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青年医師連合(青医連)



◆青医連中央書記局編 19690920 『青医連運動』,日本評論社,日本の大学革命6,430p. ASIN: B000J9L1PA [amazon] h01. ms.

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「本書でとりあげるのは、全体としては、たぶん自分たちがやってきたことにあまり肯定的でいることができなかった人たちのことになる。それは多く、精神医療、臨床心理、そして子どもに関わった人たちだった。そしてそれは、六〇年安保の時の人たちと七〇年前後の大学紛争時の人たちを――その間には約十年の間があるが、医学部生は学校にいる期間が長く、その後も関係が続くことは多く、両方に関わった人たちもかなりいるのではあるが――区分すると、前者に対する後者といくらか重なる。そしてそれは(その後各々が何をしたかにあまり関わらず)明るく昔話を語り、(その相当に異なる立場にかかわらず)仲がよさげな人たちと、そうでない人たちという区分における後者にもおおまかに重なる。  その時期の前から医師になる人たちは固有の「政治課題」を有していた。つまり、卒業した後、医師免許を取得する前に無給で働くインターンの制度があったのだが、これにその人たちは反対した。ブント系の人たちが医学連の主導権をとっていたことがあった。六六年には「青年医師連合(青医連)」が結成され、六七年の国家試験を大多数がボイコットし、インターン制度を廃止させた。すくなくともこのような場面では取り引きが可能だったということである。その組織はその目的を果たすために存在したし、その間は継続した。そしてそれはインターン制度という共通の利害を具体的な課題として設定し、そのことにおいて組織、運動を継続・展開させようという思惑があったと解することもできる。  こうしてそれなりの下地を有して始まった一九六〇年代末以降しばらくの騒乱は[…]」(立岩[2013:33])

 「[…]このパンフレットはその世界ではいくらか知られていたもののようであり、そしていくらかの人たちは楡林が中井であることも知っていたようだ。東大医学部闘争の時に学生だった山田真(→63頁)との話の中で、中井が筆名で書いた文章があって一九六〇年代後半に読まれていたと聞いたことがある。そして、山田の著書(山田[2005:64])、そして青医連(=「青年医師連合」)中央書記局編[1969:18]でも次のような箇所が引用されている。

 「端的な例をあげれば、ある大学病院では教授が、正常妊娠子宮を、(忙しいためにこんなバカなことが起きたのでしょうが)子宮筋腫と誤診したので、主治医は真実を知りつつ、若い未来の母から一切母性となる可能性を奪う全剔出を敢行したのです。名ざしはしないが、事実については責任を持ちます。
 あなたが入局後五、六年たつうちに、あなたもまた、怯ゆえに患者を見殺しにする痛切な体験を必ずや持つでしょう。持たなければ幸運か、それともあなたの眼が見えなくなっているからです。私にはあります。」(楡林[1963?1964]→中井[2010a:106])

 それは、日本の大学医局講座制を――最初に、ということになるのだろう――批判する文章として読まれたのであり、だから取りあげられているのでもある。たださきの文章にも記されていたように、それは当時書かれたものとしては「異色」のものであり、例えば、全二〇節からなるうちの第一八節は「革命家は別の入り口へどうぞ」という題のもので、その冒頭部では次のようなことが書かれる。」(立岩[2013:46])


UP:20140126 REV: 
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