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全日本医学生連合(医学連)



・1954〜

 *以下未整理・作りかけ

◆市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※

・石井 暎禧 1937年東京生まれ。東京大学医学部卒業。現在、社会医療法人財団石心会理事長。60年安保闘争時に医学連書記長として参加。病院勤務のかたわら65年の第二次ブント再建時に政治局員。地域医療研究会世話人、日本病院会常任理事・医療制度委員長、中医協(中央社会保健医療協議会)委員などを歴任
・市田・石井[2010:22-]
クラフトユニオン医学連 (市田・石井[2010:22-])

1958 「当時、医学連の左翼の親玉は石井保男という男(10)で、彼は医学連の書記長でもあった。」(市田・石井[2010:19])

註10 「卒業を待たずにプラハの国際学連に副委員長として出向(五九年)。そのまま退学し、全学連分裂後も「全日本自治会総連合」代表のまま六八年まで同地に滞在した。ベルリン自由大学講師を経て帰国。七三年に復学した。その後精神科医として練馬区陽和病院に勤務。最近、回想録を出版した(『わが青春の国際学連かに、二〇一〇年、社会評論社」)(市田・石井[2010:40])

 「とにかく五九年一月に僕は共産党細胞・ブント細胞のLCになる。そしたら四月にはもう医学連の書記長になっちゃった。医学連は各大学医学部自治会単位の加盟でね。それぞれ非常に組織率が高くて、加盟していないのは自治会もってない慶応の医学部とか、ほんの少しだけ。日大も医学部自治会なかったかな。医学連の幹部はだいたい拠点校が出すんだけど、東京の私学だと日医(日本医科大学)が拠点で、東邦(東邦大学)がたまに出したり出さなかったり。面白いことに北海道の拠点は北大じゃなくて札幌医科大だったんです。そこから下りてくると、東北は福島医大。東北大は弱くてね。ずっと下がって千葉大でしょ。東京医科歯科大でしょ、それから東大、慈恵医大、京都府立、岡山大……。
 医学連というと全学連の一部みたいに安易に扱われるけど、医学連として医学生ゼミナールなんてのをもってるぐらいだから、かなり独自です。大規模に全国ゼミナールやってたのは医学系と教育系だけでしょ。[…]<0022<[…]その後の学生運動の展開を見ても分かるけど、医学連には非常にクラフトユニオン的な色彩があるんです。将来の職業が決まっているというのは大きい。教育系もそうでしょ。でも教育系は学生運動やってパクられると将来にひびく。[…]でも医学部の場合は、そういう気遣いがぜんぜんない。逮捕歴あっても関係ないもん。だから余計にクラフトユニオン的色彩を強めたのかもしれない。売り手市場なんだな。文部省のもってた国家統制力みたいなものが、医療の分野には及んでいなかったんです。
 しかし、石井保男、あいつ無責任にぜんぶほっぽりだして国際学連に行ったんだよ。翌年の医学連大会がもう大変。会計報告とかできないんだもん。なんにもなしで、なんにも分かんない。僕はもう居直って、石井のせいにして、なにも報告できませんけどとにかく予算案承認してくれってお願いしてさ。承認されましたけど、冷や汗もんでしたねえ。そのときの委員長が、僕より<0023<たしか二年上の池澤康郎(13)です。現、日本病院会副会長で、当時は東京医科歯科大学生です。なお彼は、血のメーデー事件(一九五二年五月)の時にピストルで足を撃たれて、入院した経歴をもってる。事件当時は大学二年生だったはずだよ。」(市田・石井[2010:22-24])

註13 「一九三二年生まれ。現在、東京医療生活協同組合・中野総合病院理事長。」(市田・石井[2010:41])

・「僕のほうは青医連運動の続きみたいなものとして、七一年の「反医学会総会」にかかわっていきます。その年はちょうど、七月に「保険医総辞退」騒動が起きるような、診療報酬をめぐる医師会と国のごたごたが社会問題化してた時期でね。同時に、四年に一度の日本医学会総会の年でもあったんです。「医療」が大きな”国民的”関心事項になってた。青医連そのものは、インターン制度が廃止になっていわば勝っちゃったわけだから、六八年の四三青医連でおしまいなんだけど、その世代がちょうど医局に入ってるころ。彼らを中心にして、大学のそとの「市民」とも連帯しながら、医療告発運動を日本医師会に対抗してやろう、という動きが出てきた。それで第一回「日本の医療を告発するすべての人々の集い」というのを、東大でやります。通称「反医学会」。それからも医学会総会にぶつけるかっこうで何回かやってます。ただ僕はもう大学のそとにいるし、医局に残ってる連中とはどうも肌合いが違うとも感じたので、あくまで大統一戦線なんですけど。僕としては、もう告発より実践だろうという気持ち。だから、いわゆる大学の医局問題には関心もてないまま、医学連部隊を総結集させるお手伝い、というところかな。」(市田・石井[2010:156])
・「しかし医師会勢力の後退は思った以上だったかもしれない。去年はとうとう、日医執行部から中医協に委員を出せなかったでしょう。政権が変わったからというより、何党政権にかかわらず相手にされなくなったと言ったほうがいい。けれどここへ来て、奇妙なねじれ現象も起きてます。介護保険の導入から〇六年の二つの保険の同時改定にいたるまでは、言ってしまえば日医プラス老人病院という”旧勢力”を追い落とすため、旧医学連”左翼”と旧”赤色”官僚、若い改革派官僚、さらには規制緩和派の一部までが、喧嘩しながらも手を組む構図があった。一種の統一戦線がたしかにあった。そこには代々木まで入ってる。日病が小泉に出した「提言」なんて、規制緩和派との喧嘩の産物だけど、彼らとき妥協を成立させて、対”旧勢力”統一戦<0327<線を旗揚げしましたと宣言したみたいなもんでしょう。”敵”からもそれは次第に見えてくるよね。政権交代の後、彼らは民主党にすり寄ってるでしょう。今度は彼らが”左翼”政権と組んで、「介護難民を出すな」キャンペーンをはじめてる。二〇一二年を睨んで「日本療養病床協会」――現在は名前を変えて「日本慢性期医療協会」――の一部に巣食ってた連中は露骨にやってます。「日本慢性期医療協会」の主流は、もう事態の進行の先が読めているから、さっさと新しい流れに乗ってますよ。読めない連中、転進できない連中が、自分たちのところが今日「難民キャンプ」なのに、明日「難民を出すな」、そのため自分たちを守ってください、という「運動」を展開している。日医も民主党支持の人間を会長にしたでしょう。民主党のほうも彼らからのラブコールにまんざらでもない様子。”右”と”左”の連携具合が完全にねじれたよね。二〇一二年にまた医療保険と介護保険の同時改定があり、そのとき介護療養病床はなくなってるわけですが、どういう戦線構造になっているだろうか。政党と政権がどうなっているかまったく分からないし、今、みんなその年をじっと睨みつつ、構えてますよ。」(市田・石井[2010:327-328])

◆山田 真 20050725 『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社 ,216p.  ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon][kinokuniya] ※ ms.h01.

 「「医学連」は「全国医学生連合」の略称で、それは全国の医学部学生の”闘う組織”でした。組織の中心には「ブント」という新左翼の党派の人たちもいて、彼らが東大闘争についての実質的な指導をしていたのでしょう。
 「ぼくは「なんとしても革命を起こさなくては」というところまではまじめに考えず、「世の中の理不尽さがいくらかでも正されれば」程度の思いで活動していましたから、「党派の連中にはついていけない」といふうに思っていました。しかし…」(山田[2005:126])
 ※全国医学生連合→正:全日本医学生連合

◆2007/12/23 「山田真に聞く」
 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館403.404 15:30〜
 山田 真立岩 真也(聞き手)
 主催:生存学創成拠点

 「山田:僕はね、大学へ入ったのが61年で、だから60年のその大騒ぎになっている状態は、横にいて、横目でみてたんです。61年に入った時の大学ってのは何にもない。なんか荒涼とした状態で、要するに当時の安保ブントが負けて、撤退したわけじゃなくて潜ったと思うんだけども、要するに雌伏にかかったころで、だから本当になんにもなくて、だから私なんかもどっちかっていえば、民青系の運動みたいな方に近付いたりなんかしてたんだけども、とにかくあんまり何にもない時期だったんだよね。
  ただその60年のその負けた連中の中で、それこそ十年単位で考えてた人たちがいて、要するに雌伏十年でもう一回次の安保改定のときに革命起こそうみたいな部分が残っていて、それがやっぱりなんというかいろんな形でアプローチしてたっていうか、自分たちの後継を作ろうみたいな動きをしてたんだと思うんだよね。それはあんまり具体的にそのころはわからなかったんだけども。
  だから、たんにあのころインターン闘争っていってインターン制度に反対したっていうのは口実みたいなものであって、実際に不満があったとかなんかっていうよりも、学生たち、われわれ医学生なんかのレベルで言えば、なんかとにかくなんか言いたいことがいっぱいあって、なんか言えるようになったから言おうって感じだったんだよね。インターンは口実だったと思う。
  それ以前に私なんかは、社会保障制度に対する論争みたいなのがあってね、これはやはり医学生運動っていわれる「医学連」★っていう組織を中心にした政治的な運動と別に、「医学生ゼミナール」っていうのがあって、それでそれが毎年やられていてね、僕なんかはやっぱりそれで影響を受けるっていうのが大きかったと思うんだけど。
★ 「「医学連」は「全国医学生連合」の略称で、それは全国の医学部学生の”闘う組織”でした。組織の中心には「ブント」という新左翼の党派の人たちもいて、彼らが東大闘争についての実質的な指導をしていたのでしょう。
  「ぼくは「なんとしても革命を起こさなくては」というところまではまじめに考えず、「世の中の理不尽さがいくらかでも正されれば」程度の思いで活動していましたから、「党派の連中にはついていけない」といふうに思っていました。しかし…」(山田[126])→時計台占拠
  個人的に一番インパクトが強かったのは、大学4年のときのゼミナールで、竹内芳郎★が来てたんだけどね。竹内芳郎はもうまったく難しくてわからない話だったんだけども、西村豁通(ひろみち)★っていう同志社の経済学だろうね、教授が来て、社会保障制度について、今でいえば、福祉国家論みたいなものを言って、結局その日本の健康保障制度なんかも、もとはドイツの社会保障政策の上に連なるものだから、飴と鞭であって、社会保障制度という飴を与えて、それで別の形で搾取していくっていうその国ありようの中のひとつの制度だっていう話を西村さんがして、それでそれはなんか非常に衝撃的だったっていうのはあるんだよね。
★ 西村 豁通 1961 『社会政策と労働問題』,ミネルヴァ書房,184p. ASIN: B000JALO1U [amazon] ※
――――― 1970 『増補 社会政策と労働問題』,ミネルヴァ書房
額田 粲・西村 豁通 編 1965 『日本の医療問題』,ミネルヴァ書房,294p. ASIN: B000JACZ5O [amazon] ※
  だから具体的な運動じゃないけれども、五月祭なんかで、保険制度、健康保険制度についての分析はやったりなんかはしていたので、インターンの問題からはあんまり社会的な問題にはいかないっていうか、あれ要するに身分の問題で、医者の労働収奪だって言って、医者も労働者だと規定してね、労働者で働いてるのに学生扱いされて給料もくれないのもおかしいって言ってたんだけれども、でもそれは、実際にはほとんどみんなバイトをやって、けっこういいお金をもらったりなんかしてて、生活やなんかにとくべつ困っているわけでもなかったしね。だからそのこと自体から、インターン反対運動みたいなものから学ぶっていうものはあんまりなかったんだけども、別の形でそういう医ゼミっていってたゼミナールなんかで学んだものっていうのはあった。
  それから要するに、実際に、70年に、なんかの形で蜂起しようって考えてた人たちは、やっぱり革命を目指すわけだから、だから国家のことを考え、世界情勢みたいなものを一生懸命吹き込んだりしていたので、それなりに開かれたっていうところはあるんだけど、結局そのインターン制度反対っていうこと、あるいは大学の機構改革だとかなんかっていうようなところまでしか考えなかった人はそれで終わりになっちゃった。運動終わったら、それ以上の展開がなかったし、普通の人になってしまったんだけども。そういうベースってのは一つはあったと思うね。
  いろんな運動がでてきたのは、あれまでやっぱり日本では異議申し立てをするっていう、抑圧される側が抑圧する側に対して公然と異議申し立てをするみたいなことっていうのが、あんまり見たことがなかったんだけど、それはやってもいいんだっていうことになったっていう、たとえば患者が医者に対して何かものを言ってもいい、学生が教授に対して、「バカヤローお前なに言ってんだ」っていう形でものを言ってもいいっていうのが見えたから、だからそういう意味ではその今まで抑えてた、そういう異議申し立てをしたいんだけどもできないっていうか、そういうことは日本ではしちゃいけないんだみたいなものが崩れてね、それで一斉にこうでてきたっていうふうに思うんだよね。
  ちょうど確かに公害だとか、経済成長による矛盾みたいなものがいっせいに出てくる時期でもあったし、やっぱり日本の一つの転換点だったと思うんだけれども、その森永ミルク中毒★なんていうのはやっぱり転換点の事件であることは確かだと思うんだけれども、そういうところで、だからあれが、学生の運動がなかったらやっぱり被害者の運動ってああいう形にはならなかったと思うけど、被害者自身がものを言うっていうんかな、そういうものがでてきて連動したんだと思っている。」

 *このインタビューは(この箇所も)以下の本に掲載されました(pp.161-164)。ただ表現などすこし変わっています。

◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』 ,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya] ※

 「★17 「「医学連」は「全国医学生連合」の略称で、それは全国の医学部学生の闘う組織≠ナした。組織の中心には「ブント」という新左翼の党派の人たちもいて、彼らが東大闘争についての実質的な指導をしていたのでしょう。
 「ぼくは「なんとしても革命を起こさなくては」とい<0163<うところまではまじめに考えず、「世の中の理不尽さがいくらかでも正されれば」程度の思いで活動していましたから、「党派の連中にはついていけない」というふうに思っていました。しかし[…]」(山田[2005:126])
 「全日本医学生連合」が正しい名称であるようだ。六〇年代前半からインターン問題他で闘争。青医連中央書記局編[1969]『青医連運動』に記録が収録されているが、もちろん絶版。山本崇記[2005-]「大学/学生運動」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/studentpower.htmに目次他が紹介されている。なお「医学生自治会連絡会議」を通じ一九八四年に結成されたという「全日本医学生自治会連合」(医学連)は別系統の別組織。」(pp.163-164)

◆「戦後学生運動の歴史」
 http://www.assert.jp/data/history/his/his-menu.html
 →http://www.assert.jp/data/history/his/195804.html

◆日大医学部・高等看護学院運動史
 http://www.z930.com/nenpyou_igakubu.html
 http://www.z930.com/

◆wikipedia「研修医」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%94%E4%BF%AE%E5%8C%BB

 「1954年11月12日に東大医学部一号館で全日本医学生連合結成大会が開催され、46大学医学部中39校が出席して「全日本医学生連合」が結成された。
 1967年最大時には36大学2400人加盟した青医連などの組織が誕生して大規模な学生闘争が繰り広げられた。
 1967年3月12日インターン制度完全廃止を叫ぶ医師国試阻止闘争が行われ、この年の医師国家試験は受験生3150人のうち405人しか受験しないという結果になった。
1968年こうした状況を受けて医師法が改正され、制度は廃止された。[…]」

◆2010/07/22 「60年代のプラハ回顧 元IUS副委員長、冷戦下の9年つづる2010年7月22日」
 『朝日新聞』2010-07-22
 http://book.asahi.com/clip/TKY201007220367.html

◆石井 保男 20100703 『わが青春の国際学連――プラハ1959‐1968』,社会評論社,190p. ISBN-10: 4784514791 ISBN-13: 978-4784514793 2100 [amazon][kinokuniya] ※

◆2010 三橋 徹 「所長就任あいさつ」
 http://www.e-sora.net/himawari/syotyouaisatu1.html
 「こんにちは。4月から田島診療所の所長を引き継ぎます三橋徹(みつはしとおる)です。

 私は、1985年頃、医学生の時に全日本医学生連合が主催した労災職業病フィールド合宿に参加して、横浜で日雇い労働者の街ことぶき町のAA(アルコホーリックアノニマス)や港湾労働、食肉市場などを見聞きさせていただき、アルコール依存の問題や働く中で病気になり命を害してきた現実にショックを受けました。そのつながりで、NPO法人 東京労働安全衛生センターの事務局に入り、労働者住民医療連絡会議の活動に参加して、田島先生ともお会いして今日に至ります。」

 「1985年頃[…]全日本医学生連合」?

http://blog.zaq.ne.jp/Kazemachi/article/501/

 「私の理解では、東大闘争はまず医学部の「臨床実地研修制度」(いわゆる「インターン制度」)に端を発するもので、1954年に東大医学部一号館で全日本医学生連合結成大会が開催された頃にまで遡ることができる。この制度によって医学生たちは、学生でも医師でもない不安定な身分での診療を強いられた。それ故に、この制度に反対する運動は以前から行なわれていたのである。」

◆cf.全日本医学生自治会連合(医学連)
 http://www7b.biglobe.ne.jp/nawailob/iroiro.htm

 「全日本医学生自治会連合(医学連)
医学生の自治会、自治組織の全国的な連合体。学生運動の中で1968年全日本医学生連合(旧医学連)が崩壊した以降、医学生自治会連絡会議を通じて1984年に全日本医学生自治会連合として再建された。毎年夏に全国の医学生の自主的学習交流活動の場である全国医学生ゼミナール(医ゼミ)を開催するほか、全国の医学生の要求実現のためのさまざまな活動に取り組んでいる。」

■人

石井 暎禧
石井 保男
今井 澄
黒岩 卓夫

■言及

◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya] ※,
◆立岩 真也 2011/01/01 「社会派の行き先・3――連載 62」,『現代思想』39-(2011-1): 資料
◆立岩 真也 2011/02/01 「二〇一〇年読書アンケート」,『みすず』53-1(2011-1・2 no.):- http://www.msz.co.jp,


UP: 20101209 REV: 20101211, 14, 20110108, 0909
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