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能力主義とどうつきあうか

立岩 真也
『解放社会学研究』8号,pp.77-108 1994年6月 90枚


※本文中の注番号がこのテキスト・ファイルではありませんので,この点御注意願います。
※他に,下線・太い矢印などが消えています。この点も御注意願います。
※図は別にあります。
※後に,この論文の内容はすべて立岩『私的所有論』(1997,勁草書房,の特に第8章)に含まれることになりました。

『私的所有論  第2版』表紙

■1 はじめに

 何が差別なのか,論じるまでもなく明らかなこともたくさんあるに違いない。しかし,私は,何が差別なのか,それにどう対処するのか,私達がそれに対してはっきりとした解答をもたず,しかし/ゆえに態度をはっきりさせなければならない場面もまたいくつもあると思う。その一つ,主要な一つが,「能力主義」「業績原理」の問題だと思う。これは,いつのまにか,今はもう流行らない主題なのかもしれない。けれどともかく私はずっとこのことが気になってきたし,これは,流行る流行らないは別として,今でも消えてしまった問いではない。私達は近代の社会の中にいるのだから当然である。
 例えば以下の問い,私の疑問に,どんな答えが用意されているか。
 @:「学歴主義」「学力偏重」が批判される。「学歴主義」「学力主義」ではない「能力主義」ならよいと一部の人は言うが,それでは駄目なのだと言う人もいる。能力がない(と少なくとも思われている)人達がいて,その人達は,そのことで自分達が社会から排除されていると言う。実際このようにこの社会は構成されているのだから,これは全く正当な指摘であり,この社会の構成の基本的なところを問題にしたのだから,根底的な指摘だった。しかし,その提起は結局どうなったのか。それは,基本的なところを問題にしているがゆえに,行く場の見つけにくい提起でもあった。「能力主義」「業績原理」が問題だとしてそれを一体廃棄することができるのか。そしてどのような代替案があると言うのか。
 A:「障害を持つアメリカ人法(ADA)」は「資格のあるqualified 障害者を障害ゆえに差別してはならない」とする。「資格のある障害者」とは「職務に伴う本質的な機能を遂行できる障害者を意味する」(第1章・第101項・8)。例えば頭を働かせることがその仕事の「本質的な機能」なら,頭を働かせることのできる者は,目や手やその他必要なものを機器を利用し,また他人の手を借りて補い仕事をする。その事業所内での援助費用は一定の条件のもとでは事業者の負担になる。だが頭もうまく動かない者はどうなるのか。その者は雇用されない。だが,それならいっそのこと頭も借りてしまえばよいのではないか。なんで頭を借りてはいけないのか。ともかくこの法律ではその者は雇用されない。この法律は,ある意味で徹底的な能力主義に貫かれている。@の問題は残っている。だからそれを指摘し,批判する者がいることは当然のことである。
 にもかかわらず,@の指摘を無視できないと思うにもかかわらず,私は,こうした法律が,必ずしも否定されるべきものではなく,むしろ積極的な意味を持つものだと思う。また例えば,大学という組織で適正な人材の配置が行われていないという指摘はよくなされる。この時に「能力主義」「業績主義」は肯定的に用いられる。私も,まずは私に固有の利害から,しかしそれだけでもないと思う何かによって,「能力主義」「業績主義」が肯定されてよいと感じる。これは一体どういうことになっているのか。
 B:「学歴主義」や「学力主義」や「能力主義」が批判される時,その代わりに例えば,「人間を(もっと)全体的に評価すること」が持ってこられる。だが,このような道筋で考えていってよいのだろうか。そもそもここでの批判は何に焦準しているのか。そして,何をあるべき評価のあり方と考えたらよいのか。
 近代社会があることを自覚する営みとして始まった社会学という学問領域の開始点にあったのも,「身分」「属性」から「業績」「達成」へ,という了解だった。しかし,それからどれほどこのことについて考えが深められたか。考え抜かれたのか。評価される/評価されないものが社会的に(その階級・階層の布置に応じて)決定され,評価される能力が社会的に規定されることは,幾多の研究によって明らかにされた。それは,因果連関を社会的なものに求めようとする経験科学としてもある社会(科)学にとって――そうでなければ自らの存在基盤がなくなるから,とは言わないまでも――当然の作業でもあったし,またその指摘は社会の批判や改良に結びつく言説でもあった。しかし,それだけで問いは終わらない。少なくともそれらは私の問いに十分には答えてくれない。
 上に述べたような事例をみる時,否定すべきもの,支持すべきもの,その根拠,その境界がはっきりしないことがわかる。だから,能力主義を根底から否定できるだろうかという疑問,肯定してよい能力主義があるのではないかという漠然とした感覚,このように否定したり肯定したり,いずれかに弁別する感覚はどのように記述されうるのかを考えてみる。多分,それは全く相矛盾した感覚の並存なのではなく,何らかの形を有していると私は感ずるのだが,それをはっきりしたものにしたいのである。標準的なスタイルではないかもしれない。しかし,場合によっては,こういう思考の道筋だけを示す文章があってよいと私は考える。

■2 述べること/述べないことの概略

 これまで提出されてきた典型的な見解について見解を加え,それを批判しながら,新しいものを提出するという方法が正統でもあり,また読者の理解を得やすい方法なのだとは思う。私もそうした準備的な作業を行おうとは思っている。しかしこの1つの論文の中でそれを行なうことは,量的な制約からできない。別に行なうことにする。ただ,それを補うことにはならないにしても,ある程度のことは言ってべきだ。(積極的に主張したいことは3節から始まるから,もちろん,本節を飛ばして読むこともできる。)
 「属性原理」から「業績原理」へという歴史的な経過があり,そしてその変化は身分制秩序からの「解放」,「自由」の獲得として,基本的に肯定的に評価されるものとされる。ここまでで終わる場合もあるが,さらに続けられる場合もある。つまり,そこにもやはり「限界」があり,やはりそれも否定しなければならない,あるいは改善しなければならないと言うのである。こうした,一般的な了解がある。私はこのような論述の仕方をしない。どうしてか。
 第一に,以上は,歴史的な事実の記述として,少なくともことの一面しか捉えていないものだと考えている。ここで詳しく述べることはできないが,「属性原理」から「業績原理」への移行は,単に制約からの解放ではなく,ある規範から別の規範への移行であり,その背景と効果とが慎重に検討されねばならない。さらにこの移行の過程にみられるのは,所有を巡る規範の更新だけでなく,同時に,積極的に行為と人とのつながりを与えようとする様々な実践・介入だった。確かに両者は関連を持つものなのだが,分析的には区別され,その上で両者の関連を見るべきだと考えている。「業績原理」の側に単純に「自由(放任)」を割り当てることはできないのである。(本稿で検討する「能力主義T」と「能力主義U」の区別は以上に対応するものである。)また,人間に対する実証的な科学的な知のあり方の登場(これは能力をある種の属性によって説明する営みだと言ってもよい)を考えに入れた場合にも,事態の推移をそう単純に見ることはできない。これらについては既に別稿で一定の考察を加え,見解を提示してきた。
 第二に,以上の歴史・現実に対する見方とも関わり,より基本的な疑問として,そして別に論文を用意せねばならないと考えている部分として,「業績原理」が「属性原理」と対比され,前者が後者に対して優位に立つとされること自体,もっと問われてよいことだと考える。
 まずどこに違いがあるのか。属性が生まれながらに決まったものであるのに対して,業績とは獲得されるものだと言うのだろうか。しかし,業績を産み出す能力はどこから来るのか。これだって既に与えられている部分があるのではないか。
 そして,前者は後者に対してなぜ優越すると言えるのか。社会科学の営みは,価値評価や当為命題の提出を含む。これはこの学の性格上必然的なことであり,当然のことである。ところが,しばしばそのことが十分自覚されていない。といって,事態の記述に徹しているわけでもなく,多く,価値観が自明のものとして,あるいは意識されずに入り込んでいる。
 第三には,「業績原理」「能力主義」の「限界」と言う時,何が言われているのかということである。
 「限界」があるから,別の原理を持ってこようと言うのだろうか。では,どのような原理を立てるのか。例えば「平等」だろうか。だが例えば,臓器をもっと平等に分配(移植)すれば,生きられる人・健康でいられる人が今よりは増えるかもしれないのだが,それでよいのか。どこまでの平等が求められるのか。そして何かの原理を立てるのはよいとして,今までのものをどうやって捨て,別のあり方を打ち立てることができるのか。
 あるいは,いいところまでは行っているのだから,その弱点を補強するようなものを付加すればよいと言うのだろうか。しかし,第二の問いに帰ることになるが,「能力主義」のどこが,どこまでが,何ゆえによいのか。また具体的には,例えば,「年功序列」と「実力主義」という選択肢に対していったい何を言うのか。
 能力を巡る平等や不平等や差別について日頃考えている人なら,以上のような不満を共有しているだろうと思う。その人は,1節に述べたような疑問を持ち,考えているはずであり,この時,既にあるものは,その疑問を解くためにそう多くのものを与えてくれないことを感じているだろうと思う。このような場所から,本稿は出発する。
 以下に述べる各々のことは単純なことである。ただ,以下ではかなりたくさんのことを述べなければならない。言葉を尽くし,各節の内容について各々論文をあてる必要もあるだろう。しかし,各論点の提出とその位置づけそものものが1つの大きな論点である。少なくともこれだけのことを言わなければ,「能力主義」というあり方について何か言ったことにはならないと思う。「能力主義」は1つではない。少なくとも3つの異なった意味で使われている。これが第一の論点である。そして,この各々の関係はそう単純ではない。それを1本の論文の中で述べねばならない。このような圧縮に伴う無理をいくらかでも補うため,全体の概略をまず示しておく。
 3つあると述べた。1つずつ検討していくが,1番目のものをひととまず検討した後で,1つの基本的な感覚,価値観を明示することを試み,その上で2・3番目のものの検討に入っていく。
 3節・4節では,「能力主義T」=「能力に応じた配分」そのものを問題にする。ストレートに考えれば,「能力主義」の否定はこの配分方法の否定を意味する。3節ではこの配分方法が正しいという根拠を提出しえないこと,正当化されないことを見る。これが第二の論点である。しかしこのことは,それが現実に廃棄可能なものであることを意味しない。4節でこのことを見る。これが第三の論点である。
 5節で,何を基本的な原理と考えるべきかを考える。これが第四の論点である。これによって「能力主義T」を位置づけ直し,また,6節・7節で検討することの基本的な立場を設定する。つまり,この節で述べることが,複数の能力主義に対して複数の立場を取るあり方が整合的にありうることを説明することになる。
 6節で,配分のあり方と独立に,「能力主義U」=「能力が人(の価値)を表示するという観念を与えること」があることを見,これを否定することができることを述べる。これが第五の論点である。
 7節で,「能力主義V」=「能力以外のものを評価の対象にしない」を検討し,それを肯定する根拠について検討し,それが契約の論理からは出て来えないものであること,「能力主義U」の否定と同じく,5節で述べたことに由来することを述べる。これが第六の論点である。
 以上が本稿で述べようとすることの本体となる。8節では,1節@・Aの問いについて再考し,今後の課題を述べる。
 3節は論理として整合している。4節の主張は,論証されているわけではないが,その反対が成立しにくいことは述べられたと思う。6節に書かれている事実は事実である。7節も,少なくとも一つの整合的な解釈として成立しうる。ただ5節は,今のところ,誰の同意を得ているというものでもない,まだ考えるべきことをいくつも残す一つの考え方の提示である。これを省いてしまっても,また既存のものに代えても,その他の論点のかなりの部分は生き残る。だが,私が考えてひとまず辿りついた場所はこの場所であり,省略するわけにはいかなかった。今後うまく発展させていくことができればと思う。
 断り書きを集めた2節の最後にもう一つ断り書きをさせていただく。本稿で(その道具立てのわりには,と言われるかもしれない),当為命題として,規範命題として具体的に導かれるのは,かなり穏当なこと,しごく平凡なことでしかない。だが,少なくとも私にとってはその平凡な答えにどのように至れるかが問題だった。例えば「能力主義」を廃棄せねばならないという,真面目にとれば平凡でない提起に対して,どのように抗弁できるのかを考える者にとっては,それが問題だったのである。平凡でないことを言い放ってしまって,その後のことは気にしない人にとってはそうでないとしても。平凡でない提起を本当のところは気にかけない人にとってはそうでないとしても。自明と思われることと別の自明と思われることが本当に同時に成り立つのか,疑問に思わない人にとってもまたそうでないとしても。そして無論,最初から議論の行方を完全に見通してしまっている人にとっても,本稿のような試みは無意味である。

■3 能力主義T

 能力(むしろその能力によって産出されたもの)が他者によって評価され,それによってその者の受け取りが決まることを能力主義Tと呼ぼう。典型的には,労働市場で労働に価格がつくことを考えればよい。つまり,能力主義Tを問題にするとは,市場そのものを問題にすることでもある。ただ,市場においてだけ能力主義が採用されるわけではない。中央集権的,自主管理的,等々の能力主義的な配分方法がありうる。このことは押さえておいた上で,私達の社会の主要な財の流通機構としての市場をまずは考えることにする。
 この社会の財の流通・配分を決定する主要な原理は,「私的所有」「自己決定」の原理だと考えられている。すなわち,自己に属するもの,属するものから発するものについては,自己に決定権がある,同時にその帰結を引き受ける義務があるとされる。この原則を冒さない相互行為は,同意に基づいた行為である。双方に同意のある行為は私事として当事者以外の関与するところではないとされる。両者が合意するのであれば,その間の相互行為は許容され,どちらか一方でもそれに合意しなけれは,その行為は行われない。他の者のものを人は強奪することはできない。だが,それを持つ者が,自らのものを提供することに同意すれば,その提供者の「善意」によって,また,提供を受けたいと思う者が持つ他の財,例えば貨幣を受け取ることと引換えにそれを得ることは認められる。
 これが私達がイメージする「市場」,私的な利害が現われ調停される場としての市場を必然的にもたらすわけではない。いろいろな形態を考えることができる。例えば,贈与の連鎖だって今言ったことの中に収まってしまう。贈与することで彼が精神的な満足を得るのであれば,あるいは贈与の伝統に違反することに精神的な負担を感じるのであれば,彼は贈与を行うかもしれない。しかし,そういう伝統・規範・心理がない場合に,そして,専ら,自らの負担をできる限り少なくして,与えること自体に対する意味付与以外の財をできる限り多く求めようとする欲求が彼にあるのであれば,私達が一般に思い描くような市場が形成されることになる。
 もしこのような心理が私達に自然に与えられているのだとすれば,市場は自然として生ずるように思われる。しかしその前に,そもそもあるものがなぜ自己のものであると言えるのか。この所有の初期値の割り当てはどのようにして正当化しうるのか。この問いに答えねばならない。そして所有が処分権を含むものだとすると(近代的な意味での所有権はそのように理解されている),初期条件の設定とは市場の作動の全てに関わるものである。私的所有が正当化されないことには市場は正当化されない。

図1:略
図2:略

 世界にある財が,交換の始まる時点において誰のものであるかが決定されていなければ,交換は起こりようがなく(図1→図2),その初期値の設定を定める規範は,市場の中にはないということである。無論,この財の中には,各自の身体や行為,その他全てのものが含まれる。例えば,私の身体が私のものであることは自明のことのように思うかもしれない。だがその身体が私のもとにあるということと,その身体を他者に使用させず,私の意のままに動かしてよい,処分してもよいということとは全く次元の異なったことなのである。
 実際,近代資本制の始まりの時期に,前代の所有制度に抗して,またその後も私的所有に対する批判に答えようとして,私的所有を正当化しようとする言説が現れる。何が現れたか。これを十分に検討するなら,紙数はそれで尽きてしまう。そして,私は別稿で,別の主題に即してではあるが,これを既に(そこでもごく簡略にではあったが)検討している。そこで本稿では結論だけを言おう。
       
図3:略
図4:略

 @:一つには,主体によって制御されるものは自分のものだという観念・言説である。しかし第一に,これは,制御されないもの(身体,そして能力の少なくともある部分,…)については,かえってその私的所有(処分)を,さらにそれが自身のもとに置かれること自体さえも,否定してしまうことになる。第二に,より基本的な問題として,これは,それ自体一つの主張・信念としてしか存在することができない(図3:1.ゆえに2.…しかしこの「ゆえに」が根拠づけられない)。なぜ1.「ゆえに」2.なのかと問われる時に,返す言葉がない。無論,あらゆる原理(何が正しく何が正しくないかを決める基準)には,どこかで行き止まりになる,それ以上遡れない地点がある。ただ,私達はその原理を,正しいもの,受け入れるべきものとして承認するのである。だが,この「ゆえに」にはそうした承認につながる要素がなく,承認されている価値原則につながっていく要素がない。(「自由」という原理があるではないかと言うかもしれない。だがそれは違う。自由というだけでは,Aにaに対する(aを取得する…2.)自由があってBにないのはなぜかという問いに答えることができないのである。)
 A:それ以外にあるのは,このシステムの有効性を言うものだけである。
信仰でなければ利益が基準になるというのだ。まず,1.所有の初期値を問題にせず,前提にして,その後の交換において全ての参加者が利得を得る(パレート最適)から私的所有・市場は是認されるべきだといった類いの言説があるが,これは論外である。問われるべき問題(図1から図2への移行)を最初から消去してしまっているからである。(にもかかわらずこの水準で「自由主義」を言い立てる者達がいるのではあるが。)
 もっとまともな論もある。2.行為を人が制御できること,人が自らの利得を求めることを前提した上で,交換の有効性を言うのである(図4)。自身の能力の活用は自身によってなされている,人は自らの行為aを制御することができる,というのがひとまず当事者における事実である(これはそのaが本来Aのものであるということとは別のことである)。その人は,自身が得られるものbを予期し,自分が行えることaのコストを予想しながら,自己にとって有利になるような行為を行おうとする。その上で,行為・行為の結果を他者が得ようとする場合には,その者の欲望/恐怖にかなう形で得るしかない。脅迫・強制でなく交渉が行われるのは,一つに,強制自体を避けるべきものとする場合だが,これは,既に他者の介入を排除する所有権を付与していることに等しい。だが,どちらが人の行為を効率的に引き出すことができるのかを考慮し,強制によっては多くを得ることはできないと判断する場合には有利/不利の判断があるだけである。Bはaを得るかわりにbを提供する。ここで制度を前提せずに市場が始まる。Bの評価,A・Bの交渉を経,bはaに相関して決定される。つまりaがAの受け取りを規定する。このようにして能力主義が現われる。機能主義者の言明を還元していけばこういう部分が残る。
 Aの2.はその身体・力能がどこからきたのか,本来その者のものかどうかという問いを回避して成立しうる。そしてこの指摘それ自体は,以上の幾つかの前提を認めた場合には,当たっている。しかし,ここでは,たまたま体が,あるいは頭がうまく働かないように生まれてきた者が,ただそのことのゆえに,他者に与えるものを持たず,ゆえに,生きられないことになる。そう極端な場合でなくとも,個々の人の能力には違いがある。これは,出し惜しみしようにもしようがない。このことによって各自が得られるものの差異をどのように正当化できるか。ここに見ただけの論理は,そもそもこの部分に言及することがない。
 こうして,私的所有を十全に正当化する論理はどこにもない。

■4 能力主義Tの廃棄?

 能力主義Tは正当性を持たない。それを正当なものとするのは一つに一つの信仰でしかない。そして十分に現実的な格差の問題を引き起こす。排除される者が常にいる「能力主義」はそのことを認めてしまう。だからそれを廃棄することが目指されても当然である。そこに問題がある(確かにある)以上,その問題が(蓋然性として,しかし私達の社会では高い蓋然性において)生ずる市場を根底的に否定することに向かっても不思議ではない。これは十分に正当性を獲得しうる考え方である。1970年前後に始まった障害を持つ者達の社会運動が,少なくともその理念として,提起したのはこのような方向だった。しかしそれが可能か。
 まず,現実として,正当化不可能なものが事実として存在し,ともかくも人は自らのその属性を引き受けることになっている。これはなぜか。先にみた(→4節Aの2.)論理がそれを記述している。Aがaを処分するのが正しいことだという根拠はない。しかし事実としてAはaを制御,処分可能である。Aはaの譲渡を損失と感じており,bを得ることに利益を感じている。そしてこのaを譲渡する損失とbを得る利益はどこかで折り合いがつくようになっている。この時に,Bは,Aからaを強制によって受け取ろうとしないなら,bを与える他はない。不利益を与えていないという意味では,少なくともこのAとBの2者の間には何も問題は起こっていない。双方に利益がある。そして与えることができない者には,Bは何もしない。結果としてその者は何も受け取れない。この時に,市場は既に始まっている。このような意味では,市場を避けることはできない。それはそれが正義だからではなく,上のような私達の欲望によっている。
 このような事態を回避する道は2つである。一つに,そのような,自分の利益のために自分のものを譲渡するという欲求のあり方がなくなることである。一つに,別の分配方法を採用することである。
 後者から。制度を作ること自体は可能である。しかし市場を発生させてしまうような欲望を消滅させることができないのであれば,仮に市場の発生を禁止したとしても,必ず,再びそういう場はできてしまうだろう。また,そのような場を作らなければ,十分なだけの人々の行為(の結果)を得ることができないだろう。とすれば,一つにその制度自体を能力主義的なものにしていくことだが,これでは能力主義の廃棄という目的に反してしまう。その場合に,なお能力主義的でない分配方法を維持しようとすれば,強制によるしかないだろう。しかし,それはどれほど効力を持つか。その前に,それはどれほどよいことなのか。
 この問いに対して否定的に答えるなら,市場と強制の両方から抜けることができるのは,個々人が自分の利得を求めるという欲望を持たない場合しかありえない。しかし,ただこの社会をこのまま放置しておいてそうなるとは考えられないとすればどうか。再び制度の側が問題にされることになる。制度の変革によって人々の欲求の形が次第に変わっていくことが求められる。それは可能か。可能だとする考えがあった。それは次のようなことを言う。社会関係,例えば生産関係が人々の意識,欲求を規定している。したがって,この基本的な関係を変更するなら,人々の意識,欲求は関係の変更に伴って次第に変容していくに違いない。最初は,人はまだ旧来の意識に囚われているから,制度の改変は先行して,ある人々に対しては強制として行われねばならない。しかしそれは,どれほどかの期間の「移行期」の間のことである。
 この論法の正否について,最終的な答えが出たわけではない。この世紀に行われたいくつかの「実験」の「失敗」をもってその答えに代えることはできない。ただ,この移行が可能であることは論理内在的には言えない。人がこの可能性を証明しようとして持ち出したのは,自然状態である。すなわち,かつては良き自然状態があったのだが,と言うのだ。しかし,これも確かなことではない。むしろ,自然として人間がそのようなものを,本来は,かつては持っており,それが失われたというのではなく,それ自体が(恐らくはその時々の諸条件にも規定されて)巧妙に形成された社会的な形成物だったのだ。そして,私達はそのような仕掛けを失ってしまったということなのだと思う。私達の欲求とて確かに歴史的な形成物と言えるかもしれない。しかし,そのようでないあり方を(再度)作り上げる確かなてだてを私達は有していないということのようなのだ。
 確かに私達は私的所有に正当性がないことを確認する。しかし,このように認識することは,現実にそれを全面的にくつがえすことができることを意味しない。むしろ,その困難さを自覚することになる。能力主義を所有の問題として問うて行くなら,必ず,このような場に着く。本稿の最初に述べた行く場のなさとは,多くは漠然と感じられているものだとしても,詰めていけば,このような認識を指しているのだと思う。そこで考えることをやめる者もいる。あるいは,原則と現実とを使い分ける者もいる。その原則の実現は遠い未来に引き伸ばされる。基本的なところを問題にしようとした者達が,正しく行き着いた場所,同時に,滞留してしまった場所がここだった。
 ここで私達は立ち止まっているしかないのだろうか。だが,例えば分配方法の全域的な転換自体が追求されるべきことだったのだろうか。本当に問題にすべきことはこのことだったのだろうか。翻って,私達は,何を問題とし,何を正当なこと,追求すべきことと思っているのか。まず,このことをこそ考えておくべきではないか。

■5 どのような立場に立つか

 私的所有を正当化する根拠はないと述べた。実はこのことは,自己の身体が他者によって奪われてはならないという感覚もまた,正当化されていないことを意味する。つまり,私的所有全般を肯定しない人でも擁護するだろうものまで,擁護する根拠がなくなってしまっているのである。何ゆえにあるものをその者のもとから奪ってはならないと思うのか(これはその者に処分権としての所有権を認めるということと同じではない)。また逆に,何ゆえに,あるものならその者のもとから切り放してよい(その一部にその者に処分権を認めるというあり方がある)と思うのか。迂遠のように思われるかもしれないが,こうしたところから考えた方がよいと思う。一つに,技術の進展等に伴う作為可能な領域が拡大する中で,作為や譲渡の範囲について論じようとする時,このことをどうしても考えねばならない(→注13)のだが,能力主義を考える時にもやはり同じだと思う。ここからだけ,複数の能力主義に対して複数の態度が取られること(→1節)を説明できると考える。以下はひとまずは私の仮説,私の思いつきである。だが,もし同じ態度をとる者がいるのであれば,その人は,これから明らかにしようとする感覚を,自覚的にではないとしても,有している,それを人間に対する,人間の関係のあり方に対する基本的な原則と考えているはずだと思う。
 先に見た私的所有を正当化しようとする言説は,あるものがある人が作り出し制御するものであることによって,そのものがその人のものであると言おうとする。しかし,例えば身体は,その者によって作られるものではなく,制御されつくせるものでもない。そして実はそのようなものこそが,その者から移動させることに最も抵抗のあるものなのである。とすると,作為と作為する利益から出発する発想を単純に裏返し,逆に考えたらどうか。
 α:誰かが何かを制御する時,その制御されるものはその者から切り放された手段として現われる。他方,自分が制御できないもの,正確には制御しないものを,<他者>と言うとしよう。(私に制御できないから<他者>であるのではない。制御できてもなお,制御しないものとしての<他者>がある。)その<他者>とは,自分に対する他人だけではなく,自分の精神に,あるいは身体に訪れるものであってもよい。私の身体も私にとって<他者>でありうる。その<他者>は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの,私が制御しないものとして在る。私達はこのような意味での<他者>性を私から,他人から奪ってはならぬと考えているのではないか。Aが作り出し制御するものではなく,Aのもとに在るもの,Aが在ることを,Bは奪うことはしない,奪ってはならないと考えているのではないか。
 もっと積極的に言えば,人は,決定しないこと,制御しないことを肯定したいのではないか。<他者>が存在することを認めたいのだと,他者をできる限り決定しない方が私にとってよいのだという感覚を持っているのだと考えたらどうか。私の欲望が他者を利用し実現され尽くす時,世界は私と等しくなる。このような私としての世界を,私は好ましいものと思わないということではないか。
 そしてこれが作為を抑制する倫理・感覚としてあることは,この倫理・感覚が作為を許容する感覚に対して上位にありうることを示している。とすれば,第一の原理として「<他者>が在ることの受容」を立ててよいのだと考える。これは,作為・制御→取得という考え方(図3)と全く別の,逆の考え方である。所有に関わる近代社会の基本的な図式が裏返されている。いかにも怪しげなものに思われる。しかし論理を辿っていけば,このようにしか考えることができない。
 これは,互いが互いを,そして自らを手段として用いることに対する抵抗感だと言ってもよい。だが,社会の全域がそのような関係によって覆われることがありうるのか。あるべきなのか。言ったことと矛盾するようだが,そうではないと,αを言うその同じ者が言う。
 β:私は自らを自分の目的の実現のための手段として使う。また他者をそのようにして利用することもある。このこと,人が自身の目的の実現のために人と関係しあうこと,手段的に関係しあうこと,そしてそのような場として構成される場の存在を否定できないと考える。例えば,大学では,学生は自分にとって必要な知識なり技術などを習得したいのであって,そのために,不要な教師は必要ではないことを認めてしまう。
 αとβの両者は明らかに矛盾するように見える。しかしそうではないと思う。私達は,確かに両方を区別しており,使い分けているのだと思う。そしてそれは否定されるべきことではないと考える。そして,複数の能力主義,それに対する態度は,この微妙な境界を巡ってあるのだと思う。
 まず,αとβの境界の設定は(境界線の設定は困難で微妙だとしても)不可欠である。世界にある行為,行為によって生産される財の全てが他者によって奪われてならぬものであるなら,分配は行われることがない。このことによって生きて在ることのできない人は必ずいる。つまりα:制御しないこと,<他者>を尊重することが,直接にβ:制御・利用というあり方を指示する。
 そしてこの境界は,述べたことの中に既に含まれている。つまり,譲渡・分配が制限される範囲はαによって規定される。
 αが言うのは,A(の行うこと)の全てを受け入れよということではない。私BがAを<他者>として扱うとは,Aから奪う(受け取る)ことでAが<他者>として(すなわち私Bでない者として)在ることができなくなるものaを奪わないということである。「他者が<他者>であること」を認めようとする感覚とは,あるものaが他者Aの手段でない限りで,他者のもとにaがあることを認める,つまり,そこにBが介入すること,aを奪うこと,aの譲渡を求めることをしないという感覚なのである。他方,Aの手段であるものは,Aが在ることから切り放すことができる。また,Aが手段として使用できるものの多くは,Bも使うことができる。他者Aが<他者>であることを保存したまま移動させることができる。それは,Bにとっても,他者Aのもとにある(ことを認めようとする)部分ではない。
 ただ,その手段としてあるものは人が在ること自体ではないが,在るための条件,場合によっては絶対的な条件であることはありうる。Aのもとに置かれることが認められるのは,Aが在ることを認める限りでだと述べた。同じ理由で,Bが在るために必要なものの分配が指示される。ただ,苦労に応じて与えられるべきだという意識を私達が認めるなら労働に応じた分配があってよいだろう。そしてこれは行為を引出すための有効な手段でありうる。また先に見たように,私達が私の欲求の充足をめざして行為することを否定しないなら,否定できないなら,そして否定できない限りでは交換もまた確かに有効な方法ではあるのだから,交換も否定されない。つまり市場を認め,能力主義Tを認める。ただそれは,市場の全てを,第一の原理とせよと,正しいものとして認めよと言うのではない。実際なんら正当性を付与することのできない結果を市場はもたらしうる。このことによる問題の解決は,別の場で,つまり再分配としてなされるしかない。つまりは,市場+再分配という,どこも新しいところのない,大抵の国家が採用しているシステムを採ることになる。

図5:略

※A…a2;B…a2:A・Bの制御の対象にならないものa2の存在が
 a2−A;a2・B:Aが<他者>として在り享受されることの中核をなす

※A→a1    :Aの手段として制御されるものa1は
 a1…A    :Aに排他的に帰属しない(・図3)

 α→β,α>β :βの領域はαの領域に優先され,規定される

※A→a1    :Aの手段として制御されるものa1は
 a1→ ; a1← :A-1 分配の対象になる
 a1← →b1  :A-2 交換の対象になる…[能力主義T]
     (ただしα→β,α>β ゆえに A-1>A-2)

 なぜ分配と交換の二元的なシステムをとるのか。既に述べたことを繰り返す。「能力」による差別に正当性はない。だから差別である。しかし,市場を有効な手段として存在させてしまうような私達の欲求を消去してしまう特権的な手立てを見つけることができないなら,それは生ずる。これを事実として承認するということである。
 そして,求められているのは,全ての財を単純に平等に分配することではないだろうと思う。財の不平等な配分を問題にする時に,私達はその配分における平等自体を求めているのではなく,分配によって人が必要なだけのものを得て生きていくことができることを求めているのだと思う。そのためには,その限りでは,能力主義T,交換の全てを否定する必要はない。
 「分配問題」に対するとりあえずの解答は以上である。さらに,「能力主義」に対して何を言いうるか,いくつかの点を確認し,補足しておこう。
 B…a2,a2・Bというあり方について。私があなたを評価する時,それは結局は私の基準によってである。それは,単に市場で,労働者を労働力商品として利用するといった場面にとどまらない。私達は,もっと「人間的」な基準によって人を評価する。例えばある者を肯定的に評価する。そしてこの時に,単に肯定的に評価するだけでなく,その者に何か自分の(権限の内に属する)ものを与えようとするかもしれない。これは,実際の「人情」としてまったく当然のことかもしれない。しかし,私が資源への接近において有利な位置にある時,ここに生じうることは,その者が私の影響下に置かれるということである。このことによって私はその者を領有する。私はその者を私のもとにおく。そのような意識が顕在的にあることもあろうし,ないこともあろう。だが構造的にそのようなことは生じうる。これは結局のところ,私の価値によってあなたを制御してしまうということを意味する。全体として人と関わりあう,人を全体として評価するというあり方は,結果として,BがAを理解する(とする)ことによって,BがAを領有してしまう事態を産んでしまう,他者が他者があることを奪ってしまうのではないか。「<他者>であることを受容する」と述べたのはこのように考えることによる。
 αとβの境界について。わかる(と思う)こと,同じとすることによる他者の消去,自己の拡大,このような事態が起こってしまうなら,むしろ,人が人を手段として扱うことのできる境界をはっきり定めておいた方がよい。つまり,制御しないことを(貫くことはできないが)まず置き,その上で,制御を仕方のないこととして,あるいは必要なこととして認め,制限するしようとする。
 a1−b2,a1…Aについて。以上の理路によって承認されている市場,能力主義Tは徹底して即物的なものである。つまり,この立場が指示するのは,市場から,それに付与された観念,形而上学を脱色することに他ならない。市場・交換の領域とは,例えばAが誰かの頭の働きによって生産されたものが欲しいという,その誰かであるBはただでは働きたくないという,単なる個々人の欲求に発したものとして,そして何も与えなければ頭を働かせない者から生産物を得るための有効な一つの手段としてあるに過ぎないということをはっきりとさせることである。そして,実はこのような態度こそが,次節に述べる,a1がAを表示する(a1−A)とする観念,「能力主義U」を否定する態度なのだと考える。
 βについて。αを最初に設定しながらβを認め同時に制限するという立場,能力主義Tが単に上に述べたようなものとしてあるに過ぎないことの確認を前提として,市場の倫理を設定することができる。市場自体には手をつけない方がよい,などという根拠はない。市場の存在をむしろ認めることによって,「良い市場」を作り出す方向に向かわせることができる。これは単に市場で生ずる正当化できない不平等を再分配によって是正するということではない。双方が互いに手段として接する場合にも,それは最低限の範囲に留められねばならない。「能力主義」がそのように用いられている,少なくとも用いることのできる場面がある。「能力主義V」について検討する7節で,このことを見る。

■6 能力主義U

 配分されるものが能力によって異なる。これも一つの大きな問題であるには違いない。しかし,「能力主義」が否定的に感じられる時,それが単なる配分の問題に尽きるものではないことも確かだ。
 「能力によって人を判断する」ことが問題にされる。能力主義Tと同じではないかと言われるかもしれない。だが違う。労働を生活のための単なる手段だと考える場合にも,あるいは仕事を楽しんでやっている場合にも,その労働は「私」という存在につながっていなければならないのではない。それをつなげ,そのつながりを人々に与えること,「能力」,それによる「成果」が「人」を表示するものだとすることが能力主義Uである。
 こうした観念の成立を市場の広がりと相即するものとみる見方もあるかもしれない。労働力が商品化される世界では,人は労働する存在としてしか現れず,その結果,人=労働能力という図式が成り立つだろうというのである。しかし,これは必ずしも言えない。労働能力しか問題にならないなら,それ以上の何か,「人」が現れる必要はないからである。
 ここで私達は,3節の@に見た,「自分が作り出すものは自分のもの」という教説そのものが,単に市場が存在するということ,市場が財の流通のさせ方としてある合理性を持つという以上の,過剰な意味を産み出するものであることを確認しておかねばならない。この教説は,他の財の配分のかたちに対して,私的所有が優位におかれるべきことを言うものとして現れる。だがそれだけでなく,労働は単なる労働ではなく,それは主体から発するがゆえにその主体が領有し,その主体を表示するものだとすることで,その社会の内部の人々に対して,より多くの行為を引き出そうとする。そのために,この言説は積極的に,意図的に社会の内部に向けられて与えられたのである。
 例えばフランスに(限らないが),もう19世紀だというのに,生活するのに十分なだけを稼ぐと労働をやめてしまう労働者がいくらでもいた。これは十分に合理的な行動の様式だ。しかしより多くの労働を引き出したい人がいる。まずその者はより多くの賃金を払おうとする。しかし労働者はこれに応じない。むしろ時間あたりの取り分が多くなることによって労働量を減らすことだってある。これもまた全く合理的な行動だ。
 このような合理性を破る契機は,プロテスタントの一派,ピューリタンにおいて,二重予定説という奇妙な信仰によって既に獲得されていたものではあった。しかしそれはなんといってもこの宗派に属するごく一部の人々のことだった。この教説の広がりは,単に哲学者なりの言明というのでない,特定の宗教と関わらないより広範なかたちでは,公教育の場において,というより公教育が誕生するということそのもののうちに典型的にみてとれる。そこでは自己の能力によって自らの地位を築くことの可能性を教えること,それを肯定的な価値として受け入れることを教えることが目指されたのである。ここで公教育の場は,能力→達成という図式そのものが――どれほどの現実性を実際にもっているのかはともかく――実現される場として設定されると同時に,その図式を教える場として存在を始めるのである。それは,それほど昔のことではなく,例えばフランスであれば,19世紀後半,共和派政権による公教育の制度化の時期だった。そしてこの点では,日本もそう遅れをとったわけではない(学制の開始の時期,福沢諭吉の存在の意味などを思い浮かべればよい)。この国は十分に先進国だったのであり,例えばイギリスやフランスと比較すれば,階層・階級間の決定的な断絶――これが強固にある場合には能力主義Uはうまく作動しない――を除去できたことによって,十分に成功した国だったのである。
 その機制は今に引き継がれている。これはかなり巧妙なやり方だった。開始点においてその者の未来はわからない。この教説は個人の可能性についての言説(「やればできる」)として現れるのだが,その可能性自体は確かに否定することができない。しかもその自己,自己が目指す自己とは,予め確定されたものでないとされ,可変的なものとされる。ここまで達成すればそれでよし,終わり,という具体的な終着点は設定されていない。だから,その社会は,この場合にはこうせよ,という具合に行為規則が細かに定まっている(だけ)の社会より,可変的であり「成長」可能な社会である。そしてその方向が水路づけられれば,その社会は一定の方向に「発展」することになるだろう。だが同時に,最終的にはその結果はその個人が負わねばならない。あなたに注目し,あなたにあるものを注目させ,ある方向に仕向けながら,積極的により具体的にその性質を改変させようとし,しかも,それは結局あなたのことですよと,あなたが責任を取ることですよと言い,事実ことはそうして進んでいく。その自己は,最終的に問題が解消される場,ごみ捨て場のような場所でもある。生じた摩擦はそこに投込まれることによって,問題はそれ以上に波及していかない。個人の側からこれを見れば,この社会は個々の存在に非常に大きな負荷をかけている社会だということでもある。このような意味で,これは,個々人に大きな負荷を与える一つの信仰である。
 能力主義Uは,単に市場が存在するという事態に相即するものではなく,生産しない者を(単に役に立たない者ではなく)劣った者とし,生産する者を(単に役に立つ者ではなく)賞揚されるべき者とする(ことによってより多くの生産を人から引出す)。繰り返せば,これは市場の存在そのものに対して過剰である。この過剰な部分を取り除くことは,市場の「活力」を奪うと言う人がいるかもしれない。だがそれは「活力」を,人がそれぞれ在ることよりも大切なものだと考える時にだけ意味を持つ言明である。そのように考えないなら,この過剰なもの,過剰なものを肯定する言説,過剰なものを生産する装置を除去してしまえばよい。
 ともかく暮らしてはいける国の人々にとって,配分されるものの少なさ自体が最も大きな問題だとは考えられない。例えば,生活自体が困難な状態に置かれ続けてきたこの国の障害を持つ者達による告発にしても,その告発は十分な分配が受けられないことに対してだけではなかった。その大きな部分は,自らがおとしめられることに対する告発としてあった。例えば「リハビリテーション」や「教育」において,現実に直ったり向上したりすることが可能かどうかの判断の前に,あるいはそういう計算を度外視して,あらゆるものを犠牲にしてでも,自活と自立にできるだけ近づくことが求められることに対する告発である。
 頭がうまく働かないということは,ただうまく働かない頭があるということである。それはうまく働く頭(の生産物が)欲しい人達にとっては不便なことである。うまく働かないことによって身のまわりのことができないから,その当人にとっても,世話をせねばならない周りの人達にとっても不便なことである。これは時として随分不便なことだ。だが,それだけのことだ。そしてこの時に,その人の側に立とうとして,「それ(例えば知的能力)だけが人間の全てではない」(確かにその通りだが)と,別の評価されるべきものを探してくる必要はない。実際,その人は,何か別のものを有していることを,例えば「善良さ」を有していることを,求められてきた。それは余計なことだ。つまりa1とAを結ぶことの否定は,別のaを「評価」することを意味するのではないということである。
 そして能力主義Uを否定することは,1節Aで述べた「能力主義」を肯定する感覚と実は結びついている。この能力主義が次節で検討する「能力主義V」である。

■7 能力主義V

 同じ労働力商品としての価値を持つのであれば,民族・性別等によって雇用を拒否すべきではないとされる。また,交換において個人的心情が介在すること,例えば縁故採用,世襲といった家族的な関係の介在が禁止はされないにせよ非難され,それがなされる場合には言い訳がなされる。どこまでを問題にすべきか許容すべきか見解が分れ,実際にもこの原則が十分に遵守されているとは言えないにしても,ともかくこの原則はある。
 この,能力以外の部分を評価の対象にしてはならないという原則――これを「能力主義V」と呼ぶことにする――は申し分なく「近代的」な原則であるかのように思われる。「身分から達成へ」というわけである。しかし,この原則は,所有・契約という原則からは決して導くことができない。例えば,雇用主が職を求めて応募してきたある者(どこか,例えば容貌,人種,…)が嫌いだということがある。自己決定・契約の原則から言えば,とにかく,一方が他方を嫌いなのだから,雇用しなくても不当なところは何もないということになる。AとBが相対し,双方のa・bを評価し合って契約が行われたり行われなかったりする。この時,a・bが何であるかは予め定義されてはおらず,AとBによって評価の対象は決定されるのである。つまり,雇用主Aは,Bが,仕事ができる(できない)からではなく,自分と同じ属性を有しているから(有していないから)雇う(雇わない)かもしれない。それも確かにAが評価するBのbなのである。
 つまり,雇用に関する性別・人種・民族等々の属性による差別を認めないとする時,私達が認めているのは,自己決定・契約・市場そのものではない。これは,全く自明のことなのだが,そうはっきり認識されているように思われない。このような意味での「能力主義」を肯定する者は実は「自由主義者」ではありえない。ここで能力主義Vは,「自由な契約」を制約するものとして働く。すなわち,能力主義Vとは,Aのaを求めるという単純なことではなく,自然としての市場の自然をそのまま認めるということではなく,むしろこれを制約し限定するものなのだと考えることができるのである。そのような抑止の働きはどこから来るのか,そういう抑止の機能を果たす能力主義とは何なのか,これが問題であり,そして次に,結局私達はそれをどのように評価するのかが問題なのである。なぜ「能力」の場合には認めるのに,「民族」「性別」によっては差別してはならないのか。どちらも同じく,ある人を雇用するあるいはしない人にとっては,その選好を規定するような要因なのに。これらによる制限を肯定する感覚のもとにあるのは何だろうか。
 @:「能力」は主体によって作られる,獲得されるものだが,「属性」は既にあって動かせないものだからか。問題なのか。能力主義Tを正当化しようとする教説(→3節@),能力主義Uから帰結するのはこういう区分だろう。しかし,例えば,ある頭脳労働が高く買われる。だが,その知的能力のどれだけを彼自身が作りあげたのか。また,頭がもともと悪い者の知的労働は買われない。また,「能力」以外のものだって変更することは不可能ではない。例えば,彼は生活のために彼の思想・信条を取り下げることもできるかもしれない,髭を剃り落とすことができるかもしれない。
 A:労働能力こそが大切なものだという感覚だろうか。そういう言い方もされることがある。労働能力こそがその者の本質であるとする能力主義Uからはそうなる。しかし,それは違う。買う側にとって,相手の何が大切なものであるかは様々であり,それを一義的に決めることはできない。労働能力こそが人を評価する第一の基準であるという根拠はない。
 B有効性・効率性が基準になるだろうか。これもよく言われる。例えば,労働能力によって人を採用しないことはその企業にとっての競争力の低下,業績の悪化を招くと言うのである。能力主義の機能主義的な正当化をはかる(というより能力主義の機能性を指摘する)者(→3節A)はこういうことを言うだろう。実際その通りのこともある(人事の担当者が自分の好みの容貌の者だけを採用していたらその会社はつぶれるかもしれない)。しかし,Aと同じく,人にとって有用なことは様々でありうる。例えば当の事業主は,生産効率を最大化することよりも自分の気にいった者達をまわりに置くことの方を優先するかもしれない。そしてそれが,少なくともその個別の場合には生産に大した実害を与えないということは多いにありうる。また,生産性があまり求められない業種(例えば大学業)は,あまり労働者の生産性を気にしないだろう。
 能力主義Vが擁護されるのは以上のような理由によってではない。@は説明として成功していないし,5節で私が述べたのはむしろ@とは逆の立場だった。A・B,大切さや有効性を置く時には,能力主義以外のものを引き込むこともありうる。能力主義Vを擁護すべきだと考えるのは,能力こそが積極的に評価されるべきものだと考えているからではないし,能力に応じた評価方法を行わないことが当該の集団の業績・達成に悪影響を与えるからでもない。積極的に能力主義Tを肯定しているから,能力主義Vを採用するというのではない。
 5節で,私達が他者から受け取るものの基本的な部分は,他者が私ではないことから来るのだと述べた。他者にあるものを手段として扱う――それは人の生にとっての必要条件である――ことのできるのは,それがその他者にとって手段として切り放すことがことができる場合だと述べた。ゆえに,制御の対象として評価するとしたら(制御しようとすることと評価することは相伴っている)そういうものしか評価すべきではない。それ以外のものを,とりわけ雇用といった人の生がそれによって成り立つような場において,評価・選別の対象とすることは,他者が他者として在ることを奪ってしまう。単なる(しかし必要不可欠な)部分的な関係が拡張されることによって,その場に巻き込まれ,「同じ」ことを強いられてしまう。それらは,排除しようとする悪意によることもあろうが,同じ者を受入れようとする善意に発していることも多いだろう。動機がいずれであっても,単なる機能集団は,その機能が人にとって重要な意味を持てば持つだけ,単なる機能集団でなくてはならない。このように能力主義Vは擁護される。つまり,5節に述べたものによって擁護される能力主義Vとは,最低限その者の必要に関わる部分以外については他者を評価し選別してはならないという倫理を示しているのである。

図6:略

  ※  A→a1  :Aの手段として制御されるものa1は
    a1→ ; a1←:分配の対象になる
    a1← →b1 :交換の対象になる…[能力主義T]

  ※[能力主義Uの否定]
     A→a1  :Aの手段として制御されるものa1は
     A…a1  :AがAであることと関わらない

  ※[能力主義V]
     A…a2  :Aの手段・制御の対象にならないものa2は
     B…a2  :Bの評価/制御の対象にしてはならない

 能力主義Vはこれまで排除されていたかなりの部分の人の労働の場への算入を可能にする。むろん,何を評価し何を評価しないのかの判断を,評価する側(例えば雇用主)にまかせることはできない。能力主義Vは強制力によって維持されねばならならず,いくらでも曖昧に処理することもできるこの評価・選別の過程が明示化されるような仕組みが必要なのである。
 例えば,ADAという法律はその方法を設定している。この法律は,一つに,障害を持つ人を雇用することによるコストを個々の事業主に負わせるのは個々の場面では雇用主にとって損失だが,全体的・長期的には利益をもたらすとするコスト計算(あの国ではすぐにこういう計算が行われる,そしてこの計算はおそらく正しい)によっている(→B)。また,一つに,これもいかにもアメリカ的な,労働と労働による社会貢献(例えば税金を払うこと)を第一におく価値観によっている(→@A)。ゆえに,これが,全ての者が「自立」できるのだ(すべきなのだ)という幻想を強化する可能性はある。しかし,そのことを踏まえ,こうした法律が結局のところ問題の全体を解決するものではないということをはっきりと踏まえるのであれば,とりわけ私達が住んでいるような国,つまり不合理な理由で人々が排除され,しかもその排除の事実を明らかにしないような国で,このような差別禁止立法の意味は大きい。
 差別禁止立法,その一つの具体例としてのADAについては別論文で主題的に検討する。

■8 おわりに

 1節の@〜Bの私の疑問に対してのひとまずの回答がなされた。本稿では考えるべき具体的な諸課題,何を選択すべきか争点になっている諸問題についての考察に入ることはできなかった。述べたことをさらに明確なものにしながら,また新たに考えるべき論点を加えながら,いくつかの主題をこれから考えていこうと思う。
 例えば,1節Aであげた,「頭を借りたい人」に対してどう答えることになるのか。この問いがさらに考えるべきことを示している。「仕事」の場面に限ると,次のようなことになる。
 分配と交換の二元的なシステムを取るのだから,生産の場に参加できないことによる生活上の問題は,再配分の機構を整備し,各自が生活の資を十分に受け取れるようにすれば,それでよいではないかと言えるか。言えない。まずそれでは生産・配分機構の効率性が低くなってしまうだろうが,それだけではない。単純なことで,生産の場から人を排除するからである。全ての者が生産に向かおうと思っているはずだと考える必要はない。しかし,少なくともそうした関係の中に入ること,自分が何かを生産することを求めている人はいる。それを,単に人は働くべきであるという観念が植込まれているのだという具合に考えるべきではない。とすれば,機会は開かれているべきである。
 けれども,少なくとも頭だけを評価するところには,頭も貸りて参加することはできない。頭を借りて頭を使う仕事をする人を雇わないのは,それだったらその頭を貸した人を雇えばよいからである(2節)。それでも雇わなければならないとは言わなかった。
 けれどその結果,その人が何も得られないことにどんな正当性もない(2節)。財の配分が指示される(3節)。だが参加は確かに奪われる。しかし考えてみよう。ここで頭を借りる時,その場に「仕事をする」という形で参加することの意味は既に失われている。この時その人にとっての参加する意味は,人がいて,活動している場への参加,その場にいること自体である。だから,考えるべきは,そのことがどのようにしたら可能なのかということである。とすると,次に私達は,職場という場所,「地域」という場所,それらの間の関係のあり方がどのようにあったらよいのかを考えていかねばならないことになる。
 では「教育」の場面ではどうか。人間性の評価などという途方もないことを言わず,「知育」に限定した方がすっきりするかもしれない(これは評価基準の多様化と矛盾しない)。学校が大きな権力を持っている現状で,これは可能な一つの選択肢である。だがそう単純ではない。まず選別する必要があるのかという問題があり,そして学校は,現実には,知識の「伝授」の場であるより(であるととともに)子供達・若者達が「いる」場としてあるのだから。とするとどう考えたらよいのか。
 さらに「アファーマティブ・アクション」,「保護就労」等々について。以上の私の論がこれらを否定するものだといった誤解はないと思うが,いくつかの論点を加えて考察したい。
 そして本稿ではごくごく一般的に述べてきたに過ぎない,何を評価の対象とすべきなのか/すべきでないのかという問題を具体的に考える作業も残されている。例えば,容姿のよしあしで職員を採用することは(たとえその会社の人間達がそういう選好を持っていたとしても)認められない。では,容姿そのものが問題になるような職種の場合はどうか,等。

■注

1) 障害を持つ人達の社会運動について調査したりものを書いたりしてきた(安積他[1990],立岩[1992-])からというわけではない。むしろそうした気掛かりはそれらの調査・研究に先行している。
 例えば,真木[1971][1977]といった著作に結実していった思考・思潮にどのように対するのかを考えることが課題だったのであり,それらの著者の読者は,直接にはそれらを論じてはいない本稿から,このことを理解されるだろうと思う。
 立岩[1986][1987]でも,基本的には「能力主義」「私的所有」を巡る考察が行われた。以下に述べるある部分は,以前短い文章(立岩[1991])で記したことと重なるが,その後の考察を含めて新たに今のところの考えを提出しようと思う。
 なお,本稿は,3つの大学での講義(本稿で詳しく触れなかった部分を含めると 1.5時間×8〜10回分に相当する)用の資料として作成し配付もした文章をもとにしている。10月末に投稿された本稿のもとになった原稿に対し,福岡安則・鐘ケ江晴彦・石川准の3氏からコメントをいただきそれを踏まえてかなりの分量の改稿を行なった。その過程では,講義では口頭で説明した部分や黒板を使って説明した部分も一定とりいれた。最初の原稿の難点は,文章そのものの不出来とともに,本論文の主旨に反して「わかっている」だろうという前提にもたれかかりすぎていたことにあったと思う。いくらかでもわかりいいものになったとすれば,評者からの御指摘によるところが大きい。評者に感謝する。本稿もまた講義のための使用されるだろうと思う。今さらあげるまでもない,社会学の基礎文献(やその価格まで)がいくつかあがっているのはそうした事情にもよる。
2) ここで能力とは,他者,とりわけ市場において求められ,評価される能力のことである。また能力そのものがどこかに目に見えるものとして存在するというのではない。目に見えるものとしては,行為としてなされた,あるいはなされなかったという事実があるだけであり,行為したあるいはしなかった者の内側に想定されるその事実を帰結する要因が能力と言われるものである。
3) 邦訳が斎藤訳[1991]他いくつかある。
4) 「頭も借りてしまえばいいではないか」。学校の試験のことに即してだったと思うが,この問いかけを私は北村小夜(北村[1987]等の著書がある)から聞いた。
5) 花田[1991→1991]等。
6) 社会科学的な考察の大きな部分が,私にとっては基本的と思われる問題領域から離れていったのに対して,倫理学や法哲学では,一つにはその学問領域が正義や平等という主題から逃れられないために,この主題は,例えば「自由主義」をどう評価するかといった問題として残っているのだが,それでもよく考えられたものはそうたくさんはない。たくさんはない中の一つとして大庭[1990]をあげる。関係,共働としてある関係の中で,個人の貢献分が取り出されることについて考察がなされている。
7) 立岩[1986][1987]。
8) 不当性を告発するに際しての,告発されるべき当の者を特定しようとするに際しての論理的な詰めの甘さは,例えば家族や性差別に関わる問題などを論じる際にも認められる。これに対する私自身の準備的な作業として立岩[1992c][1994a]。
9) ただ,この場合,少なくともこの制度の内部にいる人は別段主義主張で動いているわけではない。だから,その意味では「主義」という語を使うのは適切でないかもしれないのだが,本稿では通常の用語法に従う。
10) 立岩[1993c]。(またこれらに関わる歴史的言説・実践をある程度集めて少し整理しただけのものなら,立岩[1985]がある。)
11) 例えば見田[1972→1979]がはっきりとこのことを指摘している。
12) 社会階層の機能主義的な正当化を意図するDavis & Moore[1945]等。
13) 以下の論点も立岩[1993c]とかなり重複している。併せて見ていただけるとありがたい。なお,この論文は,立岩[1993a][1993b][1993d]と合せて一つの主張を構成している。それらで私は,身体を(同意のもとに)譲渡することに対する抵抗はどのように記述されうるのかという問いについて考えた。また,本節でαとして述べたことを最初に提示したのは,出生前診断・選択的中絶について考察した立岩[1992a:191-197]でである。
14) ここで,自らが自らを利用するのと他者を利用することの間に基本的な差異はない。私的所有自体が根拠づけられない以上,自らのものと他者のものという境界が予め与えられているわけではないからである。
15) 実際にそうなっているかというと,これは怪しい。しかしそれは教育という場が「消費者主権」が作動しない特殊な場であることによる。また,医療という場もそうである。このことが果たして全面的に否定されるべきかどうかということも含めて,考えてみる必要がある。(私自身は,現状よりずっと消費者の権利が尊重されてよいと考えているが,全てをこの方向で考えるべきではないと考えている。)
16) 当の者の自発的な贈与として行われるとしても,自らが自らのもとにあるものを他者の「ために」譲渡するのであるから,この時自らのもとにあるものは,その目的のための手段としてある。全てを手段としてはならないというのであれば,他者のために自らのもとにあるものを手段として贈与してもならないことになる。
17) 3節でも述べたように,市場が成立していることと個々人の欲求の関数のあり方は原理的には独立である。市場があるということは,欲求のあり方を特定するものではない。その中の個々人は所謂「利他」的な動機によって行動することを禁じられてはいない。したがって,非能力主義的な制度を先取し,全域的に能力主義を廃絶することを求めるのでなく,能力主義によって構成されない,あるいはその度合いの少ない空間を例えば身のまわりに作ろうとするなら,それは可能である。(市場では苛酷な競争原理が働くと言うかもしれない。しかし,競争は,結局のところ,消費者がものを安く買おうとすることによっている。この部分が変われば変わる。無論,これだけを言って終わらせるわけにはいかない。というのも,市場には不透明性があるからである。つまり,買い手は作り手が誰であるか,作る過程がどのようなものであるかを知ることができない。この時に,どうしても,買い手はその商品の質/価格だけに注目することになるだろう。しかし,これにしてもどうしても解決できない問題ではない。もしそれが問題なら,その作り手,作り手のあり方を知らす手立てがあるはずなのである。そしてこの間接性という問題自体は,市場の存在に起因することではなく,高度な分業系には一般に現れてくることである。)
 ただ,自発的な贈与が社会の必要な領域を覆うことを見込めないと考える時,私達は再分配を制度として求めることになるのである。
18) つまり,αは,「わかりあう」ことによって問題が解決され,人が仲良くやっていけるような社会を構想する立場とは別の立場に立つ。私はあなたを全面的に理解することを不可能だと,そのような関係が社会のすみずみを覆うことなどあるはずがないと,そして(少なくともそのような気になることを)危険だと,考えるのだ。
 そんなわかり方は本当のわかり方ではないと言うかもしれない。しかし本当にわかるとはどういうことか。それがわからないのだとαは言う。「わかる」という契機がないのではない。ただ,ここで「わかる」とは,他者のなにかがわかることではなく,他者がいることがわかるということである。だから,αは,他者に何かの内容を認めることではない。つまり,その者が,例えば労働力商品として現れる以外の何か充実した内容を有しており,それが理解されることによって他者であると認められるのではない。
 「わること」「同じであること」による他者の破壊,それを人は本当になくことはできないのか。良いわかり方なら,本当に同じであることがわかるなら,人々はもっと幸福になされるのか。それはわからない。しかし,わかること,同じと思うことによる抑圧は実際によくあることではある。ただ,確かなのは,他者を意のままにすることを欲望しながらも,他者性の破壊を抑制しようとする感覚があることである。この欲望を消すことは無理だと思いながら,しかし抑制しようとする時に,ここに述べたような主張の仕方になる。わかること,同じことの全てを否定したいのではない。ただ,「関係の透明性」,等々から出発し発想することが正しいのか,ことに十分な注意を払われずにそのように考えることが正しいのか,そのように思っている。
19) これは行為,生産に対する個々人の意味付与を無意味なものと考えるということでは全くない。生産に携わる人がその行為自体から何かを得ることがあるということと,生産物そのものがその者によって排他的に所有されるべきであるということとは独立のことである。
20) 既にある原理をもってくればそれで済んだのではないか。そう思う人がいるだろうと思う。実際,本節に述べたことは私達の社会にあるいくつかの原理と重なる部分を持っている。例えば「生存権」は含まれる。ただ,私達は生存をだけ支持しているわけではないだろう。例えば,様々な生活の様式もまた擁護されるべきだと考える人がいるだろう(私もそう考える)。他方で,その人は財の(再)分配も支持されてよいと思う(すなわち,あるものについてはその者の所有権を認めないことを認めてよいと思う)かもしれない(私もそう思う)。とすると,このまだら模様はどういうことか。これは認めるのがこれは認めないという以上のことを言おうとすれば,どう言っていったらよいのか。また,本節で言ったことは「自己決定の尊重」ともかなりの部分重なる。しかし自己決定を真面目にとれば,かなりのもの,性・生殖・生命…の譲渡・交換が許容されることになる。「自己決定権」を置くだけでは,禁止すべきかどうかは別にしても,まず譲渡・交換に対する抵抗があることを説明することができない(注13にあげた文献を参照のこと)。このようなところから考えは始まっており,ゆえに,まだまだ精練されていないものではあるが,既にあるものとは別のものを持ってこざるを得ないことになった。自己決定=自立生活という了解(の限界と意義)については,立岩[1994c]でも検討する。
21) 立岩[1986][1987]で「主体化」と述べたものに対応する。
22) 今さらあげる必要もないが,Weber[1904/1905]。
23) Durkheim[1897]の言う「アノミー」が,規範の解体というより,むしろ,このように新たに編成された規範に起因するものと考えられると桜井[1984]が述べている。桜井の歴史記述の部分も参照されたい。
24) 例えばWillis[1977]が記述するように,確固とした労働者階級独自の規範が存在する場合には,学校を通して単一で全域的な能力主義Uを貫徹させるのは難しい。
25) 安積他[1990](の中の岡原・立岩[1990],等),出生前診断・選択的中絶について検討した立岩[1992a][1992b]を参照のこと。
26) さらに,能力主義を採用した方が生産的であると必ずしも言えないかもしれない。「全人格的な包摂」が「奉公」を可能にするのだとすれば,場合によっては,能力主義を採用しないことの方が有利であることさえあるかもしれない。少なくとも私達の住む国はかなり長い間こういう形を取入れてきて「成功」を収めてきた。
 とすると,私達の住む国で行われてきたことを,能力主義U(これも個人の背後に家や地縁が控えている場合には,純粋なかたちで存在したのではないということになろうが,効果としては同じものをもたらす)と,能力主義Vの肯定と否定との混合,との混合として把握する必要があるだろう。これは個人を駆り出しその労働を引き出すとともに,場合によっては,それを隠して過酷さをある程度回避しつつ,「一体」という回路を通して同じく労働を引き出す,それを使い分け組合わせるかなり巧妙な仕掛けである。
27) 売買春について立岩[1994b]で考察している。

■文献

安積 純子・岡原 正幸・尾中 文哉・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店,2500円
Davis, Kingsley & Moore, Wilbert E. 1945 ・Some Principles of Strati-fication", American Sociological Review10-2:242-249
Durkheim, Emile 1897 Le suicide : Etudes de sociologie=宮島喬訳『自殺論』,中公文庫,820円
花田 春兆 1991 「ADAやぶにらみ」 『リハビリテーション』331(1991-02):22-26→八代・冨安編[1991:122-130]
北村 小夜 1987 『一緒がいいならなぜ分けた――特殊学級の中から』,現代書館,1500円
真木 悠介 1971 『人間解放の理論のために』,筑摩書房,1340円
――――― 1977 『現代社会の存立構造』,筑摩書房,1540円
見田 宗介 1972 「価値空間と行動決定」,『思想』→1979『現代社会の社会意識』:209-241,弘文堂,1340円
大庭 健  1990 「平等の正当化」,『現代哲学の冒険3 差別』:227-313,岩波書店
岡原 正幸・立岩 真也 1990 「自立の技法」,安積純子他[1990:147-164]
斎藤 明子 訳 1991 『アメリカ障害者法』,現代書館,1030円
桜井 哲夫 1984 『「近代」の意味――制度としての学校・工場』,日本放送出版協会,NHKブックス470,1600円
立岩 真也 1985 「主体の系譜」,東京大学大学院社会科学研究科修士論文
――――― 1986 「制度の部品としての内部」,『ソシオロゴス』10:38-51
――――― 1987 「個体への政治」,『ソシオロゴス』11:148-163
――――― 1991 「どのように障害者差別に抗するか」,『仏教』15(特集:差別):121-130
――――― 1992a 「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」,江原由美子編『フェミニズムの主張』:167-202,勁草書房,2781円
――――― 1992b 「出生前診断・選択的中絶に対する批判は何を批判するか」,生命倫理研究会生殖技術研究チーム『出生前診断を考える』:95-112
――――― 1992c 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」, 『社会学評論』42-2:30-44
――――― 1992- 「自立生活運動の現在」,『季刊福祉労働』55から連載
――――― 1993a 「生殖技術論・2――自己決定の条件」,『年報社会学論集』6:107-118
――――― 1993b 「生殖技術論・4――決定しない決定」,『ソシオロゴス』17:110-122
――――― 1993c 「身体の私的所有について」,『現代思想』21-12:263-271
――――― 1993d 「生殖技術論・3――公平という視点」,『Sociology Today』4:4-51
――――― 1994a 「妻の家事労働に夫はいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」,『人文研究』 (千葉大学文学部紀要)23
――――― 1994b 「何が性の商品化に抵抗するか」,江原由美子編『<性の商品化>をめぐって』(仮題),勁草書房
――――― 1994c 「自己決定がなんぼのものか」(仮題),『ノーマライゼーション研究』2
Weber, Max 1904/1905 Die protestantische Ethik und der 》Geist《 desKapitalismus=梶山力・大塚久雄訳,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,岩波文庫,720円
Willis, Paul1977 Learning to Labour : How Working Class Kids Get Working Class Jobs=1985 熊沢誠・山田潤訳,『ハマータウンの野郎ども』,筑摩書房
八代 英太・冨安 芳和 編 1991 『ADAの衝撃――障害をもつアメリカ人法』,学苑社,2800円
                    (たていわ・しんや/千葉大学助手)

 ※『解放社会学研究』8に投稿(1993.10末)/改稿→再提出(1994.01末)


REV: 20161031, 20180105, 06
立岩 真也
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