HOME:Aru Magazine


……

Magazine

last update:20210908

 ※20210907:18715字
 ※20210908:2つに分ける→後半:0005


■■もうひとつの「ケア付き住宅」建設運動――「川口に障害者の生きる場をつくる会」の足跡

■-------- Forwarded Message --------
Subject: Re: 雑誌作ろうかと
Date: Tue, 7 Sep 2021 15:58:09 +0900
From: TATEIWA Shinya

**様

ほんとに雑誌の準備を始めました。

原稿拝見。これ2つにしませんか?
2の3、生きる場をつくる会の結成から市との交渉へ
までで切る。
八木下さんのその頃までの話
西村秀夫さんのその頃までの話
足せばいけると思いますよ。
そして生きる場をつくる会の趣意書は全文を収録・掲載する。
和田の話はべつでいいんじゃないかなと
八木下さんの生年など基礎情報ももっとあっていい。

あと[…]
どうなってます?

■20210911

◆以下話が始まるのは1974年のこと。ということは、ここには「ケア付住宅」という言葉、発想は入っていないはず。東京青い芝の人たちが外国にモデルがあるらしいことを聞いて見にいったりしているのだが、それは1975年〜。→http://www.arsvi.com/d/i05c.htm
 また、東京青い芝、札幌いちご会は、『自立生活への道』の人たちといっしょの研究会に入って、厚生省の人の理解も得ながら、ケア付住宅の方向に行くのだが、それはさらに後なので、この動きとも直接の関係はないはず。また運動の流れとしても、八木下(たち)はこの流れとは切れているはず。ただし、この運動周辺にいた西村はこのあと札幌に行って、いちご会の運動を支援する。また高橋儀平はその研究会に入っている。このへんいちおう確認。

◆あと、なおせるところまではなおしてから、という人がいたりとか、そこに和田が絡んでいるとか、それなりに複雑というか。

◆この論文は八木下の就学運動がまずあり、たぶんそれを聞きつけた西村らの介在もあり、埼玉でなんかやろうということになった。そこに…。…。その「生きる場」運動がどうなったかは論文3で、ということで1本=論文2。(八木下の就学運動は独立して1本になるならしてもよいと思う→論文1。)

 

■キーワード:障害者運動、ケア付き住宅、生きる場、埼玉県川口市

■1.はじめに

 1970年代から80年代にかけて、身体障害者の「ケア付き住宅」建設運動が、全国各地で一定の広がりをみせた。この取り組みについては、『自立生活への道』(仲村・板山編 1984)や『続・自立生活への道』(三ツ木編 1988)で、多くのページを割いてとりあげられている。1987年には、全国的な催しとして「『ケア付住宅』研究集会」が開かれ、各地からの報告と討論が行われた▼これもっと詳しく▲。この集会の基調報告(萩田 1988)では、ケア付き住宅建設運動のおおまかな経緯が説明されている。
 まず東京都で、東京青い芝の会を中心とする要求を受けて、1976年から「ケア付住宅検討会」が開かれ、1978年に報告書が出された後、1981年に「八王子自立ホーム」が開設された。横浜市では1983年に「グループホーム研究委員会」が設置され、翌1984年に「ふれあい生活の家」が開設された。神奈川県では1984年に「ケア付住宅基本問題検討委員会」が発足し、1986年に平塚市、藤沢市、相模原市にケア付き住宅が開設された。また北海道では、1978年に札幌いちご会が運動を開始し、1986年に「北海道営重度身体障害者ケア付住宅」が開設された。仙台市では、国の「身体障害者福祉ホーム」制度★1)にもとづくかたちで、1987年に「ありのまま舎」が開設された。▼このへんは立岩書いたものを使って増やすが、論文本体ではないので、いらなくなったら別論文にとっておく▲
 一方で、1970年代半ば、これらとはやや様相の異なるケア付き住宅建設運動があった。それは、埼玉県川口市で展開された「川口に障害者の生きる場をつくる会(以下、生きる場をつくる会)」★2)の運動である。この会は、ほかのケア付き住宅建設運動と同様、重度障害者も制約のない生活ができるよう、充分な介護者がついた小規模な住宅を市街地につくってほしいと、行政に対して要求した。しかし、生きる場をつくる会の運動は、研究会のような場での穏健な話し合いではなく、行政闘争のかたちで行われたものであった。雑誌や新聞、書籍で多くとりあげられ、全国的にも無名な運動ではなかったが、『自立生活への道』や『続・自立生活への道』が刊行されたころには、およそケア付き住宅とはよべないものがつくられてしまったとして、「失敗」に終わった運動ということにされていた。▼この整理の仕方で十分か? 『自立生活への道』の流れはおおまかに東京青い芝の流れで、ここにそもそも八木下たちが関わるという構図にはならない。▲
 本稿ではまず第2節で、運動の推移を追っていく。そして第3節で、なぜ生きる場をつくる会の運動が「失敗」とされたのかについて考察する。

■2.運動の推移

 ■2.1 八木下の在宅訪問と小学校就学運動

 生きる場をつくる会は、脳性マヒ者の八木下浩一を代表として、1974年5月に結成された。八木下▼もっと(ずっと詳しい)紹介▲は学齢期、障害を理由として入学を拒否されていたが、いつかは学校に行きたいと考え続け、1970年に28歳で学区内の小学校に入学した。八木下がおこしたこの運動は、障害児・者の普通学級就学運動の先駆けといわれている。のちに八木下は、関西青い芝の会連合会、関西「障害者」解放委員会とともに「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」結成の呼びかけ人になり、養護学校義務化が施行された1979年には、代表幹事として阻止闘争の最前線に立った★3)。
 生きる場をつくる会の運動のもとをたどれば、1960年代半ばまでさかのぼる。埼玉県川口市で生まれ育った八木下は、「川口市には重度の寝たきり障害者が何人いて、どういう生活をおくっているのかを知りたい」との思いから、在宅障害者の家を訪ね歩くようになった(八木下 1980: 157)。訪問しても家族から拒否されて本人に会えなかったり、ときには塩をかけられて追い返されることもあったが、八木下はこの在宅訪問を通じて、のちに会の運動に大きくかかわることになる雨宮正和、山崎広光と出会った。
 雨宮▼紹介:生年、障害名…▲は、ほとんど外に出られず、家のなかで毎日を過ごしていた。15歳から19歳まで療護施設に入所した経験があり、家よりも施設にいるほうが友達と話せたりして楽しいと思ったものの、時間や規則に常に縛られる日々が苦痛だと感じた。また、施設内の学校で文字を覚えることはできたが、社会のことについては何も教えてくれなかったという不満もあった。こうした体験から雨宮は、自分のような重度障害者は家や施設のなかに追いやられ、社会から分断されていると感じており、そうではなく表に出ていきたいと思っていた(雨宮 1975; 八木下 1980: 158)。
 山崎▼紹介▲は、施設入所の経験はなかった。おもに母親に面倒をみてもらっていたが、その母親は「体力の限界」「心の休まることがない」という状態であった。山崎は母親から、ゆくゆくは兄が代わりに面倒をみると言われていた。しかし、兄には兄の家庭生活があるにもかかわらず、面倒をみられることになったら、ずっと気兼ねしながら日々を送り続けることになるので嫌だと思っていた。そのような状況になる前に家を出たいと思っており、「ぜいたくはいわない。三度の食事と排せつが自由にできればいい」と考えていた(山崎 1975; 川口に障害者の生きる場をつくる会 1975: 12, 18)。
 そのかたわら、八木下は自らの思いを果たすべく、1969年11月から「埼玉県身障者問題をすすめる会(以下、すすめる会)」の支援を受けながら、小学校就学運動を行った(八木下 1972a: 13)★4)。すすめる会は、県南地域に療護施設をつくることを目的として、1967年に結成された団体であった★5)。
 すすめる会は当時、脳性マヒ者の沼尻ふさ江▼紹介▲が代表を務めていた。沼尻は、国立身体障害センターに入所していた1955年に、足の手術を受けた。手術を行ったのは、センターに勤務していた整形外科医の和田博夫であった(沼尻 1992)。和田は、身体障害者の機能改善医療を専門にしており、手足の拘縮をなおして歩けるようにする医者として、障害者から「神様」と崇められる存在であった。センターの方針転換にともない、和田が別の病院に配転されようとしたときには、反対する障害者によって厚生省内で座り込みが行われるなど、激しい抗議活動が展開されたほどである。和田は、自分のシンパであった障害者とともに「根っこの会」★6)を組織しており、沼尻もその会員であった。また、沼尻が住む浦和市(現・さいたま市)内で和田が経営していた「浦和整形外科診療所」が、根っこの会の本拠地になっていた(二日市 1979: 80)★7)。▼別論文で紹介するむね記す▲
 八木下は1970年4月に、小学5年生として入学を果たした★8)。しかしこれは、八木下が知らないままに「小学校生活を経験させる」との目的で、聴講生扱いとして編入させられたものであった。教材が配られず、手を挙げても教師から指されず、通知表も渡されなかった。また、ほかの生徒よりも文字を読んだり書いたりするのが遅いこともあり、なかなか授業についていくのが難しかった(北村 1972)。
 3学期に入り、学籍がないことを学校から正式に知らされ、また5年生だと難しいので3年生ぐらいのレベルから勉強し始めるのがよいのではないかという話になった。そこで八木下らは、正式な3年生として学校に入ることを求め、ふたたび教育委員会と交渉をもった。ここでも、すすめる会が主導的に支援し、学籍保障をいちばんの目的として運動が行われた(八木下 1972b: 21)。その結果、八木下は1971年4月、29歳で学籍を得て小学3年生になった。この時点で、すすめる会は目的が果たされたとして支援の手を引いた(八木下 1971a: 28)。
 八木下は一時期、小学校就学運動だけでなく、雨宮や山崎らが暮らせる場をつくることについても、すすめる会や根っこの会に支援を求めていた。その過程で、和田が八木下や沼尻とともに、土地を視察しに行ったこともあるという(和田 [1978] 1993: 300)。しかし次第に、すすめる会や根っこの会と八木下らとの間で、方向性の違いが明確になっていった(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 16)。

 ■2.2 「八木下さんを囲む会」から川口の運動へ

 この時期に前後して、八木下は大学教員の西村秀夫から声をかけられた。西村▼→紹介:どういう仕事をする教員だったのか、2人の関係のきっかけは?等々▲は、1960年代後半の大学闘争に、東京大学教養学部の学生部教官としてかかわっていた。学生への強権的な支配を進めた教授会に対して、西村は少数の教員とともに異議を唱えた(西村 1969)。大学闘争が終息していった頃、西村は志を同じくする教員や学生とともに、市民に開かれた討論の場として連続シンポジウム「闘争と学問」を開催することを考えた。そして1969年11月に、第1回のシンポジウムが行われた(西村 1971: 1)▼紹介▲。シンポジウムは毎回、たんに講師の話を聞くというのではなく、さまざまな現場で闘いを担っている人が報告者になり、参加者どうしで議論を重ねるかたちで行われた▼毎回どういう企画だったのか▲。
 1年ほど経て彼らは、重要な関心事として教育問題に焦点をあてるようになった。 「『教育』が体制の求める人材の選別・形成の機構と化し、さらに近代的・合理的に再編される現状」において「どこに選別・差別の『教育』をこえる道を開くことができるのか」(西村 1971: 1)という問題意識のもと、連続シンポジウムは続けられた。そのなかで1971年6月、「身体障害と教育」と題するシンポジウムが開催され、八木下が報告者になった。
 このシンポジウムの終わりに、八木下は次のように提案した。

 私からも一つお願いといってはおかしいけれど、私なりにみんなに聞きたいと思うのです。僕なりに討論集会をやりたいと思うのだけれど、僕は何のために訴えるかということを考える場合、はたして、どういうことで障害者問題を世の中に明らかにしていったらいいのか、ということをみんなに聞きたいのです。(連続シンポジウム実行委員会 1971: 25)

 この提案を受けて1971年7月、西村やシンポジウムに参加していた学生、教師らによって「八木下さんを囲む会」ができ、月1回のペースで討論会が行われるようになった(連続シンポジウム実行委員会編 1971: 33)▼もっと詳しく▲。西村は「これは『八木下さんを支援する会』ではない。障害者も健全者も同じ会のメンバーとして討論し、考える会であり、健全者中心の文化の中で育って来た私たちが、障害者によって目を開かれ、教えられる機会である」と考えていた(西村 1972: 37)。
しかし八木下は、次第にこのままではよくないと思うようになる。

私だけなんで普通の小学校に通っているのだろう。ある面では正しいことをやり、ある面じゃまちがったことをやってきたのじゃないかと思う。それは何であるか。いまいったように僕だけ学校に行っていて、本当の重度の人で、教育を必要とする人々をなんでまきこんでいけなかったのか9)。(八木下 [1971b] 1972: 31)

 川口の運動と「囲む会」をどうやって結びつけていくかって、考えているわけだよ。今の「囲む会」にある面では満足なわけだよ、俺は。はっきり言って、今までは良かったわけだよ、あのくらいで。これからは、俺、違うと思うよ。まず、市民運動を川口の中でやっていかなくちゃあならないと思うわけだよ。(八木下・名取 1972: 55)

 一方、山崎は1972年ごろ、和田に会うために浦和整形外科診療所を訪ねた。和田は医師業だけでなく、複数の施設経営にかかわっていた。山崎は当初、施設入所の相談をしたいと考えていただけで、診察してもらうつもりはなかった。しかし和田は、施設に入るためには手術して歩けるようになったほうがいいだろうと勧め、山崎はいつの間にか勧めに応じて手術を受けた。(山崎 1975; 和田 [1978] 1993: 308)。山崎に続けて、雨宮も和田の手術を受けることになったが、すぐには手術が始められなかった。雨宮は、自分のような重度障害者は社会の役に立たないという考え方によって後回しにされているのだと思い、疎外感を募らせていった(雨宮 1973)。
 浦和整形外科診療所は、入院病床も備えていた。山崎は、何回か手術を受けながら入院生活を送った。施設入所の経験がなかった山崎にとっては、はじめての長期間の団体生活であった。診療所のなかでも重度者であった山崎は、軽度者からつまはじきにあいながらも入院を続けた。それは、退院したら以前のように、家族に気兼ねしながら過ごす生活に戻ってしまうと思ったからであった。入院から2年近く経った1974年、いよいよ真剣に今後の人生を考えなければならなくなった山崎は、八木下に対して「教育問題も大事だけれども、くそ・小便すらも保証されていない障害者の現状がある。これをどうする」と問い詰めた(山崎 1975)。

 ■2.3 生きる場をつくる会の結成から市との交渉へ

 山崎の訴えをきっかけにして1974年4月、生きる場をつくる会が結成された。会の結成にあたって、まず趣意書が作られた。八木下、山崎に加えて西村秀夫の3人で喫茶店に行き、山崎が言うことを西村が聞き書きし、手術直後で診療所から出られなかった雨宮にそれを読み聞かせ、意見を加えて趣意書がまとめられた(西村 1975: 6)★10)▼論文末に全文掲載▲。趣意書の題名は「わたしたちはどういう いみで いえをでたいかというと」であった(川口に障害者の生きる場をつくる会 1975: 40)。生きる場をつくる会は、1974年5月にこの趣意書を川口市に提出し、交渉を開始した。
 9月に行われた3回目の交渉で、会はさらに市に対して陳情書▼論文末に全文掲載▲を提出した。その内容は「@定員10名入れる場所(建坪90坪)、A土地を市街に見つけて下さい、B重度者3名(山崎・雨宮・仲沢)には3名の介護者をつけて下さい(重度者1名に対して介護者1名を必要とします)、C管理職員8名(炊事、洗濯、雑務)をつけて下さい」の4項目であった(川口に障害者の生きる場をつくる会 1975: 41)。こうした要望をあげた理由については、以下のように述べられている。

 「生きる場」をつくることによって、今までの数少ない人間関係をこわさず、新しい友だちをつくっていくこと、それは「生きる場」が大規模収容や、山奥の施設ではできません。小規模の集団で、人間関係がもちやすく、街の中で外出、買い物などの社会的生活がしやすく、隣り近所をはじめいろんな人と往き来できるところがいいのです。そういう日常生活の中ではじめて地域の人々も「障害者」の実情を理解していけるのだ。また、たとえ街の中に設けられたとしても外出の介護すらできないような少ない職員配置では意味がない。常時、人手を要するような「重度」の人には、一対一を原則とし、軽度、重度の区別なく、人間が制約されず、そこを基盤に生活をすることが「生きる場」なのです。
 私たちは普通の人が暮しているように、街の中であたり前の生活をしていきたい。そして「生きる場」とは、建物や、その場所を指すだけではなく、そこを基盤に、地域社会全体のなかで築き上げ、きり拓いていく、「障害者」の存在の場なのである。私たちは、単に「障害者」を収容するところを求めているのではなく、私たちの周囲をとりまく、地域社会総体が、「障害者」を受け入れ、ともに育ち、ともに生活し、人間関係をつくっていけるような社会になるまで運動を広げていきます。(川口に障害者の生きる場をつくる会 1977a: 33-4)

私たちの目指す"生きる場"とは、単に、小規模な施設をさすのではなく、そこを自分自身の生活の基盤としながら、それまで人間として奪われてきたものを取りもどしてゆく場であり、自分自身の甘えやあきらめとも闘う場である。又、家族や友人と対等な人間関係を結べるための場でもあり、一般社会の偏見や押しつけと闘い、「障害者」の存在を主張してゆく拠点でもあります。さらに、そこから地域の中に出てゆき、地域の人々と接する中で、人間関係を築き、「障害者」の利用できない都市構造の問題や、教育・労働をはじめとする、社会的活動の場を切りひらいてゆくための拠点なのです。(川口に障害者の生きる場をつくる会 1978a: 11)

 交渉当初、市の回答は前向きなものであった。1回目の交渉では、民生部長が「八木下君たち3人の考えはよくわかるから、関係者と相談して、試験的にも実現してみたい」と発言した(川口に障害者の生きる場をつくる会 1975: 12)。また、9月に行われた3回目の交渉では、市長が出席して「完全に要望のとおりにいかなくても、ある程度のものは作りたい。しかし、私たちだけでは決められないから財政関係とも相談する。作ることは確かに作る」と発言した11)。そして、建設資金として1,650万円が予算計上された。
 この時点では、「生きる場」の実現に向けて順調に進むかにみえた。しかしこのあと、大きく揺り戻しがおきた。▲1本めの論文はここまでにする▲

■注

1) その後、この制度は「身体障害者福祉ホーム」▼国の負担など説明▲から「福祉ホーム」へと名称が変わり、現行の障害者総合支援法では市町村地域生活支援事業のひとつに位置づけられている。
2) 文献によって、川口に障害者の生きる場を作る会、川口市に障害者の生きる場を作る会、川口に「障害者」の生きる場をつくる会などと、表記の揺れがある。本稿では便宜上、川口に障害者の生きる場をつくる会と表記を統一している。文献リストも同じく、この表記で統一している。
3) 1979年1月の文部省糾弾連続闘争を記録した自主映画『養護学校はあかんねん』では、八木下がデモ行進の先頭を歩いているシーンがある。
4) 別の資料では、埼玉の「守る会」の支援を受けたとも記されている(八木下 1971a: 26)。この時期、「埼玉県重症心身障害児(者)を守る会」が、すすめる会と連名で要望書を提出するなどの関係にあり、この団体を指していると考えられる。あるいは、また別の資料で「『すすめる会』『青い芝の会』『全障研』『障害者の医療と生活を守る会』『川口市教組』なども支援してくれて」(八木下 1972a: 14)との記述があり、このうちの「障害者の医療と生活を守る会」を指している可能性もある。この会は、後述の国立身体障害センター闘争を展開するために結成された組織である(鈴木 2012: 32-3)。
5) すすめる会は、埼玉県知事選挙を前にして1972年5月に開催された「知事候補者に障害者政策を聞く集い」の実施にあたって一翼を担い、その後20年にわたって続く革新県政の実現に寄与した。この集いを契機にして「障害者の生活と権利を守る埼玉県民連絡協議会(障埼連)」が同年10月に結成された際にも、すすめる会は中心的な役割を担った(障害者の生活と権利を守る埼玉県民連絡協議会 1974)。障埼連は「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協)」の一員であり、また障全協は「全国障害者問題研究会(全障研)」の姉妹団体である。のちに全障研は、養護学校義務化をめぐって、八木下が代表幹事を務めた全障連と激しく対立した。全障研の理論的指導者の一人であり,1981年から1996年まで15年間にわたって委員長を務めた清水寛は,埼玉大学教育学部の教員であった。清水は、京都大学の田中昌人らとともに、全障研の中心的な考え方である「発達保障」思想(批判的な立場からは、しばしば「発達保障論」とよばれる)を構築するうえで、大きな役割を担った。また、浦和高校を1971年に受験したところ血友病であることを理由に入学を拒否された大西赤人らの運動▼文献紹介▲や、「埼玉県東部地区に総合養護学校をつくる会」の運動もあった。埼玉は、障害児・者就学をめぐる運動の密集地であったといってもよい。
6) 文献によっては、身障根っ子の会、根っ子の会などとも表記されているが、本稿では便宜上、根っこの会と表記を統一している。
7) 和田は、▼まだ→トル▲国立身体障害センターに勤務していた時期▼いつからいつまで?▲から診療所を開業し、センターでの仕事の合間を縫って手術を行っていた。国家公務員の勤務外の医療行為は違法であることから、和田の身内や友人が名目上の経営者になっていた(二日市 1979: 80)。▼ここを詳しくしたものは別論文に▲
8) のちに刊行された八木下の単著『街に生きる』(八木下 1980)では、小学6年生に入学したとされているが、それ以前の文献ではすべて、小学5年生に入学したと記されている(教育を考える会 [1971a] 1971b; 八木下 1971a: 26; 八木下ほか 1972; のびのび編集部 1975: 31)。本稿はこれらの文献にもとづいている。
9) この文章は、1971年12月に行われた連続シンポジウム「府中療育センターの中から」の際に配布された。
10) 西村は、翌1975年に大学教員の職を辞して北海道に移り、障害者施設▼どこ?▲の職員に転身した。のちに西村は、札幌いちご会のケア付き住宅建設運動にもかかわっている。


2.4 運動の分断
▲ここから論文2▲→0005

■文献

※立教大学共生社会研究センター所蔵資料については、資料番号等を付記している(同センターからの要請による)。
雨宮正和,1973,「何故、私は荒木さんに支援するのか」(立教大学共生社会研究センター所蔵,三井絹子氏旧蔵・障害者運動関連資料(コレクションID: S13),資料番号: 1511).
――――,1975,「どうして"生きる場"を欲しくなったか」川口に障害者の生きる場をつくる会『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り,自ら運営する!』りぼん社,3.
二日市安,1979,『私的障害者運動史』たいまつ社.
萩田秋雄,1988,「基調報告」『ケア付き住宅を考える――「ケア付き住宅」研究集会報告書・資料集』3-5(1987年11月7・8日開催,於:横浜市健康福祉総合センター・障害者研修保養センター横浜あゆみ荘).
引間むつみ・奥野俊輔,2004,「写真集発刊によせて」雨宮正和写真集実行委員会『雨宮正和写真集「生きる」――車椅子から観えるレンズ越しの世界』幹書房,50.
本間康二,1978,「障害者の自立を踏みにじるな――行政の画策と法人の介入を斬る」『月刊障害者問題』24: 1.
川口に障害者の生きる場をつくる会,1975,『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り,自ら運営する!』りぼん社(立教大学共生社会研究センター所蔵,三井絹子氏旧蔵・障害者運動関連資料(コレクションID: S13),資料番号: 776).
――――,1977a,「障害者の生きる場をつくるために 第1回」『月刊自治研』215: 28-34.
――――,1977b,「障害者の生きる場をつくるために 第2回」『月刊自治研』216: 146-153.
――――,1978a,『娑婆も冥土もほど遠く――「生きる場」活動報告その2』.
――――,1978b,「10.11 川口市・まりも会 しらゆりの家 現地糾弾斗争に結集を!」.
北村治夫,1972,「聴講生としての1年間」八木下浩一ほか『わたしの30年間』16-20.
教育を考える会,1971a,「二九歳の小学三年生が誕生しました」『がっこ』4.(再録:1971b,『がっこ』1971年3月−10月合併号: 8(立教大学共生社会研究センター所蔵,三井絹子氏旧蔵・障害者運動関連資料(コレクションID: S13),資料番号: 2077).)
増田洋介,2019,「ぶっこわしながらつくっていく――脳性マヒ者・八木下浩一の地域観/施設観から」障害学会第16回大会ポスター報告原稿.
三ツ木任一編,1988,『続・自立生活への道――障害者福祉の新しい展開』全国社会福祉協議会.
仲村優一・板山賢治編,1984,『自立生活への道――全身性障害者の挑戦』全国社会福祉協議会.
仲沢睦美,2017,「障害者のくらしいまむかし『Vol.1 仲沢睦美の場合』」『シンポジウム「障害者のくらしいまむかし」資料集』(リンクス主催,2017年3月18日開催,於:青木会館).
西村秀夫,1969,「東大闘争と私」田畑書店編集部『私はこう考える――東大闘争 教官の発言』田畑書店,115-143.
――――,1971,「『夜学』について」連続シンポジウム実行委員会『シリーズ「夜学の記録」第1集 身体障害と教育(その1)』1-2.
――――,1972,「障害者の教育権と内なる差別意識の克服」『婦人教師』57: 35-40.
――――,1975,「市のお役人との交渉で感じたこと」川口に障害者の生きる場をつくる会『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り,自ら運営する!』りぼん社,6-8.
――――,1981,「『ケアー付き自立』を求めて――経過と展望」札幌いちご会『心の足を大地につけて――完全なる社会参加への道』ノーム・ミニコミセンター,23-33.
のびのび編集部,1975,「『学校ってなぜ競争ばかりするんだろ』重度脳性マヒ者の八木下浩一さん」『のびのび』2(1): 31-34.
沼尻ふさ江,1992,「生きることの基礎」根っこの会『きみも歩ける――身障者に機能改善医療を!』新泉社,125-127.
連続シンポジウム実行委員会,1971,『シリーズ「夜学の記録」第1集 身体障害と教育(その1)』.
鈴木雅子,2012,「1960年代の重度身体障害者運動――国立身体障害センター・医療問題闘争を事例に」『歴史学研究』889: 18-34, 41.
障害者の生活と権利を守る埼玉県民連絡協議会,1974,『障埼連のあゆみ・1――1972年5月〜1974年3月』.
橋儀平,2019,『福祉のまちづくり その思想と展開――障害当事者との共生に向けて』彰国社.
和田博夫,1975,「川口市の障害者の『生きる場の会』の活動に思う」『埼玉県身障根っこの会会報』4.(再録:1993,『障害者の医療はいかにあるべきか1 福祉と施設の模索』梟社,251-255.)
――――,1978,「『しらゆりの家』の成立の過程」『ひふみ』18.(再録:1993,『障害者の医療はいかにあるべきか1 福祉と施設の模索』梟社,298-308.)
八木下浩一,1971a,「八木下さんの談話」連続シンポジウム実行委員会『シリーズ「夜学の記録」第1集 身体障害と教育(その1)』26-29.
――――,1971b,「東大シンポに向けて」.(再録:八木下浩一ほか,1972,『わたしの30年間』30-32.)
――――,1972a,「わたしの就学運動」八木下浩一ほか『わたしの30年間』13-16.
――――,1972b,「学籍獲得闘争のこと」八木下浩一ほか『わたしの30年間』20-22.
――――,1980,『街に生きる――ある脳性マヒ者の半生』現代書館.
八木下浩一ほか,1972,『わたしの30年間』.
八木下浩一・名取弘文,1972,「なぜ30歳で小学校に行くのか」『理想』467: 46-61.
八木下浩一・吉野敬子,1979,「『障害者』にとって地域に生きるとは」『季刊福祉労働』2: 37-46.
山崎広光,1975,「これまでのこと」川口に障害者の生きる場をつくる会『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り,自ら運営する!』りぼん社,4-5.



UP:20210907 REV:20210908
Magazine
TOP HOME (http://aru.official.jp)