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車いす市民全国集会




 1973 第1回
 1975 第2回
 1977 第3回
 1979 第4回


◆編集・発行 車いす市民全国集会実行委員会事務局(東京 第4回 79.9.21 〜23)
 『車いす市民全国集会ニュース』
◆編集 車いす市民全国集会実行委員会(大阪 第5回 81.10.9 〜11)
 『車いす市民全国集会ニュース』
◆編集 車いす市民全国集会山形集会実行委員会 (山形 第6回 83.10.8 〜9)
 『車いす市民全国集会山形集会ニュース』
◆『第4回車いす市民全国集会報告書』
 19810421 車いす市民全国集会運営委員会,127p. 1300

◆『全障連』112 19920215 車いす市民全国集会 についての記事

 

■瀬山[2001]より

 ◆女性障害者の子宮摘出問題

 「子宮摘出」の問題化は、障害を持つ女性自身による「子宮摘出」合法化要求から始まった。
 1979年の車いす市民全国集会、女性障害者問題分科会(4)で、大阪から参加したCPの女性が「自分は子宮をとって生理介護を受けなくなってすごく自分の人生が広がった」、しかし「子宮摘出は安全な形ではできないから法的に保障して欲しい」という内容の発言をした(堤[1989:62])。それに対して、分科会に参加していた障害を持つ女性たちから、「生理介護を受けることで迷惑をかけるから子宮を摘出する」ということは、介助を受けて生活する障害を持つ我々の生活自体を否定することにつながるという反論が起きた(堤[1989:62])。また障害を持つ女性たちの多くが、施設か家族の元での生活をしている現状での子宮摘出の「合法化」は、事実上「子宮摘出の強制」を招くとの批判も行われた。これらの批判は、彼/女らが自立生活運動をする中で「自立」の意味を「介助者と共に、他者と助け合いながら、自分の生活を作っていく」ことへと転換させてきたことを背景に成立したといえるだろう。また、障害者であるがゆえに子どもを産み育てることができないとされてきたなかで、実際に、先に見たCP女の会の女性たちのように地域で自立生活をしながら子どもを産み育てている女性障害者たちが存在し始めていたことも「子宮摘出」問題化の背景にあるといえる。
 79年の女性障害者分科会は、その後大きな波紋を呼び、特に施設内で子宮摘出を「勧められ」、摘出をした(せざるを得なかった)という女性たちから、「合法化」要求の問題性や、施設内での女性差別の問題が指摘された(「障害者」が地域で生きる会[1981])。
 1981年の車いす市民全国集会では、79年に子宮摘出合法化に関する発言をした女性をパネラーにした分科会が開かれている。ここでは、施設などに暮らす人々にとって半ば「公然の秘密」となっているにもかかわらず、そのことを公に話したり相談したりする場がないことの問題性<37<が話されている。また、事実上行われてきた手術のあり様や危険性、身体への影響などを問題化する必要性が提起されている。
 集会では、その他「子宮摘出」は、「親」や「施設職員」の介助軽減を第一の目的としたものであり、介助者の都合にそって障害を持つ女性の身体が変えられていくことが果たして許されるのかという主旨の発言や、障害を持つ女性は「結婚」することや「子どもを持つこと」ができない存在(そうしてはならない存在)とされてきたのであり、その意味で、「女性としての性」を奪われてきたとする発言も見られる。しかし、これに対して、「女性であれば子どもを持つべきである」という社会的な規範自体が障害者女性を抑圧しているのではないかという主張も行われている。また、実際に子宮を摘出をした女性からは、子宮摘出をしたことによって、「女性ではなくなる」「結婚できなくなる」といわれることへの違和感が提出されている(車いす市民全国集会[1981])。
 以上、列記したように「子宮摘出」の問題は、79年の車椅子市民集会での発言に端を発し、以後様々な場で議論を呼ぶことになった。「子宮摘出」の合法化要求という形での発言は、それまで表だって語られてこなかった女性障害者の「子宮摘出」を議論の対象にしたという意味では、画期的なことだったと考えることができるだろう。「子宮摘出」は、手術を受けた女性たちの身体への過度な負担によってようやく公の場での問題とされてきたのである。」(瀬山[2001])

(4)この集会で、女性障害者問題分科会が開かれたいきさつについて分科会の担当者だった堤は次のように書いている。「障害者運動が、いわゆる同好会、お茶のみ会的性格から脱皮し、社会運動的な性格をもつようになって約10年。これまで、施設の自治会闘争や、修学、就労闘争、町づくり運動等、どれも障害を持つ”男たち”を中心としたもだった。障害を持つ女性たちは「障害者」という言葉でくくられ、その中で「女」という性をもつことを長い間社会から忘れられてきた。第四回車椅子集会で、<44<「女性障害者の問題・分科会」が発案されたのも、「これまでこういう集会では、女の人はほとんど発言をしないが、街づくり運動の中で、たとえば車椅子で使いやすい台所を考える際、女の立場からの意見を聞きたい」、という、男たちの声がきっかけだった。だが、男たちの提起を受けた私ほか4名の分科会担当者(障害を持つ女三名、もたない女二名)は、「台所は女が入るもの」という発想自体にこだわりをもち、とりあえず障害を持つ女たちの現状を見つめ、本音をつなぎ会うことを分科会の目的とした。各地で障害を持つ女たちの地域に根ざした自立闘争や、結婚、出産・子育てが話題となり始めていた時期でもあり、分科会当日には100人近くの参加者によって、施設での異性介助のこと、結婚、出産、月経等の問題が網羅的に話し合われた。(堤[1982:113])」

◇車いす市民全国集会 1981 『人間(ひと)として 第五回車いす市民全国集会報告書 大阪1981.10.9 ・10 ・11』,同集会運営委員会発行
◇堤 愛子 1982 「月経なんていらない? 障害を持つ女たちの月経」 女たちのリズム編集グループ編 『女たちのリズム 月経・からだからのメッセージ』、現代書館、一〇八頁〜一二一頁
瀬山 紀子 20010320 「日本に於ける女性障害者運動の展開(1)――70年代から80年代後半まで」,『女性学』8:30-47


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組織  ◇障害者の権利
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