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日本患者同盟(日患同盟)


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◆2004年時点で会員数は約5000人(ウィキペディア)
 95年現在組織人員2万人

◆大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1948/1948_21.html
 「日本本患者同盟(日本国立私立療養所患者同盟)[社]1948.3.31
 結核など長期療養患者の人権と生活の擁護を目的とする全国組織.終戦直後から始まった入院患者の自治会運動は全国に広がり,その2つの全国組織が合同して日本国立私立療養所患者同盟を結成.1949年に日本患者同盟と改称.朝日訴訟などわが国の社会保障運動で大きな役割を果たしている.機関紙《健康新聞》(月3回刊).’95年現在組織人員2万人.〔参〕編集委員会編《日本患者同盟40年の軌跡》1991.」

■人

長 宏

■文献

◆寺脇隆夫 20150509 「日本患者同盟の機関紙発行状況と記事内容、その果たした役割――『日患情報』から『療養新聞』、『健康新聞』への66年間の歩み」,社会事業史学会第43回大会
 http://kenkyukaiblog.jugem.jp/?eid=461

◆(寺脇隆夫) 2015 『日患同盟機関紙と朝日訴訟関係(全81リール) マイクロフィルム版 (日本患者同盟関係資料集成) 』,柏書房 ISBN-10: 4760145273 ISBN-13: 978-4760145270 [amazon][kinokuniya] [121]

◆姫野 孝雄・北場 勉・寺脇 隆夫 2014 『日本患者同盟および朝日訴訟関係文書資料の目録作成とその概要把握』,社会事業研究所2012・13年度研究報告 

◆中村 敏彦 201307 「結核療養所における日本患者同盟の動き」,『リハビリテーション』555:24-27(特集 障害者たち : 戦後の運動・思想(2))

◆青木 純一 2011 「患者運動の存立基盤を探る――戦中から戦後にいたる日本患者同盟の動きを中心に」,『専修大学社会科学年報』45:3-14 [98][123]

◆菅沼 隆 2002 「占領期の生活保護運動――日本患者同盟の組織と運動思想を中心に」,『社会事業史研究』第30号(2002年10月) (特集論文 公的扶助の日本的形成)
 http://shakaijigyoushi-gakkai.com/eKLHzW

◆日本患者同盟 19840410 「健保改悪で43%の患者退院――健康保険法「改正」の影響調査 昭和五九年三月一三日(今月の資料)」,『賃金と社会保障』887:51-55

◆長 宏 197810 「書評:全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』」,『季刊障害者問題研究』16:93-95

◆小倉 襄二 195508 『医療保障と結核問題――一九五四年度における入退院基準・看護制限反対をめぐる日本患者同盟の運動を中心として』,『人文学』(同志社大学)19: 94-113 


◆鹿島 健作 195202 「ルポルタージュ・清瀬村2――日本患者同盟の巻」,『健康保険』6-2:32-37

■引用

◆小倉 襄二 195508 『医療保障と結核問題――一九五四年度における入退院基準・看護制限反対をめぐる日本患者同盟の運動を中心として』,『人文学』(同志社大学)19: 94-113 
 「米津さんの合同葬は八月三十一日、実行委に国民救援会、全労働者労組、全日自労、民医連、東京都自宅療連、全医労、全生連、都学連、社会事業短期大学学生自治会、新医協中国帰還者全国連絡会、全看労、日患など十四団体によって行なわれた。八百名が芝公会堂にあつまり明日への決意と涙のなかで君の死は無駄にせずと誓い盛会であった。[…] これはあきらかに権力への斗い≠ナある、それ故にあらゆるデマと悪罵、とくに米津さんをめぐってジャーナリズムは日患の政治的アジテーションを非難した。たとえば「日患の吉田内閣妥当運動の一環である」「目的を簡潔したいために犠牲の出るのを省みない精神は、北朝鮮の人海戦術とおなじだ」といった調子である。」(小倉[1955:107-108])

■言及

◆立岩 真也 20160501 「国立療養所・2――生の現代のために・12 連載・123」,『現代思想』44-(2016-5):

 「□日患同盟
 こうして統合、さらに廃止が困難であったことが語られ、そこに強固な反対勢力として「日患(同盟)」と「全医労」が出てくる。後者は次回にふれる。前者について。四八年に「日本国立私立療養所患者同盟」(翌四九年、「日本患者同盟」と改称)が結成される、「総括編」の第六章「国立療養所の現状」第一一節は「患者の団体活動――日本患者同盟」。前回記したようにこの巻の筆者は不明。

 「戦後における日本の労働運動、民主主義思想が、さかんな勢いで燃えあがる中で、長期在院(所)患者たちも団結する必要を感じた。そして、一日も早く治って社会復帰をしたいという切実な欲求のもとに患者自治会というかたちでスタートした。患者自治会のうごきは終戦直後の昭和二〇年秋ごろから、東京、岡山を皮切りに全国的に波及した。その年の一〇月東京都で九箇所の病院療養所の患者が、東京都患者生活擁護同盟を結成した。そして、結核患者に主食の一合加配や車の携帯食糧、衣科の放出物資の配給を促進して、成果をおさめた。
 この教訓にもとずいて、患者自治会の組織を全国的にひろげる気運が高まって、昭和二二年には、全日本患者生活擁護同盟(全患同盟)、傷痩軍人療養所関係の自治会が集って国立療養所全国患者同盟(国患同盟)、陸海軍病院系統の患者自治会が集まって、全国立病院患者同盟(国病同盟)があいついで結成された。さらに、これらの全国組織は翌昭和二三年に統合して、日本国立私立療養所患者同盟、つまり、いまの日本患者同盟が誕生した。
 日患同盟は、戦後の困難な社会状勢の中で日常生活の要求から出発し、制度の改善まで幅ひろい運動を展開してきた。そして、四半世紀の経過を辿り、多くの成果をもたらしている。[…]昭和二四年には東京都に日患同盟会館を建設している。[…]さまざまな形態の運動が行われそれらの中で主なものをひろう[…]。/昭和二九年には、生活保護法入退所基準、同三六年には、結核予防法の公費負担制度拡充同三二年からは一〇数年かかった朝日訴訟%ッ四三年には国立療養所の特別会計移行などについてそれぞれ運動を展開した。[…]/結核治療の進歩に伴う入所患者の短期間での退所などによって、日患同盟はいま曲り角に来ているところである。なお、この日患同盟の歴史については、この国立療養所史の各論編(結核)に東京病院の副院長島村喜久治が「患者自治会の活動」と題して述べている。」(国立療養所史研究会編[1976c:663-664])

 その島村の文章より「患者同盟の誕生」の部分。

 「第二次大戦の終結によって、抑圧されていた国民の不満が全国的に勃然として民主化の嵐となって吹き出した時、結核療養所の中で二重に抑圧されていた長期入院患者たちが、食糧の危機を契機に結束して療養所の管理者に迫ったのは自然の成り行きともいえるものであった。療養所には、ふつう、戦前から患者自治会は作られていた。しかし戦前のものはいわば親睦団体に類するもので、療養所管理者にとっては有益無害のものであった。それが終戦によって一挙に闘争的な集団と化した。私立の療養所でも日本医療団の療養所でも、傷痕軍人療養所でも例外ではなかった。
 新しい性格をもった患者自治会は、当然横のつながりを持とうとする。昭和二一年一〇月、東京では、東京都患者生活擁護護同盟〔都患同盟〕の結成大会が開かれた。[…]日本医療匠団中野療養所の慰安室が会場であった。都内の日本医療団系の療養所と私立療養所の、合わせて九自治会が参加している。都患同盟はさらに全国的な組織作りを目指して活動する一方、都知事に食糧や衣料の特配、生活保護法の適用、結核病床の増設などの要求を開始した。
 翌二二年一月、都患同盟が中核となって、全日本患者生活擁護同盟(全患同盟)が結成された。会場は同じく中野療養所の慰安室で、全国の医療団系および私立系の療養所の七二自治会、六三六九名の患者組織が誕生した。この後を追うように、全国の旧傷痩軍人系の療養所の自治会が、同年二月、国立療養所全国患者同盟(国患同盟)を結成した。この年、日本医療団が解散されて、療養所は国立に移管された。そして全患同盟と国患同盟が、翌二三年三月統合して、日本国立私立療養所患者同盟(日患同盟)が成立した。
 事務局が都下清瀬村に建設され、機関紙「日患情報」(のち「療養新聞」と改名)が発行される。結核医療と社会保障に対する告発と追求が展開する。[…]/国立療養所の患者自治会は、それぞれの上部団体として都患・県患をもち、さらにその上に全国組織として日患をもつことになった。管理者と自治会が対立して紛糾すれば、上部団体が応援にかけつけてくる。労働組合と同じである。つまり、国立療養所は二つの組合をもつ。職員の労働組合と患者の同盟である。患者自治会は管理者にとって有益無害の団体ではなく、今や有益有害あるいはときに無益有害の相を呈することもある。国の政治が医療保障に充分の施策を展開しないとき、それは必要悪であると観念した管理者もいたことであろう。しかし、最近の公害や難病あるいは薬害に対して、その犠牲者の団体が生まれ、告発し、保障を要求する世相をみれば、日患同盟は時代を先取りした団体といえるかもしれない。ジャーナリズムを騒がせた事件がいくつかある。」(島村[1976c:506-507])

 事実について補足しておく。「東京都患者生活擁護同盟(都患同盟)」の結成は一九四六年で、前者の引用の記述は誤り。また「日本国立私立療養所患者同盟」は四九年に改称して「日本患者同盟」となっている。「有益無害の親睦団体」が「無益有害」の組織になったと言う島村が紹介しているその組織が関わった事件は五つ。一つは、五四年五月、生活保護適用の結核患者の入退所基準の会局長通牒が全国の都道府県民生部に通知されたことに対する反対運動。例えば国立佐賀療養所の入所者たちは同年八月佐賀県庁で座り込みを行なう。このことについて、当時所長の後藤正彦の回想が島村の文章で引用される。

 「副知事室か民生部長室かはよく憶えていないが、民生部長を相手に数十名の患者代表が数時間に亘り入退所基準に関する陳情を行ったといえば聞えはよいが実のところ態のよい吊し上げでしかなかった。今少し礼を尽してお願いしてはとの私の発言も益々悪感情をそそる結果としかならなかった。言いたい放題のことを言い終って疲れもし腹も減ったのであろう。一応会議は終りということになった。大部分のものはバスに乗って療養所へ帰ることになり三〇名程度のものが県庁へ泊り込むというのである。当時の副知事は仲々面白い人で全く感情的なところはなく「何人泊まられますか。病気が悪くなるといけないので私の部屋をあけて用意します」といいながら絨たんの敷いてある広い副知事室の机まで外に出して、毛布や枕も用意されて泊まり込み用の立派な部屋ができ上った。今でもそのときの副知事の姿をはっきり記憶している。
 療養所に留守番をしていた事務長から電話があり、患者の方から泊り込んでいる人々のために食事を運んで欲しいとの頼みであるが、どうしたものであろうかという問い合せである。私は一瞬考えた。食事を運ぶことになれば悪くすると座り込みの忠者に同調したという非難をうけるかも知れない。しかし食事を運ばずそのための病状が悪くなれば生死の問題につながる恐れがある。また民間の食堂に行って食事をするようなことがあれば公衆衛生上大きな汚点を残すことになりかねない。ここが管理者の判断と決断のしどころと考え、食事運搬を許可した。その夜であったと思うが、時の医務局次長から事務長へ電話があり食事運搬については批判的な言葉であったとか。しかし私としてはその処置は間違ってはいなかったと信じている。
 夕飯が終り一応患者の気持も少し落ち着いたと思われる頃を見計らってバスを用意するから療養所へ帰って休んで欲しいと説得にとりかかったが「所長の言葉にだまされるな」と言う言葉を繰り返しながら益々泊り込みの体勢を固めるばかりであった。夜になって疲れがでてきたのであろうか、ビタミンの注射をしてくれ、葡萄糖を打ってくれなどの要求がでてきた。何とも言いようのない全く複雑な気持であったが、待機していた医師、看護婦で所要の処置を行って夜のねむりに入ることとした。私ども職員は一部交代で県庁に要員を残し、県庁近くの県医師会館に陣どって待機することとした。同様にして翌日もまた三〇名程度が泊り込んだと記憶するが、患者の交代はある程度あった模様である。確か三日目の午前中に引き揚げたと記憶しているが、その間私ども職員の方も疲れ切って飯ものどを通らないというのがほんとうであった。一名の死亡者も出さなかったことはせめてもの幸であったが、数名の症状悪化者の出たことはやむを得ないことであった。」(後藤[1976:508-510])

 状態が悪化するかもしれない病人を放置できないから、また「公衆衛生上」の問題もあって、いくらかのことをしたと語られる。そして島村は東京で起こったことを記している。

 「東京都でも、七月末、都患が一〇〇〇名を越える患者を動員して都庁に三日間座りこんだ。炎暑の候であった。座り込みの中で、国立村山療養所の女性患者米津敏代が死亡した。ジャーナリズムが騒ぎ立てた。死亡事件の翌日、患者達は引揚げたが、この座り込み事件の後始末は、国立療養所に軽快病陳制度ができ、退所の基準も、府県によっては「退院しても再発のおそれがないもの」というような弾力条項が挿入されることで焦点がぼかされることになった。しかし、実際には、そのころ、化学療法の偉力が発揮されて[…]入院息者数が減少し始め、病床にゆとりが生じてきたので、入退所基準は、その後再び緊迫した舞台にのぼることはなかった。さらにその後昭和三六年から、結咳予防法による命令入所制度が強化されて、同法第三五条による医療費負担が生保に優先するようになって現在に及んでいる。」(島村[1976c:509])

 むろんこの行動について、それを支持する側からは別のことが言われるのではある★03。第二に「朝日訴訟」。これ――戦後の社会保障を巡るできごとで一番有名かもしれないこの訴訟についても解説していたらきりがない――については否定していない。「一〇年にわたる「人間裁判」であった。この「闘争」の全記録は、草土文化社から「朝日訴訟運動史」として刊行されている。社会保障は国民の権利であること、それにも拘らず、生活保護の基準の低すぎることが争われたのが、社会保障史上、小さくない比重をもつ事件であった」(島村[1976c:511])。ここで取り上げられているのは朝日訴訟運動史編纂委員会編[1971]★04。
 第三はさきに紹介した埴生療養所の閉鎖に対する反対運動。第四に、日本で作られた抗結核薬カナマイシンの使用承認要求。当時、日本医師会が中医協をボイコットしていたために、承認が遅れ、一九六〇年十二月日患同盟は厚生大臣室前で座り込み、即日大臣は六一年一月一日から使用してよいとの職権告示を発動する。島村は「いかにも日本生まれにふさわしい形で使用承認が陽の目を見た」(島村[197c6:512])と評している。そして第五が、前回取り上げた特別会計制移行間題に対する反対運動。さきにも引いた当時国立佐賀療養所所長の後藤正彦の回想より。

 「所長は速かに厚生大臣と衆議院の厚生労働委員長とに特別会計反対の電報を打って欲しい。電報を打つまでは自分たちはハンストをやめないというのである。私は特別会計には賛成しているので反対という電報を打つわけにはいかないと答えた。しばらく何人かで協議していたが、何かの形で特別会計が中止されるように打電して欲しいと何回も要求してきた。話し合っているうちに、真夏の太陽の下、午前中から座り込んでいた患者の中にはボツボツ気分の悪い人が出始めた。たまたま衆議院の厚生労働委員会では慎重審議をしているときであったので、慎重審議をして欲しいという電報なら打ってもよい、しかし患者全員が病棟に引きあげるのでなければ打竃するわけにはいかないと答えた。リーダーが私どもの意を伝えると間もなく患者は続々と病棟へ引き揚げ始めた。事務長が、打竃のことで地方医務局へ連絡したところ、打電してはいけないといわれたという。所長の私自身が全責任を負うから、とにかく打電せよと事動畏に命じた。事務長は東京へ打電したのであろう。地方医務局から所長の補佐が足りないといって相当ひどくおこられたらしい。事務長には全く申し訳ないことをしたと思うが、当時の情勢からみて、その程度のことはやむを得なかったものと思っている。」(後藤[1976:513-514])

 結核にかかる人たちは減少していったとはいえ、療養所にとどまらざるをえない人たちはいた。療養者たちにとってはまず自分の居場所を護ることが課題であり、日患同盟は当然にその運動を行なった。ただ結核で入所している者の数は減っていく。島村の文章は「これからの患者自治会」を次のように記して終わる。

 「結核療養所に空床がふえ、療養所の性格転換が起り、各種の慢性疾患や、いわゆる難病の患者が相対的にふえてきつつある。こういう状況のなかで長期入院の結核患者を構成メンバーとして成り立っていた患者自治会、またその上部団体の日本患者同盟は、いま、重大な曲り角にたたされている。[…]入院期間が精々数箇月の元気な患者は患者自治会に対して切実な必要性をもたないうちに退院してしまう。長期入院の患者は呼吸障害があって患者自治会活動ができにくい。/したがって、患者自治会は、その活動メンバーの獲得に難渋しはじめている。また、全国組織の日患同盟について言えば、減少一途の会員数は相対的に同盟組織の過大化を目立たせてくる。組織をどう維持するか、結核以外のどの疾患に組織拡大の照準を合わせうるか、そのためには組織の変革をどこまで行うか。国立結核療養所三〇年の歴史に、患者自会の歴史はピッタリと重なって流れている。/戦後の結核対策において、患者自治会や患者同盟の果たした役割りについてはいろいろな評価が可能であろう。しかし、その後登場し活躍している公害や医療被害者などの諸団体の存在意義を否定できるひとはいない。結核病床の減少にともなって、個々の施設内の患者自治会は親睦団体へ先祖返りする傾向を強めるにしても、その上部団体の日患同盟は、このまま消え去ることはないだろう。」(島村[1976c:514-515])★05

 この日患同盟とともに、経営者たちにとって厄介な存在であったのが職員たちの組合である全医労だった。残りたい、そうせざるをえない療養者たちの利害と、職員たちの利害とは完全に等しいものではなかった。実際、前回、結核から「精神」の施設への転換を組合に納得させたことを回顧した文章から引いた。この組織については次回に紹介する。
 ただ、経営者たちにとって両者はともに厄介な存在だった。ここでは、二つの文章から引用する。一つは、元福島療養所長比企員馬の「福島療養所の想い出」より。

 「新憲法施行後すなわち、昭和二二年五月以降[…]私の感触では、東北ブロックの国立療養所施設の中でも、北は青森、南は福島が、一番暗く険悪な雰囲気が漂っていたように思う。当時、福島県内には、平事件とか、松川事件とか、有名な事件が相次いで起った。[…]東北六県でも[…]大方の国立療養所は後期に各県の県民に開放されたのであるから、当然国立療養所内部にそれぞれの思想的な惨透があったことは当然と思う。当時須賀川町の中にも共産党の党員もおり、細胞も出来た。福療の内部にも、患者、職員を問わず、ぼつぼつ細胞が出来てきて、例の難解な「マルクスの資本論」を研究し出した者もいる。国内全般の大勢は、軍国主義から急転直下、自由主義、民主主義へと激変していた。「責任の裏づけのない自由はない」等と口はばったい発言でもすると、どやされるに決っていたものである。
 全国的に横のつながりのある日本患者同盟[…]も出来た。新憲法による「結社の自由」という条項によったものであろう。むろん本省から公認された集団ではない。[…]支部が福療の病棟内にも出来た。終戦直後、本省から通牒をもって、軍の放出物資が保管転換された。患者輸送に必要なガソリンや物資の輸送に必要なトラック、薬品としては治療上必要なブドウ糖のような必需物資である。これを嗅ぎつけたのが町の共産党員並にその細胞である。内外呼応して所長室につめかけた一幕もあった。要は、民間の隠匿物資と誤認して[…]物資の摘発をしようとしたのである。細胞の一人が話の途中で、突然たち上がり、なぐりかかろうとした。K大出身のインテリの党員が、これを制止してくれたので、やっと私はなぐられずにすんだ。不正な隠匿物資でない旨あれこれ説得して、やっとお引きとり願った思い出がある。
 このような悪夢のような厭な思い出は、いくらでもある。傷痩軍人の着る夏冬の紋章入りの着物を入れて置く倉庫と、洗濯場を兼ねた大きな建物一棟を、従業員のアイロンの不始末から、一夜にして焼失してしまった矢火。[…]/[…]同僚の御親交をいただいた所長さん方に、私は退官間際に愚痴がましく次のようなことを咳やいた記憶がある。「僕には辞任の理由は公、私にわたっていろいろあるが、一番残念に思うのは三「アカ」による追放である。一つは火事の「アカ」、もう一つは集団赤痢の「アカ」、最後の一つは、高いレべルの共産主義とは似ても似つかない無責任な低級「アカ」思想、ともかく精根尽きたというのが、僕の心境なのだよ。」(比企[1976:626-628])

 そして、さきに福岡の三療養所の統合を巡る文章から引いたが、以下は、全国で三番目の、大阪での大阪療養所と厚生園の統合を巡る当時近畿中央病院副院長高木善胤の文章。

 「当臨国立療養所で山口県の埴生療養所、国立病院で和歌山病院の廃止計画が紛糾し、医務局の二大紛争となっていた。後年本省の事務官補佐が、しみじみと「厚生園のあれだけの移転がよく無事に出来ましたね」と言ってくれた様に、準備や人心の掌握には心血を注いだ。輸送当日病状悪化した患者を急拠近隣病院へ送り込む等の事もあった。この移転直後、私は、国立病院課長となっていた尾崎嘉篤氏と藤原九十郎医務出張所長の懇請により、国立和歌山病院の紛争処理に当らされる事になり、三六年五月まで丸ニ年、移転後の管理との両面作戦に従事して困憊をきわめた。
 統合問題は漸時表面化し、三五年四月福岡における会議で国立療養所施設の将来計画の個別計画の個別接渉の際に大阪療養所と厚生園の統合の結論が本省として確認された。この年度には東京療養所、清瀬病院の統合、福岡古賀三園の統合が成立し近畿はその三番手となった訳である。三六年度から本格的な準備段階に入り[…]両施設の幹部連絡会[…]を再三開催し、大阪胸部病院建設趣意書、要望書等を作成提出した。また三七年に両施設間に基幹療養所建設協議会を発足させ、具体的設計のため衆知をあつめ、更に診療ならびに研究部門の基本構想を策定、これが十数年後の今日に至るまで診療の根幹となっている。[…]厚生園副園長である私が昭和三八年八月から大阪療養所医務課長を併任し、組織統合の大詰を迎えるに至った。この頃すでに全医労大阪療養所支部では統合反対の猛運動を行っており、貝塚市議会に請願、それが採択されるなど、活発に闘争し、私個人の誹誇その他統合を阻害する内部的な軋轢が堺、貝塚両地区で起こり筆舌につくし難い心労を味わされた。ことに全医労の団体交渉にたびたび応対し、三九年三月末には五〇〇名の動員をかけると言う闘争と対決する準備をしたのが、ついに不発に終り、翌四月一日地方医務局へ報告に行く車の中で小林大阪療養所事務長と、ねぎらいあった記憶がまだ新しい。三九年四月一日をもって近畿中央病院(旧大阪厚生園)ならびに貝塚分院(旧大阪療養所)が発足し[…]組織統合の実務を進めていったのであるが、貝塚分院としては、新たな紛争処理の出発点でもあった。
 全医労の反対運動は統合前夜を山として一段落し、大部分の職員の良識と新病院建設への期待、また[…]新事務長の補佐と医局の協力などによって、日常業務は円滑に進み、また分院発足当初は[…]統廃合を一切テーマとしない方針を立て、医療機関として前向きに、相当の機器整備を行った。患者に対して、当面何の不安もない事を説明し、あとは自然減の施策をとったが、ご多分に漏れぬ患者の生活闘争にかなりてこずった。いわゆる古参患者ボスの主導、とくに、大蔵省と厚生省高官を友人に持つ某患者が特権的処遇を維持するため、病院方針にことごとく抵抗し、煽動を行っていたのを、やむを得ず制圧し厳しく指導したところ、面当て(?)自殺をすると言うあと味の悪い悲劇まで発生した。しかしこれを契機に反省の気運が生まれ、療養生活は静穏なものとなった。[…]
 […]二〇年ほどを顧りみて、私にはすべて統廃合建設にかかずらって来た感がする。その間の経緯はまさに長編のドラマであった。進歩への熱情と怠慢、人間的なエゴや誤解、善意、功利、卑屈、誠実、さまざまのものが不協和音を立てながら大きな流れとなって行った。分厚い一巻にもなり得るものを僅々数枚でまとめたため、表面的な筋書だけに終ったが、統合のドラマの覚え書としたい。」(高木[1976:5-7])

「★03 「米津さんの合同葬は八月三十一日、実行委に国民救援会、全労働者労組、全日自労、民医連、東京都自宅療連、全医労、全生連、都学連、社会事業短期大学学生自治会、新医協中国帰還者全国連絡会、全看労、日患など十四団体によって行なわれた。八百名が芝公会堂にあつまり明日への決意と涙のなかで君の死は無駄にせずと誓い盛会であった。[…]
 これはあきらかに権力への斗い≠ナある、それ故にあらゆるデマと悪罵、とくに米津さんをめぐってジャーナリズムは日患の政治的アジテーションを非難した。たとえば「日患の吉田内閣打倒運動の一環である」「目的を貫徹したいために犠牲の出るのを省みない精神は、北朝鮮の人海戦術とおなじだ」といった調子である。」(小倉[1955:107-108])
★04 これは既にふれたことだが、患者運動、そして「難病」に関わる運動について、この流れが専ら取り上げられ、他に起こったことはその分知られないことを、まずは知っておいてもらってよいということもあってこの数回を書いている。「患者運動」という署名を持つ本は長宏によるものであり(長[1978])、長は日患同盟の会長を長年務め、また日本福祉大学の非常勤講師を二三年務めたと言う。一時その大学院生で、その講義を聴講した人から、その講義は朝日訴訟について語り続けるものであったと聞いたたとがある。長は一九九七年に亡くなり、所蔵していた「朝日訴訟」関係文献を整理して日本福祉大学附属図書館内に「朝日訴訟文庫」が作られた。このことを当時日本福祉大学社会福祉学部長だった人が『しんぶん赤旗』に書いた記事がある(柿沼[1998])。
 「難病」に関わる運動の初期のものもこの流れと関わりがある。そして、この流れと別にあったものは、その流れの人たち――社会・政治全般の中ではともかく、福祉の業界・学界では相当の勢力を有してきた――の書きものには現れてこない。それは事実の一部を看過することになるのだから、すくなくともそのことにおいてよくないと考え、書いてきたところ、これも書いているところがある。そしてそれは、例えば「難病」の人たちの生活自体にもよくない影響を与えてきた部分があるとも考えている。それで書いているところもある。
 その「別の流れ」に関わる本が最近発刊された。「青い芝の会」で活動した横田弘についての臼井正樹の文章と横田と私の対談を収録した『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』(横田・立岩・臼井[2016])。
 なおこれらの全体、とは言わないとしても欠落した部分を記録しようという研究計画の本体の部分を本連載の第一一八回(二〇一五年十二月号)に「病者障害者運動研究」と題して掲載したが、その研究助成は、「身体の現代」と題していた時も含めるともうこれで五回か六回不採択になった。どこかと私はずれているということなのかもしれない。しかしした方がよいことはやはりあると言うしかない。そんなわけで金はないが、しかし研究を呼びかけることを一つに呼びかける本が同じ月にもう一冊出た(立命館大学生存学研究センター編[2016])。
★05 大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編によれば、九五年現在の組織人員二万人、ウィキペディアによれば二〇〇四年時点で会員数は約五〇〇〇人。」


UP: 20160408 REV:20161228, 29
病者障害者運動史研究  ◇障害者と政策:2016  ◇雑誌 
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