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愛について

―近代家族論・1―

立岩 真也 1991年7月 『ソシオロゴス』15号、pp.035-052(70枚)

『ソシオロゴス』のホームページ
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kamimura/sociologos.htm


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カバー写真 ◆立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』
 生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110
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  近代家族の像を得ようとするなら、まず、その核となる愛情の位置について考えることである。そこで第一に、愛情が関係の基底をなすという図式の成立に関する諸説を検討する。近代社会の成立に対する諸見解と同じだけの説明があること、各々の吟味も必要だが、その前に、愛情という項が多様な力線が交錯可能な場としてあることを確認すべきことを示唆する。第二に、基底的で内的な感情とされることにより、愛が不可視で定義不可能なものとなり、その結果、関係の外延的な定義不可能性がもたらされること、また基本図式そのものから図式の変容が帰結することを示し、にもかかわらず、あるいはそれゆえに、再規定がなされる事情を見る。特に第三者が関与する場面の重要性を示す。第三に、上述の愛の性質から、愛が関係の双方にとって制御不可能なものとしてあることを確認し、これに関連して愛の内容の再規定の試みと、関係の再規定と効果として等価な、愛とそれに関連させられていた行為との無関連化への問いについて論ずる。

0 序

  家族について多くの業績が蓄積され、また近年、フェミニズム、歴史学等の新たな視角からの知見・考察がつけ加えられ、従来の見解に対置されてきている。だが答えられていない基本的なところが残っている。新たな歴史的事実を発掘したり社会調査をする前に、考えるべきこと、前提として確認すべきことがいくつもある。
  第一に、近代社会においては、意志・感情・能力といった個体の内的な性質とされるものが基点あるいは焦点とされ、このことを巡って社会的な装置のいくつかが形成されているし、またそれゆえにそこは、抗争の場ともなっている。家族においては、愛情が大きな位置を占めている。第二に、この社会は、政治・経済・家族といった諸領域の複合として捉えられる。これは新しい視点では全くない。しかしこの境界設定と相互関係の基本的なところについて十分に検討されてきたとは言えない。★01以下、第二点への関心を背後に置きながら、第一の視点から見えることのいくつかを列挙する。(他の論者の議論の直接の援用でない主要な論点については下線を付す。)
  現実は常に範型を裏切るだろう。多分、人の生そのものにそういうところがあるのだ。だが、人々の間にまずは観念として存在するある範型を抽出し、論理として、その行方を追うことには意味がある。生が範型を参照して営まれることも事実だからだ。1で愛の範型の成立について、2でこれに由来する愛と家族に関わるいくつかの不可能性とこれに関わる再規定と外部からの規定の行いについて、3でなお残る愛の中核部分について、その部分的な改変の試みについて、そして行為・関係と愛とを無関連化しようとする行いについて述べる。★02

1 愛の歴史

1-1 愛の分離・析出
  多くの人が、一般的な好意と区別される愛の存在を信じ、これは愛である、愛でないという基準を持っている。口に出して言われない場合にも、実践的に行われている区別を観察者が観察してここにはこういう原理が働いていると述べることもできる。
  またある人は、「真実の愛」について語り、また、それをもって愛の現状を批判するかもしれない。またある人は愛の「社会性」について語るかもしれない。このことによってやはり批判が行えるかもしれない。
  これらの様々な道筋が確かにありうる。しかし、ここでは問い方を少し変えてみよう。近代の社会は、個体の「内部」に存在するものが注目されることにより、独特の組上がり方をする。だから、どのような時に、私達は愛を愛として、独立したものとして語るようになるのか、そのことと行為、社会的な場がどう関わることになるのかと問うのである。
  けれどもこのことを考える際には慎重でなくてはならない。いつの時代にも事実として「恋愛関係」があり、それに加えて、またある場合にはそれと独立に、ある承認の規則、承認の手続きがあって、婚姻が行われる。ここには、心的な契機が含まれている、少なくともその可能性がある。そうした事態と近代に特有のこととの間に違いがあるだろうか。
  愛は全く語られないというわけではない。愛がいかによいものか、気持ちのよいものかが、あるいは、心移りや失恋が、語られてきた。
  けれども第一に、それが自然に性愛・婚姻に移行するなら、愛は、その快楽や失うことの悲しみが表出されることはあっても、その心的契機自体が遊離され、分析され、問われることはない。第二に、多くの社会にあっては、婚姻の規則が最初にある。それは生殖によって形成される関係を前提としている。承認された生殖(そこに生じる承認された血縁)と承認された対とが分かち難いものとしてまず存在する。ここでは、心的な契機は、他の条件と競合しなければ関係を形成するに好ましいものとして承認されるか、問題とされないか、あるいは関係の形成に対してむしろ危険なものとみなされるかである。第三に、道ならぬ恋、の場合であっても、愛の強さや、それゆえの行為の強さや、またある時には作法や技法が語られることはあるにしても、それが婚姻の制度に対立する契機であり、相手はそれを成立させない客観的な制約だとすれば、ここでも心的な契機自体が取り出され、それ自体が、それが可能とするものとの関係で問われるということはない。★03
  これに対して、語りにくいが、語らねばならぬものとして、愛が常に問題になる社会は多くない、特異だと思う。愛とは、性と分離され、内的な感情であるとされる社会がある。愛が、知られるべきもの、問われるべきものとして、語られるようになるのは、社会制度、社会的形象と結びつけられる、というより、まず他から切り離され、他のものを支えることになった時である。このことから様々な帰結が生じる。

1-2 キリスト教
  その契機はいかなるものだろうか。私達は歴史的な考察を行う必要がある。キリスト教に注目する橋爪の議論がある。★04
  ユダヤ教の律法において行為の善し悪しは・他の大抵の社会もそうであるように・婚姻/姦淫という外的な区別に基づいて弁別されるが、キリスト教は上の区別をとりはらう、あるいはその境界をずらす(例えばマグダラのマリアについてのイエスの言葉)。行為の善悪は行為の外形によって判断されない。そこで措定されるのが内面である。ここに置かれ、相互関係を律するはずのものが愛である。
  何が愛なのか。他者に汝の欲することをなせという黄金律は内容を特定しない。また特定の誰それに対するもの、具体的な対象を指示するものではない。性愛のもつ固有対象性はむしろこうした意味での愛と両立しない。こうした愛は肉体を離れ、祈りとして現れる。というよりむしろ肉体が発見され、肉体と精神の分離という主題が導入されるのだと言ってもよい。
  この時、初めて愛が専ら精神に帰属する実定的な存在として存在し始める。だがこれは後の時代の異性に対する愛ではない。それは特定の対象に向かうもの、同時にその他の対象を排除するものであってはならないからだ。
  この時、性愛の規範を巡って、教徒内部で混乱が生じた。婚姻、性的関係を否認する立場、排他的な婚姻関係を否定して共有を主張する立場などが現われる。ここで神の愛(アガペー)と肉の愛(エロース)とを分離し、それに対し、後者、性・婚姻は俗事であってそれを否認しないが、関与もしないというかたちで事態が収拾される。それは種族の保存のために必要ではあるが、それに過度の関心が注がれてはならないというわけである。依然として上述した両極の立場は異端として現われるが、中世キリスト教会の正統はこの立場を維持することになる。
  以上述べた史実そのものは定説と言ってよいようだ★05。これと後の時代との関係についてどのように考えたらよいのだろうか。確かに聖書のテクストに、私達は「内面」の発見を認めることができる。これは、西欧社会の成り立ちの非常に重要な契機となっていると考えられる。★06だが、ここで見出されている愛が後の時代との連続性をもつのは、性とは別の準位に内的な存在として措定されたことにおいてであり(連続性をどれほど重視するかの判断は、このことの重要性をどのように見積もるかにかかっている)、それはまだ、他者との関係、家族という制度の中核として遊離する近代における愛の位置とは別のところにある。それが近代の用法に連続するには、転換が必要だったのである。

1-3 基本図式
  心的契機としての愛が、婚姻・性・生殖と結びつけられる経緯について検討してみよう。ここに成立するのは、愛情→婚姻→性→生殖という時間的な連鎖であると同時に前者が後者を可能にするという関係である。この図式への移行についてはいくつかの説明がある。キリスト教の教義だけでなく、実際に人々が観念し実践してきたこと、また多くの論者が注目している「宮廷恋愛」等、「近代」的な形象に至る経緯を検討すべきだが、ここではその作業は行えない。★07私達がまず関心を持つのは、近代社会の成立との関わりでこのことをどう捉えるのかである。この主題に関する説明が、資本主義の「精神」の成立についての説明、近代社会の作動を捉える理論的な立場と並行していることをみることが出来よう。

1ー4 その成立
1.純化
  家族に従来あった、例えば、生産といった働きを奪われた結果、婚姻に関する規範が消失してしまった結果、愛という心的な契機、性愛に関わる関係しかそこに存在しなくなったのだ、と捉える捉え方があろう。★08
  これを全面的に否定しようとは思わない。しかし、この場所に様々な力が加わっていることもまた事実であり、その加わり方を見ておくことは意味のないことではない。
2.欲望の解放
  上との距離を測り難いが、欲望の解放としてこれを捉える方向がある。すなわち、性愛化を、積極的に人々の中で現われ、採用されたものとみる考え方である。
  このような説明をとっているのは、例えばE.Shorter である。「1850−1914年の間に、ほとんどすべての夫婦において夫婦関係の「性愛化」が生じた」。その感情革命の起源は市場資本主義に求められる。第一に社会の閉鎖的な状態が打ち破られる、つまり自由市場の拡大。第二に、生活水準の上昇。第三に、工場プロレタリアートの登場。こうして自己中心の経済心性が非経済的生活領域の中にも浸透し、それが個人と共同体との絆を弱めた。この自由への希求は特に女性に現れ、またそれは主に下層階級の間で起こった。その意味で、女性自身が資本主義を求めたのだとも言える。等、と述べられる。★09
  こうした説明は歴史的な相対性を主張するようにみえる。論者自身がそのように言明している。しかし、また一面でこれを、外的(例えば経済的)な諸条件が揃った場合に性愛化が自然に生じる、外的な諸条件がそれを引き起こしたという説明とも受け取れる。その限りでは、第一の説明と実はそう隔たりがあるわけではない。
  以上を無視できないとしても、注目すべき別の説明として、愛情という場所、家族という場所自体に関わる、ある規範、作用としてこれが出現しているという捉え方がある。
3.プロテスタンティズムと近代家族の精神
  前代の要素を失ったこと、また欲望の解放による、家族における心的な契機、あるいは性愛という契機の中心化、近代家族の成立という説明に対置されるのは、第一に、Max Weber が・やはり欲望の解放という主張に対置されるべきものとして提示した・「資本主義の精神」についての議論と並行する説明である。
  プロテスタント、特にピューリタンにおいて、救われていることの確信を得るという宗教的動機からくる世俗生活の重視、秩序ある結婚生活の重視、それを維持するものとしての愛情の必要性が説かれる。結婚生活の必要条件として愛情が定立されるのであり、これは神への愛とは別ものだが、婚姻に対して後につけ加えられた要素としてはそれ自身から遊離された契機であるといえる。こうした経路を通る世俗の重視、しかも世俗生活に対する内的な規範の重視が、Weber が「資本主義の精神」について論じたことに重なるのは一見して明らかである。
  こうして宗教的動機によって出来上がった体制だったものが、宗教的寛容の到来によって、結婚生活の必要条件としての愛情という契機だけが残る。婚姻が性愛を独占し、その双方が愛情によって支えられる。★10
4.カトリックにおける変更
  宗教改革の時期、あるいはそれ以前から、カトリックもまた婚姻関係に対する態度を変更している。歴史学においても、反宗教改革の動きと近代における「規律化」のつながりに注目がなされているようだが、結婚に司祭の立合いが必要とされるようになるのもこの時期である。家庭の幸福を保つ要素としての愛が取入れられるようになる。その経緯を詳しく検討することは別の機会に譲らねばならないが、こうしてカトリック内部にもまた、その教説の内的な必然的な結果ではないとしても、変化が起こる★11。
5.規律化
  上に見たものも、家族という関係の統制への意志であり、そこに現われる事々である。ただそれは、宗教的動機によってなされたもの、少なくとも宗教という契機を介在させたものだが、それだけでなく、19世紀に入ると、さらに「世俗的」な、政治的・政策的な作為、ある種の教育の過程として、自覚的な個人の統制、それに関わって家族に対する注目がなされる。家庭が近代社会の秩序構築の過程で重要な場所とみなされ、配偶者と子供への配慮という意味での愛情の重要性が説かれ、またこのことを前提とした様々な介入策が行われるようになるのである。ここで注目すべきは、この時代、人口の質ということが強くある人々を捉えたのだということ、そこで家族は、今いる人間の質を維持し、また、未来の人口の質を確保する場とみなされ、注目され、介入される場となったことである。ピューリタンについてみたのと同様、また恐らくカトリックにおいての動機とも等しく、ここでも健全な生殖→子の育成、健全な婚姻生活を導くために、健全な関係が重視され、このとき措定されたのが愛情だったのであり、前者が後者への関心を促すのではあるが、後者が前者の必要条件となるという関係にあるわけである。家族の調査、家庭訪問、そしてこの時代以降の生物学的な言説とともにやがてこの介入は遺伝を巡る場面に達するのだが、これらのことについては別稿で考察することとする。★12

1ー5 どの説明をとるか
  このように、説明の仕方は何通りかある。それは近代社会の形成に対する様々な説明、すなわち、前代の要素の消失を指摘するもの、欲望の解放として捉えるもの、さらに積極的な人の内部を構成しようとする諸作用を見るもの、最後のものの中でも、プロテスタンティズムの意義を評価する立場、カトリックの変貌に着目する立場、さらに世俗的・政治的な過程に注目する立場、これら西欧近代社会一般の成立について提出されていることとそのまま対応している。これらをさらに詳しく検討し、加えて、内面の内容自体に対して、そして私的自治の領域である家族の内部に対して関与しないという体制の形成・ここではプロテスタンティズム→宗教的寛容という場面だけをみた・を押さえ、内面を基点としつつ、当の者に委ねられる関係としての家族、そうした単位とするそのこと自体の外部からの規定、同時に、外部から内容を与えようとする試み、これらの各々、各々の関係を記述できたなら、近代家族の原型の形成の基本的な歴史過程を押えたことになるだろう。
  以上にいくつかあげた説明のどちらが正しいのか、と決める必要はない。おそらく各々が正しい。各々の作用がどういう具合に後に作用したのかを検討することは重要だがここでは行えない。ここでみておきたいのは、各々において愛という言葉で意味されているものは異なっているのだが、これが、後に述べる不可視性・定義不可能性によって、様々な意味を含むものとして後の時代に引継がれ、あるいは変容していくということだ。個々の愛についての観念は、その意味内容の差異、求める方向の差異によって、対立し衝突を起こしながらも、総体として心的契機の重視ということ自体は抑止されることがなかった。そして、そうした様々な規定が可能であるようにこの場は構成されている。こうした自由度を持つということ自体がまず注目されるべきではないか。
  この社会には、あるものを是としあるものを否とする、内容的な定義が様々にある。例えば性別、性分業に関わる規範である。このことは確かで、その諸規範は強固なものである。しかし、それを認めても、私達はことの両面をみる必要がある。批判的な言説の中で、内容的な規定の側面が強調されてきた由縁は理解できるが、少なくとも性愛の関係、家族を巡って起こっていることは、ここだけから来るのではない。自由と制約、拡散と内容の付与の絡まりあう総体として、家族、近代社会を記述することを意図する者にとって、歴史的に与えられてきた諸規定を明らかにするのは大きな関心事だが、本稿は前者の側面をまず描くことを目的とする。

2 拡散と再規定

2ー1 愛の不可視性
1.愛は他者に対して不可視である
  @まず愛情は、ある人がある人に対してもつ内的な感情である。このこと自体において、それは他者に対して不可視である。
  A愛はそれ自体では社会的には何ものももたらさず、秘めたる片思いでしかない。意図するにせよ意図せざる結果であるにせよ、表現し、表出されることによって、それは相手に伝わる。しかしそれは愛が存在すると認知されることの必要条件であって十分条件ではない。十分条件である外的行為があるだろうか。相手のためになることをする、といったことが考えられる。これにしても虚偽の疑いを逃れることはできない。Bまた逆に、次に述べる定義の問題になるのだが、相手のために尽くすというのでない愛を否定しきることもできない。つまり、愛情に由来する行為を確定できないとすれば、行為を見ることによって愛の所在を確認することができない。一般には他者(の反応)を想定(期待)する以上、それに発する行為も他者との関係において決まるはずなのではあるが、常識を逸脱する行為が愛に根ざすものでないと決めつけることもできない(もっとも大抵の場合、それは単なる身勝手と解釈されるのだが)。
2.愛は自己に対して不可視である
  @私は私における愛の存在を疑うことができる。それは愛が全く明らかに存在できるはずだ、という観念の存在と両立する。すなわち、内的な感情を起動させるまた内的な動機を問うといった内部への遡行において、その最終審を見ることができないことによって、内的なものは不可視性につきまとわれ、決定不可能な側面をもつ。★13確かにこれは、いささか不健康な考えではある。だが、愛が単体として遊離されたものとして存在し始める時、その上でなにかと関連づけられる時、あるものの根拠となる時、あるかないかといったことが問題になる時、こうした問いが現われることにもなる。
  A次に、その存在が疑われることになりやすい条件が付与される場合、他の解釈との競合の可能性が出て来る場合に、不可視性はより現実的なものとなる。性に対する欲望とは独立に存在するはずであるという条件。愛とは無前提的で自発的なものであるという条件。愛が向かうのは相手の何らかの属性に対してではなく「全人的」なものであるべきだという条件。愛とは特定の対象にむかうはずのものだという条件。こうした条件が付与される場合に、私達はいくらでも愛を疑うことができる。というのも、満たすべきとされる条件が満たされているかどうか、判断することが容易でないからだ。

2-2 愛の定義不可能性
  人は愛を異性に対して抱くものだと考える。あるいは異性に対する愛とそれ以外の愛とを区別する。こうして、通常、人は正常な愛と異常な愛とを区別して認識するだろう。
  けれども重要なのは、我々がそれぞれ愛の定義をもつからといって、あるいは社会の相当の部分にそうした定義が行き渡っているからといって、他者のそれを、正当でないものとし、愛でないとする原理を、愛の教説自体からは引出すことができないということである。いくらでも外形的な判断基準を人は持ち出すことができようが、この社会で、愛情とは内的な感情であり、それを直接に人は知り合うことはできない。
  しかも重要なのは、内面の私秘性、嘘言の可能性といったことではない。脳生理学が発達して、そうした現象が異性愛とは異なったメカニズムをもつ現象、ある種の「病理」現象であることが「実証」されるかもしれない。AとBとは脳の別のシナプスを通っている、といった具合いに。あるいはその感情についての言明が当人からなされたとして、それが私の、あるいは一般的な愛についての観念と異なったとする。
  この時、それを愛でないとして排除できるだろうか。要するにこれは範疇化の問題であり、境界設定の問題である。むろん、現実には、境界の設定がなされ、異常とされるものの排除が広範に行われているのだが、その境界設定の正当性を問うていくならば、それが根拠を欠いていることをみることができる。人は年齢の相応な、近親の関係にない異性以外の様々な人や人以外の生物や物財に愛情をいだくことがある、その愛情を異性愛と本質的に別物とする根拠は与えられていない。これが愛だ、異性愛と同じものであると言われた時に、それを排除するどのような根拠も私達は持っていないということである。

2-3 家族の定義不可能
  愛がその基底をなし、その愛の対象の外延が規定できない以上、家族の構成員をもってする定義が不可能になる。第二に家族は、愛の表現としての行為が行われる場となる。行為のいちいちに動機が貼り付けられる。これは行うべきことが自明とされている状況と異なっている。何をすべきか、自明ではない。★14例えば、相手のためにする行い。それにしても、個々の具体的な行為を規定する規範に比して、やはり曖昧な部分をもっている。こうして家族の外延的な定義が不可能になる。
  家族一般の定義の難しさ。これはもっともなことだ。だが、私達が今感じている規定の難しさと、家族の普遍的な定義の難しさとは別のことである。私達は以上述べてきたような事情によって、「近代家族」の定義、特にその外延的な定義の難しさ、というよりは不可能性が生じているのだと考える。★15

2-4 基本図式の変容
  基本図式(1-3)を前提として、愛についての観念の性質を導き(2-1・2-2)、さらにこれと図式を前提した場合に、家族と呼ばれる関係がどのような変容を被るのかを述べた。次に、この図式の存在によって、図式そのものの変容が帰結し、さらにその効果が愛の性質(2-1・2-2)の側に送り返されることを見よう。
  愛情のない結婚生活と愛情ある結婚生活とどちらがよいのか。後者である。では前者は愛情のある、婚姻に至らない関係に優越するだろうか。そうはいえないという帰結になる。愛に支えられない婚姻が事実いくらも存在するのだが、それはこの教説の圏内では愛に支えられた関係より優位に立てない。こうしてここで承認された対としての家族の優位は自明でなくなる。
  次に、愛と性は、婚姻をはさむことによって時間の前と後ろに配置され、独立性が保たれていたのだが、婚姻の特権性が失われ、この境が取払われる時、両方の境界は怪しくなる。性愛の規範は婚姻という外形によって保持されていた。だが愛の教説はその結びつきを破壊する。そしてそれは、先述した愛の不可視性と定義不可能性を昂進させることになる。★16
  では性→生殖という連鎖、そこに関わる関係はどうなるのか。有性生殖は現在のところ所与の現実である。だからこの連鎖そのものは動かない。しかし、他者を介して子を自らのものとすることができる。これは、以前から養子という制度のもとで行われてきたことだ。だがさらに、生殖技術の発展はここに一部当事者の「血」と肉体の契機を入れることも可能にした。双方のいずれにせよ、愛によって形成された関係において、その当の対における生物学的な事実を超える生殖の可能性があるわけだが、愛の教説自体には、こうした行いを抑止する契機はない。

2-5 関係の存立
  こうして、愛が基底にあり、それによってしか関係が正当化されない時、基底にあるものに不確実性があり、それが婚姻関係・家族を曖昧にし、また図式の存在そのものがそれ自身の正当性を怪しいものにするという拡散の過程が存在する。(2-1〜2-4)
  感情によってしかその単位が存在しえず、ここから近代家族の原理的な不安定さが帰結する。家族は家族だから、子供は子供だから、という規範が通用しない。意志や欲望の水準でしか語ることができず、様々のことが選択としてあるしかない。今いろいろと言われている家族の「問題」の、少なくとも一部は、ここからは当然のことである。それはいささかも「病理」ではない。情緒によって形成されることと、情緒的「機能を充足」することは同じではない。また、情緒的関係が存在するという以上のいかなる「機能」がそこに付加されるかも自明ではない。家族についての機能主義者の言明は、大方、視点の所在が不明なのである。
  この時、なお人が関係を予め観念し、その根拠について問いを発するとすれば(つまりは述べてきた観念の範域に留まるのだとすれば)、生じる問いは、定かでない愛の形をどのように見出し、また、何を、何故、愛の関係以上のものとして自らに手繰り寄せていくのかということである。
  ここでは後者について。付加されるもの、まずそれは、特定の対象に対して相対的に恒常的な関係を結ぶ関係、子を持つことを含む関係だとされよう。だが、その維持を正当化する規範の強度は弱くなっている。むろん、このことは、こうした関係が早晩なくなってしまうことを意味するわけではない。実際、変化はみられるが、広範な解体の事実はない。そこで、それが何かを人は考えようとする。例えば生の連続性への欲望、人が死すべき有限の存在であることから来る欲望、が語られたりする★17。けれど、重要なのは、観察者が何を見出すかというよりも、関係の根拠への問いが、当の者によって、何かを創設するというのではなく、あるはずのもの、関係を肯定しようとする欲望、肯定することに結びつく欲望を発見しようとするという行い、あるいはあるかないかを自己において確かめようとする行いとして行われることである。

2-6 関係への介入
  定義が問題化される第二の契機は、他者・社会がここに絡んでくる場面である。問われるべきことは、この承認の行い、あるいは形成された関係に対する介入の行いが、どのように、どのような理由づけをもってなされ、どのような効果を生じさせているかである。
  まずここで、私達は教説と現実の規範との関係を押えておく必要がある。法的な婚姻において必要とされるのは両性の合意であり、合意の内実を婚姻の時点で確かめることはない。自発的な行為である必要があるが、それが問題とされるのは、そうなっていないのではないかと疑われる場合、特に当事者から訴えがなされる場合であり、そういう場合にだけ介入が行われる。内的な状態自体を問題にするわけではない。つまり、愛の教説自体を強要し、その基準をもって審査する装置がここにあるのではなく、この教説は、まずは人々の間に観念として存在する範型にとどまる。だから、人々の関係の現実は、ここから逸脱しうるのであり、事実逸脱する。
  だが、それにしても、問題は、どうして、どのように外部がこの関係を規定するかである。これを検討するには相応の準備が必要で、今ここでそれを行うことは出来ないが、二つの場面を見ておこう。そこで、私達は、心的状態への介入というのではないにせよ、行為の内容、質が問われることを見ることができよう。
  @当事者の間に対立が生じている場面。相互の行為のやりとりを双方が納得していればとりあえず問題は起こらない。また、勝手に二人が別れるのもかまわない。しかし、そこに利害の対立が生じている場合、当事者の間で話がすめばよいが、そうでないから第三者が登場することになる。さらに、第三者による裁定がなされる場合、それは何らかの内容(当事者の生活・性格)に言及するものであらざるをえない。
  A次に、当事者の合意と別に許可・禁止が行われる場面がある。家族の内部に押し込められてきた行為を引き受けることを拒否する場合、あるいは従来の家族の関係においてしか行われなかったことを行おうとする場合。こうした問題化の可能性が確かに存在し、実際現実のものになっている。それが抑止されているとすれば(されている)、問うべきは、どういう理由によってかということである。
  例えば、子が関係する場合。日本では、正規の婚姻関係にある夫婦の不妊「治療」目的に限定するというかたちで人工受精の規制がなされている。その根拠が問われることになる。確かに、ここで子という他者、しかもその始まりは当事者・他者と呼べない存在がかかっている以上、単に当事者間(例えば契約する側と契約に応じる精子・卵子・子宮の提供者・保有者)の合意というだけで済むことでないのかもしれない。そこで持ち出されるのが、子の成育のための適切な環境といった条件なのだ。こうして、誰かがその関係の、感情の内実について判断するという行いがなされることになる。★18
  こうして、家族の外延、行為が定かなものでなくなり、にもかかわらず、その定義、境界設定が問題になる場面が出て来る。教説から導かれる帰結において定義不可能であるが、少なくとも、他者・社会が現われる水準で、定義・規定・介入が現われる。家族の規定・定義の問題は、この多重性において捉えるべきであり、このことを看過し、どこからその規定がきているのかを無視した先験的な(実際には人々に観念されていることの一部を、視点の所在を消去して掬いあげているのだが)定義を与えることは無効である。また、当事者の内的な視点だけを問題にする方向にも限界がある。この境界設定を巡る具体的な攻防を検証することが、家族についての社会科学の一つの課題となるはずだ。

3 運命としての愛

  こうした拡散の方向、その反面で私達は、愛が基底にあるとされることによって、その関係が他の関係と区別された境界の内にあることも確認しなくてはならない。そうしたなかにあって、愛はどのような性質を帯びることになるのか、またそのことによって、それに基づく関係がどのようなものとしてあるのか、それについて何が言えるのか、を考える必要がある。
  ある種の感情自体は、他者の作為によって、あるいは自分の意志によっても生起させることのできないものであるとされる。これは前提である。買うことも、売ることもできない。愛は「自発的」なものでなくてはならない。何かの代償ではなく、無前提的な始まりでなくてはならない。もっと詳しく考えてみよう。

3-1 愛されるということ
1.相手次第であること
  一方の当事者Aの方がどう思い、どう思われたいと思っていても、結局、その者に愛を感じたり感じなかったりするのはもう一方の当事者Bであって、Aはそれを制御することができないという意味で、Aの側に制御不可能な部分が残る。相手次第だという誰もが知っている事情で、愛の関係は思いどおりに運ばない。
2.「人」に結びつくものを愛すること
  だが、一般の交換の場合にも、相手の意向によって交換の成立は左右される。これだけでは区別がない。AはBを愛していてBから愛を得たいと考えるのだが、何かあげたからといって愛は生まれないことになっている。どうしてか。
  ものやお金をもらったからといって、愛することになるとは限らない、という事実に違いが求められるか。しかし、一般的な交換も条件が折り合わなければ成立しない。これはまだ、上に述べた「相手次第」という水準の問題である。
  @だとすれば、違いは他者の作為によって生じるものではないということだろうか。だが、ある人が愛してもらいたくてする行為に応じて、それを事実的な原因として、愛することもある。愛は無前提的な始まりだから、という説明がある。しかし、一目ぼれにしても何かがそこにあったのだともいえる。だからここのところを正確に考えないといけない。
  A交換においては何かがほしいから[目的]と一般に言えるのに対し、愛の場合はAのこういうところが魅力的「だから」、Aが気にいった「から」[原因]という具合いになる。とすれば、目的対原因という区別、未来対現在あるいは過去という時間的な前後関係が問題なのだろうか。しかし前者についても、何かが気にいったからと言い直すこともできる。だからこの説明も十分ではない。しかし、「ほしい」(達成は未来で、その取得は目的となる)という言葉がここで成り立つかどうかという点は、問題の大切なところをついている。
  B結局、あなたを愛しているのであって、あなたから貰うものを愛しているのではない、という素朴な言明を考えるのがよい。
  物を売る場合、お金自体に目的がある。支払う人がどういう人かは(相対的には)関係がない。愛はそうではない。愛の対象となるのは、その人と関係のあるもの、単に関係があるというだけでなく、その人と切り離せないものとして存在するものである、という答えが正解のようだ。それで先に述べたことも説明できる。
  @:愛するきっかけは、その人の作為的な行為であるかもしれず、またこれに限らず人の行為はみな意図的であるとも言え、人はその行為をみて人を愛することがある。ここで作為でない、とは、その表出自体は上のいずれの意味でも作為であってよいが、そこに表出されているものが、その人と必然的に結びついていること、その人のものであるということである。
  A:その人の属性自体は譲渡不可能なものである。このことから「ほしいから」という言明、未来に向けた、目的を前提にする愛が成り立たないことが分かる。
3.その人にも制御できないものを愛すること
  次に、愛する対象は人(に固有のもの)である、ということがどういうことかである。
  制御可能であるということは、その人のものでなくなることだと考えることもできる。その「人」とはそれを制御する側にあるはずだから、あるいは、制御可能であるという事態のなかににあるはずで、制御されているものそれ自体は「人」にとっての「対象」であって、こうしたものは愛の対象とならないというのである。そういう訳で、愛の対象であるはずのものは、その人自身によっても制御不可能なものであるということになる。
  これは随分と現実から遊離している、事実は、何であろうと何かが気に入れば、それが愛しているということなのかもしれない。しかし、まず私達は、第一に、愛されるということが「相手次第である」という意味において、第二に「人」に関わるものが愛の対象となるという観念の延長上に、愛されようとする者にとって制御不可能な場所があることを確認しておいてよい。

3-2 愛するということ
  愛されるということ、愛される対象の性質について以上で考えた。次に、愛する主体の側について考えてみよう。これは定義権・決定権がその主体に属するのかという問題として捉えられる。愛するか否かは、その人が決めていいということだろうか。
  そうではない。決めていないのである。AがBを愛したり愛さないことを、他の人がどうこう言えないという意味ではAの問題だが、ではAが決めていいかというとそうでもない。愛せないということは可能だが、愛さないという言い方は不可能あるいは基本的に「無理」なことだとされていることを想起すればよい。すなわちここにあるのは意志ではなく感情、行為でなく状態、状態→行為という場合の前者だということである。感情自体は基本的に制御不可能ということになっている。ここで主体が制御できるのは、表現だけである。つまり愛しているが、しかるべき事情があって、それを相手に悟られないようにする、相互関係に入らないようにする、ということに限られる。愛する者にとっても愛することは制御不可能なことである。★19

3-3 運命としての愛
  こうして(3-1・3-2)、愛は、愛されるということにおいても、愛するということにおいても、どうしようもない運命だということになる。
  これは、業績原理という言葉からまず想像するものとかなり違ったものである。このように言うと、そう、家族は近代産業社会の原理とは別の原理を持つ領域としてあるのだ、という言い方がなされるのかもしれない。しかしどうだろうか。何か自分で制御できないものが根底にある、と言えるような場面に私達はそこここで出くわす。例えば労働という場面にしてもそうだ。だから、このことは他の領域にも存在する。ただ、この領域は、このことが最も顕わに意識され、また意識してよいことになっており、仕方のないことだということになっている場だということなのである。★20

3-4 関係の問い
  このように(3-1〜3-3)考えてくると、これは「差別」ではないかという問いが立つかもしれない。自らの努力やなにかではどうしようもないところで自分に対する扱いが違ってくる。これは不当ではないかというのだ。もちろん述べたように、実際にはありとあらゆることが行われている。そして人は同時に、結局のところそう愚かではないから、背の高さであるとか何とか様々な希少な属性が選択を決するなどと言われてはいても、現実の大勢はそういう具合には動いてはいないのかもしれない。だとしても、先の問いが消えてなくなるわけではない。少し考えてみよう。差別だと言えるか。
  まず、差別は集団的な営みだが、これは個人的なことだという説明がある。しかし、少なくとも個々の差別行為においては、差別されるのも差別するのも特定の人物であることがある。個人と集団という区別をどう考えるかが問題である。次に、差別はなくすことができるものであるのに対して、これは仕方のないことだという説明がある。しかしこうした場面に限らず、仕方のないものだという弁明は可能である。問題はこの「仕方のない」ということをどういう水準で考えるかである。
  これはいいも悪いもなくて、本性としてそういうものだからというのだ。物や行為であれば交渉次第でどうにかなるかもしれないが、愛情は、行為の手前にある根底的な感情そのものであるため、どうにもならないというのである。これで終わりである。だが、これで終わらせないとしたらどうか。相手次第である(3-1-1)ことを否定すればこれは強制に他ならないから、問題は、愛する(か愛さない)側の心性と愛される(か愛されない)側の属性である。
1.社会性
  ここで感情の社会性をもってくる議論がある。現代では細面が専ら重宝されている。こうした好みは近代特有のものであって、云々といったものである。こうした言明が示そうとするのは、つまりそれは規範だということ、規範だから変えられるはずだということである。むろん、「社会性」が論証できたとしてもそれだけでは変更すべきことが導けるわけではない。変更すべきことが言えたとしても、具体的に出来ることは様々あろうが、人(特に生れ出て時が立ってしまった特定の人)の「好み」が焦点となる時、そう有効な手はない。しかも、内面の自由、私的自治といったこの時代の教義との関係が問われる。だからこうした問題は難しい。だが、元の場所に戻ってしまった訳ではない。少なくとも固有性、変更不能性という言明を批判することは出来るからである。けれども、では代わりに何を持ってくるのか。
2.正しい条件?
  愛が個人の感情に関わるものだということは認めましょう。人々は他者のある属性を感受することによって、愛するようになったりならなかったりする。だが、その愛される属性を問題にできるのではないか。そのそれぞれが愛に必然的であるかが問われる。その本質とは何か、本質と本質でないものをいかに区別するのかということになる。もちろんここで本質とは、愛の生起する正しい条件ということである。
  こうした問いにどう答えたらよいかわからない。それは本稿が真実の愛の定義や、新しい愛の定義を見出そうという関心から書かれていないからでもあり、各自が観念し行っていることを論評しようという意図が希薄であることにもよっている。だが、私達のここでの理路、感情の社会性というよりは感情の社会的な用法を考えるという方向から、愛の教説を参照し、それに制約されながら、あるいはそれに違反して、ここに現われた問題を如何に切り抜けるかという戦略を、いくつか――他にもいろいろあるかもしれない――みておくことはできる。代替案を提出しようとする人にとって、そのあるものは棄却されるかもしれぬが、その場合には、その根拠を問うてみるとよいだろう。そしてそこから何か考えることができるかもしれない。
  @相手の趣味が予測されるなら、そしてその相手から好意を受け取ろうとすれば、自らをその方向に表現すること、印象操作が行われる。さらにマテリアルな操作も不可能ではないし、実際行われている。愛の教説の圏内で操作が行われているとするなら言えることは、これが露骨な操作ではない、というように行われなくてはならないということになろうか(といって、スポーツ競技の場合の薬物使用に対する規制のようなものがあるわけではない)。確かにこの行い自体は、先の規則に違反する。だが、結果として同じ状態が達成される時に、何故、作為として、何がしかの犠牲を払って行われることの方が不当とされるのか、と問う人はいるだろう。薬物使用の禁止のことも念頭に置きながら、考えてみてもよい。
  A形じゃなくて心だ、といったものの言い方がある。誠意、優しさ、等々。ここには美醜であるとか、先天的にどうにもならないものはあまり入ってこないという意味で、機会の平等といったらいいのか、そうした考えにうまく適合するような気がするわけだ。努力・作為の契機も入ってくる(だからこそ、それは平等を観念させる)が、それを生じさせるのはその人に固有のものであると、あるいはそうした努力の結果が「板に付く」ということがあるだろうとも言えるというのだ。気だてがよい、といったことは、容貌の美醜等に比べて、その人の固有の、その人のものであった人生を反映しているではないか、そしてそれはその場限りの操作というものとは異なるのだろうと、というのである。
  Bこれは、自己のどうしようもないところを非問題化し、なお自己に固有なものを見出そうとするものといえるのだが、また、それはその自己を消去してしまうことになるかもしれない。つまり、その人の外面的な属性ではなく、譲渡不可能な本質が愛の対象であるはずだ、という時、ここから一つには、キリスト教にあった特定の対象に限られない愛へという方向が、再び見えてくる。
  Cまた、こうした問題を(結果的に)切り抜ける手として、愛が指し向けられるものが、自身に向けられた相手の愛(から発するもの)それ自体であるとする場合(愛されるから愛する、愛されることを愛する)が考えられよう。愛するという気持ちそのものは、世の人に平等に分配されており、決定された才能の問題ではない(そうでないとしても、愛の相互性を条件とするなら、愛したくない人のことは考えにいれなくてよい)から、その気持ちに、それから生じる様々な努力に相手が感応してくれるのなら、これはなかなか平等なことだというわけだ。愛するという最初のきっかけはどうなるのか。だが、双方にそういう傾動が存在するならば、きっかけの問題は極小化される。同時にその当の人の固有性も極小化されるが、先着順という規則を入れれば対象の個別性は確保される。そして愛の制御不可能性という原則に抵触せず、同時に、それに対する不満から抜けることができる。また、そういう志向(誰かが愛してくれることを愛する、というか、愛してくれることによって相手を受け入れる)が片方にあった場合も、先の問題の半分は片がつくことになる。

3-5 境界設定への問い
  上のように基点とされているものの内容を問うというのでなく、それとある事象が関連することを問うという方向がありうる。
  女性差別に対する批判において行われることの一つは、場所のずれを指摘することである。ミス東京にせよなんにせよ、そうした者を選ぶということが東京都政にどういう関わりがあるのか、また何か必要上誰かを選ぶことがあってよいにせよ、性愛の関係において有意味である属性をそれと関わりのない場にもってくるとはどういうことか、しかもそれが一方の性に偏っているというのはどうしたことかというのである。こうした批判と同様の論理を、例えば家族自体に向けようというのである。
  愛は性を正当化し、愛は婚姻を正当化している。愛されない人は性からも婚姻からも疎外される。これは困ったことだ。しかし、これとても規範ではないか。他の時代にはなかったことだ。そこで、先の問いとは違った問いを立てることができる。従来家族の中にあった関係、諸行為の成立に愛という感情が必要かどうかである。確かに、愛がある関係、行いを正当化する、という場面を見てきた。しかし、結局、その内容は定まらない。このような時、こうした問いもまた現われうる。むろん、問いを立てること自体はいつでも可能なのだが、ある単位が設定され、その中でなされるべきことが規定されている場合とは事情が異なるということである。
  愛を基点とすることのともかくの利点は、合意を前提していることである。当事者にとって不本意な関係が形成されることに比べて、これは確かによいことである。しかし、同意だけを条件にするのなら、このような形でなくても関係は形成されうる。例えば商品の購入はそういう関係である。現実には、当事者の間に合意があっても禁止されている行為がいくつかある。例えば、売買春の禁止なのだが、このことをどういう具合に考えたらよいのかということだ。
  商品が交換される場としてある市場では自ら売るものを持たない者が生活に窮するという問題が生じる。ここに生じていることも、このこととそう違わない。前者における困窮者に対しては例えば政治的な保障がなされる。これと同じようなことを少なくとも可能性としては言えるのだということである。しかるべき関係を形成することが出来ず困っている人を政治的に救済するというのはグロテスクな感じがするが、問題の総体はそう荒唐無稽なことではない。つまり従来愛の関係の中、家族の中にあったあるいはなかった関係や行為を、どこまでそうしたものに独占させることを許容し、あるいは義務とし、どこまでをそうしないのかという問題なのである。例えば、愛を対に生じるものと置けば、単身者は子供を持つことができない。しかし、ここを逸脱することは、生殖技術の進展によって、あるいはそれによらずとも不可能ではない。とすればこのことをどう考えるのかということである。
  当の者(達)は様々のことを欲望できるのだから、これは現実に現われる時、当事者の問題としてではない。先にみた場面(2-6) では愛を準拠にしてそれと関わる行為の範囲が問題とされるのに対して、ここでは愛を外してある者が取得できる行為が問題になっているという違いはあるが、結局のところ、ある者(達)がいかなる行為を取得できるのか、できないのかが問題になるという点においては同じ問いがここに生じているということである。

4 終わりに

  感情と感情が出会い、そのことによってだけ成立した関係は何を引き受けるのか、引き受けるということはどういうことか。関係は、選択的なもの、意志的なものとなる。こうした関係や観念の道行き自体を追うこともできよう(これについてはむしろ「家族社会学者」でない人々によってすぐれた分析がなされている)。ただここで指摘しておきたいのは、この空白の中に、空白であるがゆえに、様々な形式、観念が呼び込まれていくことにもなるのだということである。というよりむしろ、それを呼ぼうとする時に、少なくともそれがあるはずだと思う時に、空白は空白として現われてくるのもしれず、そうした力が働く場にあって、手近にある範型が採用されることにもなるのだと言えよう。とりわけこの場は、人間が生まれ現われてきた場である。またやがて衰弱し死んでいった場である。ここに何が引き入れられているのかは、こうした事々に関わるのである。
  ひとまず関係の内部に捉えたこと(2-5・3-4)は、このようにも、その外側からの作用(2-6・3-5)に繋がる。ここを考えるのが課題となる。家族は愛情を交換しあっているだけの関係ではない。その内部で、貨幣・物財の再分配、家事労働が行われている。その歴史的な経緯と現状、様々な悲惨とその改善策が語られている。しかし、これらが家族に内属する(かしないか)ということ、家族がその外部から法的に承認を受け規制されること、のそもそもの意味について、男女間の利害関係、資本制にとっての効用、現実的な制約(大変だ、とても家族の手に負えない…)等々、というだけでない場所から正面きってあまり論じられていないという感じを私は受ける。境界の設定、介入は、私法、家族法においてだけでなく、それと別のところからも様々に行われる。歴史的に、そして今現実に、どのように境界設定がなされ、どのような範型が与えられ、何が禁止されてきたのか、されているのか、そこに与えられる根拠は何か、それを私達がどのように考えたらよいのか、どのような可能性があるのか、これらのことについて一切ここで検討しなかった。考察が必要である。これが本稿に接続する次の作業になる。



★01 あるいは、以上の諸関心から発する、それなりの期間を要するだろう、かなり大きな作業の一部、その準備として、本稿は位置づけられる。第一点に関する作業は立岩[1985](ただこれは事実の集積をあまり超えていない)[1986a][1987a]、さらに逸脱・刑罰という場面に限ったものだが[1986b][1987b]で始められている。第二点の検討は以上ではなされず、安積他[1990]にまとめられた作業の中で、いろいろと考えることがあったのが一つのきっかけとなっている。この本の中で家族については岡原[1990]が主題的に論じており、また立岩[1990]でも、考えるべき論点の提出というところをそう出ていないが、諸領域の編成、その中での家族の位置について検討している。さらに、立岩[1991b]で開始された「生命工学」に関する検討も、以上の問題設定、関心に由来し、本稿とも相互に関係を持つものである。
★02 但しここでとりあげる範型は限られたものである。特に、性別、性別を巡る性愛に関わる場面(大抵の人はこれが本質的なところだと思うだろう)が避けられている。そうした作業の意味を否定しようというのではむろんない。私自身、これについては、まず注13に記すような場所から考察を行うつもりである。だがここで言う愛の教説において性(別)は必須でないことは後述することから理解されよう。したがって、以下に記すことに性(別)がどのように噛み合ってくるのか、という具合に問いを立てることができるはずなのである。「性的差異」についての論考として加藤[1990]をあげる。
★03 こういう粗雑なものの言い方に満足せず、例えば、Flandrin[1975=1989]やParry(ed.)[1941=1990]に記述されている諸規則を抽出するといった試みがなされるべきである。
★04 以下4つの段落は橋爪[1982]から。考えるきっかけを与えられたという意味でも、考察の基本的な場所を示唆されたという点でも、本稿は、この論文にもっとも多くを負っている。
★05 例えばFlandrin[1981=1987]。
★06 キリスト教の特に「罪」の教説の与えたものについては、その歴史的変遷を含め、立岩[1985]でともかくもある分量の作業がなされ、また[1986a]でもごく簡単に触れられている。
★07 この領域を主題的に検討した社会学の業績は多くはないが、それでも、「結婚と恋愛との相互の矛盾の縮小によって両者の結合=恋愛結婚の理念の生成を説明せんとする考え方」を、同時に生ずる「両者の矛盾が深化し拡大する過程」の検討とともに提示した井上の論考([1966→1973])を、私達は既に20年以上前から有しているのである。さらに本格的な論稿として、Luhmann [1982=1986]。ここでは、17世紀前半まで・17世紀後半から・18世紀中頃から、という区分をして愛について分析しているようだ。このいかにも重要そうな著作については全く検討できていない。他日を期したい。
★08 例えば芹沢俊介や小浜逸郎らは、「純化」という考えに近いところで論を進める。こうした議論は「本質」へと向かう傾向がある。それに対して本質とされるものを「相対化」する議論がある。本稿がこうした主題を扱わず、対立に決着をつける意図がないのは見てのとおりだ。問いの意味を否定するのではないが、少なくとも、どちらかの側に確信をもって付けるだけの証拠は与えられていない。まず、何が本質かと問う前に、それが問われる場が形成されていることを考えるべきではないか。そこに様々な力が働き、にもかかわらず、あるいはそれゆえに、その場が揺らいでいることを見ることで、双方の議論が問題にしている領野の一定の部分をひとまずは記述できるのではないかと考える。(数多い著作のうち芹沢他[1986]をあげる)
  だから、感情自体の本性をどう考えるかと感情の社会的用法を検討することとは、関係しつつ、ひとまずは独立の問題である。前者の「自然性」を全面的に否定できる証拠は与えられていない。だとしても、後者における「社会性」を記述することが可能である。例えば「子供の誕生」といった把握にしても、ここをはっきりさせながら考えるべきだ。感情を社会学的にどう考えるかについては、岡原[1986]等がある。
★09 Shorter[1975=1977]
★10 以上2段落はWeber についての言及を除き橋爪[1982]による。Weber の議論がその倫理・精神の「世俗化」、変容を含めた伝播・継続についての説明に関して疑問を残すのに対して、ここで橋爪は宗教的寛容を提示する。だとしても、この方向だけで説明し切れるかどうかは依然として問われる。
★11 Sole[1976=1985]、Flandrin[1981=1987]等、近年、フランスの歴史学の成果がかなり訳されている(これらを紹介し検討したものとして金井編[1988:82-87](宮坂靖子の執筆部分))。さらに私達は、Foucaultによって語られたことを考えねばならない。
★12 例えば、太田[1989][1990]。私自身の作業としても、現在、数人の研究者とともに、「優生学」の歴史的な推移、その社会的な意味についての検討が始められている。
★13 不可視性については立岩[1987a]。
★14 家族における情緒的動機づけがルーティン化された家事について失われてきているという「情緒的動機づけの危機」、家族で行われるべき行為についての規範的動機づけが疑問視されてきているという「規範的動機づけの危機」、それに対する国家による介入の在り様を検討したものとして、山田[1986a]がある。
★15 家族の定義論について山田[1986b][1988]、江原他[1989]第3章(山田の執筆)。
★16 この辺りの分析は橋爪[1982]が詳しい。
★17 例えば代理母契約を結んだ女性が自ら出産した子の引渡しを拒否したベビーM事件についての裁判を思い起こされたい(ヤンソン[1989]が詳しい)。
★17 例えば、Hegel を受けて小浜逸郎はそのようなことを言う。
★19 経験と行為を組合せて4つのメディアを示すLuhmann の議論とどういう関係になっているのか、後で検討してみようと思う。それにしても、領域の編成と本稿の最初に述べた点に関わるだが、Luhmann が様々に論じられているにもかかわらず、そのメディア論については、詳細に検討されることが少ないように感じられる。これが事実だとすれば、どういうことか。
★20 恋愛や結婚や、社会階層の形成において、趣味や教育等々を介して、実は社会的属性が大きな要因となっているのだということがおおいに語られる。その通りだろうし、その経緯が詳細に分析されていたりするとおもしろいとも思うが、こういう議論でよくわからないのは、社会学の数少ない道具立ての一つである「業績原理」と「属性原理」とを基本的にどのように捉えているかである。もう一度よく考えてみる必要があるのだ。能力や性質についての経験的な把握とそれと対立する先験的な自由の措定、この間の対立・並存関係、その歴史的な経緯について立岩[1985]〜[1987b]、また「能力主義」について立岩[1991a]で少し検討してみたが、私自身の作業としても、明確にしておきたいところが残っている。別稿を用意したい。

言及した文献

安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店,312p.,2500.
江原由美子・長谷川公一・山田昌弘・天木志保美・安川一・伊藤るり 1989 『ジェンダーの社会学―女たち/男たちの世界』,新曜社,253p.,2400.
Flandrin, Jean-Louis 1975 Les amours paysannes (XIVe-XIXe siecle), Editions Gallimard/Julliard.=1989 『農民の愛と性―新しい愛の歴史学』,蔵持不三也・野池恵子訳,白水社,352p.,3500.
――――― 1981 Le Sexe et l'Occident, Editions de Seuil.=1987 『性と歴史』,宮原信訳,新評論.
井上 俊  1966 「「恋愛結婚」の誕生―知識社会学的考察」,『ソシオロジ』42→1973 『死にがいの喪失』,筑摩書房,265p.,950 :172-199.
橋爪大三郎 1982 「性愛論 第1稿」,124p.(未発表).
――――― 1990 「性愛のポリティクス」,『講座哲学の冒険4 エロス』,岩波書店,309p.,2500 :341-396 (橋爪[1982]を含む数本の未発表論文が大幅に圧縮されてこの論文を構成している)
金井 淑子 編 1988 『ワードマップ 家族』,新曜社,323p.,1300
加藤 秀一 1990 「<性的差異>の現象学―差異・時間・倫理のプログラム」,『ソシオロゴス』14:88-106.
Luhmann, Niklas 1982 Liebe als Passion, Suhrkamp Verlag.=1986 Love as Passion, Jeremy Gaines & Doris L. Jones tr. Polity Press.
岡原 正幸 1987 「感情経験の社会学的理解」,『社会学評論』38-3(151):17-31(321-335)
――――― 1990 「制度としての愛情――脱家族とは」,安積他[1990:75-100].
太田 省一 1989 「「健康」の近代的位相―衛生・家族・臨床」,『ソシオロゴス』13:1-17.
――――― 1990 「「衛生」の近代的展開―生物学的身体の歴史的意味について」,『ソシオロゴス』14:164-177.
Parry, John Jay (ed.) 1941 The Art of Courtly Love, Columbia University Press.(12世紀のフランス人 Andreas Capellanusの著作の英訳)=1990 野島秀勝訳,『宮廷風恋愛の技術』,法政大学出版局,328p.,2884.
芹沢俊介・村瀬学・清水真砂子・最首悟・小浜 逸郎 1986 『家族の現在』,大和書房,219p.,1500.
Shorter, Edward 1975 The Making of the Modern Family, Basic Books, 1977 Paperback Edtion.=1987 『近代家族の形成』,田中俊宏・岩橋誠一・見崎恵子・作道潤訳,昭和堂,395p.,3800.
Sole, Jacques 1976 L'amour en Occeident a l'Europe moderne, Editions Albin Michel.=1985 『性愛の社会史―近代西欧における愛』,西川長夫・奥村功・川久保輝興・湯浅康正訳,人文書院,410p.,3800.
立岩 真也 1985 「主体の系譜」,東京大学大学院社会学研究科修士論文.
――――― 1986a 「制度の部品としての「内部」――西欧〜近代における」,『ソシオロゴス』10:38-51.
――――― 1986b 「逸脱行為・そして・逸脱者――西欧〜近代における」,『社会心理学評論』5:26-37.
――――― 1987a 「個体への政治――西欧の2つの時代における」,『ソシオロゴス』11:148-163.
――――― 1987b 「FOUCAULTの場所へ――『監視と処罰:監獄の誕生』を読む」,『社会心理学評論』6:91-108.
――――― 1990 「接続の技法――介助する人をどこに置くか」,安積他[1990:227-284].
――――― 1991a 「障害者差別にどう抗するか」,『仏教』15,法藏舘.
――――― 1991b 「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」,江原由美子編『フェミニズム再考』(1991年刊行予定・仮題),勁草書房.
山田 昌弘 1986a 「家族危機と家族政策―家族における動機づけの危機」,『社会学評論』36-4(144):20-33(424-437).
――――― 1986b 「家族定義論の再検討」,『ソシオロゴス』10:52-62.
――――― 1988 「分析概念としての家族(family)の再検討―家族の生成論」,日本社会学会報告,10p..
ヤンソン由実子 1989 「”代理母”が問うもの」,グループ・女の人権と性『ア・ブ・ナ・イ生殖革命』,有斐閣選書,:96-111.

(たていわ しんや)

  『ソシオロゴス』15号に掲載
  ※下線がこのFAILでは消去されている。

About LOVE : Analysis of Modern Family (1)
                       Tateiwa, Shinya

If we aspire to grasp modern family, we must think about love, which is made the most foundamental element of it. In this article, I will show : first, the explanations about formation of the schema that love is the base of family parallel the theories on modernization. We need investigate each explanation, but before it we need acknowledge that love can contain different meanigs so that various factors can effect at the same time. Second, when love is regarded as foundamental and internal feeling, it becomes impossible to ascertain it and to define it extensionally. It leads impossibility to define family extensionally. On the other hand, existence of the schema of relation between love and family destroys the scehma itself. In this way, the relation becomes ambiguous. Nevertheless or as s result, attempts of re-definition are made. Especially we must remark regulation by third party. Third, when love is fundamental feeling, love is uncontrolable for each person concerned. Here become problematic nature to be loved and disposition to love. On the other hand, separation of love and what have been in family or in love relation is pursued, which we can call re-definition of relation as same as the above.


REV: 20161031
  ◇立岩 真也
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