がまともなことをやっているのではないか。組織,資格を前提する前に,それらでしばる前に,同一の活動に同じお金を出すこと,利用者の評価を直接反映させられ,複数が競合できるシステムを作ること。等々について考えること。

報告のために用意した私的メモ

REV: 20161031
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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