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CP女の会


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 *日本の女性障害者運動の草分けの一つ。一九七四年、青い芝の会神奈川連合会の婦人部として結成。のちに連合会から分離して、活動を始める。活動の中心メンバーは、主に、同じく障害者のパートナーとの間に子どもをうみ、毎日の子育てや近隣との付き合いを重ねてきた女性たち。当初は一〇名ほどだったという。
 CP女の会編[1994]『おんなとして、CPとして』(同会発行)が、活動二〇周年を記念して出版された。
 社会的な運動としても、横浜高島屋事件(1977年3月11日)への抗議とビラまき、ビッグコミックオリジナル『夜光虫』への抗議(1980年)とその後の小学館側との座談会の実現、八王子事件(1987年1月)のマスコミ報道への抗議、『女性自身』(1987年7月15日号)の記事「シリーズ――子宮摘出」を端に発する論争などを積極的に行う。

 ■新着

◆立岩 真也 2015/09/12 「CP女の会/また横田弘←『そよ風』――「身体の現代」計画補足・60」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1647035432230104

◆立岩 真也 2015/08/20 「もらったものについて・14」『そよ風のように街に出よう』88:42-49

 ■発言・言及

 「CP女の会が、青い芝の神奈川連合会から独立し、独自の活動を始めた背景には、川崎のバス闘争など、活発な活動の全盛期だった青い芝の会とは別に、子育てや子どもの教育問題、また、子どもを通して関わる保育園、学校、地域のことを気楽に話す場所が欲しいという女性たちの思いと同時に、男性主導の運動への懐疑感が上げられている。」(瀬山紀子[2002]147p)

 「原因は定かではない。とにかく、女たちは「青い芝の会」の婦人部から独立し自由に行動を始めた。
当初「CP女の会」は、激しい運動から離れ、ゆっくりお茶でも飲んで、亭主の悪口と悪ガキどものいたずら話でもするのんびりした会にしたいと願っていたところもあったようだ。そのため呼び名も「青い芝の会」の時のまま「婦人部」で月例会を続けていた。
 だが、女たちが「青い芝」運動から離れたわけではなかった。ただ、これまで日々の営みの中で起きるさまざまな問題は、男の問題とか女の問題というような区別もされず「障害者の問題」という形でかたずけ【ママ】られていたのだということが、別れる事により、より明確になってきた。」(内田みどり[1994]13-14p)

 「この時期、私を含め運動に参加した大半の女たちが子育てに追われていた。障害者運動と子育て、自分を自覚し割り切っての女たちの戦いも、時にその余りの厳しさに崩れそうになる。
 (略)マイクからほとばしる男たちの叫び、女たちは、黙って人並み【ママ】のなかに黙々と「ビラ」をまき続けた。女たちは、子育ての中から生まれる新たな地域との摩擦の中で、男たちとはちがう差別や偏見を味わいはじめていた。男たちは、障害者運動に夢とロマンをかけ、女たちは、日々の生活をかけた。」(内田みどり[1994]10p)

 「運動とは、決して特別な人々が行うものではない。しいて言うなら、最も平凡な人間が、平凡に生きていきたいと願った時の願いの姿なのだ。
少なくとも女たちの闘いの根っこはそこにあった。
 結婚・出産・子育て、そして、自らの手できづき【ママ】あげた家庭……これらを守るための闘い。
 それを人は、障害者運動という。」(内田みどり[1994]16p)

 「青い芝の会は女性差別だなんて言われますけど、女の人たちの運動っていうのも結構ありましてね。女性だってちゃんと運動やってました。(略)「青い芝」の運動は障害者解放運動。女性の運動でも男性の運動でもない障害者の解放運動でした。ここにどうしても女性がついていけない部分があったのではないかと思います。優生保護の問題なども障害者である前に、私たちは女なんです。簡単じゃないんです。女と男と障害者と健全者の権利の衝突ですから。障害者であり、女であるということは、一つの答えが出にくいときもあった。障害者として獲得しなければならないものと、女性として欲しいものが違う場合もある。難しいですね。そういう障害者運動の狭間で、女たちはずいぶん悩んだり苦しんだりしたものです。でも、ときには男たちと衝突しながらも、自分たちの運動をやってきたと思うんです。家庭を守りながら、子育てしながら。」(内田みどり[2001]286-287p)

 「「青い芝」で女性差別を感じたのは、『さようならCP』という映画を見たときでした。私が(この映画を)見たのはかなり後だったんですよ。一〇年ぐらい経ってからかな。権力の縮図っていうか、自らを強調するあまりに、一人の女性の人権をあんなに無視しちゃって。私、震えちゃった。隠された存在の障害者に、たまたま細い光が差した。男たちは必死だったんだと思う。『さようならCP』というドキュメンタリー映画は、結果として「青い芝」の運動を全国組織に広げ、社会にもその存在を位置づけたんだと思います。でも、あの映画は女性差別以外の何ものでもないと思っています。」(内田みどり[2001]287p)

 「川崎駅前で路線バス三十二台を止めた時の若い障害者たちの行動に対しては、一般市民の批判と養護学校の先生、親の会からは過激だと恐れられてしまいました。なぜ? 私たちは地域の中で生きたいと、人として当たり前の主張をしてきただけなのです。」(矢田佐和子「バス闘争」、→CP女の会[1994]132P)

 「そんな私たちが二〇年前に結婚を決意したとき、両親や親類、知人から強く言われた事は、「子供はつくるな」であり、「子供が可哀想」だった。(略)
 確かに長い歳月の間には、親の障害故の哀しみを息子に与えたことは否定できない。小学校の授業参観にでかけた私に、教室中の子供たちの眼が集中して先生を困らせたこともある。運動着のゼッケンがなかなかうまく付けられなくて親子で一緒に泣いた時もあった。だが、私はどんな時でも「お母さんが障害者でゴメンネ。」という言葉だけは絶対に避けた。むしろその言葉で生まれる息子への心の負担の方が、私には恐ろしかったのである。」(横田淑子「障害と持つ親として」、→CP女の会[1994]137-138P)

 「日本における七〇年代の障害者運動では、しばしば、「家族」は障害者を押さえつけるものとして存在する、と主張されてきた。(略)
 障害者運動によって主張された「脱家族」が念頭に置いた「家族」とは、先に記したように、障害を持つ人が生まれ育った家族をさしている。そして、より厳密には「自らを産み育てた親」からの脱出を表しているといえるだろう。その意味でこの「脱家族」という主張は、より正確には「脱親」という主張と読みかえることができる。彼女たちは親元を離れ自立を果たした後に、自らも結婚や出産を選び新たなる「家族」をつくって行くことになった。彼女たちは、一度は脱出を試みた家族という制度を、再び、自らの意志で選び直した。それは、家族という制度から否定された彼女たちの「家族」という制度に対する挑戦でもあった。」(瀬山紀子[2002]、148-150p)

 「いの又(小学館) 親に対してどう思うかを外で態度に表す時に、カッコよく言うみたいなところがある、それはお子さんからすれば意識してそうすることが得だからと、内田さんは非常にきびしい言葉でおっしゃいましたけれど、そういうことではないんじゃないですか、本当に心から思ったんじゃないですか。
内田みどり それはね、私は口で言います。あなたカッコいいこと言っていても本当はそう思ってないでしょう。人が見ているからそうしなければいけないと思っているんじゃないの、と。そうすると、バレたかあ、なんて言います。
いの又 それは親子だから、バレたかなんて言ういい方で言うけれど、本当はそうではないのではないですか。
内田 そうです。だから、本当のやさしい心もわかるの。わかるからこそ言っているの。私もしかしたら殺されるかな、なんて言ってるけど、もしこの子が本当に私を殺したくなったら自分から先に死ぬかもしれない、子供をかばうために。そうでしょう。
小仲井千鶴子 私にはわかる。案外きついこと言っててもそれが血だと思うの、そこらへんが、私たちの本当に弱いところだなあって思う。それを本当に乗り越えて本当に子供たちと闘えたらそんなに強いきずなはないと思う。」(座談会「『夜光虫』事件から」、→CP女の会[1994]163-164p)

 「小山正義 「婦人部ですが、あるいは反感を買うかもしれませんが、敢えて婦人部を設けることは逆差別になるということで婦人部は解散させます。そういう事で婦人部長は決まりませんでした。」
 内田「去年の考え方とずい分違うと思いますけど」
 小山「これは案で、これから幹事にしろ、婦人部の事にしろ決めなくちゃならないが何分時間がないので……」
 (婦人部員口々に抗議する)
 小山「あとで婦人部の人とは話し合いたい」
 (婦人部員口々に発言するため、会場騒然となる)
 漆原ハギエ「みんなの意見も聞かないで決めるのはおかしい。」
 小山「それでは婦人部の中で部長に推薦する人はいますか?」
 婦人部員「ハギエさん」
 (婦人部員口々に発言するため記録とれず)
 小山「各部は、新役員のもとによって作られる訳です。なくなる部も出てくることはあり得るわけです。
 かたまらないで座って話して下さい。反対なら反対という事でそれだけ効果があるんですから。」
 小山清子「はい。この間この間の【ママ】婦人部で決まった事を発表して、それで決めたらいいでしょう。はっきりすると思う。」
 小山「婦人部長にふさわしいと思われる人が、役員会では見当たらなかったし、それと同時に……」
 婦人部員「何が見当たらないの。既に決めている婦人部の意見も聞かないで、そんな事を勝手に決めるのはおかしい。」
 (口々に発言)
 小山「会長としての考え方としては婦人部を……」
 婦人部員「見当たらないという事自体が、女を切っていることではないか。」
 小山「それでは僕の言った事は訂正します。」」(第14回「青い芝」神奈川県連合会総会、『あゆみ』31号、1976年8月発行)


 ■文献

青い芝の会神奈川県連合会[1989]『あゆみ 創立30周年記念号』(上中下)、同会発行
◆CP女の会編[1994]『おんなとして、CPとして』、同会発行
瀬山紀子[2002]「声を生み出すこと――女性障害者運動の軌跡」→石川・倉本編[2002]『障害学の主張』、明石書店
瀬山紀子[2004]複合差別の具体的様相――70年代ウーマンリブのなかにいた障害をもつ女性の語りから」、障害学会第1回大会於:静岡県立大学
◆立岩真也[2007b]「障害の位置――その歴史のために」、→高橋隆雄・浅井篤編[2007]『日本の生命倫理:回顧と展望』、九州大学出版会
◆内田みどり[1994]「私と「CP女の会」と箱根のお山」→CP女の会[1994]
◆内田みどり[2001]「障害者であり、女であることの狭間で」→全国自立生活センター協議会編[2001]『自立生活運動と障害文化』
米津知子[2002]「女性と障害者――女で障害者である私が、女の運動の中から考えること」、→齋藤有紀子編著[2002]『母体保護法とわたしたち』、明石書店


*作成:杉田 俊介
UP:20070922 REV:
青い芝の会組織
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