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 ※もともと論文として執筆されたものではない。どのような文章にするのかは未定
 ※202100907:9973字

■■知的障害者のための活動が「自我倡導者」を養成するか?それとも逆に?――台湾の事例から

■1 はじめに

「『自我倡導』とは何だと思う?」
「うん…それは、自分が思っていること、考えていることを他人に話すこと。」
「他人と話すことは大事なのか?」
「もちろん大事だ。」
「どうしてなのか?」
「自分が思っていることを話さないと、他人は分からないでしょう。それに、私が何が欲しい、何がしたいなんて他人は分からないでしょう。例えば、私は『麥當勞(マクドナルド)』を食べたいとしても、言わなければ、『肯コ基(ケンタッキー)』を食べさせられることになるでしょう。それは、イヤだ。『自我倡導』はそんなもんだ。」

 2015年3月23日、台湾の全国各地から20数名の知的障害者が集まった。以上の対話はその場で出てきたものである。台湾において「自立生活運動」と名付けられた障害者運動は2007年に始まったが、それ以前に、1980年代後半ごろ中華民国国民政府が「解厳」してから障害者運動が進んできたと認識されてきた。同時期、障害者運動とともに、知的障害の子どもの教育権を守るために親による運動も発展してきた。親が高齢化したり、亡くなったりした知的障害のある子どものケアと自立生活の支援に加えて、国際的な動向を踏まえ、「自我倡導」と知的障害者の自立生活の概念を導入した。2008年に「中華民國智障者家長總會1(親の会連合会、以下、「智總」と略)」は、知的障害者の自立生活を目指して、7つの地域の親の会や福祉施設と連携し、知的障害者が主体者となるための活動の試験的プログラムを行った。その後、参加団体が年々増え、活動の規模が大きくなってきた。2018年には約20団体が参加していた。智總が主催するその活動を表現するのにピッタリな日本語2が見つからないため、本稿では、「自我倡導活動全国ネットワーク(以下、「全国ネットワーク」と略)」と呼ぶ。上記のエピソードは全国ネットワークが始まってから7年後、初めて知的障害者が協同コーディネーター役を担当した場面であった。支援者として社会福祉士W氏が知的障害者コーディネーター「小君(シャゥジュン)」氏(以下は「小君」を表記)に質問し、他の知的障害のある参加者に活動の目的を説明しようという対話である。「自我倡導」は「Self-Advocacy」の訳語としてよく使われており、「自我倡導者」は「Self-Advocate」という意味である。日本語では「セルフ・アドボカシー」はさまざまな意味を持っているから、混乱を防ぐために本稿では台湾で使われている「自我倡導(者)」をそのままを使う。「自我倡導」の意味は、より広く深く検討すべきであり別稿で論じていきたいため、本稿ではそこには踏みこまない。
 筆者が「自我倡導」の実践と出会ったのは2013年の春。それが2017年3月まで智總に勤め、その全国ネットワークの企画者と実行者を担当するきかっけとなった。小君との初対面は2012年の夏に、筆者が智總で活動支援ボランティアしたときのことである。その後、年に数回、小君と会うようになった。全国ネットワークの活動形式の変更とともに、小君はアイデンティティの転換を見せてくれた。小君は2009年から続けて全国ネットワークに参加しているただ一人のメンバーであり、彼女の積極的に参加していく姿が母親の李氏(以下は「李」を表記)を変えた。それだけにとどまらず、彼女の居住地の親の会や支援者、知的障害者をも徐々に変えた。本稿では、小君の物語及び全国ネットワークの活動形式の変更における相互作用を検討していきたい。また、小君の影響による、彼女と親密な関係のある李の変化についても述べる。そのために、筆者と小君との活動の経験から分かったことのほか、小君本人と母親李と、2010年から小君を地域でサポートしている支援者、3人の聞き取りした内容を考察した。

■2 小君の物語と変貌▼もっと詳しく▲

2.1 「知的障害者」はダメな人間?
 1989年10月に台湾東南部の台東で長女として生まれた小君は、父親は仕事の都合で長期間不在、弟も勉強のために都会へ出ているため、小君は母親の李と親子二人で暮らしている。中学校1年生のとき、公的な教育支援を受けるため、担任教師の助言で知能検査を受けた。検査の結果は「臨界点」だったが、結局、軽度の「智能障礙3」にあたる障害者手帳を取得して、法的に「智能障礙者」となった。
 中学校卒業後、地域でただ1校の職業訓練学校の「綜合職能科4(特別支援学級)」に1位の成績で入学し、当時、地域の障害者の中の「資優生」と呼ばれた。3年生の時、校外職場での実習があり、実習先としてパン屋を選んだ。実習期間は、週に2回職場で実習して、他の時間は学校で授業を受けた。しかし、小君は食パンの包装技術を習得できず、包装の際、しばしば食パンに手形を残して、売れなくしてしまった。店主は小君に不満をもち、1ヶ月間未満(実際には8日未満)で、「不適任」という理由で学校に「退貨(返却)」した。「資優生」と思われていた小君が実習先から「退貨」されたため、学校の職場適応援助者は小君が実習に積極的に取り組んでいなかったと思い込み、母親の李を学校まで呼びだし、皆の前で小君を大声で叱責した。元々家族は、小君を一生世話するつもりであり、実習や仕事などをさせるつもりはなかった。しかし学校の教師から何回も話があり、将来を考えて態度を変え、ためしに実習に行かせたのだった。パン屋事件は小君と李にとって、深いトラウマ(trauma)を残し、小君は自分を「ダメな人間」と思い込み、自信を失い、閉じこもって、初対面の人との挨拶や簡単な会話、目を合わせることができなくなってしまった。李もショックを受けて、もう娘に一般の職場に行かせたくなくなってしまった。

2.2 転機その1:福祉施設と地域の親の会との出会い
 パン屋事件の後、卒業のために小君は地域の福祉工場が運営する「料理教室」で実習を受けた。この経験は福祉施設との初めての出会いだった。卒業後、小君は慣れてきたその福祉工場に入り、1年間の職業訓練を受けた後、援助付き雇用形態(supported employment)の社員として採用され、福祉施設が運営するパン屋に就職した。最初は多少の抵抗があり、来客への対応ができなかった。支援員は無理させずに、小君のペースにより沿いながら一歩一歩にパン屋の各役割を経験させた。その過程で小君は実習先のパン屋で受けたトラウマから徐々に回復し、数回に顔を見たことがある来客とならアイコンタクトをとりながら対話ができるようになった。その福祉施設は、地域の知的障害者の親の会との連携があり、親の会の会員の知的障害者もその福祉施設を利用していた。小君は職業学校3年生のとき、学校の先生に連れられて親の会を見学した経験があったため、卒業前に、自ら母親に入会希望を伝えた。2008年、小君と李は地域の親の会に入会した。当時小君は、「自我倡導」について何も知らなかった。
 地域の親の会は、成年の知的障害者が学校卒業した後、就職しても家と職場以外に行く場所は少なく、友だちを作る機会もないと考えていた。彼らが有意義で充実した生活を送るために、余暇活動を行ったり知的障害者同士で友だちを作ったりできるようにとの配慮から、知的障害者本人のグループを作った。グループは、2013年にメンバーの議論により「愛心彩虹家族」に名付けられた。この名前はお互いに温かく助け合い、綺麗に優しく包容しようという意味である。加えて、グループの役員も一から作りあげた。「社長(リーダー)」1人、「副社長」2人、活動係1人、服務係1人、財務係1人、任期は3年間である。他のメンバーは「社員」と呼ばれ、およそ40名の社員が加入していた。親の会の職員1人が支援者を担当する。小君は、2013年1月から第1期の社長を担当し、2016年には引き続き2期目の社長となった。

2.3 転機その2:全国ネットワークへの参加
 2009年、小君は地域の本人グループ代表として智總が主催する知的障害者の全国ネットワークに参加した。その後、自らの希望で継続的に参加している。当時の智總の同僚によると、小君は最初に参加したとき、あまり発言しなかったし、目を合わせることもなかったという。しかし、筆者は小君と初対面のとき、シャイな面もあるが、あっさりした明るい姿が印象に残った。
 全国ネットワークの活動には大まかに二つの部分がある。一つは参加者が定期的に集まり、「自我倡導者会議」と名付けられた会議を行う。会議では、知的障害者が主役となり自立生活や興味のある主題について報告や意見交換を行う。また、「学習営」について話しあい、決議を行える場でもある。最初のうち参加者は十数人だったが、段々と増え、2018年には50から60人の規模になった。もう一つは、年に一度、親の付き添いなしで一泊二日を過ごす「自立生活学習営」という合宿活動である。毎年自立生活に関わる主題を設定し、会場によって活動内容は違うが、およそ150?300人の知的障害者と支援者やボランティアが参加する。参加者を10?15人ごとのチームに分け、チームワークで任務の達成を目指す。チームリーダーは知的障害者が担当し、副リーダーは支援者やボランティアが担当する。二つ活動の対象者はおおよそ18歳以上の知的障害者である。
小君が最初に全国ネットワークに参加したのは2009年の学習営だが、自身の変化の転機として印象深く感じているのが、2010年の学習営で初めてチームリーダーになったことである。そのときはキャンプ形式で、野外での生活や料理を作る方法などが任務であった。チームリーダーを担当し、他の参加者と任務を達成したことが、小君に自信を与え、自発的に参加を継続する動機となったのである。

2.4 段階的に自我倡導者へ
 小君は全国ネットワークに参加してから、「自我倡導」という言葉を初めて知ったという。
 智総から聞いた。[…]すなわち、自分のために声をあげ、また、仲間のために声をあげること。[…]また、自分の行為に責任を負うことも入ってると思う。[…]例えば、仕事を変えたい、でも、次にどんな仕事をやりたいか、考えずに、勝手に仕事を辞めると、お金がなくなってしまうというのは、自分の責任だ。「自我倡導」が私たちに伝えてくれるのは、自分で責任を負うべきだということ。(小君、インタビュー逐語録1のP.25)
 自我倡導者会議には、知的障害者が自分の意見を表明する場を作ることを目的としていたが、「自我倡導者」を養成する場であるともされる。だが、知的障害の参加者は、各団体から派遣され所属する団体の支援者がいつも傍にいるため、話す際には傍にいる支援者を見てから発言することが多い。これでは自分の意見を表したかどうか分かりにくい。そこで、本音を聞くため、2014年に自我倡導者会議が半日から1日に延長された。午前は従来の通りに全員で会議をし、午後は知的障害者と支援者に分かれてそれぞれの場で活動を行う。最初の年の午後の知的障害者の活動では、支援者二人(社会福祉士W氏とL氏)がコーディネーターを担当した。参加を始めて6年目になる小君は、この新しい場で、他の参加者を積極的にサポートし、支援者の「小幇手(アシスタント)」のように活躍した。2015年には、知的障害者が徐々に主導的になることが目的とされ、智總からの誘いを受けて、小君はW氏とともにコーディネーターを担当した。事前に筆者とW氏とで準備しておき、当日小君と会場で活動の流れや準備などについて話し合った。小君に何を分担してもらうのがよいか、普段彼女に会ってないW氏と筆者はよくわからなかったため、資料の配布や他の参加者にマイクを渡すなどの簡単なことを小君に頼むことにした。しかし、小君と話し合ってみて、次第に討論主題の説明も小君に任せるようになった。冒頭に挙げた対話は、そのときのものである。
 2016年には、W氏と筆者は一歩引き下がり、小君を含め3名の知的障害者コーディネーター5の支援を行った。前年度に小君と協同コーディネーターの役割を担当した経験に基づき、W氏と筆者は2016年度活動が始まる前に、3人及び所属団体の支援者とSkypeで事前に打ち合わせをした。コーディネーターの役割と活動の流れ、また3人の分担と準備について話し合った。当日、午前の自我倡導者会議が終わると、5人で昼食をとりながら、もう一度午後活動の流れや3人の分担役割を確認した。午後活動が終わると、すぐに5人で検討会を行った。これを年に6回行うことで、小君と他の2名の仲間は活動の流れや互いの役割分担を徐々に理解し合うようになった。小君は、自分の変化を4段階に分けて次のように述べている。
 単なる参加者から、自我倡導者になって、その後は協同コーディネーター、さらにコーディネーターになった。[…]階段に登っているようだと思う。一歩一歩、一階から二階、また三階に登って、その後は最上階に行く。私の能力も、最初は地域の参加者代表から、自我倡導者に上がって、さらに協同コーディネーターに上がって、その後は一番上のコーディネーターになるわぁ。(小君、インタビュー逐語録1のP.25)
 小君にとって、「参加者」という段階は学習営に参加したときだという。その後、自我倡導者会議に参加した人は「自我倡導者」と智總から呼ばれるようになる。参加者の1人からコーディネーターまでを経験した小君は、役割が年々に変わることについてどう思ったのだろうか。
 協同コーディネーターを担当したときには、「私にできるのか」と心配になった。試してみたいという気持ちはあったが、速く終わって欲しかった。[…]コーディネーターを担当するのはかなりストレスがたまったね。(以前、支援者が傍にいたときと比べると、)全部自分でやるし、他の2人とは一緒にやったこともなかったし、最初は何をするか、分からなくって、ちょっと怖かった。[…]打ち合わせをしましたけど、本番では全部忘れてしまった。他の2人も忘れてしまった。私は遠いところに住んでいるので、彼らとは話し合う機会もなかったし。でも、この問題はLineで解決できた。(小君、インタビュー逐語録1のP.29)
 ストレスがたまるが、小君はコーディネーターをやりたいという気持ちを持ち、活動をつづけた。そして、仲間と一緒に困ったことの解決方法を探すになった。違う地域に暮らしていても、類似の経験を話し合えるようになった。
 Lineでたまにお互いに近況を話したりする。[…] T君6も(地域の本人グループの)社長だから、どうやってやっているか、話せるからね。[…]最近はCちゃんと考え方が近くて、同じ軽度の人だから、話やすい。 […]協同コーディネーターからコーディネーターになったほうがいいと思う。今はだんだん慣れてきたので、活動の内容を私も分かってきた。(小君、インタビュー逐語録1のP.29、P.31)
 これが小君の物語と変貌である。この数年間、小君は全国ネットワークで「自我倡導」を体験しながら、自分なりの理解を地域の他の知的障害者にも伝えている。

■3 「自我倡導者」を養成するか?それとも逆に?

 自我倡導者会議には、運営規模の配慮で、各団体を1-3名の知的障害者が参加し、それぞれ所属の団体に戻った後、会議で話し合ったことを他の仲間に伝えて、「自我倡導」を広げることが期待されているが、簡単に成功するわけではない。参加団体のなかには、多くの知的障害者に会議を「体験」させた方がよい、知的障害者が仕事の休みが取れない、親から参加の同意がもらえない、普段の知的障害者の行為や表現の賞罰といった多様な理由で、毎回の集まりに違う参加者を派遣する団体が少なくない。智總は活動の主催者だが、参加者を決めることはしない。このような現状があるため、毎回会議の基本規則や「自我倡導」の解釈を振り返らなければならない。全国ネットワークを続けるうえで、小君のように長年に参加している数少ない参加者と新しく入る参加者の期待が異なることによる困難も生じている。
 全国ネットワーク活動の準備は、以前は智總側が全て行っていたが、「自我倡導者」を養成し、知的障害者をその場の主役にするため、2013年以降、資料配布や、会場準備と片付け、主題報告、司会者や会議記録作成などの役割を、次第に知的障害の参加者に任せるように変わってきている。そして、活動形式に関しても、半日から一日に伸ばす以外に、年に6回の会議日程と会場を参加者が話し合って決めるというように変更された。そのなかで、小君の役割も毎年変わっていった。
 小君の成長は、全国ネットワークの活動形式を変更によるものだと関係者たちは理解していた。しかし、筆者は、彼女の長年に渡る活動を振り返って、それらの活動が彼女の潜在的な可能性を伸ばしたと感じる。そして、彼女の意欲に応じるため、全国ネットワークの活動形式、そして関係者や支援者が変わらなければならないのではないかと考える。

3.1 母親の転換その1:手を放してから親子関係の改善
 ある日、智總が台東で保護者向けの「自己決定」についての研修会を行った。午前の研修会が終わった後、李は小君を職場へ送る予定だったが、小君は「行きたくない」と言い出したことがあった。李は、理由もなく急にサボることは職場に迷惑がかかると思い、娘と争った。次の瞬間、李は午前中に聞いた内容を思い出し、サボる利点と欠点を小君に分析させ考えさせ、出勤するかどうかの決定を娘に委ねることにした。しばらくして、小君は「出勤する」と返事した。
 うわ〜すごく役に立つわぁと実感したね。私が強引に行かせても、結果としては同じだけど、彼女はイライラして行くでしょう。でも、その決定権を彼女に返せば、自分が決めたことだから、どんな結果になっても、自分の責任だね。(李、インタビュー逐語録のP.26)
 この経験は、李が小君から手を放す初めての体験となった。これは小君との親子関係を改善する第一歩となった。以降、このような争いがあったときには、李は「自己決定」の概念を思い出し、決定権を娘に返した。小君はその過程で自己決定を味わって、自己責任を負う意味も徐々に理解してきた。李もこの体験から娘の変化を見て、積極的に地域の親の会に参与していった。李は、2013年3月には親の会の理事長に選ばれ、2016年3月には2期目の理事長となった。李は親が子どもを手放す難しさを分かったうえで、他の親に自分の経験を話した。地域の親たちは小君の変化を見て、自分の子どもも小君のようになって欲しいという希望をもつようになった。

3.2 母親の転換その2:娘の健康と成長の葛藤から頼りにし支えあう
 小君が全国ネットワークへの参加を続ける過程で、李は一度、移動にかかる時間を考え、娘の健康のために「やめよう」と言ったことがあった。
 (自我倡導者会議に参加するとき、)朝5、6時ごろ出かけて、夜11時すぎに帰るのは、疲れすぎると思い、何回か参加した後、「もう参加するのやめないの?」と私は訊いた。けれど、彼女は、「イヤ、参加する」と返事した。彼女自身に興味があるなら、支えてあげるしかない。(李、インタビュー逐語録P.15)
 2013年以前、自我倡導者会議は台北で行われることが多かったため、自宅から会場まで当時は電車で片道およそ5、6時間かかっていた。2013年以降、年間6回の自我倡導者会議は、各地で回って行うようなったものの、小君が暮らす町から各会場までの移動にあいかわらず時間がかかった。早朝に家を出て、片道5時間以上かかるときもあった。会場の近くに前泊することもある。一番遠くからの参加者である小君は、交通支援が必要であり、2009年からほとんど休まず参加するために、母親や地域の支援者たちができる範囲でサポートしている。
この過程で、小君は、各地の会場までの公共交通機関や乗り換えのルートを調べることを学び、母親に教えるまでにいたった。李がよく覚えている出来事がある。智總の理監事会議が台中で行われたことがあった。理事として会議に出席するためには、李が暮らしている町から台中まで、台湾全土の約半分ほどの距離を越える必要があった。主に台東で活動していた李は、乗り換えルートが分からなかったが、小君が教えてくれた。「自我倡導者会議で台中に行ったことがあるので、行くルートを覚えていたから。」小君はそう言った。世間に「知的障害者」と法的にレッテルを貼ら者は「弱者」と思われるがちだが、健常者及び母親として「強者」のイメージを持っていた李はそのとき、「弱者」になった感じがあったと言った。その後、李は徐々に小君を頼りにするようになり、「離れられないのは、私のほうでしょう」と述べた。

■4 これからも可能性を生み出していくでしょう
 小君は現在も「愛心彩虹家族」と全国ネットワークで活躍している。諸々の活動におけるコーディネーターとしての自主性もますます芽生えて、他の知的障害者の支援者としても活動し始めている。さらに、全国ネットワークで体験したこと、学んだことを地域に戻って活用している。2015年と2016年の学習営では、台湾で初めて知的障害者向けのシンポジウムが行われた。しかし、予算の関係で各団体の参加人数は8人に限られた。小君が所属する「愛心彩虹家族」は、このような会を「自分の故郷でもやろう」と声をかけあい、2017年8月25日に台東で初めての知的障害者向けのシンポジウムを開催した。地元の政府関係者や専門家なども招待した。小君は司会者を担当し本人の声を広げた。さらに、2015年10月にスリランカの首都コロンボで開催された第22回アジア知的障害会議に、また、2016年10月に米国フロリダ州のオーランドで開催された国際育成会連盟(Inclusion International)の世界会議に、智總の理事長と筆者と母親李と4人で出席し、台湾の知的障害者代表として国際会議7にデビューした。世界に台湾の知的障害者の声を発信するとともに、他国の知的障害者リーダーから会議の行う方法を学んだ。「他国の人ともっと交流したい。[…]他の国で『自立生活』はどんな意味なのか?『自我倡導』はどんな意味なのか?他の国の知的障害者グループはどんな活動をしているのか?それを知りたい」と小君は言う。
 他方、日常生活では小君は、一般企業のスーパーマーケットのチェーン店の面接を受け、勤めている。また、対人援助者を目指して、自ら放送大学に進学し、社会福祉と保育を勉強している。
 智總とともに多くの体験をしたことを踏まえ、小君が心配していることがある。全国ネットワークの活動と参加者人数については、毎年検討される。次年度のことは資金と職員の分担によって計画が修正される可能性があり、智總の決定も影響してくる。インタビューの際小君は、翌年度もコーディネーターの役が続けられるかどうか、気にしていた。「分からないね。もし智総がその役割を他人に変えても...私も従うしかない。でも、会議の参加者はやめないよ」とインタビューの最後に、彼女はそう語った。幸い最近聞いた情報では、小君は2019年から午後の知的障害者会議で、新たなコーディネーターの支援者としてその場で活動を続けている。全国ネットワークが小君を変えたのか?それとも小君が全国ネットワーク、そして連動的に関係者や他の知的障害の仲間を変えたのか?視点を変えると、答えも変わるでしょう。

■〔註〕
★1.Parents' Association for Persons with Intellectual Disability, Taiwan(PAPID, Taiwan).1992年に設立された台湾の知的障害者の親の会連合会。国際的には「PAPID」、台湾国内では「智總」として知られている。
★2.日本語では「本人活動」や「当事者活動」▼を→が▲よく使われる。台湾の場合は、本人や当事者の主体性はまだ普及しておらず、この二つの言葉は多少違和感があるので、使わない。
★3.「智能障礙」は台湾で「知的障害」の意味である。知能検査のIQの点数によって、軽度、中度、重度、極重度の4程度に分ける。2007年「身心障礙者權益保障法」が改正され、障害者の定義は「国際生活機能分類(International Classification of Functioning, Disability and Health,ICF)−国際障害分類改訂版」が採用され、障害者は8類型に分けられた。知的障害は主に第1類の「神經系統構造及精神、心智功能」に該当する。
★4.「綜合職能科」は、職業訓練学校や特別支援学校に設置される15−18歳の知的障害の生徒のための3年間特別支援学級である。授業内容は各学校によって多少違うが、ほぼ洗車、清掃、調理、理髪、サービス業などの職業技能を教える。
★5.2016年、小君とT氏(男性、1990年生)とY氏(女性、1992年生)の3人が共にコーディネーターを担当した。2017年、Y氏は自我倡導者会議から退出して、加入して2年目のC氏(女性、1995年生)がコーディネーターのチームに入った。
★6.註5.を参照。
★7.ここで挙げられた2回の国際会議には、小君と日本の参加者とも交流があった。


UP:20210907 REV:
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