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誰が性別分業から利益を得ているか

立岩 真也(千葉大学) 1993.06.13
関東社会学会第41回大会報告 於:立正大学 

 ※この報告をもとにした論文は以下の本に収録されました。お買い求めください。

◆立岩 真也・村上 潔 20111205  『家族性分業論前哨』 ,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ w02,f04

『家族性分業論前哨』』表紙

■0■はじめに

 男は市場/女は家庭(+市場における差別待遇)という性別分業のあり方が、夫/資本/国家…に利益を与えていると主張される。この分業がかくも根強く在る時、ここから利益を得ている者がいるのではないかと考えるのはもっともなことだ。しかし、この件に関してこれまで提出されている言明の多くが、十分な吟味を経ないまま流通してしまっている(例えば上野[1990]等)。まったく驚くべきこと、と言うほかない。そこで、以下、

 T家族内の配分のあり方 U家族・家族外の境界設定のあり方 V市場における格差
  について
  正当性/不当性 と その結果(利益/不利益) を

検討する(正当/不当の基準が明らかでなければ「不当な利益」と言うことは出来ない)。ただし、全ての論点を尽くすこと、詳しい証明を行うことはここでは出来ない。また既に提出されている議論を一つ一つ辿って検討していく作業も、限られた時間では生産的でないと考えるので、(要旨の副題に反して)省略する(注で若干触れた)。
 得られる結論は、通常言われていることのかなりの部分を否定する。しかし私は誰も不当な利益を得ていないのだと(女性が不当に剥奪されていないのだと)考えているのではない。私自身の考えも提示する。★01

■T■家族内の配分機構を変更する場合

■根拠・基準:いかなる場合にどれだけ夫は払うか

 家事労働を夫によって支払われるべき労働としその対価を払うものとした時、これと比較して現状の不当性を言う主張がある。これを検討する。
 @夫について:愛情の存在・関係の存在から行為の義務は導けない★02→(対価を求めないことに双方が同意している場合以外)対価を要求することは可能。ただしそれは家事労働の全体ではなく夫の生活に関わる部分について。同時に夫の扶養義務も解除される。
 A子について:子に要求するのでなければ(上の夫にあたる者はここでは子である、しかし子との契約によって子を持つのでない以上対価を要求できるかどうか問題である)、そして夫婦の同意のもとに子を持つのであれば、夫婦は等しく負担するのが相応。
 この時、その額は市場での同一のサービスに対する価格(次項Fo場合と同額)になる(ただし性別による不当な格差があるとすればその部分は計算し直してもよい)。つまりここで妻は市場における労働者なのであり、同一の業種の業者と競争せねばならず、また、税金・保険料の負担等も自らの収入から支出される(夫の負担はその軽くなる)。
 女性がフルタイムで働きかつ家事・育児一手に引き受けている場合、(平等の負担が相当とすれば)その不当性は自明。問題は、論者が所謂「専業主婦」について不当性を主張していることである。★03

■結果:夫は現状より多く払わない

□少なくとも「専業主婦」の場合:夫の不払いが不当という主張は無効
 妻は扶養されている現状に比して多くを受け取ることはできない=不払いであることによって夫が利益を得ているとは言えない:正確な試算は別に行わねばならないとしても、例えば、A子について、妻は専ら労働(2人分約23000時間)を提供、夫は金銭(同5000万円〜)を提供するとすれば、子に対する負担に夫婦間の大きな違いはない→ゆえにこの労働によって妻は夫から対価を得ることは出来ない。A夫への労働について、家事労働総体からa.夫に対する労働を取り出し、さらにb.この部分について夫は市場での価格と比較し労働の単価を設定する(妻が応じないならその労働は妻の手を離れ市場へ移行する)→妻の受け取り分は、妻一人が生活するのに十分なものにならない。★04
 家族全体の利益を考えれば、所与の総額の配分が変わる(かもしれない)だけ。むしろ、家事に関わる分業のあり方を変え、共稼ぎの形をとった方が利益をもたらす可能性がある。

□家族の外部の者にとって:無関係
 これは家庭内の配分方法の変更だから、利害の変更はない。

■U■行為/行為のための資源の供給のあり方

 TでFf内部の問題(ただ原理としてはFo)として捉えたものを拡張する(図1)

                 資源
      
       家族 F  家族外 O
 
家  Ff   Of
        族f (現状)  (手当)
       行
       為
家   Fo   Oo
族o (市場化)  (社会化)


                 図1

■U−1■ 行為 家族f←→家族外o

■正当性:自己決定権より双方が可能/強制は否定

 「市場化」(所謂「社会化」の場合もその行為は労働市場から供給される)については批判的な論議(すなわち現状を擁護する議論)がむしろ多いかもしれない。しかしそのいずれも全面的な不当性を言い得ていないと考える(略)。現状維持=fの主張に対しては自己決定権からの批判がありうる=自己決定の侵害ゆえに現状維持を押しつけるのは不当ということになる。同様に市場化の押しつけも批判されうる。

■結果:家族による行為が利益をもらたすというのは本当か?

□家族内部において
 行為の家族外への移転=oは利益になることがありうる。家事としてなされている部分を外部化する。その部分が、共同化による効率化、規模の経済が働く可能性がある。外部化した分浮いた時間を、例えば市場に働きに出ることによって、「余暇」にまわすことによって生活水準(自由時間・所得)における利益が出る可能性はある。

□労働(による生産物)の購入者にとって
 1.家事労働の外部化により家庭の中にいた者が市場に出ることを前提すれば、労働市場が拡大し流動化することによって、生産性を高めることができる可能性がある。したがってoの方が有利であるとも考えられる。
 2.(次項の資源の供給量も含め)再生産される者の「質」を言う議論がある。例えば家族(母親)のもとでしか子はよく育たない、ゆえに家族外にそれを委ねるのは生産にとってマイナスだといった主張(子が「良く」育つことが家族にとっても利益だとすれば、上の1.にも関係)。しかしこれは本当か。疑わしいと思う。★05→親(母)としては市場化あるいは社会化を求めるが、この主張ゆえにそれが阻害されている現状が不当(親(母)にとって不利益)とする立場がありうる。だが繰り返せば、親だけが子を育てて(親(母)の利益を害して)本当に利益を得ている者がいると言えるのか。
■U−2■ 資源 家族F←→家族外O

■根拠1 労働力生産のための労働に対する対価?

 根拠としての因果論:大人はかつては子供だったのであり、子供として養育され、教育されたことは現在労働可能であることの条件をなしている。また成人労働者にしても、労働者が1日何時間か働くことができるのは、家事労働が背後にあるからである。したがって、労働者を雇用する者はその分についても賃金を保障すべきだと言う。
 しかし、通常、商品の購入者は、商品の価格に含まれる原材料費の一部を原材料の生産者に別途に払ったりはしない。したがって、市場において、労働力の形成にあずかっている者に対して、その労働に対する対価と別に、支払いが行われることはない。またその商品の生産にいくら(原材料費が)かかっているかを顧慮することもない。(所謂「家族給」をどう解釈すべきかという問題は残る…略)

 a:ただ、市場では支払いが行われないのが通常だからといって、それは支払うべきではないことを意味しない。労働に応じた対価という論理によって、(ここでは夫・子に対してではなく)夫・子の労働を購入する側に支払いを求めることはできないわけではない。
 b:さらに、労働力を求める側において、子についての支払いが積極的に要請される場合がある。子の「生産者」に直接支払いを行わないと子が「生産」されない場合(逆に自発的に子が「生産」されるなら、支払う必要はないということになる)。ただ、この場合にも、市場にある者が、子の将来の労働を見越して直接に親に払うといったことは困難。
 a支払うべきであると言うにせよ、b支払わないと労働力が得られないから払わざるを得ない場合にせよ、支払いのシステム自体は市場と別に設定されることになる。設定すること、例えば政治領域がそれを担うことは可能(雇用主への義務付け・税の再分配)。
 誰が支払うのか。貨幣はメディアであり、市場はこのメディアを介した行為が行われている場であり、市場という主体があるわけではない。ここで、支払い者として雇用主・資本を名指しするためには、資本による「搾取」の存在を言わねばならない。これが言えないとすれば、負担者は、結局のところ労働(による生産物)の最終的な消費者である(直接の支払い者が雇用主の場合でも、支払われるのは製品価格の一部である)。

■結果1

□労働者(の生産者):現状から不利益を得ているとは言えないのではないか

 これは夫あるいは(将来の)子への支払いの一部をまわすことを意味し、夫・子の受け取りにおいてはその分が差し引かれることになる。結局これは、夫・子が直接に妻・親に支払うのでなく、それを別の場所が代行するというに過ぎないのではないか。

 @夫のための労働を行う妻(配偶者)に対して:自分で自分の労働力の(再)生産を行っている者(単身者・共稼ぎの者)にも同じ額を払うことになる。専業主婦はAを支給される、専業夫はB、二人合わてA+B(図5)。他方、単身者はA+B(図2)。共稼ぎの夫婦の場合は図3〜図4。専業主婦に支払われるものが十分な額になるとは考えられない。A+Bが現行の一人当たりの賃金とすれば、各家族に支給される総額は何も変わらない。(子・夫の労働力を生産するための妻の労働を生産するための妻の労働(自身を維持する活動)を算定すればこれよりは多くなるだろう。しかしそれが認められるか。)
 A子について:子の(将来の)労働の対価の一部Aが、母・父(経済的な負担をしている以上当然彼も対象になる)に支給される(図8)。子は(将来)全体からAを差し引いたBを受け取る。ただ、子の代が直接に払えるのではないから、現在の親の世代がとりあえずやりくりし、後で返してもらう形になる。これは、財総体の流れを見るなら、実は一方的な贈与が連鎖する場合(図9)と、(両端の違いを除き)実質的には変わらない。

 ここで支払い額はどのように決定されるのか。この基準とその設定根拠が提出されたのを見たことはない。述べたように、市場価格を基準とすれば、A+Bは現行の一人当たりの賃金と同じである。
 「市場価格」等というものを設定してしまうことが問題なのだろうか。1.:労働が不当に安く買われていること、「搾取」を立証し、その変更を求めるべきなのか。ここで論者は正しい?「マルクス主義者」にならねばならないのだが、その辺りの議論はなかなか目にすることが出来ない。ただ「搾取」と言わねば配分率の変更要求が出来ないわけではない。ともかくその基準が設定されたとしよう。2.:さらに、妻・親に余計に払われるべき分(としての搾取分)が、夫・子の労働ではなく、その労働の生産者(妻・親)に本来帰属することを言わねばならない。そして3.:1.2.が成功したとしても、例えば「搾取」の立証によって配分のあり方が変更されたとしても、生産(に貢献する生産)に対する対価という枠組みを採用する限り、図2〜図5の形は変わらない。例えば、変更方法として単純に労働時間に応じた支払いとすれば、家事労働の総時間では専業主婦の方が長いから、Aが変わってこようが、果たして人はそれに応ずるだろうか。Bに比例する生産が等しいのに、相応の事情なく主婦の受け取り分が多くなるからである。




A A A A A

B B B B B B B B B
A B

 S    ♀  ♂    ♀  ♂    ♀  ♂      
図2    図3      図4      図5       図6    図7

              
A ← A ← A …   → A → A …

B B B B B B


           図9             図10

 ただ次項で私が提起しようとすることに関連して見ておきたい点が2点ある。
 1.Aに関しては、親の持つ財に関わらず(将来労働する)子が育つための財を受け取ることが出来るという点で現状との違いはある。これは小さな違いではない。しかしこれは、現在の親の世代が立て替えて前払いするという事情による。子に関わる費用が払われるというだけなら、子の生産分からの支払いと考える必要は必ずしもない。
 2.B(生産に比例)は人によって異なるが、Aを労働力の生産時間に比例するとし例えば一定とすれば(図6)、生産によって総額が決定されている場合(図7)に比べ格差が小さくなる。これを望ましいとする考え方があろう。しかし、生産がない場合にはAはどういうことになるのか。あくまで生産(〜B)のためのAと考えるなら、Aもなくなる。このことは生産のための生産という根拠自体を再考することを促す。つまり、この論理は、労働力とならない部分についてその支払いを求める論理ではない。家族にとって最も負担となるのが、生産しない者、生産のみならず自己の生活自体を自分で維持できない者に対する行為・扶養であるとすれば、この論理はどれほどの有効性を持つのか。

□労働(の生産物)の購入者:現状から利益を得ているとは言えないのではないか

 述べたように、資源を供給する方が必要な人間が多く「生産」される場合には、支払った方が得である。そしていずれにせよ、支払い分Bは、従来生産する人間が受け取っていたA+Bから差し引かれたものであり、生産者=労働者はAを受け取ることになるから、総支払いはマイナスにはならない。ゆえに労働に対して支払う側が、現状をよしとし、そこから利益を得ているとは言えない。そして、Aに対するBの割合の変更、というよりBの意味づけの変更は、上述したように、労働力生産のための労働という観念を離れる。
 それでもなお、f→βを主張しようとするなら、その主張に意味があると考えるなら、資源の供給を家族外に求める根拠と基準を変更すべきなのだ。

■根拠2 家族の境界を取り去った個人の生存の保障

 @親・配偶者について:a相互に(扶養・家事労働の)義務はない。つまり、生活を支える義務について、家族と家族外の者との間に境界はない。b私達の社会は、収入を(十分に)得ることが出来ない者、通常の人よりも自らの生活を維持するのに他者の援助をより多く必要とする人に対して、政治的な給付を行う(現実には、前者については何がしかのことは行われているとしても、後者については少なくともこの国は大したことをしていないのだが)。(一般に承認されていない)aと(aが承認されていないゆえに現状では家族を単位としている)bを同時に認めればよい。
 なぜ「できない人」に限るのか。一つに、ごく簡単に言えば、勝手にさぼって受け取るだけ受け取るのはよろしくないという私達の意識を否定しがたいこと、(誰もがさぼらずなおかつ労働する/しないに関わらない)必要に応じた分配の実現可能性にあまり希望を持てないという判断による。例えば、先の図7のAを(労働に対する対価ではなく)個人の基本的な生活費と定義し直し一律に支給することにすれば、働きに出ない者がいるだろう(例えば私)。とすれば、市場で(十分に)働けるが働かない者に生活に足るだけの支給を行うことはしない。例えば、生活保護は(これが生活に足るものとなっているは別として)働かない人にではなく働けない人に対して支給される。一般の専業主婦に対して支給されることは許容されない。専業主婦に対する年金保険料負担の免除+年金の支給も正当性を持たないと考える。(こうした性格の主婦年金は、上で定義し直したAに相当する。支給額が十分に低いので問題が顕在化しないだけである。)★06
 そしてもう一つ、これで現実のかなりの問題は解決されると考えるからである。障害を持ちあるいは病を得て介助や各種の生活上の資源を他者から受け取る必要のある者に対して、他の家族成員は扶養や介助の義務を負わないのだから、少なくとも単身者と同様の社会的・政治的保障はなされる。今一番問題なのは、例えば高齢の親あるいは配偶者の世話ではないか。とりわけ少人数の核家族の中でのこの負担は膨大なものになっている。この義務が解かれるなら、家事労働の問題の大きな部分は解決する。
 (再)分配は、必要とする者の必要に応じて本人に行う。その者に対する誰か(例えば主婦)の労働に対してではない。図1で言えば、Oから提供される資源はまず財・行為を必要とする本人に渡り、その者は行為者を家族(f)から得るか、それとも別の者(o)とするか選択できる。これは家族が(行為のための資源の提供のみならず)行為の義務を有しない(このことは家族が行うべきではないことを意味しない)とする立場から、そして行為を受ける当人の選択が尊重されるべきだとする前提から、当然である。これは、図1で通常想定される、Ofの場合は行為者として予め設定される家族成員に直接渡り、Ooの場合は資源を提供する人が行為者を調達してきて提供するという形態とは異なる★07。

 A子について:自己決定→自己責任の論理からは子の扶養は親の義務となる。この原則を維持しつつ、給付を予め受け後に返却するといった制度を考えることもできる。これは相応の合理性を持つが、結局時間軸上の負担の平準化ということである。これでは足りないのだとすれば、1.子を持つこと、あるいは自らのもとに子がいること・育つことを、単に個々人の選択・自由であるというのでなく、それを選択しようとする時には、他者からの資源提供を要請できる強い権利として認めることである。あるいは、2.子が育つことについて、社会総体が負担を負うものとすることである。(1.と2.には無視できない違いがあるが、ここでは考察は省略)。これは子が生産者とな(り社会に「貢献」す)るか否かには関係がない。この原則は、ある部分までは支払いを予め受け、後に(1.親、あるいは2.子が)返却するという形態と、その現実においてはそう変わりはない。しかし、将来も負担できない者(1.親、あるいは2.子)も社会的諸資源の支給を受ける対象となる。

 以上で、家族(現実には妻・母)にかかっている負担の主要な部分が解決されると考える★08。(Aについては上述した点を含めいくつか検討すべき課題が残されているが、略)

■結果:現状から(不当な)利益を得ている者/(不当な)損失を被っている者がいる

 以上のような原則をとった場合、現状に比してより多く負担する側にとってはマイナス、負担が軽くなる側にとってはプラスになる。別言すれば、この原則から現状を評価した場合に、前者は不当な利益を得ており、後者は不当な損失を被っているということである。

■V■職場での性差別は市場にとって有利か?

■正当性:ない

 何もない。これは個々の女性が市場で働こうと希望するか否かとは独立のことである。(ゆえにここから生ずる利益は不当な利益である)

■利益

□労働を買う側にとってこの体制が有利であることは立証されていない。

 1.労働能力の有無に無関連なある範疇の人を排除することが雇用側そして消費者側にとって有利であることは全く立証されていない(できないと考える)。★09
 2.上と同じ範疇の人を差別的に待遇することが、資本にとって有利か。これはかなり説得性を持つようにも思われる。また、女性の平等な雇用に対する資本の抵抗もこのことを示すかのように思われる。しかし、これは図10を思い浮かべるからである。障壁がないのだとすると、労働者は賃金の高い方にシフトしその結果労賃は下がるはずである(図11)。とすれば、雇用する側にとって(そして消費者にとって)この分業形態が利益をもたらすとは言えない(男性労働者の賃金切り下げを求めにくいという前提の上で、雇用者は抵抗する)。検討すべき主題はこれに限らないが(馘首の予備軍・労働内容による差別…)、全てについて利益のないことを証明できるはずだと私は考えている。
 なお、言うまでもなく、この範疇が女性である必然性はこれまでのところでは何もない。仮に1.2.について労働(による生産物)の購入者にとっての利益を言いえたとしても、それは男/女の振り分けを必然的には帰結しない(どんな分割の仕方でも同じ)。つまり、1.2.について上に述べたことと反対のことが証明できたとしても、「資本制」が性差別を作り出したなどと言うことはできない。(証明できたとして)言えるのは、既にある性差別を利用したこと、そして資本制下における性差別の形態を作ったことである。

         2.0
     利益?→           1.5
         1.0      ・


           ♀  ♂             ♀  ♂
            図10               図11

 ここに出産・育児を持ってくる議論が当然ありうるだろう。しかし(U−1の「質」に関わる議論が正しく、しかも育児をその子の女親である女性が担ってはじめて「質」が維持され、そのために女性が「家庭に入る」ことによって市場が被る損失↑を「質」の確保による利益が上回るというのでなければ)、男/女に対する現行の振り分けが有利であるとは言えない。また、U−2に見たように、育児に関わる応分の負担(資源の提供)にしても必ずしも損失ではないとすればどうか。こうして、以上からは、性別分業の現状が労働(による生産物)の購入者に利益を与えているとは言えない。

□市場と家庭内で男性は利益を得ている

 この体制から確実に利益を得ている者がいる。男性労働者である。ただ男であるというだけで相対的に高い収入等々を得ることができる。
 しかし双方の収入が家族内で合算されるなら、家計が夫婦一体のものであるなら、家族内部には利益はない(1+2と1.5+1.5は同じ)。では、家族の内部においては、男性は利益を得てはいないのか。そうではない。私達の社会で生活をまず成立させるための場である市場において女性が不当に扱われることで、構造的に従属的な位置に置かれること自体から男性は利益を得ている。またここから夫は、市場では得られない質のサービスを要求でき、その上でも、なお残る生活の糧を握っているという事実によって、優位を保つことができる。このような意味で、家庭の内部で男性は確かに利益を得ている。★10

■W■結論

 現状が男性 and/or 資本 and/or 国家に利益をもたらしているという漠然とした主張は、以上の検討により次のように言い替えられるべきである。
 1.家庭が家族に対する負担をしていることについて:@自己労働→所有+補則的原理としての公的保障の原則をまずは維持しつつその単位を家族に替えて個人とした時に(あるいはより強い原理として配分の平等の原則を取った場合)、そして、A子を持つこと/子が育つことにおける平等の権利が採るべき原則であるとする。(これは「生産」を第一義的な要件とはしないということでもある。)ここから現状を見る時、この原則をとった場合にはより多くを負担せねばならない者は不当な利益を得ており、逆の者、家庭内に手のかかる者がいてその面倒を見ねばならない者、面倒を見る側にせよ見られる側にせよ十分な財・行為を提供されていない者は、不当な不利益を被っている。
 2.市場における性別分業に関して:(1)男性労働者が利益を得ている。(2)家庭内でも、市場への接近を独占することにより男性が利益を得ている★11。この場面では「性差別一元論」が正しいということになる。すなわち、この社会に存在する事態は、資本・市場の側からの要請ではなく、男性による女性の支配、格差の維持の動機に発した(あるいはそれを効果させる)、労働市場からの隔離・市場における格差の設定である。この分業体制は、市場・資本に利益を与えるのではなく(利益を得ようとしたところから発しているのではなく)、男性に利益を与える。確かにここに存在するのは単なる差別意識、観念ではない。この意味でなら、私は家父長制の「物質的な基盤」という言葉を承認する。★12
 以上の者達は確かに利益を得ている。これらは正当な利益でないとして、変更を求めることができる。しかし、利益を得ている者達は利益を放棄しようとしないだろう。例えば
2.:利益を得ている者が多数派でより大きな力を持つ労働市場を放置して、現状が改善されるとは考えられない。ゆえに(割当制等の)積極的な介入策が要請される。★13

■注■

★01 本報告は「家族/市場/政治」という仮題で書かれ始めているかなり長い文章の一部を要約したものです。その(まだ全くの)草稿(40字×50行×65p.)が『WORKS』と題した論文+草稿+資料集(340p.)に収められています。興味をもたれる方はどうぞ。印刷費用がかかっているのでお金に余裕のある方からは1000円ほどいただければ幸いです。
★02 立岩[1991][1992][1993]を参照のこと。
★03 「自分は愛する妻子のためにこそせっせと稼いでいるのだという言い分があるかもしれないが、女性は第一に貨幣費用(カネ)ではなくて現物費用(テマ)を再生産労働というかたちで支払っており、この現物費用はもし貨幣費用に換算するとしたら、夫が負担できる額を超えている。」(上野[1990:97]) 夫に対する労働と子に対する労働が区別されていない。子のための労働に対する対価をなぜ夫が払わねばならないのか?
★04 直井編[1989]、桝潟[1991]等に掲載されているデータを参考にした。注03の言明が(適当な限定を加えられた場合)否定されるということだ。もっともらしく聞こえるのは、妻の労働の合計と夫の労働の合計を比較し、妻の労働総体に対して夫が払うという図式を前提する限りにおいてである。ここに述べたことを確認した上で、例えば上野の論議に感心している上原[1992]のそれ自体としてはかなり正しい計算を検討してみるとよい。例えばその計算は「兼業主婦」についてのものになっている。
★05 「どんな保育専門家による共同育児も、再生産労働の密度と熱意において、個別の母親の育児に及ばない。…育児の完全な社会化が・・その公共化であれ市場化であれ・・成り立たないのは、それがあまりにコストの高くつきすぎる選択だからである。」(上野[1990:269])。本報告の他の部分で述べることが妥当だとすれば、「あらゆる育児科学は、…科学の装いを持ったイデオロギーである。」(同 [246])とも述べるこの論者にとって、これが市場にとって性別分業体制が有利であることの唯一の根拠なのである。
★06 こうして、私の主張は例えば小倉・大橋編[1989]における小倉の、個人で生きていくうえで必要な所得を無条件に保障するという「個人賃金制」(これが家事労働の評価云々と全く関係のない原則であることは言うまでもない)とは・・その理念を否定するわけではないが・・別である(ただ、家族を単位としないという点は私と同じ)。あの書物はこの主題の複雑さと、現在の議論の混乱ぶりをよく示している。
★07 立岩[1990][1992-]を参照のこと。
★08 塩田[1992]に紹介されているILO等による「社会保障で評価する家事」の規定と私のここでの主張はかなりの程度一致する。塩田自身の主張にも同意できる部分が多い。
★09 例えば大学はサービス産業、教員はサービス労働の提供者だと考えよう。(男性と同程度にサービス提供能力のある)女性を雇用しないことはサービスの消費者たる学生にとって、また消費者の需要に答えねばならない大学にとって不利益である。上野[1990]での家父長制と資本制の「第一次の妥協」は、専業主婦の登場が資本制に利益をもたらしていることを言う。ただ、その主要な議論は、次に述べる労働の再生産の場面でなされる。
★10 所謂「主婦論争」他で市場に参加しないことの意義が主張された(されている)。市場に参画しないのは勝手だが特別の意義はないというのが私の考えである。別に論ずる。
★11 事実を説明する要因がこれだけだと考えているわけではない。他に、3.生産される人間の「質」に対する関心から家族による行為を支持する動きの存在(だがこうした観念の存在とそれが事実であることはとは別だと先に述べた)。4.夫一人の稼ぎで生活が可能なこと、主婦は働かなくてすむこと(を示すこと)に正の価値が付与された(されている)こと。… このあたりの歴史・現状分析は別の課題である。
★12 「家父長制の物質的基盤は、男性による女性の労働力の支配にある。この支配は、重要な経済的生産資源から女性を遠ざけることにより、そして女性のセクシュアリティを制約することにより維持される。」(Hartmann[1981=1991:53])無論、上野[1990]にもこうしたことが書かれていないのではないが、それにしては余計なことが書かれすぎており、あるいは記述が曖昧であり、そして必要なことが書かれていないのである。
★13 「フェミニストの要求は、第一に再生産費用の不均等な分配を是正すること、第二に、世代間支配を終了させることである。後者の点については、(1) 再生産費用を子供自身の権利として自己所有させること(家族手当ではなく児童手当 child allowance)の支給と、(2) 老人が独立できるだけの老齢年金の支給と公共的な介護サーヴィスの確保、の二点があげられる。もちろんこれは第一に両性間の相互依存(その実女性の男性への依存)と第二に世代間の相互依存…とを断ち切る点で、「家族破壊的」な戦略である。というより、もっと正確に言えば、家族の性/世代間支配の物質的基盤を破壊し、家族の凝集力を、ただたんに心理的基盤の上にのみ置くための試みである」(上野[1990:106-107])なぜか提起される方向はそう変わらない。私の試みはこのような結論に至るために、余計なものをはぎ取り、必要なものを加える作業ということにもなる。

■文献表

Hartmann, Heidi 1981 The Unhappy Marriage of Marxism and Feminism : Towards a More Progressive Union, Lydia Sergent ed. Women and Revolution : A Discussion on the Unhappy Marriage of Marxism and Feminism, South End Press.=1991 田中かず子訳「マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚――さらに実りある統合に向けて」,『マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚』:31-80,勁草書房
桝潟 俊子  1991 「家族のコスト計算――教育と介護からみる」,上野他編『システムとしての家族』(シリーズ変貌する家族3):133-152,岩波書店
直井 道子 編 1989 『家事の社会学』,サイエンス社
小倉 利丸・大橋 由香子 編 1991 『働く/働かない/フェミニズム――家事労働と賃労働の呪縛?!』,青弓社
塩田 咲子  1992 「現代フェミニズムと日本の社会政策――1970〜1990年」『女性学研究』2:29-52(女性学研究会編『女性学と政治実践』,勁草書房)
立岩 真也  1990 「接続の技法――介助する人をどこに置くか」,安積純子他『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
―――――  1991 「愛について――近代家族論・1」,『ソシオロゴス』15:35-52
―――――  1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」,『社会学評論』42-2:30-44
―――――  1992- 「自立生活運動の現在」(連載),『季刊福祉労働』55-
―――――  1993 「「愛の神話」について――家族/市場/政治・1」(未発表)
上原 隆   1992 『上野千鶴子なんかこわくない』,毎日新聞社
上野 千鶴子 1990 『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』,岩波書店
(40字×55行×8頁)


REV: 20161031
フェミニズム  ◇上野 千鶴子  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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