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生殖技術論・2

―自己決定の条件―

立岩 真也(千葉大学文学部助手) 1993/06/00 『年報社会学論集』6:107-118(関東社会学会)


※この文章を引き継いで『私的所有論』の第3章が書かれました。
『私的所有論  第2版』表紙

1.はじめに
 本稿は生殖技術の利用に関する一連の論考のうち,一つのまとまりをなす4本の論文の二番目に位置する。それらは,技術とその応用の現実に詳しく触れず,受精卵の扱いや生まれてくる子を巡る問題等,様々な問題も別に考察するものとして,体外授精等の技術を利用しようとする者,あるいは代理母等の契約に応ずる者が,自らの身体に対する自己決定としてその行為を行う以上,それは許容されるべきだという見解を念頭に置きつつ,批判がなおどこまで可能か,論点を一つずつ検証する(1) 。なぜ,このように主題を限定し,なおかなりの分量を費やそうとするのか
 @:多くの場合,生殖技術の利用に対する批判は,現実にある問題点,考えられること,思いつくことを数多く並列し,その全体によってその問題性を指摘しようとする。切迫した問題だから当然かもしれない。だが,反論される可能性を検討しながらの個別の論点の吟味はなされないことが多い。ゆえに,まずは論点を分け個々に検討する作業が必要だと思う。何についてどこまでが批判可能か,はっきりさせたい。生殖技術の問題は,一つに技術の開発と応用をどこまで認めるのか/認めないかという実践的な問題であるから,こうした問い方が要請される。
 A:生殖技術の応用に批判的な立場をとる者,フェミニスト(の少なくともある部分)自身が自己決定権を掲げている。私自身,自己決定に肯定的な価値観を持っていると考えるが,生殖技術のあり方に全面的に肯定的だとは言えない。これは一体どういうことか。さらに私は,私的所有・自己決定,市場への境界設定といった主題についての考察が,依然として,いやむしろ現在だからこそ,重要な課題であり,生殖技術の問題もその一部だと考える。自己決定を巡って論を立てるのはこうした理由による。
 A→@:身体の自己所有・身体に対する自己決定を前提すれば技術の利用の許容が帰結するという主張はかなり強力なものだ。しかし同時に,私は生殖技術の応用に対する批判あるいは懐疑から受け取るべきものがあると考えている。懐疑がある時には,それを生じせしめるそれ相当の理由があるに違いないのだ。そしてそれは,以下にみる不確実性や危険性に対する疑念とは少し性格の違ったものではないかと思う。その疑念がどこに発するかを考えるためにも,出されている論点を一つ一つ検討し,それが批判できる範囲を確定し,議論を追い込んでいくことが必要だと考える。その意味で,本稿は技術への懐疑について暫定的な解釈を提示する論文4(立岩[1993c])への準備作業でもある。
 論文1(立岩[1993a])では,生殖技術の現状をごく簡単に紹介した後,所有論として(近代的な意味での所有権は処分(に関わる決定)権を含む)この技術の利用に関する問題が捉えられることを述べた上で,所有に関わる規範を機能主義的に正当化する主張として何があるのかを確認し,自己の身体の自己への配分を正当化する論拠はここからは与えられないこと,配分と決定とを分離して議論できる場面があること,等を確認した。
 本稿では,自己決定の原則を認め,自己の身体を自己の決定権の下にあるものとした上で,この原理から,生殖技術の現実を批判する議論の有効性の範囲を検討する。

2.決定のための情報
 「不妊治療の進歩によって,なまじ期待をもたされたばかりに,検査や治療のための腹腔鏡などでからだを傷つけられたり,不妊症の治療に通院・入院と無駄な歳月を費やさなければならなくなった女が,多数つくりだされている。それでも結果として治療に成功すれば「体外受精によって苦労の末子どもが持てた」という成功談にもなるが,治療が成功するのは多数の不妊症のうち幸運なごくわずかな例にすぎない。/いつも腹立たしく思うのは,少数の成功の陰にはどんなにか多くの不成功例があるか,そしてやってもやっても成功しない多くの女たちが,いかに心身共に傷つき悩んでいるかということがほとんど語られていないことだ。」(丸本[1989:86-87])
 自己決定の前提として,決定のための情報が提供されていなければならないが,それが(十分に)なされていないことが批判される。
 特に体外授精と代理母が問題になる。いずれも身体的負担・心理的負担が大きく,このことについての情報の伝達が重要だからだ。例えば体外受精の成功率は非常に低い(胚移植回数あたりの分娩率は10%程度,排卵誘発回数あたりでは1%を下回る(柘植[1991a:22-23])のだが,それが十分に調査されておらず,把握されていない。それ以前に,調査され集計されたデータにしても,何をもって成功とするか,その基準に問題がある(上記の二つの数字の差に注意,また移植回数あたりの妊娠率とすればもっと数字は高くなる)。また公表されることが少ない。「治療」を受けようとする当事者にも十分に知らされていない。体外授精による出産等を伝える報道等では,専ら成功例だけが知らされ,家族関係に与える問題性といった視角から「倫理」問題に対する懸念は語られるにせよ,技術そのものの問題性は(「異常児」出生の可能性の指摘を除けば)あまり指摘されない。そしてその僅かの成功に至るためにどれほどの負担が必要なのか。まず要する時間,期間。また超音波検査や排卵を誘発するためのホルモン剤の投与がどれほどの苦痛をもたらし,副作用等の危険性を持つのかも十分に知らされているとは言えない。
 自己決定は決定のための正確な情報を前提として初めて自己決定となるのだから,これらの問題は当然解決されねばならない。しかじかの方法が可能だという情報では全く不十分だ。通常の疾患のように治療が前提となる場合と違い,ここではその「治療」を受けるか否かがまず問題なのである。要する期間,身体的・精神的苦痛の度合い,妊娠→出産の成功率が知らされねばならない。まず医療従事者,医療機関の情報の提供のあり方の改善を要求し,自発性に任せられないなら制度化が求められる。特に精神面の対応はほとんどなされていない。そもそもこの場面では専門家が行えることには限界がある。当事者達の助言等の方が有効だ。事実,自助グループがいくつか活動を始めている。不妊治療の実際と情報提供のあり方を調査しその結果を提供するのは,報道や研究に携わる者の仕事でもある。上記のような問題点を指摘する文献の多くははっきりとそうした意図のもとに書かれている。さらに,最低限の情報提供の体制が整うまで技術の応用にモラトリアムを設定すべきだという主張も成立しうる。ここまでが,ここで行うことのできる指摘である。

3.不確定性・コストの引き受け
 現実はこうした野蛮な水準にあり,第一に問題にせねばならず,解決されねばならないのは以上のことである。ただ,体外受精のように成功率が非常に低い場合,単に十分な情報があればというのではすまない問題がある。
 技術が知られていない,技術の実現可能性が全く知られていない場合を考えてみよう。この時,当然,技術による利得はない。しかし,反面,可能性が知られていない,あるいはないとされているのだから,可能な場合と比較しての不利益の感覚もない。また,技術を応用することによって生じるコストもない。他方,技術の使用が可能な場合,まず可能であることが知られることによって,現状にとどまることに不利益の感覚が生じる。これは技術の存在が知られていない場合に比べ不利益の感覚が大きくなるということでもある。
 期待値=成功による利得×成功の確率がコストを上回るなら,その行為が行われるとされる。成功の確率とコストが確定しており,なおそれが行われたのは,成功による利得がそれだけ多く見積もられていたとされる。掛け算を実際に私達が行うわけではないが,実感から全く掛け離れているというのでもない。確かに天秤にかけてはいる。実際に成功するかどうかは行ってみないとわからない。だが,これに乗るかどうかを考えねばならない。
 技術の使用に応じることにする。ここで行えるのに行わないという不快(そもそも技術がなかった時には存在しなかった不快)は解消する。だが同時に,技術の使用に応ずることによるコストが生ずる。それが成功すれば,成功によって不利益の感覚が消される。消されはしないにしてもこれを上回る。しかし,これは不成功に終わった場合には関係のないことだ。例えば,体外授精という技術があることを知り,それを試してみたが結局得るところがなかった者にとっては,コストと不利益が残ることになる。
 医療・福祉の領域で,「情報を得た上での同意 informed consent 」が語られ,実態はともかく言葉としては定着しつつあることは知っての通りだ。この中には無論,技術を利用しない選択も含まれる。末期医療に関しては,それがむしろ強調されている。さらに,私達は「知らない権利」を考えてよい。情報を得ないという決定も一つの決定のあり方だからだ。ただ,知るか知らないかその決定のための情報を与えること(例えば「癌で死にかかっているかどうか知りたいですか」と聞くこと)は,単に知らないことと異なる。また,診断や治療における個々の具体的な情報のあり方と別に,技術が登場し,そしてその知識から全く遮断されているのでないなら,私達は技術の存在を知り,何かが診断・予測しうること,解決可能なことがあることを知っているのである。このような意味では,私達は「知らない」ことができない。
 大抵の情報はその後の自己による制御を想定している。そのための情報なのだ。しかし,例えば「残された日々」を「有意義」に生きることは可能だとしても,「死」自体は制御できない。まず,こうした制御できないものについての知識を得てしまう(得ることが可能であることを知ってしまう)ことの不快さがある。体外授精の場合には全く見込みがないわけではない。しかし,いくら確率が提示されたとしても,個別の場合にそれが成功するかどうかはわからない。そうした未定の状態に長期間(やはり未定の期間)置かれる。そして最終的に失敗だったという方が多い。
 「あと一回だけ,みんなそう考える。…やめられなくなる。本物の麻薬と同じように,生活まるごとからめとられてしまう。」(Duelli Klein ed.[1989=1991:264])
 この技術は「賭」「麻薬」だと言われる。麻薬は,いったんそれに手をつけた時,自らそれを絶つことが難しいことが,賭の禁止よりも強い禁止の理由となろう。しかし生殖技術の場合,いったん始めると終わらせること,見切りをつけることが難しいのは確かだとしても,麻薬に対するような性癖が技術の利用自体によって生ずるわけではない以上,同じとすることはできない。まず,これは「賭」だ。賭を禁ずるべきであるという主張がある。失敗の可能性が高いことが明白な場合には禁じられてよいのではないか。しかし,賭を禁ずること自体が議論の対象になる。
 うまくいかない人の方が多い。うまくいく人の方が少ない。後者が前者を前提して成り立っているのなら,これは批判できるかもしれない。しかしそうではない。「マルチ商法」とは違う。成功率の低さではなく,身体に対する負担の大きさ,危険性の高さを問題にすべきだろうか。だが,僅かでも「恩恵」をこうむる場合はある。(なければそもそも意味がなく,あるかのように言われていれば詐欺である。治療を行わない場合の妊娠・出産率が行った場合と変わらないという報告もある。とすれば,詐欺と言ってよいかもしれない。ただ,この技術によって成功に至る事例があることは否定できない。)事前に成功の可能性と負担についての情報提供が十分になされたのなら,それを前提に決定が当事者に委ねられたなら,結局失望に終わることの方が多いにしても,そのことを知った上でのことだから仕方のないことだ,それはその技術の応用を行わない根拠にはならないと主張される。
 こうして私達は,既に自己決定の前提としての情報のあり方の問題というより,自己決定,私達の欲望が実現されようとするその過程そのもののが孕んでしまう事態を見ている。このような事態が,様々な新しい技術の切り拓く可能性を私達が素直に受け入れられない心情のかなりの部分を占めるはずだ。「藁をもすがる」(確かに可能性が全くないわけではない)ことが可能になってしまうことに対する不快である。希望〜焦燥と不安がどれほどのものか。行われた後の幸福と不幸のバランスがどうなっているのか。過去の人に比べて現代に生きる人はより幸福か。
 「不妊治療や代理母の状況は,とめどなく無限に拡大していく欲望という問題を私たちにつきつける。」(荻野[1991:141])
 しかし,自己決定の尊重という立場を取るなら,これは禁止できない。批判者はここで何を言いうるのか。誇張された宣伝・扇動を止めさせること,別種の情報提供・交換の場,治療に向かうのと違う道を行くのを支援する場を作っていくこと,ここまでではないか。

4.他者のための/他者の介在する技術
 それでも批判者がなお批判的であるのは,@:女性の身体に大きな負担をかけて得られる(かもしれない)ものが,自身の身体の健康ではなく,子という他者であることだ。自身の病,特に死に至る病の場合なら,成功率が低い治療法でも,それを受け入れようとする当人の意志は認められるだろう。しかしここで問題になっているのは,男性の側に原因がある場合になされる体外授精でも身体に負担がかかるのは女性であり,その負担をかけて得られる(かもしれない)ものが,子であることだ。得られるのは,自身の身体の健康ではない。不妊治療が「治療」と呼び得ないという所以でもある。自己の身体の健康のための身体に対する介入(治療行為)は許容されるが,自身の身体の健康のためでない限り,その者の身体を毀損することは認められないというのだ(他者のために自らの肝臓の一部を提供する生体肝移植に対してなされた批判の一つと同じ種類の指摘だ)。
 しかし,これは身体(の健康)を自己の身体に対する決定より優先させるということである。「私の身体に対する私の決定」をその言葉通りに取るなら,他者のためであるにせよ,それが私の意志,私の決定に属する限りで,許容されることになるはずである。
 A:女性が医者等の専門家に自己決定権を奪われているとする批判がある。
 「専門家の手でしか行えない,女自身が扱えない,自身の身を他人にまかせざるをえない技術だということ…。私たちがもとめてきた女のからだへの自己決定権とこれらの技術は相反するものでしかないのです。」(長沖[1991:45])
 確かに,技術的に比較的容易な人工受精(必ずしも他者の手を借りる必要がない)を除き,外科的な技術が必要であり,医者が介在する。だが1.医療技術が専門家によって行使されることや手術自体が問題だとするなら,かなりの治療行為が否定されねばならないが,それを主張する人は少ないはずだ。2.同意の上でその行為を委託するなら,それが自己決定に基づく行為であることを否定することはできないのではないか。それは医療の現場を知らない者の言うことで,同意といっても形だけで,医者の主導権のもと,何が行われているかわからないまま,医師の手に委ねられているのが現状だと言う。しかし,3.それが現実だとすれば(現実だ),そうしたあり方を変えていくのが解決の方向ではないか。具体的に,現実的に決定の権利,情報を得る権利を女性のものにすることを要求する。それがなされない場合,当該の行為,医師・医療機関の活動の停止を要求するのである。
 これに関連して,女性が医者・研究者の(彼らの功名心その他に発する)研究対象とされているという批判,当の技術の「改良」のため,あるいは全く別の研究のために(例えば体外授精の時に得られる余剰胚を用いた実験――ただこのこと自体の問題性はここでは置こう)利用されているとする批判がある。まず,名声や金銭的な利得を(医療機関や製薬会社等々も含め)得ようとすること自体は責められない。問題は,(患者のためであろうと人類のためであろうと関係なく)不要で危険なことが行われるために女性が被害を受けることだ。しかし,この事実存在する問題に対してもまずなされるべきは,そのように用いられない状態を実現していくことではないか。実験的な技術の行使については当事者に説明が十分になされた上での同意が前提となること,これが現在の医療体制,医者・患者の関係のもとで実現困難である場合には,規制を制度化すること,それもまた困難であれば,治療の場面では実験的な要素を含む行為を原則的に禁ずるのも一つの手段だ。ただそれは,この技術が,本来,女性に対して敵対的なものだと主張することとは違う。

5.自己決定ではないとする批判
 自己決定の原則を認め,この原則から現実に対して批判がなされる。実際に行われていることがこの条件にかなっているか。現実になされた行為が本当に自由な行為なら認めるが,それが強制されたものだとすれば問題だと言うのである。
 各人の持つ資源(の格差)の問題,例えば貧困が代理母になることを強いているといった指摘は論文3(立岩[1993b])で検討することにし,ここでは子を持つことを強いられるという指摘を考えてみよう。批判者は,子を産むことを強制する社会規範の存在を指摘する。「産む」のではなく「産まされている」のだと言われる。「女なら」あるいは「夫婦なら」子を持とうとするものだ,あるいは持つべきだという言葉はそこらに満ちている。その一つ一つは具体的な強制として現われてないとしても,当事者に重くのしかかってくる場合がある。あるいはもっと具体的に,夫や親によって人工受精等が強要されている。子を持つのは夫婦の意志決定ということになっているが,実際にはしばしば夫の意志が優先される。そして,夫の側に原因があっても,実際に「治療」を受けるのは女性だ。
 社会学的な作業とは,少なくとも一つに,こうした「現実」の「権力」関係を解き明かすことであるのかもしれず,真空に議論を展開する既存の「生命倫理学」に欠けており,社会科学に期待されているのもそうした役割なのかもしれない。しかし,そのことの意義を承知しながら,なお,私は,その「現実」を解明した後に現われる反論を見ておかねばならないと考える。次のようなことが言われるはずである。
 @:技術の利用に対する強制が,当事者によって報告される場合,また確実に推定される場合。これは自己決定の原則に明白に違反するのだから,それを問題にし,その解決のための手段を講じねばならない。
 しかし問題になるのはもっと微妙な場面だ。
 A:「社会」が女性に産むことを促している事実は,当人の報告を待たずとも,例えば各社会間の各集団間の差異を検出するといったしかるべき方法をとれば確認可能であり,現実のある部分を確かに説明するだろうが,それは個々の人の欲求の全体を説明しているとは言えない。子を持ちたいという「素朴な気持ち」が語られ,それを「社会」の言葉で説明しようとする,しかしやはりそうは思えないと言われ,だがそれは実は…,という繰り返しになる。職業上社会科学者は後者の側にいることが多い。だが「規範」「役割」の言葉で全てを説明することはできない。少なくとも説明できることを示すことはできない。
 「この技術の論議にかかわるフェミニストは,多くの女性が親になりたがる気持ちはたんに「社会化の産物」であるだけではなく,子どもとともにいたいという真実の願望であることを,認めなければならない。」(Ann Pappertの文章から Duelli Klein ed.[1989=1991:315])
 B:選択・行為が「自由意志」によらねばならないという条件を強くとれば,この条件によって許容される範囲は非常に狭くなる。選択・行為のすべてが問題になりうる。振り返ってみれば,私達が選択する行為の多くは,様々の社会的規範や価値観によって規定されているだろう。そうした行為を全て「真に」自発的な行為,決定でないとするなら,自由な行為なるものの範囲は少なくとも非常に限られたものになるだろう。とすれば,社会的な規範に沿っているから認めないとすることはできないはずである。例えば,ある状態よりある状態を選好したことをもって自由な行為とみなすという立場がある。これが「自由」と言えるかについては異論がありうる。しかし,私達が一般に採用する「実践的」な(後退した)規定としての「自己決定」の基準とは,その動機の出所がどこにあるにせよ,それを当人が実際に行おうとしたなら,それはその者が選んだ行為とするというものだ。ここでは,子を育ててみたいから子を望むのと血縁の連続のために子を持ちたいという動機とは,それが当人の欲望として表明されている限りで,同じ準位にある。これには抵抗があるかもしれない。しかし,例えば信教の自由とはそういうものだ。神の命令ゆえに私はこの道を選ぶという意志を,それは真の自己決定ではないとして排除することはない。
 例えば,通常の妊娠→出産の場合に,その意図,その意識の内容が問われることはない。その「普通」の人にしても,家系の存続のため,妻だから当然という意識から,子を産もうとするのかもしれない。とすれば,生殖技術を利用することによって子を持とうとする者もまた,その「普通の人達」と少なくとも同等に扱われてしかるべきではないか。
 無論このように言うことは,私達がいつのまにか受け入れている規範を解読し,そこから自由になろうとする試みを否定するものではない。全ての女性が子供を持ちたいはずである。これは単純な誤りだ。女だから子供を持つべきだ。根拠がない。自己決定の侵害である。その規範に従うことが当の者に何をもたらすのか,あるいはそこから離脱することによって何を捨てることができ,何を受け取ることかできるのか,それを知り,伝える試みの意義を否定するのではない。さらに,例えば,政治,教育,マスメディア…の場で,無視するのですまない有害な扇動が行われるなら,その禁止は当然のことである。
 けれども,Aに述べたこと,他人がどうこう言うのと関係なく子を持ちたいのだという欲望は否定できないだろう。また,最終的には,Bの意味での自己決定,それが自身の選択であることが表明されている限り,ともかく私は子を持ちたいという意志を許容せざるを得ないだろう。現実に行われていることの全てが@なら,技術の利用の全体が禁止される。しかしそうでないなら,技術の利用全般を制限することはできない。これは確かに一つの立場からの主張ではある。しかし,その立場は,多くの場合批判する側も認める立場なのである。とすれば,これを簡単に葬りさることはできない。

6.他者(達)の侵害
 自己決定の原則は,他者に危害を及ぼさない行為を許容する。だが本当に他者を侵害していないのか。次に問題になるのはこの点である。
 @:ここでの行為は,直接の当事者以外に向けられた行為ではない(ただし,子の問題は別に論じることにし,ここでは除外して考える)。ならば,それは何であれ自己決定の原理のもとに許容されるという強い立場を採ることもできなくはない。しかし,これを緩める,他者の侵害をもう少し広くとることもできる。
 A:第一に,技術の応用を認めることは,結局他の誰かにその行為を強いることになるからには,問題であり,全面的に否定しない以上意味がないという主張がなされることがある。個別の場合について強制があることを否定すればよいとする反論に,批判者はそれが困難であることを言う。例えば人工授精の応用は,確かに不妊の女性が子を持つ可能性を与えるが,子を持つことについての強力な規範があるこの社会の現状を見れば,その多くは,強いられてのものになってしまうという指摘がこうしたものである。生殖技術の利用が女性の選択肢をかえって狭めるという批判で言われているのもこのことである。
 「生殖技術の発達は,不妊の女たちに対する福音と言われてきました。ところが新しい選択肢が増えたのではなく,実際はますます子産みへと女を追いつめています。」(長沖[1991:49])
 避妊術について同様の指摘がなされたことがある。避妊術がなければ,妊娠の可能性があるとして性交に応じないことができるが,それがあるゆえに応じねばならないというものである。「選択肢」の広狭の問題として語れるかは疑問としても,言われている通りの現実はあろう。しかし,全ての者がこのような立場に置かれていると主張する(この場合は全てが5@に述べた状態であるということであり,全面的な禁止が認められる)のでない限り,つまり,生殖技術や避妊術から利益を得ていると考えている者がいる場合には,不利益を被る人が(も)いるという主張になる。
 しかし,この理由で制限を行えるのは,上のような意味で1.ある者に利益をもたらすことが別の者の利益を確かに害していると言えたとして,さらに,2.その被害は別の者の利得を超えて考量されねばならないということ,3.全般的な禁止あるいは制限が唯一,もしくは最も有効な手段であることが言える場合に限られる。まず2.が言えるか。厳格に自己決定権を貫徹すべきだとする論者はこれを認めないだろう(当人の,それ自体他者の幸福の侵害を意図しない行為は,他者の幸福が結果的に損われるという理由によっては禁止されない)。こうした立場を採らないとしても,3.を合わせて考えた場合にどこまでが言えるか。例えば管理売春が圧倒的な現実であり,それを抑止するには売春全体を禁ずるしかないといった場合には全般的な禁止が認められるかもしれないが,ここで主題としている領域においてこうしたことが言えるかである。
 B:第二に,他者の価値観を侵害していると言われるかもしれない。だが,誰かの価値観に相反することを(他者の名誉を毀損するため,他者に不快感を与えるためにではなく)ただ行うことを他者に対する侵害と言い得るかは問題である。
 これに関連して,例えば「女は産むべき」という観念を(拡大)再生産しているという主張がある。しかし,技術が使用されていること自体が,規範を強固にしそれが及ぶ範囲を拡大するとは言えない。とすると,技術の登場によってこの利用を強いられる者がいるという点だけが残る。だとすれば,上に述べたことと同じである。

7.内容の問題化
 一方で女性の自己決定を主張する論者は,自らが採用するのと同じ論理によって自らが批判しているものを認めるように迫られる。ここのところをどのように述べているのか。自己決定の原理の内部で批判することが困難だとすれば,すなわち第一に自己決定の阻害として語ること,第二に他者に対する侵害として語ることが難しいとすれば,何があるか。
 @:第一に,当人の利害と当人の決定を分離し,当人の決定は実は当人の利益にならないと主張することである。無論これは自己決定の原理が批判するパターナリズムの主張である。ただ,自己に利益を与えることをもって自己決定の原理の正当化がなされる場合がある(→論文1)から,検討は必要である。これについては論文3で考察する。
 A:第二に,正邪,善悪を言うことである。確かにそれを選んだのだとする人に対して,自己選択の有無によって行為の許容/非許容を選別しないとすると,採られる一つの方向は,よい規範であるか否かを判断すること,欲望の内容の選別である。
 これは,誰かの利益となることが他の者を害していると述べる場合(→6)にも,単に利益と損害の量を比較するのでないのなら,現われてくる。個々人のもつ価値観が様々あると言うのでは足りないなら,批判する者は,まず,その価値観の優位を言わねばならない。少なくともそれがそれなりにもっともなものであることを言わねばならない。また,「強制」が問題にされる場合(→4)も,強要自体だけでなく,むしろそれが本来悪いことであること,望ましいものが失われていることが前提されていることが多い。
 二つの問題がある。A:それなりにもっともな主張/批判がなされているのかどうか。そして,B:その主張に従うことを他者に要求することができるのかどうか。
 気づいていないのではないだろうと思う。しかし,以上に示した疑問が自覚的に検討され,それに対する説得的な解答が試みられることはそうない。
 例えば,金住[1989]は論点の並列と全般的な危機感の表出にとどまらず,比較的論点が絞られており,何がどこまで問題なのか自らの見解を示している文章だが,それだけにこのことははっきり浮き上がる。彼女は基本的に女性の自己決定権を擁護する立場で議論した後,「容認できる生殖技術についての医療の基準」として,1.:情報の提供(この点に関しては私を含め全ての論者が一致している)とともに,2.:全人格的な子生みの倫理」を挙げている。これはa:”生殖”を”性的人間関係”からは分離させてはならないことと,b:子どもの人権の保障を意味する。しかし,aの主張を維持できるだろうか。例えば,レズビアンの対や単独の女性が人工授精(身体に与える影響は少ない)によって子を持つことは何ゆえに否定されねばならないのか。多くの論者が「身体のパーツ化」,子産みの過程の「分断」を指摘する。多くの人が,この過程が一つの連続・全体としてあった方がよいと考えているのは確かだと思う。しかし,それはなぜか,またそのように考えない者,それでは子を持つことのできない者もそれに従わなくてはならないのか。ここに持出されるのはb,「子供」である。「親子関係」はよく考えるべき主題だと私も考える。しかし,これが単純にaと結びつけられると,異性の対の下でしか子供は子であることの満足を得られないことを認めることになる。どうしてこのように言い得るのか。
 金住の文章も収録されているグループ・女の人権と性[1989]は,この国でフェミニズムの立場から生殖技術について論じた先駆的な書物であり,基本的な情報と多くの論点を提示している点で貴重なものではあるが,こうした記述が多く見出される。一例をあげれば,他でも生殖技術についてかなりの数の文章を書いている論者の文章。
「妻の不倫にはうるさい男たちが,なぜ注射器で他の男の精子を妻に授精することに同意するのかが,私には理解できない。どこかに虚偽がある。相手との結婚を継続したいのなら,子どもができなくても,子どものいない人生を二人で引き受ければいいではないか。第三者の生殖機能を利用してまで子どもが欲しいと言う人は,すべてに自分の妻をパートナーとみなしていない。それならなぜ,新たなパートナーを探さないのだろう。子どもができるかもしれない別の女性とやりなおすべきではないか。愛しあって子どもをつくることかできるかもしれないのに,なぜいままでの相手との結婚をつづけ,人工授精などという七面倒臭いことをするのか」(ヤンソン[1989:108])
 このような価値観もあるかもしれず(私は支持しない),彼女自身がそのような選択をするのは構わない。しかし他者に向けられた言葉としては,随分と乱暴だと言うほかない。

8.小括→次の課題
 自己決定に異なった定義を与えるという立場もあろう。だが,それはいかなる立場か,そしてそれは一般に使用される自己決定という語とどういう関係にあるのかを言わねばならない。通常言われる自己決定の原則を認める場合に帰結することを以上で述べてきた。
 @:決定の前提となる情報の提供が実質的になされることを条件とした上で(現実の問題の過半がここにあると私は考える),A:技術の利用を選択するという者の意志を認めること,「自発的」に行うとする者を許容すること,B:技術の利用を積極的に望まない者の決定が出来る限り他者の意向に左右されないものとすること。C:全般的な制限は,個別に対応することが難しく,そこに深刻な被害(Bの者が技術の利用を強いられる,生命に関わるような危険が高い割合で生ずる…)がある場合に限られる(厳格に自己決定を擁護する者はこれも認めないかもしれない)。
 これだけでも,技術の応用の現状のかなりの部分に制約を課すこと,場合によっては条件が満たされるまでの一時的な技術の応用の禁止を主張することは出来よう。それでよいというのなら,今見た範囲については,基本的にはこれだけで終わる。この点で,この主題に関わる米国のフェミニスト達は,技術の利用にかなり批判的であっても,(個別の主張との整合性は別として)基本的な立場を比較的はっきり述べる。
「私たちはまず情報と選択を求めて戦い続けなければならない。…そのどれもが私たちに力をあたえるものになり得るし,隷属させるものにもなり得る。どれもが私たちによって,私たちのために,あるいは私たちの利益に反して使われ得るのだ。」(Rothman[1984=1986:21])
 これは消極的な立場ではない。6までに見た事実について,私達はこれまで何も知らなかった。「安易に」子を持てることに対する危惧が語られ,逆に「解放」の可能性への期待が語られた。家族や性的な関係の未来や,受精卵や胎児の権利(と女性の権利との衝突)について語る言説だけがあった。いくつかの報告がようやく,現にある,しかし隠されている諸問題を指摘したのだ。技術の応用の実態に絞ってこれを徹底的に問題にし,その解決策を提案する方が,焦点の定まらない全般的な批判を行うよりも有効なことがある。実際,実態調査に基づき最近刊行された書物は,基本的にこうした立場を採っている。
 「利用するかしないかはあくまでも本人の選択の問題であろう。それにもかかわらず…生殖技術の問題を取り上げるのは,それを利用する側(患者)より,むしろそれを提供する側(実験科学者や臨床医)の倫理観やそのバックグラウンドとなっている現在の医療制度に懐疑を抱かざるをえないからである。」(お茶の水女子大学生命倫理研究会編[1992:6])
 こうした立場から,具体的な提案を視野に置いた具体的な作業としていくらでもなすべきことがある。そうした問題関心からの作業も既に始まっている(柘植[1991a]等)。
 D:規範・価値の内容に関わる主張をすべきでないというのでは全くない。意見を表明し,説得すべきなのだ。それが決定を当事者に委ねながら(委ねるしかないとしながら),他者が行えることである。そしてそれは,相手の持つ感覚,価値を受け止め,自らの取る立場にどのような反論の可能性があるのかを考えながらなされねば説得力を持たない。7にあげたいくつかの言明はそれを欠いている。ある価値に従うことを他者に求めることができるかという問題以前に,主張自体に反論の余地がある(その点,例えば技術を利用できる人の範囲という問題に関して,上記の研究会による書物や柘植[1991b:177-178] 等は,はるかに慎重な立場に立っている)。「女は産むべき」という規範を@に抵触するものとしてここでは数えなければ,他に説得的な主張はここまで見た範囲では見出されない。
 ただ私は技術への懐疑を呼び起こすものが本稿に検討した範囲に尽きるとは考えていないし,現実の苦痛や抑圧の問題と別に,「抽象的」に考察してよい場面,「可能性」について語ってよい場面があると思う。また,実際に提出されている具体的な論点もまだいくつか残っている。自己決定を正当化する議論として当の者に利益を与えるとする主張があった(論文1)。これに対する異論があることを先に述べた。また,以上で検討しなかった所有の初期状態を問題にすればどうなるのか。例えば,貧しい者が代理母を引き受ける側にまわる,富裕な者しか技術を利用できないという指摘がある。論文3でこれらの点を検討する。ただ,それでも残される部分があるだろう。論文4(立岩[1993c])では,それを浮き上がらせることが主題となる。7で議論の余地があることだけを指摘した,誰が親になることができるのかという主題は,その後の検討課題となる。

■注
(1) 紙数の制約上,以下関連文献に言及できないのでごく一部を記す。本稿で触れない技術の現状についてかなり詳細に紹介したものとして柘植[1992](グループ・女の人権と性[1989],グループRIM編[1993],等にも概要が紹介されている)。次に本稿の内容に関わる文献として,まずDuelli Klein ed.[1989=1991]が,2〜6の論点の全てに関わり必読。排卵誘発剤使用による死亡事例等,危険性が具体的に指摘されている。代理母契約に応じた女性の報告も含む。自助グループの活動についても多くの紙数が充てられている。他の翻訳として,代理母契約の実態報告等も含むArditi et al.eds.[1984=1988](抄訳,女性達自身による人工授精の試み等に関する文章他は訳されていない),欧州を広範に取材した d'Adler & Teulade[1986=1987]。日本での体外受精の実施を目指す学界・病院の動向を追ったものとして大田[1983],実施前後の動向を伝えるものとして福本[1989]。体外授精技術の実際とともに自らが加わった大学の倫理委員会での議論等も紹介した斎藤[1985]。文献研究・文献案内,医師・女性に対する調査報告からなるお茶の水女子大学生命倫理研究会[1991],これをもとに再研究・調査した[1992]。グループRIM編[1993]にも不妊治療を受けた女性へのインタヴューが含まれる。論文では,テクノロジーアセスメントが必要だとする立場から技術の現状を検討した柘植[1991a],等。私もいくつかの具体的な主題(特に代理母について網羅的に日本での報道や論説を収集中)に関する報告を今後行うつもりだが,請求があれば,現時点での資料,文献リスト,論文1,3,4,他を送付する(→181 三鷹市上連雀4-2-19,tel & fax:0422-45-2947)。 なお本稿は庭野平和財団の研究助成(1993年)を得て行われている研究の一部をなす。

■文献表
Arditi, Rita ; Duelli Klein, Renate ; Minden, Shelly eds. 1984 Test-Tube Women:
What Future for Motherhood ?, Pandora Press=1986 ヤンソン由美子訳,『試験管の中の女』,共同通信社(部分訳)
d'Adler, Marie-Ange ; Teulade, Marcel 1986 Les sorciers de la vie, Editions Gallimard=1987 林瑞枝・磯本輝子訳,『生殖革命――問われる生命倫理』,中央公論社
Duelli Klein, Renate ed. 1989 Infertility : Women Speak Out about Their Experiences of Reproductive Medicine, Unwin Hyman=1991 「フィンレージの会」訳,『不妊――いま何が行われているのか』,晶文社
福本 英子  1989 『生物医学時代の生と死』,技術と人間
グループ「母性」解読講座 編 1991 『「母性」を解読する』,有斐閣選書
グループ・女の人権と性 1989 『アブナイ生殖革命』,有斐閣選書
グループRIM 編 1993 『産みます産みません』(シリーズ女の決断1),NTT出版
原ひろ子・舘かおる編 1991 『母性から次世代育成能力へ――産み育てる社会のために』,新曜社
金住 典子  1989 「子産みの自己決定権」,グループ・女の人権と性[1989:185-205]
丸本 百合子 1989 「生殖技術と医療」,グループ・女の人権と性[1989:72-93]
宮  淑子 1989 「性と性殖のあいだ」,グループ・女の人権と性[1989:51-69]
長沖 暁子  1991 「科学は女を母性から解放するか?」,グループ「母性」解読講座編[1991:38-50]
お茶の水女子大学生命倫理研究会 1991 『女性と新しい生命倫理の創造――体外受精と家族関係をめぐって』,お茶の水女子大学生命倫理研究会
――――  1992 『不妊とゆれる女たち――生殖技術と女性の生殖権』,学陽書房
荻野 美穂  1991 「不妊・フェミニズム・生殖テクノロジー」(Duelli Klein ed.[1989=1991]の書評エッセイ)『女性学年報』12:137-143
大田 静雄  1983 『試験官の中の子どもたち』,三一書房
Rothman, Barbara Katz 1984 「生殖技術と女の選択」,Arditi et al.eds.[1984=1986:7-22]
斎藤 隆雄  1985 『試験官ベビーを考える』,岩波書店
立岩 真也  1993a 「生殖技術論・1――所有論としての」,(未発表)
――――  1993b 「生殖技術論・2――公平の原理から」,『Sociology Today』4
――――  1993c 「生殖技術論・4――決定しない決定」,『ソシオロゴス』17
柘植 あづみ 1991a 「体外受精・凍結保存技術のMTA――生殖技術と女性の関係についての一考察」,『Sociology Today』2:17-30
――――  1991b 「生殖技術と女性の未来」,原他編[1991:169-179]
――――  1992 「「子づくり」技術入門」,お茶の水女子大学生命倫理研究会[1992:71-115]
ヤンソン 由実子 1989 「”代理母”が問うもの」, グループ・女の人権と性[1989:96-111]

TATEIWA Shinya On Reproductove Technologies・2:Conditions of Self-Decision

    We examine some (especially feminists') criticisms against the use of reproductive technologies from the standpoint that the right of self-decision should be protected : 1.lack of information which is a precondition of self-decision, 2.burden on women and uncertainty of the outcome,3.getting babies (not women's own health) by hurting women's body, and intervention of medical professionals, 4.obstruction to self-decision by i)compulsion and ii)social norms, 5.trespass on other persons (e.g. the whole women with infertility). These are all important and as to 1 and 4-i, the use should be restricted or prohibited unless problems pointed out are resolved. But as to 2, 3, 4-ii and 5, they are weak to prohibit the use under the principle of self-decision.

※この論文は後に立岩『私的所有論』の中に組み入れられた。



立岩 真也 
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