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日本筋ジストロフィー協会

Japan Muscular Dystrophy Association, Corp.

last update:20100722

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■ホームページ

◆社団法人 日本筋ジストロフィー協会
http://www.jmda.or.jp/

◆筋ジストロフィー協会支部リンク
http://www.jmda.or.jp/5/sibu.html

▼主な支部
◇社団法人 日本筋ジストロフィー協会 東京支部
http://www.jmdatokyo.org/
◇(社)日本筋ジストロフィー協会滋賀県支部
http://otsu.cool.ne.jp/jmda-shiga-otsu/
◇日本筋ジストロフィー協会京都支部
http://homepage3.nifty.com/jmda-kyoto/
◇日本筋ジストロフィー協会大阪支部
http://www.geocities.jp/kinjisu_osakasibu/
◇日本筋ジストロフィー協会兵庫支部
http://www.jttk.zaq.ne.jp/jmda-hyogo/


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■情報

◆レポート「日本筋ジストロフィー協会」(丸紅基金)
 (『まるべに』1997年11月号掲載)
http://www.marubeni.co.jp/kikin/institution/ins_9711.html


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■言及

 「筋ジストロフィー協会は昭和39年春,たった43名の親たちが発会した「全国進行性筋萎縮症児親の会」から始まりました.
 厚生省はただちに私たちの要望に応え「進行性筋萎縮症対策要項」を定め,発病原因と治療法に着手,専門病院として全国10カ所の国立療養所に10床ずつ100床を新設,筋ジス児の入所が始まりました.
 さらに,文部省は厚生省の「国立療養所における進行性筋萎縮症児の教育について」の依頼を受け,各関連道府県の教育委員会に療養所に隣接して公立養護学校の開校を求め,小・中・高の一環教育が実施され,共通環境のなかで医療と教育は筋ジス児童・生徒の人間形成に大きな関わりを持っていきました.
 そして,同昭和39年12月の昭和40年度予算獲得では,ベッドが300床となり,昭和39年の短い6カ月の間に大きな施策が確立していったことは,今思いおこしても,政と官と先輩協会役員の筋ジス患者の「命」を守るすさまじいまでの信念をもっての積極的な取り組みの成果に驚きさえも感じております.
 昭和40年,日本筋ジストロフィー協会と改称,昭和43年社団法人の認可を受け,同年,特別研究費「進行性筋ジストロフィー症の成因と治療に関する研究」として本格的な厚生省研究費の計上の実現をはかり,冲中先生を班長に,(1)疫学的研究,(2)臨床的研究に重点をおき,協会も研究班員となり,全国的な患者の実態調査,無料検診,筋検査,遺体提供による医学解剖,研究センターの設立をめざし,運動を始めました.
 昭和53年,国立武蔵療養所に神経研究所の開所,昭和61年,国立精神・神経センターの発足等,研究費も年々増額され,筋ジス病床も全国27施設2,500床となり,平成14年度関連予算は306億4,200万円が計上され,協会は研究班の研究に命をかけ“一日も早く”の合言葉でこれら予算の増額獲得に積極的に取り組んでおります.
 昭和32年,次女2歳の時,4〜5カ所の大病院をめぐり,進行性筋萎縮症(今では筋ジストロフィーに統一されている)という難病で治療薬もなく病気は進行し,14〜15歳くらいまでしか生きられない,という悲しい宣告をうけ,私達夫婦の人生は筋ジス児を中心にまわり始め,主人河端二男は,昭和41年から平成元年の亡くなるまで理事長をつとめました.
 小学校三年生で歩けなくなってから,次女の体の変形は進み,肋骨と骨盤がくっつきそうになるほど側彎がひどくなっていき,上田敏先生にコルセットを作ってもらったり,タオルをはさんだり,毎朝,車いすに落ち着くまでの体型づくりは,私と次女との知恵を出し合った実践の積み重ねによってなされ,健康も維持していきました.中学・高校・大学卒業と亡くなるまでの27年間の車いすの子育てが本書を読みながら,まざまざと脳裏に浮かび,忘れることのできない日々が思い出されました.」(河端静子[2002])

◆「現在、筋ジス病床をもつ病院は全国で27ヶ所、ベッド数は2,500床にまで達しているが、この病床もその歴史的経過をみると、いろいろな形があって、厚生省が関係方面と協議して設置したものが圧倒的に多いが、なかには、筋ジス協会の地元の保護者たちの要望でできたものもある。後者としては、埼玉の東埼玉病院、柏崎の新潟療養所、京都の宇多野病院、福岡の筑後病院等がある。」(河端[1993:67])

◆城鐵男(国立療養所宇多野病院名誉所長) 1993 「筋ジス病棟開設の回顧」
 「昭和43年5月私が貝塚千石荘から宇多野病院に転任して間もなく、筋ジス親の会から陳情があり、宇多野病院に是非筋ジス病棟を開設して欲しい旨のかなり熱い要望があった。
 地元出身代議士さんのお言葉添えもあり、厚生省当局からはすでに昭和39年5月筋ジス対策要綱が発表されており、諸般の情勢から筋ジス病棟開設は避けられないものとの判断に傾いていた。
 しかし永い間結核専門病院として結核治療に専念してきた医療陣を始め一般職員にとっては政策医療とはいえ、筋ジス病棟開設など青天の霹靂のように受けとられたことも無理からぬことで、その説得にかなりの時を要したことはむしろ当然であった。
 現実にはすでに下志津、西多賀病院では筋ジス収容は開始されていた。(国立療養所史結核篇276〜297頁参照)
 筋ジス病棟には養護学校がつきものである。学校の経営主体は国府県市立などあるが、宇多野の場合は京都市が経営主体と決定され、現在小中高校を擁して立派な市立鳴滝養護学校が隣接している。
 校舎の建設工事が病棟よりも大幅に遅れたため、当初は病室の一部を臨時に代用教室として使用してもらい、教育に支障なきようにしたつもりである。
 病院と学校とは互いに命令系統が異なるため時折現場で職員間にとまどいが生ずることがあるので、互いの連絡を密にして業務のスケジュールを決めなければならないことがよく分かった。△056
 発足当初はたびたび地元新聞社の取材があり、病院側が計画実施したクリスマスやお餅つき行事などが新聞に出る時はいつも「筋ジス学級」のタイトルが冠せられるので、病院側の職員から不満の声があがることしばしばであった。
 こんなことから病院と学校との間に連絡協議会が設置されたことは当然のことで、以後運営が円滑に行われた。
 筋ジス病棟で人院患児死亡第1例が出た時のことであった。お葬式当日養護学校では先生方が葬儀に参列されたが、病院側は誰も参列しなかった。当然患者家族からは病院は冷淡との声が聞こえてきた。結核療養所では患者が死亡した時は葬儀に参列することは普通行われていない。しかし学校教育の場では、一生徒の死は一大事で先生学友の葬儀参列は習慣となっていて、病院と全く異なっている。いくら説明しても親達から納得してもらえなかった。
 しかし後日別の患者が死亡した際、剖検が行われ、忠児の心筋標本の顕微鏡的病理診断所見を担当医から親御さん達に報告説明を申し上げたところ、子供の死因についてかくも詳細な検査をして頂いたことに対して、深い感銘と謝意を表わされたことがあった。学校の先生の役割と病院医師の役制が初めて実感を以って豁然と理解されたようで、病院は冷たいなどの声は消滅したようであった。」(城[1993:56-57])

■cf.

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


*作成:村上 潔
UP: 20100722 REV:20160704
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