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どのように障害者差別に抗するか

立岩 真也 1991/04
季刊『仏教』第15号・特集=差別(発行:法藏館) 28枚


■能力主義?

 障害者差別、障害者をめぐる様々なことの多くはその不当性が明らかで、今すべきことがいくらでもある。しかしここでは、問題を列挙していくことはしない。当事者の間で、いろいろとやってみても残るように思われる基本的な問題の所在が感じられている。「能力主義」と呼ばれる。そして、その発想を受け継ぎながら、これから行く道筋を立て直すことが求められているように思う。不当だと思うから、なんとかしたいから差別というのだ。いったい私達は何を「よい状態」と考えているのだろうか、差別をなくすとは何をなくすことなのだろうか。どうしたらよいのか。限られた紙数ゆえ言い足りない部分がいくらもあり、具体的な事例に触れることもほとんど出来ないが、当事者の試行を傍から少し見ながら考えてきたことを記そうと思う。
 障害者の社会運動においては、まず、当然のこと、ともかく生活を成り立たせることが先決とされた。一つには政治的な再分配策を充実させることだ。しかしそれがあくまで部分的な解消策で、問題の根本的な解決でないとするなら、体制の変革が求められる。しかし、当初は、労働が本来の価値以下で買われていることの不当性を告発することの方が中心だったはずだ。だから能力と配分されるものの関係自体が主題的に問われることはあまりなかった。そして体制の変革を志向する場合でも、現実には政治的な獲得物を増やすという運動だったといえるだろう。また自らの能力を発揮できる場が求められ、あるいは自らの能力を高めるためのリハビリテーションが求められた。
 しかし、一九七〇年代以降の運動はそれだけにとどまらない質を持っている。それは能力主義の否定という言葉で語られる。彼らはこのことを巡って延々と思考していく。★01
 第一にそれは配分の方式をより全面的に、根本的に問う。それは労働に応じた分配という原理を超えるものであり、彼らはそうした運動の前衛とされることにもなった。しかしこれはさらに解決困難な問題である。その構造が強固であるだけ常にその戦いは敗北し、そうでなくても運動は常に遠い目標達成への中間点として位置づけられることになる。
 第二に、実際の配分の問題だけですまない。例えば、政治的な再分配策によって生活がなんとか可能とされている。しかしその不十分さを別としてもやはり問題が残るのだとすれば、どういうことか。彼らはそれを能力主義的な価値観、差別意識の蔓延として捉えた。そこで価値観の転覆が求められる。しかしそれがこの社会のすみずみにまで巣くっているとするなら、どうしたらよいのか。こうして彼らは体制と個々の意識の両方を視野に入れたのだが、それゆえにその解決は難しい。
 これに限らずこの時期現われた批判の思想は、問題の根本的なところを問うが、しかしなおある範型に捕われ、思考の自由が妨げられてきたところがあるように思う。だが同時に当事者において、具体的になされ、発想されてきたことを見た時、そうとだけ言うこともできないと思う。このあたりを明らかにしたい。そのためには、配分原理としての能力主義にせよ、価値観としての、人に対する介入の様式としての能力主義にせよ、平等と不平等について全般的に考えねばならない。ここで出来ることではないが、それでも少し基本的なところから考えてみよう。★02

■何が差別とされるか

 差別とは、人のある属性を捉えて、あるいはそれと関連させて、その人を不当に扱うことだ。ある社会的な場の成立が人のある属性の如何に関わらないとされる時、ある場においてある属性を問題にすることが不当とされる時、そしてその上その属性によってある人が不利益を被るなら、それは差別とされる。例えば、ある人と同じに働けるのに雇わない。これは批判できる。
 むろん、このことを指摘すれば問題が解決するなどいうことではない。差別の問題が面倒なのはそういうところである。だが不当性が公認されている場合、(個々の人がどう思っているかは別に)少なくとも目に見える行為としての差別を禁止することはできる。例えば市場でも、そこが完全に個々人に委ねられ、差別の意図が存在するなら、差別はなくならない。もちろん経済的な競争の圧力によって経済行為に関わりのない属性を問題にするのが不利なことはあるかもしれない。しかしさほど影響を被らない場合もあり、いくらかの不利益を被ってもなお差別を「選好」することが可能な場合もあり、ある場合には、低い価格で雇用を確保する上で有利なことさえあろう。そういう意味で、市場が内在的に右の差別を抑止できるのではなく、社会や市場経済がかくあるべきであるという倫理、強制があって初めてある程度これを防ぐことができるのである。
 障害者に対する差別の多くもここから批判することができる。だが、属性とその扱いとの関係がその場を構成している時、両者の間に正当な関係があるとされる場合はどうか。例えば、労働を売ろうとする時、能力(ここでは容姿や性格を含め広い意味で用いる)が問われる。(例えば、と言うのは、この場面に限らず、人と人と関係の多くをこのように見ることが出来るからである。だがここでは検討の範囲を絞ろう。)障害を持っていても多くの人は、様々に働くことが出来る。しかし、働く能力がない、あるいは相対的に劣るという場合はどうか。(そしてむろん、自己に帰される能力がいささかでも不利な結果に結びつく私達の全てがこのことの当事者であり、その当事者を全て障害者と呼んでよい)。これは差別ではない、と簡単に済ますのは現実を追認しているに過ぎない。当事者において、その能力の度合いに応じて、大きな問題となることは確かだ。生活自体が出来ないことにもなる。それで政治的な保障がなされる。しかし、それだけですまないとすれば何があるのか。

■どういう仕組みになっているのか

@根拠はない
 まず、ここに自体的な根拠、正当性があるか。自己労働→自己所有という図式は単なる言い換えにすぎない。さらに抽象化された、自己のものは自己のものという命題にしてもその根拠が見出されるわけではない。さらに自己のものということ自体が問題である。何が自己のものと言えるのか。そこで自己に固有に起因するものとそうでないものを分ける作業が始まるのだが、一般に障害と呼ばれる時、その属性が自己の責任に属さないのは明らかであり、この構図からかえって扱いの不当性が言えることになる。
 ここに貢献という項をおいても同じである。仮にある人の労働がより大きな貢献をしているのだとしても、その結果を取得するべきであるとはやはりいえない。非生産的な領域、そこにいる人々を、生産の領域、生産者が支えており、後者は前者がなくても存在できるが、前者は後者がなければ存在できないという主張を(むろん生産は消費と貼り合わさっているが、生産する者達が全てを自らで消費するという状態を考えられなくはないという意味で)認めてもよかろう。しかし、だから、後者の側が、その側に位置する者が優位であり、多くの配分を受け取るべきだとは依然として言えない。
 そこで、Aに述べる個人の選好を前提とし、傾斜的な配分を行うことによって個々人に動機づけを与えた方が社会全体ひいては個々人の利益が多いといった機能主義的な言明がもって来られる。財の配分の実態は別として、この言明自体は否定しないとしよう。だが利得がより多いという選択を取るべきかどうかは、他の要件を勘案した上で改めて問うことができる以上、ここからも、この配分の正当性が自明に帰結するわけではない。
A自然として生じる
 しかし同時に押えておくべきことは、これは、一次的には、ことの善悪と別のことして生じているということである。私達は同じ商品であれば安く買う、自らのものとされているものを高く売ろうとする。そのことの良し悪しを考えているわけではない。こうした市場に人間もまた包摂される場合、そのように扱われることになる。私の労働が実は私の労働であると言えるかどうかと別に、私において、働くことは確かに私の決定と統御のうちにあり、何かを得るために働くということは、その私の意識、動機の連関において連続しているという私にとっての事実がある。こうして労働が商品となる世界において、能力主義――主義といっていいか?――が生じる。
 そういう機構を改変することも出来る。だが、別の配分機構に代える、別の機構を加えるといった場合でも、どういう体制であれ、その成立において、また現実の作動において、個々人の選好・決定がどれほどかは現われる。だから、このことはいつまでも残る。
 理念において楽観的で現実において悲観的な運動論は違うことを言うかもしれない。例えばそれは、体制の変更が個々の意識の変更をもたらすと主張する。しかしそれがどうして可能か。まず真理を先取りしたものが現実を与え、ある時間の経過の後に承認を得るという、時差をとって切り抜けるという手を考えつくのだが、これは危うい。次に、生産・配分の決定機構の形態自体に特定の配分のあり方が対応するという保障はない。どういう意志決定機構においても、能力主義的な配分は可能である。また、収穫は全て平等に分配されるといった配分の規則自体が当然のこととして存在し、受け入れられているという状態を想定するとしても、それに至る特権的な道筋はない。
B介入の装置がある
 このことの反面だが、配分機構自体が個々人の価値観を規定するとする考えも疑ってよい。もちろん社会の中に各々の場を占める当事者の利害に規定されてだが、配分機構自体の外側に様々な装置が仕掛けられており、そのことによって総体の作動が維持されている側面を無視できない。すなわち、私達が都合のよいように行動するという事実(社会の都合といっても結局同じである)にすぎないもの(→A)を、当然のこと、正当なものとし、正当化の論理の底が抜けていること、当の図式内部にも曖昧なところがあること、こうした訳のわからなさ(→@)をぼかし、価値の序列を指定し、ある特性こそが当の者の価値であるとし、そこに向けて人を整形し、行為を整流し、そこに乗らない者を無力化しようとする意識的あるいは無意識的な様々な行為、装置が配され、その効果がさらに個々の選好に織り込まれている(→A)ということである。こうして障害を持つ者を囲む場は、生産の領域の優位を前提として、可能な限りそこに近付くことを求める、あるいはこの領域の作動を阻害しないような場に退くことを求める。そしてそれが他ならぬ自己の側に折畳まれる、大きな負荷が私の側にかかっている。 
 例えば次のようなことをみよう。車椅子で移動できるような環境なら働くことか出来る、現在のそういう環境がない場合なら働くことができないといった場合がある。このような場合、何がなされ、何が私の側に残されるのか。
 一つには、そして実際には、仕事に中核的な要素、それがなかったらそもそも人を雇う必要はないもの、代替できないものである。そのコストが問題だが、個々の場合で、得られる利益がコストを上回る場合もある。あるいは社会全体の損得として、コストを公的に補うのが得策であると判断される場合がある。こうして、周辺部が代替され、除去されていくのだが、何程かのものは残る。現在では知的能力が主要なものだ。(だから、技術が現在の人間に与えられている位置を変えてしまうだろうと言うのは確かに可能である。)
 例えば合衆国では、法の整備等によって能力を最大限に発揮できるように条件が整備されつつある。一つには右に述べた損得の計算からである。だがもう一つ、個人に帰すことのできないものについては保障し、そうでないものについては個人の責任とするという価値観、機会の平等を徹底させようという価値観にも起因しているのだと思う。しかしそうだとすると、ここでは、商品になる個人の属性(→A)と個人に固有のもの(→@)という本来別のものがつながってしまっている。条件の整備が無意味であるというのではない。全くその反対である。しかし、それが唯一絶対のこととされ、それでことが済むとされるのだとすれば、そこで個人の側に残されるものが他者の都合によって指定されているにもかかわらず、そのことが隠され、他人が指定したものが個人に固有の、個人がその責任において自らのものとすべきものとしてその個人に帰されているということである(これは教育として行われていることの中にもよく見られることだ)。★03

■離脱すること

 障害者の運動の中で、実際に得られ、なされてきたことは、こうした仕掛けを捉えている。まず私を苦しくさせているものにさしたる理由はなく、だから私を楽にさせていこうということである。重い問いと同時に、具体的に運動に力を与え、魅力を与えてきたものはこれだったと思う。
 できないものはできない、ただそれだけのこととして捉えること、私においての価値ではないと自身において言い切ること、そのように自己を立て直し肯定すること、そうした自己を示すことである。これは他の反差別の運動にあっても等しく重要なことに違いないが、能力・障害に関わる観念はこの社会で支配的で自明のこととされているがゆえに、ここでは特に大切なことである。一人で抗するのは難しい。だが障害を「克服」し才能を開花させたスターの存在は役に立たない。自らと同じ場にいる人達の支援が必要だ。★04
 この時に、先の、自己によって形成されたものでないものには責任を負う必要がないという規範を利用するのも一つの手である。だがより積極的には、次のように言えよう。
 ある属性・能力を持ち、それを発揮することは、ある場合には肯定され、賞賛されるべきことである。さらにそれを増進させようとする努力も認めてよかろう。しかし、自らにおいてはそれを取らないということ、取らない選択を自らに置くということである。二つを両立しないと考える必要はない。価値の多元主義といってもよいが、しかしそれは一人一人の価値観の違いを意味するわけではない。一人の人が同時に複数の価値を認めるということでもある。身体が思うようにならない人が中日や大洋のファンであって不思議なことはない。これが何かの代償行為であるという具合につなげてしまう発想こそ批判されるべきである(この価値基準の単一性の観念には反差別の側自身もしばしば捕らわれてしまう)。また、私達は一般に困難の克服という物語を好み、それ自体をどうこう言っても仕方がないが、テレビニュースや新聞で全く常套的に「障害を克服して…」という表現が使われることを頽廃的であると批判してよいのだし、露骨な差別的言辞を糾弾することもさることながら、テレビドラマの恐るべきワンパターンさがもっと揶揄されてよい。
 これは積極的にある具体的な別の価値を立てることを必ずしも意味しない。あれは出来ないがこれは出来ると言わねばならぬ必要もなく、これが出来ないためにかえってこういういいことがあると言わねばならぬこともない。見てきたように、自己決定は決定的な意味を持っている。しかし、それは、他者の決定に抗するものとしての自己決定ということである。だから自己決定できない人のことについてもここで言っていることは意味を持つ。その人にとっての他者のあり方がまず第一の問題だからである。同じことを逆から言えば、私達が私達の側から他者を決定しないということである。常にそのように行動していくことなど不可能だが、少なくともそれをどこかに持つことである。そして実際考えてみれば、私達は、私の意の通りになる他者、私の価値の中に収まる他者(それは他者だろうか、結局私の延長にしか過ぎないのではないか、そうした私の世界は随分と退屈な世界ではないだろうか)ではなく、他者の他者である部分をこそ(少なくともそうした部分も)私達の生において享受しているのではないか。
 以上から、また前項Aで述べたことから、能力に応じた配分の場があることを障害者差別の第一のものであると捉え、その全域を覆すことを第一の目標とする必要は必ずしもないのだと思う。必要なのは生活できることであり、それが全くそうなっていない現実は改革されるべきだが、差異化された配分の場が生じてしまうこと自体は、良いことでもないが、ただそれだけのことだと考えて不都合はない。他者(である私達)の都合がなくなると考えるよりも、それに抗する部分を自らの側に持ち、国家の政策、日常の関係、様々な場で不要な介入を防ぎ、そうした装置の解除を求める時(援助と余計な節介とはセットになってやってくるのだから、それを選り分けていく注意深さ、知恵が必要である)、既に事態は変わっている。前項Bの装置自体がまず問題だからである。さらに、その解除の度合いに応じてAの選好の形が変わりうる。それは@の最後にあげた連関において社会の作動を緩やかなものにするかもしれない。だが繰り返せば、私達は、私達にかかる負荷と私達の自由のことを考えた時、どの程度かこのことを認めることができる。
 このように言うことは、所有や生産や配分の機構に対する問いを放棄することを意味しない。むしろ、もっとよく考えてみるべきなのだ。例えば市場では、その個々の売買の行為において倫理を問われず、また最終的に商品として現われる時、大抵はその商品の背後は見えないが、それでも選択は購買する者の側にある。だから、商品の質以外の(例えばその企業が障害者をどれほどどのように雇用しているかという)観点を入れて買う買わないの決定をすること、そのための情報が市場に自然なかたちでは存在しないのなら、それを存在させることが可能だ。では他の場合には何が可能か、といった具合に。

■参入すること

 以上は、与えられたものからの離脱と言えるかもしれない。しかし、それだけでことはすまない。繰り返せば、ある方向に仕向ける力ととともにある場所から排除する力がこの社会にある。もう一つの契機、排除と参加について考えるべきだということである。
 特にこのことは教育という場について言えることだ。例えば、教科の内容がまるで理解できない人が学校にいようとする。「普通」に考えたらこれは変だ。しかし、そんなことはわかっていながら、あえてそれを主張する人がいるとしたら、それなりの理由があるのだ。どういうことだろうか。
 昼間子供がいるのは学校である。学校は、勉強を教わりにいく場所という以上の意味を持っている、このことは事実として認めえざるをえない。かくも長い時間みんなが学校に行く、ということが問われるべきだし、学校が今かくも変なのは、勉強以外のことも皆学校という具合になってしまっているからだとも思う。だが、そういう現実を踏まえた上でことを考えなくてはならない。さらにそれを別としても、「どの子も普通学校・普通学級へ」という主張は、ある教科を効率的に学ぶことと他のことを分けるという発想をよしとするのか、と問うのである。こうした問いについて考えないで、他の生徒の学習の進行のこと考えると(これはまだ正直でよい)、とか、本人のため(多くの場合何が本人のためか予め決められている)、とか言ってことを済ますのは全然駄目、だと思う。
 だから、ある場所を局所化していくという手と拡張していくという手がある。価値を否定すると同時にその場所に入る。一見してこれは両立しないように思える。しかし同じところから両者が出て来ているのだとしたらそれは、今その場所しかない場所へ参加しようということ、同時に、その場所を特権的でないものにしよう、今与えられている性格を変えようということである。例えば職場に家庭を持ち込むなという倫理に、そうだと職場における円滑さが損われるかもしれないという以上の根拠があるわけではない。そこで参加、参入を認める時、この場も少しは変わらないといけない、というのと同じだ。
 こうして昼間多くの大人がいる場所、職場についても同様のことが言える。同じく労働できるにもかかわらず雇用を拒否されるということではなく、同じくは労働できない人が労働の場にいる、ということを考えること。少なくともいくらか働くことが出来る場合、例えば、働くことと政治的な生活保障を分離するのではなく、それを足し合わせること、あるいは成員の同意と消費者の支援とによって職場自体に能力以外の評価の要素も加えることが出来れば、不可能ではないし、実際に部分的には行われている。さらに進めば、全く何もしない人がその場にいるということになるが、これはさすがに無茶なことだろうか。だが、働きにやってくるというのではないが、また生活の糧はどこか別のところで得るとして、その場にいることの意味と必要が(子連れ出勤の場合のように)あるのだとすれば、それほど荒唐無稽なことではない。そして少なくとも、働く人や動ける人に専用の場とされている様々な場を解放することは可能なのである。

■様々に考えること

 その時々に、離脱と参入、分化と統合、何を志向しどういう形を求めていくのか、ここではほとんど何も具体的なところに触れられなかったが、考えることはたくさんある。
 この国の障害者の運動は、最重度の障害者を切り捨てないことを掲げてきた。それは、(本当は)出来る者が出来ることを拡大することに集中してきた運動と異なる輝きを確かに持っている。しかし、「差別につながる一切を否定する」という主張は、この国の風土のもとで、多数派に曖昧に受容され、というより表立った反論をされず受け流され、議論もなく何もなされず、あるいはそれに反する行いがなされるという事態が続いている。また運動の側にも、状況に強いられて否定・反対に追われる中、どのように自らの主張を立てていくのか、どこを目指すのかが十分に詰められなかった部分があった。行われるべきは、最強の反論を想定しながら主張を吟味し、その核心を取り出し、制度、他者達の存在と理念との間の関係を考え、批判できることがあれば批判し、戦略について考えることだ。この時、出来ることを見出して「意味」を受け取ろうというのではない基本的な肯定をまず認めればよい、反差別という行いを遠い目標に向かっての先の見えない努力と考える必要はない、と述べた。こう述べたのも、内側に向いた楽観主義からではなく、こうした思考の場所からであったつもりだ。障害者の運動が反差別運動としての質を持って約二〇年を経、貴重な質を有する発想を継承しながら、様々に考えていく時が来ているのだと思う。

■注

★01 ここで念頭に置かれている障害を持つ人達の様々な試みの一端は、筆者も著者の一人として加わった『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(安積純子他、藤原書店、一九九〇年、二五〇〇円)に記されている。「障害者運動」の辿ってきた道筋についてはその第七章を参照されたい。また『そよ風のように街に出よう』(季刊、りぼん社(пZ六−三二三−五五二三)、六〇〇円)や『福祉労働』(季刊、現代書館、九七九円)といった雑誌が現在の多様な動きを伝えている。なお、私にとって今回の文章は、「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」(江原由美子編『フェミニズム再考』(仮題、勁草書房、一九九一年刊行予定)とともに、右の本に述べたことを反芻しながら、そこに書けなかった部分を素描したものである。
★02 この頃、こうした主題に本格的に取り組んだ文章はあまり多くないような気がするが、それでも大庭健「平等の正当化」(『現代哲学の冒険3 差別』、岩波書店、一九九〇年)がある。
★03 合衆国では、一九九〇年七月、「アメリカ障害者法」(The Americans with Disabilities Act=ADA、直訳すれば「障害を持つアメリカ人法」)が成立した(『福祉労働』四九号(一九九一年一月)が特集しており、訳はこれによる)。例えば雇用に関し、「資格のあるqualified障害者を障害ゆえに差別してはならない」(第一章・第一〇二項a)とある。ここで「資格ある障害者」とは、「職務に伴う本質的な機能を遂行できる障害者を意味する」(同章・第一〇一項・八)。これに対しては、重度障害者、特に知能において重度の障害を持ち一般的な就労の困難な障害者の切り捨てだという批判がある。この節に述べたことからも、また後述することからも誤解はないと思うが、私の立場は、この指摘が成り立つがゆえにこれを否定するというものではない。むしろ、こうした立法の意義はあると考える。まず、この私達の国においては「本質的な機能」のことなどまともに考えられたことがないからである。例えば採用時に「健康診断」を行うことについてである(同章・第一〇二項cは健康診断と調査をいくつかの場合を除き禁止している)。この法律について、それを私達がどう受け止めたらよいのかについて、また別の場で論じたいと思う。
★04 注1に掲げた本の第六章他で、こうした当事者の間での生活の技法の伝達を紹介している。


 ※この文章は立岩『私的所有論』の一部に組み込まれた。


立岩真也
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