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生殖技術論・4

―決定しない決定―

立岩 真也 1993/07 『ソシオロゴス』17:110-122


 生殖技術の利用に対する懐疑の本体は,第一に,自らが決定し制御することに対する疑念であり,第二に,より積極的には,他なるものが私でないことを享受しようとする感覚である。

T 考察の経緯→主題

 本稿は私的所有・自己決定論として,生殖技術を巡る議論を検討する一連の論文の4番目に位置づけられる。(1)
 論文1(立岩[1993a])では,技術の現状に簡単に触れた後,私的所有・自己決定の原理によって技術の使用を擁護する議論があるとし,この原理を検討して,これを正当化する主張として何があるかを見た。次に論文2(立岩[1993b ])で,この原理に内在して,いかなる批判が可能かを検討した。決定の前提としての情報の提供が当然求められ,この不十分さが批判されうること,事実上の強制であり自己決定と言えないとする指摘に対しては,規範に従っていることをもって自己決定でないとは言えないことなどを述べた。また論文3(立岩[1993c ])では,公平の観点から,各々の有する資源の不均衡を指摘する主張を検討した。第一に,例えば,貧困の中でやむを得ず代理母になる者がいるとする指摘について,その事実は認められるが,なぜ生殖技術が特に問題とされるのかという問いが残されることを述べた。第二に,利用者の側の不平等(富裕な者しか技術の恩恵を受けられない)については,誰もが利用できるようにすればよいことにならないかと述べた。
 以上検討した中に見るべき主張はいくつもあった。しかし,基本的なところが答えられていない。あげられた諸点が,生殖技術に対する抵抗感・疑念の核心部だとは思われないのだ。例えば,女性が体外授精のクリニックに通うことが強制に近いと批判される。また,貧しい者が代理母契約に応じることが問題とされる。だが,仕方なく,貧しさゆえに,行われる全ての行為が問題とされるのではなく,その中で特に生殖技術(そして性,臓器…)が何故に問題になるのかが答えられていない。技術の利用,身体の譲渡に関わる疑念の本体は何なのか。自明のことだから語られないのか。しかし少なくとも私にとっては自明ではない。以下は,この主題についての一つの試論である。私達は,自己決定という原理自体を覆そうというのではなく,その中のある決定のあり方,決定しないという決定について考えることになる。

U 制御しないという思想

1 制御・比較の忌避
 例えば臓器の善意の提供は認められるが,売却は認められないとする理由があるだろうか。善意によって与えることは許容されることがあるが,貨幣による対価を期待して与える場合には,より大きな抵抗がある。臓器の売買を認めている国はない。代理母契約についても大勢としては認められていない。さらに,善意による提供であっても否定する考え方がある。とすれば,まず,贈与と売却の差異について考えてみてもよい。ここから,譲渡することに対する抵抗感がどこに起因するものなのかを見ることができるだろう。(2)
 @譲渡されるものは主体によって制御される客体である以上,そのものは主体から分離されたものである。また両者には,制御するもの>制御されるもの,目的>手段という関係が現れることになる。後者は前者に対して第二義的なものとなる。実は,私達はこれを問題にしているのではないか。
 商品化に対する批判として,自己,自己の身体を「モノ化」している,他者によってモノとして扱われると言われる。だが,身体も物体であるには違いない。ここで,モノとして扱うとは,提供する側にとって,自分の身体を手段として扱うということ,例えば性をお金のための手段として扱うことを言っている。これが批判されている。
 A譲渡,特に交換において,譲渡するものと譲渡されるものとの比較可能性が起こることが問題になる。
 1.交換に際して私達は自身が譲渡するものと自身が得るものを比較して,前者の価値が後者を上回る場合に交換を行う。例えば私が性を売り,貨幣を得たとすれば,前者より後者(によって得られるだろうもの)をより重要なものだと考えたということである。私達は,例えば性の商品化について批判的言明を行う時に,その購入者において,貨幣と性とが等値されているといったことを言うことがある。これは必ずしも正確ではない。自身の欲望においては,常に受け取るものの価値が,与えるもののを価値を上回るのである。しかし,そこに交渉が行われるなら,上回る分は減っていくことにはなる。
 2.ここで起こっている事態は(当事者を離れて見れば)「等価」と表現されることにもなる。原理的な水準における平準化が生ずる。とりわけ貨幣は何にでも変換できることによって,商品の全ては同じ平面に並んでしまい,そして数量化され,相対的な位置を与えられる。直接に交換されるものとだけでなく,例えば,1つの臓器は,1年間の代理母としての「労働」は,1年分の生活費に等しいという具合に等値される。
 以上から,贈与と交換の区別,前者は許容されるが後者は認められにくいことも理解される。他方,贈与に対する抵抗も説明される。
 @贈与にあっては,贈与すること自体とその結果得られるものとが分離されにくい。贈与自体が目的とされるのなら,それは許容されることにもなる。しかし同時に,譲渡者Aにおいて,その提供は手段でありうる。そして,贈与を受ける側Bにとっても,贈与は事実上交換と同じ機制をとる場合がある。例えば感謝を得るための手段である場合がある。「感謝」が真に「自発的」なものであるのかどうか,これは外からは検証されえない。
 A贈与にあっても与えるものと与えられるものとの間の比較が行われているとは言える。しかし,彼が得たのは満足である。それをさらに交換することはできない。したがって,上のような意味での比較は行われていないということになる。しかし,例えば,臓器を譲渡する代わりに感謝・名声を得ようとするのであれば,その者は感謝・名声を臓器の提供より高く評価したということである。また,性を譲渡する代わりに感謝を得たのだとすれば,その者は感謝を性より高く評価したということである。ここに評価があり,比較が行われている。そして,両者は等価とされる。確かに貨幣による交換のような全般的な比較の世界には入っていかないにしても,程度の差があるというに過ぎないとも言える。このように条件に厳格であろうとすれば,贈与そのものもまた否定されることになる。

2 本源性の破壊?
 人間の様々な属性・行為の中には,以上の条件を強く重んじるべきものがあるらしい。手段とされてはならぬもの,制御されてはならないもの,他と比較されてはならないものをいくつか有しているようなのだ。確かに商品として交換される様々なものもまた生存にとって不可欠なものである。しかし,ここで大切なものとされるものはその生存にとって必要な個々のもの,あるいはその総計ではないということなのだろう。
 それは何か。またいったい何ゆえにそのような位置に置かれるのか。
 まず考えられるのは,生命そのものであり,次に譲渡によって生命の維持に直接的な危険を及ぼすと考えられるもの,すなわち身体を構成する諸器官・臓器である。心臓・腎臓・血液・性液・…といった順に危険度が低くなる。実際,これに対応して譲渡,売買についての規制も緩やかなものになっている。
 しかし問題にされるのは,生命あるいは生命に対する危険性だけではない。時には生命の存続それ自体に優位するものが措定されることもあろう。「人格の尊厳」といった言葉が思い浮かぶ。しかし,「人格」とは人間のうちにあって侵害されてはならぬ大切なもののことだとすれば,これだけでは足りない。
 例えば,生命自体より生命に対する自己決定の方が尊重されることがある。再度「自己決定」という言葉が浮上する。擁護されるべきは第一に自己決定だと言うのだ。では自己決定と制御される側にあってならないこと,比較され交換されるべきでないこととはどのように関係するのか。一つに考えられるのは,自己の意志,自己の決定は,様々な行為,社会の存立の基点だから,これをそこに発する必要等と等価とされてはならないという論拠によって,決定が制御され比較され譲渡されるものの側にあってはならないとする主張がなされているのだと考えることもできる。基点である以上,それが因果関係の結果として存在するものであってはならない,根本的なものには手を触れてはならないという論理である。例えば,知的能力から発する製品を売却するのは構わないが,知的能力自体を譲渡することは許容されない(脳移植の禁止)。
 しかし,このような考え方をとれば,どこかに意志という最終的な審級が残されていればよいのだから,その審級によって選択・決定されることについては問題なしとされることになる。とすれば,第一に,先にみた目的と手段の関係はこの中に包摂され,それを制御すること,あるいは譲渡することには問題がないことになる。それは,自身の人格の変容をも許容するかもしれない。自身を決定的に変容させるような行為にしても,ある時点での人格を基点とすれば,その自己が決定したことなのだから認められてよいというのだ。
 第二に,比較についても,その背後に決定する主体が控えている限りで,許容される。実際,生殖技術を利用して得られるものは,当事者にとって十分に大切なものである。だからそれを,そのために(体外受精の場合のように)大きな代償を払ってもなお,得ようとするのである。
 とすると,技術の利用や身体の譲渡に対する疑念はこのような観念からは説明できないことになる。それでもなお,これを容易に肯定できないとすれば,それはどういうことか。
 無論,多くの論者がこうした場面に当たり,その上で懐疑を表明しようとし,また制限を主張しようとする。例えば,先の議論の手前で立ち止まり,生命・身体がそれ自体(その当の者の意志に反してでも)守られねばならないものなのだと主張する。しかし,その根拠は何なのか。まだ明らかでない。

3 制御しないという思想
 単純に考えよう。制御しないことを肯定する立場があるということではないか。このような感覚は,私達の社会にあっては一般的に言語化されているものではないから,議論は,しばしば,この点を通り越して,私達が論文2・3に見てきた,例えば不平等を惹起してしまうといった理由付けの方に流れていく。またこれは,操作することに対する恐れ,畏れのようなものとして表出されることもある。幾度もそうであったように,短期的・部分的な予測によって動きがちな人間は,結局選択を間違える。人は自己にとって本当によいことを時に判断することができない。ならば,そこには手を触れるべきではないというのだ。
 しかし,これを単に無知,あるいは新しいものが出現することに対する保守的な観念によると考えることができるだろうか。そうと言い切れないと思う。第一に,単に長期的・総合的な予測ができないなどというのでない,もっと基本的な人間の価値に対する懐疑,ある種の悲観があるのかもしれない。人間はとかく選択を誤る(と言うからにはどこかに正しいことがある)からではなく,制御すべきではないという感覚である。すなわち決定する側にあるもの,私達の有する価値が,いかほどのものか。とりあえずこういう価値観で生きてはいるが,つきつめてみれば何程のものでもないはずだという感覚である。
 このことは,他者に対して,自己の制御の及ぶ範囲を限定するということ,他者に対して自らの価値の適用を断念するということである。というより,むしろ,第二に,自己が制御しないことに積極的な価値を認める,あるいは私達の価値によって測ることをしないことに積極的な価値を認める,そのような部分が私達の中にあるのではないか。自己は結局のところ自己の中でしか生きていけない。しかし,その自己がその自己であることを断念する。単に私の及ぶ範囲を断念するというのではない。それは別言すれば,他者を「他者」として存在させるということである。自己によって制御不可能であるゆえに,私達は世界,他者を享受するのではないか。あるいは,制御可能であるとしても,制御しないことにおいて,他者は享受される存在として存在するのではないか。私によって私の周囲が満たされるなどということは大したことではない,私(達)のものなど何程のものかというだけでなく,私(達)が規定しない部分に存在するものがあるということが,私達が生を享受するということの,少なくとも一部をなしているのではないか。これらが自己決定や制御についての疑念の核心にあると考えることはできないか。
 とすれば,当の者が同意しているとしても,その者があるものを譲渡することが,私達にとって無残なことだと映るのは,制御の対象として想定していない(他者においてもそのように受け止められてはいないであろう)ものが,制御されるもの,比較されるものの範疇に繰り込まれる場合,そこで他者の他者性が剥奪されてしまう場合なのではないか。

4 vs.α:制御の思想
 このような考え方に対置されるのは,例えば,米国の代表的な「生命倫理学」の論者の一人であるJ.Fletcherのような考え方である。
 「人間は製作者であり,企画者であり,選択者であるから,より合理的,より意図的な行為を行うほど,より人間的である。その意味で,人間がコントロールできる体外授精の方が,通常の性行為にくらべてより人間的である。」(3)
 「…であるから」という部分を是認しよう。そして「より人間的である」ことも「人間」の属性を述べているという意味で是認しよう。しかし,それはそのことが「良いこと」である(という意味で「人間的」である)ことを意味しない。確かに私達はそのような「人間」であるが,そのような「人間」で(も)ある私達は,そうしたことを(最も)良いことだとは思わないかもしれない。上の言明はこれについての論証を欠いている。それは,「そうしたことが良いことだと私は思う」という自らの価値αの表明でしかない。
 α:「私」に判断・決定の基点を認める。それが唯一保護されるべきものであり,それによって制御されるものは第二義的なものである。そして,そういう私と同じ存在を同格の存在として認める。ここから全てが始まる。自身に内属するものを基点とし,それに起因する結果が自らのものとして取得され,その取得したものが自ら(の価値)を示す。(4)
 それに対して,β:私達が選択者であることを受け入れながら(受入れないことは私達の時代にあって不可能だ),当の選択と価値を,全てが自らに還ってくるように作られたその機制を,信用しない思想がある。それらは社会的に仕組まれたものだからというのではない。起源の不確かさが問題なのではない。そもそもこの思想は起源を問わない。そして「私」,私についての制度の外部に私達の生(の少なくとも一部)があると考える。
 ひとまず,私はβを私達が有する価値の事実として提示したいだけだ。それ以上の理由をつけようとは思わない。例えば,他者の存在は,事実,大抵の場合に,どこか私の予測を裏切るだろう。これが社会が存在しているということかもしれぬ。しかし,私は私の観念において,私に領有された世界を,それを社会と呼ばないとしても,生きることはできる。だから,少なくともここで,他者の存在は社会や世界の存在の条件ではなく,私達がそれを好むということなのだ。
 そして私はこれを,「文化」の差異や独自性にもひとまず還元したくはない。確かに以上のような言明は何かしら「非西欧的」であるような気もするけれど,「欧米」でも「ラディカル」?な生命倫理学者達の主張が一般的に受入れられているのではない。また,彼の地では,その疑義は「宗教」の観念のもとに語られることがあるが,私が決定しないことを言うのに,どうしても私という位格を超越する何かを措定せねばならないというのではない。「神」を持出すことは,私達を含めて多くの人が日常的に生きている価値の一つの言い換え――そこに生ずる差異は無視すべきでないとしても――と考えることも出来る。

5 βの位置
@生産?
 私達が問題にしているのは,「他者」の位格といった無内容なことなのだろうか。例えばあの「優生学」が,直接には「生産」によって動機づけられているのは間違いない。科学技術批判が,産業社会批判と位相を同じくしていたことを思えば,直接に問題にされるのは「生産」ではないか。基本的に異議はない。しかし,その生産とは何か。「資本」にとっての生産ではなく,「民衆」のための生産であれば,それは許容されるのか。そういうことではないだろう。産業社会にとってでなく農耕社会にとって有意義な介入であればそれは許容されるのか。そうではないだろう。生産の享受者・消費者として我々にとっての「生産」に対しても,それに即して人間を形成していくことに対して疑念を抱くだろう。「便利さ」に対する懐疑と言っても同じことだ。便利とは私達にとって良いもののことだからである。
 私達が実は有しているのは,何であれ本質を定義しないという思想ではないか。充実した内容としての本質からの「疎外」,何かある内容が失われるということではない。自己実現が,何かに阻まれ挫折することではない。とすれば,それを,「私達」,「人間」に対する疑義なのだと言って,言い換えてよいのだと私は考える。
A人為?
 確かにこれとても,私の判断であり,私の決定である。しかし,思念は全て私の思念である,社会は人間の社会であるという言明を認めるのであれば,そのような広い意味では,決定が人間の決定であることを否定することは原理上不可能である。
 「われわれに物事を変える能力がある時には,物事を変えないという選択をすることもまた,世界に何がこれから生じるかを決定することなのである。」(Harris[1980=1988:172])
 その通りだ。だが,このような言明の後,Harrisがより「快」の多い状態を達成するための技術の応用のあり方を論じていくのに対して,確かに何もかも私達の選択であることを認めながら,あえてそれを行わないことが私達には出来る。
 このような選択しないという選択を,自然を装う人為という欺瞞だ,とする批判があるかもしれない。しかし私達は根本的に作為の領域に入ってしまっている。私達の時代にとって固有の問題とは,今まで自然として問題化されなかった部分がそうでなくなっていることである。その時自然を残すとは,人為的な行為であらざるをえない。意図して偶然を残すといった所作は何か頽廃したことのようにも思われる。しかしそれは,かえって「汚れなき自然」という観念を保持しての上でのことではないか。私達は,これまでも,自然に阻まれてというより,あえて制御しないという規範によって,自然に対してきた,そうした知恵を有してきたのではないか。そうでないとしても,私達は,この時代に,そのような倫理を生きることはできる。
A不可能?
 領有しない,制御しない,そんなことはありえないことだ。例えば,私達は子をしつけ,教育する。これは必要不可欠なことだ。少なくとも好都合なことだ。実際,私達は,人が自分の思う通りに動いてほしいと思う。だから,こうした観念のもとにだけ私達がいるなどと到底言えない。
 それでも,私達は微妙な境界を考えていくことは出来ると思う。私達の欲望は,どこかで否定される。妊娠・出産・育児の過程で,自己による他者の領有という観念が抵抗に会い,挫折する。私達の欲望は欲望として残りながら。しかし,その挫折を私達は失敗とだけ受け取るのではない。他方,技術を介在させる時,観念の中で作為された行為としての意味だけが維持され,私の欲望が直接に実現されていくこの過程に否定の契機が弱くなるのだとすれば,確かに欲望は欲望としてその存在を認めながら,どこかにそれを途絶させる地点を置くこと,そのような選択をすることも出来るのだと思う。

6 「他者」がいる場所
 次に,αでも十分に他者の尊重は語られているのではないか,それとどう違うのかという疑問について,また,「他」と言う時に現われる固有の問題について考えよう。
 第一に,「私」を基点に置く論にしても,私を貫くことが多くの場合に困難であることは知っている。事物の,そして他者の抵抗に会うからである。しかし,それは外在的な状況,利害の対立として捉えられる。完全に自己を実現するのが不可能なのは偶然的あるいは外在的な条件によるのであり,その障害が除去されれば,私の欲望はどこまでも進んでいくことになろう。それが極限的に実現された世界は,結局のところ,自己の延長としてある世界である。しかし,確かにそのような欲望を持つ私達は,他方で,こういう世界は良い世界かと問われる時に,どこかで,そうではないだろう,むしろ自己によって制御不可能であるゆえに,私達は世界,他者を享受するのだと考えるのである。
 しかしこれでは十分ではない。第二に,αを擁護する者は,それを,私にとって他者が私でないことにおいて尊重されるべきだとする理由からではないとしても,現実的な対立云々と別に,私と同格な存在としての他者を尊重する原理であると言うだろう。他者に対する行為は,その者の同意がなければ許容されない。ならば,ここで私達が言っていることは,この「独立した人格の尊重」とどこが違うというのか。前者も,意志が表明される時,まずはそれを受け止める。ある場面までは,両者が内実として擁護し批判するものはほとんど同じだ。しかし違いはある。
 第一に,この「人格」と「他者」の範囲は,その者の意志,決定能によって人格が定義されるなら――当然そうなる――,同じではない。何か他者に積極的な契機があるから,他者を尊重するのではなく,ただ私と同じでないこと,もっと正確には私ではないこと,こうした消極的な契機によって,私達は他なるものを尊重するのではないか。
 とすると,第二に,再度境界の問題が現われてくる。つまり,全てが他者であるとするなら,これは全てのものを無差別に扱うべきであることを示すことになるではないかと言うのだ。意識の有無によって定義しないとすれば,人間と人間でないものとの区別はない。生物的な種によって区別するのは根拠が薄弱だ。とすれば,何か「同じ」ことを持ってくるしかないのではないか。そして実際,私達は私達と同じ存在を配慮するではないか。また,その「狭さ」を超えようとする「普遍的な人権」という思想にしても,やはり「人」という同一性を前提としているではないか。
 まず,それが「正しい」ことかどうかは別として,私達は一般に「身近な」存在に対してより大きな「共感」「同情」を感ずること,「他人事ではない」といった感覚を持つことがある。私としてもこれを否定しようとは,あるいは否定すべきだとは思わない。
 だが考えてみよう。そこにあるのは,私と同じであるという,その程度の大きさだうか。そうではなく,まずは距離・関係の近さのようなものではないか。そしてそのような関係にある者に対して,私はその者が私と同じであることを発見するのだろうか。少なくともそれだけではなく,むしろその者が私ではない者であることをより強く感ずるのではないか。ここに,「私と同じ」だから,という媒介は必要されているのだろうか。私達はその者が私と独立である,他であると思うことにおいて,時に,例えば「殺せない」感覚を抱くのではないか。
 こうして,異なるという感覚においても境界は存在する。確かにこれはただの感覚であり,一義的には定まらない。他者を感受する(あるいはしない)者達の側に境界設定は与えられる。だから,そのあり様は人により異なるかもしれぬ。しかし,意識の存在によって人を定義することだって,これに優越するという根拠を示せるわけではない。
 しかし,特に意志を表明しない存在に対して決定が迫られる場面があろう。とすると,第三に,誰がその存在に対してより大きな権限を持つのか。上のように言うことは,逆に「近さ」を特権化することにならないか。そうではない。私達は関係の近さ自体によって,優先を述べたのではなかった。ただ,他者が,その者に近い者にとってより多く他者として現われてしまうのだとすれば,そして遠くからなされることが,人々の福祉や幸福のためにという結局は「私(達)」の立場のものである時,この倫理は後者を無視するのではないが,前者をまずは受け止めるだろう。(5)

7 私の子/身体としての私の子/身体?
 「生殖技術論」でありながら,この稿の前に3つの文章を置きながら,まだ,技術自体について積極的に語ってはいない。本格的に論ずるには,別に稿を起こさねばならないが,少しだけ,生殖技術に近づくことにしよう。
 その利用に関して問題になっている子について。現実に起こっていることは,以上に述べてきたことにそぐわないように思える。というのも,実際に問題になり危惧されるのは,生殖技術の応用による親子関係の混乱であり,親であることの,子であることの「アイデンティティ」の問題だからである。(但し子に即した議論は別稿に委ねる)。例えば代理母の問題が,依頼者における「自分の子」という観念と代理母における「自分の子」という観念との対立として語られる。確かにその通りのことが語られることを否定はしない。けれども,例えば「ベビーM」を巡る争いについて,私達が「代理母」に対して肩を持ちたい気になる時,それは,契約した者において,その子が抽象的に「私の子」(となるべき者)として存在するのに対して,あの「代理母」においては「他者」として存在を始めているということにあるのではないだろうか。それゆえに,私達(の中のある部分)は,まずそのような関係を保持している者を支持したいと考えるのではないか。
 考えてみれば,子が登場するとは,産む者の身体において,何かが他者になっていく過程ではないか。「人であることはいつ始まるか」という倫理学の抽象的な議論に対して,フェミニズムから一貫して疑義が唱えられてきたことを考えてみよう。議論の焦点は妊娠中絶の是非だったから,「私の」という言葉が多用されてきた。しかしそれは,所有を意味する言葉ではなく,やがて「私」でないものが登場することを感受する「私」のことだったのではないか。
 そしてある場合には,私のもとにあるものについても,私達は自らの制御の対象としないことを選ぶことがあるのではないか。
 これはここで主題としている問題が,帰属ではなく,処分権を巡って現われることも説明するのではないか。そこに確かにあるのだが,誰かがそれを処分すること,移動することに対する懐疑がある。
 実際,自己決定を擁護するとしてなされる批判には,一般的なこの語の用法から逸脱する部分がある。身体,身体的な過程そのものを大切なものとして譲渡の対象とすべきでないと主張される。「理性」を第一に置き,身体を理性に従属し,制御されるもとするところからはこうした主張は出てこない。
 それは,「身体(性)(出産)を大切にする私」ということだろうか。そう,全ては私のことだと言えば言える。しかし,それは制御という思想ではない。身体に起こっていることを受容しようというのである。抑圧のないところではそう格別のことではない。例えば,私自身を整形しようとしないのは,私が私の容貌なりなんなりを気にいっているからだろうか。あるいは私の容貌が愛しいからだろうか。そういう人がいないではないだろうと思う。しかし,それ以上に,何かしらの美醜の基準によって自らを形成することを馬鹿げたことだと考えるからではないか。
 だが,現実にあるのは,例えば身体に対する侵襲だ。この時,身体に,積極的な,肯定的な価値が付与される。そのように見える。これは当然である。しかし,私達が受け取るべきは,状況が強いたゆえの裏返しの言葉ではなく,ある属性,「身体」「女性性」「障害」を取り出しそれに正の評価を与えること,特権化することではなく,そこに向かわせる力を解除しようとする作業だ(6)。それは,範疇を必要としない,個別の,受動としての快楽があることを否定しない。それが囲われることに抵抗するのである。

V 自己決定と決定しないこと

1 自己決定権を否定しない
 生殖技術の応用に対する疑念に検討に値するものがあること,この疑念が,単なる伝統,感覚的な好悪から発していると一蹴して終わるものではないことを述べようとしてきた。
 これに対して以下のことが言われよう。
 @そういう価値観があることは理解した。しかしこれは一つの規範,異論の余地のある価値観であり,私はそれを採らない。私に対してそれを強制する権利はないはずだ。これを採用しない者がいたところでそれを禁止することはできないはずだ。
 Aこうした価値観を認めるが,その境界の設定のあり様は一様に決定できないし,またすべきでない。何を交換あるいは贈与すべきでない大切なものとするかという決定自体が,自己決定の範囲内にあるのではないか。
 これを否定するために,価値の普遍性を言おうとする。だが,いかなる根拠によってその普遍的な妥当性を言うのか。
 そこで,個々の思惟を越えた絶対性・普遍性を主張することを断念するとしよう。それでも,各自の判断にまかせればよいというのではないと言おうとすると,どういう理路があるのか。当該の行為が誰かに対する侵害になっているという言い方しかないのだろうか。すなわち,個々が勝手にやっていてそれが相互に関係し合わないのなら認められるが,実際にはそうではない。直接に私に対して向けられた行為でなくとも,それは私に影響を与える。そうした行為が私の前に存在することによって,私の感情,私の価値観を侵害している。それは「直接的」な侵害には当たらず,ゆえに許容されるべきだとする立場の正当性は自明ではない。ある者に直接に向けられた行為でなくとも,加害行為となりうると主張することは可能だ。しかし,敵手もまた同様の主張をすることができる。あなたに迷惑がかかるということによってこの行為を禁止されるのは,私の権利の侵害である。自分にとって不快なことであっても許容すべきである。
 確かに私達は一つの「倫理」しか提出しえていない。それが制御することへの欲望に優越するという根拠を提出したのではない。実際,普通に暮らしている私達にとって,前者を全て消去することなどできない。論文2に見た自己決定の原理からの擁護論(積極的な擁護でないとしても禁止はできないとする主張)に,私達は依然として反駁しえていない。
 社会は人々の共存の場だから,多くの者が大切なものとして有する価値,感情を侵害する時には,妥協せねばならないといった基準を置くことはできる(7)。しかし,そこで制限されそうな行為のいくつかを思い浮かべてみると,この基準を(少なくとも私は)すぐさま受け入れられない。自己決定の原理は行為内容に対する各々の価値判断をそのまま許容/禁止に結びつけない。それは価値の多様化を促す役割を果たしてきた。(私の価値観からは)それは評価されてよい(8)。
 無論この主題に関する議論をこれで済ませるわけにはいかず,さらに考えねばならないが,論文の最後に記す諸点を留保した上で,ここでは,自己決定の論理を基本的に受け入れ(受け入れざるを得ないものとし),その下に,決定しないという思想・倫理を置くとしよう(これまで述べてきたのは,決定せざるを得ないという前提の下に決定しないという決定が成立しうるということであり,それは「自己」決定と同じではない)。
 どのような欲望を持っている他者であっても,それはそれ自体としては禁じられない。そして,少なくとも,身体の事情に関わらず,同じだけのものを求めることは妨げられないとしよう。とすれば,技術の利用によって子を持とうとすることは妨げられない。私達が子を持つこと自体が作為としてあり,この点では同じだからである。この限りでは,生殖技術の利用を制限する理由はない。
 しかし,それでも,第一に,比較しないこと,制御しないことが,少なくとも一つの価値として存在することを述べることは出来ると思う。このことが本稿の主題だった。
 第二に,受動性において享受されると考えられるものについては,それが手段として用いられることに出来る限り慎重であるべきだと考える。常のそのままの身体であれ,手段として用いるなというのではない。手段として用いたくないという感覚,受容するというあり方が尊重され,出来る限り守らねばならないということである。ゆえに,強制や不平等の存在に敏感であらねばならない。

2 何を行い/行わなかったか
 行ったのは,論点の整理であり,記述のスタイルの小さな移動でしかないかもしれない。A情報の偏りも技術の危険性も,B搾取も強制も不平等も問題で,Cそして「「生まれる」ものから「つくられるもの」に変わ」ること(福本[1989:39])の問題を指摘し,「私のからだをそのまま愛する」こと(丸本[1989:93])「一つの生命を選びとることの偶然」(池田[1990:30])を支持するという言い方が批判の典型としてある。私は,しばしばそれとの対峙が回避される広義の「自己決定」の原理を傍に置かないよう努めながら,A,B,Cと辿り,本稿でCに言われていることを考え直し,言い直し,これが核心にあるとし,そしてそれがBを問題化するのだろうと今述べた。それだけにとどまった。主題を「生殖技術論」としながら,具体的な個々の技術の使用について,必要なのは何を受け入れるか否かなのに,はっきりしたことを述べなかった。今,現実に最も重要なのはAの問題であり,柘植([1991]等)達の作業が注目されねばならない。またBに関して「権力」を読み取る作業も重要だ。そしてそれは「私」に関わる制度の解読作業としてある時,私がここに行ってきたことに重なる。
 しかしなお,第一に,少なくともこの主題に関しては,許容/禁止の択一にどう対するかという問題が残ることを看過することはできない。そして,第二に,それ以前に,何が技術の肯定に対置されるものとしてあるのか,それを提示せねばならない。だから,本稿に至ってしまうような作業がどうしても必要なのだとも考えている。私は,第一の主題については許容を否定する根拠を見出さないまま,しかし,第二の主題について,私達の言葉が積極的に語れないものであっても,それが,社会に,私達に実際に存在するのだと言おうとしてきた。この作業への批判が,その抽象性に対してでなく,抽象性の中途半端さ,いい加減さに対してのものであればよいと思う。
 具体的な主題,ここで全く検討できなかった数多くの問題についての検討は今後の課題である。だがそのためにも,その前に,論理として検討しておくべき問題がまだいくつも残されている。それを列挙し,本稿を閉じる。
 私の身体の私への配分(自己決定はこれを前提する)が正当化可能か。論文1で一つの難問として提示したにとどまっている。その解法はこの一連の考察の延長上にあると予感しているが,まだ定まった見解を得ていない。
 「子」(と「親」との関係)について。これまでの考察では子を当事者として検討してないが,これを考えた場合には議論の展開は大きく変わるだろう。しかし,制度的に承認された対以外が技術を介して子を持つことに関わり,子の親への「帰属」意識を持ち出すことには慎重でなければと思う。(9)
 「私」から発する技術が「私」からの離脱を促す可能性について。例えば性の商品化が以上のような単純な図式で到底解けないのと同様,生殖技術の利用を巡っても様々な欲望とその帰結があるに違いない。例えば,自己の身体の部分が部品・道具と化すことにより,逆に「私のもの」であることから離れていく過程を考えることができるかもしれない。



(1) 本稿は庭野平和財団の研究助成(1993年)を得て行われている研究の一部をなす。以下,生殖技術の現実に一切触れず,諸論者の主張もほとんど紹介しないが,請求があれば,現時点での資料・(かなり網羅的な)文献リスト,論文1〜3を送付する(→181 三鷹市上連雀4-2-19,tel&fax:0422-45-2947)。
(2) 以下の部分を紙数の制限から大幅に圧縮した。「交換と贈与」(古い主題だがまだ論じ尽くされてはいないと思う)の問題として,別の機会に本格的に論じたい。
(3) J・マシア『バイオエシックスの話』(改訂増補版,1985年,南窓社)p.108に引用された1971年の論文 "Genetic Control"の一節。他にFletcher[1988]等を参照のこと。
(4) 立岩[1986][1987]。
(5) 私は私として考えたあげくこの地点に漂着し立ち止まっている(岡原・立岩[1990]立岩[1992a][1992b])。「他者」を持ち出すのは流行なのかもしれぬ。だが,少なく
とも幾人かの論者において,必然として,各々の作業が開始されていると私は感じる。本稿を考えるにあたり,特にVの2について加藤[1992b]に,また同じ部分で「他者」と「距離」を考える上で,森岡[1988]に示唆を受けた。「属性以上の何か」である「個」「私」(加藤[1992a ]),「代替可能性」の不可能による絶対的<差異>によって結ばれる<共存在>(市野川[1991]),そして哲学・倫理学からの幾つかの言明,それらを考えながら,論を彫琢していければと思う。
(6) フェミニズムについての考察として加藤[1990]。また,「障害」に関して岡原・立岩[1990],立岩[1992a][1992b]。
(7) こうした論点を含め,様々に自己決定の制限を擁護しようとするが,私を全面的に説得することはない(そのわけは別に論ずる)議論として,例えばJonas[1992=1993]。
(8) 自己決定について広範に扱った(ただ生殖技術は本格的には取り上げられていない)書として山田[1987]がある。あげられている事例について考えていくと自らの価値がどのあたりにあるかがわかる。
(9) 親であることに対する制限が可能かという主題に関わり,「家族論」のための前提的な考察として立岩[1991][1992]。

文献表

Fletcher,Joseph 1988 The Ethics of Genetic Control: Ending Reproductive Roulette; with a new introduction, Prometheus Books
福本 英子  1989 『生物医学時代の生と死』,技術と人間
グループ・女の人権と性 編 1989 『アブナイ生殖革命』,有斐閣選書
Harris, John 1980 "The Survival Lottery", Violence and Responsibility=1988
新田章訳,「臓器移植の必要性」,加藤・飯田編[1988:167-184]市野川 容孝 1991 「死の社会学・序説――「他界」に関する試論」,『ソシオロゴス』
15:152-168
池田 祥子 1990 『[女][母]それぞれの神話――子産み・子育て・家族の場から』明石書店
Jonas, Hans  1992 Rechte, Recht und Ethik : Wie erwidern sie sich auf das
Angebot neuerster Fortpflanzungstechniken ? , Philosophsche
Untersuchung und mataphysische Vermutungen, Insel Verlag
:147-169=1993 市野川容孝訳・解説「権利・法・倫理――新しい生殖技術にどう答えるか」,加藤尚武・飯田亘之編[1993]
加藤 尚武・飯田 亘之 編 1988 『バイオエシックスの基礎――欧米の「生命倫理」論』,東海大学出版会
―――――  1993 『応用倫理学・資料集』,千葉大学教養部倫理学教室
加藤 秀一  1990 「<解放>への遡行」,『女性学年報』11
―――――  1991a 「リプロダクティヴ・フリーダムと選択的中絶」,『年報社会学論集』4
―――――  1991b 「女性の自己決定権の擁護」,『ソシオロゴス』15:14-33
丸本 百合子 1989 「生殖技術と医療」,グループ・女の人権と性編[1989:72-93]
森岡 正博  1988 『生命学への招待――バイオエシックスを超えて』,勁草書房
岡原 正幸・立岩 真也 1990 「自立の技法」,安積純子他『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店 :147-164
立岩 真也  1986 「制度の部品としての「内部」 ―西欧〜近代における― 」,『ソシオロゴス』10:38-51
―――――  1987 「個体への政治 ―西欧の2つの時代における― 」,『ソシオロゴス』11:148-163
―――――  1991 「愛について――近代家族論・1」,『ソシオロゴス』15:35-52
―――――  1992a 「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」,江原由美子編『フェミニズムの主張』,勁草書房 :167-202
―――――  1992b 「出生前診断・選択的中絶に対する批判は何を批判するか」,生命倫理研究会生殖技術研究チーム『出生前診断を考える』:95-112
―――――  1992c 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」,『社会学評論』42-2:30-44
―――――  1993a 「生殖技術論・1――所有論としての」,(未発表)
―――――  1993b 「生殖技術論・2――自己決定について」,『Sociology Today』4―――――  1993c 「生殖技術論・3――公平について」『年報社会学論集』6
柘植 あづみ 1991 「体外受精・凍結保存技術のMTA」,『Sociology Today』2:17-30
山田 卓生  1987 『私事と自己決定』,日本評論社

(たていわ しんや)


On Reproductive Technlogies 4 : of Decision against Decision

                          Tateiwa, Shinya

The root of doubts about reproductive technologies is, first, a skepticism
about decsion, selection and cotrol, secondly and more positively, a sense of
joy when we feel that others are not I.

  ※この論文は後に立岩『私的所有論』の中に組み入れられた。


UP:1996 REV:
立岩 真也
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