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生命工学への社会学的視座

第62回日本社会学会大会報告要旨 立岩 真也 (1989.06.30提出)


 *報告当日配布原稿もあります。

【T】生命工学――生命に関わる実証的な知に基く介入――について法学、倫理学等の立場等から様々に語られるようになった。社会学はこれに何を加え、何を言うのか。例えば脳死や臓器移植についての人々の意識を知り、社会による反応の異なりを明らかにすること。確かにそれは課題である。けれどもそれだけではない。というのも、そこから今現れているもの自体をどう考えるかは出てこないからである。
  選択が問題になっているからには、どうしても倫理という場所へ行き着く。ある基準が持ち出され、それを受け入れるか否かが問題となる。当然のことではある。しかし、そうした議論はしばしば、社会という場がどのように構成されているのかを看過し、いくつかのことを暗黙に前提しているのではないか。倫理・決定はこの社会のどこに発し、どこに及ぶのか。諸領域の複合としてある社会の作動原理を考えながら、問題を縁取る試みがまず必要ではないか。
  検討の対象となるのは以下のことである。生命工学の知・技術はどのような社会に生じたのか。それがその社会に規定されながら、そこにどのような効果をもたらすのか、もたらしうるのか。第一に、それが最近に始まったことではないこと、この社会の成立の時から、少なくともその発想とそれを巡る論議が存在することを示そう。それを受けて第二に、社会の諸領域の編成、その中での主体という形象の有り様を検討することを通して、知・技術の位置の測定と効果の可能性についての考察を行う。踏まえるべき事実の提示と具体的な検討は配布資料と口頭発表によって行い、ここでは視点を示すにとどめる。
【U】@近代社会は経済・政治・家族、及びその残余領域に分割される。社会的行為となる行為は各々の領域に配分され、それぞれに行為を調達するメディアが存在するとされる(貨幣・手続きの下に集計された意思・愛情・以上に収まらない意思)。そして境界が定められている。政治領域による規制になるものとならないものとがある。貨幣による交換が認められるものと認められないものがある。こうした決定を行う審級は、多くの場合、政治領域にある。
  A私のもの、私から表出されるものはここで重要な位置を与えられた。それは各々の領域を成立させ、領域内での行為を発動させる基体とされる。それは私に固有なものとして自らを離れず、譲渡不可能なものとして社会的な流通の対象とならない。
  B近代社会に対する古典的な了解は、上の方向に解することができる。そこに入りきらない要素は、原則的に近代とは異質なものと見られる、あるいはそこに生ずる問題を解決・解消するために近代社会の成立後生じたと見られる。しかし、いくつかの歴史的な検証の作業はそうした見方に反論し、諸個人に関する実証知に基づく介入が、既に近代の開始の時に始まっていることを示した。今日生じている事態に技術の進展による部分があることを否定する必要はない。しかし、それに連続する知と実践は、19世紀の初めに既に存在し、しかもそれは近代社会の成立に重要な意味を持つと考えられる。その歴史的な経緯と論理構造を明らかにすることは、現在を考察するためにも意義をもつはずである。
  Cこうして、近代において、個体の内部は、第一にそれ自体が起点として措定されるのだが、同時にそれは関与を受けるものとしてある。両者は論理的、実践論的な矛盾を帰結する。だがこの議論に決着がつくことはなく、現実には、この二者は対立しつつ、併行して近代の推移を形成してきた。しかも、事態はさらに複雑で、実証知の水準においても例えば遺伝説と環境説との対立がある。個体の内部の不可視性が解消できないことにも規定されて、個体は多様な規定・関与を受ける。この多様性、可変性が近代・現代社会の質を規定している。こうした構造が現在に引き継がれているはずである。
  私達は、原則として表明されることと、事実行われてしまっていること、どちらかを無視するというのではなく、その位相の差と相互の関係を確認しながら、検討を進めていく必要がある。
【V】現在、そしてこれから問題になりうる事態は、固有に個体のものであるしかなかったもの、それが社会的な対象となり、決定・操作・交換が可能になる、あるいは必要になるということである。
  まず人為的操作を加えるのか否か、人為の領域にもってくるのか自然に委ねるのかということ自体が、社会的な決定過程の中に入ってくる(ここでは既に自然ということの意味が変わっている)。
  次にこれを諸領域の分割、各々に存するメディアという観点からみることができる。すなわち、あるものが社会的な流通の対象、人為的決定の対象となることによって、それがどの領域に入るか、どのようなメディアによって媒介されるのかという問題が生ずるのである。例えば固有の身体を離れた臓器はどのような場所で調達されるのか。それを規制する原理は何なのか。この社会では貨幣というメディアの役割が大きい。何故、ここで問題になっているものはそこに簡単には乗らないのか。
  そしてそうしたことによって領域の編成がどう変わるのか。例えば家族について。生殖に関わる新しい技術は双方の合意という近代家族の構成原理を原則的に阻害するものではない。むしろ、それをより一層進める、別言すれば、それだけを残すことになる。この時、他方に存在した自然の基盤の上にあった部分の変容はどこまで許容され、家族という形象はどのようなものとなるのか。
  こうした決定、決定の是非が政治的な決定の場に持って来られる。他者を侵害しない行為は基本的に私的自治の範囲にあるということになっている。しかしここで生じているのは、この原則を認めたとしても、侵害するということの意味をどのように解するかということが自明でないということである。
【W】次に、提供・改変されるものが主体それ自体であるという場面について、そのことに関わる問題について考えてみよう。
  脳死・臓器移植にみられるように脳の特権性が保存されている限りこの問題は生じない。脳の移植は困難で、またその特権性を脅かすために倫理的な抵抗がある。けれども、誕生の場面では既に人工受精の登場によって、変容は現実的なものとなっている。
あるものが自分のものであるがゆえにその結果とされるものに自分の権利・義務があることが正当化されてきた。むろん実証科学からの決定論的な見解はあり、論議がなされてきたが、決着がつくことはなく、そうした未決定な状態で、多様な実践がなされてきた。それが完全に可視化するという保証があるわけではないが、その度合が高まる可能性はある。他者によって能力が決定、操作されることが可能になるとすれば何が効果するのか。可能でなければその技術は無意味なものである。従来、不可能であることがこの技術、技術の発想への反論として専ら持ち出されてきた。しかしそれだけですむのだろうか。それが可能な場合、何が考えられるのか。
  まず先と同様これは人為的な決定・操作としてある。そして現在、出生時が主題になっている限りで、それは他者によるものである。その他者の性格が問題になる。教育環境・教育投資に関する論議と同様、不平等、不平等の再生産の問題がここでもまた指摘されるのだろうか。また不平等でなけれよいのか。
  この技術の発現自体が能力を巡る帰責の構造に支えられている。しかしその技術はそれを理念的に正当化してきた基盤を崩す効果をもつ。例えば、能力主義的な配分の原理はどのようになるのか。帰属原理と業績原理という言葉が用いられてきた。ここにあるのは業績原理ではある。けれども、それは帰属的といってよい属性によって決定されている。それは帰責の観念、帰責の構制全体の正当性を薄めることにならないか。基点を危うくすることはないだろうか。このことを考えるためには、この社会に想定される主体がそもそもどれほどのもので、どこにどのように現れるのかを確認する必要がある。
【X】このように考えていくとして、生命工学に対して、またその産業化について、どのような視点をとることが可能か。検討すべきことがまだいくらもあり、ここで何かが言えるというわけではない。ただ一つ指摘するなら、政治的決定を介して社会の全域が強制力によってある状態に至る場合――これまでの運動は主にこれ、その徴候への抵抗としてあったのだが――より、可能性として考えられるのは、そして現実に多く生じているのは、局所局所での実践である。どこにどのように問題が現れるのかを見定めないと、こうした主題への言及は実際に現れている場所を通り越してしまうことになるだろう。


http://www.arsvi.com/0w/ts01/1989a01.htm
配布原稿  ◇日本社会学会  ◇立岩 真也
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