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家族・優生学・生殖技術

立岩 真也(日本学術振興会) 1991.11.03
第64回日本社会学会大会 於:筑波大学 部会・家族
共同報告:家族・優生学・生殖技術(4)


■我々がここに行っているのは,一つの流れに乗ったものである,と受け取られもしよう。

・個人そして家族を含む社会形象一般に対する古典的な了解
 :解放 自生的秩序 主体性… 私的空間,個々の愛情が交換される場としての家族…
・特にここ20年程,しかるべき背景があって,これに対する批判が行われてきた。
・ここで歴史学が活用される。あるいは新しい歴史学と言われるもの自体がそうした背景
 のもとに成立している。
・歴史的現象として 生殖 子供 個の再生産,人の質 への注目。
 環境と遺伝的な要因が問題にされ,事実,個の再生産が行われている場所である家族に
 非常な関心が向けられる。※
 ここでの我々の試み,優生学の検討はそれを明らかにする一つの試みである。
・家族については,私的空間という規定と別に,他者による介入という事実があるという
 ことの指摘。また,例えば自然に発生するものとされた愛情という契機が,成員に対す
 る配慮として他者から与えられたのだというように,同じものを別の視点から捉え返す
 試みでもある。
・まず事実の検証。そうした作業が行われてこなかった。そして相対化の作業として意味
 を持つ。しかし,我々は作業総体の位置づけをさらに考えておく必要がある。

 ※
 ・まず,人の置かれる環境への注視の中で,家族は主要な部分を占める。子供,そして
  労働する大人,子供を産み育てる大人の置かれる劣悪な環境が問題化される。注意せ
  ねばならぬのは,家族自体が護持すべき対象とされる訳ではないということ。焦点と
  なるのは個人。それとの相関で家族が見られる。家庭環境の改善が目指されるが,場
  合によっては施設収容といった形での家族からの切り離しが行われる。また,子の教
  育の多くの部分は,家族から剥奪され,学校という制度の中に委譲されることになる。  人が生まれ,育ち,暮らす場であるという事実によって家族は注目されるが,それを
  肯定し,介入して強化しようとするか,それを解体しようとするかは,場合によって,
  人が家族に見込むものによって,他の選択肢との比較において,変わってくる。
 ・同じく個人の質に関わるものでありながら,別様の因果を想定し,また特殊な効果を
  与えるものとして,人口の質の問題化と19世紀中頃の遺伝に関する学説を受けた,社
  会ダーウィニズム,社会進化論,優生学の登場。これはある種の家族の擁護と増殖を
  夢みるとともに(積極的優生学),ある関係,生殖,家族の禁止を指向する(消極的
  優生学)。ここでも明らかなのは,家族がそれ自体として肯定されたのではないとい
  うこと。前者は,施策として実現されることはなかった。後者は,断種法の制定等に
  よって20世紀初頭いくつかの国である程度の実現をみる。(こうした歴史過程の分析
  は太田らによって行われているが,私の作業としては今後の課題となる。)

■総体としていかなる作業であるべきなのか。

・近代的な社会的な事象・形象,例えば近代家族を捉える作業は,一つに,他者による構
 成という契機を含むことができるようなものでなくてはならない。
・しかしそれだけではない。もう一つの危険性(それは古典的な了解の危険性と実は同じ
 ものだ)を見なくてはならない。述べたように批判の意図は,社会性・他者性を明らか
 にすることにあった。しかしことはそう単純ではない。他者・自己という図式をとる限
 り,それが批判に結びつく時,批判の立脚点として自己が要請される,すなわち,社会
 的な規定に対置されるものとして自己,自己の本性が持ちだされるのだが,それ自体歴
 史的な構成物であるという批判は当の批判の作業自体が行ってきたことだ。つまり,な
 されてきたのは自身を掘り崩す作業であるとも言える。
・さらに,自己に属するものはそれ自体でよいもの,他より優先されねばならないという
 ことがいえない。他方,社会的な起源を有するということ自体も積極的な批判の根拠に
 はならない。自己決定の優先ということ自体一つの立場であり,また,批判の運動が主
 張したことの一つは,例えば育児を自己,家族の内部に問題を閉じ込めるなということ
 でもあった。
・例えばフェミニズムは,こうした問題を当然自覚しながらも,はっきりとした立場を定
 めることがなかった。例えば,家族対国家,個人対国家という図式をとってきた。我々
 の試みにしても,そうした図式の中に流し込まれていく可能性がある。
・とすれば,自己と他者を分離し,自己を特権化するのではなく,少なくともその前に,
 自己に帰属するものの設定自体が一つの規範・主張であることを捉え,そうした自他へ
 の配分の規則,配分に関わる論理を押さえるべきではないか。誰があるものの形成に関
 わっているのかという事実的な因果はそうした規則の中の一部を構成するものとしてあ
 ると考えるべきではないか。だから私達は,例えば,自己決定ということ,親の権利と
 いう観念も含め,規範的な命題の提示として捉え,そこに付与される配分の論理,遡っ
 て配分の論理を導く論理自体を分析していくべきである。
・例えば,優生学も一つの論理として,またそれへの批判もも一つの論理として検討する
 必要がある。特に生殖技術を問題にする時,これはきわめて具体的な問題である。とい
 うのも,生まれる者に対しては,全ての者が他者であるからである。

■例えば家族をどのように捉えるのがよいか。

・こうした作業を行おうとする時,そして家族を問題にしようとする時,家族社会学はあ
 まり役に立たない。そこに描かれる家族は,観察者が重要と思う部分を足し合せた,合
 切袋のようなものである。すなわち充分に分析的でない。そして誰に権限が与えられ,
 それは誰が,どのような論理で設定しているのかという問題を消去してしまっている。
・そこで,論文LMで作業を始めた。家族の規定とは,社会的な境界設定の問題であるこ
 と,常に他者が関わっていること,この契機なくしては,意味を持たないこと。そして
 近代家族への移行とは,既に存在する家族という形象を前提とした上で,人間による作
 為,人間的価値からの言及という契機が加わることだと考える。近代家族とは言及,介
 入,そして諸作用・諸論理の対立・論争の場そのものであり,問題化という現象の総体
 なのであると捉える。
・とすれば,なされるべきは,作為という契機をふまえ,家族に関わる諸要素を分解し,
 論理,作用を分析していくことである。
・その一つに,優生学,優生学を作動させる論理の分析もあると考えるが,論文Mではこ
 うした局面を扱うことはなされず,関係の形成・維持に関わる自己決定,当事者間の合
 意という原則とそれから導かれるもの,その効果について考察した。具体的な論理の展
 開とその諸帰結については論文を見ていただくとして,基本的な論点は:この原則自体
 が一つの社会的な規範であり,承認なしには成立しないこと。そしてこれは,近代家族
 を構成する一つの契機となるのだが,他方で,現実に家族に付与される様々な義務・権
 利がここからは生じないということ。これは他の契機(一部には優生学,優生学を作動
 させたものもあるだろう)として何があるかを考察する前提となる。
・ここから,多くの問題が考え直されねばならないと考えるのだが,以下では生殖技術に
 即して,ここで記したことがどういうことかを述べる。

■個の質を巡る生殖技術についていかなる論理が付与されるか。

・優生学はその誕生の時から批判された。第一に根拠の薄弱さが指摘された。それはまた 環境の重視の主張でもあった。社会学者はその立場上,こうした主張をするだろう(だ が実際には少なくともその誕生期において優生学と社会学とは無縁でない)。しかし, それは事実ある部分に遺伝的な要因が効いていて,ある手段が実効性を持った場合に, これをどう捉えるのかという問いに答えを用意しない。
・新たな生殖技術が開発され,実用化されつつある。一つには人工受精,特にAIDと呼 ばれる配偶者以外の精子を用いた人工受精である。次に受精卵の移植,そして代理母。 さらに人工受精,あるいは出生前診断→選択的中絶を介した質の統制。
・ナチズム以後の人々は断種等々に対してより敏感になる。現に存在する者に対する暴力 的な介入に対して,人権の侵害,自己決定の侵害という批判は有効性を持つ。そしてそ の露骨さは確かに戦前に比して弱まったと言えるかもしれない。だが,問題はこうした 図式がどこまで有効かだ。技術の現われに対して,自由対介入という対立として語るこ との出来る場面が残っていないというのではない。しかし,それが無効になる地点があ る。始めて生じるというのではなく,近代の構成自体にその可能性が含まれているのだ が,技術が現われてよりはっきりと示される。(強制という側面を過大に評価するべき ではなく,少なくともそれだけを見るべきではなく,当初から介入が個々の欲望を経由 したものであることについては市野川が述べた)。現実にも,この技術の利用への指向 が例えば国家だけに発しているとはいえない。
・19世紀以降の歴史的過程と関わり,また優生学と関わって,ここで取上げるのは,子の 質が関係する場面である。具体的には出生前診断・選択的中絶という技術・技術の応用 の問題がある(→論文KL)。これを,消極的優生学の中に位置づけることもできるが, 少なくとも国家の強制としてこれが行われることは少ない。

・「親」にせよ国家にせよ,子,子となる存在に対する他者である。そういう意味では, すべての者が同格であることを確認しよう。
・近代的な社会形象を形成する一つの契機として,論文Mで検討したのは,所有と合意と いう契機である。ここから何が言えるか。
・@子を産むという行為は意志的な行為として起動し,身体的な因果関係において子が生 まれる。そうした関係であるがゆえに,自らの身体を用いて得た労働の成果を自らが取 ることができるのと同様に,その存在に対して権利を持つことが正当化されるのだろう か。妊娠・出産という過程そのものは産む者の身体に属することであり,ここへの介入 は不当であるとしよう。しかし,質の決定となるとどうか。自己の身体を介するという ことによってそこまでが正当化されるものなのか。言うまでもなく,やがて胎児は母体 を離れ,一人の人となるからである。
・Aしかし,子の誕生が問題になる時,その者の自己決定,同意という論理は効力を持た ない。出生以前,あるいは直後においては,選択する主体が存在しない,子が意思を表 明することのできる存在としていない,したがって,同意も存在しない。
・以上から,所有,合意という範囲において,誰かがこのことに対して特権的な権限を持 つということが言えない※。では,それ以外の論理として何があるか。
・ここに位置するのが,B幸福の言説である。誰のどのような幸福か,当然その帰結は様 々に分かれるが,例えば優生学の背後にもこうした論理があるのは明らかである。
・当の者にとっての幸福。しかし当の者は不在である。子供の視点を仮想し,そこから選 別が行われる。実の親がよい,よく育てられる親がよい,社会がよい,等。だが,選択 的中絶の場合は当の者がそもそも存在することになるか否かが問題になっている。
・他者にとっての都合。例えば,親にとって,あるいは社会にとって。この時,親にとっ ての幸福(不幸の回避)を特権的に言えるか。産みの親が子を育てなくてはならないと いう現実的な制約が問題にされる。だがこれは,現状の問題性を指摘することができる にせよ,決定的な批判たりえない。社会が負担だからという論理と,親が負担であると いう論理の間に優劣があるだろうか。

 ※別の主題について,我々の視角から検討すべき点をいくつかあげよう。
 ・やがて,子は一人の事態を判断できる者として現れることになるだろう。この時,子  は契約の当事者となることができ,自らの意志において,自己の位置を変更できるこ  とになるはずである。したがって,この時,予め親に権利があると言えない。このこ  とから例えば扶養の問題がどう捉えられるか。
 ・体外受精・代理母等については次のような問題が現れる。身体,身体の機能の差異は,  偶然与えられたものである。身体の内部,身体的な過程そのものはその者のものだと  もしよう。だが他方,自然的な差異(例えば卵管閉塞)によって,結果としての差異  を受け入れねばならぬことを正当化できるだろうか。とりわけ,卵子・精子・子宮…  の提供者の意志がある場合はどうか。
 ・媒介の問題が語られ,金銭に関係して不平等の問題が語られる。それはもっともなこ  とである。しかし,不平等は様々に存在する。この場合を排除する根拠は何か。
 ・これらは少なくとも形式的には自己決定という範囲内で行われている。産むことを強  いられていると言えるかもしれないが,社会的な規範に規定されているということ自  体はそれを排除する理由にはならない。大きな代償が支払われること,情報が不足し  偏っていることも事実だが,ではそれさえ解消されればよいのか。
 ・仮にこれらの問題が解消されたとしよう。この時,例えば同性の対,単独者がこうし  た契約に加わり,子を持つことを排除できるだろうか。そこに与えられる根拠は何か。  例えば,親であること,あろうとすることの自然性=本性という観点。しかし,実の  親が子供を育てるのに最適であるという発想こそが批判されてきたのではないか。

■論理そのものを検討すべき場面がある。

・こうして,家族対国家,個人対国家という図式は単純には通用しない。所有・合意とい う論理から積極的な主張が導かれない時,「幸福」に言及する言説は,家族あるいは個 人を目指す介入,その背景にある契機に接近していくことさえある。
・批判が批判の対象に接近することが問題なのではない。これらの位置価を考慮しない言 説が無効なのである。自他の権限の,行為の可否の境界設定は社会的な決定,第三者に よる決定として以外にありえず,そこには何かしらの内容的な「人間的」な判断が現わ れること,これは不可逆的な,撤退できない地点であり,ここから考えていく他ない。
・その上で,判断根拠が上述したものに尽きるのかと感じられるのなら,子を,所有,子 への権利という言葉によって捉える以外の道はないのか,また,自然と呼ばれてきたも のを地上的な倫理,選好として再規定できないか,等について考え,それと社会的な決 定との関係について考えてみることである。
・この場合,具体的には,誰が権利を持つかという問題の前に,優生学的な発想(と呼ん でかまわないはずだ)そのものを検討すべきである。すなわち,人間を改良することに よって,より良い私の状態,社会状態を作ろうとする発想(それは資本家だけに都合の よい社会であるとか,そういうことを言って済ませられるようなことではないのだと考 える)そのものについての検討である。(→論文KL)

 以上は,特に言及していない部分を含め,以下の論文がもとになっている。次頁以降の 著書・論文・資料の紹介も参照されたい。なお★印のついたものは今回配付した。AC Jが掲載されている『ソシオロゴス』は会場で販売されている。

 @「主体の系譜」
 A「制度の部品としての「内部」――西欧〜近代における」
 C「個体への政治――西欧の2つの時代における」
 J「愛について――近代家族論・1」
 K「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」★
 L「出生前診断・選択的中絶に対する批判は何を批判するか」★
 M「近代家族とは家族が問題化されるという現象である」★

▼著書・論文・資料の紹介                  立岩 真也 1991.10

【著書】

■@『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』
  安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也,藤原書店,1990年,320p.,2500円
1985年以来,日常的に他者の介助を必要とし,かつ家族・施設から独立した生活を送ろうとする重度の身体障害者の生活に関して,聞き取り調査と文字資料に基き,彼らの試みの意味を社会学的に考察する共同調査研究が行われ,成果がまとめられた。全8章中,第2・6(共著)・7・8章(→論文)の執筆,文献資料集の作成を担当し,聞き書きの形を採った第1章の編集,序章・終章の文案の作成に携わった。

【論文】

■@「主体の系譜」
  東京大学大学院社会学研究科修士論文(1985年2月) 800枚(400字詰・本文+注)
西欧社会で,意志・能力といった個人の内的特性がどのように捉えられ,それがどのような社会の構制・作動を可能にしたのかを歴史的に検証し考察を加えることにより,近代化,西欧・近代社会の再検討を試みた。非西欧・非近代社会一般に関する概括的な検討の後,キリスト教の教義の中での主体の観念の生成を見,近代については所有・労働と刑罰に関する考察を行い,そこに見られる主体の概念及びそれに併行する実践の多様性を指摘した。

■A「制度の部品としての「内部」――西欧〜近代における・ 」
  『ソシオロゴス』10,pp.38-51. (1986年7月) 55枚
論文1を受け発展させることを試みた。個々人の内的な性質を「個体性」「不可視性」とまず捉え,さらに内的な罪という観念を媒介して,その「普遍性」と「個別性」が導出されること,それを受けて近代では「帰責」「主体化」「矯正」という把握−実践の型が存在し,ここに因果性を巡る実証的立場と個人の本源性を認める立場との対立が生じるが,実際には相反する前提に立つ諸実践の複合として近代社会が存立していることを述べた。

■B「逸脱行為・そして・逸脱者――西欧〜近代における・ 」
  『社会心理学評論』5,pp.26-37.(1986年7月) 45枚
論文1〜2の研究の一つの展開として逸脱論をとりあげた。レイベリング論が統制側の認識を重視したことを評価しつつ,それをさらに進め,逸脱行為と行為者の関係に関わる社会的認識に注目すべきであり,特に近代社会では原因の個人内在性という認識が重要であること,しかもその認識は個人に付与される原因の性格に関して単一のものでないことを,この認識に対応して存在する刑罰の諸実践や刑法学内部での論議と対応させつつ論じた。

■C「個体への政治――西欧の2つの時代における・ 」
  『ソシオロゴス』11,pp.148-163. (1987年7月) 55枚
以上で十分に論じられなかった,16〜18世紀の西欧社会とそれ以降の社会との差異を捉え,固有に近代と呼びうる19世紀以降の社会の特性を記述することを目指した。従来,個人の自由を前提とする社会が19世紀に組上がり,そこに生じた問題を解消すべく個々人に対する政治的な介入が始まったと考えられているが,それは事実に反し,自由の前提と個人への積極的な介入が相まって近代社会が成立しているというのがここでの一つの論点である。

■D「FOUCAULTの場所へ――『監視と処罰:監獄の誕生』を読む・ 」
  『社会心理学評論』6, pp.91-108. (1987年12月) 70枚
以上の研究の上でも示唆を受けたM・フーコーの著書を,刑法史等の了解とも対照させながら検討し,それが,近代社会において,法・契約といった契機と並行して存在する,これらと対照的な性格をもつ個人への直接的介入の実践の存在を示し,その重要性を指摘しているものと解しうることを示した。また,こう解することにより,彼の「主体」に関する考察が正統的な近代社会・近代化論とどのような位置関係を持つことになるかを論じた。

■E「「出て暮らす」生活」
  著書@第2章(pp.57-74) 45枚
第一に,障害者全般の状況を簡単に紹介した後,地域に自立する障害者の年齢・障害の種類や程度等の基本的属性をおおまかに押さえ,次に,彼らがその生活に至る来歴,単独のあるいは配偶者との生活の形態,居住の問題,生計,社会的活動等,地域での生活の概要を記した。第二に,やはり自立生活運動と呼ばれる,1970年代に始まった欧米,特に合衆国の障害者の運動の生成と展開を簡単にまとめた。資料・文献の提示に重きを置いている。

■F「自立の技法」(岡原正幸との共著)
  著書@第6章(pp.147-164) 40枚
家や施設を出ても,問題が解消するわけではない。これまでの生きるための便法を返上し,新たな生活の技術を作りあげていかなければならない。そのための援助を行えるのはまず当事者である障害者自身だと主張し,「自立生活プログラム」と呼ばれる試みが始められた。そのプログラムの一部を紹介し,そこから,与えられた安全な枠を越えること,依存する関係を崩すこと,自己を肯定すること,こうした主張が取り出され,検討される。

■G「はやく・ゆっくり ・自立生活運動の生成と展開・ 」
  著書@第7章(pp.165-226) 160枚
障害者の社会運動と行政の動向を主に運動体の機関紙や答申等の文献を用いて検討した。戦後の社会福祉政策の基本的方向を概括した後,障害者の運動が1970年頃を転換点として要求運動から社会の質を問うものへと変化したことを確認し,その認識の生成とそれに伴う運動の展開を追った。またその後,70年代中期以降に現れる政策の変化が何を意味するか,さらにそれを踏まえて障害者の社会運動がどこに向かうことができるのか,考察した。

■H「接続の技法 ・介助する人をどこに置くか・ 」
  著書@第8章(pp.227-284) 140枚
介助供給の諸形態についての理論的な考察と,聞き取りと文献による実証的検討を行った。近代社会の構成を前提すると,介助の供給の形態としていかなるものがありうるのかをまず検討し,その中で現実に採られている諸形態を紹介し,有償・無償ということの意味,国・自治体が行為を直接供給するのか資源を支給するのかという問題,行為を媒介する機関の性質,等の主題について,近代社会の分化,分業の編成という視点を重視して論じた。

■I「どのように障害者差別に抗するか」
  『仏教』15号特集:差別,法藏館,pp.121-130(1991年4月) 30枚
障害者差別にいかに抗するのかを考える時に,「能力主義」の問題を避けて通ることはできない。だが,配分機構・原理の問題にこれを還元し,現実的な難しさを述べて終わらせるのは安易にすぎる。どのようにして,どのような性格のものとしてこの機構が成立するのか,それは個々の存在の価値規定とどのような範囲で関わるのかを考え,自己規定において,機構への介入のあり方において,様々な戦略をとることができることを述べた。

■J「愛について ・近代家族論・1・ 」
  『ソシオロゴス』15号(1991年7月) 70枚
近代家族の像を得ようとするなら,まず,その核となる愛情の位置を考えることである。第一に,愛情が関係の基底をなすという図式の成立に関する諸説を検討した。近代社会の成立に対する諸見解と同じだけの説明があること,各々の吟味も必要だが,その前に,愛情という項が多様な力線が交錯可能な場としてあることを確認すべきことを示した。第二に,基底的で内的な感情とされることで愛が不可視で定義不可能なものとなる結果,関係の外延的な定義が不可能性になること,また基本図式そのものから図式の変容が帰結することを示し,その上で再規定がなされる事情を見た。特に第三者が関与する場面の重要性を述べた。第三に,上述の愛の性質から,愛が関係の双方にとって制御不可能なものとしてあることを確認し,これに関連して愛の内容の再規定の試みと,関係の再規定と効果として等価な,愛とそれに関連させられていた行為との無関連化への問いについて論じた。

■K「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」
  江原由美子編『フェミニズム再考』,勁草書房(1991年刊行予定) 65枚
出生前に胎児の状態を診断し,障害があるとわかった場合に人工妊娠中絶を行うことの是非について検討した。生まれるのは本人にとって不幸であるという主張が成り立ちえないこと,同時に,人工妊娠中絶の一切を禁止すべきだとしない場合には,抹殺であるとして禁止することもできないことを示し,こうした意味で当事者に定位できないのだとすれば,胎児にとっての他者である私達の倫理の問題,不都合な存在を社会の成員としないという選択をどう考えるのかという問題であることを示し,この時,何が考えられるかを述べた。

■L「出生前診断・選択的中絶に対する批判は何を批判するか」
  『生命倫理研究会報告書』(1991年刊行予定) 55枚
1970年代以降の障害者の運動は,出生前診断・選択的中絶を優生思想に基づくものであり,障害者の抹殺であると批判した。女性の運動は,やはり優生思想として批判する一方,他方で出産に関する親の権利を主張し,ここに対立と内部における矛盾が生じた。胎児が問題になっている場合,そして生まれる人間の質が問題になる場合に,抹殺,親の権利という主張のいずれもそのままでは妥当しないことを示した。しかし,批判が提起したのはこのことだけではない。では,何を受け継ぎ,さらに考えることができるのか,検討した。

■M「近代家族とは家族が問題化されるという現象である」
  (1991年10月『社会学評論』に投稿 掲載未決定) 50枚
近代家族を捉える視点を提案し,そこから,考察の第一段を開始した。家族は,対と子を中核とし,そこでの行為が他者の承認・規制のもとにある単位として既に存在する。近代は,この存在を前提しつつ,基点・焦点としての人間,人間的な価値という場から,これに対する言及,変形の作業を開始する。近代家族は,こうして家族の問題化という現象の総体として捉えるべきである。この作用,作用を与えるものは単一でないが,その一つに広義の私的所有の規範がある。ここから何が規定され,何が規定されないか。これは,変容の一つの軸を確かに担うが,この契機それ自体を切り離した時には,家族の外延的な定義,積極的な境界設定は不可能となる。では別の契機として何を考えるべきか,家族を巡る問題をどのように捉えるべきか,本稿に続く作業でふまえるべき点を最後に示した。

【学会報告】

■@「個人への「帰属」について」
   日本社会学会第58回大会 1985年11月 於:横浜市立大学
   『第58回日本社会学会大会報告要旨』, pp.355-356.
   論文Aの一部に取り入れられている。

■A「身体障害者の自立生活をめぐって――介助の問題を中心に」
   日本社会学会第60回大会 1987年10月 於:日本大学
   『第60回日本社会学会大会報告要旨』, pp.383-384.
   論文Hの一部に取り入れられている。

■B「生命工学への社会学的視座」
   日本社会学会第62回大会 1989年10月 於:早稲田大学
   テーマ・セッション「巨大科学・技術と産業社会」
   『第62回日本社会学会大会報告要旨』, pp.319-320.
   発表原稿(65枚)に再検討・加筆・修正を加えた上で論文として発表予定。

■C「愛について ・近代家族論へ・ 」
   日本社会学会第63回大会 1990年11月 於:京都大学
   『第63回日本社会学会大会報告要旨』, pp.229-230.
   発表原稿(100枚)を修正・加筆の上論文Jとして発表。

■D「家族・優生学・生殖技術」(要旨題名:「親とは誰のことか――近代家族・生殖技術」)日本社会学会第64回大会 1991年11月 於:筑波大学
   論文KLM及び20枚程のresumeを配布。


REV: 20161031
優生学  ◇日本社会学会  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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