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※202100907:18099字
※202100908:2つに分ける 後半がこの頁。前半→0001
※202100911:「」をあいだにはさむ。
■202100908
※やはりできるだけ引用をしっかりして、詳しく書くこと。
※居住の場を という運動を始めた(始めてしまった)ということ〜後知恵にはなるがこの路線で(この路線が)よかったか〜八木下自身もためらっている…。
※「実現可能性」を考えると妥協の路線が出てくる。規模を大きくするとか。それが顕在化する場合としない場合とあり、これまでについては(あまり)なかった。東京のように同じ人(組織)がその方角に行くということもあった(立岩[2019])。ただ、埼玉については、一方に八木下たちが、他方に和田たちがいるために、割れた。〜行政はそちらについた(そちらを使った)〜特別扱いできないという話はまあもっともなところがあるわけで…。
※以上から言える話:居住の場を新たに作るのは(すくなくとも当時)かなり特別で困難なことだった。そこに、2つ(以上)に分かれる路線があった場合に割れることになりうるし、実際埼玉ではそうなった。そしてそうした多大な苦労の結果として、せいぜいいくつか、何十人か分のものができ、そこに人は滞留する。在宅+介助制度という路線のほうが、当初はしょぼいものであったのではあるが、残ることになった。(というのが立岩のまとめ)
+※和田たち〜ねっこの会については、それだけで1本論文書かれてよい。
■202100911
※「ぶっこわしながらつくっていく――脳性マヒ者・八木下浩一の地域観/施設観から」を挿入。現在21000字ほど。これをさらに、論文3と論文4に分ける。うまく行くかやってみないとわからないが、和田たちの動きを(その前のところから始めて)まあまあ詳しく紹介したうえで、それと八木下たちがどういう具合になり。…
論文1:八木下の就学運動
論文2:生きる場の会→場を作る運動の開始。独自の動きであったことの確認。
論文3:和田たちの動き。手術のこと、次に、論文2でその始まりを記した生きる場を作る動きにどのような関わりをしたのかを記す。
論文4:論文2でその始まりを記し、論文3でそこに関わった和田たちの動きを記したその運動が、結局どうなったのか。その途上における八木下たちの発言も振り返りながら見ていく。
■2.4 運動の分断
▼和田(たち)についての記述を増やす。和田:出自、職歴等々。別論文で使うかもしれないがこの論文でもある程度必要。▲
市はたびたび見解をひるがえし、そのたびに生きる場をつくる会は反発した。結果として、市役所ロビーでの座り込みが4回にわたって行われた。座り込みには、会の中心であった障害者や支援者だけでなく、学生や労働組合員、他県で障害者運動を展開していた人たち、のちに県内各地で障害者と健常者が共に生きる活動をおこした人たちも参加した。一方で、生きる場をつくる会は、市民に対して「生きる場」の必要性をソフトなかたちでよびかけ、多くの人々から理解を得ようとしていった。
1975年度に入り、民生部長が交代になると、市がなかなか交渉に応じなくなった。ようやく9月に行われた交渉の場で民生部長が、通園の授産施設を建設するという通告を行った。生きる場をつくる会は、これまでの約束を反故にされたとして、強く抗議した。市はその後も交渉にほとんど応じず、提出した質問書への回答も得られなかったことから、会は1976年1月19日から20日にかけて1回目の座り込みを決行した。これは、1933年に市制施行されて以来、初めて行われた座り込みであった。その結果、交渉の場を後日設けるとの約束を得て、座り込みは解かれた。会は市を追及し、通園施設案を撤回するとの確約書を1月末に受け取った(川口に障害者の生きる場をつくる会 1977b: 148-9)。
一方、こうした展開が繰り広げられていた最中の1975年12月、『埼玉県身障根っこの会会報』に「川口市の障害者の『生きる場の会』の活動に思う」と題する和田博夫の文章が載せられた。
@「収容保護施設の設備場所は、市内の繁華街でなくてはならない」としたり、
A「日常生活動作のほとんどが、他人の介補によらなければならないような重度の障害者の収容を予定する施設を考えながら、職員と対象者の区別のない言葉どおりの共同生活の場としての施設を要求する」とか、
B「その施設はかならず公立公営でなければならない」などという激しい要求に固執しなくても、我々身障根っこの会の、
@「設備場所は市内の多少田舎でも我慢したらどうか。そこにできるだけ広い土地を用意してもらって、その収容者の数はいつまでも五人とか十人とかいわず、社会福祉事業法による福祉法人を目ざして、将来三十名ないし五十名程度になることをしのばないか」
A「そのためには公立公営一点ばりでなくて、公立民営でも民立民営でも、初めのうちは我慢できないか」
B「精神的には共同生活の場という発想は充分理解できるが、現実的には施設の中における職員とその対象者との区分の存在は、重度重症の対象者を考える限り避けられないことを理解して、職員とその対象者との新しい人間関係を創造して行くような施設を考えないか」
などという助言に耳をかしてもよかったのではないかと思われる。(和田 [1975] 1993: 252-3)
▼年表的なもの末尾にあってもよいかも▲
この文章を読んだ民生部長は、和田に会って相談を始めた。また和田は、診療所で入院生活を送っていた山崎と雨宮に対しても、自分たちの意見のほうが現実的だから賛成するようにと説得していった(和田 [1978] 1993: 302-5)。
1976年2月、市は交渉の場で、新たに「専門家の和田医師とも充分協議の結果、@市立民営の収容施設。A委託先は和田博夫医師。B土地はグリーンセンター脇に150坪用意する」との案を提示した(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 17)。グリーンセンターは、植物園や集会堂などを備えた広大な公園で、交通の便が悪い郊外に位置していた。また、民間への運営委託は、公的な介護保障を求める要望とも相容れるものでなく、会のメンバーは強く抗議した。
しかし、その交渉中に突如、山崎と雨宮が「この案は検討の余地がある」として退席する事態がおきた。まったく思いもよらなかった出来事に、ほかのメンバーは唖然とし、その場は混乱した(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 17)。さらに翌3月には、山崎と雨宮、和田の連名で、市の案でよいので早く開設してほしいという内容の要望書が、市に提出された。八木下はのちに、次のように記している。
ひとつ和田氏たちがやったことを例にあげると、「生きる場」の会員で▼め→あ▲った雨宮君の親をおどかし「生きる場」から抜けるように親から説得をさせました。雨宮君の親は雨宮君に対して、殴る蹴るやの親としての脅かしを加えました。つまり和田氏は雨宮君と山崎君を「生きる場」から抜くことによって私たちが市に作らせようとしている「しらゆりの家」を乗っ取ろうという計算だったのです。そのことは二人の障害者からずっと後になって聞きました。
最終的には二人共、和田氏の脅かしに屈して「生きる場」から抜けました。私たちは二人がやめたことはショックだったけれども団結を固めて川口市に対して私たちの要求をつきつけてきました。(八木下 1980: 165-6)
会のメンバーは、山崎と雨宮を説得したが受け入れられず、2人は会から除名になった(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 20-1)。この時点で運動は、あくまでも収容施設ではなく市街地であたりまえに生活する場として実現すべきとする原理派と、行政が示す案を容認する条件派の2つに、完全に分断された。
……
■■「ぶっこわしながらつくっていく――脳性マヒ者・八木下浩一の地域観/施設観から」
雑誌『市民(第二次)』1976年8月号の誌上座談会(高杉ほか 1976)と、『新地平』1976年11月号の誌上座談会(八木下ほか 1976)を題材に、なかでもとくに、埼玉の障害者運動の先駆者である脳性マヒ者・八木下浩一★1の発言に焦点をあて、その地域観/施設観の現在的意義について考察する。
■2つの座談会――1976
八木下らは、在宅訪問で出会った障害者の生活について議論していくなかで、行政に対して定員10名のケアつき住宅を要求することにし、「川口に障害者の生きる場をつくる会」を結成して運動をすすめた。2つの座談会は、運動が劣勢に立たされていた最終局面で行われたものであった。とくに『市民(第二次)』の座談会は、行政と結託して「生きる場」の経営権を握ろうとしていた整形外科医の和田博夫★2を「吊るしあげる」ために、生きる場をつくる会側から持ち込まれた企画であったという。
◎『市民(第二次)』1976年8月号 座談会「障害者にとって施設とは」(抜粋)▼引用と要約とわかるように分ける▲
新井★3 話によると、八木下君たちが公立公営という形で交渉していく過程の中で、行政側が逃げとして民間委託案を出してきて、和田先生がそれの民間側の受ける側の当事者になられているということを聞いているわけです。
八木下 ぼくたちの運動は川口市に施設ではない“生きていける場”を作っていこうというもので、障害者10人に介護者が30人ぐらいのものを作ってくれと要求したら、市は作りますよと言って、いったん約束をしたのに……市だけではだめなので、専門家なんかをあわてて呼んできて、公立民営で作りたいと。
和田 あなたたちが市と約束したというのは“生活する場”を作るという約束ですね。……その過程でわれわれのほうの了解では、だんだん要求がエスカレートして、こんどは職員をよこせでしょ。川口市はホームヘルパーという程度なら納得したんですよ。そこのところがわたしらと違ってるんだ。
三井★4 いま、話を聞いてて、ひじょうに参考になる話なんですね。……当然に行政の側からいけば、「公共の福祉」という名のもとに、全体のニードということを盾にして出てくるだろう。そうすれば当然、施設認可基準なり、そういったものにあてはまった形での施設づくりに、行政としては向かざるをえないんだというふうに思っていたわけです。そういう意昧では、行政に要請していったとすれば、そういう方向でまるめこまれるのがおちなんだというふうにぼくらは考えていたわけです。
(高杉ほか 1976: 69-72から一部抜粋、太字は引用者)
と要約とわかるように分ける▲
村田★5 今の施設は独立したものとして社会に存在している。そうじゃなくて川口の「障害者の生きる場」みたいに、地域の中の施設になっていくのがいいんじゃないか。
八木下 ▼あんなもの、ぼくはいいとは思ってないよ。川口で10人の施設をつくったのは、それを媒介にしておもてに出ていくステップとして使うという意味ですよ。しょうがないからつくったわけですよ。いずれはぶっこわしますよ。▲
北野★6 施設の問題点は「大規模・分類・隔離」の3つだという。だから、そのアンチ・テーぜとして「小規模・非分類・地域化(町なかに)」というふうに立てられるわけね。……たしかに、小さければもっと解決しやすいんじゃないか、という幻想はある。でも、町なかにある小さな施設、しかもいろんな障害者がいるというところが、一体どんな施設なのか。
八木下 川口の場合でも同じだと思う。10人いたって、200人、300人いたって同じなんだよ。同じなんだけど、やっぱり、ぶっこわしながらつくっていく、つくっていきながらぶっこわしていくという作業を、これからやろうとしているわけです。
水沢★7 厚生省は彼らなりに今までの施設収容主義を反省して、在宅対策を重視すると、「コミュニテイ・ケア(地域福祉)」みたいなことを言ってるわけでしょう。それは、逆に地域の中に再隔離していく、さらにきめ細かく分類収容していくことでしかない。
(八木下ほか 1976: 58-63から一部抜粋、太字は引用者)
■現在的意義――2019
定員10名程度の「施設」は、グループホームなどの認可基準にあてはまった形で、地域の至る所に存在するようになった。在宅生活の支援も、行政の基準に沿った障害福祉サービスとして供給されるようになった。
たしかに、障害者の生活を保障する制度は充実し、「全体のニード」は満たされるようになったかもしれない。しかし、それは同時に、きめ細かく整備された制度の枠からはみ出すような生活が、さらに困難になったと考えることもできる。こうした問題意識は、埼玉の障害者運動のなかで脈々と受け継がれており(右記参照)、どのような形で「ぶっこわしながらつくっていく」ことが可能になるのか、模索され続けている。
◎埼玉障害者自立生活協会★8 総会記念シンポジウム「ハコのない施設になってない?」(2019年5月開催)
制度ができ、充実し始めると、見えない規制や障害当事者と支援する側の隔たりができてきていませんか? 地域生活での問題解決の糸口を探るにも「制度に基づく守秘義務」やしばりが強くなり、サービスの受け手と支援者という関係だけになり、人と人としての「暮らし方」の問題や悩みを出し合えなくなっていませんか?(呼びかけ文から抜粋)
■おわりに
障害者の地域生活を支援するための制度の多くは、障害者運動が追求し、獲得し、また自らつくってきたものである。しかしいま、その制度に自ら縛られているというジレンマが存在する。座談会から40年以上経つが、「ぶっこわしながらつくっていく」ことは、八木下以後の障害者運動が取り組むべき、現在的課題といえる。
■注
★1 学齢期に就学猶予を受けたが、成人後に普通学級就学運動をおこし、1970年に28歳で小学校に入学した。のちに、全障連の2代目代表幹事を務めた。
★2 浦和整形外科医師。脳性マヒを「なおす」手術をおこなう医者として、「障害者の神様」と崇められる存在であった。複数の入所施設を経営する「まりも会」の理事でもあった。
★3 新井啓太:東京がっこの会会員。
★4 三井俊明:くにたちかたつむりの会会員。府中療育センターを出た妻の脳性マヒ者・絹子とともに、地域生活を始めていた。
★5 村田実:脳性マヒ者。久留米園に入所しながら、普通学級就学運動をおこなっていた。
★6 北野浩平:七生福祉園職員。
★7 水沢洋:自治体ケースワーカー。
※その他の参加者:高杉晋吾(ジャーナリスト、とんぼの家会員)、鎌谷正代(関西青い芝の会会長)、三井絹子(くにたちかたつむりの会会員)、渡部淳(がっこの会事務局)
★8 「障害のある人もない人も地域で共に」をスローガンに、埼玉県内の団体・グループ・個人で構成されている団体。八木下が相談役を務めている。
■文献
高杉晋吾・和田博夫・八木下浩一・鎌谷正代・三井俊明・三井絹子・新井啓太,1976,「座談会 障害者にとって施設とは」『市民(第二次)』11: 52-78.
八木下浩一・村田実・北野浩平・渡部淳・水沢洋,1976,「座談会 障害者が“地域で生きる”とは」『新地平』30: 52-63.
……
■2.5 小規模療護施設「しらゆりの家」の開所
▼療護施設は当時の法定施設だから国から金がでる。「小規模療護施設」というのはどういうもの?…法文にはないと思うが▲
生きる場をつくる会は、山崎、雨宮らよりも自分たちが正統であるとして運動を継続することを決め、和田への委託案に反対する見解書や公開質問状を市に提出した。しかし市は、2人の障害者が賛成したことを理由にして、強行を図ろうとした。会は、「無責任な民間委託案反対!和田委託案白紙撤回!四項目を実現せよ!」と抗議し、7月1日から3日にかけて2回目の座り込みを行った。このときには、近隣の公共施設で映画上映会▼何を上映?▲も開催され、200人ほどを集めた(川口に障害者の生きる場をつくる会 1977b: 150)。
9月の交渉で和田委託案は撤回され、市から新たな案が提示された。その案は「@土地は柳崎地区に550坪。予算は建築費7,500万、年間運営費1,000万。A定員10名の小規模施設とする。B『障害者』の生活費、人件費として1,000万程度をつける。C公立民営方式とするが、和田博夫氏には委託しない。D今後も会とよく話し合って案を練り上げてゆく」とするものであった。提示された柳崎地区の土地は、工場と公営住宅に囲まれた区画で、グリーンセンター脇に比べれば市街地に近くなった(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 24-5)。
会は、土地については了承したが、運営形態や予算に大きな問題があるとして交渉を続けた。市から示された運営費を検証したところ、職員4名を住みこませ24時間体制で働かせることを強いる案であることが明らかになった。会の追及によって次に市から出された案は、「重度者5名・中軽度者5名の計10名に対し、7名の介護職員・施設長1名・炊事2名の計10名にする。昼間5名・夜間2名、のべ7名(公休1名を含む)の介護者を配置する」というものであった。これは、週88時間拘束、54時間勤務、週3回の夜勤で、夜勤の時間は施設内宿泊として労働時間から除外されるという、著しく労働基準法に反する案であったが、市は「労基法など守っていたら、とても施設なんか出来ない」「障害者は外出しないから、外出介護などは考えていない」と答弁し、「これが市の最終的見解」であるとして交渉を打ち切り、強行を図ってきた(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 25-6; 八木下・吉野 1979: 40)。
これに対して生きる場をつくる会は、市議会開会中の12月16日から17日にかけて3回目の座り込みに入り、議場で市長が「労基法を守る。職員を増員する」と答弁せざるをえなくなるまで追い込んだ。1977年2月の交渉では、「重度者5名、中軽度者5名の計10名に対し、直接介護職員12名、施設長1名、炊事2名の計15名、労働条件は公務員なみとし、問題があれば増員する」との回答を得た(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 26)。
しかし翌3月になると、市はその回答も反故にし「対象は『重度者』十名、診療所方式をとる」とする案を示した。7か月で1,996万円の予算のうち、人件費に1,615万円をあて、残りの月30万円程度で入所者10人の食費、生活費、事務費、設備維持費をまかなうというものであり、算定根拠も「委託先との交渉が終了するまで秘密事項だ」として明らかにしなかった(八木下・吉野 1979: 40-1)。委託先は、和田が理事を務め、東京久留米園、和泉園、清瀬療護園などの入所施設を運営する社会福祉法人まりも会であった。市はこの案をもとに設置条例を作成し、9月議会に上程しようとした(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 28)。これを阻止するために8月24日から25日にかけて、会は4回目の座り込みを行った。結果として、民間への運営委託はついに撤回させられなかったものの、まりも会への委託案を白紙に戻すとの確約を得た(八木下・吉野 1979: 41)。
一方で同時期、山崎、雨宮と根っこの会は、「市の案にもろ手を上げて賛成します」「生きる場をつくる会の圧力に屈せずガンバレ!」という内容のビラ▼もっと詳しく。あるいは論文末に全文▲まきを行った。委託先が白紙に戻された直後の8月29日には、今度は彼らが座り込みを行い、まりも会委託案の復活を求めた(『読売新聞』1977.8.30朝刊,埼玉県版,20面; 川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 28)。
10月に開所する予定にしていたものを翌年3月に延期させられ、さらに先延ばしにさせられては困ると考えた市は、まりも会以外の社会福祉法人に対して運営受託の要請を行った。しかし結局、手を挙げる法人がなかった。八木下は、次のように記している。
市側は市長自らが私たちの行動の場に出てきて「まりも会」には委託をしないと確約をしました。「別の法人を見つける」「私たちと協議をして委託先を見つけたい」と民生部長は言っていました。しかしながら最終的には委託先は「まりも会」に決まってしまったのです。
川口市は一九七七年八月ごろから関東近辺の福祉法人にこの「しらゆりの家」を引受けてもらたいたいという要請状を送りました。返事がきたのは十六くらいの団体で、多分よい返事は四つの団体くらいであとの団体は断わってきました。その四団体も最終的には断りました。……
最終的には川口市は他の福祉法人に全部断わられた結果、市が直接運営するか、民間委託をするか、二つに一つしかなくなりました。結局は恥も外聞もなく委託先として「まりも会」が決まりました。(八木下 1980: 167-8)
1978年3月1日、「しらゆりの家」と名付けられた施設が開所した。当日、市長代行が参加して開所式典が行われようとしたところ、現地に50人ほどが集まって抗議活動が行われ、式典の開催が阻止された(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 2)。また半年後の10月にも、現地で抗議集会が行われた(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978b)。
■3.なぜ、生きる場をつくる会の運動は「失敗」とされたのか
「しらゆりの家」の開所後も、要求がすべて通るまで交渉を続けるべきとする意見があり、しばらく抗議活動は続けられた。ただ、趣意書や陳情書の内容からみれば、生きる場をつくる会の運動が獲得したものは、けっして少なくなかったともいえる。重度障害者が街のなかで暮らすことが一般的ではなく、それを実現するだけの国の制度もないなか、市独自の条例を制定させ、地元・川口市内の市街地に定員10名のものをつくらせたことは、画期的であったはずである。
当時、大学助手として建築の研究をしながら運動に参加し、生きる場の設計図面の制作を担ったことが契機になって、のちにバリアフリー建築の第一人者になった橋儀平▼解説:東洋大学…▲は、次のように述べている。
「川口に障害者の生きる場を作る会」という名称の「生きる場」とは、八木下たちが日本ではじめて障害者の世界で使った言葉である。当時としてはどこまで受け入れられるかという懸念もあったが、今日でも依然として何の問題もなく素晴らしい響きをもっていると思う。……
1978年3月に川口市単独事業として「しらゆりの家」が開設された。「川口に障害者の生きる場を作る会」の主張が完全に認められず障害者運動の成果とまではいえないが、小規模ケア付き住宅(定員10人)が建設されたのである。(橋 2019: 36-8)
そして何よりも、切実に「いえをでたい」と希望していた雨宮と山崎が「しらゆりの家」に入ることができた事実がある。雨宮、山崎とともに市に対する陳情書に入居予定者として名を連ねた仲沢睦美★12)は、次のように振り返っている。
いろいろあって場所も内容も思い通りではなかったが施設はできた。自分たちに運営はさせてもらえず、東京の社会福祉法人がやることになった。話が違うと怒っている人もいて、要求が全部通るまで交渉を続けるという話もあった。そのとき、重度障害者のお母さんに「明日の100円よりも、今日の10円がないと今日すら生きられない人がいる」といわれた。(仲沢 2017)
もとをたどれば、生きる場をつくる会の運動は、八木下が在宅訪問のなかで雨宮と山崎に出会ったところから始まった。生きる場をつくる会が結成されたのも、山崎の「いえをでたい」という要望が発端であった。会の運動は、地元・川口市に根ざして暮らす障害者どうしが出会い、唯一無二の人間関係が地道に築かれた延長線上でおこされたものであった。こうした経緯を踏まえれば、運動は、部分的には成功したと考えられてもよかった。
しかし、運動の結果について、完全に「失敗」に終わったと捉える者は多かった。会のなかで精神的支柱のような存在になっていた西村秀夫は、次のように述べている。
このグループが求めたのは「施設に収容される」ことではなく、「地域の住宅に住む」ことだった。しかし川口市当局は一貫してこの点について無理解だった。重度障害者が介助付きで町の中の住宅に住むということがあり得ることとは思えなかったのだろう。約2年かかって「10人以下の小施設」を町の中に建てるということを約束したが、管理体制の点で難航を続けた。……昭和53年3月、社会福祉法人『まりも会』の経営する『白百合の家』が開設された。場所は市街地であり、人数は10人と少数であった。しかし、内容は従来の療護施設と変わらないものになってしまったのである。(西村 1981: 26)
また、運動を外部から見ていた者も、▼もっぱら同様の…表現として△▲捉え方をした。ミニコミ紙『月刊障害者新聞』を発行していた本間康二▼解説※▲は、以下のように記している。
※http://www.arsvi.com/w/hk09.htm
彼らは地元に根を張って生き、障害者の真の自立を目差して健常者と共に共同生活の場を求め、川口市当局に働きかけてきた。親に頼るのみの「在宅」にあらず、さりとて隔離収容、規則ずくめで自由のない「施設」にあらず、10人程度の、きわめて家庭的なふんい気の中での人間的な暮らしを求めていた。
だが行政はそんな彼らの願いを理解しなかった。「もっと困っていて施設を求める人間がたくさんいる」「できるだけ多くの市民のニーズ(要求)に答えなければならない」と小規模施設に反対し続けた。
しかし生きる場の会の地域住民を巻き込んだ激しい抵抗に会うと、今度は会の要求する公立公営を無視し、民間の法人に委託しようとした。それも会が以前よりクレームをつけて反対していたまりも会という法人で、この会の運営を握っている中心人物は障害者の施設収容化を肯定し、障害者を受け入れる社会を目差すのではなく、社会に障害者を合わせようという考えの持ち主だった。
かくしてここに又ひとつの小さな"障害者収容所"ができたのである。(本間 1978)
生きる場をつくる会は、街のなかでふつうの人と同じように、外出や買い物などが気軽にできたり、友人や家族と自由に会えたりできるような生活をしたいということを、繰り返し主張した。そして「たとえ街の中に設けられたとしても外出の介護すらできないような少ない職員配置では意味がない」と訴えた。会のなかには、収容施設では職員配置の乏しさが入所者に対する劣悪な処遇を招いており、それによって職員と入所者との対立関係がつくられているという問題意識があった。
また、生きる場をつくる会は、「単に『障害者』を収容するところを求めているのではなく、私たちの周囲をとりまく、地域社会総体が、『障害者』を受け入れ、ともに育ち、ともに生活し、人間関係をつくっていけるような社会」にすることをめざしていた(川口に障害者の生きる場をつくる会 1977a: 34)。そして、「『障害者』の存在を主張してゆく拠点」「社会的活動の場を切りひらいてゆくための拠点」として「生きる場」を構想した(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 11)。しかし、開設された「しらゆりの家」は、このような構想の出発点になりうるものとは考えられなかった。
運動の推移において、山崎と雨宮が会を離脱したことは大きな分かれ道であった。この時点で条件派が形成され、運動が分断されたことが、その後を決定づけるひとつの重要な要因となった。
代表の八木下は、市に対する陳情書には入居予定者として名前が載せられていなかった。それどころか、八木下は「生きる場」をつくること自体を良しとしていなかったふしもある(増田 2019)。この点が、東京青い芝の会の幹部であった磯部真教▼解説▲が所長に就いた八王子自立ホームや、代表の小山内美智子▼解説▲が誰よりも入居したいと考えていた▼しかし小山内は入居できない〜それはそれで行政側的には一理ある▲札幌いちご会▼解説▲の運動などとは異なっていた。もし、八木下自らが入居希望者であったなら、主導権を奪われることはなかったであろう。▼歴史的可能性…△▲ではあるが、ひとつ条件が異なっていたら、日本で初めて実現に成功したケア付き住宅建設運動として名を残すことになったかもしれない。
■4.おわりに
本稿では、「川口に障害者の生きる場をつくる会」の運動について▼その▲推移を追ったうえで、なぜ生きる場をつくる会の運動が「失敗」とされたかについて考察した。これまで地道に築いてきた人間関係の延長線上で「しらゆりの家」が開設されたという点でみれば、運動は部分的には成功したということができる。しかし、重度障害者でもふつうの人と同じように生活できる場にすることや、地域社会を切りひらく拠点となる場にするという目標はかなわず、それゆえ運動は「失敗」とされた。そして、その「失敗」を決定づけた大きな要因として、条件派の形成によって運動が分断されたことがあった。
本稿を▼締める…表現的に△▲にあたり、「しらゆりの家」の開設後について、少しふれたい。運動としては分かれてしまった雨宮と山崎であるが、生きる場をつくる会に参加していた何人かとの個人的な関係は続いた。八木下は時折、雨宮や山崎に会うために「しらゆりの家」を訪ねていたという。雨宮が亡くなったときには、八木下も葬儀に参列した。
「しらゆりの家」の運営は、つねに波乱含みであった。職員間や利用者間の揉めごとが多く、職員が入所者の預貯金を着服して逮捕される事件もおきた(『読売新聞』1987.11.6朝刊,埼玉県版,22面; 引間・奥野 2004)。1995年3月末、まりも会は川口市から委託解除になり、「しらゆりの家」の運営は別の法人に移った。
生きる場をつくる会の主要メンバーは、「しらゆりの家」開設の少し前から「川口とうなす会」というグループをつくり、活動を始めた。このグループは、月1回のペースで例会を開いて、とりあえず街に出るという活動スタイルであり、生きる場をつくる会とは対照的なものであったが、表裏一体でもあったという。生きる場をつくる会の運動や、それに連なる運動・活動の全体像を把握するため、引き続き調査を進めていきたい。
付記
2020年2月、八木下浩一氏が逝去された。享年78歳。謹んで哀悼の意を表したい。
■
★11) このときの市長は、長堀千代吉であった。長堀は、1972年5月から1976年5月までの1期のみ市長を務めた。生きる場をつくる会の主要メンバーのひとりであった仲沢睦美は、「当時の市長が良いおじいさんで『いいよ』と言ってくれた」と述懐している(仲沢 2017)。長堀の前は「川口自民党」を率いていた大物政治家の大野元美が、1957年2月から1972年4月までの4期にわたり市長を務めていた。1972年、大野は辞職し県知事選に立候補したが、上述のすすめる会などの支援を受けた革新候補の畑和に敗れた。大野はその後、1976年5月に長堀の任期満了にともなって行われた市長選で復帰し、さらに1981年4月までの2期、市長を務めた。なお、2019年に実孫の大野元裕が県知事選に出馬して当選し、知事に就任している。
★12) 仲沢▼生年等▲は陳情書に名前を連ねてはいたが、すぐに家を出て暮らすようなつもりはなかったという。中学1年のときにポリオを発症するまでは、普通学校に通っていた。障害をもつようになってからも家族との関係は良好で、ほかのきょうだいと分け隔てなく育てられた。父親が亡くなったあとは、脳内出血で寝たきりになっていた母親との2人暮らしになったが、母を介護しながらの毎日にもあまり不満を感じず、むしろあたりまえの生活だと思いながら過ごしていた(仲沢 2017)。
■文献
※立教大学共生社会研究センター所蔵資料については、資料番号等を付記している(同センターからの要請による)。
雨宮正和,1973,「何故、私は荒木さんに支援するのか」(立教大学共生社会研究センター所蔵,三井絹子氏旧蔵・障害者運動関連資料(コレクションID: S13),資料番号: 1511).
――――,1975,「どうして"生きる場"を欲しくなったか」川口に障害者の生きる場をつくる会『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り,自ら運営する!』りぼん社,3.
二日市安,1979,『私的障害者運動史』たいまつ社.
萩田秋雄,1988,「基調報告」『ケア付き住宅を考える――「ケア付き住宅」研究集会報告書・資料集』3-5(1987年11月7・8日開催,於:横浜市健康福祉総合センター・障害者研修保養センター横浜あゆみ荘).
引間むつみ・奥野俊輔,2004,「写真集発刊によせて」雨宮正和写真集実行委員会『雨宮正和写真集「生きる」――車椅子から観えるレンズ越しの世界』幹書房,50.
本間康二,1978,「障害者の自立を踏みにじるな――行政の画策と法人の介入を斬る」『月刊障害者問題』24: 1.
川口に障害者の生きる場をつくる会,1975,『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り,自ら運営する!』りぼん社(立教大学共生社会研究センター所蔵,三井絹子氏旧蔵・障害者運動関連資料(コレクションID: S13),資料番号: 776).
――――,1977a,「障害者の生きる場をつくるために 第1回」『月刊自治研』215: 28-34.
――――,1977b,「障害者の生きる場をつくるために 第2回」『月刊自治研』216: 146-153.
――――,1978a,『娑婆も冥土もほど遠く――「生きる場」活動報告その2』.
――――,1978b,「10.11 川口市・まりも会 しらゆりの家 現地糾弾斗争に結集を!」.
北村治夫,1972,「聴講生としての1年間」八木下浩一ほか『わたしの30年間』16-20.
教育を考える会,1971a,「二九歳の小学三年生が誕生しました」『がっこ』4.(再録:1971b,『がっこ』1971年3月−10月合併号: 8(立教大学共生社会研究センター所蔵,三井絹子氏旧蔵・障害者運動関連資料(コレクションID: S13),資料番号: 2077).)
増田洋介,2019,「ぶっこわしながらつくっていく――脳性マヒ者・八木下浩一の地域観/施設観から」障害学会第16回大会ポスター報告原稿.
三ツ木任一編,1988,『続・自立生活への道――障害者福祉の新しい展開』全国社会福祉協議会.
仲村優一・板山賢治編,1984,『自立生活への道――全身性障害者の挑戦』全国社会福祉協議会.
仲沢睦美,2017,「障害者のくらしいまむかし『Vol.1 仲沢睦美の場合』」『シンポジウム「障害者のくらしいまむかし」資料集』(リンクス主催,2017年3月18日開催,於:青木会館).
西村秀夫,1969,「東大闘争と私」田畑書店編集部『私はこう考える――東大闘争 教官の発言』田畑書店,115-143.
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――――,1972,「障害者の教育権と内なる差別意識の克服」『婦人教師』57: 35-40.
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――――,1981,「『ケアー付き自立』を求めて――経過と展望」札幌いちご会『心の足を大地につけて――完全なる社会参加への道』ノーム・ミニコミセンター,23-33.
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沼尻ふさ江,1992,「生きることの基礎」根っこの会『きみも歩ける――身障者に機能改善医療を!』新泉社,125-127.
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障害者の生活と権利を守る埼玉県民連絡協議会,1974,『障埼連のあゆみ・1――1972年5月〜1974年3月』.
橋儀平,2019,『福祉のまちづくり その思想と展開――障害当事者との共生に向けて』彰国社.
和田博夫,1975,「川口市の障害者の『生きる場の会』の活動に思う」『埼玉県身障根っこの会会報』4.(再録:1993,『障害者の医療はいかにあるべきか1 福祉と施設の模索』梟社,251-255.)
――――,1978,「『しらゆりの家』の成立の過程」『ひふみ』18.(再録:1993,『障害者の医療はいかにあるべきか1 福祉と施設の模索』梟社,298-308.)
八木下浩一,1971a,「八木下さんの談話」連続シンポジウム実行委員会『シリーズ「夜学の記録」第1集 身体障害と教育(その1)』26-29.
――――,1971b,「東大シンポに向けて」.(再録:八木下浩一ほか,1972,『わたしの30年間』30-32.)
――――,1972a,「わたしの就学運動」八木下浩一ほか『わたしの30年間』13-16.
――――,1972b,「学籍獲得闘争のこと」八木下浩一ほか『わたしの30年間』20-22.
――――,1980,『街に生きる――ある脳性マヒ者の半生』現代書館.
八木下浩一ほか,1972,『わたしの30年間』.
八木下浩一・名取弘文,1972,「なぜ30歳で小学校に行くのか」『理想』467: 46-61.
八木下浩一・吉野敬子,1979,「『障害者』にとって地域に生きるとは」『季刊福祉労働』2: 37-46.
山崎広光,1975,「これまでのこと」川口に障害者の生きる場をつくる会『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り,自ら運営する!』りぼん社,4-5.
※以下、別頁に収録したほうがよいと思ったのでそうした。→「ケア付住宅」:http://www.arsvi.com/d/i05c.htm
▼★cf.『生の技法』
(20) この前には六七年に埼玉県川口市で普通小学校への就学を要求し七〇年に実現した八木下浩一(八木下[80])、自動車免許試験を拒否され、無免許運転を続けた後六九年に起訴され裁判を闘った荒木義昭(七四年九月最高裁で有罪確定、文献として『荒木公判ニュース』、若林[86:72-79]、障害者に関わる訴訟を扱った佐藤[87:219]及び田中[81:275])らの運動がある。彼らはこれから述べる運動に合流し地域での運動を行っていく。特に後者は六〇年代後半の学生運動・社会運動と関係しながら行われ、当初支援していた青い芝(『青い芝』78・79・80(70年)等)他の障害者との間の行き違いが表面化し、後者がそこから離脱してしまうといった、後にみる運動と同様の問題を既に抱えていた。」
(44) 七四年、大阪の第八養護学校建設に反対して関西青い芝の会連合会と関西「障害者」解放委員会が共闘したのを契機に、この二団体と八木下浩一が全国的な組織の必要性を訴えるよびかけ文を配布する。七四年「二月に全国代表者会議を開き準備会発足を決定、全国代表幹事に横塚、事務局長に楠敏雄を選出、七五年に七回の全国幹事会を開き、七六年八月の結成大会をもって正式に発足する。各地域ブロックの連合体として構成され、各々が役員組織、事務局をもつ。と同時に、毎年夏に各ブロックの持ち回りで開催される全国(交流)大会で全国役員、事務局長が選出される。その活動は、機関紙、全国大会の報告集等によって知ることができる。その他、特に関西における前史を含めて楠[82]等、全国障害者解放運動連絡会議[82]、等を参照。
八木下 浩一 80 『街に生きる――ある脳性マヒ者の半生』,現代書館,210p.
―――― 81 『障害者殺しの現在』,JCA出版
―――― 82 「スウェーデンRBU埼玉をゆく」,『季刊福祉労働』l4:44-54
八木下 浩一・村田 実・北野 浩平・渡辺 淳・水沢 洋 76 「障害者が”地域"で生きるとは」(座談会),『新地平』30(76:11):53-63
八木下 浩一・吉野 敬子 79 「「障害者」にとって地域に生きるとは」,『季刊福祉労働』2:37-46▲
▼『戦後』
「■11 ケア付住宅
「専従」の人にぎりぎりのお金を払い、夜間と専従の人の休みの日のボランティアを大学生から得る、月二万円ほどのために、バザーで、またお茶を売って、いくらかの収入を得る。それ以外のことはなかなかできなかったようだ。しかし、あるいはそんな状況だからこそ、次を、しかしすぐに「CIL」にも行けない中で、考えることにはなった。機関紙をみていくと、八五年に「ケア付住宅」を作るという目標が示される。そのこと自体が会の活動の膠着をもたらした部分があるように私には思われるのだが、そのことは後で説明する。それにしてもごく小さな組織において、しかも実現しなかった二年ほどのできごとだ。しかしそれでも、ここに記録しておく意義はあると私は思う。それが選択肢とされたについての事情があり、そしてその事情は今でもなくなったわけではないからである。そのことを考えることは、ではどのような道を進めばよいのか、その戦術に関わる。機関紙『にじ』に、その経緯がたいがいごく簡単にではあるが、記されている。
一九八五年、福嶋。「新年度方針で、特にケア付住宅の実現を目指して初めて動き出すことになりました。/共同生活の維持・運営と、この大きな目標を平行して行うことは、代表としての力量に不安ですが、精一杯やりますので、皆さんよろしくお願いいたします」(『にじ』一〇・八五年六月)。
『にじ』にその切り抜きが載っている同年十月二二日の『埼玉新聞』。見出しは「独立した個人として」「「ケア付き住宅」目指す」「浦和のグループ「虹の会」」。「「虹の会」は五十七年七月に発足。以来、一軒家や民間アパートなど三回、場所を移りながら「共同生活ハウス」を運営してきた。将来的には通いの介助者ではなく、同じアパート内に健常者と障害者が部屋を独立して持ち共同生活ができる「ケア付き住宅」を目指している。」△341
この八五年、東京都八王子市の「八王子自立ホーム」(345頁)、埼玉県の「しらゆりの家」に見学に行く。後者は七〇年代に問題になった施設のはずだが★26、そのことはたぶん知られていない。
「ケア付住宅実現にむけて(これまでをふり返って…)」という記事。「重度障害者が地域社会の中で人間らしく生きられるよう、その生活の場づくりを目指すことを目的として、虹の会が発足しました。そこで、障害者のニードと利用できる行政サービスなどを考え合わせる中で、共同ハウス構想が生まれました。それは、同一アパート内で呼べば介助が得られることや、健常者とのつながりがもてるような住居形態でした。/発足当初は「借家での健常者との同居生活」からはじまり、「マンションでの一戸口・二人の障害者共同生活」、「戸口別アパート生活」の実践と、形態が変わるごとにニードが明らかになってきました。こういった実践をいかした虹の会独自のケア付住宅をつくっていこうと、現在、運営委員会では動きはじめました。」(『にじ』一五・八六年二月)
八五年十一月の学習会の報告。「住宅状況の現状について報告がなされる。それによると、重度の障害者が公営・民間いずれも入居するのが難しい状態。神奈川県で建設中の「ケア付き住宅」などの動向を見ていくことにする。更に、障害者が利用しやすいように設備を改造する場合も、個々の利用者のニーズに即して考え、「ケア付住宅」全体としての利用しやすい形態を考えていく」(『にじ』一六・八六年五月)。
「今年度の活動方針であった今までの「共同ハウスで」の実践の報告書、「ケア付住宅」実現に向けての青写真作りも、大変遅れています。」(『にじ』二一・八七年一月)
八七年三月、相模原市の「シャローム」(347頁)を見学する。機関紙には、県で検討委員会が設置され検討されたこと、民間アパートを借り上げたものであること、ケアの合理化、入居者の連帯感が入居者から言われたこと、ただ個々の生活の独立性に懸念があること、自分たちも公的保障を求めていくべ△342 きこと等が言われる(『にじ』二四・八七年五月)。
しかし同年七月、福嶋は死去する。同年十一月、「福嶋あき江を偲ぶ会」での会長代理あいさつ。「福嶋さんの遺志を継いで、虹の会はこれからもケア付き住宅の実現を目指して頑張ります」(『にじ』二八・八八年一月)。
八八年五月、第七回定期総会(会長:戸塚薫、副会長:石川弘尚・豊田悦子)で採択された「新規約」「5(活動方針)本会は目的達成のため、以下の方針に基づき活動を行う。/(1)ケアつき住宅を地域のなかにつくり、その実践を充実させてゆく。」
こうしてこの時期までケア付住宅は掲げられてはいる。しかし次第に後ろに退いていく。福嶋が亡くなった後もしばらく借り上げていた部屋は維持される。そして新しく始まった企画・事業としての「体験入所」のために使われるが、その部屋は費用負担の問題から手放されることになる。
いっとき望まれたこと、そして後退していったことをどう見るか。たった二年の間、福嶋の死もあって立ち消えになっていったことを見る必要があるか。あると考える。
まず、ケア付住宅に実現の可能性がほぼなかったということではないか。住宅を、という以上、新たな建物として建てるか、既にあるものを借りるかである。これからみていくように、建物ができることも実際にはあった。しかしそのためには、自治体に認めさせ、金を出させることが必要だ。時間がかかり、予算がかかる。虹の会の場合、実際には具体的な働きかけをしてはいないし、始めてもいない。福嶋がもっと生きたとしてもその段階に進めただろうか。例えば埼玉県に申し入れぐらいしたとしても、現実的な折衝に持ち込める可能性があったか。
後述するように自治体が建設を認め作られたところはある。それで現実性はあると考えられていのかもしれない。ただ一つ作るのにひどく手間はかかり、金もかかり、その次が続くことはなかった。そう△343 したなかで、別の生活に移ることもできないなら、とても少ない数の人たちが、同じところにずっと住むことになる。それで住んでいる人は仮によいとしても、新しい人は入れない。数を増やそうとしても、建物を新たに作るとなればその費用がかかる。八〇年代は地価が上がっていった時期でもあった。こうしてこの策は、ぐるぐると狭い範囲を回ってしまう。八〇年代半ばには既にこうしたことは見えていたように思う。しかし追求されようとした。それに付いていこうという人たちがいた。福嶋もそういう人だった。
★26 「川口に「障害者」の生きる場を作る会」が七四年に結成され、対行政交渉を続ける。七七年十二月「しらゆりの家」開所。しかし、運動側との約束を反故にし、社会福祉法人「まりも会」に委託した△407 こと等に反発。「私達は既存の施設を一〇名に減少させただけの『重度障害者』隔離収容施設『しらゆりの家』を断じて許すことはできません」(『全障連』五、七八年四月)。運動の記録として「障害者」の生きる場をつくる会[1976?]。」
▼『福島本』
9 もっと大規模なケア付き住宅をの主張に付いて行けず引き返す
きりつめることに自発的に同意する。もっと大きなものを得るための方便・戦術としてでなく、本気でそう主張する。結果、実際にきりつめられてしまう。自らその方向に行く。そうしたことがもう一つ起こった。
所得保障とともに、あるいはその主題が政策論議の前面に出る前から、東京青い芝の会が七三年の結成以来、七〇年代をかけてずっと追求してきたのがケア付き住宅だった★34。たいへん長い検討・議論を経て「八王子自立ホーム」が八一年に開設された。そして相模原の「シャローム」開設運動が八二年に始まり、八六年に開設される。そして、『病者障害者の戦後』で、山田富也ら仙台の八四年からの運動があり八七年開設された「ありのまま舎」のこと、北海道では札幌いちご会(cf.小山内[1984])が八六年に実現するが、小山内美智子は入居できず、『夜バナ』(渡辺一史[2003])の主人公鹿野靖明は入居できたが望んでいたような生活ができないことを「ケア付住宅の住みごこち」(鹿野[1987])に書いていることなどを紹介した(立岩[2018d:341-348,368-371])。
さきに紹介した『自立生活への道』では、厚生省社会局更生課の身体障害者福祉専門官の河野康徳★35が「自立生活を考える手がかり――全身性障害者の状況と課題」(河野[1984a])、「フォーカス・アパート」(河野[1984b])を書いている。後で紹介する。そして寺田嘉子が「自立への一つの道――東京都八王子自立ホーム」(寺田[1984])。また『続・道』には、磯部真教・今岡秀蔵・寺田純一の「ケア付き住宅七年間の実践――東京都八王子自立ホーム」(磯部・今岡・寺田[1988])、白石の「自立生活のワンステップとしてのケア付住宅――脳性マヒ者が地域で生きる会」(白石[1988])、室津茂美の「グループホームの実践を通して――ふれあい生活の家」(室津[1988])がある。△277
それは、基本的にはうまくない手だったと、私は以前から考えていて、『病者障害者の戦後』でもそう述べた。まず、投下されたその多大の労力を考えた時に、最初のものであったから時間がかかるのは仕方がないとしても、ひどく手間がかかった。とくに新たに建設するのは困難だった。できたのはわずかな数だった。そして、入った人がずっといるのであれば、その定員の数しか住めない。ただ、そこに住み続けることを最善とするのでなければ、その場所を一時的な場所、その次の生活のための移行のための場所であるとし、実際にそのように運用できるなら、もっと多くの人が、体験のための場所として使えるかもしれない。白石が「シャローム」の運動をし運営をする八〇年代に強調したのはそのことだった。白石[1988]が言っているのはそのことであり、ほぼなんの記憶もない相模原での聞き取り(三頁)で聞いたのもそのことだったと思う。しかし現実には、例えば東京のそれにおける流動性は低いものだった。そこに入った人たちの多くは、そこにずっと暮らした。他の人が利用しようにも利用できないものであり続けた。
基本的なところに戻って考えよう。集まって住むことのよさというものはある。一人暮らしが、本人においても望まれない孤立になってしまうことがあることは言われてきた。しかしそれは、種々、隣あわせにあるいは隣近所に住むとか、様々に、すきなようにすればよい。そして障害者同士である必要もない。結局のところ、その正当性は、介助を少なくできることに求められる。
『病者障害者の戦後』でも同じ箇所を引用したが(立岩[2018d:346])、河野は、「生活の場のあり方については先進国に示唆的な実践例があるが、国情の違いなどのためそれらの方策をそのままの形で導入するのは適当でない。/[…]自立生活というものを、家族との同居や施設入所以外の生活に限定してとらえるのは現実的ではない」(河野[1984a:18])と言う。そして日本のケア付住宅のモデルにもされたという「フォーカ△278 ス・アパート」――七〇年代の『とうきょう青い芝』にその見聞記などが幾度も載っている――の紹介をしている(河野[1984b:18])。この箇所には介助の人手が少なくてすむからとは書いていない。しかし、この形態の居住が有効である理由を考えていくと、それしか残らない。そして実際、札幌にできたものでも介助者を「共有」することになり、それは介助が多く必要な人には辛いものであったという。
▽白石 磯部さんが、ケア付きの自立ホーム、ケア付き住宅、作ったでしょ。小規模すぎるって、もっと大きいのを作るのには問題ないって。五、六〇人規模のやつを、東京で作ろうっていうふうに磯部さんが言い始めて。で、八丈島がいいんじゃないかって、言ったんですね。[…]島流し。[…]うまく合わなくなっていって。それで大森君も東京青い芝は嫌だと言って。自立連、辞めよう。辞めた。自立連辞めて、こっち〔福島〕に。俺と同じ時期に。(白石、白石・橋本[i2018])△
そんなことがあったことは、三〇年余りが経って初めて聞いた。このことは機関誌の類には出てこない。ただありうることだと思った。白石はここでも引き返した。どうもおかしなことだ、おかしなほうに行ってしまうと思ったのだ。そして障害者運動の全体は、結局その方向には向かわなかった。そしてそのことが正しい、正しかったと、効果的であり効率的であったと私は考える。ケア付き住宅を作る(作らせる)のに、偉大な膨大な労力が費やされた。比較のしようもないが、やはりたしかにおおいに苦労はして、その当時は非現実的と思われていた――だからケア付き住宅で、そしてさらに大規模な集住の場で対応しようとなった――別の道を行った。つまり、一人ひとりが住む場所に介助する制度・仕組みを作って、実現していった。△279 そのことによって、ずっと数多くの人が地域で暮らせるようになった。」
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