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■■日本の国会における「難病」発言の変遷――難病対策要綱以前の「難病」のテキスト分析・2

 →1(0006)
 →表:d0006.docx(0006関係+0007関係)


5.1.2 後期の難病
 後期になると,表1が示すように,難病が含まれる発言に出現する病の種類は,13種類から31種類に増加した.そのうち,23種類は前期には見られない新しい病であった.前期では,出現する病の半分が結核であったが,後期では結核が占める割合は僅か1.7%にまで減少し,前期と後期では,難病と共に語られる病は全く異なっていることが示された.
 後期に,最も出現した病は前期には全く見られなかったスモンであった.国会における初めての「スモン」発言は1967年の社会労働委員会において政府委員から奇病の一つとして挙げられた.その後,社会党の大橋和孝議員や政府委員から度々発言されるようになるが,1969年から急激に発言が見られるようになる.それまでは,わずか3回の社会労働委員会でのみ発言されたが,1969年には社会労働委員会を含めた21回の委員会において発言されるようになった.これらの委員会では往々にして,奇病のスモンとして発言された.▼ここは重要▲
 スモンが初めて▼難病と共に発言…表現として変▲されたのは,後期の1970年,内田国務大臣による発言であった.この時には,▼難病奇病の一つ…これじゃ?▲として挙げられた.その後,スモンはベーチェットと共に難病奇病の一つとして頻回に議員や政府委員から発言されるようになっている.
 以上から,後期の難病とは主にスモンであり,▼変わった病,珍しい病(奇病)…△▲という意味を含有したものであったと考えられるだろう.

5.2.2 後期の発言者と文脈→0007
 前述のような,前期における▼難病といえば結核のような流れ…表現として△▲は,後期に入ってから一変した.原因不明の痺れ病としてスモンがメディアに取り上げられるようになり,公明党は▼スモンやベーチェット病をはじめとした原因や治療法が不明の病を社会病または難病と称し,研究とは別に生活保障も実施するよう対策を求めた…この辺たぶん重要▲.しかしながら,厚生大臣および厚生省官僚は,研究を優先するとして退けた.そのため,公明党議員は事前に提示していない資料を用いて,佐藤総理に対しても強く対策を求めたところ,次のように今までとは異なる回答が得られた.

佐藤総理
「とにかくスモン病,これはたいへん気の毒な状態だと思います.ただ状態が気の毒だとか原因が不明だというだけでは救えないと思っております.ただいま具体的に積極的に救済に乗り出せ,特別措置をとれ,こういうお話でございますから,そういう意味で,いまの研究は研究,対策は対策,これは別に分けまして,具体的に厚生省で積極的に検討さすことにしたいと思います.御了承願います.」
(第63回国会予算委員会第18号 1970年3月30日)

 今までは厚生大臣および厚生省官僚によって,研究を優先するとして,生活保障に関する対策は検討の対象外とされていたものが,この佐藤総理の発言により,急遽,同時に対策も検討することになったのである.総理の発言が得られたことにより,公明党議員は厚生大臣や厚生省官僚に対し,具体的な難病対策が求められるようになり,大臣や官僚もそれに答えざるをえない状況を作り出すことができた.以上のように,後期では,以前の結核の文脈から,スモンを含めた難病対策への文脈へと変わったと言える.

5.2.3 後期の議員発言
 後期全体の流れは以上のようになるが,ここでは後期の中でも特に議員発言の流れに焦点を当てる.
 図2に示されたように,議員発言では,政府発言には見られないような語の繋がりが見られ,「保険」が「医療」,「健康」,「負担」等と繋がっている.それは,主にスモンを対象とした難病対策推進のために,医療保険の一部改正の文脈において討議が行われたためであると考えられる.医療保険(国民健康保険)の適用範囲を拡大し難病も含めることや,反対に保険から切り離して,難病は全額公費負担とする方法などが議員から提案された(第68回国会社会労働委員会第24号 1972年5月11日 川俣委員),(第68回国会社会労働委員会第27号 1972年5月18日 島本委員).また,これらの文脈において,年金の課題も取り上げられ,福祉年金についても難病と絡めながら言及された.

「いま国民が求めているものは物価の安定であり,福祉の充実であり,不況からの脱出であり,特に先ほど来厚生大臣からも労働大臣からも述べられる福祉の問題につきましては百円,二百円福祉年金が上がるか上がらないか.百円上がるか上がらないか,千円が千百円になるかならないか,あるいは難病の方々が一万円の毎月の医療費の負担が国庫負担になるかならないか,そういうことに重大な関心を持って期待もし,注目もしているのが現状でございます.」
(第68回国会社会労働委員会第2号 1972年1月25日 小平委員,下線筆者)

 このような議員発言は主に,日本社会党議員からなされたが,後期には前期に全く発言の見られなかった公明党が急浮上し,日本社会党に次ぐ発言回数であった.
 公明党は前期の1961年▼結党→に結党された政党▲であるが,前期では難病▼の→についての▲発言はなかった.しかし,後期に入ると,1970年の佐藤総理から研究と対策は別に行うという発言を引き出した山田議員(公明党)の発言を契機として,積極的に難病対策に関わるようになり,急に「難病」の発言の発言が見られるようになる.衛藤(1993)は,公明党が難病対策に関わるようになった理由として,議員の地方にスモン病患者がいたこと,および公明党の宗教党を脱したいという思いが重なり,公明党が難病に関わるようになったと指摘している.衛藤の指摘と表3,表4から示された公明党の「難病」発言の変化から,公明党は難病対策に意図的に関わり始めたと考えることができる.
 全期を通して,最も多く「難病」に関して発言を続けてきた日本社会党は,前期では国立病院や個別の病の文脈で難病の発言は見られるものの,公明党のように幾つかの病を難病としてまとめ,対策を要求することはしなかった.後期に入り,公明党の山田議員を中心として複数の病を社会病または難病としてまとめ,難病対策の検討開始に結びつけた流れの中で,日本社会党もその流れに加わった.すなわち,公明党が難病対策を要求するなかで,日本社会党議員も同調し,スモンなどを難病の文脈において取り扱うようになり,対策を政府に求めていった.以上から,難病対策要綱へと繋がる流れは,公明党が切り開き,日本社会党は前期から後期にかけて難病を取り扱う文脈を変えながら,常に最も難病に関わる発言を行ってきたと言える.
 そして,後期では,日本社会党および公明党だけでなく,日本共産党の発言も目立つようになった.日本共産党議員は前期では,フィラリア病の撲滅の文脈における1回の「難病」を発言のみであった.しかし,後期において,31回(11.0%)と急に発言するようになり,治療方法がない病を難病として取り扱うように変化した.いづれにせよ,後期において,公明党・日本社会党・日本共産党で,「難病」発言の95%を占めており,難病対策要綱へと繋がる議論は野党である,この三党によって担われたと言える.以上から,後期の議員発言は,野党によってスモンを中心とした難病対策を推し進める文脈において,「難病」が発言されたと言えるだろう.

5.2.4 後期の政府発言
 次に,後期の政府発言の流れを検討する.政府発言の共起ネットワークでは,図3に示されたように,議員発言には見られない,「確立」,「診断」,「基準」,「疾患」といった繋がりが顕となった.その理由として,議員が難病対策を求めたことに対して,政府はそれよりも難病の研究や診断基準の確立,治療方法や原因の究明を重視したことが挙げられるだろう.
 後期では,前述したように総理大臣が「いまの研究は研究,対策は対策,これは別に分けまして,具体的に厚生省で積極的に検討さすことにしたいと思います」(第63回国会予算委員会第18号 1970年3月30日)と発言することで,厚生省は難病対策の検討も迫られた.しかし,先の総理大臣の発言の直前に,大蔵省大臣が「厚生大臣においてもいま熱心にこの原因その他検討中だということでございます.おそらく検討が済みますれば,今度はその対策ということになろうと思いますが」と発言しており,厚生省としては,原因究明などの研究を優先して進めていたことが分かる.それゆえ,後期において,難病対策の検討も急遽,始めることとなったものの,厚生省としては依然として研究を重視した流れであったことが窺える.また,厚生大臣などからは以下のような難病に関する研究の推進や診断基準の確立などに関する発言が見られた.

「お尋ねの難病につきましては,一般的にきわめて診断が困難な場合が非常に多いということと,診断基準等が確立いたしませんと類似疾患との鑑別ということが非常に困難でございます.」
(第65回国会予算委員会第四分科会第2号,1971年3月24日,内田国務大臣,下線筆者)

「老人対策におけるがように,難病対策についてもプロジェクトチームをつくって取りかかるという行き方も考えられるわけでございますが,これは先生もお医者さんであり,公衆衛生局長も医師でおられるわけで,御議論をお二人でなさいましておわかりだと思いますが,これらの病気のみな一つ一つ原因なり病態なりが違っておって,こういう病気の対応策をプロジェクトチームで処理するということが必ずしも適当でないと,むしろその一つ一つの病気について研究協議会なり,スモンと同じようにあるいは研究班なり,各方面の専門家,研究家の方にお寄りをいただいて,そして個々についての病因の究明なり,あるいは治療方法なり,診断方法の確立ということをやらないと,ややこれにつきましては老人対策とは違う面もあるということで,一つ一つにつきまして,一種の独立的な,個別的なチームを編成してやっておるということは御承知のとおりでございます.」
(第65回国会予算委員会第四分科会第2号,1971年3月24日,内田国務大臣,下線筆者)

 国会において,議員は難病対策の進捗などについて繰り返し質問し,政府はなかなか進まない状況を答えながらも,少しずつ難病対策の内容についても議論されるようになってきた.その結果として,後期において,難病対策の検討開始とともに,政府の難病対策に関する発言が急増し,政府は今までは消極的だった難病に関わらざるをえなくなった.それにより,政府の難病対策に関する発言が急増し,前期から後期において,表2に見られるような「難病」の発言割合の増加に繋がったと考えられる.
以上から,後期の政府発言は,研究に重きを置きながらも,難病対策の文脈へと徐々に変化して行ったと言えるだろう.

4.4.2 後期の共起ネットワーク→0007
 前期は発言数が少ないため発言者別の文脈を検討することは難しい.しかし,後期は急激に議員・政府ともに発言数が増加し,発言者別の文脈分析も可能となるため,議員・政府それぞれの発言を共起ネットワークで示したものが図2,図3である.
 共起ネットワークでは,「出現パターンの似通った語,すなわち共起の程度が強い語を線で結んだネットワークを描くこと」ができ,「重要なのは線で結ばれているかどうかであって,近くに布置されているだけで線で結ばれていなければ,強い共起関係はない」とされている(樋口:2012).言葉たちの繋がりを見ることで,文脈が推測できる.
 図2は,「難病」が含まれる議員発言,図3は政府発言の共起ネットワークである.議員・政府発言ともに「難病」は「対策」,「問題」,「奇病」,「考える」と繋がりが見られた.また,「治療」についても,「研究」,「スモン」,「原因」が,議員・政府ともに繋がりが見られた.しかしながら,その一方で,異なる点も見られ,議員発言では,「問題」は「いま」と繋がったり,「保険」,「医療」,「健康」,「国民」といった,政府発言には見られない,言葉の繋がりも見られた.また,政府発言でも,「確立」,「診断」,「基準」,「疾患」といった議員発言には見られない繋がりが顕となった.

【図2 挿入】
【図3 挿入】

■6.結論 ▼いちおう今のところ0006と0007に以下同じ文章を貼っておく▲

6.1 難病とはどのような病なのか
 本研究において明らかになったことは以下の通りである.
 前期における典型的な難病は結核であり,死因として1位になるほどではないが,ありふれた病という意味が含有されていた.後期における難病は主にスモンであり,変わった病,珍しい病という意味を含んでいた.

6.2 発言者
 議員・政府・その他に分けて発言者を見たとき,最も発言数が多い者は全期を通して議員であった.議員発言を所属する党別にみたとき,常に日本社会党が最も難病を含む発言をしているものの,後期では公明党,日本共産党も目立って発言するようになり,難病に対して党別の関わりには時期と呼応して違いがあることが示された.
政府では,主に厚生省大臣および厚生省官僚が「難病」の発言を行っていた.前期から後期にかけて,「難病」発言の割合は約2倍に増加しており,後期では難病に関わる機会が増えていることが示された.

6.3 どのような文脈で発言されたのか
 前期は主に議員が,国立療養所に入所する結核患者の療養に関する文脈で難病について発言していた.後期は,議員は主にスモンを対象とした難病対策推進のなかで「難病」を発言していた.また,政府は,難病の研究を優先させながらも,議員に押される形で難病対策も検討していく文脈の中で,「難病」を発言していた.

6.4 おわりに
 本研究では,テキスト分析▼の手法▲を用いることで,今まで検討されてこなかった難病が公的に定義される以前の時期に,公的な議論の場において、誰に▼よって▲、どのように「難病」▼は→という言葉が▲用いられていたのかについて焦点を当てることが可能となった.それにより,難病対策要綱が発表される以前の国会において,具体的に難病として,どのような病が取り上げられ,語られたのかについて明らかにすることができた.
 公的な議論の場においては,1948年から主に結核を対象として、議員による「難病」の発言が見られるが回数は少なく,発言数が急増するのは,1970年以降であることが示された.1970年以降も「難病」は議員により,主にスモン・ベーチェットの難病対策の議論において語られ,一方の政府は難病の診断基準の確立を先に目指そうとするものの,議員主導の議論により難病対策も考えるという文脈の変更がなされた.公的な場では,このような文脈において「難病」は使用され,1972年10月発表の難病対策要綱へと繋がっていったことを明らかにすることができた.
しかしながら,本研究では,テキスト分析を通して「難病」の発言者や文脈を示すことを目的としたため,テキストには表現されない,当時の詳細な政策動向や国会以外の発言や動きなどを検討の対象とすることは不十分であった.それゆえ、今後は,本研究で示されたことを基に,それらを考慮しながら検討したい.

■【注】
1)平成29年人口動態統計

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