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「南ア憲法裁判所判事でHIV陽性者のEdwin Cameron著
"Witness to AIDS"を読もう!」

斉藤 龍一郎(さいとう りょういちろう) 20100425 .
[English] / [Korean]
アフリカ日本協議会(AJF)
「南ア憲法裁判所判事でHIV陽性者のEdwin Cameron著 "Witness to AIDS"を読もう!」 (再録元ページ)
(URL:http://www.asahi-net.or.jp/~ls9r-situ/witness_to_aids.html)
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*この頁は故斉藤龍一郎さんが遺されたホームページを再録させていただいているものです。

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last update: 20201223


AJFと同じビル内のNGOでインターンをしていた人にこの本を紹介したところ、AJFの本棚から持っていった本を読んだ上で自分でも購入し、「この冬休みの間に少し日本語にしてみます」と話していました。

で、関心を持った人に呼びかけて読書会を持ち、一緒に読み合わせをしていこうと話しています。

すでに第6章、第7章の試訳を作成し、このページで紹介していますが、著者・南アのHIV陽性者・エイズ治療・南アについてなじみのない人にとっては、読みにくい分かりにくい点も多いかと思います。

一緒に読みながら質問を出しあったり、関連情報を紹介しあったりすると、理解が深まると思います。

会場や日時については、まだ何も決めていません。関心を持つ人、協力してくれる人にとって便利なところでやれたらと考えています。一緒に読んでみようと思う人、メールをください。
>メールはこちら(mailto:ryosaito@arsvivendi.comjca.apc.org)

* 2011年4月14日:その後、3人が翻訳・紹介の作業に参加すると連絡をくれました。分担して翻訳作業を進め、近いうちに、みんなで集まる機会を作る予定です。



著者のEdwin Cameronについて

著者は、現職の南アフリカ共和国憲法裁判所判事で1998年以来HIV陽性者であることを明らかにしています。アパルトヘイト期に人権弁護士として著名になり、英国でターボ・ムベキ前南ア大統領と対面したこともあります。

2002年に発表した「エイズ否認主義と歴史修正主義」の翻訳が、立命館大学大学院立岩研究室発行の資料集「貧しい国々でのエイズ治療実現へのあゆみ」第2部に収録されています。



"Witness to AIDS"について

1997年、著者が PCP(カリニ肺炎)およびカンジダ症を発症したところから回想が始まります。1990年代初頭にHIV感染を知って以来、定期的な健康診断とホメオパシーを怠らなかった著者も、ついにエイズを発症したのでした。著者は、主治医と相談の上、副作用への不安などをかかえつつも抗レトロウイルス薬多剤併用治療開始に踏み切ります。

著者は当時、プレトリア高裁判事として担当していた事件に臨む姿勢と治療開始までの葛藤を重ねて描き出し、「二度目のチャンス」を自分だけではなく被告にも与えたいと控訴審判決案文を書いたことを記しています。

著者個人の生き方・考え方だけでなく、HIV感染を明らかにした女性がコミュニティの人々によって殺害されてしまったという南アの現実、そうした厳しい現実と向かい合いながらすべての人々を対象としたエイズ治療の必要性を訴え続け貧しい地域でのエイズ治療開始の扉をこじ開けてきた人々の闘いを描き出しています。

エイズ治療薬の特許権問題について概観した第6章、医療インフラが整わない途上国でのエイズ治療の可能性と現在の取り組みを紹介する第7章の試訳を作成し、ダウンロードできるようにしています。 >>>



参考訳文について

本は、2011年4月25日現在、アマゾンで2,033円(送料込み、リンクはこちら)です。

「参考訳文」の誤り、より適切な訳語、定訳について、アドバイスをお願いします。ryosaito@arsvivendi.comjca.apc.org あてにメールをお願いします。

【参考訳文】

「生き残った者にとって、記憶することは義務なのだ。
決して忘れてはいけない、そして忘れさせてはいけない。
あの経験は無意味ではなかったと彼らは信じているからだ」
プリーモ・レーヴィ

序文 ネルソン・マンデラ

エドウィン・キャメロンという南アフリカ人は、後世に残るであろう多大な業績を成し遂げてきた。その業績は彼の専門である法律を超え、数々の分野にわたる。彼がいま新たに文筆家という肩書きを加えたことを、たいへん喜ばしく思う。この本が、彼が今まで成してきたことと同様、より善い世界をつくる一助となることを、私は信じて疑わない。

世間に最もよく知られているエドウィンの肩書きは、HIV/エイズ運動家であろう。自身もエイズと共に生きる一人である彼は、その証言と活動をもって、偉大なる勇気と信念の力を証明してみせた。

数年前、彼がダイアナ元英国皇太子妃に招かれエイズについて講義をするにあたって、私は推薦のメッセージを送った。南アフリカの新しい英雄として彼を讃えることができ大変光栄である、と私は述べた。人権弁護士として、またいまわが国の最高裁判所判事としてのエドウィンの経歴は、その強い信念と高潔な人格を雄弁に物語ってきた。また、エイズ活動家としてのエドウィンの底知れない勇気と慈愛によって多くの人々が勇気づけられ、立ち上がって行動をおこしてきたことも、加えて述べた。私はそのメッセージをここに繰り返す。そして彼の物語がここに出版されることで、さらに多くの人々が、エイズという病気に打ち勝つためには、まず行動をおこすことが必要だと気づいてくれることを私は願う。ちょうどアパルトヘイトに打ち勝つためには、まず行動をおこすことが必要だったように。

本書を読んだすべての人が勇気づけられ、エイズという病気を根絶するため世界で行われているさまざまな活動に寄与したいと思ってくれることを、わたしは願う。エイズと、エイズに伴うスティグマは、誰にでも、世界のどこであっても、強大な敵として立ちはだかる。エドウィンのような人の声は、エイズが克服されるまでは誰しも決して安穏としてはいられないのだと気づかせてくれる。

エイズと共に生きる一人であることを公表したエドウィン・キャメロンは、真に勇気ある人物だ。彼のあゆみは、一人の人間がエイズと共に生きながら、より善き世界の追求に尽力しつづけていることの実例である。この一人の南アフリカ人によるより善き世界の追求において、本書がさらなる大きな一歩を加えることは間違いない。

NR マンデラ
2005年2月

1 二度目のチャンス

高等裁判所内裁判官控室から二階上の判事執務室へ続く階段を突然上れなくなった瞬間、私はエイズを発症したことを知った。三年間、毎朝お茶のあとに私はその階段を上っていた。二階分、踊り場が四つ、全部で40段。だが1997年10月下旬のあの朝、それができなくなった。一段上るのに途方もない力が要る。足先から力が流れ出ていく。体は鉛のように重く、脂汗がにじむ。肺は水がいっぱいに詰まったようだ。口の中が激しく渇く。痛みはない。あるのはただ、襲いかかるような極度の疲労感。

そして、恐怖。

後天性免疫不全症候群ー人体における苦痛の類なき蓄積。通常ない種類の肺感染症や癌、着実に体を蝕んでいく真菌症。体に備わった免疫システムは破壊され、病の容赦ない侵略を止めることはできない。目の前に立ち現れるのは衰弱の一途、長く残酷な死への道のり。

エイズについて、私はすでにかなりよく知っていた。エイズはHIVという稀な種類のウイルスによって引き起こされる。このウイルスは、人体がもつヘルパーT細胞(またはCD+4 T細胞)という、病気から体を守るのに欠かせない白血球を破壊してしまう。ウイルスはそれ自体では増殖できないため、病気に対する防御システムをつくりだすヘルパーT細胞の中に入り込み、細胞の構造を自己増殖に利用するのだ。HIVがCD4を破壊すればするほど、体の免疫機能は低下し、他の病気にもかかりやすくなる。病気にかかるたびに身体はどんどん弱っていき、HIVに対する抵抗力はさらに低くなる。病気の悪循環は生命を消耗し、ついには死に至らしめる。

これらエイズの特徴を、私はよく知っていた。いや、知りすぎていた。もうそれ以上知りたくなかった。この体がとうとうHIVに屈してしまったなんて。「HIVと共に生きている」ーーせめてもの慰めとしていた呼称ーーではなく、エイズを発症していると診断されてしまうなんて。そしてとうとうーー早急に専門家による治療を受けなければーー死を免れないところまできてしまったなんて。

1997年の南半球の春、生活は順風満帆で、そのまま続いてほしいと私は願っていた。家族関係はこの上なく良好で(新しい恋もしたーー後にこれは思い違いだったと思い知ることになるのだが)、高等裁判所の仕事は非常にやりがいがあり、面白かった。ジョハネスバーグ高等裁判所は、南アフリカで最も忙しい高等裁判所だ。もともと商業的利害にかかわる訴訟に重きを置かない人権弁護士であった私は、日々持ち込まれる会社法やら契約法やらの問題、破産訴訟などを相手に奮闘しながら、何とかそれらの仕事を全うしたいと強く思っていた。ジョハネスバーグの裁判官はみな常にすさまじいプレッシャーの中で仕事をこなしている。精神的・実質的な負担を増やす事態は避けたかった。それ以上に自分が絶望的な病に侵されているという事実を自分自身に対して、まして同僚に対して認めたくなかった。。

だから徐々に全身のだるさがひどくなり、消化機能の低下のせいで食欲も体重も落ち始め、息切れを感じ始めた時、私がしたことは勤務時間の延長だった。体力を温存するためにアルコールと夜更かしを止め、仕事に支障をきたさないよう書物と資料の山に埋もれる生活を自らに課した。仕事を止めること は病気に屈することだった。そして病気に屈することは、すなわち、死だった。


その週、私は部長裁判官(部門内で業務を割り当てる裁判官)から、地方裁判所からの上訴を決定する法廷判事に任じられた。二人の裁判官で構成されるこの法廷は、刑事裁判(薬物、婦女暴行、暴行、窃盗、殺人など)と民事裁判(自動車事故、諸々の契約をめぐる争い、貸借関係のトラブルなど)の両方において、地方裁判所で下された決定に対する上訴を取りあつかう。数限りない案件をこなすのは骨の折れる仕事で、審議前の準備のために夜や週末の時間を費やさなくてはならなかった。一緒に職務にあたることになった先輩裁判官はワイン通の上品な紳士で、私と意見が一致する時もしない時も、常に真摯な態度を忘れない人だった。

その前日、ある案件をめぐってすでに私たちは意見が一致していなかった。この案件での意見の食い違いには、なぜかとりわけ私の心に引っかかるものがあった。若い男性が、自分の盗まれた車と車中にあった物品について虚偽の被害申告を提出したために詐欺罪に問われた。逮捕された時、保険会社はもう彼のオペル・カデット車の補償申請を処理しているところで、車内にあったという物品(CDプレイヤー、スピーカー、CD、ゴルフクラブ、ジム用品、サングラス)の補償金は既に支払われたあとだった。男性の虚偽申告は、あきらかに重大な軽罪にあたるものだ。

拘置所のソーシャル・ワーカーは、軽い刑罰を提案した。刑務所ではなく自宅軟禁、専門家による更生指導と地域奉仕活動を義務付ける、というものだ。男性には過去の犯罪歴がなく、すぐ罪状を認めたので法廷をわずらわせることもなかった。さらに、事件後なんとか新しい職を得た男性は、保険会社が支払った補償金額を返済しつつあった。法廷で、男性は遅まきながら謝罪の言葉を述べた。

地方裁判所判事は、拘置所のソーシャル・ワーカーの提案を却下した。判事の決定は「12か月の禁固刑」というものだった。果たしてこの決定は、正当といえるだろうか?決定を審議する私たちにとって、このような上訴はきわどいケースだ。私たちが訴訟に介入できるのは、地方裁判所判事の論拠に錯誤があると判断された場合、または判決内容があまりに厳しすぎる場合に限られている。実際、この時の判事の論証には錯誤が認められた。だから、技術的には介入は可能であり、判決を変えさせることも可能だった。だが、問題の核心は技術的なことではなく―刑務所か、地域奉仕活動か?であった。同僚と私は迷った。上訴審法廷に先立って、私たちは検討に検討を重ねた。同僚は一審判事の決定を承認する方向に傾いているようだった。この案件のような詐欺は重い罪だ。保険金詐欺は増え続けており、真っ当な契約者たちから総額にして何億もの保険金をだまし取っている。こうしたいわゆる「中産階級犯罪」に対して、厳罰の例を示す必要性は確かにあった。「中産階級犯罪」とは、多く書類上の違法行為(偽装、粉飾、改ざんなど)を含むもので、経済的に貧しい人の多い社会の中で比較的裕福な層にこの犯罪者が多い。刑務所は引ったくりや泥棒や強盗だけのためのものではない。「ホワイトカラー犯罪」によって禁固刑を受けることもあるし、また時には禁固刑を受けなければならないのだ。

だがこの時、私自身の最初の判断は、「禁固刑は不当な厳罰だ」というものだった。とはいえ同僚にも私にも再考の余地はあり、正当な主張をもってすれば互いを説得することは十分に可能だった。被告人男性の弁護人は、禁固刑の棄却を要求したのに対し、検察側は刑は適当として譲らない。検討を経て、上訴審として介入すべきだという思いが明確になりまた確固としたものになった。その晩、私は遅くまで、論拠を説明した判決文の下書きをした。自宅の書斎のコンピューターに向かっていると、自分の呼吸を聞くことができた。胸は苦しく、呼吸は浅かった。だが今夜中に下書きを仕上げなければ。浅くすっきりしない睡眠をとり、翌朝お茶のときに同僚に下書きを手渡した。検討してみるよ、と彼は約束した。

この詐欺事件やそのほかの手がけている案件はたいへん気にかかった。しかし、踊り場の壁にもたれていると、それらはまるで手の届かない遠くへ逃げていくように感じられた。病気になりたくない、認めたくない、死ぬなんてごめんだーーエイズの発症を告白するのも、同僚たちに感づかれるのも絶対にいやだった。

主治医の受付係は、その日の法廷のあとすぐに診察の予約を入れてくれた。待合室に座っていると、彼女はマグカップに入れた紅茶を持ってきてくれた。診察室に入るころにはすでに冷めていたのに、最初の一口をすすると、痛みに思わず私は身震いした。主治医は目ざとく気づき、深刻な面持ちで言った。「食道全体にカンジダ症が広がっているね。ものが飲み込みづらくなるんだ。体重が落ちたのもそのせいだよ。ウイルスの影響だけではなくて、体自体がもう食べものを吸収できなくなっているんだ」

私は薄笑いをうかべて見つめ返すしかなかった。主治医のデイヴィド・ジョンソンはいつも糊のきいたシャツを着こなし、精力的に診療・治療にあたる、かくしゃくたる老博士だった。もう六年も私を担当してくれていて、彼の人柄と、プロフェッショナリズムに私は信頼を寄せていた。

数ヶ月前から、彼は私のCD4値と体内のウイルス量を定期的に測っていた。免疫力と、ウイルス感染の進行度合を調べるためだ。免疫機能は目に見えて低下していた。だがこの免疫システムというものは気まぐれで、大体においては下降傾向でも、時々ぐんと上昇することもあるのだった。だからエイズを発症するか否か、するとしたらいつなのか、ということは、それまではまだ明確になっていなかったのだ。 だが、いよいよ発症したとわかった今、私たちはいまだかつてない難問に直面していた。――これからどうしたらいいのか?

その前年、1996年7月、ニューヨークのエイズ臨床医学者デヴィッド・ホーが、バンクーバーでの医学会議で驚くべき発表をした。北米全土における治験で、HIVの体内での感染進行は食い止めることが可能だということが明らかになった、というのだ。

エイズの症例が1981年6月に世界で初めて公式に発表されて以来15年間、先端医療がこの病気を克服するだろうという期待はことごとく打ち砕かれてきた。HIVに感染した者はほぼ例外なくエイズを発症し、エイズを発症した者はほとんどが死亡していた。残酷なほどにシンプルな必然性。その必然性が、ついに医学によって覆されようとしていた。一連の抗レトロウイルス薬を慎重にモニターしながら投与することにより、歴史上初めて医師たちがこの病に対処できる可能性が見出されたのだ。

それまで、一種類または二種類の抗レトロウイルス薬を用いた治療法は失敗に終わっていた。HIVはすぐに薬に対する耐性を獲得し、より強力になるからだ。一方、抗HIV新薬は次々と開発されていた。新しいものは特にHIVによるタンパク質分解を妨げることでウイルスの自己増殖を防ぐはたらきをもつ。デヴィッド・ホー博士らは、このような薬を複数、異なる種類を組み合わせて使うことが決め手になることを発見した。三種(場合によっては四種)のコンビネーション投与によって、異なる薬がそれぞれ異なった方法でウイルスの自己増殖の手段を封じ、体内の感染拡大を食い止めるのに目ざましい効果を発揮するのだ。

この「高活性抗レトロウイルス薬療法(HAART)」は、エイズに対する画期的な解決策として大きな期待を集めた。ウイルスの“長期的鎮圧”も可能になるとみられ、適切な薬を適切な組み合わせで投与し続ければ、病気の進行を永久的に抑えることもできるだろう、とまで予想された。

一部には、この新薬によってウイルスの自己増殖を完全に止めることができれば、いずれは体内からウイルスを完全に除去することも可能なのでは、と期待する声まであった。治療の必要がなくなる、つまり完治も夢ではない、と。

これはしかし、楽観的に過ぎる見方であった。薬が投与されると、ウイルスはすばやく(リンパ節、精巣、脳皮膜といった)体内の小さな割れ目や細い隙間、現在の治療法では届かないウイルスが潜むには格好の「隠れ家」にもぐりこんでしまう。そして患者が投薬を止めたとたんにそこから這い出し、再び暴れだすのだ。

とはいえ、長期におよぶウイルス抑制の報告は驚嘆すべき飛躍的前進だった。15年の苦闘を経て医学の力はようやく、それまでは避けられなかった苦しみと衰弱と死からエイズ患者を解き放つ道を探り当てたのだ。デヴィッド・ホー博士の検証結果が公表されると、医師たちはきそって新発見の治療法を採用し、その後約一年半近くの間に、北米および西ヨーロッパでは数種の異なる抗レトロウイルス薬のコンビネーションが病に苦しむ数万人に処方された。

結果は驚くべきものだった。裕福な世界では、エイズによる死は急減した。私自身の生命を絶体絶命に追い込んだエイズによる疾病(日和見感染症)もほぼなくなった。治療によってウイルスの増殖が止まると、痛めつけられた免疫系も回復した。そして、健康を取り戻しさえすれば、身体は日和見感染症を克服することができた。

ここ南アフリカにも、エイズ末期の死の床から復活した患者たちの「ラザルス」ストーリー(「奇跡の生還」の物語)が裕福な国々からつぎつぎと届いた。1999年の暮れ、陽光降りそそぐオーストラリア西部の美しい都市パースで 開かれたHIVに関する会議で私は講演したのだが、主催者の一人グレアム・ラヴロックも自身の「物語」をきかせてくれた。1995年11月末、彼は健康を損ない予後の見通しが暗いまま入院していた。もはや回復の望みはなさそうだった。あらゆる薬が試されたがウイルスの影響を食い止めることはできず、生命力は限界に近づいていた。家族や友人たちは死は目前と覚悟した。グレアム自身も、もはや退院はかなわないだろうと思っていた。しかしすんでのところで、医師が多剤併用療法の早期治験を彼に適用した。グレアムは順調に回復し、死ぬどころか、生命力と健康を取り戻したのだ。

同様の体験談がシドニーからも、ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、ミュンヘンからも届いた。「タイム」紙は興奮気味に、デヴィッド・ホー博士を1996年の「マン・オブ・ザ・イヤー」に認定した。人類のエイズとの闘いの第一段階は終わりを告げた。長期間、医学的にエイズを管理することが可能になったのだ。

だが、世紀の新発見には落とし穴があった。1997年当時、この新薬は信じられないほど高価だった。製薬会社は知的財産権を保護し、競合する会社や貧しい国々が薬を製造・販売できないようにした。特許権が生む莫大な利益は、単に企業としての利益のためではなく、人命を救うための更なる医療研究開発のために不可欠である、というのが製薬会社 の主張であった。欧米諸国の政府、とりわけ米国はこれを支持した。特許権の期限内であれば、製薬会社は薬の価格を自由に設定できる。裕福な国の保健省など公衆衛生機関は国内のエイズ患者用に、こうした薬を天文学的な値段で買い取っている。だが、世界全体のHIV/エイズ患者の半数以上が暮らすアフリカでは、この値段は文字通り致命的な障害となるのだ。

多剤併用療法を自費でまかない、新発見の恩恵にあずかれるのはほんの一握りの人々にすぎない。デヴィッド・ホー博士の大発見は、ちょうど中央・南アフリカでHIV/エイズが最大の猛威をふるい始めたそのころに、治療法として確立された。それにもかかわらず、新治療の恩恵は、最も必要としている人々には届かなかったのだ。

そんな状況にあって、私は例外的に恵まれていたといわなければならない。高等裁判所裁判官の給料はとてもいい。1997年末当時、わたしは額面でR30,000弱(USドル4,000程度)の月給をもらっていた。第一線で活躍する民事訴訟弁護士などに比べればだいぶ少ないが、それでもビジネス・セクターの一般職員の平均月収の約8倍、南アフリカ全体の平均 月収の30倍だ。アフリカ大陸の全人口7億人のうち大多数の人々にとって、そしてまたこの大陸でHIV/エイズとともに生きる3000万の人々のうち大多数にとっても、こんな高収入は夢のまた夢だ。

つまり、私には選択肢があった。経済的に恵まれているからこそ手にしうる選択肢が。それをどう活用するかが問題だった。主治医であるジョンソン医師に一部指導を受けて、私はホメオパシー治療も受けていた。ホメオパシー治療担当の医師は、従来の欧米流医学の優位性を否定しながらも、ホメオパシーにも限界がある、と言い、はじめから効果についても保証はしなかった。「ホメオパシーによって(病原体に)感染しないようにすることはできます。免疫システムをできるだけ正常に保つよう努力してもみます。しかし、もしHIVの増殖が私の処方で対応できなくなったら、従来の欧米型投薬治療に戻さなくてはならないでしょうね」と医師は言い、よくある感染症用にと抗生物質の入っていない治療薬を処方してくれた。それは病気に効くだけでなく、体に活力を与えてくれるようにも感じられた。そのようにして6年間彼女の治療を受け続け、ある程度の効果は出ているものと私は思っていた。

だがこのときの激しい息切れと、しめあげられるようなのどの苦しさは、ホメオパシー治療が無念にもHIVの破壊力には及ばなかったことを示していた。私は重大な決断を迫られていた。私はエイズにおいて専門家がいうところの「治療ずれしていない」体であった。つまり、それまでどんなエイズ治療薬も試したことがなく、抗生物質さえもほとんど使ったことがなかったので、効果的な治療が期待できる理想的な患者だったわけだ。

ジョンソン医師の前回の診察のとき、私のCD4値ははじめて200を割っていた。エイズ発症の明らかな兆候だ(通常、健康な人のCD4値は800以上)。医師は警告した。「このまま抗レトロウイルス薬なしでどれだけもつか、君が体の限界に挑戦したいという気持ちがあるなら、それでもいい。しかし主治医としては、今すぐに抗レトロウイルス投薬治療を始めることを強く勧めるよ」

ジョンソン医師は常に患者の「知る権利」を尊重し、私がきちんと合意した上で治療が行われるよう、最大限の選択の自由を与えてくれた。もっとも、与えすぎるきらいはあった。彼は、たとえて言えば仔犬のように注意深くて熱心で、私はやりきれないと思うこともしばしばあった。彼はよく、自分がどれだけ最先端の医学に通じているかをひけらかそうとするので、私は心ひそかに思ったものだ。「私は裁判官や弁護士としてじゃない、患者としてここにいるんだ。ききたいのはウイルスについての新知識や治療法についての講義じゃない、アドバイスと慰めの言葉なんだ」

このように医師からの“公式な勧め”がありながら、しかも新薬のすばらしい効能についてもわかっていながら、なぜわたしは二の足を踏んでいたのか、と思われるだろう。理由のひとつには、薬の副作用に対する懸念があった。新薬の効き目はとてつもなく強力だ。体内組織の微小なひだやくぼみまで届き、隠れているHIVの自己増殖を阻止するため、強力でなくてはならないのだ。だが強すぎて、他の器官にも否応なしにダメージを与えてしまう。消化器官の調子を狂わせたり、刺すような神経痛や感覚の麻痺、体脂肪の異常な蓄積。病気によってすでに疲弊している患者の内臓が薬の威力に耐えきれなかった場合には、まれに拒絶反応が起こり、死に至るケースもある。この事実は、少なからず私を躊躇させた。(続きます。少しずつ翻訳してアップします。)



第6章、第7章試訳




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日々のすぎる中で
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よろしく。

読書ノ−ト です。




昨年、亡くなったスティ−ブン・J・グ−ルドの本を買ってもらいたいと思っています。
紹介文をボチボチ書いていくつもりです。まずは机の側にころがっていた「THE MISMEASURE of MAN」のことを書きました。


by 斉藤 龍一郎




*作成:斉藤 龍一郎/保存用ページ作成:岩ア 弘泰
UP: 20201223 REV:
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