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南ア最高裁判事でHIV陽性者のEdwin Cameron著
"Witness to AIDS"日本語版出版に向けて
「第6章 「私たちは赤十字ではない」 特許、利益そしてエイズによる死」

Edwin Cameron著/斉藤 龍一郎訳 最終更新日:不明
[English] / [Korean]
アフリカ日本協議会(AJF)
*この頁は故斉藤龍一郎さんが遺されたホームページを再録させていただいているものです。
「第6章 「私たちは赤十字ではない」 特許、利益そしてエイズによる死」
(再録元ページURL:http://www.asahi-net.or.jp/~LS9R-SITU/chapter6.html)
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last update: 20201223


■本文

2000年5月9日、西ケープ州が湿っぽい冬に入る頃、クリストファー・モラカがケープタウンにある南アフリカ共和国議会委員会で証言しようとしていた。その朝、彼は25キロ離れたニャンガにある家からやってきた。ニャンガは、世界で最も美しい都市の一つとされるケープタウンを訪ねる人々が通るハイウェー沿いのくすぶった郊外の町だ。クリストファーが議会に呼ばれたのは、フルコナゾールという名の素晴らしい化学物質に関わってのことだった。これはカンジダ症治療に使われている。食道カンジダ症は、痛みを伴うのどへの真菌感染症である。これを発症するとだんだん食べ物をのみ下すことがむずかしくなっていく。治療しなければ、生命にも関わる。真菌の白い胞子が舌、口の中、のど、食道、最後には胃腸まで覆ってしまう。

カンジダ症治療薬として、フルコナゾールは非常によく効く。この薬の抗真菌成分が、医学者の言う「真菌症候群」を抑えるのだ。数日のうちに、ほとんどの患者が回復する。真菌の胞子は消えてしまう。最悪の場合でも、2週間も服用すればいい。加えて、フルコナゾールはクリプトコックス髄膜炎のすばらしい治療薬でもある。この日和見感染症は、アフリカで多くのエイズ患者を苦しめている。

私は自分自身の体験によってこうしたことの全てを知っている。1997年10月、エイズを発症した時、最も苦しかった症状の一つが、食道カンジダ症だった。私の舌ものども毛皮で覆われたようだった。鏡を見ると、灰色や白色のワタボコリのような斑点になっていた。ぞっとするような不快感を感じて思った。真菌は死体や死につつある体に育つ、と。ということは、私の体は死につつある、ということだった。このぞっとするような推論は、肉体に関して言えば、全く正しかった。私の体は死にかけていた。治療しなければ、エイズによって私は30ヶ月から36ヶ月のうちに死んでしまっていただろう。

もこもこした胞子におおわれた私の食道は、暖かい飲み物全てに過敏になった。胞子は、私の消化器全てに広がっていた。もう食べ物を消化することができなかった。それから3年後のクリストファーのように、私は体重も体力も失いつつあった。

しかし、私は好運だった。南アの裁判官は健康保険に加入しており、この保険はフルコナゾールのような高価な医薬品も対象としていた。だから、私の主治医は、フルコナゾールを処方した。生命に危険をもたらす病状ではあったが、カンジダ症治療処方は比較的簡単だった。主治医は机に向かい処方箋を書いて私に渡した。私はそれを薬剤師に渡した。その頃一錠120ランド(20米ドル)した抗真菌薬とカリニ肺炎治療用の抗生物質の代金が、私のクレジットカードに記録された。やがて、私の申請額を裁判官健康保険が払い戻してくれるのだった。

私にとっては、また、医療保険を利用して医薬品を購入できる人にとっては簡単なことだった。

1997年10月、私の主治医が処方したのは、ジフルカンという商標で製造・販売されているフルコナゾールだった。世界最大の製薬会社の一つであるファイザーがジフルカンを製造している。この薬は、私にはすごく良く効いた。主治医に、薬の効果を感じている、と話したことを覚えている。高価なカプセルを飲み込んで数分のうちに、薬は真菌の胞子を一掃し、器官を掃除して細胞呼吸を回復させた。私は、カンジダ症は、私の体が医薬品の力を得れば克服できるものだと感じた時の安心と感謝を覚えている。

2000年に、クリストファー・モラカも食道カンジダ症を発症した。症状はひどかった。生前最後の頃の彼の姿が、エイズ啓発のために作られているテレビの人気番組「ビート・イッツ」に登場している。ほとんど聞き取れないようなかすれ声で彼は言っている。「ピクニックじゃないんだ」。でも、誰も彼のためにフルコナゾールを処方しなかった。彼には買えなかったからだ。フルコナゾールが私のカンジダ症を完治させてから2年半後、議会でクリストファーが証言した時、ファイザーの製品ジフルカンの値段は約三分の一安くなっていた。それでも一日あたり80ランドかかった。クリストファーが必要とする2週間分のジフルカンを薬局で購入すると、1,120ランドかかることになる。これは、南アの平均的な一家収入にあたるくらい高額なのだ。

クリストファーは失業しており、ファイザー製品の価格を支払えないのは明らかだった。いずれにせよ、彼は病状がひどくて働くことができなかった。だからといって彼は怠惰ではなかった。そのしばらく前、彼とパートナーのノチケレロは、地域の診療所に通うHIV陽性者たちを支援するグループを立ち上げていた。その頃、グループのメンバーは10人を超えていた。クリストファーもノチケレロも、エイズ治療へのアクセス拡大を目指す全国的な活動家集団である治療行動キャンペーン(TAC)のメンバーだった。ケープタウンでHIVに感染していることを明らかにした黒人たちの一員として、彼・彼女らはほとんどの時間をニャンガでTACの活動を展開するために費やしていた。

クリストファーは、フルコナゾールを手に入れることができないために、彼の命が脅かされていることを議会の保健委員会で証言するためにやってきた。彼の証言は深刻なインパクトを与えた。彼は、この薬によって真菌が彼の生存を脅かすことを防げること、そして彼のエネルギーを他のエイズに起因するさまざまな困難に振り向けることができることを説明した。この薬を服用できなければ、彼の苦しみはますますひどくなるのだ。彼の証言は明確だったし、証言内容も争う余地のないものだった。

理論上は、フルコナゾールは公的医療機関で入手できることになっていた。しかし、この薬の在庫を持つ診療所も病院もほとんどなかった。2000年の時点で、ファイザーは政府に対して、民間医療機関への販売価格である一錠80ランドよりも安く販売してはいたものの、ジフルカン購入費用は余りに高額だった。その結果、公的医療機関で医療を受ける人々、つまり南アのほとんどの人々の中で、ジフルカンを入手できるほどに幸運な人は、ほんとうに稀なことであった。

簡単に言えば、クリストファーがジフルカンを入手できない、公的医療機関がクリストファーにジフルカンを提供できないという現実は、ファイザーが自社の特許権強化に励んでいることの直接の結果であった。いくつかの国では、フルコナゾールと化学的・医学的に同じものを安価に入手することができた。これは、ファイザーが当時全ての国でフルコナゾールの特許権登録をすることができていなかったからだ。それらの国々では、必要な化学物質を安価にそして効果的に組み合わせることができた。そうやって作られたフルコナゾールのジェネリック薬は、クリストファーのような貧困者に医療を施そうとする公的医療システムにとっても十分手に届く価格であった。

2000年5月のその朝、クリストファーが議会の医薬品価格に関する特別公聴会で説明したのは、このことだった。彼がそうするにあたってふるった勇気を過小に見積もるわけにはいかない。クリストファーの右、ほんのいくつかの席を隔てて、製薬業界の代弁者たち、なすべきことをよくわきまえ身だしなみを整えた社会的交渉のプロたちが座っていたのである。彼の正面には、証言者の提示した証拠を精査することを任務とする委員たちが席に着いていた。委員会室の外で、お茶と固い耳の部分のない小さなサンドイッチが提供された。しかし、提供されたお茶にもサンドイッチにも、クリストファーはほとんど口を付けなかった。彼の病状はそれほどひどかった。しかも、彼は、第二言語で委員会での証言を行ったのだった。委員のうち何人かは、ニャンガの生活環境について知らないではなかったが、委員たちの中には、クリストファーと同じ環境で暮らしている者はいなかった。

それでも、クリストファーはやり通した。この証言に、生死がかかっていた。彼の生死、そして彼以外の数千の人々の生死が。一方、この公聴会は、彼が入手できるはずであった、彼の命を長らえさせる薬を、彼が入手することを拒否したことについて、ファイザーがどのような弁明をするのかを聞く機会でもあった。

「彼が入手することを拒否した」「入手できるはずであった」だって?それは言い過ぎだろう? いや、言い過ぎではない。貧しい人々は、日々世界中で、命を長らえさせる薬を入手することを、特許権によって拒否され続けている。その結果、日々の苦しみと死がある。こんなことがあってはならない。

議会での証言から何カ月も経たないうちにクリストファーは死んだ。彼の免疫システムはうち砕かれてしまった。体中に広がったカンジダ症に痛めつけられ、彼はさらにいくつもの日和見感染症を発症してしまった。食道カンジダ症は全く食べることができないくらいにひどくなり、のみ込んだり食べたりすると耐え難い痛みがあった。彼は、2000年7月27日に死んだ。8月5日、感情が揺さぶられるような弔いの中で、埋葬された。彼は44歳にもなっていなかった。

クリストファー・モラカの死は、特許権が不当に行使されているため、貧しい国々で人々が高価な特許薬を購入できないにも拘わらず、安価なジェネリック薬を製造することも購入することもできないという状況への注目を高めた。

特許権は、14世紀・15世紀イタリアにおいて、芸術の興隆と知的・政治的な論戦の展開の中で生まれた。特許とは、一定の期間、発明物を製造あるいは販売する権利を特定個人・団体が独占することを政府が保証する許可証のことである。特許権に類する仕組みは、たぶん、文明発祥と共に誕生していたであろう。新しいアイデア、特に生活を安楽あるいはより良くするアイデアの考案者たちが、そのアイデアを無償で多くの人々に提供しようと考えるとは限らない。中には、そうする人もいるだろう。だが、そうでないなら、人々に自分のアイディアを開発したり、普及させようという気を起こさせるきっかけがほとんどない。

だから、技術革新への報酬は良いものでありまた必要である。そして人類が、人間社会の早い時期に、技術革新への報酬の仕組みを確立していた可能性は高い。

しかし、一定期間、製造・販売の独占権を付与するという形式を踏まえた法的概念は、1421年、フレンツェ共和国がある発明に対して個人への特許権を認めたことに始まるだろう。それから半世紀余り後の1474年、ベネチア共和国が世界で最も古い成文化された特許法を施行した。

英国は、特許権に関して最も豊かな歴史を有している。イングランド特許局は、英国が「世界最長の継続した特許慣習」を有していることを、誇らしげに主張している。特許権の利点と欠点をめぐる現在の論争は、16世紀・17世紀イングランドの思想家たちになじみのあるものだった。エリザベス一世は、英国にそれまでなかった産業に独占権を付与した。競合する事業を興そうとする人々は、このシステムに異議を唱えた。1623年、独占に関する法は排他的権利の付与を非合法とした。しかし、唯一の例外があった。発明は例外とされた。発明者は14年間の排他的権利を付与された。

今日、新たな発明に対して、ヨーロッパおよび南アでは、最短20年の特許が付与されている。米国では、特許期間が25年となっている。医薬品に特許が付与されていると、特許権者は、市場への独占的販売権を持ち、相手を選んで医薬品を販売したりライセンスを与える権利を持つことになる。

ファイザーは、1982年6月1日、米国でフルコナゾールに対する特許保護を申請した。その特許は1983年9月13日に認められ、2005年7月3日に失効する。この期間、ファイザーがフルコナゾールに対する特許保護を登録した国々においては、ファイザーのみがフルコナゾールを商業的に活用する権利を与えられている。この結果、特許薬ジフルカンの値段は高くなった。そうならざるをえなかった。経済は物理学とは違い、不変の法則を持ってはいない。しかし、一つ予測可能な結果をもたらす法則がある。それは、独占は価格をより高くするという法則だ。タイでは、フルコナゾールを販売するいくつもの企業の間で競争があった。南アそして多くの途上国そして先進国では、ファイザーのみがフルコナゾールを販売することができた。その結果が、相当に高い価格であった。逆に、競争は価格を低下させていく。必須医薬品の場合も同様である。

ファイザーは、南アでフルコナゾールの特許登録をしている。しかし、タイでは特許保護を得ていない。他のアジアの国々においても得ていない。このことが、クリストファー・モラカの死という劇的な結果をもたらしたのだった。

クリストファー・モラカの死そして彼が証言の場で見せた決然たる勇気は、TACに南アの特許保持者であるファイザーに対してフルコナゾール価格引き下げを促すキャンペーンを開始させた。ヴィッツヴァタースランド大学エイズ・ロー・プロジェクト代表のマーク・ヘイウッドが、キャンペーン参加者を代表してファイザーとの交渉を開始した。ファイザーは、最初、限定的な申し出をした。クリプトコックス髄膜炎で苦しむエイズ患者に薬を提供するという申し出だった。しかし、2000年10月まで、この寄付に向けての進展は、まったく見られなかった。

ファイザーは、フルコナゾールに関する排他的な南ア特許を緩和したくなかったのである。しかも、ファイザーは、南アの市場に出ているフルコナゾールの価格引き下げも望んでいなかった。南アにおけるフルコナゾール販売は非常に利益が上がっていた。加えて、経営陣には、南アのキャンペーン参加者たちになんらかの譲歩を行えば、世界の他地域での彼らの地位に影響が及ぶのではないかという懸念もあったことだろう。

キャンペーンが行き詰まりを迎える中で、TACは、初めての市民的不服従キャンペーンを計画するようになった。このキャンペーンには、クリストファー・モラカの名が付けられた。クリストファーの死から余り日のたっていない2000年8月のある夜、5人のケープタウンで活動する治療実現活動家がTACメンバーであるディーナ・ボッシュの家に集まった。彼らは、TACに賞賛だけでなく悪評ももたらしかねない大胆なキャンペーンの概略を立てた。

南ア憲法の下で働く裁判官として、私は憲法と憲法に定められた人権を支持し守り、また憲法と法に基づき怖れも情実も偏見もなく全ての人々を裁くことを誓ってきた。貧しい人々への治療実施を可能にしたいと強く願っていても、私は、特許法を含む南アの法を公然と無視するキャンペーンを考えることにも計画することにも加わることはできないし、また加わったりはしない。同様に、私は、表立っても、暗黙のうちにも、そうしたキャンペーンに手を貸すこともできないし、しないだろう。治療実現運動に関わる友人たちは、このことを知っていたし、私の立場を尊重していた。だから、彼らの活動については、私も他の南アの人々と同様、その後に起きた劇的なできごとを密着取材したメディアを通して読んだのだ。

この服従拒否キャンペーンによって、TACは、貧しい人々の延命薬へのアクセスを拡大するという断固たる決意をはっきりと表明した。このグループは、ファイザーの特許権に挑戦してジェネリック・フルコナゾールを南アへ輸入しようと決めたのだった。ジェネリック薬は、特許の定める規定に基づいて製造されている。しかし、それらは、特許薬の名前で販売されることはない。このグループは、海外でファイザーではない製造者によって製造されたフルコナゾールを入手して輸入し、ファイザーが南アで持つ排他的な権利を侵害して国内で配布しようと望んだのだった。

このグループは、いくつかのジェネリック薬製造者が製造したフルコナゾールを注意深く検討した。安全で、有効で高品質であることが実証できるフルコナゾールでなければならなかった。最終的に、彼らはバイオゾールと名付けられた製品に決めた。タイの企業、バイオラブが製造していた。同分野の専門家たちの追試も受けた、ある医学専門家の調査によると、バイオゾールは、ファイザー製のジフルカンと全く同等の製品であった。加えて、世界保健機関(WHO)がバイオラブの製造施設は工業的水準を満たしていることを証明していた。さらに、バイオゾールはアジア諸国でたいへん広範に使用されていた。そして、パリに本拠を置く1999年度のノーベル平和賞受賞団体で、TACと密接な協力関係にある国境なき医師団も、バイオゾールを勧めた。

ザッキー・アハマットをタイに送る旅行の準備が整えられた。彼はそこでバイオラブ首脳と会い、食道カンジダ症やクリプトコックス髄膜炎によってクリストファー・モラカのような不必要な死を迫られている人々が利用するに十分な、大量のバイオゾールを輸入することが現実的かどうかの判断をすることになった。ザッキーのかつての恋人で、現在はハウスメイトでありプロの映画製作者であるジャック・ルイスが、この旅を記録するために同行した。

2000年10月17日、アハマットとルイスは南アへ帰国した。彼らはジョハネスバーグ国際空港の税関をすんなり通りぬけた。アハマットのバッグの中には、3000カプセルのバイオラブ製フルコナゾールがあった。アハマットは1カプセルわずか2ランド(当時、約25セント)で入手してきた。それは、ファイザーが民間医療機関に請求している価格1カプセル80ランドの40分の1だった。そしてファイザーの南ア政府への納入価格の14分の1以下だった。ファイザー製品が、この廉価版に比してより安全、より有効、より便利というわけではなかった。

その翌日、TACはクリストファー・モラカ不服従キャンペーンを広報する記者会見を開いた。この名称は、南アの反アパルトヘイト闘争の豊かな歴史から取られたものだ。1950年代、黒人たちと一部の自由主義者や社会主義者の白人たちは連帯して、不服従闘争を闘った。それは、黒人が都市に住むためには居住許可を得ることを強い、許可のない黒人たちを大きな苦難と体系的な迫害によって都市から追い出し、貧しい農村地帯に住むことを余儀なくさせた屈辱的なパス法に反対する闘いだった。

この偉業は、何日間も国内メディアの注目の的となった。国際的メディアの反響も大きかった。アハマットと製薬産業界代表との間で論争が始まった。南アの人々は、価格の違い、特許法の影響、そして薬品を入する条件が異なることについて知らされた。人々はまた、製薬企業が稼ぐ巨額の利益についても知った。1999年、クリストファーが証言しそして死んでしまった年の前年、フルコナゾールは、世界中で10億200万ドル以上の収益をファイザーにもたらしていた。

当時、TACは、2年前に設立されたばかりの、わずかな予算で運営される若い団体だった。TACが法律的な助言を受けて行動するのはめったにないことだった。というのも、法的助言を受けるには多額の費用が必要だったからだ。その結果、TACが計画したキャンペーンには、重大なミスがあった。彼らはファイザーを標的に市民的不服従行動を行った。そうすることで、ファイザーの特許だけに焦点をあてようとした。アハマットの行動が侵害しているのは特許法だけであり、従ってアハマットに対する法的報復措置を執るのはファイザーだけだと、考えたのだった。

この考えは間違っていることが判明した。活動家たちのプランは、アハマットの行動が登録されていない医薬品の輸入に関する南アの法律を侵害している事実を見逃していたのだった。医薬品管理法の規定では、非合法の医薬品輸入に対して、最長10年の収監を命じる判決もあり得る。フルコナゾールの密輸を明らかにすることになってしまった記者会見の数日後、ケープタウン・ムイゼンバーグのアハマットとルイスの住む家へ警察がやってきた。

しかし、社会的雰囲気がアハマットに味方したようで、起訴はされなかった。医薬品の品質管理と輸入を法的に規制している医薬品管理評議会は、HIV専門家であるスティーブ・アンドリューズ博士に、TACと協力し、アジアでの製造価格でバイオゾールを継続して輸入することを許可するという特例を与えた。TACはバイオゾール輸入を継続した。また、国境なき医師団と共に、特許を侵害して抗レトロウイルス薬(ARV)輸入も開始した。しかしこの時には、最初の失敗を繰り返さなかった。

人々の理解と認知を変え、不服従キャンペーンは大きな成果を収めたようだった。活動家たちの挑戦を受けて、ファイザーは社会的に非常に困難な立場におちいった。事実は明白だった。そして、特許保護、医薬品価格そして貧しい人々の不必要な死をめぐる論争にとってその事実が意味することはより明白だった。バイオラブ製バイオゾールとファイザー製ジフルカンの価格差は、否定しようもないくらい圧倒的だった。その差は南アにおいて忌まわしい苦しみを引き起こし、多くの命を奪っていた。製造コスト、販売費用、研究開発投資があるからといって正当化できるようなものではなかった。

TACが望んだことは、ファイザーがジフルカンの価格をすぐさまに引き下げることだった。でなければ、ファイザーが特許条項を緩和し、別の製造業者が南ア国内でジフルカンのジェネリック薬を製造できるようにすることを望んだ。ファイザーはいずれも拒んだ。しかし、バイオゾール密輸というドラマチックなできごとの後、ファイザーは南アの公的医療機関で使用するために大量のジフルカンを贈与することに同意した。これは重要な一歩であり、また賢明な公共精神を示す企業の行動であった。ファイザーの決定は、他の貧しい国々にも恩恵をおよぼした。現在、ファイザーは、最もエイズの被害を受けている国、25カ国の987の治療機関にジフルカンを無償で提供している。

クリストファー・モラカ・キャンペーンの成功は、フルコナゾールのみにとどまらなかった。富裕な人々とほとんど何も持たない人々との間の医薬品入手の不平等さが人々の目にさらされたのであった。クリストファー・モラカの死によって劇的に浮き彫りにされた、第三世界の数百万もの人々の生命と健康に影響を及ぼす問題が、多くの国々で討議されるようになった。エイズによって最も被害を受けている国々に対し、他の巨大製薬会社も医薬品贈与あるいは低価格での提供を行うようになった。

今日、ファイザーの贈与のおかげで、南アの3000の公的医療機関のうちフルコナゾールを経常的に支給されている機関は、400以上を数える。けれども、公的医療機関の多くは、未だフルコナゾールを入手できないでいる。従って、状況は満足からはほど遠い。しかし、以前より多くの人々がフルコナゾールを手にしている。簡明な実際的なことばで言えば、多くの生命が救われている。そしてたくさんの苦しみと不快が避けられている。クリストファー・モラカ不服従キャンペーンがなかったら、こうはならなかっただろう。

しかし、特許権強化という、より大きな問題が残っている。この20年間、途上国へ特許法施行を要求する圧力が強まり続けている。これによって世界貿易機関(WTO)の知的所有権の貿易関連の側面 に関する協定(TRIPS協定)を頂点とする一連の国際協定が結ばれた。HIV感染の拡大が途上国に大きな被害を与えていることから、生命を救う医薬品に関する排他的特許強化は最も激しい国際的な論議の対象となった。

TRIPS協定は、1994年4月15日、マラケシュで調印された。この協定は、WTO加盟国(現在140以上が加盟)に段階的に最小限の知的財産権保護施策を実施することを義務づけている。すでに多くの先進国は、TRIPS協定に対応、もしくは国内法制に応じて若干の修正を加えた知的財産権保護を実施している。

多くの途上国にとって、立場は大きく違う。多くの途上国は実質的な改変を導入しなくてはならない。TRIPS協定対応措置導入の最終期限は、対象国が「途上国」であれば2000年1月1日、「後発開発途上国」であれば2006年1月1日となっている。TRIPS協定が途上国に何を要求すべきかという論議から、2001年11月カタールで閣僚が会合し重要な交渉が行われた。果てしない会合の後で、共同声明「ドーハ宣言」が発せられた。この宣言によって、後発開発途上国のTRIPS対応期限は2016年まで延長された。その後さらに延長することも可能である。途上国は、画一的な特許法の厳格な施行を求められる前に、息継ぎをする機会を得たのだった。

TRIPSの現行規定の中には、エイズなどの公共の緊急事態を含むある種の状況下では、政府が特許権者に競争を強いることができるという仕組みも定められている。この仕組みは、政府あるいは裁判所に特許権者の許可なく特許で保護されている製品を製造する許可を与えることを認めている。これを強制特許実施と呼ぶ。この権力が行使されたら、製薬企業は競争者に特許薬のジェネリック製品製造、輸入、販売を許諾することを強いられるのである。ドーハ宣言はまた、知的財産権をめぐる論議においてきわめて重要なことを概括的に表明した。宣言は、「TRIPS協定は、人々の健康を守りすべての人々の医薬品アクセスを促進するように解釈され、施行されなければならない」ことを確認した。これは、世界保健機関(WHO)が広く提唱し前進させてきた原則、すなわち、WTO加盟国の人々の健康を守り医薬品アクセスを拡大するためにTRIPS協定のセーフガードを最大限利用する権利を公的に明記したものである。

法的には、医薬品の特許は新しいハイテク家庭用品の部品の特許と(全く同等ではないものの)同じようなものである。そして、生命を救うために必要なわけではない(バイアグラのような)医薬品の特許に対する法的保護と、生命を救う(AZTのような)ARVの特許保護も、全く同じではないはないけれど、同じようなものである。

現在の医薬品特許制度を批判する人々は、技術革新が報われなければならないことは認識している。新薬を開発した企業は報われるべきこと、そして企業が新機軸を打ち出すことを奨励されるべきことに疑問の余地はほとんどない。また、企業は調査・開発のリスクおよびコストを補償されなくてはならない。

しかし、論争の焦点は特許権を適切に付与し強化する基盤となっている法的概念とその仕組みそのものである。法律は特許を、知識を使う排他的な権利、ある種の財産権=「知的財産権」と規定している。しかし、基本的な点で、「知的財産権」は他の法的保護を受ける財産権とは違っている。従って、特許権を土地所有権のような伝統的な財産権と同等に扱うことは誤解を招く。一つには、土地や他の資産は有限である。そして攻撃を受けやすい。たいていの持ち運び可能な財産は破壊される可能性がある。対照的に、知識は時間にも空間にも縛られない。無限に複製することができるし、破壊されることはない。

ある人が所有する限られた食料、シェルターあるいは土地を、他者が所有することはあり得ない。所有の排他性は、他者を排除するために、暗示的であれ明示的であれ権力を必要とする。しかし知識は全く違っている。あるアイデアが広く知られたら、それを利用するにはどんな権力も必要ない。知識は無形であり、また複製可能である。従って、知識は、複製されることによって強権的手段なしで利用されやすい。

知識に排他的な財産権を設定し、希少価値を創出することによってのみ、知識は限定された財産へと転換される。知識が商品の状態に取りまとめられて初めて、知識は対価を求めることができる。しかし、他の形態の財産と違い、希少価値は物理的なものではない。希少価値は国家が施行する法律によって創出されている。なので、特許権は他の形態の財産権ほどに説得力があるとは言えない。

HIV/AIDS治療に必須の医薬品の特許に異議を申し立てる、さらには侵害することは正当化されるのだろうか?治療実現活動家たちの回答は特許権の特殊な法的性格に根拠を置いている。特許権は公衆の便益のために創出された。国家は限定された法的独占権を発明者たちに付与することにより、彼らが発明を実用化するのを促す(そうすることで発明者たちは発明のために費やした努力に対する金銭的報酬を受け取ることができる)という理論である。

しかし、現在の特許権拡大強化を主張する人々が、上記の理論の核心にある公衆のための便益を強調することは、あまりない。従って、エイズ治療薬入手における重要な問題は、特許保護がなされるべきかどうかではなく(この点については全ての人が合意している)、特許保護があまりに強くなってしまっているかどうかなのである。つまり問題は、特許保護システムの前提となる公衆の便益、そして余りにきびしい特許保護の結果としての恐るべき苦しみや死を考慮した時、特許権者が特許によって得ている利益があまりにも巨大すぎるのではないか、ということなのだ。

製薬産業は、自身の地盤を守ろうとしているだけでなく、積極的に世界中で潜在的な地盤を広げようとしている。2000年に異常な事件が起きた。英国の巨大製薬会社グラクソ・ウェルカム株式会社が、インドの製薬会社シプラがガーナで、ジェネリック薬(AZTとラミブジンの二剤一錠薬で、グラクソ・ウェルカムが「コンビビール」という商品名で販売している薬のジェネリック版)を供給するのを、阻止しようと試みたのだ。グラクソ・ウェルカムは、ガーナでコンビビールを特許登録していないにも拘わらず、阻止を試みたのだった。

しかも、ややこしいことに、現行の国際的システムでは、とりわけ2001年のドーハ宣言以降、途上国は自由裁量の余地を与えられているにも拘わらず、現時点で、途上国がこの自由を全面的に活用しているとは言えないのだ。たとえば、TRIPS協定が緊急事態に対して定めている強制特許実施を現にやり遂げた途上国はない。問題は、製薬産業、米国政府そして欧州諸国政府が、強制特許実施を実施しないように大きな圧力をかけていることだ。

南部アフリカでは、モザンビークとジンバブエがARVに関し強制特許実施命令を発した。しかし、モザンビークが強制特許実施の対象とした医薬品が実際に特許登録されているのかどうか定かでない。またジンバブエの保健医療システムは、同国の法的システム同様、近年同国政府が法による支配を踏みにじってきたことによって、ひどく損傷している。その結果、ジンバブエにおいて強制特許実施命令はほとんど無意味であり、世界的な前例にもならない。マレーシアも強制特許実施命令を発した。しかし、特許権者に留保される特許料額が法廷で係争中である。従って、この命令もまだ実施されていない。このように、すべての人々が承認し現行の国際法規が特許権強化に対する公衆保健上の緊急事態において認めている例外措置を実施しようとする動きは非常に遅い。

製薬産業には、資金をたっぷり持った雄弁な特許権保護主張者がついている。彼らは特許権保護を主張しなくてはならない。というのは、大金を含む多くのものに関わる問題だからだ。ジョージ・W・ブッシュ大統領の通商代表ロバート・ゼーリックは、現行のシステムの強力な弁護人の一人だ。(ある種の留保を持ちつつも)EU通商代表パスカル・ラミーも同様だ。(Africa Fighting Malariaやthe Inter-region Economic Networkのような)一部のNGOも、特許権保護強化を求め、強制特許実施に反対する一連の論議に参加している。

製薬企業に生命を救う新薬開発を継続していこうという気を起こさせるためには、製薬企業は研究開発コストを回収できなければならないという主張は、説得力がある。開発を促進するために特許保護強化が必要だ、国際的な特許保護を強化したからといって、貧困によってすでに貧しい人々の生命を救う医薬品の入手が困難になっている状況がさらに悪化するわけではない、というような主張はそれほど妥当とは言えない。

新薬開発のための研究開発費が巨額であることは間違いない。製薬企業が、数百万、数億、あるいは数十億を新しい治療法、治療薬の開発に投入しても、結局はものにならないこともあり得る。しかし、そういった失敗の危険性があるからといって、過剰な特許保護を正当化することはできない。

エイズによる数百万の死に対処しなければならない貧しい国々による強制特許実施が技術革新を阻害するわけでもない。AZT、ddi、ddC、d4TそしてアバカビールなどたくさんのARVの研究開発には、米国の税金による巨額の公的支援が投じられた。これらの医薬品は、大学や連邦政府のさまざまな疾病研究機関などの公的機関で開発された。必須医薬品の多くについて同じことが言える。

加えて、製薬企業は研究開発支援のために巨額の免税措置を受けている。これは製薬企業が研究開発費について語る際に一種の補助金として考慮に入れるべきである。

1988年、US National Cancer Instituteは、新薬が人に効果があるかどうかを最終的にテストするフェーズ3を終えるまで、230万米ドルから600万米ドルを費やしたと見積もった。この見積もりが、1988年以降アップデイトされはしたが、製薬企業のコスト計算の基礎とされている。この方程式に、企業が他のことに資金を投入していたら得られたと思われる利益、すなわち「機会費用」と新薬開発に失敗する危険性も組み込まなくてはならない。

製薬企業は、新薬開発に8億米ドルを投入すると主張している。とはいえ、製薬企業はこの主張を裏付ける情報を公開していない。8億米ドルという額は、タフト大学の研究チームが彼らにのみ開示された特権的情報をもとに算出したものである。したがってこの8億米ドルという額は論議の対象となっており、疑わしいものである。だが、この主張が正しいとしても、研究開発をめぐる論議とは別の問題がある。製薬企業は、新薬開発のために巨額の利益が必要だと主張する。けれども、製薬企業が得ている利益はすでに途方もないものだ。「Fortune 500」、「Fortune 1000」というFortune誌による米国のトップ企業リストがある。2002年の「Fortune 1000」で、製薬企業は、金融機関に次いで販売高に対する利益率(売上に対する利益)が高かった。これは利益率を測る最も明白な方法だろう。というのは、これによって全ての規模の企業の利益率を比較することができるからだ。生命を救う薬のような商品の、売上に対する利益が大きいことは、利益幅が通常以上だということを証明している。

2002年、「Fortune 500」に収録された製薬企業の平均利益率は17%だった。この数字は、「Fortune 500」に収録された全企業の利益率の中央値の5倍以上だった。英国に本拠を持つグラクソ・ウェルカムの利益率は31%だった。上記「Fortune 500」企業平均利益率3.1%の10倍、「Fortune 1000」に収録された製薬企業19社の平均利益率16%の倍だった。メルクの2002年の利益率は14%で、「Fortune 500」企業平均の4倍を超えていた。同年のメルクの利益は510億米ドルであり、南ア共和国政府の年間収入を超えていた。

こうした争いようのない事実が示唆していることがある。主張されている研究開発費という重荷にも拘わらず、製薬企業は利益率が高いということである。アフリカにおける病気と死をめぐる論議を余りにも悲痛なものにしているのが、製薬企業の利益規模の大きさなのである。

サハラ砂漠以南アフリカでの製薬企業の売上は、世界市場の1%をちょっと超えるに過ぎない。その多くは、アフリカ最大の繁栄する経済を持つ南アにおける売上である。他のアフリカ諸国が製薬企業に必須医薬品製造の強制特許実施を命じたとしても、製薬企業の利益にはほとんど影響はないだろう。

いずれにせよ、強制特許実施にも通常、特許料支払いが生じる。南部アフリカの大きく、しかも拡大するARV市場を考えれば、強制特許実施によって市場としてなりたちうるようになるのであり、そこで、ジェネリック薬販売によって5%の特許料が支払われたとしたら、それは特許権者に相応の安全な利益をもたらすはずである。

現行の特許保護強化の仕組みでは、製薬会社が、先進国の豊かな人々のための必須とは言えない不能治療やはげ治療ではなく、途上国のたいして調査も行われていない病気のために資金を投じようとする動機を与えることができない。

特許保護はすべての人々にとって必要であり、すべての人々にとっての利益である、と提唱する人々もいる。この人々の主張は、以下の通りである。特許は発展しようとする全ての社会にとって必要であり、知的財産権保護を実施する国々は成功と経済発展という見返りを得るが、特許保護をしなければこうした利益を手にできない。このような主張は、要因の相互関係を見誤らせる。(マレーシア、タイそして現在は中国が好例だが)特許を尊重しなくとも、多くの社会が急速に発展してきている。逆に、南アの特許保護は先進国並に厳格であるのに、南アは、何十年にもわたって他の途上国を成長と発展において凌駕してきたとは言えない。

最近の学者の研究によると、19世紀のスイス、デンマーク、オランダでは、特許保護の不在こそがいくつかの最良の発明を促したという。産業革命の際、現在では際限のない特許保護強化を全世界で求めている米国が、特許で保護されていない英国の発明をコピーして利益を得たことは間違いない。

TRIPS協定が世界的な特許保護を緊急の優先事項とするまでは、それぞれの国が発展をとげ、影響を持った発明家たちが発明の保護を陳情する段階にいたった時に、特許権が導入されてきた。しかし、特許保護が経済発展の必然的結果であると確信できる証拠があるわけではない。インド、中国などの国々は医薬品生産のための原材料を大量生産する競争力を持っている。彼らの比較優位は特許保護のレベルにあるのではなく、他国に比してより安価に複製する能力にある。先進国はより熟練した(その分、より高賃金の)労働力を持っている。先進国は、世界中で安価な複製を妨げる特許法を強化することで利益を得られる。この闘いが白熱している間、アフリカの貧しい人々は、クリストファー・モラカのように不必要な苦しみを強いられ、避けることのできるはずの死を迎えさせられるのだ。

特許を世界中で均一に通用させるべきだとする人々は、貧困国において救命薬へのアクセスを妨げている壁は特許ではなく貧困であると主張する。だが、この言い分はまったく説得力に欠けている。言うまでもなく、貧困国の貧しい人たちには、薬を買うお金が無い。それが彼らの根底的状況だ。けれども、あまりにも杓子定規な特許権の行使により救命薬の値段はさらに上がり、貧しい人たち、そして、もっと値段が安ければ彼らに薬を提供することができるかもしれない貧困国の政府の手が届かないものにしている。

それに、行過ぎた特許権保護が貧困国におけるエイズによる死の唯一の原因である、などとは、誰一人、言っていない。医薬品の値段を下げるためには特許問題を解決する必要がある。だが、それだけですまないのは、明らかだ。ジンバブエはジェネリック薬の生産および輸入に関する強制特許実施を命じている国だが、保健医療システムは危険でひどい状態にある。良好な統治能力、法の原則の尊重、機能良好な経済が無ければ、ARVに関する強制特許実施も、掛け声だけの大衆迎合主義に終わってしまう。

このようなことも問題であるのは明らかではあるが、多くの救命薬が、貧しい人たちと貧困国の政府にとってあまりにも高価すぎる主要な原因のひとつは、特許により保護され、独占価格で販売されていることである。貧しい人たちが治療にアクセスできないようにするもうひとつの壁を、特許が、築いてしまっている。

確かに、過去6年間に、救命薬、特にARVの価格は、大幅に低下した。その原因のひとつになったのは、ARVの値段を下げるために治療活動家たちが行った画期的な闘いであった。このおかげでジェネリックARVと特許を得ているARVとの値段が縮まった。

1997年11月、私がエイズで重病となり、三剤併用療法を始めたとき、医者はD4T、すなわちゼリット(AZTタイプの薬)、ラミブジン(商品名は3TC)、そしてノービアという商品名のタンパク質分解酵素抑制剤を処方した。この三薬4週間分に4000ランド近くかかった。判事の給与を得ていても、これは月々の費用として膨大なものだった。前にも書いたことだが、当時は、ARVは判事の医療保険で保証されていなかった。壊滅的な費用のため、またこれよりは小さな理由だが副作用が続いたこともあって、18ヶ月後にはタンパク質分解酵素抑制剤は摂らないことにした。医者は三つ目の薬として別のタイプの薬を試すべきだと決めた。 そこで、私は、非ヌクレオチド系逆転写酵素阻害剤(NNRTI)である、ネビラピンに切り換えた。グラクソ・ウェルカム(現在のグラクソ・スミスクライン)がAZTと3TCの一錠薬を市場に出した時、値段がずっと下がった。

私は、この処方(AZT/3TC一錠薬とネビラピン)を、医者が私のウィルス量の「ブリップ(一時的変動)」に必要以上に驚いて、別のNNTRTIであるストクリンを処方した短期間を除いて、これまで4年間以上、続けている。私の現在の処方は、一か月に700ランド(現在の米ドルで換算して110ドル)かかる。完璧なジェネリック薬処方は月額約300ランドから400ランドで市販されている。こういった廉価製品も今後2〜3ヶ月後にはもっと安くなると見られている。南ア政府は、ある良質のジェネリック薬を現在月100ランドで入手している――こんなに入手しやすい値段になるなど、2、3年前には想像することすらできなかった。途上国の600万人あまりのHIV陽性者は、このような治療を受ける必要がある。だが、このうち、現在、医薬品を入手できているのは、8%未満(50万人ほど)に過ぎない。途上国内でも、ラテンアメリカでは84%が薬を入手しているのに対し、アフリカでは2%そこそこにとどまっている。HIV陽性者の三分の二以上がアフリカに住んでいることを考えれば、この瞬間にも600万人近い貧しい人々がエイズで死にかけていることになる。患者の健康状態を管理することが出来る医薬品が存在し、比較的安価で製造可能であること思えば、これは不必要な死と言える。死を避けるために救命薬の入手を拡大しようという闘いは、道遥か、なのである。

とはいえ、貧しい人々にARVを供給することに関する途上国のサクセス・ストーリーはある。ブラジルは人口1億6500万人を超え、領土的にも人口的にも世界第5の大国である。国民一人当たりの国民総生産は、南アと似たようなもので、南アと同様、所得配分は非常に不平等である。何百万人もが貧しい暮らしをしているのに対し、少数の人々は北米や西ヨーロッパ並みの豊かな環境で暮らしを楽しんでいる。

経済的制約にもかかわらず、ブラジルは模範的治療プログラムを実施している。ブラジルでは10万人以上にエイズ治療薬が投薬されている。国境なき医師団によると、治療プログラム導入以来、エイズによる死亡は半数に減っている。この結果、UNAIDSは、ブラジルを「ベスト・プラクティス(最優秀事例)」としている。ブラジル政府はまたエイズによる深刻な影響を受けている他の国に、知識と医薬品の譲渡を申し出ている。

UNAIDSの見積もりによるとブラジルのHIV陽性者は約66万人に上る。南アと同じように、陽性者のほとんどは貧しい人たちだ。とは言え、400万から500万人という南アの陽性者数と比べれば、ブラジルの数はごく少数に思える。女性の間で陽性者が増えているとはいえ、現在のブラジルの陽性者は、男性が女性の2倍を数える。ARVを提供するというブラジルの政策を実現に導いたのは、ジェネリック薬製造に向けた政府の多大な投資である。

この政策は目ざましい成果を挙げてきた。1996年から2000年までにARVの値段は平均72.5パーセント低下した。輸入薬の値段も下がったが、値下げ幅はずっと小さい。輸入薬の値下げ幅は平均して9.6パーセントにとどまった。いまでは、10万人以上のブラジル人が治療を受けている。大都市におけるエイズによる死亡は約50%減少した。HIV陽性者の生活の質が著しく改善されたのは、言うまでもない。

ブラジルのプログラムが成功したのは、活気のある活動家のコミュニティがあるからであり、また、ブラジル政府がプログラムを成功させたいという意志を見せているからだ。このような対応は、単に政府やエイズのために働くNGOを超えている。UNAIDSの「ベスト・プラクティス」パンフレットである「HIV/AIDSへのブラジルの対応」には、「この感染症に対する市民社会の反応をエイズ関連NGOの直接行動に限定するのは、公平を欠いていると言わざるを得ない」と書かれている。20年近くもの間、労働組合、慈善・宗教団体、大学の研究センター、NGOなど、ブラジル社会のさまざまなセクターが、HIVとの闘いにおいて密接に協力してきた。

南ア憲法裁判所が2002年7月、生まれてくる赤ん坊のHIV感染リスクを制御するため、HIV陽性の妊婦にARVを入手させるよう政府に命じた時、裁判所が頼みにしたのもこのような社会の協力だった。

そこには、「本国が直面しているエイズ危機の規模は多大であり、一致団結し、よく調整された国家的協力が求められる。その努力において、政府と市民社会の人的資源と技能が三つのそれぞれの分野において、動員され、活気を与えられ、指導されなければならない」 と、書かれている。このようなことは、適切なコミュニケーション、特に政府によるコミュニケーションがあってこそ、達成可能だ。判決は、さらにこう続く。「当裁判所は、「治療へのアクセスを得る」という目標達成のために取る措置に、コミュニティのあらゆるセクター、特に市民社会が協力することが重要であると考察する」。

 だが、政府の意志と国民の協力があっても、貧しい人たちのARVの入手が保証されるとは限らない。ブラジルの努力に対し、2001年、アメリカ合衆国はWTO(世界貿易機関)に、ブラジルの1996年の知的財産権に関する立法に対する苦情申し立てを行って、横槍を入れた。この法規は、ブラジルをTRIPS協定と一致させようとするものだった。特許権者がブラジル国内で特許製品を生産していない場合、ブラジルは特許強制実施を命じることができ、特許権者はブラジルがそうすることを経済的にも法律的にも停めることはできないという条項に、米国政府は不満だった。

WTOでブラジルはこの条項の導入を主張した。ブラジルが依拠したのは、TRIPSがデリケートなバランスを意味しているという主張、そして、特許保護のレベルを強化しようとする米国の試みはこのバランスを動揺させる恐れがあるという主張だった。ブラジルは、米国がブラジルのエイズ・プログラムに水をさそうとしようとしているのではないかと言う疑問を呈しさえした。結局のところ、この法律は1996年に制定されたものであり、WTOへの米国の遅まきながらの訴えは、ブラジルのエイズ・プログラムが世界最高の実践模範として国際的に焦点を当てられ、製薬会社に値段削減の圧力が増したのと軌を一にしていた。

米国の申し立てが意図した本当の脅威は、そのぞっとするような効果にあった。地元での生産を許可するブラジルの法律がかくも断固たる米国の反発を引き起こすとしたら、途上国に、強制特許実施によって製造された薬を輸出しようなどという大それた考えは思いもよらないものになるかに見えた。

ブラジルの強制特許実施に対する米国の挑戦は、活動家たちを世界的な連帯行動へと駆り立てた。

この動きはまた、40社の製薬会社が南ア政府に対して行った訴訟が引き起こした反響とも軌を一にしていた。南ア政府は1997年に、平行輸入を許可し、薬の供給プロセスにおける非生産的な誘引を取り除くことにより薬の値段を下げるための法を制定したのだが、これはそれに対抗する訴訟だった。4年間というもの、この法は足止めをくらい、南アは貿易上の処罰も引き起こしかねない米国のブラックリストに載せられたのだ。

南ア政府と製薬会社の法廷闘争は、TACが争いに参加するまで、手詰まり状態になっていた。TACはプレトリアの最高裁に法廷助言者〔「法廷の友」アミカス〕の地位を与えてほしいと申請し、この訴訟に関して証拠と論拠を提出すると申し出た。これにより、AIDS Law Projectのマーク・ヘイウッドが言うように、無味乾燥な法律論争が、人命にかかわる問題に変わった。南アのメディアはこの訴訟を大々的に報道した。抗議行動が増すにつれ、世界のメディアも注目し始めた。

2001年3月5日、ブラジルと米国、南ア、ヨーロッパ、アジアで抗議のデモがくりひろげられた。デモ参加者は、製薬会社が南アの立法に対する法廷を使った挑戦から手を引くように要求した。彼らはまた、WTOにおける米国のブラジルへの苦情申し立てにも焦点をあてていた。法施行を支持するデモから6週間後に、南ア最大の労働組合であるCOSATUが数千人の組合員と共に行動に加わり、南アでの動きは頂点に達した。4月19日、製薬会社は南ア政府に対する訴訟を取り下げ、両者は和解を発表した。政府は特許権の尊重を保証したが、法を手直ししなかった。

世界中でこれは、治療へのアクセスの増加であると共に、エイズ活動家と南ア政府の勝利として歓迎された。たとえわずかであろうとも、治療を得られない人々と製薬会社との力関係が変化したように思われた。

米国のブラジルへの苦情申し立ても治療アクセス拡大を支持する方向で決着がついた。万一ブラジルが条項を発動しようと決めた場合、ブラジルは米国による特定の必須条件をかなえるよう約束するという条件付きではあったが、両者はブラジル国内で適用されている条項を継続させるという合意に達した。

ARV治療をHIV陽性者の手に届くようにするというブラジルの成功は、政治的意志、製薬会社の適応力、アクティビズムの歴史、そして世界銀行による多額の融資の成果だった。ブラジル政府と市民社会団体との堅固な協力も決定的に重要な意味をもった。これは、2001年以後の南ア政府のアプローチと悲劇的な対照をなしていた。ブラジル政府と活動家たちとの関係に摩擦がまったく無かったわけではないが。

けれども、南アとの対照には、心痛むものがあった。ブラジルには、和解し、お互いを認め合い、協力する精神がある。

それ以上の要素もあった。ブラジルはTRIPSの遵守に着手した1997年まで、医薬品に特許を与えていなかった。この遅れた出発により、製薬会社はARVのジェネリック薬を製造することができたのだった。

ブラジルは、より新しく特許を得た薬に関して強制特許実施を行使すると脅しをかけはしたが、実際に行使したことはない。行使の可能性を示すことで値段が下がったのだ。ブラジル政府は、ブリストル・マイヤーズ・スクイブ、ロシュ、アボット、メルクが製造する薬品に関して、強制特許実施を行使すると脅した。その脅しを受けて製薬会社はいくつかのARVの値段を下げることに同意したのだ。

製薬業界の南ア政府に対する法廷による挑戦への2001年のTACの介入は、1997年の法の保護のために彼らが一役買ったとして功績を認められるにふさわしい行動だった。ところが、保健大臣のチャバララ・ムシマンは、TACの役割を認めようとしなかった。そして、この法廷での勝利により政府がARVプログラムを導入できたということを否定した。これが、TACとの長くいつ果てるともない対立の引き金になった。悲惨なことにこれは、現在にいたるまで尾を引いている。

タイもまた、特許と医療へのアクセスに関して力強い取り組みを体験してきた。2004年初め、3年にわたる活動家グループとの数多くの法廷闘争の末、ブリストル・マイヤーズ・スクィッブ(BMS)は一般に使われているARVである、ジダノシン(ddi)の特許を、「タイの人々」に返還することに同意した。 BMSとHIV陽性者タイ・ネットワーク(TNP+)、エイズ・アクセス財団、消費者財団が、知的財産権と国際的通商に関する中央法廷において合意した。活動家たちは、勝利は企業の予想を超えた博愛心のおかげではなく、困難な努力によりもたらされと強調したが、当を得たことだった。救命薬の入手を改善しようとする凝縮された戦いが勝利をもたらしたのだった。

南アでも活動家たちは二つのARV‐‐ジダノシンとスタブジン‐‐のコストをめぐりBMSに挑戦した。アメリカの研究所が、この二つの薬の特許を保持している。闘いは、BMSが大幅な価格削減に同意した時、クライマックスに達した。二つの薬のどちらも、いまでは1日、1米ドルで手に入る。これにより、以前より数千人以上多くの南ア人が生命にアクセスできるようになったのだ。

南アでも活動家たちは二つのARV‐‐ジダノシンとスタブジン‐‐のコストをめぐりBMSに挑戦した。アメリカの研究所が、この二つの薬の特許を保持している。闘いは、BMSが大幅な価格削減に同意した時、クライマックスに達した。二つの薬のどちらも、いまでは1日、1米ドルで手に入る。これにより、以前より数千人以上多くの南ア人が生命にアクセスできるようになったのだ。

おそらく特許権に関する闘いにおいてもっとも注目すべきできごとは、2002年9月エイズ活動家組織と個人によって南ア公正取引委員会に提出された訴状だった。第1告訴人は、エイズ患者であるヘイゼル・タウという女性だった。彼女は1998年の公正取引法の下における委員会の権限に注意を喚起した。この法により、高値をつけすぎたり、価格設定をしたり、その他の独占的慣行を排除するために、委員会は広範な捜査権限を与えられていると、タウは主張した。

告訴人は、TAC、AIDS Consortium 〔エイズ組織の全国的連合体組織〕、労働組合連合のCOSATU、化学業界の労組支部、医療労働者、そして誰よりも効果的だったのは、HIV陽性者たちであった。ヴィットヴァーターストランド大学のAIDS Law Projectが全告訴人を代表して、英国に本拠地を持つグラクソ・スミスクライン(GSK)とベーリンガーインゲルハム(BI)両社はARVの価格を過剰な高価で不当に固定していると訴えた。BIはネビラピンの特許権を所有するドイツの株式非公開の製薬会社グループである。 2000年、HIV母子感染予防のため、必要とする第3世界の全政府にネビラピンを無料供給で寄贈するという空想的申し出をしたのは、BIだった。

告訴人たちは、製薬会社の過剰な高価格と、南アのHIV陽性である男女そして子どもたちの早すぎる、予測通りの、だが、避けられる死との間には、法的に証明できるつながりがあると主張した。この申し立ては訴訟のごく初めからドラマティックなシンボルを見つけた。2002年9月19日、告訴人たちはジョハネスバーグで記者会見を開き、彼らの挑戦を発表した。背景説明の最後に第1告訴人であるヘイゼル・タウが重病におちいった。彼女のCD4細胞数〔免疫システムの強さを測る〕が後に測定されたが、なんと10より少なかった。一般にHIV陰性の人のCD4は500から1500であるから、ヘイゼルは免疫保護がほとんど皆無になっていたと言える。

委員会への供述書の中で、タウは1991年にどのようにして診断されたか、説明していた。 私自身の場合と同じように、彼女もテスト前後にまったくカウンセリングを受けることも無く、HIV陽性だと告げられた。HIVに関する情報は、まったく与えられなかった。HIVが治療不能であることも知らされなかった。そのため、あまり動転もしなかった。1993年に短期間、彼女はAZTだけを服用した。彼女の夫の医療保険は、この単一療法の費用を保証していた。気分がよくなると薬を飲むのをやめた。これは1980年代末から1990年初期にAZTだけを服用していた患者が普通に体験していたことだ。ウィルスが単一薬の抗レトロウィルス特性を迂回する方法を見つけるまでの短期間、患者の状態は改善する。けれどもそれからまもなく、恩恵はすべて消えてしまう。ARV単剤療法は、現在では、この上なく危険とみなされている。

その後、HIV陽性者だからという理由で、夫が彼女を家から閉め出し、後に離縁した。これは彼女の「承諾もなく知らないうちに」行われた。「私はいままで法廷に出頭したこともなければ、召還されたこともありませんでした。でも、一枚の紙が夫から離縁されたことを意味することは、わかりました!」。(そのような手順は、南アにおいて合法的ではない。離婚は、離婚被告人に離婚用紙を正式に送達して通知されなければならない。けれども私がジョハネスバーグ最高裁判所の判事だったとき、故意のごまかし、あるいは手違いにより、裁判所の書類が誤った被告人に送達されるという例に何度も出会った。さらに、シェリフが「サービスへの見返り」を求めることも、起こり得ないことではない。)

さらにタウは、その結果、住居、衣服、家具など持っていたものをすべて失ったと述べた。もちろん、これはまた、もはや夫の医療保険制度の恩恵を受ける資格が無くなったことも意味した。2002年までに、彼女は極貧状態におちいっていたが、再びARV治療を受ける必要があった。CD4カウントは200以下に落ち、2000年以来、体重が25キロも減っていた。

告訴の時点では、彼女はHIV/AIDSヘルプ・ラインに雇われて働いていた。けれども、収入は、三剤併用療法用ARVを買えるほど、十分でなかった。三つのARVは、2002年の価格で彼女にとって月1000ランドに値した。もし南アでジェネリック薬が入手できれば、月に400ランド以下でジェネリックの三剤併用療法用ARVを買うことができると、タウは証言した。

ヘイゼル・タウの供述書は、過酷で説得力のある読み物だ。この告訴のおかげで、公正取引委員会による大規模な捜査が行われることになった。2003年10月16日に、委員会は、捜査事項を発表した。委員会は、GSKとBIは法律に違反していると判決した。 両社が、それぞれARV市場における支配的な地位を悪用していることを委員会は確認した。委員会は、GSKとBIが過剰な高価格を利用して競合者に必要な便宜へのアクセスを否定することにより、かつ、「排他的行為」に従事することにより、不法な制限的策略に従事したことを確認した。 委員会は、司法権を持つ公正取引裁判所にこの件を委託し判定を求める根拠を見つけたのだ。

裁判所から好意的な所見が得られれば、製薬会社に対する訴状が正当化されたという正式な判定を意味し、活動家にとって、高価な賞に値した。 だが、裁判所が支持しない、あるいは委員会の発見を修正するというリスクもあった。また、貴重な時間も問題だった。司法手続きが延々と長引けば、その間、死に向かう人々のために安価な薬を手に入れるという、第一目的達成が遅れてしまう。 そして、万一公正取引裁判所が委員会の決定を支持しなければ、捜査事項それ自体が、公正取引上訴裁判所への控訴の対象とされるだろう。そして、その後、最高上訴裁判所に向けてさらに控訴が続く。万一、憲法上の問題が関与するとなると、さらに憲法裁判所への控訴が予想された。

あらゆるリスクと遅延の可能性を検討し、TACはGSKとの和解交渉にはいった。そしてその後まもなく、BIとの交渉も開始された。和解への到達をめざした広範囲の話し合いが、両陣営を代表する弁護士たちの間で繰り広げられた。

訴訟を支持していた人たちが全員、この戦略に賛成したわけではない。そして、活動家間の悲痛な違いが浮かびあがった。告訴人のための宣誓供述人のひとりは、ワシントン市を基盤とするテクノロジーに関する消費者プロジェクトのジェームス・ラヴだった。特許経済の専門家であるラヴは、長年にわたり、強制特許実施支持運動を強力に行ってきた。当然ながら彼は、裁判の成果として南アで初の強制特許実施が行使されることに希望をかけていた。

だが、TACのリーダーたちは薬をできるだけ早く、無理なく買える値段にすることが、最緊急課題だと考えた。TACは、法廷で究極的な勝利を得るチャンスは適度にあるとしても、すべての可能な上訴が尽きるまでには何年もかかることを危惧した。さらに、敗訴のリスクは、和解契約から生じる迅速で確実な利得より重かった。

2003年12月10日、告訴人は、医薬品を無理なく買える値段にし、アクセスを確実なものにするのに役立つ包括的和解契約を受諾した。引き換えに、製薬会社2社に対する訴訟は撤回された。和解契約に伴い、救命薬の入手は改善し、購入可能で持続可能な入手が現実化した。

GSKとBIは特許権をもつ自社のARVの複数ライセンスを発行することに初めて同意した。GSKは、四つのジェネリック会社にARVであるAZTとラミブジンの製造、輸入、販売、流通のライセンスを与えることに同意し、BIは3社に同様のライセンスを与えることに同意した。ロイヤルティ費は純売上高のわずか5%に固定された。これは、ジェネリック薬会社間に適切な競争が起こるようにする、決定的に重大な第一歩だった。十分な競争があって初めてARVの価格は可能な限り下がるようになり、庶民が買える金額に留まるのだ。和解はまた、特許使用権取得者が南アで製造されたAZT、ラミブジン、ネビラピンをサハラ砂漠以南のアフリカ47カ国に輸出することも許可していたが、これは決定的に重要なことだった。

前途にはたくさんの困難が待ち受けている。適切なジェネリック薬会社にライセンスが迅速に供与されるようにしなければならないし、ジェネリック薬は緊急に登録されねばならない。他の多国籍製薬会社がGSKとBIにならうよう、説得する必要もある。そして何よりも大事なことは、南ア政府が公共部門の治療プログラム用の薬を調達するとき、この和解を十分に活用すべきだということだ。

2004年末現在、この2社はまだ自発的ライセンスを支給していない。TACは2社に対して、TACが彼らの義務であると考えることを実現するよう、圧力をかけ続けている。それでも、突破口が得られたことに議論の余地はない。ヴィッツ大学のAIDS Law Projectは、告訴人たちを代表した業績により、2003年度通産消費者省賞を受賞した。



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あれこれ
よろしく。

読書ノ−ト です。




昨年、亡くなったスティ−ブン・J・グ−ルドの本を買ってもらいたいと思っています。
紹介文をボチボチ書いていくつもりです。まずは机の側にころがっていた「THE MISMEASURE of MAN」のことを書きました。


by 斉藤 龍一郎




*作成:斉藤 龍一郎/保存用ページ作成:岩ア 弘泰
UP: 20201223 REV:
アフリカ日本協議会(AJF) 斉藤 龍一郎 
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