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家族そして性別分業という境界

―誰が不当な利益を得ているのか―

立岩 真也(千葉大学) 1993.10.10
日本社会学会第66回大会報告 於:東洋大学


 ※この報告をもとにした論文は以下の本に収録されました。お買い求めください。

◆立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ w02,f04

『家族性分業論前哨』』表紙

■0■はじめに

 男は市場/女は家庭(+市場における差別待遇)という性別分業のあり方が、夫/資本/国家…に利益を与えているという主張を検討する。この分業がかくも根強く在る時、ここから利益を得ている者がいるのではないかと考えるのはもっともなことだ。しかし、その言明の多くが十分な吟味を経ないまま流通してしまっている。例えばありとあらゆることが書かれており、中心となる論理の道筋の見えない上野[1990]中の以下のような言葉。

 「妻の再生産労働は誰からも――夫からも、夫を通して資本からも、また国家からも支払われていない」(上野[1990:98])
 「自分は愛する妻子のためにこそせっせと稼いでいるのだという言い分があるかもしれないが、女性は第一に貨幣費用(カネ)ではなくて現物費用(テマ)を再生産労働というかたちで支払っており、この現物費用はもし貨幣費用に換算するとしたら、夫が負担できる額を超えている。」(上野[1990:97])

 以下、Tで家族内の配分機構の変更について、Uで家族外から資源の供給が行われる場合について、検討する。ここでは上のような、不払いであることによって利益を得ているという主張の妥当性を検討する。なおT・Uでは、専ら市場でだけ働く夫と所謂「専業主婦」の組合わせを考える。既にこの場面で論者が女性の側の不利益を主張しているからである。Vでは、市場における男女間の格差について検討する。この格差が、市場に利益をもたらしているという主張もよくされる。これを検討する。得られる結論は全て否定的である。しかし私は誰も不当な利益を得ていないのだと(女性が不当に剥奪されていないのだと)考えているのではない。私自身の考えも提示する(U−5、V−2、W)。★01
 T・Uについて。近代社会は市場(M)・政治(P)・家族(F)・その他の自発的な行為の領域(V)に分割される。ここでは、Vについての検討は除外する(重要でないと考えているのではない)。さらに、実際の行為の担い手とその行為者に対する資源の提供者を分けられる場合がある。そして、資源の提供と行為の分離を可能にするのは貨幣である。このようにすると図1となる。ただこれはとりあえずのものでしかない。どのような理由、形態(P→mの行為者は公務員なのか、民間業者なのか…)で各領域が支払い、行為のあり方を規定するのか、等々が問題だからである。ただ一つの見取り図にはなる。



                 資 源

家族F 市場M 政治P

       行 家族f (F→f) M→f P→f
       
       為 市場m F→m M→m P→m

                 図1

■T■ 家族内の配分機構の変更(F→mの計算で支払う…F→f)

■U−1 根拠・基準:どんな場合にどれだけ夫は払うか
 家事労働を夫によって支払われるべき労働としその対価を払うものとした時、これと比較して現状の不当性を言う主張がある。これを検討する。
 @夫について:愛情の存在・関係の存在から行為の義務は導けない★02→(対価を求めないことに双方が同意している場合以外)対価を要求することは可能。ただしそれは家事労働の全体ではなく夫の生活に関わる部分について。同時に夫の扶養義務も解除される。
 A子について:子に要求するのでなければ(上の夫にあたる者はここでは子である、しかし子との契約によって子を持つのでない以上対価を義務づけることはできない)、そして夫婦の同意のもとに子を持つのであれば、夫婦は等しく負担するのが相応。★03
 この時、その額は市場での同一のサービスに対する価格になる(F→mと実質的に同じ、ただし性別による不当な格差があるとすればその部分は計算し直してもよい)。つまりここで妻は市場における労働者なのであり、同一の業種の業者と競争せねばならず、また、税金・保険料の負担を含む一切が自らの収入から支出される(夫の負担はその軽くなる)。

■U−2 結果:夫は現状より多く払わない
 妻は扶養されている現状に比して多くを受け取ることはできない=不払いによって夫が利益を得ているとは言えない:正確な試算は別に行うとして、例えば、A子について、妻は専ら労働(2人分約23000時間)を提供、夫は金銭(同5000万円〜)を提供するとすれば、子に対する負担に夫婦間の大きな違いはない→ゆえにこの労働によって妻は夫から対価を得ることは出来ない。@夫への労働について、家事労働総体からa.夫に対する労働を取り出し、さらにb.この部分について夫は市場での価格と比較し労働の単価を設定する(妻が応じないならその労働は妻の手を離れ市場へ移行する)→妻の受け取り分は妻一人が生活するのに十分なものにならない。支払いを受けることによって、現状に比して有利にならない。少なくとも「専業主婦」の場合、夫の不払いが不当という主張は無効。★04




           労働          受取



   

          ♂ 子 ♀       ♂   ♀
           図2           図3

■■U 市場/国家による支払い

■市場による支払い(M→f)
 「再生産」労働を「労働力の生産」労働と解して検討する(そのように言うから)。
 根拠としての因果論:大人はかつては子供だったのであり、子供として養育され、教育されたことは現在労働可能であることの条件をなしている。また成人労働者にしても、労働者が1日何時間か働くことができるのは、家事労働が背後にあるからである。したがって、労働者を雇用する者はその分についても賃金を保障すべきだと言う。
 しかし、通常、商品の購入者Aは、商品の価格に含まれる原材料費の一部を原材料の生産者に別途に払ったりはしない。同様に、市場において、労働力の形成にあずかっている者に対して、その労働に対する対価と別に、支払いが行われることはない。支払ったらそれは二重払いということになる(図5)。またその商品の生産にいくら(原材料費が)かかっているかを顧慮することもない。(それに価格がつくのは、原材料の生産者Bとその受け取り手Cが市場に現われBとCの間で取引を始める時である(図4)。夫と妻の関係ではそれがありうること、ただ、契約して親子関係に入るわけではないから子との関係では難しいことを述べた。このことを市場は感知しない)そして仮に分離して払う場合でも、Bの受け取り分はそれだけ減ることになる(図6)。つまりここにあるのは基本的にBCのゼロサム状況であり、BCの総受け取り分は不変である。支払いに応じて支払う側に特に利益/不利益はない。
 これで満足しないなら、Aにより多くの支払いを求めねばならない。
 Aが(通常Bに)より多くを支払う場合がないわけではない。夫の労働については、1.労働者の側が妻子持ちであるために生活費が余計にかかることを理由に、より多くの支払いを求め、なおかつ雇用側(結局は製品の購入者)がそれに応じざるを得ない場合。この場合は、要求に応じて、本来払いたくはない部分を払っているというだけである。2.家族が労働力の再生産を担当することで労働者の生産が増える場合(どれほどのものか)。生産がそれだけ上昇し、それに対してその分の支払いが行われただけのことである。
 それ以外の場合があるか。そしてそれはどのような根拠によってか。そしてその最終的な支払い主は誰か。労働による生産物の購入者だとすれば、支払いの上昇分は商品価格に転嫁される。生産者BCであるとともに消費者であるBCはそのことで利益を得るわけではない。では、資本家か。しかし、「再生産」を根拠にしての要求は、通常の賃上げ運動とどこがどう違うのか。先の総額を超えて、そしてその分を主婦に支払うべきものとして、資本家が負担せねばならないというためには、資本家が、主婦の「再生産」労働から特別な恩恵を被っていることを言わねばならないのだが、これに対する満足のいく説明は与えられていない。



 

  A  B  B  C    A  B  C   A  B  C
      図4          図5        図6

■U−2 子を生産させるための前払い((M…)P→f)
 子が生産されることが市場にとっての関心事である場合がある。子(の少なくともある部分)は将来生産する者だからである。ここでは子:Bではなく、親:Cに払わねば意味がない(夫についてもそういう場合がありうるが、さほど重要ではない)。育児を行っている時に子は親に支払うことはできず、後でも子が払うことは保障されておらず、また実際にも育児は親から子への一方的な贈与になっているからである。このことが子の生産に影響を与え、それが問題だとすれば、子:Cに払う前に親:Bに払うことがありうる。
 だがどのように問題なのか。生産人口が増えれば(維持されれば)、生産は増える(維持される)。だが生産量の増加自体が目的ではないとしよう。生産性の増大と人口の増大の間に相関がないなら、一人当たりの生産=消費量は変わらない。これだけを考えれば、人口が増加あるいは維持されないからといって特に不利益はない。にもかかわらず、それに関心を払うとすれば、なぜか。
 一つは、総人口のなかでの生産人口の割合。「高齢化社会」が懸念される時に言われることである。次に、国家という境界を巡る利害。軍事力を含めた国力の維持・拡大。経済を考えた場合には、競争力の低下の懸念。労働者が減少することによる人件費の高騰は、労働者の受け取り分の増加も意味するから、その限りでは、利益でも不利益でもないかもしれないが、労働人口が多く、労働を安く供給できる地域があり、しかもその人口の自国への流入が不可能、あるいは不利益だと考える場合にはその国の競争力が弱まることになる。この時に、自国の人口維持・拡大を志向するかもしれない。
 市場にある者が、子の将来の労働を見越して直接に親に払うことは難しい。ゆえに、支払いのシステム自体は市場と別に設定されることになる。これは政治領域が担うことなる。
 では、こうして政治領域が配分するものをどこから徴収するのか。まず以上でも、資本が特別な利害を有しているとは言えない(考えられるとすれば、資本家の対総人口比が低下する場合)。「全国民」が共有する利害によって、家族の出産・育児の負担を取り除こうとし、それによって人口の確保、生産の確保・拡大を志向するということはありうる。この時に、資源の給付は必ずしも不利益を与えるものではなく、むしろ(上に述べたものが利益なのだとすれば)利益をもらたすから、親に対する給付のない現状から利益を得ているとは言えない。
 いかほどが支払われるのか。期待される人口が得られるだけの額である。これはそれなりのものになるかもしれない。ただ、支払いは、結局のところ、現在生産している世代が行うことになる。(子を持たない者にとってはひとまず負担が増えるだけだが、それを除いて考えれば)得る利益と同じだけの負担をすることになる。
 そして、上に述べた利益を利益とするなら、その分、このシステムをとった方が有利である。以上を総合しても、特別に妻・母以外の誰かが支払のない(少ない)現状から利益を得ているわけではない。

■U−3 国家による支払い(P→f)
 (上に述べた場合を除き)市場が支払う理由も基準もないと述べた。しかしそれは、支払うべきでないことを意味しない。例えば国家が、生産に貢献する再生産労働に対する支払いと支払い分の徴収を担当するとしよう。
 @夫に対する貢献分。夫に対する労働に対して払うのであれば、それと同じ額は同じ労働している単身者にも、また共稼ぎの夫婦にも(この場合は二人分)払われることになる。A(労働力の生産者の取り分)。B(労働者の取り分)。自分で自分の労働力の(再)生産を行っている者(単身者・共稼ぎの者)にも同じ額を払うことになる。専業主婦はAを支給される、専業夫はB、二人合わてA+B(図10)。他方、単身者もA+B(図7)。共稼ぎの夫婦の場合は図8〜図9。専業主婦に支払われるものが十分な額になるとは考えられない。A+Bが現行の一人当たりの賃金とすれば、各家族に支給される総額は何も変わらない。これは夫への支払いの一部をまわすことを意味し、夫の受け取りにおいてはその分が差し引かれることになる。結局これは、夫が直接に妻に支払うのでなく、それを別の場所が代行するというに過ぎない。ゆえに仮に払うとしても、不利益を被ることはない。現状から利益を得ている者はいない。妻はこの変更から利益を得ることができない。




 

      S   ♀  ♂   ♀  ♂   ♀  ♂ ♂ ♀
     図7   図8    図9    図10      図11

 A子の再生産労働に対する支払い。これはどこから支給されるのか。子の生産からの支払いであるべきだが、未来に生産する子供が直接に払えるわけではないから、結局は現在働いている者が負担することになる(現在働いていた者は子であった時に恩恵を受けておりそれを今返却しているののだと考えればよいし、今払えない子も同様に将来負担するのだから、それでよい)。
 この部分がTで行った計算と違ってくる。Tでは、子が自発的に支払いに応じない場合には親から子への一方的な贈与とした。だがここで取られているのは、貢献を受けた者は返さねばならないという論理である。どれだけ払われるか。例えば市場で働く者が生涯8万時間弱働き、育児にかかる時間が2万時間強とし、労働時間によって算出すれば、妻は労働者への支給額の4分の1〜3分の1を支払われる。また現状で父(の場合は金銭的負担)と母の子に対する負担がほぼ等しいとすれ、ば父にも(いったん徴収された後)同じ額が支給される。そしてその残りで@の部分に関する案分が行われる。@だけを考えた時に比べ、妻(母)の受け取りは改善される(図10・図11…両者で額の大小を比較しないこと、総額は同じ)。★05
 ここにあるのは、生産する者から生産を生産する者への財の移動である。そして、(ここでは子を持たない者も負担しなくてはならず、その分を除けば)結局のところ家庭内の配分のあり方の変更である(先のゼロサム状況は続いている。総額が変わるのは、家事労働だけをやっていた者が生産労働に携わり、生産そのものが増加する場合である)。これによって家事が「労働」であることが可視化され、実際にいくらか配分が変更される場合もあるだろう。このことこそが問題だったのであり、これで問題は解決されたのだとすればそれで終わる。
 だがそれでよいのか。まずこの計算によっても、双方の労働の現状を前提すれば、妻が夫と等しく、あるいは夫より多く受け取けとれるとは、受け取りが現在妻の分としてある生活費を超えるとは、考えられない。子供の生産に対して受け取れるのは同額とし、それに夫の労働への支払いが加算されるが、それがそれほどのものになるとは考えられない。
 より重要なのは、ここで、(政治領域が業務を担当するからといって)家庭(の中の労働者の労働に応じた分配)という枠が取り外されたのでは決してないことだ。支払い額を正確に労働に対応した分とするなら、稼ぎの少ない夫に対しては減額されることになる。稼ぎのない夫の場合には何も支給されない。子については、確かに親の生産には左右されない額が支給される。しかし、子に対する支給が均等になるのは、子がどのような労働者になるかを単に予見できない限りでである。将来労働できないことがわかっている子に対しては払われない。得をするのは、親が貧乏で出来のよい子だけである。つまり、以上では、定義上、生産しない者に対する負担は考慮されず、むしろ積極的に除外され、支払いは現在の夫のそして将来の子の生産に規定される。

■U−4 家族が行為を担うことによる利益はない(→f/→m)
 家事労働の外部化により、家事労働として行われていた部分が効率化される。さらに家庭の中にいた者が市場に出ることで、生産が増大する。また、労働市場が拡大し流動化することは、労働を購入する側にとって有利である。とすれば、外部化させた方が、つまり行為者を家族としない方が有利だと考えられる。すなわち、家族にその行為を担わせることが有利だとは必ずしも考えられない。(再生産される者の「質」を言う議論がある。例えば家族(母親)のもとでしか子はよく育たない、ゆえに家族外にそれを委ねるのは生産にとってマイナスだといった主張がなされる。しかしこれは疑わしい★06。)
 こうして、資源を家族に給付し家族に行為を行わせるのではなく、直接に市場化・「社会化」した方が有利だと考えられる。つまり負担だからその分を払えという論理では、では別の人にやらせましょう、その方がコストがかからないから、ということになる。

■U−5 結論→別の根拠 家族の境界を取り去った個人の生存の保障
 以上、労働力の生産という論理によっては、家事に関わる資源の供給を家族に担わせることが家族外の誰かに利益を与えていることは論証されない。むしろその逆を帰結することも考えられる。さらに行為を家族に行わせることによって、家族外の誰かが利益を得ていることも論証されていない。そして、貢献しない者に対する労働に対価が与えられず、また貢献を第一の基準とすることで行為に関わる自己決定が阻害される場合がありうることを考えるなら、この論法を採ること自体が問題である。ゆえに現状の不当性を言おうとするなら、あるべき何かを示そうとするなら、別の根拠・基準を提出すべきである。
 @親・配偶者について:a相互に(扶養・家事労働の)義務はない。つまり、生活を支える義務について、家族と家族外の者との間に境界はない。b私達の社会は、収入を(十分に)得ることが出来ない者、通常の人よりも自らの生活を維持するのに他者の援助をより多く必要とする人に対して、政治的な給付を行う。(一般に承認されていない)aと(aが承認されていないゆえに現状では家族を単位としている)bを同時に認めればよい。
 障害を持ちあるいは病を得て介助や各種の生活上の資源を他者から受け取る必要のある者に対して、他の家族成員は扶養や介助の義務を負わず、少なくとも単身者と同様の社会的・政治的保障はなされる。今一番問題なのは、例えば高齢の親あるいは配偶者の世話ではないか。とりわけ少人数の核家族の中でのこの負担は膨大なものになっている。この義務が解かれるなら、家事労働の問題の大きな部分は解決する。★07
 (再)分配は、必要とする者に対する誰か(例えば主婦)の労働に対してではなく、必要とする者の必要に応じて本人に行う。資源はまず財・行為を必要とする本人に渡り、その者は行為者を家族から得るか、それとも別の者とするか選択できる。これは家族が(行為のための資源の提供のみならず)行為の義務を有しない(このことは家族が行うべきでないことを意味しない)とする立場から、そして行為を受ける当人の選択が尊重されるべきだとする前提から、当然である。これは、行為者として予め設定される家族成員に直接渡るか、資源を提供する人が行為者を調達してきて提供するという形態とは異なる★08。
 A子について:自己決定→自己責任の論理からは子の扶養は親の義務となる。この原則を維持しつつ、給付を予め受け後に返却するといった機構を考えることもできる。これは相応の合理性を持つが、結局時間軸上の負担の平準化ということである。これでは足りないのだとすれば、1.子を持つこと、あるいは自らのもとに子がいること・育つことを、単に個々人の選択・自由であるというのでなく、それを選択しようとする時には、他者からの資源提供を要請できる強い権利として認めることである。あるいは、2.子が育つことについて、社会総体が負担を負うものとすることである。(1.と2.には無視できない違いがあるが、ここでは考察は省略)。これは子が生産者とな(り社会に「貢献」す)るか否かには関係がない。この原則は、ある部分までは支払いを予め受け、後に(1.親、あるいは2.子が)返却するという形態と、現実にはそう変わりはない。しかし、将来も負担できない者(1.親、あるいは2.子)も社会的諸資源の支給を受ける対象となる。
 以上のような原則をとった場合、現状に比してより多く負担する側にとってはマイナス、負担が軽くなる側にとってはプラスになる。別言すれば、この原則から現状を評価した場合に、前者は不当な利益を得ており、後者は不当な損失を被っているということである。
 以上で、家族(現実には妻・母)にかかっている負担の主要な部分が解決されると考える★09。(Aについては上述した点を含めいくつか検討すべき課題が残されているが、略)
 人を産み全ての者を生かすこと自体が「再生産」であり、その費用を市場が払ってないと言うのなら(市場が払うのは費用ではないから、そして有用でない者には何も払わないから当然だ)、「不払い」という主張も理解できる。そのような箇所も例えば上野[1990]に無いではない(冒頭の一部)。だが全体の論調はここにはない(あるいは不明)。

■V■職場での性差別は市場にとって有利か?

■V−1 労働を買う側にとってこの体制が有利であることは立証されていない。
 正当性は何もない。これは個々の女性が市場で働こうと希望するか否かとは独立のことである。(ゆえにここから生ずる利益は不当な利益である)
 1.労働能力の有無に無関連なある範疇の人を排除することが雇用側そして消費者側にとって有利であることは全く立証されていない(できないと考える)。★10
 2.上と同じ範疇の人を差別的に待遇することは資本、労働による生産物の購入者にとって有利か。これはかなり説得性を持つようにも思われる。また、女性の平等な雇用に対する資本の抵抗もこのことを示すかのように思われる。しかし、これは図12を思い浮かべるからである。障壁がないなら、労働者は賃金の高い方にシフトしその結果労賃は下がるはずである(図13)。とすれば、雇用する側にとって(そして消費者にとって)この分業形態が利益をもたらすとは言えない(男性労働者の賃金切り下げを求めにくいという状況において――切り下げができなければ、雇用費用の総額が増加してしてまう――雇用者は格差の解消に抵抗する)。検討すべき主題はこれに限らないが(馘首の予備軍・労働内容による差別…)、全てについて利益のないことを証明できる。
 3.さらに、この範疇が女性である必然性はこれまでのところでは何もない。★11

         2.0
     利益?→           1.5
         1.0      ・


           ♀  ♂             ♀  ♂
            図10               図11

 ここに出産・育児を持ってくる議論が当然ありうるだろう。しかし(「質」に関わる議論が正しく、しかも育児をその子の女親である女性が担ってはじめて「質」が維持され、そのために女性が「家庭に入る」ことによって市場が被る損失↑を「質」の確保による利益が上回るというのでなければ)、男/女に対する現行の振り分けが有利であるとは言えない。また、U−2に見たように、育児に関わる応分の負担(資源の提供)にしても必ずしも損失ではないとすればどうか。こうして、以上からは、性別分業の現状が労働(による生産物)の購入者に利益を与えているとは言えない。

■V−2 市場と家庭内で男性は利益を得ている
 この体制から確実に利益を得ている者がいる。男性労働者である。ただ男であるというだけで相対的に高い収入等々を得ることができる。
 しかし双方の収入が家族内で合算されるなら、家計が夫婦一体のものなら、家族内部には利益はない(1+2と1.5+1.5は同じ)。では、家族の内部においては、男性は利益を得てはいないのか。そうではない。私達の社会で生活をまず成立させるための場である市場において女性が不当に扱われることで、女性が構造的に従属的な位置に置かれること自体から男性は利益を得ている。またこのことから、夫は、市場では得られない質のサービスを要求でき、その上でも、なお残る生活の糧を握っているという事実によって、優位を保つことができる。このような意味で、家庭の内部で男性は確かに利益を得ている。★12

■W■結論

 現状が男性 and/or 資本 and/or 国家に利益をもたらしているという漠然とした主張は、以上の検討により次のように言い替えられるべきである。
 1.家庭が家族に対する負担をしていることについて:@自己労働→所有+補則的原理としての公的保障の原則をまずは維持しつつ、その単位を家族に替えて個人とする(あるいはより強い原理として配分の平等の原則を取る)。そして、A子を持つこと/子が育つことにおける平等の権利を採るべき原則とする(これは「生産」を第一義的な要件とはしないということでもある)。ここから現状を見る時、この原則をとった場合にはより多くを負担せねばならない者は不当な利益を得ており、逆の者、家庭内に手のかかる者がいてその面倒を見ねばならない者、面倒を見る側にせよ見られる側にせよ十分な財・行為を提供されていない者は、不当な不利益を被っている。
 2.市場における性別分業に関して:(1)男性労働者が利益を得ている。(2)家庭内でも、市場への接近を独占することにより男性が利益を得ている★12。この場面では「性差別一元論」が正しい。すなわち、この社会に存在する事態は、資本・市場の側からの要請ではなく、男性による女性の支配、格差の維持の動機に発した(あるいはそれを効果させる)、労働市場からの隔離・市場における格差の設定である。この分業体制は、市場・資本に利益を与えるのではなく(利益を得ようとしたところから発しているのではなく)、男性に利益を与える。確かにここに存在するのは単なる差別意識、観念ではない。この意味でなら、私は家父長制の「物質的な基盤」という言葉を承認する。★13
 以上の者達は確かに利益を得ている。これらは正当な利益でないとして、変更を求めることができる。しかし、利益を得ている者達は利益を放棄しようとしないだろう。例えば2.:利益を得ている者が多数派でより大きな力を持つ労働市場を放置して、現状が改善されるとは考えられない。ゆえに(割当制等の)積極的な介入策が要請される。★14

■注■
★01 本報告は執筆中のかなり長い文章の一部を要約したものです。その(まだ全くの、昨年の)草稿(40字×50行×65p.)が『WORKS』(論文+草稿+資料集、340p.)に収められています。興味をもたれる方にはさしあげます。T・Uについては論文35(→末尾の「一覧」、〜150枚程度)で発表予定、Vについても別に論文を用意中。
★02 論文11・22を参照のこと。
★03 2番目の上野[1990]からの引用では夫に対する労働と子に対する労働が区別されていない。子のための労働に対する対価をなぜ夫が払わねばならないのか?
★04 直井編[1989]、桝潟[1991]等に掲載されているデータを参考にした。引用2↑の言明が(適当な限定を加えられた場合)否定されるということだ。もっともらしく聞こえるのは、妻の労働の合計と夫の労働の合計を比較し、妻の労働総体に対して夫が払うという図式を前提する限りにおいてである。ここに述べたことを確認した上で、例えば上野の論議に感心している上原[1992]のそれ自体としてはかなり正しい計算を検討してみるとよい。例えばその計算は「兼業主婦」についてのものになっている、等。
 なお以上は、行為の家族外への移転(F→m)が利益になることがありうるを示す。家事としてなされている部分を外部化する。その部分に、共同化による効率化、規模の経済が働く可能性がある。外部化した分浮いた時間市場に働きに出るが、それをマイナスとしても、差し引きの結果(自由時間・可処分所得)はプラスになりうる。
★05 以下のような試算も可能だ。妻の育児労働が2万時間、夫に対する家事労働が2万時間、夫の労働が8万時間、夫が子にかける分も労働時間に換算して2万時間とする。親の世代も子の世代も同じ条件とする。労働時間によって配分を決める。妻は育児に関して子から生産の1/4を受け取る。夫も労働→金銭によって1/4子の生産に対して負担しており、夫は子から同額を返却される。だが同時に父・母双方へ1/4ずつ返却する、ここからさらに夫は妻に自分の生産費用1/4を払うと、夫・妻の手持ちは1/4・2/4と割合が逆転する。ただし、夫と妻が均分に父と母に返却すると同じく2/4・1/4となる。後者は、妻が労働の対価を受け取っている以上、負担すべきだとする。それにしても、再生産への支払いを主張する論者はどのようなイメージでそれを思い描いているのか。
★06 「どんな保育専門家による共同育児も、再生産労働の密度と熱意において、個別の母親の育児に及ばない。…育児の完全な社会化が――その公共化であれ市場化であれ――成り立たないのは、それがあまりにコストの高くつきすぎる選択だからである。」(上野[1990:269])。本報告の他の部分で述べることが妥当だとすれば、「あらゆる育児科学は、…科学の装いを持ったイデオロギーである。」(同 [246])とも述べるこの論者にとって、これが市場にとって性別分業体制が有利であることの唯一の根拠なのである。
★07 いっそのこと、貢献や労働に応じた分配という原則をやめて、例えば、完全な分配の平等という原則を採れば、妻は夫と(さらに他のすべての人と)同じだけを受け取る。これは考慮に値する選択かもしれない。そして、全ての人が自発的に自らのなすべきこと、できることを行うなら、可能である。しかしこうした行動を私達が取ることが出来るのか。出来ないなら、制裁を加えることによって生産を確保することになる。だがそれは良い社会か。貢献を評価しない社会の可能性を理想の極点において想定することは有効だと思う。しかし、その者は、多くの者が非現実的だと笑うだろうこの状態を理想とすることを明確にし、現実的な可能性について検討せねばならない。こうして、私の主張は例えば小倉・大橋編[1989]における小倉の、生きていくのに必要なだけを無条件に個人に保障するという「個人賃金制」(これが家事労働の評価云々と全く関係のない原則であるのと言うまでもない)とは別である(家族を単位としないという点は私と同じ)。
★08 論文09・13…を参照のこと。
★09 塩田[1992]に紹介されているILO等による「社会保障で評価する家事」の規定と私のここでの主張はかなりの程度一致する。塩田自身の主張にも同意できる部分が多い。
★10 例えば大学はサービス産業、教員はサービス労働の提供者だと考えよう。(男性と同程度にサービス提供能力のある)女性を雇用しないことはサービスの消費者たる学生にとって、また消費者の需要に答えねばならない大学にとって不利益である。上野[1990]での家父長制と資本制の「第一次の妥協」は、専業主婦の登場が資本制に利益をもたらしていることを言う。ただ、その主要な議論は、次に述べる労働の再生産の場面でなされる。
★10 所謂「主婦論争」他で市場に参加しないことの意義が主張された(されている)。市場に参画しないのは勝手だが特別の意義はないというのが私の考えである。別に論ずる。
★11 事実を説明する要因がこれだけだと考えているわけではない。他に、3.生産される人間の「質」に対する関心から家族による行為を支持する動きの存在(だがこうした観念の存在とそれが事実であることとは別だと先に述べた)。4.夫一人の稼ぎで生活が可能なこと、主婦は働かなくてすむこと(を示すこと)に正の価値が付与された(されている)こと。… このあたりの歴史・現状分析は別の課題である。
★12 「家父長制の物質的基盤は、男性による女性の労働力の支配にある。この支配は、重要な経済的生産資源から女性を遠ざけることにより、そして女性のセクシュアリティを制約することにより維持される。」(Hartmann[1981=1991:53])無論、上野[1990]にもこうしたことが書かれていないのではないが、それにしては余計なことが書かれすぎており、あるいは記述が曖昧であり、そして必要なことが書かれていないのである。
★13 「フェミニストの要求は、第一に再生産費用の不均等な分配を是正すること、第二に、世代間支配を終了させることである。後者の点については、(1) 再生産費用を子供自身の権利として自己所有させること(家族手当ではなく児童手当 child allowance)の支給と、(2) 老人が独立できるだけの老齢年金の支給と公共的な介護サーヴィスの確保、の二点があげられる。もちろんこれは第一に両性間の相互依存(その実女性の男性への依存)と第二に世代間の相互依存…とを断ち切る点で、「家族破壊的」な戦略である。というより、もっと正確に言えば、家族の性/世代間支配の物質的基盤を破壊し、家族の凝集力を、ただたんに心理的基盤の上にのみ置くための試みである」(上野[1990:106-107])なぜか提起される方向はそう変わらない。私の試みはこのような結論に至るために、余計なものをはぎ取り、必要なものを加える作業ということにもなる。

■文献■

※『妻の家事労働に夫はいくら払うか』に掲載した文献と共通するため省略
 (1994.5.27)
※学会で配付したVERSION:40字×55行×8頁 1994.5.27:40字×40行×11頁

REV: 20161031
性別分業  ◇家族  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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