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関西「障害者」解放委員会


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 ※以下には名称が同じで別の組織についての情報があります。ただ主に取り上げる(取り上げたい)のは革共同中核派が主導する関西「障害者」解放委員会と分かれたほうの関西「障害者」解放委員会です。

■機関誌
◆『コロニー解体』
◆1975/09/05 『「障害者」解放通信』28
 ※2020/11/27のインタビューのおりに永村実子さんからいただく
 「尾上:この時代の運動の機関紙ってね、まあ月刊ぐらいよりもうちょっとあれかもわからんけど、そういう「今、こういう情勢になって」みたいな感じのやつと、もう一つ理論紙みたいなやつ、2種類出すのが流行りというか定番で。その理論紙みたいなのが『コロニー解体』ですね。」(永村さんへのインタビューで)

■人
楠 敏雄(1944〜2014/02/16)



◆19711003 『障害者』解放委員会結成
 関西障害者解放委員会結成宣言

 全国のすべての「障害者」諸君、われわれは過去のいまわしい「障害者」抑圧の歴史に、終止符をうち、すべての「障害者」解放をめざして闘うことを決意し、今ここに関西障害者解放委員会の結成を宣言するものである。「障害者」諸君、なぜわれわれは「障害者」というレッテルをはられ、差別されなくてはならないのか。
 誰がそうしたのか。われわれは今それを知らねばならない。知る権利があるのだ。諸君、われわれは「障害者」ではない。人間なのだ。燃えたぎる血と心を持った人間なのだ。諸君、思いおこそう。われわれにレッテルをはりつけたのは支配者どもであるということを。奴隷杜会にあっては、それは主人だった。貴族制社会にあっては、貴族が、農奴制社会にあっては、地主が、封建制社会にあっては、領主がそうであった。
 そして資本主義、帝国主義においては、それは、資本家どもとそれに結託する官僚どもなのだ。
 彼らは、みな一様にわれわれを「役に立たぬ、かたわ者」として社会から生産部門から排除してきた。
 そして「障害」をもたぬとされている諸君、君たちは、支配者のわれわれに対するこうした攻撃に対して何をしたのか。ある時はだまって見すごし、ある時は、積極的に手をかしはしなかったか。
 われわれは、忘れはしない。われわれの仲間が、君たちの祖先の手によって座敷牢にとじこめられ、まびきの対象として殺され、あるいは飢死されたことを。
 そして、今また、あの巨大コロニーにわれわれの仲間が次々と隔離収容されつつあるのだ。
 すべての「障害者」諸君。
 我々はもう黙っていてはならない。「障害者」殺しを許してはならない。われわれは「障害者」に対する差別を徹底糾弾する。われわれは「障害者」の基本的人権を奪還する。われわれは、コロニーを解体する。われわれは日本帝國主義を打倒する。諸君、差別に屈従し、同情にすがっている時代は終った。
 立ち上がろう。そして闘おう。
 差別される悲しみを怒りに変え、この世界を差別者どもの屍でうずめつくすために闘おう。
 松葉杖を、白杖を、そして車椅子をも武器にかえ、権力者どもをぶちのめすまで、闘おう。いっさいの差別、抑圧をゆるさず、すべての闘う人民とガッチリとスクラムを組んで闘おう。
 諸君、われわれ関西障害者解放委員会は、「障害者」解放闘争勝利ののろしを、われわれ自身の手によって高々と上げるその日まで、すべてをなげだして闘い抜くことを、再び、ここに宣言するものである。
(1971年10月3日)

 ※楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:92]*に再録
*楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会 編 20141001 『追悼楠敏雄――その人、その仕事、その思想』,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会,95p.

◆発表年月日不詳? 「障害者」解放のための我々の基本的立場
 〈関西障害者解放委員会〉

 まずこの題を見てすぐ判るように、障害者という言葉に「」をつけて使うことにします。そのことから説明しなければなりません。「障害者」をどんな意味でとらえているか、それは人によってかなり違っているのが現実で、事実、どんな人を「障害者」とするかは、その社会によって違うからです。例えば軍隊のことを考えてみれば、そこで「障害者」といえば軍隊という特殊な日常生活に耐えることができず武器をとって戦うことができないものがそうであり、そういう者だけが「障害者」なのであり普通の「障害者」という概念とは違っています。私たちが「障害者」と使う時、それではどんな意味に使うのかといえば障害者といわれる、あるいは障害者であるとされる人々という意味です。つまり一般的社会関係抜きに考えることは不可能なのです。人間の社会に、階級が発生すると共に支配者はより能率的に自分達の支配権を強め、自分達の地位と財産を守って行かねばならなくなりました。つまり如何に社会の体制を維持し安定させていくかといった《社会防衛》の考え方が発生したのです。この時に「障害者」が作られ、「障害者」差別が発生したのだと考えるのが最も妥当であり、社会の一員として働けない者、能率の悪い者、更に役に立たない▽002 者、他人の働くのを邪まする者、迷惑をかける者、何を言っているのか解せない者として考えられるようになったのです。ですから人間が、動物のように生活していた頃には強い者と弱い者、あるいは病気の者がいても「障害者」とは、私たちの使っている意味で言わないのです。更に人間が他の人間も自分と同じ人間であると意識するようになっても、まだ「障害者」は発生しません。むしろ今よりも人間的な愛が実践されたことと思われます。「障害者」が障害者といわれる者として発生するのには支配関係が必要なのです。そして単なる肉体的な問題だと考えるのも従って誤っているわけです。
 「障害者」という言葉を否定的に使うことにします。本来、人間の中にそういう種類の人が存在しないからです。我々の使う「障害者」という言葉は「障害者」だといって人権を奪われ、差別されることを意味していて、それを使うのは「障害者」ということでの攻撃がなくなるまでのことなのです。だから反対に「障害者」でない人は非「障害者」というのが適当です。
 次に「障害者」が、現在どのように抑圧されているのか、簡単に見てみたいと思います。その前に、私たちが「障害者」解放を唱えるとき、それは《闘争》となって現(わ)れるであろうことを明記しておかなくてはなりません。なぜならすべての人々の斗い(闘い)以外に解放する力はどこにもないからです。「障害者」と非「障害者」▽003 の自らの自由と幸福を達成するための斗い(闘い)、《自己解放》の斗い(闘い)が必要なのです。
 階級社会の内で、資本主義の成立により、「障害者」に対する抑圧は新しい段階を迎えました。労働力の商品化がそれです。労働者は「働くこと」を売って生活する以外に道のないこの社会で「障害者」は働けない者、ムダ飯を食う者として、労働者階級の中でさえ差別され、偏見を持たれる本質的理由がここにあるのです。救ってやらねばならない者、同情してやらねばならない者といった見方は、自分をすぐれた者、まともな人間という考え方の結果であるし、この力が先の力に打ち勝っていける理由もありません。更に、日本が現在、アジアに再度侵略していることに注意しなければなりません。この侵略国では「国力増強」、すなわち、侵略体制構築のために、やはり「障害者」は兵隊になれず、役に立たない者ですし、抑圧のしかたも新しい段階に突入しているのです。ナチス・ドイツにおいては「地球上で最も優れた血液を持つ人種」を守る為に「障害者」を沢山ガス室に送り込み、日本の戦争でも最初に餓死させられていったのが「障害者」であり、我々は再度このことを思い出さなければならない時が来たと思います。「障害者」は教育において、職業において、日常生活において更に医療の場において差別されています。義務教育においてさえ学校についていけないといって入学の猶予、免除といった▽004 形で切り捨てているのです。
 「障害者」に対する抑圧の状況を考えるとき、ペテン的な福祉行政、そして「障害者」差別の中で次の三つのこと、つまり、コロニー政策、リハビリテーション政策、保安処分体制について徹底的に批判しておかねばならない。まず、コロニー(colony)について。それは「障害者」を収容する施設として建設されるものであり、物理的に社会から隔離してしまうものであります。家族を働けるようにする為に安上がりに一まとめに収容することによって社会には一人も「障害者」が居ない様にしてしまうことを目的とするものです。現在、急ピッチでたくさんのコロニーが建設されていますが、誰もが社会の中で生き、「障害者」として直面する一切の問題を社会に提起する権利があるのであり、コロニーから収容された人を奪い返さなくてはならないのです。次にリハビリテーションについて。「それ程、重度でない『障害者』」はリハビリテーションのプロセスに送り込まれます。つまり「おまえはコロニーに行くか、リハビリテーションを受けるか?」、選択を迫るのです。これは《社会復帰》とも言われ、能率が悪くても何んとか働く者の仲間入りができるようにすることであり、最低賃金労働者として、ちょっとでも労働できる者は働かせることなのです。このような考え方で真の人権奪還が成されるのではなく、リハビリテーションは屈辱的抑圧となって人間性を奪うこととして登場してきていることを知らなければなりま▽005 せん。次に保安処分に関して、それは今までは「『障害者』対策」として、あるいは精神衛生法などという形で行われていたことなのです。そして、それが、今、刑法として登場しようとしています。「犯罪」をなす恐れのある者は強制的に収容してしまおうと言うのです。「障害者」狩りをよりスムーズに遂行してしまおうとするもので、ここで、我々は「狂人」を「何をするかわからない者」、「危険な者」として偏見を持ち差別し、積極的に「障害者」狩りに参加する者の意識、そしてこの法律に何も言わず、「生活を守る」ものだとして賛成する人々を問題として、告発、糾弾して行かなくてはなりません。保安処分が貫徹されるには、地域ファシズム体制の強化が必要なのです。保安処分攻撃は、第一に医療に対する攻撃であり、「精神障害者」を限りなく抑圧するものです。第二に、地域ファシズム体制の強化によって人民を人民の力で支配させようとする反動的な攻撃です。第三に侵略体制のなかで、イデオロギーに対する攻撃となって現れ、域内平和を構築せんとするものであることを明記したいと思います。
 そして我々が、何故、関西障害者解放委員会を必要としたか。つまり戦後、「障害者解放」がどんな立場と主張を持って行われてきたか総括しておかなければなりません。ここではまず福祉国家論に根を置くボランティア活動について述べることにします。それは余暇を使って行われるものであり、その愛は同情、もしく▽006 は差別的な優越感とでも呼ぶべきものだと思われます。福祉国家においては援助は拡大されるかもしれませんが本質的な課題にまで到達するには、おのずと限界を持っていてむしろ労働者に税金を二重払を、そして奉仕という労力を使わせ問題をあいまいにし、権力の安定に協力するものとして現れることさえあるのです。我々は彼等を我々の質でもって組織しなくてはなりません。
 それでは何をもってオルグするか。それは自己の差別者としての登上(登場)にきづかせ、本質的「障害者」解放の課題がどこにあるのか提起することをもってオルグしなくてはなりません。つぎに「障害者問題」を利用してきた社会党、共産党について批判しなくてはなりません。彼らはこれ程本質的である「障害者」差別者を「労働者の団結に敵対する考え方」だと言って考えようとせず、単に展望もない場当たり的な要求を行うことによって議席を増すことしか考えようとしません。彼等によれば差別的な管理者として登上(登場)する施設の職員と収容されている者の立場は等しいことになり差別者を糾弾しようともしません。
 最後に私達の斗い(闘い)のスローガンを明記しておきたいと思います。
「障害者」差別徹底糾弾!―まさしく私たちの怒りであります。制度上の差別だけではなく、すべての人による差別が如何に「障害者」解放の斗い(闘い)に敵対してきたのか、妥協もごまかしもなく斗い(闘い)を担い連帯しうる人になるまでそれは続けられるものです。▽007 「障害者」の基本的人権奪還!―権利を奪ってきた一切の敵から奪い返すのです。永続的にあらゆる場所で非妥協の斗い(闘い)としていくものです。
 コロニー解体!―それは全ての人々の斗い(闘い)によって権力を打倒することを必要とします。帝国主義者の装置として抹殺する目的でコロニーは建設されるものだからです。
 日本帝国主義打倒!―私達は必然的な結果として日本帝国主義は「障害者」を抹殺し、人民抑圧に乗りださざるをえないことを私達は知っている。
 以上のことを確認したならば私たちの斗い(闘い)に数多くの人が結集されんことを訴えます。

◆1972/09 分裂

楠 敏雄 20010501 「私の障害者解放運動史」,全国自立生活センター協議会編[2001:313-321]*
*全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.

 「関西障害者解放委員会の結成と分裂
 その頃、被差別部落出身の石川さんに対する差別・冤罪事件としての狭山事件の取り組みが高揚し始めました。その闘いに出会ったのがきっかけで、私も障害者に対する差別というのを問題にしようという自覚がやっとできたのです。そして、一九七一年十月、関西障害者解放委員会 (関西障解委) といういかめしい名前の組織を発足させたのです。
 関西障解委を結成した過程では、ある政治党派の人たちの支援・協力が大きかったと思います。彼らに 「楠さんは障害者なんだから、障害者の解放という問題を自らの問題としてやるべきなんじゃないのか」と問いかけられ、一緒に勉強会をしたり狭山の闘いに学んだりしながら、組織をつくるに至ったのです。
 その後、路線や運動の進め方の意見の違いでこの組織は一九七二年九月に分裂しました。その後、両方とも関西障解委を名乗っていたので、同じ名前の組識が二つあるという状態でした。
 私たちのほうの構成メンバーは、当初は施設の職員や学生、施設の障害者あるいは地域で孤立している障害者たちが中心で、介護を必要とする重度障害者が結集するという状況ではありませんでした。分裂以降は、解雇された障害者や国鉄の環状線から落ちて電車に両足はねられた視覚障害者を支援するなど、個別の課題を取り上げて運動をするなかで、重度の障害者も参加してくるようになってきました。」

◆安藤 清 19721216 『仲間よともに歩こう』 28p. ※r:[椎木章氏蔵書]

◆島田差別糾弾! 死刑執行阻止!! 全ての仲間は無実の赤堀さんを即時奪還せよ!!
 『被差別統一戦線』2:14

 関西「障害者」解放委員会
 大阪市平野区加美東4丁目5ー22共同住宅48号 tel (06)791-6306

 全ての「障害者」、労働者、学生、市民の皆さん!
 今、「精神薄弱」=「殺人犯」という予断と偏見で無実の罪をかせられ、差別に基づく死刑判決を下され、なお、無実のを叫び続け、獄中で不屈に斗い抜いている赤堀政夫さんという人がいることを知らしめなければなりません。そして、この差別裁判を打ち砕き、何が何でも赤堀さんを生きて奪い返す斗いに起ち上がらなければなりません。
 昭和29年、静岡県島田市で、当時6才の佐野久子ちゃんという幼児が暴行を受け殺されているのが発見されました。警察は、撤底した捜査を開始しましたが、2ヶ月たっても犯人の目星すらつかず、その中で自らの権威を保つ為に何とか犯人を逮えようと、「精神障害者」「ヒロポン中毒者」、浮浪者、部落民に対し集中的に見込み捜査を行なったのです。取り調べの過程では数人にもわたって「自白者」があらわれるというすさまじいごう問で、その中で、赤堀さんが「犯人」としてデッチ上げられていったのです。
 このことこそ、「そんなことをするのは異常者だ」という「精神障害者」に対する予断と偏見で、しかも、そうした社会の中に根深く存在する差別を利用して、赤堀さんを逮えていったのです。裁判の中でも、赤堀さんを「精神薄弱者」=「犯人」という大前提にして「かような行為は、おそらく通常の人間にはなし得ない」として、赤堀さんの無実の叫び、れっきとしたアリバイの証明を、ごう問によるうその「自白調書」をたてに封じ込め、死刑判決を下していったのです。こうした裁判の本質こそ、「不用な者」を社会から抹殺せんとする保安処分攻撃を法制的に打ち固めんとする攻撃と一つのものとしてあり、赤堀さんをそのいけにえに死に追いやらんとする差別裁判以外の何者でもありま▽015 せん。
 一審の中で赤堀さんは「私は殺っていない!」と主張し、現在、全国各地で「赤堀さんと共に斗う会」が発足し、差別を利用し「犯人」をデッチ上げられていった赤堀さんと連帯し、裁判所や検事に対する糾弾の斗いが繰り返され、再審請求の署名活動が展開されています。圧倒的な支援の署名をお願いします。
 全ての仲間の皆さん!無実の赤堀さんに対する死刑執行を許さず、必らずや奪還する斗いに共に決起しよう!!」

◆楠敏雄 19820715 『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』,柘植書房,222p.,ISBN-10: 4806801895,ISBN-13:978-4806801894,1600,[amazon] ※/杉並369 d

 「1970年7月7日の華僑青年闘争委員会による告発は、日本の左翼運動と階級闘争史上画期的な意義をもつものであり、あらゆる運動体に質的転換をせまるものでした。抑圧国人民の差別性を鋭く糾弾した告発は、それまで表面的な戦闘性のみに依拠し、差別の問題になど何の関心もしめさなかった左翼運動に、文字通り根底的な変革を要求したのでした。また、この告発と相前後して、無実の部落青年石川一雄さんを取りもどす闘いが、差別糾弾闘争、階級闘争として闘われ始めました。『障害者』解放運動、とりわけ関西『障害者』解放委員会は、こうした情況のもとで結成されたのです。」
 「こうした中にあって先の華青闘の告発を受けて、早くから入管闘争として取り組みを開始し、狭山闘争にも積極的に取り組んでいた革共同中核派が、当時竜谷大学にいた私と仲間数名の『障害者』に関わりつつ、彼らの医療戦線の医師や看護学生をも加えて、71年春に『障害者』解放運動の組織作りに着手し、その年の10月3日、私たちとともに関西『障害者』解放委員会の結成をかちとったのです」
 「組織の性格としては、中核派の指導を受けてはいましたが、あくまで大衆組織であり、他党派やノンセクトの人たちの参加をも積極的に呼びかけるという独自性が確認され、慎重な組織運営が行われました」
 「ところが、71年12月に起きた革マル派による中核派の2名のメンバーへの非道な虐殺と、72年5月の沖縄闘争における『敗北』は、中核派の危機感とあせりを強めることとなり、大衆運動に対する方針を急激に転換することとなりました。すなわち、72年に入ると彼らは、S支援闘争と荒木裁判闘争については一応中心軸としながらも、沖縄・入管・狭山・三里塚などの政治闘争を闘うことを優先させ、『障害者』への日常的働きかけよりも、これらの政治課題を重要視するようになってきたのです。また、『障害者解放戦線も革マルセン滅をかかげるべきだ』とか『白ヘルメットをかぶって中核派の集会に結集すべきだ』といった主張にみられるように、教条的セクト的対応をも強めてきました。さらに、情報の手段や、学習の機会を奪われている『障害者』に対して、基本的な学習を保障せず(他の党派の内容との違い、およびさまざまな組織の内容も含めて)ひたすら彼らの機関紙『前進』の読み合わせをさせるのみだったのです」(26ページから28ページ)
 「『障害者』の圧倒的多数は、新左翼運動はおろか、政治からも、教育からもあらゆる情報からさえ遮断されて、家の片隅や施設に隔離されていることはすでに何度も確認されてきたはずです。にもかかわらず、このことの持つ重さについて、中核派をはじめとするほとんどの新左翼党派も、そして私たちすらも正しく把握しきれてはいませんでした。そして、それがゆえに『「障害者」のペース』という言葉の意味を理解しきれず、『障害者』解放運動の独自の発展を無視したり、妨げたりしてきたのです。」
 「私たちは、いついかなる闘いにおいても、まず何よりも『障害者』大衆と共に闘い、互いの発展をかちとり得るような闘いをするべきだと考えています。したがってそこでは、当然『障害者』固有の闘い方や、ペースが要求されるでしょうし、言葉一つにしても常に点検されねばならないのは当然といえるでしょう。」
 「彼らがこうした『障害者』との日常的な関係作りを軽視して、政治課題を最優先させるといった方針は断じて認めるわけにはいかなかったし、現在もなお認めるわけにはいかないのです。彼らは私たちに対し『政治闘争と大衆闘争を対立させる』と批判していますが、むしろその批判は彼らにこそピッタリと当てはまるといえるでしょう」
 「レーニンは、その著『共産主義における左翼小児病』や『何をなすべきか』において党が大衆運動を抱え込んだり、教条主義を持ち込んだりすることを厳しくいましめています。自らレーニン主義者たることを自称する中核派は、自分たちに都合のよいところしか目に入らないようです。72年5月以後の中核派の私たちに対する対応は、まさにセクト主義そのものに他なりません。先にも述べたように、関西『障害者』解放委員会の大衆組織としての確認を無視してひたすら中核派に従属することを迫り、それが通らぬと知るや自分たちの地位を利用して何人かを抱え込んで、さっさとわが組織から逃亡して、私たちと同じ名前を名乗る。これがかりにも『前衛党』と自称する者のなすべき対応でしょうか。さらに、自ら情報を得ることを奪われてきた『障害者』に対し基礎的学習すら保障せずに自分たちの路線のみを一方的に教え込んだり、『施設で園生をいじめる職員は革マルのようなものだ、だから革マルセン滅だ」などと提起するに至っては利用主義そのものであり、差別的対応といわざるをえません」(52ページから53ページ)

 ※以上、http://blog.goo.ne.jp/aoitoko/e/4848eb53980585fe8ee720ac51d75311に引用

◆197412  第8養護学校設置反対闘争で関西青い芝と関西障害者解放委員会が初めて共闘する(全障連結成の布石)

 (44) 七四年、大阪の第八養護学校建設に反対して関西青い芝の会連合会と関西「障害者」解放委員会が共闘したのを契機に、この二団体と八木下浩一が全国的な組織の必要性を訴えるよびかけ文を配布する。七四年「二月に全国代表者会議を開き準備会発足を決定、全国代表幹事に横塚、事務局長に楠敏雄を選出、七五年に七回の全国幹事会を開き、七六年八月の結成大会をもって正式に発足する。各地域ブロックの連合体として構成され、各々が役員組織、事務局をもつ。と同時に、毎年夏に各ブロックの持ち回りで開催される全国(交流)大会で全国役員、事務局長が選出される。その活動は、機関紙、全国大会の報告集等によって知ることができる。その他、特に関西における前史を含めて楠[82]等、全国障害者解放運動連絡会議[82]、等を参照。」(立岩[1990:187]*)

◆1975/09/05 『「障害者」解放通信』28
 ※2020/11/27のインタビューのおりに永村実子さんからいただく

◆1976/05/18 第2回集会(被差別共闘会議準備会)報告
「5月18日、芦原橋部落解放センターにおいて、部落解放同盟大阪府連合会の提起で、被差別共闘会議(準)の話し合いがなされた。これは4月12日被差別統一戦線実行委員会第1回特別集会の経過に基づき(機関紙「被差別共闘」p1参照)、名称を「被差別共闘準備会」として被差別大衆の結集と全ての差別と戦う運動を再出発させた。
 部落解放同盟大阪府連合会からは山中政治共闘部長、安永部員と、元被差別統一戦線実行委員会世話人から10名程が出席。4月12日集会の経過(同上)を確認し、5・18集会の意味を全体のものとして討論が行われた。」
 […]
 C構成
 代表者会議は当面、部落解放同盟大阪府連合会、日本脳性マヒ者協会関西青い芝の会連合会、関西「障害者」解放委員会、イムジン川に集う会、大東から公害を無くす会関西水俣共闘会議、と個人からなる。
 事務局は大賀、安永、岸田、大東で構成する。」(『被差別共闘』5)

◆1976/07/17 被差別共闘会議(準)ーパネルディスカッションー
 「被差別大衆の結集に向けて問題と課題を明らかにし被差別共闘会議の課題を共に解決しよう
 とき:7月17日 午後6:00?
ところ:芦原橋部落解放センター
パネラー:部落、障害者、在日朝鮮・韓国人、沖縄、公害被害者、女性の差別と闘う人から一名づつ
[…]
よびかけ:
部落解放同盟大阪府連合会
日本脳性マヒ者協会・関西青い芝の会連合会
関西「障害者」解放委員会
イムジン川に集う会(在日朝鮮人朝鮮・韓国人)
大東から公害をなくす会
関西水俣共闘会議
反公害住民ひろば
神戸水俣告発
兵庫県スモンの会
(個人)岸田、大東、木野、市山」」(『被差別共闘』5)

◆島田差別糾弾! 死刑執行阻止!! 全ての仲間は無実の赤堀さんを即時奪還せよ!!
 関西「障害者」解放委員会
 大阪市平野区加美東4丁目5ー22共同住宅48号 tel (06)791-6306

 全ての「障害者」、労働者、学生、市民の皆さん!
 今、「精神薄弱」=「殺人犯」という予断と偏見で無実の罪をかせられ、差別に基づく死刑判決を下され、なお、無実のを叫び続け、獄中で不屈に斗い抜いている赤堀政夫さんという人がいることを知らしめなければなりません。そして、この差別裁判を打ち砕き、何が何でも赤堀さんを生きて奪い返す斗いに起ち上がらなければなりません。
 昭和29年、静岡県島田市で、当時6才の佐野久子ちゃんという幼児が暴行を受け殺されているのが発見されました。警察は、撤底した捜査を開始しましたが、2ヶ月たっても犯人の目星すらつかず、その中で自らの権威を保つ為に何とか犯人を逮えようと、「精神障害者」「ヒロポン中毒者」、浮浪者、部落民に対し集中的に見込み捜査を行なったのです。取り調べの過程では数人にもわたって「自白者」があらわれるというすさまじいごう問で、その中で、赤堀さんが「犯人」としてデッチ上げられていったのです。
 このことこそ、「そんなことをするのは異常者だ」という「精神障害者」に対する予断と偏見で、しかも、そうした社会の中に根深く存在する差別を利用して、赤堀さんを逮えていったのです。裁判の中でも、赤堀さんを「精神薄弱者」=「犯人」という大前提にして「かような行為は、おそらく通常の人間にはなし得ない」として、赤堀さんの無実の叫び、れっきとしたアリバイの証明を、ごう問によるうその「自白調書」をたてに封じ込め、死刑判決を下していったのです。こうした裁判の本質こそ、「不用な者」を社会から抹殺せんとする保安処分攻撃を法制的に打ち固めんとする攻撃と一つのものとしてあり、赤堀さんをそのいけにえに死に追いやらんとする差別裁判以外の何者でもありま▽015 せん。
 一審の中で赤堀さんは「私は殺っていない!」と主張し、現在、全国各地で「赤堀さんと共に斗う会」が発足し、差別を利用し「犯人」をデッチ上げられていった赤堀さんと連帯し、裁判所や検事に対する糾弾の斗いが繰り返され、再審請求の署名活動が展開されています。圧倒的な支援の署名をお願いします。
 全ての仲間の皆さん!無実の赤堀さんに対する死刑執行を許さず、必らずや奪還する斗いに共に決起しよう!!

◆楠 敏雄(全国障害者解放運動連絡会議全国事務局長) 1978 「「障害者」解放運動と「障害者」教育」,岩楯[1978:165-184]*
岩楯 恵美子 著・「岩楯恵美子学校へ入る会」 編 19780620 『私も学校へ行きたい――教育を奪われた障害者の叫び』,柘植書房,271p. ASIN: B000J8OFS6 1800 [amazon] ※ e19. d01 t02

 「さきごろ、日本共産党の理論機関紙『前衛』の十二月号に、私および私の属している関西「障害者」解放委員会、さらには全障連に対する「批判」が掲載された。たしかに資料や情報は、ことこまかに収集されているようであるが、しかし、その内容たるや[…]」 (楠[1978:165])
 「なおこの文章は、一九七五年十月に、雑誌『解放教育』に掲載したもの。および一九七七年六月に雑誌『解放教育』に掲載したものとを総合し、それらに加筆訂正を加えたものであります。」(楠[1978:184])

◆19800225 『全障連』10
 「全国障害者者解放運動連絡会議全国幹事会「声明 関西『障害者』解放委員会」(中核派)の『障害者解放63号」に貫かれた全障連への敵対・分断策動を糾弾する!」pp10-11

◆河野 秀忠(障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長) 2004 「砕氷船のごとく、歴史の中に水路を拓いた楠敏雄さん」,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:52-54]

 「ボクが楠さんに出合ったのは、楠さんがまだ大学で「関西障害者解放委員会」という組織の活動をしていた頃だった。その頃は、障害者が、政治課題を掲げて街頭に進出し、デモを繰り広げるなんてことは、皆目なかった風景だった。後日、楠さんに聞くところによれば、大学の中の学生組織、全学共闘会議などが呼びかけるデモ活動に参加しようと、前段の集会に臨むと、学生のリーダーから、「集会参加はいいとしても、デモ参加は止めてくれ。危険だから」と拒否されたのだとのこと。学生仲間からも差別されて腹が立ったなぁ。それで、数少ない障害者学生に声をかけて委員会を立ち上げて、デモに団体として参加するようになったんだと。それは、健常者ばかりのデモ隊の中に衝撃的場面として登場した。
 その場面を目撃した、京都在住の障害者仲間が、「京都に、スゴイ視覚障害者がいるぞ。それも白いヘルメットを被ってな」と、ボクに知らせてくれた。
 ボクは、その頃、16歳で参加した、政党、青年同盟、反戦青年委員会活動を経て、70年安保闘争の退潮の中を流れるように流され、その思想の間にぐちゃぐちゃに住み、被差別部落問題や反公害問題などを漂流した後に、障害者の友人を得て、その旅程の先にあった、関西における「日本脳性マヒ者協会・青い芝の会」関西連合会の萌芽時期をうろうろしていた。だから、白いヘルメットと聞くと、ある党派の名前が浮かび、用心の気味を持っていた。これもまた後日に楠さんから聞いたことだが、「ヘルメットの色がどんな色でも、僕には見えないからどうでもいいんだ。それよりも困ったことは、デモに参加するにしても、機動隊は、僕の持っている白杖を危険な武器として、取り上げられることなんだなぁ」と、苦笑していた。
 ボクと障害者運動の出合いは、主に脳性マヒ者仲間だったし、古い考え方の階級論の残りカスがまだ色濃く脳の中にあったから、楠さんが語る楠論は、ボクのからだの中を軽やかに吹き抜けていった。ボクは、眼が見えないことの中に、見えない文化があることを、楠さんに教えてもらい、それこそ「眼からウロコが落ちて」眼の見えることの不合理さにオタオタしたのを覚えている。
 いろいろな若者が、反戦活動の中で発言すると、マルクスがどうの、レーニンがこうのと、名だたる思想家の言葉を引用するのが常だったが、楠さんの言葉の中には、そういう傾向は全くなかった。あったのは、自分という存在や、自分の持つ視覚障害を根拠にした物言いだった。そして、徹底的に反能力主義者でもあった。
 70年代前半にあった「優生保護法改悪阻止」闘争は、楠さんは、京都を舞台に、ボクたちは、大阪を中心に闘う陣形を組んだが、あえなく敗北。その経験もあって、その次に来るであろう、「79養護学校義務化阻止闘争」に備えるべく、話し合いの場が持たれた。[…]」(河野[2014:52])

◆杉本 章(友人) 2014 「楠敏雄さんのこと―己の欲する所に従って…」,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:57-60]

 「楠さんを初めて知ったのは70年代のはじめ、ところは大阪扇町公園での新左翼系の政治集会の場だった。彼は壇上から「日米帝国主義打倒、障害者解放!」と激越な調子でぶっていた(その頃のこの種の集会ではごく当たり前だったヘルメットを被っていたかどうかは覚えていない)。当時、私はNHK大阪局にいて、労働組合と職場反戦運動の二股をかけてシコシコ活動していたが、まだ障害者運動とは出会っていず、もちろん「関西障解委」(関西障害者解放委員会)の何たるかも、楠敏雄という名前も知らなかった。「目が見えないのにようやるなあ」と半ば感心しながら彼のアジテーションを聴いた記憶がある。  楠さんの最初の著書『障害者解放とは何か』(柘植書房 1982年7月刊)に、関西障解委の結成と分裂、全障連結成に至る経緯が語られているが、その記述からすると、私が彼の演説を聴いたのは、「関西障解委」の結成直後でそこでの新左翼系某政治党派の政治的引き回しに対して障害者の主体性の確立と大衆運動としての「障解委」のあり方を巡る激しい抗争が行われていた最中だったようだ。全障連の結成はそれから5、6年後のことである。そのまた1年後の77年、私は障害者関係番組の担当となり、はじめて「青い芝の会」の人たちとも出会った。」(杉本[2014:57])

◇2008/09/16 「障害者自立支援法」撤廃にはずみつけよう
 関東「障害者」解放委員会/関西「障害者」解放委員会
 革命的共産主義者同盟再建協議会『革共同通信』17
 http://kakukyodo.jp/tus0817.htm

 「「障害者自立支援法」は来年、法施行当初から予定されていた3年めの見直しをむかえ、通常国会に見直しの法案が上程される。それにむけてこの秋、厚生労働省案が示され、これをめぐる闘いが本格的に始まろうとしている。
 また生活保護に対しても、病気の人が通院する交通費のうちきりや、他人介護料(「重度障害者」の介助費用をその人の生活保護費に上乗せする制度)の「不正受給」を口実とした組織犯罪対策法による不当弾圧などの攻撃がかけられている。
 この中で今年も、「自立支援法」が成立した10月31日に日比谷公園で大集会が呼びかけられている。すでに全国各地で応益負担(受けた利益に応じて支払う制度)に対する行政不服審査が申立られており、その却下を受けて、生存権を問う全国一斉応益負担違憲訴訟が提訴されようとしている。現代の朝日訴訟(革共同通信15号参照)とも言うべきものだ。
 今こそ「障害者」と労働者の団結で自立支援法を撤廃に追いこもう。

「自立支援法」の問題点
 「自立支援法」は「障害者」の生活と生存を奪う悪法だ。2006年4月に部分施行され10月に全面施行された。最終的目標は「障害者」介助の介護保険への統合だ。
同法によって、利用者には原則1割の自己負担を課す応益負担が導入された。「障害者」の所得となっている障害基礎年金は、1級でも月約8万円、2級では約6万円だ。ここからさらに1割の利用料をとりあげることは「障害者」の生存を脅かすものだ。
そして24時間介助が必要な「障害者」にも、1日数時間分までしか国が補助金を出さない、国庫負担基準が設けられた。またホームヘルプやガイドヘルプの支給量を低く制限する障害程度区分認定制度も導入された。さらに「障害者」が選んだ人が介助者になれた自薦制度が使えなくなり、ヘルパー資格制度が義務づけられた。通所授産施設やグループホーム、入所施設では、月額制だった報酬支払いが日額制になって運営危機におちいる所が続出した(「障害者」が病気などで休んだり入院したりすると費用が支払われない制度)。「精神障害者」に対しては精神病院の病棟を転換した施設に収容したことで退院したことにしてしまおうとする「退院支援施設」の新設など、問題点をあげればきりがない。
 とくに応益負担の導入は重大である。多くの介助を必要とする「重度障害者」ほど、多くの自己負担が課せられる。しかし「重度障害者」ほど就労が困難であり収入は少ない。そして払えなければ介助が受けられないという本質的な矛盾がある。「障害者」が働く作業所では、安い工賃を高い利用料が上回る構造を作り出してしまった。むしろ「働いて自立して介護費用を払え」という国の根本的主張の中に、今日の新自由主義の福祉解体の思想が現れているというべきである。福祉は廃止し「介助は金で買え」という攻撃だ。

地域自立生活を保障する措置制度を
 こうした数えきれないほどの問題点の根本原因は、契約制度の導入にある。政府は「措置から契約へ」をかかげ、国が責任をもつ公的保障制度だった措置制度を廃止した。03年に介助を「サービス商品」として売買する契約制度である支援費制度(06年に「自立支援法」)に転換したのだ。
 これによって福祉は「国家が保障するもの」から、「自己責任」で「買うもの」へと変貌した。それは、「福祉国家」というあり方の廃止という、新自由主義攻撃そのものである。
 必要なのは、「自立支援法」を撤廃し、国が責任をもつ公的保障制度として「障害者」の介助制度を実現させることである。「契約から措置へ」を求めて闘おう。
 措置制度と言えば施設隔離という印象が強く、地域自立生活運動を求める「障害者」団体からは、今も「契約から措置へ」という声はまだまだ弱い。かわりに支援費制度の復活や差別禁止法制定を求める声が強い。
 しかし「働いて費用を支払え」という思想を許しておいて、問題は解決しない。「施設から地域へ」をかかげた70年以降の地域自立生活運動のなかで「障害者」は措置制度のもとでも「全身性障害者介護人派遣制度」という評価できる介助制度をかちとってきた。これは措置制度を地域生活を保障するものへと変革してきた闘いの獲得物だった。
私たちが求める「契約から措置へ」の転換は、同時に措置制度の「施設から地域へ」の転換と一体だ。「障害者」の施設隔離ではなく、「全身性障害者介護人派遣制度」のような地域自立生活を保障する制度への拡充だ。
 すべての「障害者」が地域で安心して生活できる介助制度を実現しよう

今秋闘争の高揚を
 法施行後も「自立支援法」に対する闘いは全国各地で休みなく展開されてきた。06年、法施行1年目の10・31には日比谷公園に1万5千人が集まった。与党は、この抗議の声におされる形で低所得者に対する減免措置などの特別対策をうちだした。07年10・30日比谷集会には6500人が結集した。与党は12月に減免措置を拡大することなどを内容とした緊急措置をうちだした。「障害者」の闘いはこの2年半も法のストレートな施行をはばみつづけているのである。こうした「障害者」の「生きさせろ」の闘いは帝国主義を打倒するまで止まないものだ。「『社会保障拡充運動』は労働者の闘う道ではない」という安田派には、「障害者」の今日を生きるための闘いに革命を実現する力が宿っていることが理解できない。差別糾弾を否定する安田派を許すな。
 今秋「自立支援法」撤廃闘争の大爆発をかちとろう。憲法9条とともに25条の生存権をかけて改憲阻止を闘おう。10・31日比谷集会に結集しよう。」(全文)

※革命的共産主義者同盟再建協議会
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E5%91%BD%E7%9A%84%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E5%90%8C%E7%9B%9F%E5%86%8D%E5%BB%BA%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A

■言及

◆立岩真也 編 2014/12/31 『身体の現代・記録00――準備:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』Kyoto Books ※r.


UP:2014 REV:20141219, 20, 24, 30, 20210115
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