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last update:20210911

■20210911 ボツ原稿をМLで募集したところ、もらう

 どういう扱いにしたものか。論文にまでもっていくことはできなくはないが、この話は論理としては終わっていると私は思っているところがあって※、結局そういうことだよね(でしかないよね)、終わり、みたいになってしまいそうな気もする。
 ※『介助のしごと』pp.190- より詳しくは福島本の私の担当の章。
 地域による温度差みたいなことを言ってもよいかもしれない。やはりこの問題は関西でホットで、それで兵庫の人たちは組織を切ったが、大阪はそういうわけにもいかず、その路線は取らない…。以下の文章中の大阪青い芝の人の発言はそういう文脈のものだろう。そして東京・神奈川の人たちはそのへんのことあまりぴんと来てないのではないか。ただこのこと(のなかの兵庫・大阪の違いは、短くは私も『生の技法』で書いたし、より詳しくは山下本にある。とすると、何を言うことにするか。…しばらく寝かせておいて考えてもよいかも。
 いま横塚没後に横塚りゑが書いた「心の共同体」(新版、pp.266-)をみた。こういうところから何か言うこともできるはできようが。


■■健全者手足論

■第1章 序論

第1節 本稿の課題

 本稿は1970年代後半に青い芝の会において公式見解となる「健全者組織は青い芝の手足に徹せよ」とする言説を主題とする。現在、「手足論」という表現で想起されるのは「介助者は障害者の指示に口を挟んではならない」という介助関係における規範であろう。しかし、本稿が主題とするのはそのような「手足論」とは異なる言説である。
 青い芝の会は1970年代後半の健全者組織の位置づけを巡る混乱の中で「手足に徹する」「手足になりきる」という表現を頻用するようになる。本稿ではこのような言説を健全者手足論と呼称する。この健全者手足論の段階において、青い芝の会は「介助者は障害者の指示に口を挟まず介助行為を行うべきだ」というような表現はしておらず、青い芝の会はあくまでも会の運動方針に対し健全者(組織)が介入することを戒めるために用いていた(小林 2011; 石島 2018)。
 この健全者手足論がどのような意図でいつ提起されたのか、すなわち形成過程に関する研究は2000年代以降に複数行われてきた(田中 2005; 小林 2011; 石島 2018)。これらの先行研究は、主として健全者手足論がいつどのような形で主張され始めたのかという点を議論してきた。これらによって既に健全者手足論がどのような経緯で提起されたのかという点は概ね明らかになったと言える。
 他方で、この健全者手足論が提起された後、当時の青い芝の人たちにどのように受け入れられたのかを検討した研究は▼管見の限り…は1論文1回ぐらいにする▲、山下(2008)および石島(2011)のみと少ない。山下(2008)は、健全者手足論が健全者組織、あるいは個々の健全者によってどのように解釈され、受け入れられていったのかという点を検討し、石島(2018)は、健全者手足論の形成過程に重点を置き議論しているが、当時の人たちがどのように解釈し、それが広まったのかという観点から議論をしている。
 したがって、これまでの先行研究は健全者手足論の形成過程は明らかにしたが、それがどのように青い芝の会内部で受け入れられたのかということを議論していないのと言える。少なくとも、一次資料を用いてそれらを検討した研究は管見の限り皆無である。  そこで、本稿は青い芝の会が発行した機関紙をもとにして、健全者手足論が提起された後、あるいはまさしく提起される中にあって、それがいかにして青い芝の会内部で評価されていたのかという点を明らかにしたい。

第2節 先行研究の整理

 これまでの先行研究から、健全者手足論は青い芝の会が積極的に提起したものではなかった可能性が高いと考えられる。小林(2011)▼小林がどういう人なのかの紹介は必要▲は健全者手足論が「青い芝という障害当事者組織を守るために、緊急避難的に健全者に向けて提出されたものだ」と指摘した。石島(2018)もこの理解に「基本的には合意している」(p.187)とする。また、山下(2008)も関西における青い芝運動の混乱の中で、健全者手足論が提起された経緯を検討しており、小林(2011)の見解を支持するものと見なし得る。
 しかし、小林(2011)の指摘する通り、青い芝の会が「介助者は障害者の手足に徹さなければならない」という主張を原則としていたとする理解が2000年代以降の文献でも散見される(楠 2008; 田中 2005; 熊谷 2015)。仮に青い芝の会が「緊急避難的」にやむを得ず健全者手足論を提起したとする小林(2011)の理解が正しいとすれば▼きれている?▲

第3節 研究の手法および健全者手足論の提起の時期について

 研究の手法として、本稿は青い芝の会の機関紙、特に全国青い芝の会総連合会機関紙『青い芝』と「青い芝の会」神奈川県連合会機関紙『あゆみ』に掲載された議事録を分析の対象とした。それらの文献から「健全者(組織)」に関する議論がなされている資料を抽出し、そこで特に健全者手足論がどのように議論されているかを検討した。

■第2章 本論

第1節 神奈川青い芝の議論

 本節では神奈川青い芝の機関紙『あゆみ』に掲載された総会の議事録を資料として、健全者手足論に対して、神奈川青い芝の会の障害者らがどのようにそれを評価したのかを検討する。  本節で検討するのは「『青い芝』神奈川連合会臨時総会議事録」と題された資料(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 1978)である。健全者の位置づけを巡る議論は複数の資料に記述があるものの、健全者手足論が提起された後にその「手足に徹する」という表現を巡り交わされた議論の内容が分かる資料は、管見の限り本資料および後述する全国青い芝の会(1978)の「第2回全国委員会議事録」のみである。

 我妻 「(前略)『健全者組織-行動委員会は一切「声」を出さず、手足に徹する』とありますが、健全者は何も言ってはいけないと言う事ですか?」 矢田 「組織的にはそうです。個々の関わりでは違った面が出てくるでしょう。」 ―日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会(1978)

 この問答は、当時神奈川青い芝の会長であった矢田竜司と会員の我妻▼フルネーム+紹介▲の間で交わされたものである。我妻は申し合わせの内容に対して「健全者は何も言ってはいけないということですか?」という質問をする。「申し合わせ」というのは神奈川青い芝と、同会を支援する目的で作られた「健全者支援組織行動委員会」の間で交わされたものであり(矢田 1978)、この申し合わせが健全者手足論が公式見解となった最初であると考えられている(田中 2005, 小林 2011)。以下、その概要が記された矢田(1978)から重要部を引用する。

 (前略)「青い芝」神奈川県連合会が第三回全国大会に参加した十八名中、十名が 長く在宅され、長く施設の内にいる人々であった。その行動に支援した健全者も十名である。健全者支援組織行動委員会と「青い芝」神奈川県連合会との協議の中に、すべての健全者は障害者を抑圧し、「差別する根源者であると確認しあい、会の行動にあたっては介護の手足に徹する」と申し合わせていた。それは「青い芝」神奈川 県連合会、行動綱領に合致されている。−矢田(1978:31)

 我妻の質問には「健全者は何も言ってはいけない」のであれば、そのような申し合わせは誤りであるという含意が読み取れる。少なくとも、我妻は申し合わせの内容には賛同していないことが分かる。続く部分を引用する。

 我妻 「会長は、健全者をどう思っているのですか?」 矢田 「行動委員会は、『青い芝』の行動に対して支援する、ということがあります。全国的な状況から言って関西やその他に於ては、組織と組織が共に斗って行こうではないかと言うことが強くあった訳です。」 我妻 「質問していることと違うでしょう。」 矢田 「健全者は、例えどんな状況であっても差別者の根源ではないか、と考えております。」 我妻 「そうしますと、この活動方針の二番目に『個々の健全者との関わりを深める』とあり、それと矛盾しませんか。」 矢田 「矛盾ではないと思います。『やっぱり差別者である』と言う自覚を持った人々と関わり続けて行くという事です。ここの議案書の中で私が言っている健全者との関わりは、はっきりとした方針を確立する段階ではないか、と思います。」 我妻 「『青い芝』の運動には、みんなが外へ出て生活すると言う事があるでしょう。それなのに健全者は敵だ、あるいはロボットだと言う事ではどうしたらいいのですか。それをはっきりしなければ、活動方針など出しても意味がないでしょう」 矢田 「例えば在宅訪問の中で健全者は我々の家庭の中に入り込む。そして我々は健全者 の家庭には入れないと言うような、大きな壁がある。それらをなくして行こうではないかそれには(後略)」 ―日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会(1978)

 ここで我妻は矢田が健全者をどのように捉えているのかと質問をする。それに対し、矢田は「どんな状況であっても差別の根源者ではないか」と考えていると答える。その次の我妻の問いは、極めて示唆的である。健全者がどんな状況であっても「差別の根源者」であると言うならば、「個々の健全者との関わりを深める」という神奈川青い芝の方針と矛盾するというのである。
 さらに我妻は「健全者は敵だ」とか「健全者はロボットだ(我妻なりの言いかえであると考えられる)」というのでは、「個々の健全者との関わりを深める」などと活動方針を出しても無意味だと指摘する。
 これらの問答から、少なくとも我妻が申し合わせの内容に対して納得がいっていないことが読み取れる。むしろ、「活動方針と矛盾するのではないか」として否定的に捉えていると読むのが妥当であろう。したがって、この資料からは、少なくとも我妻が「申し合わせ」、すなわち健全者手足論に対して納得がいっていないということが分かる。

第2節 第2回全国委員会議案書の検討

 「手足」という言葉の意味を青い芝の会内部で議論している文献は、管見の限り、前述した日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会(1978)のみである。しかし、健全者をどのように位置づけるかという議論は全国青い芝の会(1978)の「第2回全国委員会議事録」に複数記載がある。この第2回全国委員会というのは、まさしく全国青い芝の会において健全者手足論を公式見解として採用することが定まった会議である。
 第2回全国委員会では、1978年5月に全国常任委員会が既に決定した「自立障害者集団友人組織・全国健全者連絡協議会」の解体と新たに「青い芝の会の手足となる健全者集団」として再出発するという▼事項…△▲が議案として出され、それが承認された。つまり、第2回全国委員会において、全国常任委員会の決定事項でしかなかった全健協の解体と「青い芝の手足となる健全者組織」としての再出発が全国青い芝としての公式見解となるのである。
 ここでは、まず「第2回全国委員会議事録」から磯部▼紹介、当時の執行部?に批判的であることも▲と横塚▼▲の間で交わされた議論に注目をする。まずは磯田が横田に対して疑問を投げかける部分を引用する。

磯部 磯部、横田問答をこれからやります。(中略)九ページの下から三行目のまん中、「青い芝の手足となる健全者集団」言葉としてはなかなか意義のある何ともいえない言葉なんですけど、このことについては、これ以上追及はさけると、脳性マヒ者の、という言葉がこの議案書の中には相当使われているわけですけれども、先ほど横田君が健全者と一緒じゃなきゃいきられねえんじゃないかと、なるほど生活すると、生きるということからすれば、そういう側面が多くあると思います。そこで、ご質問をしたいんです。生活するということと、運動するということと、一体どういう風にお考えなのかと、これは単純な質問ですね。−全国青い芝の会(1978:32)

 ここで、磯部は横田に対し「青い芝の手足となる健全者集団」という記述について触れた上で、「生活」と「運動」をどのように考えているのかと質問をする。横田はこの問いに対し、次のように答える。

横田 さっきから磯部さんにいじめられているわけですけど、少し頭が混乱して質問に対して、まちがっていたらごめんなさい。えーと、まず初めの生活における問題として、健全者に関わらなければ生きられないと、これは磯部さんもその通りであると、お認めになったと思います。運動体のことについてですか。やはり私は運動としての青い芝は脳性マヒ者だけの集団で、脳性マヒが運動をすすめていかない限り青い芝とはいいがたい。脳性マヒ者の運動体とはいいがたいと思います。(中略)私はこの際もう一回青い芝が、青い芝原点(ママ)に立ち帰って、障害者の中でも、抑圧、あるいは殺されていく対象として脳性マヒ者であり、CP者であるというところからもう一回、生きるとは何かを考えたい。健全者とのかかわりも考えたい。考えていかなければならないのではないかと思います。お答えになっていないところがありましたら、又質問してください。−全国青い芝(1978:33)

 ここで横田はまず「健全者に関わらなければ生きていけない」ことを認め、それは「磯部さんもその通りであると、お認めになった」と述べている。そのことを共有した上で、横田は運動体としては「脳性マヒ者が運動を進めていかないと青い芝とはいいがたい」と述べる。その上で、青い芝の原点に立ち返って「健全者との関わりも考えたい」としている。
 ここで磯部が問題とした「生活」と「運動」の問題は、この議事録中に繰り返しテーマとして浮上している問題である。ここでこのような議論が交わされているのは、健全者手足論に関して最も問題になるのが「生活」だからであろう。  青い芝の会は「運動」の次元においては、健全者(組織)に対して手足に徹するように求めた。しかし、実際の「生活」においてはどうか、ということは十分に議論されていなかったと思われる。それはこの健全者手足論が「運動」の主体性を健全者(組織)から青い芝の会に取り戻そうとする過程において提起されたものという前提(小林 2011)を踏まえれば、当然のことだと言える。
 その結果として、健全者手足論を提起したあとになって、実際の「生活」においては健全者と障害者の関係はどうなるのかという問いが磯部から発されたと言える。その問いに対する横田の答えは「これから考えていきたい」というものであった。ここで確認したいのは、健全者手足論が発された後に青い芝の会内部で問題にされたのは、「運動」はそれで良いとしても、「生活」において健全者との関わりをどのようにしていくかという点だったということである。
 次に、大阪青い芝代表、長沢▼▲の発言について検討したい。長沢は真っ向から健全者手足論に反対している。

[大阪]長沢 えーとですね、この全国委員会の議題として健全者と障害者の関わりということで、話を進められていると思うんですけど、今まで聞いていますと、その課題(ママ)はちょっとそれて、いわゆるここに書いてある質問だけで終わっているという感じで、要するにですね、新しく健全者集団と、手足になる健全者集団というような名前で書いてあるけれどもですね。友人組織と集団と変わっただけで、おそらく根本的な、差別者と差別されている側という認識のもとで、この関わりというか障害者と健全者の関わりという問題に関しては、あの、どういうたらええか、あの変わっていないと思うんです。―全国青い芝(1978:33)

 長沢の発言の要旨は、健全者組織の名前が「友人組織」と「健全者集団」と変わっただけで、根本的な差別する者とされる者という関係性が変わっていないのではないかという疑問である。これは、健全者手足論には実質的な意味は無く、もっと根本的な関係性の転換をしなければ、変わらないということであろう。このことから、長沢が健全者手足論に対して、非常に懐疑的であったことが分かる。  

第5節 横塚晃一▼『→「▲健全者集団に対する見解』

 本節では、当時全国青い芝の会長であった横塚晃一が1978年7月7日に記した『健全者集団に対する見解』と題された資料、すなわち横塚(1978)を検討する。
 横塚(1978)は全国青い芝機関紙『青い芝』No.104 の冒頭に掲載された文章で、「この横塚会長の見解は、第四回大会までに全国常任委員会が計画しなければならない基本的な方針であることが、一九七八月三十日の全国常任委員会で確認されています(p.4)」と文章の末尾に付記されている。これらのことから、横塚が全国青い芝会長という立場から書いた文章であり、会としても極めて重要な位置づけの文章であったことが分かる。 本資料をここで取り上げるのは、このように青い芝の会長という立場で横塚が記したものであるにも関わらず、健全者手足論に対して否定的とも取れる表現がなされているからである。
 以下、該当部を引用する。

 しかし、常に健全者というものが私達脳性マヒ者にとって「諸刃の剣」であることを私達は忘れてはなりません。つまり青い芝の会(脳性マヒ者)がこの社会の中で自己を主張して生きようとする限り、手足となりきって活動する健全者をどうしても必要とします。が、健全者を私達の手足となりきらせることは、健全者の変革を目指して行動し始めたばかりの私達脳性マヒ者にとってはまだまだ先の長い、いばらの道であります。手足がいつ胴体をはなれて走り出すかもわからないし、そうなった時には脳性マヒ者は取り残され生命さえ危うくなるという危険性を常にはらんでいるのです。―横塚(1978)

 ここで注目したいのは「つまり青い芝の会(脳性マヒ者)がこの社会の中で自己を主張して生きようとする限り、手足となりきって活動する健全者をどうしても必要とします」という部分である。横塚は手足となりきって活動する健全者が「どうしても」必要であると述べている。
 「どうしても」という言葉からは、可能であればそのようなことは避けたいという含意が読み取れる。つまりこの記述は、▼健全者を手足になりきらせることは「諸刃の剣」で、そのようなことは非常に危険であって可能であれば避けたい→そう読めるか:引用されている文章では「健全者を手足にすることが」ではなく「健全者が」となっている。〜健全者(に限らないが)は言うことをきかん人たちなのであって、手足になって役に立つこともあるだろうが、しかし、…ということを言っているように読むのが普通ではないか。ただ、とすると、横塚が言っていたという――&小林はその路線でものを考えていると思う――「心の共同体」という話とどうなるのかという問いは残るには残る。※▲が、私達脳性マヒ者にとっては「どうしても」必要なことである、というように読み取れる。先述▼する→した▲ように、横塚(1978)は横塚が全国青い芝の会の会長の立場から記した文章である。そのような重大な文章において、このような消極的表現がなされていることは注目に値するだろう。
 ここまで横塚(1978)においても、健全者手足論が「やむを得ず」提起されたと考えられることを指摘した。しかし、本節の目的はそのように提起された健全者手足論を横塚自身がどのように受け止めたのかということである。
 小林(2011)は、この横塚(1978)について記述の矛盾点を指摘する。横塚(1978)の冒頭部には次のようにある。

 私達はこれらの健全者組織と青い芝の会との関係を「やってやる」「理解していただく」というような今までの障害者と健全者の関係ではなく、むしろ敵対する関係の中でしのぎをけずりあい、しかもその中に障害者対健全者の新しい関係を求めて葛藤を続けていくべきものと位置づけてきました。―横塚(1978)

 ここでは健全者と障害者の関係を「敵対する関係の中でじのぎをけずりあい、しかもその中に障害者対健全者の新しい関係を求めていくべきもの」としている。しかし、横塚(1978)の末尾近くには次のようにある。

 青い芝の会と健全者集団は相互不干渉的なものではなく、健全者の変革に向けて激しくぶつかりあう関係であるべきです。―横塚(1978) 

 これらの記述について小林(2011)は、冒頭部では「しのぎをけずりあい」、「新しい関係を求めて葛藤を続けていく」として変革の相互性を説いているにもかかわらず、末尾部では「健全者の変革に向けて激しくぶつかりあう関係であるべき」と変革の必要性を健全者のみに限定してしまっていると指摘する。小林(2011)の述べるように、横塚(1978)の論理は内部で矛盾をきたしていると言える。
 本節の関心に照らせば、この矛盾をきたしているという部分が重要である。横塚は全国青い芝の会会長としての立場から文章を書いた。だがしかし、横塚自身は健全者をどのように位置づけるべきかということへの葛藤がまだ多分にあったであろうし、そのことが文章中に矛盾として表れていると考えるべきではないだろうか。少なくともここで確認をしたいのは、横塚が全国青い芝会長として発した文章にすらも、健全者手足論の根幹にかかわる部分での矛盾や揺れが読み取れるということである。

第4節 小括

 ここまでいくつかの資料をもとにして、健全者手足論が提起された後あるいはその提起の最中における、健全者手足論に対する青い芝の会内部の議論を検討した。これらの検討から、健全者手足論は提起された後にも、批判的な意見が多くあったことが明らかになった。さらに、全国青い芝会長の横塚自身が、健全者手足論を葛藤の中で提起していた可能性が示唆された。  

■第3章 終論

第1節 健全者手足論に対する会内部の応答
第2節 結論
第3節 今後の課題

▼文献表▲


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