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『さようならCP』

1972年/82分/16ミリ 監督・撮影:原一男 疾走プロダクション

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last update: 20160502


[amazon:2015年版DVD]

■新着

◆2016/04/29 「原一男監督と考える 70年代の生の軌跡――障害・リブ・沖縄 〜初期ドキュメンタリー作品上映とトーク〜」
 於:立命館大学朱雀キャンパス5F大ホール

◆立岩真也 2016/04/29 『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』,Kyoto Books(327.4kb|700yen|gumroad経由)

◆横田 弘・立岩 真也・臼井 正樹 2016/03/25 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』,生活書院,250p.,2200+ ISBN-10: 4865000534 ISBN-13: 978-4865000535 [amazon][kinokuniya] ※ o/a01


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■基本情報

原 一男

◆1972 『さよならCP』上映運動関連資料(MS Word 83.5KB)
◆1972 『さよならCP』上映運動関連資料・2(MS Word 74.5KB)
 再録:定藤邦子
 *“さよなら”は資料原文ママ
 *暫定的にワードファイルで提供。今後増補、HTMLファイル化予定。

◆2005年度立教大学後期義転載レポート「原一男監督作品『さようならCP』について(中村閣乃介)
 http://abecasio.s23.xrea.com/report/archive/r_repo_05_2/16.html

◆2002/12「(インタビュー)「さようならCP」が問いかけたもの――原一男(映画「さようならCP」監督)」(『8ぴきめ』特集=映画と障がい者〜スクリーンの内と外)
 http://www.puku-2.com/maneko/tokushu/tokushu8_1.htm

◆1998/11/07
 『さようならCP』上映会ならびに出演者講演会
 於:横浜市立大学
◆1998/11/20〜23
 京都大学11月祭・障害者ドキュメンタリー映画祭で『さようならCP』上映
◆1998/11/22
 アムステルダム映画祭で『さようならCP』上映

◆疾走プロダクション 19720408 『シナリオ さようならCP』,疾走プロダクション,48p. ※r:[椎木章氏蔵書]+1


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■関連書籍

表紙をクリック→[amazon]で購入できます
『母よ!殺すな』
◆20100110 『母よ!殺すな 第4版』,生活書院,466p. ISBN9784903690148 10桁ISBN4903690148 2500+ [amazon][kinokuniya] ※ dh
 ※新たに9つの未収録文章を補遺 帯:雨宮処凛

◆20070910 『母よ!殺すな 第3版』,生活書院,432p. ISBN9784903690148 10桁ISBN4903690148 2500+ [amazon][kinokuniya] ※ dh
 *初版:1975年 すずさわ書店/増補版:1981年 すずさわ書店


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■言及

◆横田 弘・立岩 真也・臼井 正樹 2016/03/25 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』,生活書院,235+xip. 2200+

◆横田弘・立岩真也 「対談1 二〇〇二・七・二八」,横塚・立岩・臼井[2016]

 「立岩:[…]ちょうど自分の子供がいらして、自分が親だったということもあった。先ほどの話ですが、言うことがある程度聞き容れられ、まあ聞き容れられたかどうかは本当はわからないけれども、ある程度受け止められた。そうだと思うんですよ。例えば、僕はその番組は見ていないんですが、一九七一年ですか、『現代の映像』というNHKの番組で、「あるCP者集団」として取り上げられるわけですよね★21。いってみれば弱小集団じゃないですか。大きな団体ではないわけですよね。それがNHKのそれなりに見られていた番組になんで取り上げられる話になったのかとかね。それから次の年には原一男が『さようならCP』という映画を撮ると★22。あれはちょっとマスメディアと違う話になるんですが、両方を聞きたいんですけど、NHKならNHKというマスメディアが取材に入って、青い芝に注目するというか。これは何だったんでしょうね?」

 「★03 白石清春。一九五〇年生。私たちが調査をしていた八〇年代後半には神奈川県相模原市で作業所「くえびこ」、ケア付住宅「シャローム」の運営などの活動をしていた。私たちは安積(→註05)の紹介で一九八六年八月白石に会ったのだが、その安積――郡山養護学校の同窓生でもあった――は七〇年代半ばの白石について次のように語っている。  「当時、全国青い芝の代表は横塚晃一さんだった。福島で最初に始めたのは白石清春さんと橋本広芳さん。そのころ、橋本さんも白石さんもすごく過激でね。施設へ行って、ベッドの周りに棚があって鉄格子みたいになってると、「おまえら、こんなところに入りたいと思うのか」ってすごい剣幕でどなったりしがみついたりして。二度とこないように立入り禁止になったりして。怒り狂って。悲しみのあまりにね。私たちの目の前で、ご飯に味噌汁とおかずと薬と水をかけて、ごちゃごちゃに混ぜたのを口につっこまれたりしているんだよ、私達の同窓生がさ。あまりにも悲しみが高まるよね。「おまえら、こんなのめしだと思うのか」ってつかみかかってどなるのよね。
 白石さんはその後、青い芝の活動のために秋田に移り住んで、青い芝の事務所のある神奈川と往復してた、福島にもしょっちゅう来てたけど。七九年には白石さんが全国の代表になったんだ。橋本さんは白石さんの女房役でね。
 全国青い芝の仕事で東京に行くことが多かった。地域と東京とどちらが大事なんだって皆によく言われてたよ。あと街頭カンパをやったり。映画の上映もしたしね。『何色の世界』とか。『さようならCP』がやっぱり一番多かったけど。あのころは本当におもしろかった。自分達で社会を変えようっていう情熱があった。」(安積〔遊歩〕[1990→2012:30-31]  白石が『さようならCP』を見て衝撃を受けたのは七二年、七三年福島県青い芝の会結成。[…]」

 「★18 「六年、二〇歳になった時に障害者運動に出会った。四月一七日に「青い芝」の花見大会に誘われて行ったの。[…]」(安積[1990→2012:28-29])
 ここに出てくる先輩は鈴木絹江(cf.鈴木[2001])。一九五一年福島県いわき市生。「ビタミンD抵抗性くる病」。郡山養護学校高等部卒(第一期生)。福島県田村市の「ケアステーションゆうとぴあ」理事長。震災後の活動、脱原発の活動にも従事。私は一九九九年七月、まだ田村市に合併される前の船引町での「障がい者自立生活支援センター<福祉のまちづくりの会>」の企画に呼ばれて話をさせてもらった折に会った。終わった後、夕方ビールを飲みながら、ラモスというあだ名の彼女のつれあいが『さようならCP』の上映会に引きこまれ、そして…といった様々をうかがった。録音機をもっていかなかったことが悔やまれた。」

 「★22 『さようならCP』のシナリオ――と呼ぶべきものかわらかないが、かつて出ていたものにはたしかに『さようならCP――シナリオ』(疾走プロダクション[1972])とあった――(の「本体」部分)は『母よ!殺すな』の生活書院版に再録されている。再録にあたっての経緯については本書▼頁。監督原一男がHPにこの映画とその前後のことについて数回に渡って書いている(原[2014])。(生存学研究センター→)「原一男」頁からリンクされている。
 なお生活書院版には一部の発言が掲載されていない。この映画に対しては神奈川青い芝の会内部にも「女性差別以外の何ものでもないと思っています」(内田みどり[2001:287])といった評価がある。内田、そしてここに名前の出てきた人たちの関係者では小山清子、矢田佐和子、横塚りゑらが「婦人部」を作った。それに対して七六年、小山正義が廃止を宣言し、それに反論がなされ、取り下げられるといったこともあった(『あゆみ』三一号)。婦人部は青い芝の会の活動は続けながら「CP女の会」を結成、その二十周年に『おんなとして、CPとして』(CP女の会[1994])を刊行する。こうした活動について瀬山[2002]二階堂[2011]。内田は二〇一三年に逝去された。他にIwata(岩田)[2005]。
 なお『さようならCP』の上映会後の討論会の記録は『母よ!殺すな』に収録されているが、それらは山口県須佐市・防府市とあと六つは九州でのものである。この事情はわからないが、上映会は全国でなされた。関西での上映運動については定藤[2011]に記録がある。最初の上映会は宇井純らが東京大学の場を使って運営していた「自主講座」、「医学原論」においてだった。このこと、そして宇井と同じくずっと助手のままでこの講座にも関わった最首悟が、この映画を見て『シナリオ』に収録された「みられることをとおしてみるものへ」(最首[1972]、後に最首[2010]に再録)を書いたことについては脇田[1995]に記されている。この時の報告草稿として書かれたのが「障害者と労働」(横塚[1975→2007,2010:51-57]で一九七二年三月とある。次に掲載されているのが『シナリオ』に収録された「カメラを持って」で、やはり一九七二年三月とある。『シナリオ』の発行は奥付に四月八日とある。自主講座での初上映会に向けて出されたものと思う。」

◆横田弘・立岩真也・臼井正樹 「対談2 二〇〇八・一・二二」,横塚・立岩・臼井[2016]

 「★05 室津滋樹。一九八七年に聞き取り。当時は「ふれあい生活の家」職員(当事者は「グループホーム」より、「ケア付き住宅」という言葉が使われることが多かったようにも思う)。後に日本グループホーム学会代表を務める。『さようならCP』の上映会で司会をし、その時のことを書きとめている(立岩[2015d]でその部分を少し紹介した)。」

 「★13 二〇〇七年一二月一日、NHK教育テレビ「TVワイド ともに生きる」。ニュースの時間はさんで、一九時から二二時の生放送の番組だった。この番組(を録画したもの?)を横田たちが見たのだがこの三回目の対談?のきっかけの一つでもあったようだ。  二〇一五年、私はすっかりなにも覚えていなかったので、ツィッターでどなたか録画したものをもっていないかと問い合わせたら、高橋翼さんがDVDで送ってくださったので、私の発言部分だけ再録する。三回発言している。ただ、なぜ疲れたり怒っていたりしているのかは以下では伝わらないと思う。別に記録を掲載できればと思う。  私は意見を言うというよりなにか解説するという役割を割り振られていて、それに従ったのだが、当てられた時もっと言いたいことを直截に言えばよかったとこの番組中でも思ったし、たぶん発言を求めもしたのだが、以上の遠回しの――言うべきことではあったとは思うが、もっと簡潔に、そして、これはしゃべる機会がそれだけだったならという「結果論」ではあるのだが、別のことを話すべきだったと思う――発言の後は機会もなかった。
 一回目。司会に「立場は?」と問われて。[…]
 二回目の発言は『現代の映像』(→第▽章・註21)、『さようならCP』、そして川崎バスジャック事件(→第▽章・註33)、養護学校義務化反対闘争の時の文部省前の抗議行動の映像がすこしずつ映された後。
 「これらの話はこれからするとして、さっきVTR見せてもらってね、まず一つは、昔から人が怒っていて、怒るのをやめたとか少なくなったとかいうじゃなくて、さっき出た映像っていうのがあれが怒り始めみたいなもんなんですよ。昔からああやって怒っていたわけじゃなくて、あの時に怒り始めたんですよ。それは一つ押さえておかないといけなくて、そしてそれは、さっきの話の繰り返しになるんですけど、人はそう知らなかったはずなんですよ。さっき出た一九七一年の『現代の映像』、フィルムが残っているっていうのは今日聞いてびっくりしたんですけど、あれ全部やって、それから残りディスカッションしたらいいと思ったんだすけど、あれはたぶん珍しい番組だったはずで。NHKって普通こういうのやんないわけです。障害者ものだととくにね。そんななかでずっとやってきたなかであの映像はすごい珍しい。
 逆に言うと、怒っている場面、厚生省の前であるか文部省の前であるとか、そういう画像っていうのはほとんどメディアに乗らなかったと思います。ですからあいつら怒っているということを知っている人たちはほんのわずかだった。ということは事実として確認しなければならないし、それを知って動いたっていう人はやはり数としては少なかった、少ないなりにやってきた。そこの辺の事実関係っていうかな、は確認した方がいいと思います。
 そういうなかでほんとは怒っていいってことをみんなが知ってたらもっと簡単に怒れたかもしれない。怒っていることを知らせる、メディアっていうのは。[…]そういうところからちょっと考えたらいのかなっていうことは思いましまた。」
 そして三回目。[…]」

◆立岩 真也 2015/11/25 「横塚晃一――障害者は主張する」
 吉見俊哉編『万博と沖縄返還――一九七〇前後』(ひとびとの精神史・5),岩波書店,pp.257-283

 「その一九七〇年、二歳の脳性まひの子の殺害事件が横浜であった。その時に起こった減刑嘆願運動に対して青い芝の会神奈川県連合会は抗議運動を行なった。それが知られ、また、大きなメディアにいっとき意外に取り上げられたことは後述するが、七一年に製作され七二年に公開された原一男の初の映画『さようならCP』上映活動が同年に始まり、そんなこともあって関西等各地に青い芝の会が結成され、全国に広がっていく。」

 「だが、それは苦くもある。『母よ』の増補版以降には『さようならCP』の上映会の記録も収録されている。その最初に収録されているのは山口県・須佐町(現在は萩市)での上映会の記録(文責は司会をした室津滋)で、横塚の言葉がわからないから一文ごとに通訳してくれと言われ、「(かなり逆上)」と記す司会がそれに怒り、「そのような態度がどんなに障害者を押さえつけているかといるか……」と応じたのに対して、「主婦 そんなに感情的になられたたら困る。/(会場のざわめきは一層ひどくなり帰る人が続出。老人が数人、「かわいそうにね、頑張って下さいね」と横塚氏に金を置いていく)」【157】といった記述がある。また和歌山でのセンター闘争の時には、針金で身体を括りつけてセンターに一晩立てこもったのだが、結局捕まった人たちは、拘置所ではなく事務所に搬送され戻されることになったという挿話がある【369】。  しかし、こうした気の重い場に出て身体を晒し、突出したり突入したりし、そして空しくかわされるといった行ない・扱いが始まる。さきの映画もそんな映画だ。「障害もの」といえば、いつまでも人情ものが多いなかで異色のものだった(この映画についての原の文章も前記した「横塚晃一」頁から辿れる)。そして、きわめて単純な、その後何十年もまったく同じ言葉で繰り返される主張をする。自分たちはこの世・この社会において「あってはならない存在」【105】とされているのだと言い、それを糾弾する。つまり「殺すな」と言う。
 この言葉に歴史があるのは不思議だとも言える。まず子の殺害は殺害であると言うしかないではないか。だが[…]」

◆安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 19950515 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店,366p.

 「七二年,疾走プロダクション製作(監督:原一男)。青い芝神奈川県連合会(→第7章)の会員達が出演し,記録された。上映・討論会の記録として横塚[81:131-188]。シナリオも刊行された。他に高杉の文章([72→73])がある。」(『生の技法』第1章注31,p.31)


UP:20150917 REV:20150918, 20160318, 0322, 0323, 0328, 0502
原 一男  ◇青い芝の会  ◇障害者とメディア  ◇病者障害者運動史研究 
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