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国立精神・神経医療研究センター(旧:国立武蔵療養所)

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◆沿革
 http://www.ncnp.go.jp/guide/history.html

◆国立精神・神経医療センター病院
 http://www.ncnp.go.jp/hospital/index.html

◆関根 真一 1940〜所長
秋元 波留夫(精神科医,1906〜2007) 1966〜1977所長

島 成郎(精神科医,1931〜2000)
藤沢 敏雄(精神科医,1934〜2009)


生活療法

 ……
◇1978 国立武蔵療養所の一機構として、国立武蔵療養所神経センター発足する
 ……



◆国立精神・神経医療センター 201209 『国立精神・神経医療センター2011年度病院年報(第25号)』  http://www.ncnp.go.jp/hospital/staff/pdf/nenpou_2011.pdf
1940(昭和15)年12月「傷痍軍人武蔵療養所」
 日中戦争の激化の中で傷痍軍人の援護治療を行うために、1935年以降に国は数多くの結核、精神その他の療養所を設置した。当院もその一つであったが、我が国初の国立精神療養所としての特色を有するものであった。東京府立松沢病院副院長関根真一が所長に任命され、1940 年12 月11 日に「傷痍軍人武蔵療養所」という名称で現在の地に定床300 床で開設された。傷病兵の増加に対応するため1942(昭和17)年には800 床に増床された。
1945(昭和20)年12 月「国立武蔵療養所」
 終戦の年の1945( 昭和20) 年12 月に官制改正によって、厚生省所管の「国立武蔵療養所」と改称され、同時に広く国民に開放され、女子患者も収容することになった。その後、1955 年以降、若干の整備がなされ、1964( 昭和39) 年には「基本整備計画」が立てられ、国立精神療養所の基幹施設として、1,000 床を目標に近代化整備が開始された。」

◆藤澤 敏雄 20100510 「日本における精神医療改革運動の歴史」,精神医療編集委員会編[2010:12-24]*(原稿執筆時期不詳)
*精神医療編集委員会 編 201005 『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』,批評社,141p. ISBN-10: 482650523X ISBN-13: 978-4826505239 1785 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 1969年「当時、私は、大学病院、民間病院、都立松沢病院を経て、国立武蔵野療養所で働く臨床経験7年の精神科医であった。その7年間、精神病院の実態と、精神病者の置かれた状況に、驚きと怒りに身をこがし続けていた。この学会の体験は、当たり前の臨床医であった私には、鋭い問題提起と励ましを与えてくれるものであった。
 この金沢大会のインパクトは、当時計り知れないものがった。金沢学会で確立された会議の公開性の原則は精神医療改革運動の中に、初めて当事者の登場を促す第一歩となった。また、その秋開かれた病院精神医学会は、生活療法の批判を軸に揺れて、学会そのものが解体して、若い世代を中心として再建準備委員会が結成された。同じように[…]」(藤澤[2010:19])

◆近藤 文雄 19961101 『先生、ぼくの病気いつ治るの――障害者と生きて四十年』,中央公論社,237p. ISBN-10: 412002640X ISBN-13: 978-4120026409 [amazon][kinokuniya] ※

 「ところが、好事魔多し、ことはそう簡単には運ばなかった。最大の痛恨事は田中総理の失脚であった。私の考えた理想的な研究所は田中総理ほどの実力者でなければできないことであった。
 その証拠に、斎藤厚生大臣にせっつかれてようやくできた研究所の予算は九億円という見る影もない哀れなものとなっていた。
 研究所の予算が九億円ときいて、私は後継の三木武夫首相〔首相任期1974年12月9日 - 1976年12月24日〕の所へ行って、「約束とはちがうではないか」と詰った。
 三木首相は、「そのことは官房副長官に話しておくから、そちらへいって話してきなさい」といわれた。私は上京して榊枝氏とともに副長官を訪ねた。
 官房副長官は首相からは何も聞いていない様子であった。
 「総理がそういわれるのなら、重く受け止めねぱならない」といったきりだった。
 待っているあいだに聞こえたのは、隣の部屋で、
「田中さんが約束したのなら田中さんから出してもらえばよいではないか」という笑い声だった。不注意か故意かは知らないが。
 引き上げる途中、同行していた秋元波留夫神経センター(われわれのいう筋ジス△143 研究所)設立準備委員長は、「なんだ、何の役にも立たないではないか」と愚痴った。自分が行って話せばうまく行くとでも思っていたのであろうか。そんな簡単なことで片付くなら苦労はしない。全国の仲間の長年にわたる苦労をなんと心得ているのか。
 私は初めからこの交渉にほとんど期待はしていなかった。ただ、万が一、少しでも前進があればと考えて行動したのであった。そのような行動の積み重ねが今日の成果をあげたのである。委員会では、そのような苦労も、筋ジス患者の悲しみも知らぬ委員たちが、自分たちの都合中心に審議を進めていたのであろう。
 死児の年を数えるわけではないが、私が希望し、総理が認めてくれたとおりの研究所ができていたら、日本もこの分野で世界のリーダーとなり、医学の画期的進歩に貢献ができたであろうに。
 だが、成功も失敗も運命、じたばたしても始まらない。しばしの夢でも見せてもらえたのはありがたいと思うほかはない。

 神経センター△144
 筋ジス研究所の設立が政府の方針として決定してから、国立精神衛生研究所の一人の医者が私を訪ねてきた。
「今度できる筋ジス研究所に精神科関係の研究も含ませてくれませんか」というのが主旨であった。私は、
「この研究所は物質面の研究だけで心理的な研究は考えていない」というと、
「精神科の方もそれでよい、心理的な研究は含ませない」と答えた。私は、
「筋ジスの研究にも神経の研究は必然的に入ってくるから、その面では共通の広場がある。一緒にやりましょう」と同意した。
 その後の経過から判断すると、厚生省は独自の構想の下に研究所を作りたかったようであろう。しかし、われわれの実績を無視するわけにもいかない。といってわれわれの主張を鵜呑みにしたのでは厚生省の浩券にかかわる。はっきりいえば官僚の面子が潰れるということである。
 苦肉の策として、一応私の了解を取って、この研究所に神経を潜りこませておけば、後はなんとでも料理ができると踏んでいたようである。
 厚生省はまず研究所設置検討委員会をつくって、基本的な問題の審議を姶めた。△145
 私もその一員に加えられてはいたが、第一回の委員会に呼ばれず、二回目から出席させてくれた。出席して驚いたのは、委員会の名称が、「神経センター(仮称)設置検討委員会」となっていたことであった。
 あまりのことに私は、筋肉の研究が主体であるのに、神経センターとは何事かと訂正を求めた。さすがに気が引けたとみえ、まあこれは仮称だから正式な名称は後でどうにでもなる、といって誤魔化そうとしたが、最終的に「神経、筋センター(仮称)」ということに落ち着いた。
 ところが、その後検討委員会は解散して次の段階の準備委員会に切り替えられたとき、その委員から私は外されていた。東大や慶大の名誉教授や現役の教授が名をつらねる委員会であったからであろう、とばかりはいえないようでもあった。
 委員長には精神科で東大の秋元名誉教授が選ばれていた。そして研究所の名称についても、委員会の採決をまたずして委員長が独断で、筋抜きの、「神経センター」と決めてしまった。
 さらに、ずっと後になって「神経センター」は「国立精神神経センター」と改編された。官庁の統廃合の線にそったものと説明するであろうが、最初私に除外を約△146 束した「精神」が主役の位置を占め、軒を貸した家主の「筋」の名はまったく姿を消しくてまったのである。
 名はどうでもよい、実質があればよいではないかという意見もあろう。私もその意見には賛成するが、それはあくまでも実質があればという前提にたっての話である。
 なるほど、筋ジスの研究には優秀な学者が研究にあたり、センターの現総長は終始筋ジス研究をリードしてこられた杉田秀夫博士であるが、センター全体から見れば筋ジスは一部にすぎない。私が最初に考えていたような研究所の全機能を集中して筋肉の研究ができるような体制にはなっていない。各自、研究の自由の名の下で独自の研究を進めるだけで、学際的、総合的研究が効率的にできるような体制ではない。百億でも二百億でも出してやろうといわれた宰相の親心は無にされてしまったのである。
 アメリカのNIH(National Institute of Health 国立衛生研究所)のような膨大なものともなれば、各部門の研究もかなりの規模でできようが、この程度の研究所で△147 総花的運営をしたのでは、結局あぶはちとらずに終わるほかはない。
 さんざん苦労して手に入れた筋ジス研究所のパイは、筋ジス患者の悲しみをよそに、学者や官僚によって食いちぎられてしまった。
 神経センター完成の式典に私と榊枝氏は末席に招待されたが、発言の機会はまったく与えられなかった。爆弾発言でもされたら大変だからであろう。といって招待しないわけにもいかず、考えた末の策だったのか。
 その時の新任の小沢辰男厚生大臣がのべた祝辞がふるっていた。
「このように立派な、世界にも希な研究所ができて誠におめでたい」と。
 せっかく総理大臣が百億やるといったのに、たった九億に縮め、画期的一大研究所ができるはすであったのを潰して、ありきたりの研究室の寄せ集めに終わらせたのを、おめでたいとは。
 神経センターの業績報告(『国立武蔵療養所神経センター年報』、後改め『国立精神神経経センタ神経研究所年報』)が毎年出ているが、そのなかに記された歴史には、われわれの行動については一言も触れていない。
 あれから二十年、国立武蔵療養所の一部として発足した神経センターは、組織を△148 改めて国立神経センターとなり、武蔵療養所は逆にセンターの付属病院となった。研究部門も増え、研究棟も増築されて規模を次第に拡大した。研究機器は大学以上の高度のものを揃え、動物部門は従来にない完備したものとなった。
 その後、さらに「国立精神神経センター」と改編、規模は一層大きくなり、筋ジスの研究はその中の神経研究所で行なわれている。
 筋ジスの研究に関しては、ようやく曙光が見えはじめたといえるところまできた。
 従来、研究の方向も分からなかったのに、一九八六年ハーバード大学のルイス・クンケル博土らは、デュセンヌ型筋ジス患者の遣伝因子に欠陥のあることを発見、杉田博士らは、その欠陥遺伝子を基に五十個のアミノ酸で構成するペプチドを合成し、それに対する抗体がデュセンヌ型筋ジス患者の筋細胞膜にのみ反応し、健康な人のそれには反応しないことを確認した。
 一方同じハーバード大学のエリック・ホフマン博士らは、デュセンヌ型筋ジス患者の筋肉中にジストロフィンと呼ばれる蛋白質が作られていないことを発見した。
 これらの発見は筋ジスの本質に迫るもので、筋ジス治療法発見も間近かに近づいたことを思わせる。これからが問題ではあるが、一日も早く治療法が確立されるこ△149 とを祈りたい。△150」

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,434p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

『造反有理――精神医療現代史へ』表紙

□第4章 「生活療法」を巡って
 □1 生活療法
 □2 松沢病院
 □3 国立武蔵療養所・昭和大学附属烏山病院
 □4 セットで始まり普及したこと
 □5 病院精神医学会・他
 □6 二つ(へ)の分かれ方
 □7 武蔵診療所における秋山・藤沢
 □8 秋元の「理論」
 □9 藤澤と秋元の「論理」
 □10 外していること
 □11 臺における不健康
 □12 生活が困難であるにもかかわらず追求されること

◆立岩 真也 2016/07/01 「国立療養所・4――生の現代のために・14 連載・125」,『現代思想』44-(2016-7):

 「筋ジストロフィーについては大きな研究所を作ろうとした動きはあり、いっとき実現しかかったようであること(ここでも有力な政治家への働きかけと、いっとき、受け入れがあった)、しかしそれは別のもの(国立精神医療センター→国立精神・神経医療研究センター)になっていくといったこともあった(田中[1996:124-150])。」


UP: 20130410 REV:20160611 
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