◇「極私的エロス・恋歌1974」の場合、赤ん坊の命がかかっていました。産婆さんを頼まない自力出産ですから、無事に生まれてくるかという不安があった。不安があっても、しかし命を賭けて自力出産をやりたい。それをやることで、自分の母たちが背負ってきた日本の家制度、その価値観を壊すのだ。主人公の武田さんはそう考えていたし、私もそれに乗りました。ただ、それが自分のなかでどういうふうに壊れるかは武田さん本人にもわからない。その後の展開でおもしろかったのは、生まれた子が混血児だったんですよね。彼女はもしかしたらそうかもしれないと半分は思っていたけれど、確信はなかった。混血児が生まれたことが、武田美由紀自身にあるリアクションを引き起こす。そういうことまでも含めて、ドキュメンタリーのおもしろさだと私は思います。(p.40)
◇「極私的エロス・恋歌1974」で、武田美由紀が黒人のアメリカ兵と同棲します。その男に対して、私はものすごく嫉妬を感じました。自分が嫉妬の涙を流す映像も撮りました。そのとき、ふと思ったんです。もしも逆の立場になったら武田さんは嫉妬するだろうか。それをつかまえるために考えました。「極私的エロス・恋歌1974」は三角関係の話ですが、そのとき私が付き合っていた彼女が妊娠していたんです。自分も妊娠しているのだと、武田さんに言いたいと彼女が言い始めた。私は待ってくれと言いました。その場面を撮って使おうと思ったからです。彼女は納得してくれたので、数日後、皆で海岸に遊びに行ったときに、私から彼女に「ここで言って」と仕掛けました。武田さんは驚いて、嫉妬の感情をあらわにしました。武田さんは彼女に向かって「なぜ今まで言わなかったの」と責めましたが、言わないように仕向けたのは私です。そういう仕掛けは、可能である場面については考えます。ただ、全部が私の仕掛けで進行するわけではないです。可能な限り仕掛けをしないと、ドキュメンタリーは撮れないと思います。(p.48)
(中略)だが沖縄と聞いた時、俺は焦った。遠すぎる。女との三年間の生活のディティールが残像として蘇ってくる。まだ、惚れていたのだ。
“原君、私、沖縄行くよ。一緒に来ないか。私、沖縄で色々やるから、私の映画撮らないか。私のやることは、私の肉体が一番よく覚えているし、確かだと思っているけど、なお映画に撮られて、記録していってもらいたいんだなあ。”
女が、こう言った時、私は女の話に乗った。これで、女とのつながりができる。女の映画を撮るという大義名分に、私はすがった。(中略)女との生活パターンをそのまま映画の方法として設定すること。
前作『さようならCP』において、私は、CPの肉体を借りて、肉体それ自身を徹底的に凝視したいと企てた。◇pp.119〜p.147は同映画のシナリオ
CP(障害者)−健全者という関係の共通項が、身体の階級性にあり、私自身の〈関係の変革〉というテーマをベースにして、被写体=演じる者を、撮る側が、どこまで、見ることに耐えられるか、を賭けてみたかった。
見る存在としてのカメラ=映画に。
CPの肉体をドンドン晒していくことで、肉体を呪縛している制度が、露呈されていったけれど、その最大の障壁が、彼ら自身の家庭だった。(中略)「あなたは家庭をこわしてまでこういう運動を何故……、じゃあね、うかがいますけどね、今迄黙っていましたよ、原さんの家族はどうなんです」
“そうだ、俺の家はドウナンダロ?”
奥さん、あなたへの解答は、今度は、ボク自身が演じて見せますよ。
凝視するカメラ自体を、凝視しつつ、演じられないか。(中略)
さて二作目『極私的エロス・恋歌1974』も、『CP』に続いて、肉体を獲得し、解き放っていくプロセスだが、私の肉体はどうなっていったか。(中略)
イッタイ、オレハ、ドウシタノダロウ。
イッタイ、オレハ、ドウスレバイイノダロウカ。(1974年5月11日)
1 美由紀と原の過去
2 タイトル「極私的エロス・恋歌1974」
3 沖縄への旅立ち
4 スーパー「1972年のオキナワ」
5 美由紀とすが子のけんか
6 出て行ったすが子
7 原への語り
8 沖縄の少女チチ
9 手紙
10 黒人兵ポールとの生活
11 原との確執
12 原への批判を小林に語る
13 翌朝、一人産みの決意を語る
14 混血児ケニー
15 美由紀の顔
16 ケーリーかけつけてくる
17 バー・ギンザ
18 チンポコの話
19 久し振りにすが子を訪ねる
20 小林から妊娠したことをきく
21 混血児ケニー捜し
22 母と子
23 沖縄の女へ、想いをこめてビラを配る
24 沖縄を立つ
25 スーパー「1973年 東京」
26 混血児遊をひとりで産み切る
27 すが子との再会
28 女たち、小林の赤ン坊をとり出す
29 スーパー「1974年」
30 東京こむうぬ
31 キャバレーで踊る美由紀
タケの出産は、第一子の父親・原が記録映画に撮り、「極私的エロス・恋歌一九七四年〔ママ〕」は全国各地のリブの女たちによって上映された。タケの生きざまの凄さに感動したという声や、評論家が激賞したという評価とともに、批判的な意見も巻き起こっている。九州の福岡優生保護法改悪阻止実行委員会が催した上映会では、上映後の討論会で「女性解放を闘おうとするものがAサインバーで働いたり、ヌードのゴーゴーガールをやったりするのはおかしい」という声があったと機関紙「Majo(まじょ)」に載せている。
ちなみに田中美津はリブニュース一二号(74・7・30)に、「「女と男の対話の映画」だって? 対話なんてどこにあったの? 写す男が居て、写される女が居て…。もと自分の「亭主」だったというだけの理由で、ああも安心して心の柔らかい部分をあけ放してしまう、タケのお人好さが悔しいョ」>102>「なにが女の凄さだョ! その凄い女をうまくカメラに収めて、“出世”階段かけ上る男の方が、どう考えても役者が一枚上じゃないか、ケッ!」と評している。(pp.101-102)
武田美由紀の顔がだんだん変わっていく。さまざまな体験をして居直った女の顔に。自分がよしとすることに居直った、自分をさらけ出せる女。こういう女がいるとホッとする。せい一杯、「私、女ですのよ」というようなふりをした女が、そしてそこから一歩もふみ出そうとしない女が、まわりには多すぎるから。
だが、なぜ武田美由紀を原一男のフィルムで見なければならないのだ。甘いよ美由紀さん。この映画は、彼女の彼への未練でできあがった映画だと思う。
[…]この映画は非常に、あいまいな、いいかげんな関係の男と女がいる映画であると思う。
武田美由紀も映画の終りで言った。「もう映画にとられたいという気持がなくなった。」という言葉、当然の言葉だ。やっと彼女の一人立ち――原から離れての――が始まると思う。彼女がこのフィルムを原や小林からとりあげて燃やしてしまったときに、彼女を本当に認めることができると思う。(『資料 日本ウーマン・リブ史 III』p.218)
原一男は『極私的エロス・恋の唄』を4月には完成するといっている。こんなに苦労してまで映画を作ろうとする努力に、ただ頭がさがるが、このニューシネマの作家たちが、当世ハヤリのポルノなどに見向きもしないのは、自分たちの生活の場で、ポルノのくだらなさをじっくり知ってしまったからだろう。
原一男の映画はどうしてこんなに凄まじいのであろうか?(中略)前作《―CP》をふんまえて、原自身、そして彼の一番身近な人達の凡てを白日のもとにさらけ出して、“視ろ!!”と家庭帝国主義のこの状況に挑んだのであろう。(中略)
美由紀とその一派のリブ王国・東京こむうぬは子を産むコミューンだそうだ。(中略)あの啖呵の機関銃女とは思えない、それ程のやさしさを辺り一面に漂わせているのだった。“ペラペラ、ピカピカした偽物はごめんだ。血の色したシネマが欲しいんだ”ジョナスはそう叫んだ。正にこの作品も血の色した強烈なる詩だ。
日本映画で、こんな噴きあげるような烽火をみせた映画はいつ以来のことだろう。(中略)
私がこの映画で無類に感動したのは、この無器道なくらいのこの母親が子供をお風呂に入れてやるところである。もう、その素晴らしさというのは、どんな宗教画も敵わない位の美しさである。(中略)あの男に従属することを拒否し、家を完全に無視してしまっているこの女が、子供を洗ってやる時にマリアになるのだ。(中略)
この映画は何にしろ美由紀の少しも、ひるまないリブ精神に押しまくられる。全くもって原一男は勝目がないほどに、ジュウリンされる。始めは「私映画」のドキュメンタリであったものが、コザへの訪問を重ねてゆくうちに、ドキュメンタリから離脱してくる。これも新しい映画方法である。(中略)これはまぎれもない今年のベストワンの折紙がつけられる映画である。
女たちとの対立する会話と石をぶつけられるカメラとして、だれよりも生臭い存在となり、彼と武田美由紀との関わりを追求することに成功していて、これまでの映画のカメラをただの機能のうちに閉じ込め、それを無視して画面を観るという約束事から自由になっているのである。そして、この方法によって、作者は、たえずプライバシーという禁忌にひっそりと身をかくす日常の亀裂を、現実信仰に足をとられることなく、主観的に再構築し、またつきくずしてみせる。
だから映画はまた、女の生きざまを追求するきわめて個性的な武田美由紀と映画気違いの原一男との闘い、論争の劇である。(中略)度し難い佐藤重臣の批評は、「現代のようにコインボックスに子供を捨てたがる母親全部に、このシーンを見せてやりたい」と恥知らずにつづくのであるが、この言葉への腹立たしさはともかくとして、ぼくには、原一男がいまだ武田美由紀の先の批判の射程内にいること、彼女の生きざまを、彼女をつき動かしているものの最深部で理解することもなくいるのではないかと思わずにいられない。
斉藤:映画のなかのあなたは、非常にロジックにモノをいうね。
美由紀:そんなことないよ。ただ、ぶったぎるだけだよ。
斉藤:すごく打算的にいえばあの映画、ぼくらに書かれることで、売れると思わないかね。
美由紀:関係ないよ。売れてもビクともしないよ。
斉藤:原君の『さようならCP』もいいね。
美由紀:くだらない。あまり好きじゃない。
デキバエがすごくカッコいい。それがウソだという感じ。私は本音で生きているんだからダメなんだよね。
ウソから出たマコトというのはほんとうだろうというふうに思った。
(中略)
斉藤:解消しないところがいいんだよ。
あなたも映画の中で解放されたらつまらない、抑圧されてた方がいいという意味のこといってるでしょう。
美由紀:私言ったことすぐ忘れる。
美由紀:私には自由なんてない。知らないから分からない。一瞬一瞬しかないもの。
(中略)
斉藤:沖縄へ、原君が小林さんを連れてきた。シットしたでしょう。
美由紀:あれは向こうで芝居設定したんだ。絵にならなければ面白くない。
斉藤:ある種のヤラセがあったんだね。
美由紀:全部ですよ。
(中略)
斉藤:こども好きらしいね。
美由紀:きらいよ。誰が好きになるんだよ。
(中略)
美由紀:どういうことないって。たまたまやれただけの話だって。それだけだよ。
斉藤:作品は見ているんだろう。
美由紀:見ていない。見たくもないって。これからも多分見ない。
(中略)
斉藤:いまなにやってるの。
美由紀:世の中の悪を退治しているので忙しいの。
(中略)
斉藤:あなたはこの映画の中に身を投げ込んだ。かかわりたくないといったってのがれられない。
極私的とある通り、プライベート・フィルムならいいけど、試写したり、公開したりで、あなた自身がいやおうなくかかわらざるを得ないことで、責任が出てくる。
美由紀:なにが責任よ。
斉藤:ひとつの作品を持ったという責任だよ。
少なくとも自分のためばかりでなく、原君のためにも一生懸命やったんだろう。
美由紀:なにが一生懸命よ。
(続く)