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身体の私的所有について

立岩 真也 1993/11/01 『現代思想』21-12,pp.263-271



■0 問題
 医療の分野では「自己決定」が流行である。そして市場の優勢は動かし難いかに見える。それらが私的所有(所有と決定は同じこととされる)の正しさを語っているのなら,皆がそれを受け入れているなら,所有を巡る問いは既に終わっているのか。全然そうではない。
 例えば、臓器や性や生殖は交換が禁じられている、あるいは禁じられてはいないまでも良からぬことだと(少なくともある人々に)思われている。市場の優位が語られるこの社会にあっても、私的所有−自己決定の原理によっては正当化されない事態がいくらもある。なぜなのか。私達の社会はどのように構成されているのか。どうあればよいのか。いろいろと論じられてはいるが、論じ尽くされてはいない。そして混乱している。例えば、同一の主題に対して、対立する双方、例えば生殖技術を巡ってこれを肯定する側と批判する側の双方が「自己決定」を持ち出すことがある。あるいは、かなりの部分「自由主義者」だと思う私は、その立場に立てば許容されることになるはずの全てのことに全面的に賛成かというとそうでもない。どうしてこういうことになってしまうのか。自分でもはっきりしない。だが同時に、引き裂かれているように思われる(とりあえず私の)立場は、実は一貫しているはずだとも感じる。一貫した言葉で表現されていないとしても、それはそれなりにシンプルなもののはずだ。あまり複雑なことを私達は考えられない。ここで行おうと思うのは、私(達)がどこかで有している感覚を確認することである。★01
 この作業を一つの例題を考えることから始める。私の身体が私のもとに置かれるのはなぜか。
 かつては、臓器を取り出してその者を死なせても、別の者がそれを利用して生きられることはなかった。生命が大抵のものより大切なものなら、生命を失わせる代わりに得られるものは生命よりは大切なものではないのだから、その行為は許容されない。しかし移植の技術が、Aは死ぬがそのことでBは生きることができるという状況を現実にした。私のものであるなどと意識することのなかった、誰のものかなど考えてもみなかったものが身体から遊離する可能性が登場し、社会的な過程、決定の過程の中に投込まれる。無論、現実には生体から心臓等の生命維持に関わる臓器を移植することなど認められていない。移植は死者からに限られる。そこでいつが死の時点と言えるのかという問題が現われ、議論されている。しかし、それが示している問題は、もっと遡ったところで考えてよい。臓器aを採り出せばAは確実に死ぬ。どう考えてもこれは殺人だと私達は思う。aの取得が目的でAを殺すことは意図されていないというのは詭弁である。しかし、aを移植しないことによってBが死ぬのも確実である。移植を認めないのは、臓器aがAのものであるという前提のもとでだけ言えるのではないか。けれどどうしてaがAのものだと言えるのか。あるいは、どうしてもこう言わないと、Aからaを奪わないことを言えないのか。前者の問い方から検討する。つまりこの時代の所有の正当化の検討を行う。

■1 利益?(1)
 財の流通・配分を決定するこの社会の主要な原理は、私的所有の原理である。自己のもの、自分のものから結果するものは自己が保有・処分する権利、そして自分がその帰結を引き受ける義務がある。この原理を冒さない相互行為は、同意に基づいた行為であり、双方に同意のある行為は私事として当事者以外の関与するところではないとされる。
 一番単純なこの原理の擁護者は、この原理が自己(当事者)にとって有利だと主張する。決定が自己決定である以上、それは自己にとって有利なはずだと言うのである。これは確かに随分単純な主張ではあるが、そう簡単に否定できない。私達は、いつも十分な計算の上でとは言えないにしても、自分の損になることは回避し得になるだろう方を選んでいるという気は確かにするからだ。そしてこれを拡張し、例えば、市場は各々が各々の手持ちのものを処分する場であり、各々はそれによって利益を得ており、市場はそうした者達だけによって構成されているから、市場はそこに参加する者全てに利益をもたらすと言う。
 Aは自らが死んで(腎臓一個・肝臓の一部ならひとまず死なないが)臓器を差し出すことはできる。だがそうしようとする人はまずいない。支払うものが大きすぎるからだ。とすると、Bは何を払ってもそれを得ることはできず、利益を得ること(生きること)ができない。これはこれでよいということになる。あるいはAはBから得るものと引き換えに臓器を差し出す。両者は交換が行われる前よりも幸福になった。そうかもしれない。
 だが、これは、所有の初期値を問わずに前提する限りでだけ妥当な言明である。どのように配分されていても、それを前提としてそれ以降になされる、自己決定・同意に基づいた処分は、当事者に利益をもたらすとは言い得る。だがそれは、その「自己決定」の対象となる財の個々の主体への配分のあり方自体を正当化するものでは決してない。各自の身体の各自への配分にしてもそうである。全く自明のことだ。だが、これが、呑気な自由主義者によってしばしば見逃されている。

■2 自己制御→自己所有
 そもそもの財・行為の所有・処分に対する権限の割り当ての原理はどのようなものか。土地や物、労働の結果の私的所有をどのように基礎づけるのかが問題だった時代、このことを論じる人達がいた。そして、J・ロック達によって設定されたのは、自己労働→自己所有の原理である。自己に属するものから派生・帰結したものに対しては、その者が権利・義務を負うと言うのである(Locke [1689=1968:32-33](第27節))
 ただ、ロックの場合、身体は予めその者のものである。身体そのものは神様が自分に自分のものとして与えてくれるのかもしれない。しかし神様がいないとどうなるのか。身体の所有を疑ってしまうとどうなるか。カントの(初期の)言葉ではこうなる。
 「肉体は私のものである。なぜなら、それは私の自我の一部であり、私の選択意思によって動かされるから。自分の選択意思をもたない生命ある世界や生命なき世界の全体は、私がそれを強制して自分の選択意思のままに動かすことができるかぎり、私のものである。」(Kant[1764/65=1966:309])
 「自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。だが、どんな原理・原則だって、最終的にはそれ以上根拠づけられないような場所に出てしまう。仮にこの論理を認めるとしよう。まず、この論理は「私」が因果の起点であることを要請するから、自由意志といった決して経験的には存在を検証されないようなものを存在させねばならならない。これもさておくとしよう。だが、少なくとも、身体そのものは私自身が作り出したものではない。その内部器官は私が作り出したものでも制御できるものでもない。だから、この主張によって身体の所有を正当化することはできない。

■3 利益?(2)
 次のものは、少なくとも自己の肉体と精神、その力能の行使の自己所有を、それが他者にとって有利であり、ひいては社会全体、まわりまわって自己の利得を増やすだろうと主張する。例えば、貢献に応じた配分を行うなら、予期→行為という連関がうまく作動して、
必要な行為が必要なだけ調達される、必要な者が必要な場所に配置される、だからそのようにシステムを組んだ方が結局有利だと、機能主義者が言う。
 人は、自身が得られるものを予期しながら、自己にとって有利になるような行為を行おうとする。これは先にも述べたように容易に否定できない。自身の能力の活用は自身によってなされているというのが、ひとまず当事者における事実である。これはその身体・力能がどこからきたのか、本来その者のものかどうかということとは別のことである。行為・行為の結果を他者が得ようとする場合には、その者の手足を他者が動かすのでなければ(こんな無駄なことをする者はいない)、その者の欲望/恐怖にかなう形で得るしかない。
 与えられるのは飴でも鞭でもよい。飴が与えられるのは、一つに、強制自体を避けるべきものとする場合だが、これは、既に他者による侵害を排除する所有権を付与していることに等しい。だが、そうした「道徳的」判断と別に、なぜだかともかく強制はしないでおこうという判断があるとしよう。あるいは、どちらが人の行為を効率的に引き出すことができるのかを考慮し、強制によっては多くを得ることはできない(士気の低下、品質の劣化、競争力の低下…)と判断する場合には有利/不利の判断があるだけである。そしてそれは、苦労した者には相応のものが与えられるべきだという感覚にも合致する(しかしその相応のという評価は相手に依存する)。ここで制度を前提せずに市場が始まる。
 これは本当は誰のものかという問題を回避して、私的所有の有利さを言う。しかし、その有利さは、当人が「出し惜しみ」できる部分、自身がそれを行う/行わないが選択できる場合についてだけ言える。何も与えねば/さぼれば、さぼることが/与えないことが出来る人はさぼる/与えないかもしれない。その場合に、その者に、さぼらない程の/与えてくれるほどの対価/労働を与える、その方が生産的だと言うのである。
 だがこうした場合に限っても、常にそれが本当に有利なのか。この問いは置くとしても、当の者の作為が働かない部分についてはどうか。Aは作り出せるもの、Bに与えるものが何もない。だからAは生きていけない。何も、でなくてもよい。作れるもの、与えられるものが少ない人がいる。その者にとっては例えば人数割の分配より不利だ。別段さぼっているわけではない。なぜそれを引き受けねばならないのか。そのような人にこのシステム(が少なくとも社会の全体を覆うこと)の有利さと、正しさを示すことは出来ない。
 身体・生命についてはどうか。考えられるとすれば、所有を認めることによってAは自己の健康を管理し、身体aを丈夫に保つだろうということ、そのことによって、また社会も健康に維持されるだろうという言い方だ。教育期間が過ぎた後で、頭脳を籤引きで入れ替えることになったら、みんな勉強しないだろうというのも同じだ。農地を私有させた方が、農地がよく管理され、より多くの質のよい農作物が生産されるだろうといった主張と同類である。全く考えられないことではない。しかし、別段、体に悪いことをしてきたわけでもないし今後もするつもりはないのに、病を得てしまう人はいる。なんでそれを受け入れねばならないのかという人を説得できるほど利益は大きいか。また、健康への努力と関係なく維持される/維持されない身体の器官・性質もある。さらに、(同年代の者から移植は行われるとして)生まれたばかりの赤ん坊の臓器や、飲酒癖のない年代の子どもの肝臓についてはこの理屈は働かない。

■4 正しい功利主義
 1と3は有利さを根拠に置いた。しかし1は(身体を含めた)財の布置の初期条件を問わない上で成立する。3も限られた部分についての有利さを言うだけである。両方とも私に与えられている身体に言及できない。社会的な効果を基準にするなら、より正しい、包括的なものであるべきだと考えたってよいだろう。どのような配分の初期値も前提せず、各状態から得られる各々の幸福の総量を基準として、その総量が最大であるものを良しとする「正しい」功利主義に立てばどうか。
 財の配分の問題は大抵は量的な分配問題として処理することができる。より多く持つ者がより少なく持つ者にその超過分の(ある部分を)分け与えるなら、世界の幸福は増すかもしれない。少なくとも現実にはそう深刻な問題にはならない。しかし、例えば臓器の場合にはそうはいかない。ハリスが論じているのは、そうした場面である。
 「すべての人に一種の抽選番号(ロッタリー・ナンバー)を与えておく。医師が臓器移植をすれば助かる二、三人の瀕死の人をかかえているのに、適当な臓器が「自然」死によっては入手できない場合には、医師はいつもセントラル・コンピューターに適当な臓器移植提供者の供給を依頼することができる。するとコンピューターはアト・ランダムに一人の適当な提供者のナンバーをはじき出し、選ばれた者は他の二人ないし、それ以上の者の生命を救うべく殺される。」(Harris[1980=1988:170])
 例えば一人の健康人Aの心臓と肝臓を取り出し、それを心臓移植と肝臓移植によって救われる二人の患者Y・Zに移植すれば、二人の生と一人の死が帰結する。これを行わないなら一人の生と二人の死である。最大多数の最大幸福という観点からは前者が選ばれることになる。こう述べた後、ハリスは、予想されるまた実際に寄せられた反論に答えていく。「個性の尊重」という主張に、Y・Zの個性も尊重されるべきだろうと言う、等々。★02
 以上見てきたものの他に「平等」「公平」の原則がある。あるいは「利他主義」がある。しかし、どちらも使えない。二生一死より一生二死の方が平等で公平だと言えるか(「平等」を単なる均等配分とすれば、そもそもここでは分割が不可能だ。三人が三分の二ずつ生きていることはできない)。また、利他主義者は(かなり究極的な利他主義者でないといけないが)、互いに健康な臓器を相手のために譲り合うことになる。

■5 他者
 功利主義の選択は「常識」に反する。だがなぜか。AがAに置かれることは何ゆえに支持されるのか。1.既に健康な身体を持ち、そのままなら生き長らえられるだろう多数派の恐怖があるかもしれない。2.例えば同じ種の生命を奪わないといった、何か「本能」のようなものが働いているのかもしれない。だが、これらだけだろうか。確たる根拠はないが、まだ何かあるのではないかと私は思う。少なくともその可能性を検討することはできる。
 Aが生を欲することとBが生を欲することとの間に違いはない。Aは健康な臓器を与えられている、Bはそうでないという、何の理由もない単なる事実がある。そしてそれに左右されるのは生命である。Aは生命を自分で統御しているのではない。たまたま生命aがAのもとにある。ハリスはこれを考慮すべき差異ではないと考えて進んだ。主体による制御を論拠にする議論は、失敗する。所与のものの所有を作為という契機によって正当化しようとするのだから当然である。とすれば、この単純な事実に注目するしかないではないか。ここでなされる行いは、aをBに移動する場合には他者に対して「なすこと」、aをAのもとに置く場合には「なさないこと」「そのままにしておくこと」である。これは、xがA・Bの中間にいずれかにしか配分できないものとしてあること(この時には仕方なく、場合によってはAとBの数を比較して、どちらかに決めるだろう)とは異なる、というか、ここに私達が差異を認めていると言うしかないのではないか。
 作為と作為する利益から出発する発想を単純に裏返し、逆に考えたらどうか。誰かが何かを制御する時、その制御されるものはその者から切り放された手段として現われる。他方、自分が制御できないもの、正確には制御しないものを、他者と言うとしよう。私に制御できないから他者であるのではない。制御できてもなお、制御しないものとしての他者がある。その他者とは、自分に対する他人だけではなく、自分の精神に、あるいは身体に訪れるものであってもよい。私の身体も私にとって他者でありうる。その他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの、私が制御しないものとして在る。私達はこのような意味での他者、他者性を私から、他人から奪ってはならぬと考えているのではないか。Aが作り出し制御するものではなく、Aのもとに在るもの、Aが在ることを、Bは奪うことはしない、奪ってはならないと考えているのではないか。
 もっと積極的に言えば、人は、決定しないこと、制御しないことを肯定したいのではないか。人は、他者が存在することを認めたいのだと、他者を出来る限り決定しない方が私にとってよいのだという感覚を持っているのだと考えたらどうか。他人から奪わないのは、他人に対して恩があるから、他人によって私が存在しているからだろうか。確かに他人のおかげで私は存在している。だが、少なくともある時には、他人は私の生存の必要条件ではなく、それを阻む存在でもある。何より、他人が私を形成してくれるからその他者を大切にするという具合に、わざわざ自己に回付する必要があるか。もっと単純なことではないか。例えば臓器を受け取って助かった者にとって、具体的に失った者は一人でも、それで済んだのは一人で足りたからであり、可能的には全ての者が自分の生のためにある存在である。つまり、この時に、私は全ての者へ延長していったのであり、世界は私と等しくなる。このような私としての世界を、私は好ましいものと思わないということではないか。
 何もしないことは、Bのいのちが奪われることを帰結する。AがBに自分の心臓を渡さないことが正しいことなのではない。しかしBは、A・B双方の外側にいる者は、それを求めることはできない。しない。結果として、Aの心臓はそのままに置かれる。ここから生ずる、Aが生き残りBが死ぬという帰結に正しさがあるのではない。ただ、求めるという行為をしない、求めることを良いこととしないということだけがある。
 自分が死ぬか生きるかといった時に、そんなことを考えられるものかどうか。私には駄目な気がする。ただ、それでも言い得ると思うのは、あの臓器、つまり生命の移動をしないという感覚もまた事実存在するのなら、それは、決定しないことを、他者があることを、受け入れる、あるいは肯定する感覚の存在を示しているということであり、それが少なくともある場面で、制御しようとするあり方を超えているということである。
 それは、「人権の尊重」等々の、この社会で一般に認められることと違うのか。この感覚が認める/認めない範囲は、それら諸原理が認める/認めない範囲と、おそらく大部分重なる。けれど、同じではない。例えば、他者を認めるのは、その者が何か、例えば「生命」を所有しているから、意識し制御するからではない。所有する時には、所有されるものは所有する者と別に存在する。それは他者が他者であることを構成しない。他者の存在はその者が作り出したものではない。だから、その存在が「自己決定」する存在であることを要しない。そして、その者の自由を要件とするのでもない。その他者は自由でない存在でもある。また、私のもっていない独自の性質、能力、「独創性」、「個性」を持っている必要もない。本当に独自なものなどそうない。私が持っているものは大抵他の誰かも持っている。ここにある感覚も「他者の尊重」という言葉で語ることはできるだろう。それを「人権思想」と言うのだと言われれば、そうかもしれない。しかし、その他者、その人は、具体的に既に存在する人格、既に何かを、何らかの資格を有している存在である必要はない★03。

■6 境界
 ここで述べたのは、私達の生の全域を覆えない不可能なことのように思われる。領有しない、制御しない、そんなことはありえない。私達は、人が自分の思う通りに動いてほしいと思う。それは必要不可欠な、少なくとも好都合なことだ。だから、こうした観念のもとにだけ私達がいるなどと到底言えない。
 そして、私にとって他者である他者にとって私は他者である。このような相互性が成立している。とすると、「他者を決定しない」という思想は、それをAとBの両方について妥当させることを要求する。そして、Aのあり方がBのあり方を決定しBのあり方がAのあり方を決定する相互決定の場面に私達は通常いる。この時にAのあり方を保存することは、Bのあり方を決定することでありうる。とすると、A・Bが得るもの/失うもの比較が要求される。果たしてそんなことができるのか。だが、絶対的な基準などないとしても、することを望んでいる、必要としているのだと答えるしかない。以上で考えてきたのは、Aの生死とBの生死とが相剋する深刻な相剋の場面だった。だが、例えば、Aのもとにあり、Aにとってさほどの意味を持たないものが、Bにとっては生命の維持に直接関わる場合。それをAから奪うことは認められないのか。そんなことはないと思う。
 こうして、一方では生が目的の実現のための手段の遂行としてあることによって、一方では相互性があることよって、何をその者のもとに残し、何を移動させることができるのかという問いが現れる。そして、それは誰が決めるのか。これは、あるものがその者のもとにあることを擁護するが、譲渡を全面的に肯定することはできず、またあるものについては譲渡・交換を認め、さらにあるものは「再分配」が行われることを要求する、そういう一見一貫しない感覚はどのように説明されるのか、という問いでもある。
 実は、この境界は、先に述べたことから直接に導かれると思う。言ったのは、A(の行うこと)の全てを受け入れよということではない。BがAをBでない者=他者として扱うとは、それをAから奪う(受け取る)ことによって、Aが他者として(すなわち私Bでない者として)在ることができないようなものaを奪わないということである。Aにとって手段であるものは、Aが在ることから切り放すことができる。また、Aが手段として使用できるものの多くは、Bも使うことができる。他者Aが他者であることを保存したまま移動させることができる。それは、Bにとっても、他者Aのもとにある(ことを認めようとする)部分ではない。2で見た言明は一つの信念を語るだけである。同じく一つの感覚として、私が制御するものは私が独占的に保持し処分できるものではないと言いうる。
 ただ、それは在ること自体ではないが、在るためのの条件、場合によっては絶対的な条件であることはありうる。もしその者が在るための最低限しか持っていないなら、それを要求することはできない。例えば、臓器は生きていくための手段ではある。しかし、それを失うことは生きていくこと自体を崩壊させる。だからこれを取得することは認められない。これが先のケースだった。
 だがこういうことはそうない。Aのもとに置かれることが認められるのは、他者Aが在ることを認める限りでだと述べた。同じ理由で、Bが在るために必要なものの分配が指示される。ただ、苦労に応じて与えられるべきだとするなら、また3で見たように、私達が私の欲求の充足をめざして行為することを否定しないなら、否定できないなら、交換は確かに有効な方法ではあるのだから、交換も否定されない。ただ、これは正しいことだからではない。制御しないことを(貫くことはできないが)まず置き、その上で制御を仕方のないことと認めることは、何も置かないこととは異なる。双方が互いに手段として接する場合にも、それは最低限の範囲に留められねばならない。★04
 では手段である/手段でないという境界を誰が決めるのか。例えば、Aが譲渡してもかまわないと言うもの(そして分配される必要のないもの、分配されるべきでないもの)については、譲渡は許容されるのか。AがBにとって他者Aであるということの中に、Aが作為する存在であることが含まれる。譲渡を禁止する行いは、他者がそのように譲渡しようとする他者であることを消去する。ゆえに、基本的には、生命の贈与・譲渡さえも許容される。AがBには理解しがたい信仰上の理由で、生命をその信仰の成就のための手段とし生命を差し出したとしても、そのような他者のあり方をBは認める。
 だがなお抵抗がある。例えば、Aが腎臓の提供に応じた。例えば、困窮がAを自殺に追いやった。Aは腎臓よりお金を優位においた。死ぬ方がよかった。Aはそれを選択した。これを否定する必要はない。けれど、私達は、Aの行いを止めることはできなくとも、これらが悲惨なことだと考える。
 確かに、最終的にAの決定を認めると述べた。だがそれは当の者の欲望のあり様が自分とは違うものとしてありうることを認めるからだ。これは単に同意があるならよいということではない。お金bよりも臓器aが現実に大切なもののはずだというというのでもない。大切さは状況相関的に決まる。生きていくこと(それをbがもたらす)が最優先されれば(大抵はそうだろう)、Aは臓器aを売却するだろう。
 Aが在ることと切り離せないもの、在る時にはついてまわるようなものaを切り離さねばならないような状況、Aにとって手段として扱うことができないものを比較せねばならない状況、その一方を失うことによって初めて他方を得ることができるような状況。そしてそのような状況を、それがBにとってやむにやまれぬものであっても、Bが利用すること。さらにBが、自分のなかの何かを変えることなく(=自分から切り放すことの出来るbを譲渡することによって)aを得る、あるいはAにこのようなあり方をとらせること自体を目的とすること(この時、BはAを支配している)。他者を認める、あるいは他者から快楽を得ようとする感覚は、これらに対して抵抗する。★05
 おおよそこのような感覚があるのだと思う。この場所から、この場所のことを考えながら、例えば生殖や死を巡って錯綜する現実を、あるいは「自己決定」「生命の質」その他の言葉によって錯綜を隠蔽している現実を、思考することが出来るだろうと思う。

■注
★01 生殖技術について考えた一連の論文(立岩[1993a][1993b][1993c])で、ひとまず自己決定を承認する立場からどのような批判が可能かを検討した。本稿は、これらの論文の最初に位置づきながら(つまり本稿は「生殖技術論・1」でもある)、直接に自己決定を問題にすることによって、それらの最後に至り着いた場所を反復するものでもある。なおこの一連の作業は庭野平和財団からの研究助成を得て行われている。
★02 同様の事例が加藤尚武[1986:28-38]で論じられている。本稿が構想されたのは、この文章とハリスの論文とによるところが大きい。
★03 何かを感受し直接の被害を被る他者が未だいなくとも、その他者を決定すべきでないという感覚がありうることを、出生前診断・選択的中絶について考えた論文で述べた(立岩[1992a][1992b])。
★04 例えば、職務に必要な部分以外を評価してはならないという「能力主義」の原則は、合意という観念からは出てこないことを考えること(立岩[1994a])。
★05 「性の商品化」について、こうした視角から、しかしこのように述べたことからすぐに想像されるのとは少し違ったことを、立岩[1994b]で述べた。

■文献
Harris, John 1980 The Survival Lottery", Violence and Responsibility=1988 新田章訳,「臓器移植の必要性」,加藤・飯田編[1988:167-184]
Kant, Immanuel 1764/65 ・Bemerken zu den Beobachtungen uber das Gefuhl des Schoneund Erhabenen"=1966 尾渡達雄訳「『美と崇高の感情に関する考察』覚え書き」,『教育学・小論集・遺稿集』(カント全集16):259-355,理想社
加藤 尚武  1986 『バイオエシックスとは何か』,未来社
加藤 尚武・飯田 亘之 編 1988 『バイオエシックスの基礎――欧米の「生命倫理」論』,東海大学出版会
Locke, John 1689 Two Treatises of Goverment=1968 鵜飼信成訳,『市民政府論』,岩波文庫
立岩 真也  1992a 「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」,江原由美子編『フェミニズムの主張』,勁草書房 :167-202
―――――  1992b 「出生前診断・選択的中絶に対する批判は何を批判するか」,生命倫理研究会生殖技術研究チーム『出生前診断を考える』:95-112
―――――  1993a 「生殖技術論・3――公平という視点」,『年報社会学論集』6:107-118
―――――  1993b 「生殖技術論・4――決定しない決定」,『ソシオロゴス』17:110-122
―――――  1993c 「生殖技術論・2――自己決定の条件」,『Sociology Today』4
―――――  1994a 「どのように能力主義とつきあうか」,『解放社会学研究』8
―――――   1994b 「何が性の商品化に抵抗するか」(仮題),江原由美子編『<性の商品化>をめぐって』(仮題),勁草書房

        ※42行×8頁 『現代思想』1993-11原稿

  ※この論文は後に立岩『私的所有論』の中に組み入れられた。


UP:1996 REV:
身体  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇立岩真也:青土社との仕事 
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