*この論文は以下の本に収録されました。お買い求めください。
◆立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』
生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110
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1.はじめに
(1) 課題
性別分業、性差別はなぜあるのか。その「起源」がどこにあるかはおくとしても、この現在の社会になぜかくも強固に存在しているか。それに対する答えとして、それによって誰かが利益を得ているのだという主張がありうるだろう。また実際にある。では誰が利益を得ていると言えるのか。これを考える必要がある。考えてみようと思う。
ただ、本稿が扱う範囲はごく限られたものであることをまず述べておかねばならない。ここで検討するのは、女性を市場から全面的あるいは部分的に排除していることによって、誰が利益を得ているのかという問いである。女性を家庭に置き家事労働を担わせることによって誰かが利益を得ているのではないかという問題は別に検討し(立岩[1994a])、ここでは扱わない。しかも本稿で主に述べるのは、誰が利益を得ているのかではなく、むしろ通常利益を得ていると言われる者が実は利益を得ているとは言えないのだという、それ自体は消極的なことである。
しかし、私はそうした作業をやっておくべきだと考える。何が問題ではないのかをはっきりさせておく必要がある。「敵」を特定しておくことが必要だからである。敵でないものを敵であるとするなら、それに基づく戦略・戦術は誤ったものになり、実践的な成果を得ることができないだろう。場合によっては運動にとってかえってマイナスになるだろう。
にもかかわらず、このところが十分に検討され、明確な答が出ているようには思われない。不当に扱われている自分(達)以外の全ての者達が、全ての場面で利益を得ているような言われ方さえされる。本当にそうだろうか。一つ一つの論点が十分に検討されることなく、疑念が提出されてもそれに全面的に答えられることがなく、「だがこちら側を見れば」といった具合に論点がスライドさせられていってしまう。一つ一つ考える必要があると思う。性別分業とそれが与える効果を全面的に検証するためには、本稿の何倍もの作業が必要となる。本稿で行なうのはそのごく一部である。しかしそのごく一部についても相当の分量の考察が必要なのだから仕方がない。また具体的な論者の主張をあげ、それを検討していくという手法もここでは採れない。述べたように、多様な論点が十分に明確にされないまま、並列され散在していることが多いため、それに逐一つきあうと議論を順序立てて展開することができなくなってしまうからである。本稿を含む一連の作業の中でそれらの個々の主張に対する評価がなされ、終わった時に総合的な評価もまた下されることになるだろう(1)。このように意識的に主題を限定しているのだから、そしてそれは別の論点があることを意図的に隠そうとして行なっていることではないのだから、以下に対する評価・批判も、提出される論点に内在して行なわれることを私は希望する。
労働市場に女性を置かないことによって、あるいは男性との間に格差を設定することによって、誰かが利益を得ているのか。まずここに誰がいるか。労働を購入する者と労働者である。これ以外の者はいない。両者を考えればよい。結論としては、前者は利益を得ておらず、後者の中の男性は利益を得ている。このことを述べる。
(2) 考えるべきこと
性別分業によって利益を得ている主体として、一般に言われるのは、労働の購入者、通常は資本家(2)である。かくも広範に分業・格差・差別の現状がある時、そのように感じられるのにはもっともなところがある。しかし、現実から離れて少しでも常識的に考える時、これは不思議なことだとも確かに思われる。それは以下のような事情による。
[…]
2.労働を買う側は利益を得ていない
(1) 女性を雇用しない場合
(2) 女性が部分的に市場に参加する場合
@賃金格差
A首切り要員として
B熟練労働/非熟練労働
C労働時間
3.男性労働者は利益を得ている
4.まとめと残された課題
注
(1) 具体的にあげれば、上野[1990]、竹中[1991]、久場[1991]などの論考に「触発」されてこの一連の作業は行なわれている。ただ、述べたような事情でそして紙数の関係で、論点の対応を逐一示すことはできない。
(2) 労働を購入する側にいるのは資本家だけではない。労働による生産物を購入する消費者も同じ側にいる。後者ではなく前者こそが利益を得ていることを主張するためには、それなりの根拠を提出せねばならない。以下では、購入者、購入者側といった表現を用い、雇用者・資本家だけを受益者(であるとされる者)として特定することはしない。
(3) こうした論点、また以下で行なう考察には、近代経済学者によってなされてきた「差別の経済学」を巡る議論と関連する部分がある。例えば八代[1980]等に本稿に述べることに対応する言明を見い出すことができるだろう。だが本稿では紙数の関係でこれらについて言及できない。別論文で検討する。ただ、経済学者達(もちろんその主張は一様ではない)の述べることに正しい部分があることは、彼らの示す実践的な提言を受け入れねばならないことを意味しないことは言い添えておいた方がよいだろう。市場(というよりも市場への参加者)に一定の仮定を与えて、そこから何が帰結するかを見ることと、市場の機構を信奉することとは同じではない。このことについても詳しくは機会を改めて述べる他ない。
(4) では「能力主義」自体についてどう考えるのか。立岩[1994b]で考えを述べた。
(5) 以上の2つの段落で述べたこと、そして2の(2)のA で述べることは、まずはこのようにも考えられはしないかという憶断である。その妥当性を言うためには、家事労働がどの程度の時間必要とされるものなのか等を検討する必要があり、本稿ではこの部分の論証は行われていない(立岩[1994a]で一定の作業を行っている)。
ただ、例えば、竹中[1991]で、「なぜ…労働力商品化体制のなかに性役割分業が組み込まれたのか…。労働力商品化体制は、なぜ性役割分業を基礎とするのか、性役割分業において、家事労働のほうを担当するのがなぜ男でなくて女になったのか」という壮大な問いが提出され、それに対する答えとして大きく3つあげられ、その3番目、性別分業が「経済効率的」であるという答えとして4点があげられている中の最初のものが、「一人の人間であればできないような労働時間が生活時間にまでくい込んでできる」という点なのだが、以上のような疑問については考えられておらず、したがって答えもない。これを積極的な主張点とする以上は、「くい込んでできる」という事実――これは確かに事実ではある――を指摘するので終わるのではなく、それが他に考えられる様々の場合(そのいくつかを本文にあげた)に比べて、どうして、そしてどれほど有利であるかを言わねばならない。拠証責任は、まずはこのような主張する側にある。こうした議論の現状は他の論点についてもそう変わらない。
文献
久場 嬉子 1991 「資本制経済と女子労働」(竹中恵美子編『新・女性労働論』、有斐閣選書496、335p.):001-031
竹中 恵美子 1991 「差別の仕組み――その根源に迫る」、関西婦人問題研究会編『ゼミナール女の労働』(ドメス出版、251p.):019-056
立岩 真也 1994a 「妻の家事労働に夫はいくら支払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」、『人文研究』(千葉大学)23:63-121
――――― 1994b 「能力主義とどうつきあうか」、『解放社会学研究』8
上野 千鶴子 1990 『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』、岩波書店、341p.
八代 尚宏 1980 『現代日本の病理解明――教育・差別・医療・福祉の経済学』、東洋経済新報社、251p.
Purchaser of Labour does not Profit by Sex Discrimination
Shinya Tateiwa
……以上……
* 「能力主義とどうつきあうか」は加筆・改稿され、立岩『私的所有論』第2章・第8章となりました。