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妻の家事労働に夫はいくら払うか

――家族/市場/国家の境界を考察するための準備――

立岩 真也 1994.3
『人文研究』23号(千葉大学文学部紀要)pp.63-121 220枚


◇この時に考えたことを引き継いだ連載を2005年から『現代思想』で始めています。そちらの方をお読みいただければと思います。
◇これはこれとしてひとまず本に収録されるということになるかもしれません(2010)
 ↓
 収録されました。お買い求めください。
◆立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ w02,f04


目次


■1 主題の設定
 □1−1 不払い労働という主張
 □1−2 問いの範囲
 □1−3 夫が支払うということ
■2 夫は妻にいくら払うか:通常の場合
 □2−1 夫に対する労働に対して
  2−1−1 妻は夫に要求できる
  2−1−2 だがそうたくさんは受け取れない
  2−1−3 関係の売却
 □2−2 子に対する労働に対して
  2−2−1 自己決定・自己責任
  2−2−2 子供から親に
  2−2−3 夫による支払い

■3 夫は妻にいくら払うか:その他の論理
 □3−1 A:機会費用という論理
 □3−2 B:市場価格以外での算定方法
 □3−3 C:共働・共有
 □3−4 行為の外部化
 □3−5 歴史
 □3−6 問いは解かれていない

■4 専業主婦という存在
 □4−1 市場は利益を得ていない/男性労働者は利益を得ている
 □4−2 家族内での合算
 □4−3 顕示的消費としての専業主婦の存在
 □4−4 支配/従属→従属による従属

■5 家族という境界
 □5−1 市場/国家による支払い
 □5−2 家族に行為を担わせることによる利益はない
 □5−3 家族という境界設定

■6 結語



■注

★01 「とデルフィは言う」と続く(→Delphy[1984])。以下、本稿でも他に何人かの欧米のフェミニストの発言が引かれるが、多くは上野の引用そのままの孫引きである。上野による理解の妥当性についての判断は行わない(行えない)。
★02 立岩[1994c]、また立岩[1991][1992]。
★03 この作業は、立岩[1991]を経て立岩[1992]で開始された。なお本稿の2、4にあたる部分の骨子は、1992年6月に「専業主婦は再生産に関わる不払い労働者であるより誇示的消費の対象である――ただし夫婦の間の場合」という題で書かれ雑誌に投稿されたが、審査員とのやりとりの中で所定の枚数に収められないことが明らかになり、投稿を取り下げた。さらに加筆された草稿は『WORKS』と題する私家版の講義用資料集に収録された(本稿では本格的な記述をしなかった4、5に関わる草稿も収録されており、希望する方には差し上げる)。さらに、1993年6月の関東社会学会、同年10月の日本社会学会で本稿の内容の一部(2、4、5――4、5については本稿で省略した部分を含む)の概略を報告した。かなりの分量を短い時間に圧縮した報告だったので、参加者の理解を得にくかったと思う。本稿によってこれを補えればと思う。
★04 関連する同じ著者の文章として上野[1982a][1982b][1985]があり、これらには上野[1990]に重なりその読解を助ける部分とともに、いくつかの点で無視しえない主張点の違いも見い出されるのだが、そうした比較・対照の作業はここでは行なわない。
 上野[1990]に対する論評のリストは金井[1992:239-241]に掲載されている。フェミニズムからの評価は批判的なものも多かった。本来ならそれらにも言及しながら論を進めていくべきだろうが、本稿では行うことができない。一つには単に煩雑になるからだが、それだけではない。一つに、ここでの内容自体を検討し、別の論を対置するといったものが多くなかったことによる。一つに、特に「二元論」に対する反論には、上野自身の論よりさらに論証されるべきことが論証されないままのものが多かったからである。
 他方、フェミニズムの「外」からの評価は、比較的肯定的だったのではないか。例えば、「高齢化社会」について経済学の立場から堅実な議論を行なう宮島[1992]、平等について徹底的な考察を行なう大庭[1990]等に見られる、内容の検討を行なわないままの肯定のあり様は、いったいどうしたことだろうか。
★05 同じ著者が8年前に「家事労働有償化論が答えなければならなかったもう一つの課題は、家事労働が有償であるとして、金銭的報酬をどこから引き出すのか、という問いである――家事労働の受益当事者である子どもや老人からか、それとも夫からか…、企業からか…、国家からか…。報酬源がいずれの場合も、解決しなければならない困難な課題がある」(上野[1982b:253])と述べている。
★06 だからここで検討する範囲では、私も「われわれが闘っていかなければならないのは、退屈で息の長い「正気」の闘いである」(上野[1992:106])という認識を共有する。
★07 当初、家族内での分配のあり方として検討していたのは、2の範囲だった。3を加えるにあたっては、日本社会学会大会での私の報告(→注3)に対する上野の質問と当日のその後の対話によるところが大きい。この点で私は上野に感謝せねばならない。
★08 NHK『国民生活時間調査』(1985年、全国10歳以上の国民5797人から20歳以上の既婚者3502人について集計)から作成された表(井上・江原編[1991:171])によれば、家事労働時間の平均は、非共稼ぎ夫婦の場合、妻が平日7時間23分、夫は28分(行為者率36%で、行為者だけの平均は1時間19分)、夫婦共稼ぎの場合、妻が平日4時間19分、夫は22分(行為者率33%で、行為者だけの平均は1時間08分)。また同じ調査から30歳代の生活時間をまとめた表が経済企画庁編[1992:79]にあり、それによると家事時間は専業主婦平日8時間44分・日曜7時間1分、共働き(フルタイム)の主婦平日3時間45分・日曜5時間45分、共働き(パートタイム)の主婦平日5時間12分・日曜6時間12分。
★09 東京都民の「生活費調査」(『都民の暮らしむき』)や各種データをもとに1989年の物価水準で算出したもの。桝潟[1991:136ー138]に紹介されている。なお経済企画庁編[1992:128-130]では、全て幼稚園から大学まで公立の場合の教育費(学費)543万円、小学校のみ公立でそれ以外私立の場合1057万円(大学生活費を加えた場合、公立自宅〜市立下宿、714万円〜1057万円)となっている。
★10 他に、結婚総費用768万5千円のうち、親の援助額が40.3%の309万9千円などという数字もある(1991年の三和銀行の調査、経済企画庁編[1992:130])。
★11 総時間を求めるのに、育児にかける時間とされる一日あたりの時間(NHKの調査(→注8)では「子どもの世話」は非共働きの妻で行為者(行為者率44%)平日2時間22分、共稼ぎの妻で行為者(行為者率26%)平均1時間21分(井上・江原編[1991:171]に採録)をそのまま積算することはできないだろう。今回は、結局適切なデータを探し出すことができず、ひとまず、直井編[1989]に掲載されている、A末子未就学、B末子小学生、C末子中高生以上、D同居子なしの場の家事時間のデータを用い、2年を隔てて2人の子が生まれるものとし、AからDを差し引いた時間を8年間、B−Dを6年間、C−Dを6年間積算し集計した。
★12 上野は先の引用BCの後、教育費の負担のために母親が働いていると述べる。これは、現実の大勢として確かにその通りである。しかし、第一に、そうではない(今や少数派の)妻・母親についてはどういうことになるのか。この点についての言及はない。そして上野は、この事実を指摘した後、「したがって、子供を育てる第一次社会化にかかる現物費用も、第二次社会化にかかる貨幣費用も、結局母親が負担していることになる」(上野[1990:99])と続ける。妻・母が負担しているのは確かだが、妻・母が全てを負担しており、夫は負担していないという主張なら違う。金額としてそうなる場合はあろうし、実際そうした意識のもとに働きに出ている場合もあろう(多いだろう)。しかし、このことをもって夫は子に対する負担をしていないとは言えない。妻の分が子供のために使われ、夫の分がそれ以外のために使われたとは、夫の稼ぎからだけ子供に対する支出が行われ、妻の稼ぎはそれ以外のところにまわったというのと同じように主張できないからである。
★13 1960年代にJ.Mincer、G.S.Beckerらによって開始された家族の経済機能に関する研究の中に登場したものである(→Becker[1981])。これを紹介し、分析に使っている文献として、宮島[1992:106-108]、島田・清家[1993:126-128]、八代[1993]。
★14 例えば出生率を回復させようという目的のもとで、その妻あるいは夫婦の計算を考慮し、そのコストを軽減することによって子を持たせるために、(例えば国家が)一定の給付を行うことがありうる。しかしこれはこうした目的が設定される限りのことであって、それを給付すべきであるという論理はここにはない。しかも給付されるのは、機会費用の全額ではない。子を持つことによる利得が計算に入れられるからであり、具体的には目的とされる出生率が得られる金額である(→5−1)。
★15 江原・長谷川他[1989:161]に採録されている。別のデータを見よう。1991年度の総実労働時間(30人以上の規模の事業所、全産業平均)は2008時間だと言う(経済企画庁編[1992:244-246,444]、労働省「毎月勤労統計調査」より)。他方、妻の年間の家事労働時間が1週間55.6時間(無職主婦の場合、専業主婦・無職主婦の全体の平均は43.2時間)で、年2891時間(主婦全体の平均では2246時間)になる(直井編[1989])。この限りでは確かに妻が多い。だが、いくらかは家事労働をしているらしい専業主婦の夫の労働時間は1時間余りであり(→注11)、この全体の約3分の1程の人達についてはこれを加えれば(そして仮にその分専業主婦の負担が軽くなっているのだとすれば)、 700時間程の差はなくなり、絶対時間はそう変わらない。このような人達はわずかで、あまり考える必要はないかもしれない。それでもたった1時間の家事負担で計算はひっくり返ってしまうことがあるということである。そして、上の年間労働時間の中に入っていない労働時間が(少なくとも人によっては)かなりある。また通勤時間として例えば1日2時間〜3時間、年に500〜750時間ほどを加算すれば(さらにその他の仕事に出ることによって自由にならない時間を加算すれば)、そう変わらないか、場合によっては夫の負担の方が大きい。
★16 以上で述べたことを確認した上で、例えば上野の論議に感心している上原[1992]の計算を検討してみるとよい。そこではまず「兼業主婦」についての計算となっている。その場合には計算がかなり変わってくる(女性の負担・受け取り分の方が多くなる)のは確かである。私はこのことを否定したいのではない。ただこの違いを置いても、上原の換算の仕方にいくつかの問題を見いだすことができる。
★17 これに関連する議論として小倉・大橋編[1991]。私自身の立場は「能力主義」について検討した立岩[1994a]で述べた。
★18 夫婦財産制のあり方については法学界で論議が続けられている。新民法は別産制をとった。これは妻の財産的地位の独立性を認めるものと評価されたが、性別分業を背景とする場合にはかえって女性の従属的地位を固定化するものとして共有財産制にすべきだとする主張がなされ、別産制か共有財産性かという論議が続いている。また民法 768条は離婚にあたっての財産分与について具体的な基準を設定していないが、「婚姻及び離婚制度の見直し論議に関する中間報告(論点整理)」(1992年12月、法務省民事局参事官室、『ジュリスト』1015号(1993年)・日本婦人団体連合会編[1993:248-256]等に収録)の768条についての意見bは「財産形成に対する夫婦双方の寄与度を考慮すべきことを明示し、その割合は原則として二分の一とすべきである」としている(これを巡る議論として『ジュリスト』1019号(1993年)の特集、等)。(以上について金城[1991:244-253]等、金城自身はCの論拠によって、「共有財産制」「公平分割」を支持している。)
★19 「市場化」(いわゆる「社会化」の場合もその行為は労働市場から供給される)については批判的な論議(すなわち現状を擁護する議論)がむしろ多いかもしれない。しかしその多くは十分説得的ではない。ただ、商品化に対する抵抗感自体は、さらに検討されるべき課題である。「生殖技術」を巡って書かれた立岩[1993a][1993d][1993b][1993c]、「性の商品化」について論じた立岩[1993b]を参照のこと。
★20 落合・落合[1991]の結論とほぼ同じことを言いたいのだが、あの論議については、縦軸=「市場において購入される財・サーヴィスの量」、横軸=「家事労働の量」の「家族再生産関数」の線が原点に向かって凸型の曲線であるとする時、ほとんど結論は出たも同じではないかという素朴な疑問を抱いている。そして、私達は「誰の利益にもならない」のになぜあるのか、「その次」を考えてみようとする。
★21 「…「主婦」の行なうすべての労働が「家事労働」だというわけではない。梅棹忠夫氏が第一次主婦論争の中で鋭く指摘したように、「主婦」の行なう労働の中には、編み物やパンづくりのような趣味的な水増し労働――梅棹氏の言葉によれば「擬装労働」[梅棹、1959]――が含まれる。その他にも、床柱を磨き上げること、玄関に花を活けること、などは、「主婦」身分が成立したのちに、その身分に付随して生まれた労働である。「主婦」身分が大衆化する以前には、人々はそうじ、せんたく、炊事のどの局面をとってみても、そんなに水準の高い日常生活を営んでいるわけではなかった。「主婦」が誕生してから、それにともなう高水準の「家事労働」が発明され、そのためにかえってそのレベルの暮らしを維持するには「主婦」が家庭に不可欠になっていった。」(上野[1990:40-41])文中の梅原の文献は梅原[1959a](→注28)
★22 「『家父長制と資本制』において展開されている上野氏の最大の問題は、上野氏が「不払い労働」という概念を「お金をもらわない労働」(無償労働)という意味と、「搾取された労働」という、二つの異なる意味で使用しているにも拘らず、「家事労働」=「不払い労働」=「搾取された労働」とおくことで、あたかも「家事労働」が不当に「搾取された労働」であることを論証しえたかのように主張していることにある。」(江原[1992:102])
★23 「母性イデオロギーは、再生産費用負担にひきあう、いやそれ以上の無形の報酬があることを説得するけれども、もはや文化のイデオロギー装置のトリックにはひっかからないほど、彼らは現実をよく知っている。文化のイデオロギー装置が効かなくなってはじめて、再生産という行為が、「人間の自然」でもなんでもなく、文化のたくらみの結果だったということがわかってくる。異性愛や母性イデオロギーなどの文化の装置が、あのてこのてで人々を再生産へ強制するからこそ、人々は再生産を行ってきたのである。」(上野[1990:250])。次の注の言明とどう折合いがつくのだろうか。
★24 「たとえば子育ては、ほんとうに「再生産労働」と言えるようなものだろうか? それは何ものかを「再生産」するための「労働」なのだろうか?…女性の経験を家父長制的資本制の用語で、できる限り記述してみるというマルクス主義フェミニズムの努力は、ただそれが廃棄される対象であることを明らかにするためだけにある。」(上野[1990:288-289])家事労働を(市場での)労働との類比、関連で語ろうとする者がそれは「本意」でないと言う。しかし、他方で確かに中心に据えられている不払い労働であるという論点はどこに位置づけられるのか。
★25 「どんな保育専門家による共同育児も、再生産労働の密度と熱意において、個別の母親の育児に及ばない。…育児の完全な社会化が――その公共化であれ市場化であれ――成り立たないのは、それがあまりにコストの高くつきすぎる選択だからである。」(上野[1990:269])。本稿の他の部分で述べることが妥当だとすれば、「あらゆる育児科学は、…科学の装いを持ったイデオロギーである」(上野[1990:246])とも言うこの論者にとって、これが市場にとって性別分業体制が有利であることの唯一の根拠となってしまう。
 ただ、生産される人間の「質」に対する関心から、それが家族による育児・家事によって形成・維持されると考え、家族に着目する動きがあったのは――こうした観念(上野の言葉では「イデオロギー」)の存在とそれが事実であることとはひとまず別のことではあるが――事実である。このあたりの歴史・現状分析は別に行ないたい。
★26 上野もこのことは(このことも)指摘していた(→引用DE)。ただ、この後「男性主導の労働組合がこの二つの家父長制的戦略のうちいずれか一つでも採用しなかったということは、ほとんどありえないことである。」(Walby[1986:244]、上野訳)という引用がなされ、次のように続く。「極論」と言うのだから、全面的に支持しているわけではないということなのだろう。「ウォルビイは、さらに極論して、再生産場面における女性の劣位が生産場面での女性の不利を説明するのではなく、男性集団による女性の組織的な排除と貶値が、逆に女性に再生産場面での不利な状況を甘受するほかなくさせているのだと主張する。」(上野[1990:59])
★27 以上は、既に所謂第一次家事論争においてなされている「家事時間の水増し」「偽装家事労働」という指摘にうまく接合する(梅棹[1959a][1959b])。梅棹の論を正しく評価している上野(→注21)は、どうしてこのように考えないのだろうか。
★28 「統一理論」・「二元論」、等々の用語の混乱については別に論じる。
★29 繰り返すが、以上では、専業主婦という存在が何か良からぬものであるというようなことを言っているのでは全くない。個々の関係において、どちらが稼いで来るというようなことが問題にならず、それでうまく行っているのなら、その限りでは全く問題はないのである。では、反対に、専業主婦であることに何か積極的な意味があるのだろうか。そのような議論もしばしばなされる。ない、というのが私の考えである。以上の点を含め、4−2、4−3の記述をもっと入念に行わねばならない。日本での「家事論争」(上野編[1982a][1982b]に収録)を振り返って整理するのもそのために有効だと考える。また歴史的な検証も必要である。別の文章でその作業を行う。
★30 まず考えるべきは、そもそも人口の確保がなにゆえに、誰にとって関心事になるのかである。別稿で検討する。
★31 「家庭内で女性によって遂行される「家事労働」という労働に焦点を合せることは、不可分の一体と考えられていた「家庭」の中から、男と女という「個人」を引きずり出し、その間のポリティックス(性という政治)を明らかにすることである」(上野[1990:65])こうした立場から、一つの歩き出し方をすると、家族についての(近代)経済学的な分析(この分析自体は面白いし意味があると思う)との親和性が出てくる。さらに「愛の神話」を剥がしてしまうと、「情緒財」の「消費」の側面がなくなり、より「経済学的」になる(→3−1、注13)。
★32 福島[1991]がこの立場に近い主張をしている。
★33 そして、東京都「高齢者の生活実態」(1990年)によれば、家庭で介護を受けている者のうち、介護が必要とする人が男性の場合は96%、女性の場合は72.3%が、家族内の女性から介護を受けている(経済企画庁編[1992:98-99])
★34 これは、行為者として予め設定される家族成員に支給される(家族への介護手当等)形態とも、資源の提供者(例えば行政)が行為者(例えばホームヘルパー)を直接提供・派遣する形態とも異なる。障害を持つ人達の社会運動が先駆的にこれらのことを考えてきており、いくつかの興味深い試みを既に開始している。立岩[1990a][1990b][1992-]を参照されたい。

■文献

AIU保険会社 1989 『現代子育て経済考』
安積 純子・岡原 正幸・尾中 文哉・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店、2500円
Becker, Gary 1981 A Treatise on the Family, Harvard University Press
Dalla Costa, Giovanna Franca 1978 Un labora d'amoure, Edizioni delle donne, Roma=1991 伊田久美子訳『愛の労働』,インパクト出版会(発売:イザラ書房),1880円
Dalla Costa, Mariarosa 1986 伊田久美子・伊藤公雄訳『家事労働に賃金を――フェミニズムの新たな展望』,インパクト出版会(発売:イザラ書房),2060円
Delphy, Chrisitine 1984 Close to Home : A Materialist Analysis of Women's Oppression, trans. by Diana Leonard, Univ.of Massachusetts Press
江原 由美子 1992 「「社会的権力」の理論化はいかにして可能なのか?」,『現代思想』20-1:90-102
江原 由美子・長谷川 公一・山田 昌弘・天木 志保美・安川 一・伊藤 るり 1989『ジェンダーの社会学――女たち/男たちの世界』,新曜社,2400円
福島 瑞穂  1991 「扶養,遺贈,相続」,上野他編[1991:170-187]
Hartmann, Heidi 1981 "The Unhappy Marriage of Marxism and Feminism : Towards aMore Progressive Union", Lydia Sergent ed. Women and Revolution : A Discussion on the Unhappy Marriage of Marxism and Feminism, South End Press.=1991 田中かず子訳「マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚――さらに実りある統合に向けて」 『マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚』:31-80,勁草書房
井上 輝子・江原 由美子 編 1991 『女性のデータブック』,有斐閣,2987円
金井 淑子  1992 『フェミニズム問題の転換』,勁草書房,2369円
金城 清子  1991 『法女性学――その構築と課題』,日本評論社,3700円
経済企画庁 編 1992 『平成4年度版国民生活白書――少子社会の到来,その影響と対応』大蔵省印刷局,1400円
桝潟 俊子  1991 「家族のコスト計算――教育と介護からみる」,上野他編[1991:133-152]
宮島 洋   1992 『高齢化時代の社会経済学』,岩波書店,2200円
直井 道子 編 1989 『家事の社会学』,サイエンス社,1500円
日本婦人団体連合会 編 1993 『婦人白書 1993』,ほるぷ出版,2800円
落合 仁司・落合 恵美子 1991 「家父長制は誰の利益か――マルクス主義フェミニズム批判」,『現代思想』19-11:199-207
大庭 健   1990 「平等の正当化」,『現代哲学の冒険3 差別』,岩波書店:227-313
小倉 利丸・大橋 由香子 編 1991 『働く/働かない/フェミニズム――家事労働と賃労働の呪縛?!』,青弓社,2575円
島田 靖雄・清家 篤 1992 『仕事と暮らしの経済学』,岩波書店,2000円
Sokoloff, Natalie 1978 Between Money and Love : The Dialectics of Women's Homeand Market Work, Praeger Publishers=1987 江原由美子他訳『お金と愛情の間――マルクス主義フェミニズムの展開』,勁草書房
立岩 真也  1990a 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:165-226]
―――――  1990b 「接続の技法――介助する人をどこに置くか」,安積他[1990:227-284]
―――――  1991 「愛について――近代家族論・1」,『ソシオロゴス』15:35-52
―――――  1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」,『社会学評論』42-2:30-44
―――――  1992- 「自立生活運動の現在」(連載),『福祉労働』55〜
―――――  1993a 「生殖技術論・2――自己決定の条件」,『年報社会学論集』6:107-118
―――――  1993b 「生殖技術論・4――決定しない決定」,『ソシオロゴス』17:110-122
―――――  1993c 「身体の私的所有について」,『現代思想』21-12:263-271
―――――  1993d 「生殖技術論・3」,『Sociology Today』4
―――――  1994a 「能力主義とどうつきあうか」,『解放社会学研究』8
―――――  1994b 「何が性の商品化に抵抗するか」(仮題),江原由美子編『<性の商品化>をめぐって』(仮題),勁草書房
―――――  1994c 「「愛の神話」について」,『家族社会学年報』
―――――  1994d 「市場/国家は家事労働にいくら払うか」(未発表)
―――――  1994e 「性差別と市場」(未発表)
上原 隆   1992 『上野千鶴子なんかこわくない』,毎日新聞社,1500円
上野 千鶴子 1982a 「解説 主婦の戦後史――主婦論争の時代的背景」,上野編[1982a:221-241]
上野 千鶴子 1982b 「解説 主婦論争を解読する」,上野編[1982b:246-274]
―――――  1985 『資本制と家事労働――マルクス主義フェミニズムの問題構制』,海鳴社,515円
―――――  1990 『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』,岩波書店,2500円
―――――  1992 「唯物論フェミニズムは可能である」,『社会学評論』42-3:316-318
上野 千鶴子 編 1982a 『主婦論争を読む T』,勁草書房,2266円
―――――  1982b 『主婦論争を読む U』,勁草書房,2270円
上野 千鶴子・鶴見 俊輔・中井 久夫・中村 達也・宮田 登・山田 太一 編 1991『システムとしての家族』(シリーズ変貌する家族3),岩波書店,2600円
梅棹 忠夫  1959a 「妻無用論」,『婦人公論』1959-6→上野編[1982a:191-206]
―――――  1959b 「母という名の切り札」,『婦人公論』1959-9→上野編[1982a:207-220]
Walby, Sylvia 1986 Patriarchy at Work : Patriarchal and Capitalist Relations in Employment, Polity Press.
八代 尚宏  1993 『結婚の経済学――結婚とは人生における最大の投資』,二見書房,1350円

    ※たていわ しんや 千葉大学文学部行動科学科助手(社会学)
    ※1993.11.19千葉大学文学部紀要『人文研究』23号
    ※40字×52行×30頁 (本文+注:400字×145枚 文献表含め:154枚)
    ※40字×40行×39頁 (本文+注:400字×145枚 文献表含め:154枚)


UP:1996 REV:20051225, 20110121
「仕」  ◇性別分業  ◇労働  ◇立岩より御送付  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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