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生殖技術論・3

―公平という視点―

立岩 真也 1993/11/00
『Sociology Today』4(社会・意識・行動研究会)


 ※この論文は、のちに立岩『私的所有論』第3章の一部に使われました。読んでいただければありがたいです。

■1.序論→何が問題にされているか

 本稿は,体外受精・代理母といった生殖技術の利用について考察する一連の論考のうち,一つのまとまりをなす4本の論文の三番目に位置する。それらは,技術的な事柄や社会的な応用の事実関係には詳しく触れない。技術の利用の擁護あるいは許容と批判という点に絞り,さらに,受精卵の扱い,家族関係,生まれる/生まれない子の問題,等の主題も別にして,この問題を自己所有・自己決定の主張とそれに対する反論と捉え,ここに現れる諸論点を吟味するという方向で検討する。(1) これでは問題とすべき細部が消去されてしまうと思われるかもしれない。しかもこの限られた主題のために少なくとも4つの文章が置かれる。なぜか。論文2(立岩[1993b])に述べたことを繰り返す。
 第一に,論点の分節,反論の可能性を踏まえながらの各論点の吟味が十分になされていないと考えるからである。第二に,技術の利用に批判的な者自身が自己決定の立場をとっていること,さらに自己所有・自己決定の問題はこの主題に限らず私達の社会において問われるべき重要性を持つこと,とすれば,こうした視角から考えを詰めておくことに意味があると考えるからである。これと関係して,第三に,私は生殖技術の応用に対する批判あるいは懐疑に見るべきものがある,そしてそれは生殖技術の問題に留まらない射程を持つと考えているからである。それを明確にしていく作業が必要であり,そのためにも,論点を整理し,そのことによって懐疑の核心に迫っていく作業が必要だと考える。
 論文1(立岩[1993a])では,技術の現況を簡単に紹介した後,この主題が所有と決定の問題として捉えられることを述べ,何を検討すべきかを指摘した。述べたことを簡単に振り返っておこう。「私のものは私のもの」という私的所有→自己決定の観念はそれ以上根拠づけられないものとしてある。そこでこの規範から帰結する結果によってこれを正当化する主張がある。まず,(自己決定に対置されるものが一元的な決定なのだとすれば)決定の多様性による危険の分散という主張があった。ただこの論点はここでは置いてよい。 A:(自己の行為に対する)自己決定は,その者の行為を有効に引き出すために有利だという主張がある。人は自己のために有利になるように行動しようとするから,それを前提してシステムを組んだ方がより有効に行為を引き出すことができる。例えば,労働を強制したり無理に配分の平等を追求したら,十分な行為を得ることができないだろうし,またどこかにこうした欲求に支配される場(闇市場)が生ずることは避けられないはずだと言う。しかし,これは当人が「出し惜しみ」できる部分についてだけ言える。所与として与えられているもの,そこから派生する部分については当てはまらない。
 B:次の正当化の言説は,自己決定は自己に有利だというだけのこと,自己が自ら行うことは自己に有利なことのはずだという,恐ろしく単純な,しかし間違っているとも言えないことを言う。そして,これを拡張し,例えば,市場は,各々が各々の手持ちのものを処分する場であり,各々はそれによって利益を得ており,市場はそうした者達だけによって構成されているから,市場はそこに参加する者全てに利益をもたらすと言う。だが,これは,所有の初期値を問わないものとして前提する限りにおいてのみ妥当な言明である。
 C:幸福の総量,功利主義という基準をとった場合には,私に所与として与えられているものの私への帰属は正当化されえない。
 A・B・Cとも,私の身体の私への帰属を正当化できない。この問題をどう考えるか,これを課題として残したまま,私達はいったん,自己所有・自己決定が一般に承認されている原理としてあるという場所からの考察を始めたのだった。そして論文2で,自己決定の前提としての情報提供の問題を検討した後,自己決定に反する強制として技術の利用がなされているという指摘を検討し,この主張によって否定できるのは現実総体のかなり限定された部分でしかないという結論を得た。
 上に見たように,配分の初期値の問題は残っている。さらに,身体の自己所有を認めたとしても,それ以外の財の配分を公平に配分し,その上で自己決定を承認するなら,それ以後はBの条件は満たされる。Aの論点もこの場合にはさほど問題にはならない。このように,公平という視点をとることができる。この原則から,現実に行われていることがこの原則に反しているとする主張がありうるし,実際にしばしばなされている。個々が所有する財の状態によって,誰もが享受すべきものを得ることができない人がいる,あるいは誰もが避けるべきものを避けることができない人がいると言うのである。本稿はこうした主張を検討する。まず,生殖技術の現況あるいは可能性について,こうした論点を提示している文章をいくつか引用する。多くの論者がこのことを指摘していることがわかる。

@「貧困層,マイノリティの成員は,IVF−ETで子を得るためしばしば必要な何回もの試みに通常必要とされる3〜5万ドルを持っていない。しかも子を得られるのは「幸運な」カップルに限られる。大多数は失敗に終わるのである。」(Henifin[1988:5](2))
A「胚を女性から別の女性に移植することが日常的に可能になれば(実験的には既に行われている),第三世界の女性により豊かな西洋人の子どもを産ませる道が開かれることになる。」(Corea[1987:43])
B「…第三世界の女性が白人の,西洋人に安価な種畜breedersとして使われている(少なくともある代理母斡旋業者は現在この国家間の移送を具体的に計画している)」(Corea[1990:326])
C「なりたいなら「代理母」になる「自由」な選択が与えられるべきだという議論を聞く。だがそれは何を意味するか。ある調査では「代理」母になった女性の40%が失業者または生活保護を受けている人だった。…人種差別主義者が胚洗浄・代理母という方法を支持するのは,メキシコや中央アメリカ出身の女性が白人の北アメリカの女性からの卵によって作られた胚を懐妊するのに好適だということなのである。」(Spallone[1989:81](3))
D「代理母と呼ばれる女性によって供給が行われる。しかし,この市場で最も支配的な存在は代理母のブローカー/ビジネス・マンである。彼は,実際,女性の周旋者なのだ。
 代理母は,女性の経済的な生存のための選択肢として正当化され,必要な女性の仕事として描かれてきた。女性の仕事とされる仕事が賃金と地位が低く危険性の高いものであることは世界的な事実だ。賃金均等法にもかかわらず,女性と男性の間の賃金格差は世界的なものであり,さらに拡大している。……女性が経済的な尊厳と生存をあらゆるところで否定されているというこの文脈において,初めて子宮を売り渡すことが女性の経済的な選択肢として現れる。」(Institute on Women and Technology[1990:323])
E「五年以上もまえに,フェミストは…有色人種の女性は「純粋」代理母の標的にされると警告した。そして代理母ブローカーは,「契約する女たちを集めに第三世界へ行く」と,はっきり認めている。そこなら高くなっている経費をもっと安くできるだろうし,女を働かせるのももっと楽だろうと言っている。」(Raymond[1991=1991:154])
F「代理母の現実の核心は,それらが階級差別主義者のものであり性差別主義者のものであること,すなわち,貧しい女性を搾取することにより白人の男性が血縁上のつながりのある子を持つ手段であるということである。それらは「切実に」欲する者にただ赤ん坊を提供するだけだと宣伝されるのだが,実際には経済的な公平と正義に関する原則的な観念を破壊するものであり,我々の平等そして本来値段のつけられない人間の生命の価値への傾倒の土台を浸食するものである。」(Annas[1990:43])
G「…高い費用がかかるため,それを利用できるのは一部の人々に限られ,公平な技術の使用は不可能である。さらに,代理母の契約にみられるように,高額所得者が低所得者を代理母として利用するという新たな搾取関係を生み出す可能性もある。」(五條[1991:51)
H「現代の代理母制度の一番の問題点は,それが商業化によって代理母と彼女の助力を求める人間の両方の搾取を助長しているということである。依頼者は助力の対価として法外な金額を要求される可能性がある。また,代理母自身が貧困あるいは失業のためにこの役割を強制されることも事実なのである。誰しもが貧困か搾取かの選択では後者を選ぶのが普通である。」(難波[1992:148])
I「出産しても不利にならずに働き続ける条件がもっと整っていたら,女性たちは凍結受精卵による出産などに,そんなに心をひかれはしない。」(駒野[1989:123])

 実態はどのようなものなのか。いくつかの報告からおおよそのところを紹介する。
 まず体外受精について。日本での費用は,一サイクル(検査→排卵誘発→入院→採卵→体外受精→胚移植→退院)50〜100万円(柘植[1991:25]),米国では低めにみても5千ドルだという(Raymond[1991=1991:152])。1回で成功することは多くはないから,大抵の場合には,その数倍かかる。そして結局それが失敗に終わった場合にも,払った分が返ってくるわけではない。
 次に代理母契約の場合。米国では依頼者は斡旋業者に2万5千ドル程度を支払い,代理母側は報酬として1万ドル程度と保険料・医療費等の経費を受け取るとされる(Ince[1984=1986:86],Charo[1990:89,91])。また,フランスでの代理母の報酬は5万フランと言われる(新倉[1989:79-80])。どのような人が代理母を依頼しまた引き受けるのか。合衆国議会の技術アセスメント局(OTA)の1988年の報告によれば,代理母契約を望む者の圧倒的多数は白人の結婚した30代後半から40代前半のカップルであり,一般に暮らし向きがよく高学歴である。約64%の世帯収入は年5万ドルを超え,約28%は3〜5万ドルの間である。少なくとも37%が大学を卒業しており,54%が大学院に通っていた。他方,代理母契約に応ずる女性の88%はヒスパニックでない白人だった。彼女らを雇う人達より学歴が低く家計が安定していない。大学に通った者は35%,大学院に通った者は4%だけである。30%は3〜5万ドルの年収があるが,66%は3万ドル未満しか収入がない。(4)

■2.富める者しか利用できない?

 技術を利用しようとする側が所有する財の不均衡に起因する不平等が指摘される。当然のこと,他者が欲しがる財を多く持つ者の方がその他者の財を獲得する機会に恵まれている。こうして,需要の側に格差・選別が生じることが必定である。ここで問題になるのは,かなりの費用とそして何より時間を要する体外受精と,代理母を「雇用」することによる経費がかかる代理母契約の場合である。例えば,裕福な層だけが体外受精を行うことができるといった指摘がなされる。
 こうした議論では,ここで譲渡される対象が,譲渡を受ける人にとって好ましいものであることが前提になっていることを確認せねばならない。譲渡を受け利用できてしかるべきだとすれば,それが実現されていないことが問題なのだと言えるが,そうではなく,本来望ましくないのであれば,そこでこの議論は終わる。したがって,ここでは,利用されてよいという前提を取ることになる。
 ならば,それが一般的に価値あるものだとするなら,それを多くの人に行き渡るようにすればよいではないかという議論があるだろう。自己決定の原理と公平の原理は確かに対立する場面があるが,公平の原理を強調する者も,自己決定総体を問題にするわけではない。むしろ,これを積極的に擁護し,これが実質的に困難になっていることを非難する。資源,資源に接近する可能性を平等に保障し,その上での決定は自己にまかせる。これこそが実質的な自己決定と言えるのではないか,このような主張が当然可能なはずだ。
 A:まず,贈与も売買も認めずそのままにしておく方が公平だと言えるのか。不妊という状態にあることに当事者達は責任がない。生殖技術の応用によって,そうした状態にあって子供を持ちたい多くの人が子供を持つこともできるかもしれない。とすれば,譲渡を禁止することは現状維持にしかならず,かえって不平等である,社会的に公正でないと批判することもできる。こうして,平等の原理から技術の制限の不当を言うこと,この技術そのものはむしろ平等を達成する,少なくとも平等の原理により適ったものだと言うことも十分に可能である。
 B:売買における格差がよく指摘される。金銭が介在することによって不平等が生ずるのは明らかだ。しかし,贈与としてなされることが不平等を生まないかどうかはわからない。贈与においても,相対的に供与を受けやすい地位があるだろう。贈与を行おうとする動機は必ずしも対象を限定せず人類全体に対して及ぶものではないからだ。例えば,腎臓移植が家族・親族間に限られるとすれば,移植を受けられるのはそうした家族・親族がいる場合に限られる。とすると,売買の場合に比して贈与の方が有利だとは必ずしも言えない。自発的な行為によっては得ることがより困難であるかもしれない。とすればかえって金銭を介在させた方がよい場合があるかもしれない。これに反論がないわけではない。例えば,Titmuss[1972]で,血液の提供の方法として無償の贈与の方が有効だったことが指摘されており,Rothman[1988:9-10]がこれを紹介して,社会政策が商品化を支持することは利他的な行為を行う権利,贈与する権利を妨げると述べている。確かに,血液の提供のような比較的に負担の少ない場合には,多分,それを売ろうとするよりもむしろ他者のためにそれを提供しようとする動機の方が大きい,あるいは前者の動機を持つ人より後者の動機を持つ人の方が多い。骨髄までは恐らくこのことは言えるだろう。しかし出産となるとどうか。長期的で大きな負担がかかるものについては有償の方が有効かもしれない。
 A・Bを認めたとしてもなお,経済的な格差によってこの技術に接近できない人が出るという現実は確かに残る。だが,だとすれば,公的な医療保険制度の中に組み入れるなりして,その不平等を軽減し,全ての人がこれを利用できるようにすればよいではないかという主張が成り立ち得る。もし仮に贈与によるよりも対価が支払われる方が,それを得やすいのだとすれば,それに対価を払い,その対価を払うことができるかできないかという差が問題なのだとすれば,財の再分配策によって誰もが技術を利用できるようにするなら,それが一番公平ではないか。また私的保険も,一時の集中的な出費をいくらかは軽減することができよう。実際,オーストラリアでは体外受精に必要な医療費の三分の二が公費負担であり,イギリスでも私的保険がきき,公費サービスの範囲内で無料で実施している一,二の機関があると言われる(青木[1989:212])。さらに,検査・「治療」に時間がかかる等の問題についても,例えば育児休暇をとることができるのと同じように制度を整備するなら,ある程度の解決が可能かもしれない。
 また,特に強く批判されているのが代理母の斡旋機関,特にそこから利潤をあげている企業である。しかし,よほど幸運であるか,個人で広告を出して人を探することができる十分な資金を持っているのでなければ,個人的に契約者を得ることは難しい。この技術への接近の可能性を広げるという意味では,何らかの機関があった方が契約に応ずる人を見つけることが容易だろう。とすると,こうした媒介行為から利益を得ること自体の問題性を別に言わねばならない。もし各自が利用できる資源が公平に確保されるなら,ある程度の利益を上げる機関の存在は,技術への接近の公平性の確保という点から,有用だとされることになるかもしれない。利益を上げ過ぎていることが問題なのだろうか。しかし過剰な利益を上げていると言うその根拠はどこに求められるのか。また,適正な媒介活動を行う機関は成立しえないものなのか。
 ここで財の再分配を主張することは,子を得ようとすることに他者の財(税金,保険料)が使用されてよいのだと主張することである。全ては全ての者に平等に配分されるべきであるという議論をするならば,それはそれで一貫している。しかし,この技術について得に平等性が特別に追求されるべきだと主張するなら,子を持つことが特に重要な事柄であり,公的な支給を引出すべき権利として認められてよいのだと言うことになる。不妊は「病気」ではないのだから,生殖技術の適用は医療行為ではないという主張もある。しかし,私達の社会は狭義の医療だけに限らず,種々の公的な援助を行っているのであり,それらが認められるとすれば,これもまた――医療保険の中に含めるかどうかはともかく――公的な援助が認められてよいと言う余地はある。
 この主題,子を持つ権利がどのような権利なのかについては議論がある。本格的な検討は別稿に委ねることにするが,簡単に触れておこう。論者によっては,これは他者にその実現を要求できる「積極的な権利」ではなく,その実現が他者により妨げられないという「消極的な権利」だとし,技術の利用を制限する主張を行う(Capron & Radin[1990],Jonas[1992])。また例えば,代理母自体を禁止する根拠がないというだけで積極的に推奨する理由はないのだから,商業的代理母を禁ずることによって,この技術に接近できない者が出てきたとしても,それはそれで問題とするにはあたらないという主張がなされる(Macklin[1990:148])。しかし,商業的代理母の禁止(上の3人の論者とも同じ立場を取っている)に関しては,(無償の場合より技術利用への接近が容易かもしれない)金銭の介在自体の問題性自体を独立に言う必要がある。消極的な権利だとしても,それだけでは金銭の介在を禁止できないからである。また,消極的な権利だから,その契約を国家が保護する義務はないとする主張(Capron& Radin[1990:70-72])についても,Robertson[1990:36-38]が指摘するように,一般に国家は消極的な権利の場合でも契約の履行を保護するのだから,これも消極的な権利云々と独立に言わねばならない。消極的な権利であるとする立場から導かれないのは,公的な保険制度に組込むといった財の再分配の場合に限られることは明らかである。その上で,どうして子を持とうとすることが消極的な権利だと言えるのかを問いうる。この点は明確ではない。子を持つことが多くの人にとって基本的で重要な事柄だと考えられているとするなら,個々の持つ財の多寡によって子を得ることができない者が出てくるのは不当だと主張することも十分に可能ではないか。
 では,先に引用したような批判者達はどのような位置にいることになるのか。批判者は,費用が高額であるがゆえに,その技術を利用できる人とできない人との間に格差が出てくることを指摘している。ではその者は,各自の所有する財の格差のゆえに格差が生じうるものの利用は,そのことのゆえに禁止すべきだという,一般に承認されがたい論理を取るのだろうか。この論理からは,通常の医療,特に高度医療,また教育,等々の全てが禁止される。そうでないなら,積極的な権利として考えているということになる。だからこそ,それが達成されない現状が問題にされることになるからである。このような帰結になってしまう。以上のように考えるなら,この論点は,生殖技術のあり方を基本的に批判しうるものではなく,むしろ利用の現在のあり方の不備を指摘するものと見るしかない。これに同意せず,それでもなおこの技術が根本的に不公平なものだと主張するためには,この技術の応用に対する財の再分配が原理的に不可能であることを言わねばならないのだが,このことは論証されてはいない,私が考える範囲でも見当たらない。しかも,再分配を行わず(行えず)市場の原理にまかせたとしてもなお,技術を全く使用しないこと,贈与としての提供しか認めないことよりも,この技術に接近できる人の方が多く,より公平に近いという主張も可能なのだ。

■3.貧しい者が搾取される?

 もう一つの指摘は,売却者・譲渡者に即してのものである。売買,特に有償での代理母契約について問題にされるのは,困窮者が譲渡する側にまわるだろうということである。
 これはその行為が自由な行為ではなく強いられたものだとする批判に連続している。ただ,論文2で検討した強制についての議論は,譲渡が真に自由な譲渡とは言えないのではないかというものだったが,ここでは,仮にそれが自由な行動であり,自己決定の原理にかなっていると言えるとしても,問題がないとはされない。その者が所有している財が少ないために,その財を得るために,自身の持つものを譲渡せねばならない。ここでは個々に配分されている財の初期状況が問題にされるのである。周知のようにこれは性の商品化についてよく問題にされることである。生殖技術についてもこうした議論は多い。殊に代理母契約の場合が,その負担が大きいゆえに,大きな問題になる。例えば代理母になる者が貧困層に偏っているという批判がある。さらにこれは「南北問題」として捉えられる。これも,第三世界の女性や臓器提供者の問題が指摘されるのと同じである。
 これはもっともな指摘のように思える。しかし,何に焦準した批判なのか,何を問題にしているのか。少し詳しく見た方がよいと思う。
 まず社会に広く存在する不公平それ自体が問題だと言うのだろうか。全てのものが,本来なら譲渡・交換されてはならないものだと言うなら,そしてそれに正当な理由が付されるなら,それはそれで,完全な自給自足,あるいは商品世界の廃棄といった代替案の実現可能性はともかく,論理としては成立する。例えば,全ての行為が自発的に行われねばならないとすれば,そして商品として提供することに何か強制的な部分,不平等につながっていく契機があるのだとすれば,それを根拠に批判し,商品という範疇を否定すべきことを主張することはできる。また役割の分化,あるいは固定化が生ずることをもって批判することもできる。だが,こうして,たとえば譲渡したくないものを譲渡せねば生きていけないその悲惨さ一般が問題にされねばならないのだとすれば,その批判は,やはり財の不平等な布置それ自体に向けられるべきではないか。ここで,これだけを禁止することは,一つの生活のあり方を奪うことでしかなく,格差の縮小には結びつかないのではないか。
 しかし,ここでは特に生殖に関わるいくつかの事柄が取り出されている。別の問いが発せられる。これはなぜか。特に「第三世界」との関係において,この「労働」が安く買われることの問題性が指摘される。しかし,国家間の物価と賃金の格差全般が認められないとする立場を取るのでないから,この指摘に対しても全く同じことが言える。
 では,社会的な不公平の集約的な現われとしてこの問題があるということだろうか。私達は生活のために様々のことをせねばならず,ある者にとっては,ある仕事が唯一得られる仕事であるのかもしれない。そうした仕事として,代理母やあるいは売春が行われることがあるかもしれない。これに対しては,まず事実としてそういう状況になっているのかという問題があろう。そして,仮にそのような状況であるとしても,やはりそのものの譲渡が固有に問題であると言えて,初めてそれを生じさせている状況を問題化しうるはずだ。だから,ここでもまず問われるべきは,なぜこの譲渡が問題なのかである。
 格差の拡大を問題にしても同じだと考える。交換により,その初期条件において有利なものは,より有利な位置を占めることができ,仕方なく交換に応じねばならない者は身ぐるみ剥ぎ取られていく。例えば,専門的な訓練を受け専門職につき相対的に高い賃金と地位を得ている女性が代理母契約によって子を持ち,妊娠期間も仕事を継続することによって自らの賃金と地位を確保し高めていくことができるのに対して,そもそもそのような場にいることのできない女性が提供できるものは自身の肉体しかなく,例えば代理母契約に応ずることになる。こうして一定期間ある程度の賃金をその仕事によって得られたとしても,結局のところ彼女は多くを得ることはできず,貧困のうちにとどめられるだろうと言う。これに対しても,まず実際に格差を拡大させていると言えるかどうか。仮に言えるとしよう。だが,他にもそうした格差を形成させるような関係はそこここに見出される。とすれば,これを特に問題にするのはなぜか。今までこの領域はこうした原則に支配されていなかったというのは理由にならない。格差を拡大させるような関係がいくつも以前からある時に,新しいものだけを認めないという理由はないからである。
 こうして,やはり,譲渡・売却一般ではなく,生殖に関わる場面での売買が,また例えば性の商品化や臓器の売却が特別に問題にされるべきだとすれば,それはなぜなのかという問いが残る。なぜ,他の商品化されるものとは別に,それらの譲渡が問題なのかという問いに答えねばならない。自分の家の前の畑で出来たキャベツを貧困ゆえに売却することはさほど問題ではないが,性や臓器や子宮を提供することはそうではない。これはどういうことなのか。譲渡の何が問題になっているのか。
 まず,本来は誰もが等しく負わねばならない負担なのに,その負担が特定の人にかかることが問題になっているのではないだろう。では,それを特定の人が(貧困ゆえに)せねばならないから,貧しい者にとって否応のない強制としてあるから,問題なのだろうか。
 しかし,自発的に,喜んでその行為に参加する人,少なくともそのように言う人達はいる。こうした場合には問題はないとするのか。立場が分れるかもしれない。問題はないのだと言う立場もあろう。だがそうだとすれば,それは,金銭を介する譲渡の少なくとも全てを問題にすることはできないということである。
 さらに,次のような事態をどう考えるか。私達は多かれ少なかれ嫌な仕事をその対価ゆえに引き受ける。そしてそれは,ともかくも当人が引き受けたことのだから,仕方のないこととされる。譲渡する者はそれによって得るものがあるだろう。だから譲渡するのである。譲渡するものは大切なものであるかもしれない。ある条件があれば,譲渡する必要がなかっただろう。しかし,その者は譲渡によって得られるものにより大きな価値を認めた。一般に私達は,こうした場合を良いことであるとは考えないとしても,仕方のないこととして認めている。これもまた自発的な譲渡であると考えている。代理母契約の場合にしても基本的にこのような条件は満たしてはいる,少なくとも満たされなくてはならないとは考えられている。とすれば,結局のところ全てを認めるざるを得ないことになるのではないか。しかし,生殖技術の応用のあり方に疑念をいだく人は,譲渡を禁止すべきだと主張するかどうかは別としても,このような帰結をそのまま受け入れることをためらうだろう。とすれば先に出した問いはまだ答えられてはいない。
 とすると,そこに金銭が介在すること自体が問題とされているということではないか。とすれば,特に生活に困っていなくても,それを担わねばならない緊急の事情がなくとも,それが金銭を目的とするものであるなら問題だということになる。例えば,代理母契約が「赤ん坊の売却 baby-selling 」として批判される。このように言い得るものかどうかはここでは検討しない。ただ何かを売却しているのではあろう。それが問題になっている。そして,金持ちが赤ん坊を売ってもやはりそれは(むしろ貧乏人がやむにやまれず子を売るよりもなおいっそう)非難の対象になるだろう。つまり,「本来商品化されるべきでない」という判断がまずあり,それを前提にして「そうしたものを商品化せねばならないことの悲惨」が問題化されていると考えるしかない。そしてそれは,先に述べたように,やむなく商品化に応じねばならないという当人の意識に定位したものであるとは考えられない。繰り返せば,第一に当事者がいやいや応じているとは限らないから,第二に,いやいややっていることの全てを禁ずるべきであると私達は通常考えていないからである。Iのような言明も実はここに置いて考えるべきなのだ。今度は,技術を使用せねば子を持つことができないわけではないのに,ある事情で技術を利用することが強いられる。しかし,強いられていると考えない人の場合にはどうか(cf.橋爪[1990])。そうした場合にも何かしら抵抗を感じる人がいるとすれば,その抵抗感はどこに発するのか。
 性の商品化でも,特に「第三世界」との関係で,貧困による強制が問題にされるが,そういう視角で捉えられない「自発的」な商品化という現象が現われてきた時に,商品化自体がなぜ問題なのかに答えることを迫られる。同じことを,私は論理の問題として述べてきた(性と生殖の双方を問題化しうる根拠が同じであると言うのではない)。ではその「本来商品化されるべきではない」ことはどのように言えるのか。繰り返すが,それは,第一義的には不公平を発生させるからではない。公平の問題を無視してよいと主張しているのではない。商品化が問題化されるのなら,それを担わねばならない状況に置かれることの悲惨が問題にされる。生殖にかかわる身体的器官・身体的過程が商品化された時に,その商品を提供する側に置かれやすいのは貧窮のうちにある人々であるのは間違いない。しかし,その悲惨は,本来商品化されてはならないということを前提とした悲惨なのである。

■4.結論と課題

 こうして確認されたのは,第一に,富める者しか利用できないという指摘はこの技術に対する根本的な批判にはならず,むしろその適用の拡大を求めるものとなること,またこの問題は少なくとも原則的には解決不可能な問題ではないということだった。第二に,貧しい者が専ら譲渡する側に回るという指摘にしても,実は(不)公平自体が最初の問題ではないということ,譲渡自体に,しかも譲渡(売買)一般ではなくこの技術に関わる譲渡に対して特に,否定的な価値が与えられて初めて譲渡せざるを得ないことが問題になるということだった。また,「強いられている」と言う時にもまた商品化が問題だと言う時にも,問題にされているのは強制されているという当事者の意識自体ではないことだった。とすると,この技術の応用,商品化に対する疑念の中核が,こうした当人の意識の水準とはまた別の,どのような場所にあるのかをさらに考えねばならない。次に,それが明らかになったとして,本人の意思を超えて技術の制限が可能かどうかを検討せねばならない。
 このことに,先に引用したような論者が言及していないというのではない(例えばF)が,あえて本稿ではその部分には触れなかった。自明のこととして済ませられる,一言言って済ませられる問題ではないと思うからだ。これが論文4(立岩[1993C]) の考察の主題になる。確実にここに見出される契機は,一つに(自発的にであれ,「しぶしぶ」であれ)「何らかの対価(金銭とは限らない)のために譲渡する」ということだと思う。このこと自体を私達はまず問題にしており,しかる後に,それが人々の持つ財のあり方に規定されてなされていること,なさざるを得ない層がいることを気にしているのではないか。このことを巡って考察を行う。個々の技術の応用のあり方について,意図的に無視してきた論点(特に子の問題)を含め,立ち入った検討に入るのは,その論文の後の作業になる。

■注
(1) 技術とその利用の概要については既に関連書があり,それ以上の情報を提供する用意が今はない。ただ,情報の提供量が既に十分な水準に達していると考えているのではなく,私もいくつかの具体的な主題に関する報告を今後行う予定(現在,代理母についての報道や論説を収集中,等)。請求があれば,現時点での資料,文献リスト,論文1・2・4,他を送付する(→181 三鷹市上連雀4-2-19,tel & fax:0422-45-2947)。なお本稿は庭野平和財団の研究助成(1993年)を得て行われている研究の一部をなす。
(2) 特に医療が十分に受けられないために不妊の率が高い貧困層・マイノリティにとっては,不妊の予防策がより現実的な解決策だという文脈の中での文章。IVF−ET=体外授精−胚移植。一般に体外受精と呼ぶ時には胚移植の過程も含んでのことが多い。なお,この部分で著者が参照を求めているのは Hollinger[1985]。
(3) 第二文はWinlade[1981]を引いている。第三文はCorea[1985]の代理母斡旋業へのインタヴューを受けての記述。胚洗浄Embryo flushing は,ここでは依頼者側の女性の胚を子宮から取り出す(洗い出す)こと。これを第三者の子宮に戻して出産する。子は依頼した男女の遺伝子を引き継ぐ。通常の代理母出産と区別し「代理出産(借り腹)」とも呼ばれる。ただ,体外受精を用いるのが普通。AEもこの方法についての言及である。
(4) Charo[1990]。OTAの調査報告を含め1980年代に発表された6つの調査結果がまとめられている(pp.90-91に表がある)。ただOTAの報告以外は調査項目は多くない。

■参考文献
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※ 改題・内容一部変更の上,「身体の私的所有について」,『現代思想』21-12,とし  て発表された(1993.11)


REV: 20161031
『Sociology Today』  ◇立岩 真也
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