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八〇年代生命主義の行方

森岡正博・上田紀行・戸田清・立岩真也・佐倉統・鈴木貞美(座談会) 19950330
鈴木貞美編『大正生命主義と現代』,河出書房新社,pp.269-278


立岩 僕は上田さんより2つ下で,世代的にはちょっと近いんですが,僕自身は,少なくともここに出てきているニューサイエンスというものに,真面目に取り組もうと思ったことがないんです。それは今でもそうです。いいことも書いてあるんだろうなと思いながら,やっぱり「これはちょっと使わないでおこう」というスタンスでやってきたと思います。
 その違和感はいったい何なのか。例えば,ニューサイエンスの流行の時期とそう違わない頃,社会生物学というのが流行りかけた,流行ったことになっている。両者はある意味では反対の主義主張ということになるかもしれませんが,僕は両者に同じような違和感を感じてしまう。それは,19世紀末から流行った社会進化論に感じるものと同じです。
 第一に,科学というものと思想,人の生き方みたいなものとの関係なんですが,たとえば,東洋思想が現代の科学の最先端の知見と合致する,それがその思想が立派なものであることの証しだとされる。科学と思想とのそういう奇妙な結ばれ方を感じてしまうということです。単純なことで,古びた話ですが,ザインとゾレンの区別というか,世界がこれこれだということと,人がどうやって生きていくかということとは別のことなわけですよ。例えば非常に通俗的な進化論が,この世界は弱肉強食だと言う。仮にそれがほんとでも,人間がそう生きなきゃいけないことにはまったくならないですよね。どうもそのところ,世界が〇〇であるということと,人が△△生きるということの間の関係の取り方というものに,非常に繊細さを欠くというか,大雑把であるという印象を持っています。
 第二に,批判が,そして批判されるべきものに対置される主張が,いったい何を語ってくれるかということ。言ってるときりがないんで,一つだけあげると,二元論に一元論を対置するという言い方がある。主体と客体,その他いろいろの,とにかく区別されているものが,実は一緒なんだよという類の思考があるわけですね。なるほど,というところがなくはないのですが,やはり抵抗がある。それはまずは,僕の個人的な感覚,趣味なのかもしれないのだけれど,滑らかな,統一性のある,正しい一体というような,そういう世界で世界はあるのか,また,そういう世界が望ましい世界なのかという感覚です。
 そして実際,例えば,僕らは生命に等級をつけて生きているわけです。つまり,人間食っちゃったら一応いけない,これは食ってもいいけどこれは食わないことにする,というようにして生きているわけです。そういう区別しながら生きている人間,人間の生き方に対して,何を言ってくれるのか。何も食べないで飢えて死んじゃうというのが一つの必然として出てくるはずですけれど,そうはあまりならない。特に「生命倫理」に関わって,僕らはいくつかの具体的な問題を抱えている。別に抱えたくはないけど,抱え込んじゃったわけですよね。決定をしなきゃいけない。いろんな立場のどれを認めるか,認めざるを得ないかという時に,それらをいったん流しちゃって,代わりにもってくるものには内容がない。その言説たちはどこに行ってしまうのか。一つの雰囲気みたいなものを世界に醸し出す。言いっぱなしにされて,どっかに霧散していく。これは困る。
 他方,これも非常にバイアスのかかった学問だとは思うんだけれども,生命倫理学の議論なんかには一種の論理の残酷さ,論理の過激さがあって,僕は,むしろこちらの方に注目してしまう。その立場を受け入れるか否かは別として,僕らが生きてしまっている社会の中にある論理を,行くとこまで行ってみて,そこから何が見えてくるのか,そこにどういう限界があったりなかったりするのかを考える,そういうスタンスの取り方しか,たぶん今はないんじゃないかという感じがしています。
 そして,こういう学問とはまた別に,社会の中にある論理を詰めていく作業に向かわざるを得なかった思想もやはり70年代から80年代にあったと思う。たとえばエコロジーというものに,共感を寄せつつも,全面的にOKと言わなかった人たちが何種類かいるわけです。その一つはフェミニズムで,一つは障害者運動でした。それは,美しく健康な生命,美しい地球を守ろうという,そして美しくない生命の誕生・現れを阻止しようという発想に対して,異議というか,少なくともある種の抵抗感,齟齬を示してきた。じゃあ何を言ったのか,いったい何が言えるのか,それは未だあまり上手には言語化されてはいない。言うことが難しい。しかし,それらの思想は,現実に当たって,現実と現実でないことの境界面上にいようとするから,少なくとも空疎ではない。僕としてはそういう立場の方に賭けてみたいと考えています。わりあいネガティブなコメントでした。

……

立岩 ポジティブに,いったい生命主義というものが何を言いうるのかという…,いろんな命題としてね。そこんところがわからないわけですよ。そもそも言えないものなのか,それとも何か考えれば言えるものなのか,そこんとこがまだわからない。
 今,戸田さんのおっしゃったことは当然あると思うんです。自分と他を区別しないから,「まあいいじゃないか」みたいな感じで,他を滅ぼしてしまう。他方で,自分と一緒の何を殺せるのかというような問いも現れる。こういうことに対して,生命一元論というのは,いったい何を言えるのか。言えないような気もする。区別をする,区別のための原理を立てるわけですから。誰に聞いたらいいのかわからないけれども,ちょっと応えてもらわないと,僕は困る。
 自然破壊なりに対する危機感がある。実際に危機に瀕していると私も思う。だから,漠然とした形では,生命主義的なものに対する一定の需要は常にあるわけです。そういう中で,一つの,内容の定かでない,何かしらのものとして残る。そこでとどまればそれ以上のものにならない。逆にそれを詰めていって,何か具体的なことを言おうとする。すると,区別がないんじゃすまない。じゃあ区別をしよう。こうして,何かポジティブに言おうとすると,それはいちばん最初の生命主義とはちょっと違ってくるんだろうかという気もする。そんなことを考えます。


REV: 20161031
monism|一元論 / dualism|二元論  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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