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私的所有について

立岩 真也 1994/10/29 現代倫理学研究会 於:専修大学


■T 問い

◆1 問うこと
◆2 問い
 ◇1 「自己決定」に何が抵抗するのか 「自分のもの」の「自由」な譲渡・処分(同    時に他者による取得)に何が抵当するのか(同時に他者による取得
 ◇2 そもそも私的所有原理をどう考えるのか 能力主義(提供に応じた取得)をどう    考えるのか
 ◇3 例えば市場において,なぜ能力(商品)以外のものを評価してはならないと考え    るのか(「契約の自由」は差別を抑止しない)。
 ◇4 誰を受け入れるのか 人間の特権性/生死の境界…
◆3 問いの状況

■U 批判の言説の検討 《省略》

◆1 自己決定の条件 ※cf.論文25
◆2 公平という視点 ※cf.論文31

■V 私的所有の正当化の言説


      x1               a→
                →     A     B
         x2               ←b

        図1               図2       論文38p.83

「世界にある財が,交換の始まる時点において誰のものであるかが決定されていなければ,交換は起こりようがなく(図1→図2),その初期値の設定を定める規範は,市場の中にはない…。」(論文38p.84)

◆1 自己制御→自己所有の論理

 ロック(J.Locke) をはじめとする論者達が持ち出すのは,自己労働→自己所有という図式である。自己に属するものから派生・帰結したものに対しては,その者が権利・義務を負うと言うのである。

 「たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても,しかし人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も,なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働,彼の手の動きは,まさしく彼のものであると言ってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも,彼が自分の労働を混えたのであり,そうして彼自身のものである何物かをそれらに附加えたのであって,このようにしてそれは彼の所有となるのである。」(Locke [1689=1968:32-33] (第27節))

 ここに既に,A→B,ゆえにBのAによる取得という論理は働いている。しかし,身体は出発点に置かれる。ロックは身体を予め彼のものだとしている。無論,この時代の主題は,土地や物の所有をどのように基礎づけるのかである。身体の所有自体が問題化されているのではない。身体そのものは神様が自分に自分のものとして与えてくれるのかもしれない。★03
 しかし神様がいないとどうなるのか。身体の所有を疑ってしまうとどうなるか。身体・生命が他者のものではなく,自分のものであることはどのように根拠づけられるのか。カントの(初期のということになるらしい)言葉ではこうなる。

 「肉体は私のものである。なぜなら,それは私の自我の一部であり,私の選択意思によって動かされるから。自分の選択意思をもたない生命ある世界や生命なき世界の全体は,私がそれを強制して自分の選択意思のままに動かすことができるかぎり,私のものである。太陽は私のものではない。他の人間においても同一のことがあてはまる。したがって,どのような所有権もproprietasつまり独占的な所有権ではない。しかし,私があるものを,もっぱら自分のものにしようと欲するかぎり,私は,他人の意志を,少なくとも自分の意志に対するものとして前提したり,あるいは,その行為を自分の行為に反するものとして前提したりすることはしないであろう。したがって,私は,私のものというしるしをもっている行為を実行するであろう。木を切るとか,これに細工をするとか,等々。その他人は私に言う。それは自分のものである。なぜなら,それは自分の選択意思の行為により,言わば自分自身に属するから。」(Kant[1764/65=1966:309])

 私の意志→ 肉体…労働→物,ゆえに物→私,という仕組みになっている。意志,選択意志(Kurwille)はロックの議論には明示的には含まれていなかった。この点でカントは新しい。★04
 ヘーゲル(Hegel)が採っているのも基本的に同じ図式である。

 「人間は直接的な現実存在(実存)に関して,自然的なものを身につけている存在である。この自然的なものは人間の概念にとっては外的である。自分自身の身体と精神を練成してはじめて,すなわち本質的には自己意識が自分を自由な者として捉えることによって,人間は自己を占有する。そして人間は自己自身の所有,他者に対する所有になる。」
(Hegel『法哲学』57節,訳は加藤[1993:71])
 次のようにも解説される。

 「私が私の身体を占有して,私が心身分離を克服する。身体が私に固有の身体となる。その身体を用いて私は土地を囲い込む。土地が私の財産となる。その土地を利用して,羊を飼う。羊毛が私の生産物となる。根源的な占有は自分の身体の占有である。根源的な労働は,自分の身体の精神化である」(加藤[1993:70-71])

 そして(少なくともいつごろかまでの)マルクス(K.Marx)にしても,採られているのは同じ図式だ。
 私達が後にみることになる「機能主義」による正当化の他に与えられているのはこのような図式だけである★05。あるいは正当化自体がなされていない。例えば「リバータリアン」の代表的な論者とされるノージック(R.Norzick)が次のようなことを言う。

 「暴力・盗み・詐欺からの保護,契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて,特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し,不当であるとみなされる。」(Nozick[1974=1985:i])

 「特定のことを行うよう強制されないという人々の権利」をそのまま認めるなら,彼の書に書かれていることはおもしろい。しかし,「権利」そのものについて何かが言われているわけではない。(ただ彼はこのことに自覚的ではある。Nozick[1974=1985:ix]等)
 また,「英米系」の代表的な「生命倫理学者」の一人とされるエンゲルハート(Engel-hardlt)がとるのもロックの図式である。彼はハートは先に引用したロックの言葉をそのまま引いて,次のように続ける。

 「人の身体は,そのひとの人格として尊敬されねばならない。というのも,相互尊敬の道徳性は,人が自分自身を所有すること,ならびに,ひとの身体や才能を当人の許可なしに他人が利用しようとすることに対する反対する権利を保証するものだからである。さらに,時空内に存在する人格はある空間を占めることになるから,その空間ないし場所を侵害する行為は,その人格そのものを侵害する行為となる。このような同意なき干渉は,相互尊敬とか平和的共同体という概念そのものを侵害する行為となるだろう。」
(Engelhardlt[1986=1989:165])

 ロックと同じく,身体が私に属することは前提される。この後にはヘーゲルを引合いに出して次のように言う。

 「ヘーゲルが言うように,物の所有権の場合には,自分の身体にたいして他者の自制を求める権利は,自分の作った対象にまで拡張される。対象を所有するということは,対象を作り,それにかたちを与え,それを自分の意志に従って,自分の観念の似姿に作り変える一連の過程である。それは,物を自分自身の領域内に同化する方法である。こうして、ひとは自分の身体化の範囲を拡大し,他者の自制を求める権利の境界線を拡張する。他人の手の加えられていない物は,これを自由に自分の目的にあわせて作り変えることができる。ひとが自分の観念を刻印した物は,そのひとがそれを作り出したかぎりで,かつ,それを利用せずに捨てるのでないかぎりで,当人のものとなるだろう。」
(Engelhardlt[1986=1989:167)

 こうして多くの論者が生産・制御→所有という主張をしている。だが少しでも考えるなら,これは随分おかしな論理である。
 (1) 誰もが,一見してこれを随分乱暴な議論だと思うはずである。基本的にこの論理は,結果に対する貢献によってその結果の取得を正当化する論理である。しかし,この世にあるものの一体どれだけを私達が作っただろうか。例えば,私は川から水を汲んできた。私は牛から乳を絞った。確かに私にとってその水や牛乳が利用可能になるためにはそうした行為が必要だった。しかし,その水や牛乳があることに私は一体どれほどの貢献をしたか。無論,このことはその「製品」がもっと「手のかかった」ものであっても言いうることである。つまりここでは,「作り出す」「貢献する」と言う時に,そもそも人間による営為しか考えられてはいない。こうした言明は人間の特権性を前提にして初めて成立する。この論理が成立するためには,単に労働→取得というのではすまず,世界中のものが人間のものとして与えられていなければならない。あるいはこの労働とは人間の労働でなければならないのである。これは神が世界を人間のものとして与えたのだというキリスト教的な世界観のもとでは自然なことかもしれない。ロックは「地とすべての下級の被造物が万人の共有のもの」だと,このことをはっきりと述べている。
 しかし,このことを自明のこととして受け入れなければ,別である。このような宗教を信じず,なお人間の特権性を言おうとすれば,何か根拠を提出せねばならない。……
 (2) 仮に世界が人間のためのものであるとしよう。それでも問題は残る。世界中を個々人の作為・制御によって埋めつくすのは無理がある。とすると,そのものに最初に触れた人がそのものを取得し処分する権利があるというわけである。早い者勝ちというわけで,ともかくその地に乗り入れた人がその土地を取得する権利があることになる。何にせよ先に手をつけた人,唾をつけた人が勝ちになる(cf.Norzick[1974=1989:292ff])
 (3) この論理は「私」が因果の起点であることを要請する。私が「始まり」でなく,私の行為を起動した別のものがあるなら,そのものに結果の取得の権利と義務があることになってしまう。
 ゆえに,この条件を厳しくとれば,「自由意志」といった決して経験的には存在を検証されないようなものを存在させねばならならない。自由意志は存在するかといった終わることのない論争が引き起されることになる。例えば刑法学に起こったのはこうした論争である。
 (4) 行為については上述のようなことが議論の対象となる。だが,上の論争に関わらず少なくとも一つ確かなことは,身体そのものは私自身が作り出したものではないということである。手足なら制御することもできようが,しかし,私の身体の内部器官は私が作り出したものでも制御できるものでもない。だから,この主張によって身体の所有を正当化することはできない。すなわちこれは,制御されないもの(身体,そして能力の少なくともある部分,…)については,かえってその私的所有(処分)を,さらにそれが自身のもとに置かれること自体さえも,否定してしまうことになる。
 以上では因果関係における因果関係の度合い,「貢献」の度合いが問題にされる。貢献(度)についての疑問が当然生ずるということである。……。このことよりここで指摘おきたいのは次の点である。
 (5) より基本的な問題として,これは,それ自体一つの主張・信念としてしか存在することができない。「自分が制御するものは自分のものである」という原理は,それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。図3を見てもらいたい。
 1.ゆえに2.…という図式である。1.を一つの事実としよう。2.も一つの可能性としてありうる。自分の精神が自分のものである。これはまあよいとしよう。その精神が肉体を制御し,肉体が外界を制御する。これも事実といえば事実である。だが,その制御されるものがどうしてその人のものになるのか。
 この「ゆえに」が根拠づけられない。なぜ1.「ゆえに」2.なのかと問われる時に,返す言葉がないのである。これは事実ではなく,そうなるべきである,そうなるのが正しい,という一つの規範命題,一つの主張である。ここにその理由が示されているわけではない。つまり,「自分が制御するものは自分のものである」という主張は,それ以上遡れない信念としてある。そこで行き止まりになっている。言われていることは,結局のところ,「自分が作ったものを自分のものにしたい」ということなのである。
 無論,あらゆる原理(何が正しく何が正しくないかを決める基準)には,どこかで行き止まりになる,それ以上遡れない地点がある。どんな原理・原則だって,最終的にはそれ以上根拠づけられないような場所に出てしまう。だから論理が行き止まりになっていること自体をやり玉にあげても仕方がない。ただ,私達はその原理を,正しいもの,受け入れるべきものとして承認するのである。問題はこれが基本的な論理なのだろうかということである。例えば米国の代表的な「生命倫理学」の論者だというフレッチャー(J.Fletcher)という人が次のようなことを言う。基本的な発想は,先の二人と変わらない。

「人間は製作者であり,企画者であり,選択者であるから,より合理的,より意図的な行為を行うほど,より人間的である。その意味で,人間がコントロールできる体外授精の方が,通常の性行為にくらべてより人間的である。」(J・マシア『バイオエシックスの話』(改訂増補版,1985年,南窓社)p.108に引用された1971年の論文 ・Genetic Control"の一節。他にFletcher[1988]等を参照のこと。)

 「…であるから」までを認めるとしよう。そして「より人間的である」ことも「人間」にある性質を述べているという意味で認めよう。しかし,それはそのことが「良いこと」である(という意味で「人間的」である)ことを意味しない。確かに私達はそのような「人間」であるが,そのような「人間」で(も)ある私達は,そうしたことを(最も)良いことだとは思わないかもしれない。上の言明はこのことについての論証を欠いている。それは,「そうしたことが良いことだと私は思う」という自らの価値の表明なのである。先に引用した人達はどうもそのように思っているらしい。しかし,みんながそうなのだろうか。
 だがともかく,こういう図式が示される。そしてこれは単に哲学者の著作の中にあるだけではない。これは,現実に近代の社会の中で作動するメカニズムなのであり,人の意識を捉える教えである。自身に内属するものを基点とし,それに起因する結果が自らのものとして取得され,その取得したものが自ら(の価値)を示す。「私」という主体に因果の開始点,判断・決定の基点を認める。私が第一のものであり,それ以外のものは,その外側にあって私に制御されるものである。

 A               A          
                       1.a/bの比較  
       2.a               
                         3.b
        
        1.a               2.a
           

    図3              図4 ※右側に同型のB  (論文38p.84)

◆2 効果=利益による正当化

 ◇1 利益?(1)

 cf.パレート最適
 ……これは,所有の初期値を問わずにそれを前提する限りでだけ妥当な言明である。どのように配分されていても,それを前提としてそれ以降になされる,自己決定・同意に基づいた処分は,当事者に利益をもたらすとは言い得る。だがそれは,その「自己決定」の対象となる財の個々の主体への配分のあり方自体を正当化するものでは決してない。各自の身体の各自への配分にしてもそうである。これは全く自明のことだ。だが,これが,呑気な自由主義者によってしばしば見逃されている。
 初期値と言った。しかしこれはただ一度だけ問題になるようなものではない。人は毎日行為し,生産している。ここで初期値とは,その,その都度その都度の各自の持ち分のことなのである。それはその都度その都度の各自の取り分の差をもたらす。

 「たとえば,われわれがケーキを分けるときのことを考えてみよう。どの人間にとってもケーキは多ければ多いほど望ましい,と仮定すれば,その仮定だけで,すべての分配の仕方はパレート最適である。ある人間をより満足させるようにケーキの分け方を変えれば,他の誰かの満足が必ず減じられるからである。このケーキの分割の問題における唯一の主要な問題点はその分配なのであるから,ここではパレート最適の考え方はなんの効力ももち得ない。こうして,ただひたすらにパレート最適のみに関心を寄せてきた結果として,せっかくの魅力的な一学問領域であるところの厚生経済学が,不平等の問題の研究にはすっかり不向きなものとなってしまったのである。」(Sen[1973=1977:16])
 ◇2 利益?(2)

 もっとまともな論もある。行為を人が制御できること,人が自らの利得を求めることを前提した上で,私的所有,交換の有効性を言うのである(図4)。
 その人達が述べているのは,単純に言えばこういうことである。BがAの行為(の帰結)を欲しい。Aの手足をBがとって動かすのでなければ(こんな無駄なことをする者はいない),Aの欲望/恐怖を利用して得るしかない。飴を使うこともできるが,鞭を使うことも,強要してその行為を引き出すこともできる。強要が排されるのは,次の三つの場合である。第一に,強制はすべきでないとする場合。だが,これは,既に他者の介入を排除する所有権を付与していることに等しい。第二に,どちらが人の行為を効率的に引き出すことができるのかを考慮し,強制によってはかえって行為を効率よく引き出すことができない(士気の低下,品質の劣化,競争力の低下,あるいは管理にコストがかかり過ぎること,…)と判断する場合には有利/不利の判断があるだけである。第三に,強要されることはその人にとって不利益であり,この不利益を幸福(利益と不利益)の計算に含める場合。ある人が他の人に強要してその場で利益をあげても,その人もまた強要されることがあるとすれば,やはり不利益になる。後二者が機能主義的な理由である。この時に,その人のもとにあるものをまずはその人に委ね,つまりは所有権を認め,見返りを与えることによってその行為を引き出すことが行われる。
 ここで次のようなことが前提されている。人は,自身が得られるものを予期しながら,自己にとって有利になるような行為を行おうとする。これは容易に否定できない。自身の能力の活用は自身によってなされている,人は自らの行為を制御することができる,というのが,ひとまず当事者における事実である。これはその身体・力能がどこからきたのか,それが本来その者のものかどうかということとは別のことである。その人Aは,自身が得られるものbを予期し,自分が行えることaのコストを予想しながら,自己にとって有利になるような行為を行おうとする。Bにおいてもこの計算は同じように行われている。
 行為・行為の結果を他者が得ようとし,かつ強要という手段をとることについて先のよにように考えるとすれば,このようなA(やBやその他すべての人)の欲求のあり方を前提してシステムを組むことになる。例えば,貢献に応じた配分という原理を取らないなら,予期→行為という連関がうまく作動せず,必要な行為が必要なだけ調達されないだろうというのである。(これは,苦労した者には相応のものが与えられるべきだという感覚にも合致する。だが私は,この契機は別に検討するべきだと考える。その理由は後で述べる。)
 Bはaを得るかわりにbを提供する。ここで制度を前提せずに市場が始まる。その状態が維持されるべきだと考えられた時にそれは制度化される。Bの評価,A・Bの交渉を経,bはaに相関して決定される。つまりaがAの受け取りを規定する。このようにして能力主義が現われる。機能主義者の言明を還元していけばこういう部分が残る★12。
 この類いの議論は社会学や経済学ではよくなされる。例えば,階層の存在の「必然性」を「論証」したK. Davis & W. E. Moore[1945]をはじめとする社会学における機能主義的な業績主義・社会階層の存在の正当化の言説の中にこの主張をみることができる。教育・労働の場における能力主義批判に反論する論者の主張も,その論理を切り詰めていけば,つまるところはここに帰着する。身体と精神,その力能の行使の自己所有が他者にとって有利であり,ひいては社会全体,まわりまわって自己の利得を増やすだろうと主張する。例えば,貢献に応じた配分を行うなら,予期→行為という連関がうまく作動して,必要な行為が必要なだけ調達される,必要な者が必要な場所に配置される,だからそのようにシステムを組んだ方が結局有利だと言う。「能力主義」の原理を排し,例えば無理に「配分の平等」を追求したら,労働者の労働意欲が損なわれ生産性が下がってしまい,経済が円滑に機能しないだろうという主張,またどこかにこうした欲求に支配される場(闇市場)が生ずることは避けられないはずだといった主張も同様の考え方をしている。
 ……
 どのように考えたらよいか。ここに想定されている図式はどういう構造になっているか。もう少し詳しく見よう(ただし,以下では議論を簡単にするため,Aが資源を使うためのコスト,資源を管理するためのコストについては考えないでおく)。
 @AにAの資源a(能力・身体…)がある。それはBに移動することができない。
 Aそのある部分について,Aはそれを使うか使わないかを決めることができる。そしてBは直接的にそれを決めることができない。A(だけ)がタンクから水(資源)を出す栓を開けたり閉めたりできるようなものである。
 BさらにaのあるものについてAはそれを増やしたり増やさなかったすることができる。そしてBは直接的にそれを行うことができない。A(だけ)が貯蔵する水(資源)を増やしたり増やさなかったりできるということである。
 aを必要とするBは,Aの決定(@)に・・対価を支払うというかたちで・・働きかけることによって,A:aを使う(供出する)ことを促す,B:aを増やすことを促す。

        B↓

               ←         B↓     ←
       resource             
        @               resource
                         @

          cock               cock
            A                A
            →                →


 以上はその身体・力能がどこからきたのか,本来その者のものかどうかという問いを回避して,私的所有の有利さを言う。V−1にみた,A→aである「ゆえに」aはAのものだと言い方はせず,ゆえになぜ「ゆえに」と言えるのかという問いに答える必要はない。利益になることがよいことであり,これを前提として認める時,A→aであるaをAに委ねることの方が現実に有利である(場合がある)ゆえに,aをAに委ねる方がよい(場合がある)ということである。そしてこの指摘それ自体は,上に述べた人間のあり方に関する前提を認めた場合には,つまりは諸個人が自身の損失をできる限り少なく,利益を多く受け取ろうという性向を有している場合に,当たっている。
 このことは同時に,私的所有の体制がそうでないシステムに比して有利である(場合がある)ということであって,・・有利であることは「正しい」ことと同じではないとすれば・・それが「正しい」ことであるかどうかの判断ではないということでもある・・何が「正しい」ことなのかという問いは残るのではあるが。市場に対する賞賛も実はその有利さに対する賞賛なのであって,その正義の証明ではなかったのである。
 次に「有利さ」がどこまで言えるのか。そしてその「有利」さとはどういう有利さなのか。
 まず条件@・A・Bが満たされている場合。第一に,そのものが@:本人のもとにだけあるものであること。第二に,A:当人(だけ)が「出し惜しみ」できる部分,自身がそれを行う/行わないが選択できること。働くか働かないか,どれほど働くかをその当人は加減することができる。何も与えねば/さぼれば,さぼることが/与えないことが出来る人はさぼる/与えないかもしれない。その場合に,その者に,さぼらない程の/与えてくれるほどの対価/労働を与える,その方が生産的だと言うのである。さらに,B:当人が,(その者に与えられるものの予測に基づいて)自らの資源を管理し,増やす(減らす)ことができること。土地の利用や工場の利用についてもこのことは言える。以上のような場合に,私的所有を認めることは,生産の増大にとって有利に働く。またBの条件が妥当している限り,各自は自分の資源を自分の決定によって操作することができるのだから(ゆえに,受け取り分もまた加減することができるのだから,資源の管理・操作のためにかかる経費が人々の間で一定とすれば),受け取りの多少に関する問題もまた起こらない。
 (1) @が成立しない場合,すなわちaをAからBに移動することができる場合。この時には,aをAのもとに置くことが有利であるとは言えない。ただ,移動させるのが不利だと考えられる場合がなくはない。aの移動の予期によって,Aがaに対する配慮をせず,aを増やそうとしないといった場合である。所有を認めることによってAは自己の健康を管理し,身体aを丈夫に保つだろう(→B)ということ,そのことによって,また社会も健康に維持されるだろうという言い方だ。教育期間が過ぎた後で頭脳を籤引きで入れ替えることになったら,みんな勉強しないだろうというのも同じだ。農地を私有させた方が,農地がよく管理され,より多くの質のよい農作物が生産されるだろうといった主張と同類である。このことは後で詳しく見る。
 (2) Aが不可能である(栓を開閉することができない),あるいは意味をなさない場合。
例えば病を他者が受け入れようとしない限りにおいて(譲渡する財となりえない限りにおいて),Aは問題にならない。その人に置かれる他ない。これは病を他の人に移動することができないということを言っているのではない。それが可能でも引き取り手がいないということである(このようなものは@の条件も満たしてないことが多いだろう。しかしそういう場合だけとは限らない。このことも後で確認する)。その状態が他の状態よりも利益が大きいと言えるか。ここでもBが指摘されることがあろう。だが,別段体に悪いことをしてきたわけでもないし今後もするつもりはないのに,病を得てしまう人はいる。健康への努力と関係なく維持される/維持されない身体の器官・性質もある。さらに,(同年代の者から移植は行われるとして)生まれたばかりの赤ん坊の臓器や,飲酒癖のない年代の子どもの肝臓についてはこの理屈は働かない。
 (3) 資源の有無そして量・質が既に決定されている,所与として与えられている場合には,つまりBの条件が成立しない場合はどうか。A:決定が当人に与えられている限り,そしてその譲渡に対する対価としてBがAに与えるものがaに対してのものである限り,Aに与えられるものは,Aにあるaに比例することになるだろう。ここでは,たまたま体が,あるいは頭がうまく働かないように生まれてきた者が,ただそのことのゆえに,他者に与えるものを持たず,ゆえに,生きられないことになる。
 Aは作り出せるもの,Bに与えるものが何もない。だからAは生きていけない。そう極端な場合でなくとも,個々の人の能力には違いがある。何も,でなくてもよい。作れるもの,与えられるものが少ない人がいる。別段さぼっているわけではない。出し惜しみしようにもしようがない。
 これは各自における各自が自由に出来ない資源の差異に起因する問題である。例えばこの資源の分布が正規分布を描くのであれば,手持ちの資源が平均以下の者にとっては,このシステムのもとで受け取れるものは,人数割で分配された分よりも少なくなる。半分の者が不利益を被ることになる。それでもこのシステムの方が有利であると言える理由は何か。例えば各自が供出するものと関係なく均等に配分されるなら意欲が失われ全体の生産が少なくなり,それを均等に分配したとしても,市場での配分を行う場合に比べて不利な人が多くなる(先は有利な人と不利な人がちょうど半々だったが,今度は不利な人が半分を超える)といったことが指摘されよう。
 それにしても不利な人は残る。そのような人にとって,このシステム(が少なくとも社会の全体を覆うこと)は有利ではない。どのような計算の仕方によって,このシステムの有利さを言うのか。利益・不利益を何らかの方法で計測し,適当な配分の方法を見出そうと試みられるかもしれない。また,Bの条件が満たされない,すなわち対価を加減することが資源の増減につながらない(したがって全体の生産の増加にもつながらず,対価を加減することに意味がない)場合には,対価の支払い方を調整するといった方法も合理的ではあろう。だがそもそもどういう原理をここに立てるのか。
 なぜ不利益を引き受けねばならないのか。このことによって各自が得られるものの差異をどのように正当化できるか。ここに見ただけの論理は,そもそもこの部分に言及することがない。それに何を対置させるのか。私的所有,自由主義に対して,実践的に対置されるのは,まず平等や公平という思想である。私自身は,平等の問題は現在でも依然として重要であり,現状に対する批判として有効であると考えている。しかし平等や公平といってどのような平等・公平か。また,@・Aが一般に成り立ち,なおかつ人が述べてきたような人である場合には,Bに関わる状態がどのようであるかに関わらず,対価の差異は「自然に」生じてしまうことをどう考えるか。こうした問題が残される。
 ただ,(3) に関わる問題はこれまでにも多く指摘されてきた。私的所有をめぐる基本的な論点の一つはこうしたものであった(繰り返せば,だからこの問いが終わったというのではない)。これに比して,(1)・(2)が考えられることはそうなかった。これを考えることによって,(少なくとももう一つの)基本的な問題が明らかになるはずである。そしてそれは(3) について考える時にも,無関係なことではない。
 (1)・(2)はAとBの間の移動に関わる問題であり,(1) はaの移動が可能な場合,aをAのものとすることの有利さを言えないということ,(2) はaの移動が技術的に可能であっても(他者との関係において)不可能である場合に,やはりAのもとにaをおくことの有利さを言えないということである。
 このことは,移動によって有利になる者が不利になる者よりも多い状況を考える場合によりはっきりとする。ハリス(J.Harris)が論じているのはそういう場面である。

 「すべての人に一種の抽選番号(ロッタリー・ナンバー)を与えておく。医師が臓器移植をすれば助かる2,3人の瀕死の人をかかえているのに,適当な臓器が「自然」死によっては入手できない場合には,医師はいつもセントラル・コンピューターに適当な臓器移植提供者の供給を依頼することができる。するとコンピューターはアト・ランダムに一人の適当な提供者のナンバーをはじき出し,選ばれた者は他の2人ないし,それ以上の者の生命を救うべく殺される。」(Harris[1980=1988:170])

 例えば一人の健康人Aの心臓と肝臓を取り出し,それを心臓移植と肝臓移植によって救われる二人の患者Y・Zに移植するならば,二人の生と一人の死が帰結する。これを行わないなら,一人の生と二人の死である。最大多数の最大幸福という観点からは,前者が選ばれることになる。


                   →
   □      ■             (■)     □
    〇            ●       (●)           〇

   〇      ×      ×      ×      〇      〇 

 このように述べた後,ハリスは,予想される反論,また実際に寄せられた反論に答えていく。
 「Xの個性が尊重されるべきである」という主張には,しかしY・Zの個性も尊重されるべきだろうと言う。これが神を演じることになるという指摘には,「われわれに物事を変える能力がある時には,物事を変えないという選択をすることもまた,世界に何がこれから生じるかを決定すること」(Harris[1980=1988:172])であり,Y・Zを死ぬに任せることもまた神を演じていることに変わりはないとする。
 また,Xを殺すことは確実に殺す行為だが,Yを死ぬに任せるのは多分Yが死ぬことになるように振る舞うことだから前者は許容されないという,死がもたらされる確実性を論拠にする議論には,それは事実問題であり,Yにしても放置すれば必ず死ぬ場合があるだろうと応ずる。
 ただハリスは以上の立場をどこまでも通していくわけではない。籤引きによって臓器を配分するのでは,人々は健康への努力を怠ることになり,結果として健康な臓器の数が減ってしまうという理由によって,籤に参加する範囲を縮小すべきであるとするのである。
 こうしてハリスは,臓器移植という技術について考えることによって,機能主義者によって・・だけではない・・自明とされ,考慮されることのなかった(3)・(4)で私があげた論点を辿った。従来,身体(内の器官)の移動は想定されることがなかったのだが,免疫抑制剤の登場が@の条件を解除してしまった。だからといって(通常であれば)移動,交換は行われない(→A)。しかしハリスは,このようにして,各自の臓器が各自に置かれたままであることが利益となるかと問い,否定的な結論を導くのである。ただ最後に,Bの条件が考慮され,各自が資源に対する配慮を行おうとする動機を欠けさせるがゆえに,「サバイバル・ロッタリー」が行われる範囲が制限されるというのである。ただ(4) で述べたように,Bの条件が常にさほど強く働くとは考えられない。
 以上は,私に与えられている資源(身体…)が私のもとに置かれることが功利主義によっては正当化できない,むしろその反対が帰結しうることを意味する。しかもここでは,私達が功利主義に対して通常感ずる大きな問題点,すなわち個々の幸福の比較,個々人の幸福に対する貢献度の比較は行われていない。例えば社会の幸福の増進に有益な人間のために無益な人間を犠牲にしてよいのかという批判は当てはまらないのである。
 そして,ここで譲渡・移動が行われない(したがってより「有利」な状態が実現されない)のは,譲渡・移動が実際に可能でないという「事実」に(だけ)依拠していることを再確認しておきたい。しかも,この「事実」は技術によって既に部分的には覆されてしまっている。
 このことは,もし私達がサバイバル・ロッタリーを認めないとすれば,そして私の身体は私のものであることを前提として立てるのでなければ,その理由を以上見たものと別に用意せねばならないことを示している。それは(3) について先にあげた平等の原理ではない。「平等」を単なる均等配分とすれば,そもそもここでは分割が不可能だ。三人が三分の二ずつ生きていることはできない。ここではそもそも誰もが同じだけという帰結が不可能な状況が想定されている。それにしても二生一死より一生二死の方が平等で公平だと言えるか。これも言えないだろう。この問いがX以降で考察されることになる。★13
 しかし同時に,繰り返せば,以上述べたその全く同じことから,私的所有,市場,能力主義の強固な現実性もまた生じているのである。私達の欲望の関数を事実として認め,他者の行為(の結果)の取得の欲望を認めるなら,(@・Aの条件が成立している限りにおいて)市場の成立,能力主義の成立を阻止すること,阻止し続けることは困難である。このことは,この体制の成立の前提がどのようなものであるのか(どのようなものでしかないか)についての認識とともに,無視すべきでないと私は考える。変更を志向する一方の側は人間のあり方について過度に楽観的であったか,あるいは何も考えていなかったかである。そしてもう一方の側は,見ようによっては人間の敗北である単なる事実を正義と言いなしてきたのである。このことについてはY−2で検討する。
 (※私的所有を弁護するという議論が他にないというのではない。しかし,いずれにも反論可能だと考えている。)

★13 「単純な平等を根本原理として主張する者は,<視力をまったく欠いた他者と比べて,私には十分な視力があるとき,私は自分の眼に関する特権を剥奪されるべきなのか>という問いの前に窮してしまうであろう。」(大川[1993:245])

■W 個体を巡る政治 《省略》 cf.論文01〜05 but 冗長になるので削除する?
■X 他者の思想
 …… (V−2…T−2−1の問いから考える)

 ◆3 他者という存在

 先に見た私的所有を正当化しようとする言説は,あるものがある人が作り出し制御するものであることによって,そのものがその人のものであると言おうとする。しかし,例えば身体は,その者によって作られるものではなく,制御されつくせるものでもない。そして実はそのようなものこそが,その者から移動させることに最も抵抗のあるものなのである。
 だから私の答は単純なものである。自己による制御から出発する発想を裏返し,逆に考えたらどうだろうかというのである。
 私が制御できないもの,正確には制御しないものを,「他者」と言うとしよう。私に制御できないから他者であるのではない。制御できてもなお,制御しないものとしての他者がある。その他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの,私が制御しないものとして在る。私達はこのような意味での他者性を他人から奪ってはならないと考えているのではないか。
 Aの存在は,Aが作り出したものではなく,少なくとも作り出したものだけではなく,Aが身体aのもとにあるということ,等々である。その人が作り出し制御するものではなく,その人のもとに在るもの,その人が在ることを,奪うことはしない,奪ってはならないと考えているのではないか。他者が他者として,つまり自分ではない者として生きている時に,その生命,その者のもとにあるものは尊重されねばならない。それは,その者が生命を「持つ」から,生命を意識し制御するからではない。

 もっと積極的に言えば,人は,決定しないこと,制御しないことを肯定したいのではないか。人は,他者が存在することを認めたいのだと,他者を出来る限り決定しない方が私にとってよいのだという感覚を持っているのだと考えたらどうか。自己が制御しないことに積極的な価値を認める,あるいは私達の価値によって測ることをしないことに積極的な価値を認める,そのような部分が私達の中にあるのではないか。自己は結局のところ自己の中でしか生きていけない。しかし,その自己がその自己であることを断念する。単に私の及ぶ範囲を断念するというのではない。それは別言すれば,他者を「他者」として存在させるということである。自己によって制御不可能であるゆえに,私達は世界,他者を享受するのではないか。あるいは,制御可能であるとしても,制御しないことにおいて,他者は享受される存在として存在するのではないか。私によって私の周囲が満たされるということは大したことではない,私(達)のものなど何程のものかというだけでなく,私(達)が規定しない部分に存在するものがあるということが,私達が生を享受するということの,少なくとも一部をなしているのではないか。これらが自己決定や制御についての疑念の核心にあると私は考える。

 ◆4 他者の位置 《省略》 ※
■Y 回答 (T−2に対する)

 ◆1〜◆3 cf.論文38図5(p.91)・図6(p.99)(解説を合成)

             分配
          A            B
         
       
                交換           β
          a1            b1         
         
          a2            b2         
                            α


  ※A…a2;B…a2:A・Bの制御の対象にならないものa2の存在が
   a2−A;a2・B:Aが<他者>として在り享受されることの中核をなす

  ※A→a1    :Aの手段として制御されるものa1は
   a1…A    :Aに排他的に帰属しない(・図3)

   α→β,α>β :βの領域はαの領域に優先され,規定される

  ※A→a1    :Aの手段として制御されるものa1は
   a1→ ; a1← :A-1 分配の対象になる
   a1← →b1  :A-2 交換の対象になる…[能力主義T]
     (ただしα→β,α>β ゆえに A-1>A-2)

  ※[能力主義Uの否定]
     A→a1  :Aの手段として制御されるものa1は
     A…a1  :AがAであることと関わらない

  ※[能力主義V]
     A…a2  :Aの手段・制御の対象にならないものa2は
     B…a2  :Bの評価/制御の対象にしてはならない

   「能力主義T」=能力に応じた配分
   「能力主義U」=能力が人(の価値)を表示するという観念
   「能力主義V」=能力以外のものを評価の対象にしない
◆4 範囲

 ◇1 自己決定能力は他者であることの条件ではない 《省略》

 ◇2 人間/非人間という境界 《省略》

 ◇3 誕生/死という境界

 いつからその生命を奪ってはならない存在とするかという問いについて

 「例えば,代理出産の依頼者が,契約の履行を求める時,そこで求められているのは私の欲求の実現である。女性の決定を押し留める時,そこに求められているのは私の欲求,私の正義,私の価値の実現である。
 誰かがこのようなあり方から逃れていると言うのではない。全ての人に,そして当の女性にも,そうした契機がある。しかし,そうした私(達)のあり方がそこで途絶する存在の現われを最初に感受するのは女性である。身体的な変化や胎動やに関わりながら,当の女性に起こっているのは,端的に「私ではない存在」の現われである。女性に委ねるということは,他者が現れるということが,私の欲求や,正義や,誕生に遺伝的に関わっているという因果関係や,私達と何かの性質において同じであるという同一性の準位にあるのではなく,私でないもの,私の価値等々がそこに及ばずその存在を受容するしかない存在が現れてしまうということだと考えるからである。
 他者があることを承認する。その他者とは,私の(欲求・価値・…)と別のところにある存在という意味での他者である。そのことによってその者の決定が承認される。…。そのような意味での他者の現われをまず感ずるのは女性であると考えるのである。他者がある(現れる)ことを知る最初の存在として女性があることを認めることにおいて,女性に委ねる。ここで決定するのは,…その当の者(まだそのような存在は登場していない)ではなく女性だが,その女性に委ねるのは…私達の他者の存在に対する了解,他者をどのようなものとしてあらしめるのかという価値観である。
 こうした感覚が,出産に関わる「女性の自己決定」を擁護するのだと考える。@:誰もがその生命を奪われてならない存在として認める時点以前の期間に関わる決定を女性に委ねる,認めざるをえないものとするのである。
 また同様の感覚が,A:代理母の心変わりを支持するのである。「ベビーM」を巡る争いについて,私達が「代理母」に対して肩を持ちたい気になる時,それは,契約した者において,その子が抽象的に「私の子」(となるべき者)として存在するのに対して,あの「代理母」においては「他者」として存在を始めているということにあるのではないか。それゆえに,私達(の中のある部分)は,まずそのような関係を保持している者を支持したいと考えるのだと思う。
 また,このような感覚が,B:どのような存在が生まれるのかを選択することを,@についての決定とは別のものとして考えさせるのである。なぜなら,人としての誕生に時間的に先行して決定がなされるとしても,この決定が他者の性質を前提にして決定する行いである以上,それは他者の存在を想定しつつ,他者を決定することであり,他者が他者であることを奪いとるからである。」(学会報告I)

 ◇4 「質」の決定 《省略》 ※cf.上記B

■文献

Davis, Kingsley & Moore, Wilbert E. 1945 "Some Principles of Stratification", American Sociological Review10-2:242-249
Engelhardt, Hugo Tristram 1986 The foundations of bioethics=1989 加藤尚武・飯田亘之監訳,『バイオエシックスの基礎づけ』,朝日出版社
Fletcher,Joseph 1988 The Ethics of Genetic Control: Ending Reproductive Roulette ; with a new introduction, Prometheus Books
Harris, John 1980 "The Survival Lottery", Violence and Responsibility=1988 新田章訳,「臓器移植の必要性」,加藤・飯田編[1988:167-184]Kant, Immanuel 1764/65 ・Bemerken zu den Beobachtungen uber das Gefuhl des Schone und Erhabenen"=1966 尾渡達雄訳「『美と崇高の感情に関する考察』覚え書き」,『教育学・小論集・遺稿集』(カント全集16):259-355,理想社
加藤 尚武  1993 『ヘーゲルの「法」哲学』,青土社
加藤 尚武・飯田 亘之 編 1988 『バイオエシックスの基礎・・欧米の「生命倫理」論』,東海大学出版会
川本 隆史  1991 「自己所有権とエンタイトルメント・・私的所有権の光と影」,
『法哲学年報(1991):現代所有論』※,有斐閣:77ー94(※川本論文以外目を通していない。検討の要あり)
Locke, John 1689 Two Treatises of Goverment=1968 鵜飼信成訳,『市民政府論』,岩波文庫
Nozick,Robert 1974 Anarchy, State, and Utopia, Basic Books=1985,1989 嶋津格訳, 『アナーキー・国家・ユートピア』,上・下,木鐸社
大川 正彦  1993 「ヘーゲル市民社会論における私的所有と社会的資源(上)・・ 「自己所有権」テーゼ批判をめぐって」,『早稲田政治公法研究』
41:243-259
Sen, Amartya 1973 On Economic Inquality, Oxford University Press=1977 杉山武彦訳,『不平等の経済理論』,日本経済新聞社



所有(論)  ◇立岩 真也
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