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障害者の自立生活をめぐって

介助の問題を中心に

第60回日本社会学会報告 1987.10.3 立岩 真也 (東京大学大学院・社会学・博士課程)



  報告者は、現在、身体障害者の自立生活に関する調査研究に参加している。以下、その調査結果等をもとに、介助の問題を中心にして報告する。★1
  まず、自立生活とは何か。日常的な動作に介助の必要な障害者が、家族及び施設での介助に頼らず生活を営むことであると、ひとまず、規定できよう。とすれば、どのように介助を得るかということが問題となる★2。
  実際にどのような介助の形態がとられているのか、その各々の長所・短所は何か、問題点がある場合、それを解決する手段があるのか、を検討することがここでの課題である。  それをどのように考えるのか。それは、上にさしあたりの外延的な規定を与えた自立生活を内包的に規定することである。なぜ、家庭・施設における扶養・介助を受けずに生活するのか。簡単に言えば、生活における自律性と社会性を得ることである。このことを考えながら、検討を進めていく必要がある。でなければ、結局、脱却が目指されたその状態とさして代わらないところに落ち着くことになるかもしれないからである。
  そしてこの問題は、第一に、自立を望む、あるいは自立生活を送る障害者自身の問題である。また、彼ら自身によって様々な試行がなされている。私達は、そういった試行に即して、この問題を考えていきたい。

  介助は、当然のことながら、他者の行為として実現される。社会的行為は、近代資本制社会においては、その社会の領域の分割によって、市場・経済の領域と政治の領域、家族の領域、及びこれらに吸収されない自発的な行為の領域のいずれかに配分される。介助という他者の行為もまた同様である。
  そして介助の場合、介助に要する資源の供給源と介助の当事者が分離される場合がある。だから、以上の諸領域はこの2段階の中に組み合わされることがある。この2つの段階は、様々のメディアにより媒介される可能性があるが、現実には貨幣が重要である。
  さらに、介助者と介助を要する人とを媒介する機関が存在する場合と存在しない場合がある。論理的には様々の組み合わせが可能だが、それを全部検討する必要はここではない。以下では、歴史的な経過をふまえて、そのいくつかを検討していく。★3

T 施設

  戦後、緩慢な過程を経てではあったが、収容施設は次第に整備されていった★4 。 53000人ほどの障害者が現在施設に入所している★5 。                  自立生活運動は、この施設収容を批判する中から生まれてきたのであり、最も初期に自立生活を始めたのも、施設の中にいてその処遇を批判する運動を行ってきた人たちであった★6 。また現在でも、家庭から出て自立する者とともに、施設から出て生活を始める人は多い。個室がなく、生活時間が厳格に、しかも不自然に決められ、持物、行動、外出の制限が厳しいこと、等、また仮にこれらの状態が改善されたとしても、一般社会から隔離された状態で生活を送らねばならないことが、施設を出る理由である★7 ★8 。

U 家族

 少なくとも約 200万人の18以上の身体障害者が在宅で生活しており、その約20%が何らかの介助を必要としているとされているから、約40万人の介助の必要な障害者がいることになる。そこの中にはここに言う自立生活者も含まれ、その生活の形態は様々だが、障害が重くなればなる程、成人後も親によって介助・扶養されている場合が多くなる。★9
  社会福祉と家族について論じられる場合、近代化の過程における、核家族化、女性の就労率の上昇といった家庭機能の弱体化、それを補完するものとして社会福祉の必要性が主張される。そして近年の日本型社会福祉論といわれるものは、再び家族を重視する。それに対しては既にその基盤は失われているという再批判がなされる。★10 
  家族の機能の弱体化といった現象は事実である。しかし、家族からの自立の試みは、核家族化しているから、介助する者が調達しにくくなったといった事情だけによるものではない。家族による介助が全く不可能であり、それゆえに施設への収容を余儀なくされ、さらにそこから出てきた人もいるが、そうではなく、むしろ家族の反対を押し切って、自立生活を始めるようになった人も多い。彼等は、成人後も、親に依存するということ自体を問題視しているのである。★11★12

  こうして、70年代初頭から日本の自立生活の試みは始まっている★13。近年の議論はこういった過程を多くの場合捨象している、あるいは多くの部分を捨象している。私達は、その経緯、その蓄積を踏まえた上で、考えていくべきなのである。★14

V ボランティアによる介助

  この介助の供給形態は、施設・家族から離れた障害者達によって、まず第一には他にない、やむを得ぬ手段としてとられ、当初、彼らの運動の支援に当たった層によって担われた。現在も、その状況は基本的に変わっておらず、大きな部分がボランティアによる介助を得ている。それを全く利用していない人は1人もいない。
  以下、まずその状況を概観する。
  ボランティアの数は1人につき、10人から35人というところである。また1人のボランティアの介助の頻度も、月に1回程度から、週に数回まで、1回あたりの時間も1〜2時間から、8時間程度(夜、日中)まで様々である★15。介助の内容は生活に関わる全てであるといってよい。
  どういった層がボランティアになるのか。地域差、個人差が大きいが、かなりの部分は学生によって占められている★16。その他、特に女性障害者の場合、かなりの割合で主婦が入っている人もいる★17。またさほど多くはないが、労働者も介助に入っている★18。 次に、具体的にどういう経路で介助者を調達するのか。多くは、街頭でのビラまき、等の活動を行っている★19。しかし、それで得られる人は少ない。そういった直接的な働きかけの他に、介助者の人間関係が利用される場合もある★20。また、様々な運動に携わっている人の場合は、その過程で、その運動の協力者がそのまま介助者となる場合も多い。 ボランティアの介助を得る場合の問題点は何か。まず、調達の困難さである。長期の予定が立てられればよいが、多くの場合そうはいかない。数日先、あるいは明日の介助者を求めて、毎日電話をかける人も多い★21。さらに苦労して得た介助者が定着しないという問題がある★22。
  次に介助する人の層に関わる問題がある。問題。主婦、学生、労働者、それぞれに介助を行うことが困難な時間帯、あるいは期間がある★23。そして、同姓による介助が必要な場合、問題はさらに大きくなる★24。また、地域によって介助を行うことが可能な層がどれだけいるかという地域差の問題がある★25。
  また介助が自発性に負うこと、関係が感情の水準にあることに規定される問題がある。介助される側に、人を引きつけられるものが必要だということ、人を集められる障害者でないとやっていけないということ、気をつかわなくてはならないことに疲れてしまうということが指摘される。
  さらに介助者の責任観の問題もあげられる。忘れる、用事があって来ない、連絡もない、といったことがしばしば生じる。

  次に検討する国家・自治体による介助の保障、有償の介助は、こうした供給の不安定性の問題を解決し、介助者に介助への対価を払っていることに見合っただけの責任あ[一部ファイル×?]あるが、貨幣を媒介に用いることは問題を回避するものではあれ、解決することではないということになる。★29
  公的な保障は、責務を社会のものとするという意味で、実はこの理念とさほど遠いものではない★30。そして、安定性を期待できる。けれども、個々の具体的な介助にあたる動機において、金銭を得るために介助をするという動機を排除できない。他方、直接的な介助とそれを支える負担の分離という問題がある。一般の人の責務は租税等の負担に限られる。 他方、生活の維持はどうしても必要である。より多くの障害者の自立ということを考えた場合、ボランティアによる介助のみでは不可能と言い切ってよい。だから、公的保障を導入しつつ、しかもそれが具体的で広範な他者達との関係を阻害しないようにしていく、こういった方向を模索することが目標となろう。★31★32


W 国家・自治体による介助の保証

  現実には公的な援助の不足という状況があり、その拡大を目指す運動が存在するが、また、財の供給源を税とするとしても、介助の形態は多様でありえ、いくつかの形態が多くの場合併用されているとともに、どういった形態が望ましいのか、模索中の状況にある。
W−1 公的機関が介助を保証する。

  実際に行われているものとして家庭奉仕員派遣制度、いわゆるホームヘルバー派遣の制度がある。現在週18時間が上限とされるが、実施主体は市町村であり、したがって、自治体によって著しい格差がある。量的な問題がまず指摘される。もっとも多いところでもそれによって、生活が可能になるとはいえない状況にある。★33
  このことと無関係ではないが、時間・内容等について、障害者の要求が必ずしも反映されない。これは個々のヘルパーの資質というよりは、制度的な問題である。業務内容について細かく行政当局から指示されているからであり、また、ヘルパーの選択権が利用者の側にないからである★34。障害者が介助者を選び、市がその介助者をヘルパーと認定して賃金を払うという形態が一部で取られているが、これは問題の一つの解決法である。★35
W−2 障害者が介助料を受け取り、障害者自身が介助者を雇用する。

 介助料という性格のものとして存在するのは、生活保護の他人介護加算一般基準及び特別基準、及びいくつかの自治体の制度である。自治体の制度のついては、地域間の格差が大きい。また、生活保護の枠内の制度は、当然その受給者に限られるという限界があるととともに、受給資格要件が厳しく、手続きも難しい。実際にそれを利用している人はきわめてわずかの人に限られ、やはり多くの場合、生活をそれで成り立たせていくには十分でない。★36
  こういった形態の長所としては、選択権が利用者に帰属するため、自律性を発揮しやすいことがあげられる。
  反面、問題点としては(これはボランティアの調達の場合でも同様だが)、誰もが、自ら一人の力で介助者を調達できるとは限らないことがあげられる。重度でコミュニケーションが困難であるといった場合は特にその問題は大きい。★37

X 媒介機関

  個人ではなく、機関・集団によって、あるいはそれを介して介助者を調達する方法である。これは、W・2における調達の問題を解決する。と同時に、その機関に対して、十分に障害者自身の参加が保障されるなら、生活に対する自律性を確保することができる。
  先駆的な試みとして、地域の障害者の集団の中で、専従介助者を決め、相互の調節を図る試みがある。★38
  さらに独立した第三者的な要素の強い団体もある。現在いくつか存在するものの多くは高齢者を中心的な対象とするものであるが、障害者によって創設され、障害者の介助供給を主目的の一つとする団体もある。時間あたりの報酬を設定し、利用者と介助者の間に入って、時間・内容等を調節する方式が取られている。★39★40
  両者の重要な差異は、介助を行うことによって生活することのできる介助者を置くのか、生活の中の空いた時間を介助に当てる者を主要な介助の供給源とするのかである。このことについては後に再び触れる。

X ケア付住宅

  直接には、介助の形態の1つと呼べないが、それと関わるものとしていわゆるケア付住宅がある。典型的には、比較的小規模の障害者の集合住宅を作り、そこに介助者が常駐して介助にあたるというシステムである。日本ではまだまだ少ないが、障害者側の要求によって実現したものもいくつかあり、また立案の過程にあるものもある★41。
  介助供給の形態は、ケア付住宅と言う限りでは限定されていない。したがって、今まで述べてきた諸形態のいずれもが妥当しうる。まず、この形態の特色は居住の形態にある。 第一には、住居の設備の面である。障害者専用に作られる以上、その設備は少なくとも現存の一般住宅よりは恵まれている。けれどもこれは本質的な問題ではないともいえよう。個々の障害者の居住空間に、障害に応じた設備をすることは可能であるからである。
  むしろ重要なのは、居住の集合性に関わることである★42。とりわけそのことに関わる介助の形態である。すなわち、必要な時に介助に来られる者を近くにおく体制を敷くことによって、1人に1人の介助者が常時つくという体制よりも、少なくともコストの面からは有利であるということになる。★43
  だがこういった集合住宅のシステムは、障害者が一定のところに、しかも障害者同士でしか住めないという、居住をめぐる選択権を侵害することにならないか、周りとの交流が十分になされないなら、それは結局施設と同じということにならないのか、といった疑問が出されている★44。どれだけ、一般の住宅の中にそれを確保できるかということであり、閉鎖した空間にならないかが問われる★45★46。



  こうして、介助の形態のいくつかの方向が試みられている。そのいくつかは実際には併用されている★47。また、その各々の全てが互いに対立するものとはいえず、ある場合には、補完的なものでもある。だが、今まで示唆した点を含めいくつかの対立・相違点が運動内部にある。それを整理し、検討することをもってまとめとしたい。
  まず、どれほど、他者の介助が、他者が直接に障害者の傍にいる時間が必要なのか。その算定は、必要量が個々人にほぼ普遍的なものとして規定されえ、また財が供給されればその使用は本人にまかされるといった所得保障のようにはいかない。また、機器の利用等でできる限り、自分の行為として行う方向をよしとする主張、また、集住によって(X) 、あるいは通信機器の利用によって、直接他者のいる時間を少なくしようとする方向がある★48。実際の必要★49と、できる限り自らが選んだ場所で生活を送りたいという要求を認めるなら、最大限24時間の介助の保証が必要である。けれども、その必要量、それに関連する保証の額の算定についてはまだ本格的に取り組まれていない。
  第二に、無償(V)か有償か(その際の財源は国家・自治体による供給)(W)という問題である。これについては、後者を取り入れることが必要であり、だがその場合に、どれほど関係を至る所で形成していけるか、という視点を維持すべきことを述べた。
  第三に、国家・自治体が直接に介助を供給するのか (W・1)、それとも現金給付とするのか(W・2)という問題がある。既にみたように、現物給付の場合、時間・内容、また決定権の所在について、障害者側の要求をかなえ難いという問題があった。後者については、個人では介助者を得にくいという問題があった。
  前者の場合、例えば、障害者側の選択権を認めさせるという方向が考えられる。後者の場合には、必要とする者と介助者を結ぶ機関を設置するということで解決がはかられうる。こうした場合、両者の距離は小さくなる。
  だが、それで問題は終わらない。第四に、どういう介助者が必要かという問題がある。具体的には、他の生活時間の空いた時に介助を行うという介助者で必要が満たされるのかということである(→Xでの2つの形態)。その場合、現在の状況を前提すれば、その主体は既婚で職業をもたない女性になる★50。その場合、まず、男性による介助の必要な場面が残るという問題がある。第二に、時間である。とりわけ夜間の介助が必要な場合、主婦層がそれを担うのは困難である。さらに、女性の就業率の地域的な格差、及び今後の推移次第で、それが供給がどのようになるのか、ということである。また、それは、男性の労働に家計の主要な部分を負うという状況をどう評価するかということにも関わってくる。  とすれば、生活を介助による報酬によって支える介助者の必要は明らかである。では、基本的にフルタイムの労働者に統一すればよいのか★51。だが、必要量・コストの面を考えないとしても、限られた遺部の労働者と障害者との閉すどれ:牝芽ヴ剽IJをとり広範な参加を獲得できる可能性があるゆえに、また、職場であれ、家庭であれ、人が、一つの場に固定されることを必ずしも受け入れる必要はないがゆえに、生活の一部を介助に当てるという形態を排除する必要はない★52。
  とすれば、結局、併用というかたちになろう。併用するとしてどういうかたちになるか。こういった複雑な形態をとり、かつ個々人で必要量が異なる場合、どういう制度を組み立てるのか、調整をどうするか。こういった問題は、問題として意識されているが、未解決である★53。基本的な方向を明らかにしながら、一方では、公的な保証を、一貫的・整合的な制度のもとで確立することを要求しつつ★54、また他方では、媒介的な機関を自らの手で作りあげることが求めらよう★55。

注・文献 →ファイルなし


UP:20050630(ファイル発見)
立岩 真也
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