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日中フォーラム


last update: 20160625


■日中フォーラム

◆1999

残暑御見舞
皆様お元気でいらっしゃいますか?
以下の取り組みにつき広めていただければ光栄です


私ども 「日中フォーラム 」では、以下の要領で
中朝国境の中国側の現状についてのスライド上映会と報告会、
また8歳から17歳の男女の食料難民の子どもたち12人の描いた
28枚のクレヨン絵の巡回展にとりくみます
アエラの99年5月17日号と週刊「金曜日」の99年8月20日号にも記事がありますご高覧ください

またこの地域の飢餓の現状については Johns Hopkins 大学公衆衛生学部が
Lancet Volume 354, Number 9175 24 July 1999 に詳しく報告しています

信州南相木村にて
色平哲郎拝

1) 11月6日(土) 1330から1700まで
   東京ウィメンズプラザ視聴覚室にて 報告会と絵画展 渋谷国連大学となり

2) 11月15日(月)から11月28日(日)まで 
   埼玉県越谷市にて 食料難民の子どもたちの絵の常設展
   フリースペースこしがや絵画館にて 東武線越谷駅 西口徒歩3分


3) 11月23日(祭)1330から 同じこしがや絵画館で 報告会とスライド上映

         日中恊働『飢民』支援フォーラム

             共同代表:李 仁夏  イ インハ 
                  色平哲郎  いろひら てつろう
             事務局長:橘 雅彦 
             Fax: 048-831-9512(橘)
           Email: mtachiba@jca.apc.org
           http://www.jca.apc.org/~mtachiba/kimin/

中朝国境を中国側に越えた「飢民」の実態踏査と生活支援
Action Research and Life Support for "Starving Koreans" beyond the Border

色平哲郎(長野県厚生連佐久総合病院内科)、山田修、大島ふさ子、橘雅彦
IROHIRA Tetsuro (Saku Central Hospital) YAMADA Osamu, OSHIMA Fusako,
TACHIBANA Masahiko

目的 1995年の大洪水以降飢餓が伝えられている北朝鮮から国境を越えて中国領に入った数万人の食料難民(中国政府のいう「飢民」)へ聞き取り調査と直接支援を試みた。

方法 中国東北部の吉林省、延辺朝鮮族自治州の延辺市とその周辺で、1999年1月に以下の7人にインタビューを試みた。4月には別の12人にクレヨン画を描いていただいた。本日はこの絵28枚を会場に掲示したい。橙色付箋の部は氏名他があったため隠したが、写真撮影は自由にしていただいてかまわない。

結果 第1次踏査時の7人  @北の難民の子ども2人、A難民の保護をしている宗教者、
B北朝鮮にいる兄弟に面会に行ったことのある市内の74歳の男性、C延辺近郊の農村に住む56歳の朝鮮族農民の男性、D農村に隠れて住む食料難民の家族の奥さん、E北と取引のある現地の経済人
   第2次踏査時の12人  8歳から17歳の男女の難民の子ども12人に@楽しかった想い出、A自由演題、B無題として、ひとりにつき2枚から3枚の彩色クレヨン画を描いていただいた。

当フォーラムのホームぺージで http://www.jca.apc.org/~mtachiba/kimin/ 御覧になれ
ます

      日中恊働「飢民」支援フォーラム ( 略称、日中フォーラム)
      からの支援の呼びかけ

             支援金のお願い

 日中フォーラムでは、延辺朝鮮族自治州において、食料難民の支援を行っている数カ所の「支援所」に、直接金銭による支援を行うルートを開拓いたしました。
 ただし、中国においては、食料難民をかくまうなどの活動が合法的に認められていないため、「支援所」がどのような場所であるかは明らかにすることができません。
 けれども、ご信頼いただけるならば、下記の郵便振替口座宛、支援金をお送りいただけると幸いです。

 加入者名 日中恊働「飢民」支援フォーラム
 口座番号 00120−8−106199

            
            巡回展の協力者を求めます

 日中恊働『飢民』支援フォーラムでは、この絵の巡回展を各地で行いたいと思っております。ご関心のある方、お住まいの地域での開催にご協力いただける方がいらっしゃいましたら、担当の橘 (mtachiba@jca.apc.org) までご連絡下さい。


        日中恊働『飢民』支援フォーラムについて

             第一回現地踏査報告

                山田 修  


私にとって今回ははじめての訪中でした。今回のとりくみは、韓国の『民族助
け合い仏教運動本部』KBSMの呼び掛けに応じたもので、以下は中朝国境を越え
て中国領にはいった北朝鮮食料難民の実態調査にとりくんだ記録です。

事前の情報では、国境地帯では人身売買をはじめ、難民がらみの犯罪が少なく
なく、中国の公安に見つかり次第、北へ強制送還され、北へ戻った後は北の警
察に所持品、金品を没収された上、暴行を受ける、というものでした。

そこで北朝鮮に最も近い中国側の都市で、難民も多くいるといわれている東北
部の吉林省、延辺朝鮮族自治州の延吉市へ行ってみることにしました。延辺朝
鮮族自治州は人口200万人のうち朝鮮族が40%を占め、北朝鮮とのルート
となる橋も7ヶ所あって、州都である延吉市(ヨンギル、中国語ではイェン
チー)は中国というより、韓国の地方都市に見える位ハングル語の看板のあふ
れる街でした。国境貿易の恩恵と同一民族でつながりのある人も多いせいか、
韓国の資本も多く投入されている様であり、市場には韓国製品があふれ、かな
り活気のある街です。

中国へ行く前に韓国のソウルへ行き、KBSM執行委員長で僧侶の法輪師に会い、
中朝国境の現状と支援の実情を教えてもらうことにしました。KBSMの活動とは
別に北朝鮮国内の咸鏡北道に特別地区があり、この地区における食料救援事業
にも法輪師らはとりくまれていらっしゃるわけですが、ここの地区は部分的に
外国人に開放されているとはいっても韓国籍では入国できないので、JTS とい
う別団体をつくってアメリカ合衆国から直接に資金と食料を送り、現地には中
国人4名を駐在させているとのこと。現地の人々が20人ほどで食料を炊き出
し、保育園児向けの栄養食となるトウモロコシ食品の調理などにとりくんで働
いているとのことでした。


延辺朝鮮族自治州の現地調査ですが、1999年1月半ばの8日間を延吉市を
基点にして周辺で過ごし、調査にとりくみました。延吉市へは北京から寝台列
車で27時間かかります。地方都市ですが中心部には高層ビルが建ち並び、市
内の延辺大学には日本人留学生も多く、中学校では3年間日本語を勉強するそ
うで、カタコトの日本語を話す人も少なくはありません。

また、街にはトヨタやニッサンの車、それも比較的新しい車が多く、北京で外
車と言えば(中国製らしいですが)プジョーやシトロエン、フォルクスワーゲ
ン、アウディそれに韓国のヒュンデやデェウーといった車が多いのと対照的で
した。延吉市の人の話ではこれらの日本車はほとんどが北朝鮮からの密輸入車
で、最近は公安の取り締まりも厳しくなり、数は減ったと伺いました。クラウ
ンクラスで10万元(公定レート1中国元=約14円なので日本円で140万
円)前後だそうです。ちなみに右ハンドルの日本車を中国国内で通用させるた
めに左ハンドルに改造するのに1万元かかるそうです。又 比較の為に中国製
の中型シトロエンの値段を聞いたら15万元でした。

延吉市では ・北の難民の子ども2人、・難民の保護をしている宗教者、・北
朝鮮にいる兄弟に面会に行ったことのある市内の74才の男性、・延吉近郊の
農村に住む56才の朝鮮族農民の男性、・農村に隠れて住む食料難民の家族の
奥さん、・北と取引のある現地の経済人、の7人にインタビューすることがで
きました。



まず二人の難民の子どもです。

A君(18才)は慈江道の出身で、もうひとりB君(16才)は両江道の出身
です。いずれも中国国境に近い山岳地域の出身者です。この二人は身長は
160cm位ありますが、体つきが貧弱で、見た目には中国人の12才児と変
わりがない印象でした。私は写真でしかみたことがありませんが、日本の終戦
直後の戦災孤児を思わせる顔つき、体つきをしています。たとえていうなら、
ふかしたてのジャガイモにハシで孔をあけて目鼻をつけた、とでもいう様な、
今の日本にはいなくなった素朴な顔つきです。

彼らはいずれも故郷ではご飯が食べられず、B君は母親だけが故郷に健在との
ことですが、他の家族は病気や飢えの為に体が衰弱して亡くなり、あるいは行
方不明となっているとのこと。北朝鮮の中で列車にタダ乗りし、物乞いや盗み
をして放浪していたそうです。彼らの話では故郷の村では村人の多くは亡く
なったり、離村したりで、今では半分は空家になっているとのこと。彼らは放
浪しているときに仲間となり、孤児達の噂で国境を越えて中国へ行けば食べ物
はある、と聞き、国境の川である冬の図們江が凍った時に歩いて中国へ密入国
してきたといいます。最短で30m位の川幅です。中国に入ってからは言葉の
通じる朝鮮族から食べ物や着る物を恵んでもらったり、バスの運転手の好意で
タダで乗せてもらったりで、めぐりめぐって延吉市へ着いたとのこと。街を徘
徊している時にキリスト教の信者らに保護され、最初は教会でかくまわれたと
いいます。

何度か訊ねているうちに少しずつわかってきたことですが、彼らは実ははじめ
ての中国ではなく、自発的に北朝鮮へ帰ったり、あるいは中国国内にいる時に
公安につかまって強制送還されたりで3〜4回は国境を出入りしているとのこ
とです。中国公安に「飢民」として強制送還される場合はまず留置所に2週間
入れられ、マイクロバスで男女とりまぜて10人位の単位で、最大の国境の街
で、延吉市から車で1時間ほどの図們市に行き、図們江にかかる国境の橋を
渡って、北朝鮮に送られて行くのだそうです。

A君によると、北の警察へ引き渡された時は所持品を没収され、かなりひどく
殴られたとのこと。身寄りがないので孤児院へ入れられたとのことでした。孤
児院では3度の食事には茶碗一杯のぬかと身の入っていない塩汁が出された
が、なれないうちはのどを通らなかったけれど、なれたら全部食べられる様に
なった、といいます。

また、中国から「北」へ向かう道中、公安のマイクロバスの中でいあわせた大
人の難民達は次々と走るバスの中から飛び降りて逃げ、「北」へ送られたのは
子どもばかりになっていたと。そして妊娠した若い女性が途中で飛び降りた時
は目の前で着地に失敗して頭を打ち、意識不明で図們の病院へ送られた。後か
ら聞いた噂では、その女性を病院に連れていったが、入院費用を公安が負担し
なければならず、その予算が無く、公安も困っている、らしいと。最近ではそ
んな事故、また増える食料難民を留置所に入れつづけておく予算も中国側には
なく、つかまっても犯罪でもおこさない限り「悪いことをしないと約束すれ
ば、釈放する」と説教され、半日か1日で釈放された人もいる、とききまし
た。

以上のききとり結果について少し考えてみました。延吉にいれば言葉もナマリ
さえ直せば朝鮮族にまぎれてくらせるし、また善意の人からお金や衣類、ある
いはうまくいけばですが仕事や住むところの提供を受けることもできる。では
なぜ自発的に戻ろうとするのだろうか?

○第一に望郷の念があります。延吉でひっそりとくらせば行動の自由こそ限ら
れているものの、物乞いしてでもお金は入手できます。しかしある程度たまる
と北に残っている家族や親戚にお金や衣類を渡そう考えて帰ろうとする。ある
いは行方不明の肉親を探しに帰る、ということがあります。A君は後者、行方
不明の兄をさがしていました。B君は前者、母親にお金を届けました。中国の
100元札と500元札を筒状にまるめ、ラップでくるんで、尻の穴の中へ入
れる。少額は靴底の内へ入れるなどして、すぐに相手に渡して逃げる為の分も
分けて持つようにする、等々のやり方を彼らからききました。また現金さえあ
れば、今の北朝鮮にはヤミ市場があって、中国元は北朝鮮のウォンに両替で
き、食べ物も買えるとのことでした。

○第二に、延吉市にいては食事と衣類はなんとかなっても「住む所がない」。
以下のように罰金制度まであるとききました。延吉ナマリを器用に話し、世渡
りの上手な人でもないと公安に密告されたりする。かくまってくれる人がいて
も公安にバレると5000元(約7万円)の罰金を支払わなくてはならず、衣
食の提供はあっても住まいまでは、短期間ならともかく、長期には難かしい。
この5000元という金額は最貧困層の年収の約2年分弱[560元〜600
元/年 が家族一人当たりの平均年収で 560元×5人家族=2800元/
年]に相当するものです。

○第三に身分が不安定なところへもってきて、人身売買や差別、仕事について
も中間搾取などの人権問題、いつ強制送還されるかわからない不安や見えない
圧迫感がある様です。


・次に難民の保護をしている宗教者の話。

延辺朝鮮族自治州にはキリスト教の教会が200ヶ所以上あり、延吉だけでも
十数ヶ所、非公認の小さいものもいれると50ヶ所以上とききました。80%
がプロテスタント、20%がカトリックだそうですが、それぞれ横のつながり
はないとのことで、信者が街で見つけた食料難民を連れてくる。あるいは「教
会へ行くと助けてもらえる、と口コミで難民が来る。難民が来るとシャワーを
浴びせ、新しい服を着せ、多くは皮膚病や「肺病」を持っているので、その場
合は病院へ連れていく。その後仕事を紹介したり、住む所を見つけ、子どもに
は読み書きを教えたりする。公安のトップには難民が衰弱している場合には人
道的に3〜4ヶ月であれば面倒みさせてほしい、と黙認してもらっているが、
年に数度ある「難民送還キャンペーン」の時には他の土地へ逃れさせる。公安
にはこのキャンペーンの時にはつかまえた人数に応じてボーナスが出るらしい
とのはなしをききました。2年前に衰弱した27才の女性がはこびこまれてき
た時、病院で点滴注射して治療してもらったが、3日後に死んでしまったそう
です。教会が殺人罪に問われそうになったが、遺体を火葬する前に検死しても
らい、助かったこともあると。教会の多くは似たようなことをしているようで
すが、表だっては動けないので、はっきりした全体像はわからない、とのこと
でした。



北朝鮮の平安南道の地方都市に住んでいる弟に面会した延吉市内の74才の男
性の話です。

弟さんは元炭坑労働者で現在は定年退職して、家族は奥さんと娘さんの3人家
族。97年に手紙で「食べ物がないので送ってほしい」と連絡があり、すぐに
国境の図們で25kgの米袋を5つ買って国境バスで北へ入ったそうです。米
は中国国内では1.5元/斤(42円/kg)の値段に対し、北の税関で1元
/斤(28円/kg)の課税がなされました。北の肉親に会うにはいつ、どこ
で会うかを申請しなければならないそうですが、許可がおりるのにとても時間
がかかったそうです。また、北の国内の列車運行は列車の部品不足などからと
ききますが、時刻表通りではなく、一日の行程が四日かかるなど、国内の移動
や手紙のやりとりもスムーズにいかないとききました。親戚訪問であれば北朝
鮮国内のどこへでも行ける、という中国人もいましたが、この人の話では、ご
く短時間、しかも国境沿いの街でしか親族訪問の許可が下りない、と言ってい
ました。

面会は図們の対岸の街の民家に一泊する形であったそうです。あくまでも親戚
訪問の形式なので、その民家が親戚であったことにして、縁のない人に頼んで
泊めてもらうことにしたと伺いました。弟の話では定年者には配給と年金は無
く、かなり衰弱していた印象でした。弟とその娘、そして泊めてもらった家の
家族8名の合計10人で、25kgの米が一晩で食べ尽くしたことにこの男性
は驚いていました。

前述の通り北の国内の列車事情がかなり悪いので、4袋の米をとても家へ持っ
ては帰れないだろうと心配したそうです。話の様子からは日本の終戦直後の買
い出し列車のようなスシ詰め状態らしいと想像しました。



延吉近郊の朝鮮族30世帯(人口110人)の農村でのインタビュー。
 
対象者は56才の朝鮮族農民の男性です。
延吉市内の親戚が17才の難民をかくまっていることをたまたま伝え聞き、本
人がケガをしていたので、農繁期にこの村に2ヶ月間居候させたといいます。
家族同然にうちとけ、良く働いてくれたが、ナマリがひどく、密告の危険があ
ると考え、延吉市へ帰したそうです。彼の家の小さい娘は「兄さん」といって
慕っていた、と伺いました。村には今も26才と27才の難民の青年がいる
が、村のナマリにすぐなれたので、村の誰かが密告さえしなければ、完全に村
人にとけこんでいるので、バレることはないであろうと。この、27才の青年
は家長と一度ケンカして家を出たが、すぐ戻ってきてあやまり、一緒に暮らし
ていると。村人は宗教を持たないが、善意から彼らをかくまっているし、彼ら
は田畑を良く手伝ってくれるので、助かっているとのことでした。

この村のひとり当たりの年収は1400元(約2万円)程で、一家族4人とす
ると総収入は年5600元程になります。過去に公安に見つかり、
18,000元(25万円強)をとられた農民や、一晩かくまっただけで
5000元(約7万円)の罰金をとられた人もいると伺いました。村には年2
度は公安がキャンペーンで難民を探しに来るが、村長が気骨のある人で「難民
はいない」と言い、みんなで協力してかくまったそうです。

北京で、ある国連関係者に伺ったところでは、今中国では都市と農村の経済格
差が大きくなり、農民には年金も支給されていないとのこと。農村でかくまわ
れている難民と一般の村民とでは、日常生活における国の保障面では(うまく
まぎれこんでさえいれば)この先もそれほどの差はないであろう、とのこと。
違いがあるとすれば身寄りのない天涯孤独のさみしさと、居候あるいは養子と
しての肩身の狭さがある。あと中国の制度では、申請すれば田畑を30年間無
償で借りられ、その後は本人の土地になる、というものがあるが、難民には法
律上はこれができないので、一生小作人として終わる、ということです。



次に話すのは延吉市から車で3時間程離れた農村での話。

面談者はその村の親戚をたよって、1年前に中国に逃げてきた20代後半の夫
婦のうちの奥さん。
一緒に逃げて来たのは当時3才の男の子と夫の母、夫の妹の5名。現在母親は
夫の妹、つまり自分の娘を人身売買したことで村にいられなくなり、行方不
明。夫は北へ残った親戚を訪問中で留守。インタビューは留守を守る奥さんで
した。

・出身地は咸鏡北道
・ご主人は北では鉱山の建設労働者で、今も中国の親戚の紹介で中国の鉱山で
働いている。
・北では給料は安く、また配給食料がはほとんどなかった。食べられないの
で、家族総出で山へ柴刈りに行った。一日全員で働いて70ウォン(一北朝鮮
ウォン=0.7円)の収入があったが、ヤミ市場ではトウモロコシが44ウォ
ン/kgで生活は苦しかった。
・今の村での生活は村人みんなから良くしてもらい、衣食住とも北にいた時か
らみれば信じられないくらい快適である。ただ、これほどみんなに良くしても
らって、北に残してきた肉親のことを思うと申しわけなく、逆にかなしくなる
ことがある。
・「今一番困っていること、心配なことは、北にいる肉親。」

後はただ泣かれるばかりで、それ以上の質問はできませんでした。



最後のインタビューは北とのパイプをもつ現地の企業家。

彼の意見は以下の如くです。
・北朝鮮内部には食料は充分ある。ただ国民はそれを買う金がないだけです。
・だから支援するなら米よりも現金を直接手渡す方がベター。
・資金や食料を現地へ運ぶのを北とパイプのある中国人に依頼することは可能
ではあるが、たかり体質になってしまい、今後の商売がしにくくなると考え
る。

NGOなどの効果的な支援方法をたずねたところ、以下の返答。

卵をあげるか卵を産むニワトリをあげるか、どちらが有効か考えてみてはどう
か?

例えば咸鏡北道の鏡城という所では良質の陶土が産出されるし、陶磁器をつく
る工場もある。しかしエネルギー事情や食料事情がわるく、稼働していない。
そこへ外国の企業が投資して現地人へ給料を払えば直接現金が渡せるし、継続
的に支援がつづけられる。日本のTOTOやINAXなどへ産出した陶土を輸出したり
するとか、検討の余地はあるのではないか? 

あるいは北朝鮮は工業化が進んでいない分、雄大な自然が多く残っている。観
光面でバックアップしてもよいし、水がうまいのでミネラルウォーターの工場
を作ってブランド品として売るなら低資本ですむ。以上の様な支援も検討して
はどうか?

との経済人ならではのご指摘でした。


さて、私が直接あって話を聞けたのは以上の7人の人達でしたが、他に印象深
い2つのことがありました。

ひとつは国境の町図們でのことです。国境は250m程の橋を隔てているだけ
ですが、記念撮影をしていたら、中学生くらいの子どもが二人寄ってきて、何
か言っています。現地の人に通訳してもらったら、彼らは凍った川を歩いて
渡って来た目の前の対岸の村の子ども(19才と16才)で、「中国の金をく
れ」と言っている、とのことでした。 見た目はジーパンにブランド物の上着
で北京や日本にいる若者と大差なく、血色もよかった。通訳してくれた人がか
らかってポケットの中を探ったら洋モクが出てきました。 このように国境地
帯では交易の為か比較的豊かそうでした。

もうひとつは北京に帰る寝台列車の中のことです。
延吉駅を出てすぐ私の斜め向かいに、15才くらいの男の子が座りました。そ
の後すぐ車掌が検札に来て、その男の子は無賃乗車がバレ、また中国語が話せ
なかったので、私の前に座っていた朝鮮族の女性が通訳したところ、やはり難
民の子どもでした。彼はすぐ次の駅でおろされ、公安に引き渡されましたが、
車掌も公安もけっして手荒なことはせず、その点はA君から聞いた通りでし
た。少なくとも中国国内では特別なことでもない限り、ひどい目にあうことは
ないというところが確認できました。

 




             第2回現地踏査報告
            

             食料難民の子どもたちの絵
 

 第二回目の訪中において、ある「支援所」で食料難民の子どもたちに絵を描いても
らうことができました。

 絵を描いてもらった子どもたちは全部で12人、年齢は8才から17才までで、男
女半々ずつぐらいです。それぞれの子に2つのテーマで描いてもらいました。

 まず「これまでに一番たのしかったこと」というタイトルで、これは彼らに“あた
たかい気持を思い出してほしい”という願いから、描いてもらいました。

 次に「自由課題」として、好きなものを描いてもらいました。このことで、彼らの
心の内を覗かせてもらえれば、と思ったのです。

 ただし、子どもたちには、これらの絵が、日本から来た支援者の依頼であることは
伝えていませんし、その絵を描くところに立ち会ってもいません。純粋な気持ちで描
いてもらいたかったからです。

 そうしてできあがった絵を渡されてみると、絵の裏側に、最初に描いてみたらしい
描きかけの絵を残している子どももいました。そこで、そういうものはそのまま「無
題」としました。

 こうして、24枚の画用紙の表裏に描かれた28枚の絵を私たちは持ち帰ってくる
ことができました。

 絵を描いてもらう際に、名前、性別、年齢、出身地、最初に国境を越えたのはいつ
か、その後何回国境を出入りしたか、今一番心配なことは何か、いままで一番楽しか
った思い出は何かを聞いてもらいました。それらは、絵の説明の中に入れています。
ただし、子どもたちの本名などは橙色の紙で伏せ、説明にはイニシャルを用いまし
た。

 絵を描いた子どもたちが、いまこの瞬間もまだ、故郷を離れ、肉親とも別れて暮ら
しているかもしれないことに、思いを馳せていただければと思います。

               K.H.さんの絵



            「私たちの学校 楽しかった日々」

    黒板には「私たちの学校」とあり、下の大きい建物が学校のようである。
   学校の玄関には「私たちは○○(判読困難)します!」と標語が描かれている。
     右手の小さい建物には「男」「女」の字があり、トイレのようである。





                  「希望」

        画面左に立っているのは本人の将来の姿と思われる。
     背広を着、眼鏡をかけているのはエリートを意味しているとのこと。
      画面上で黄色く輝いているところには「天国」の文字があり、
      そこに至る道には「永生」の看板が立っている。もう片方の
     黄色く塗られた道には「滅亡」の看板が立ち、その右の方に描かれて
       いるのは、人が頭を下にして崖から落ちていく様子らしい。

            《K.H.さんのプロフィール》

        性別・年齢           男子・13才
        出身地             咸鏡北道
        最初に国境を越えた日付     1999年2月21日
        その後国境を出入りした回数   なし
        今一番心配なこと        公安に捕まること
        いままで一番楽しかった思い出  友達と遊んだこと



               H.I.さんの絵



             「妹が学校へ行くところ」

       朝鮮半島の絵の中には「平壌」「中心である平壌」の文字。
     家には、扉、窓の他に、本来家の中にあるべきタンスや時計も一緒に
    描かれている。家の中が透けて見えるような感じで描いているだろう。
       この構図は家を描いた多くの子どもたちに共通していた。




           「希望は朝鮮軍隊になることです。」

     本人と思われる敬礼する人の下には「うまく描けなくてごめんなさい」
         の文字。旗の下にあるのは「朝鮮の旗」の文字。




                 (無題)

        画面左に座っているのは母親らしい。外は夜で時計は
      11時35分を指している。ふとんが二組強いてあり、その一つには
     妹らしき子が寝ているが、母親の様子を気にしているところのようだ。

            《H.I.さんのプロフィール》

     性別・年齢           男子・14才
     出身地             咸鏡北道
     最初に国境を越えた日付     1998年10月1日
     その後国境を出入りした回数   2回
     今一番心配なこと        中国へ来たことで家族に迷惑を
                    かけているかもしれないこと
     いままで一番楽しかった思い出  妹と遊んだこと



               C.M.さんの絵



            「追憶の中に夢見る故郷の村」

        子供らが捕虫網をもって追いかけているのはトンボ。
       山の方には鳥が飛んでいる。故郷の思い出を描いた子には、
        トンボ捕りと鳥の図柄が多かった。なお、線路と枕木
         のように見えるのは、村を取り囲む柵である。



               「軍人になりたい」

       この子は女子であるが、女子にも軍人や安全員(公安職員)を
      志望する子が多かった。軍隊に行けば食べ物に困ることはない、
             という考えもあるのかもしれない。

            《C.M.さんのプロフィール》

     性別・年齢           女子・16才
     出身地             咸鏡北道
     最初に国境を越えた日付     1998年12月13日
     その後国境を出入りした回数   5回
     今一番心配なこと        家に一人残っている母のこと
     いままで一番楽しかった思い出  人民学校の思い出



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