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鎌田真和氏インタビュー

20181006 聞き手:櫻井悟史渡辺克典塩野麻子 於:立命館大学生存学研究センター書庫

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櫻井:それではよろしくお願いします。本日なんですけれども、尾上さんから、ビギンの資料を生存学研究センターに預けるとお申し出いただき、引き継ぎをしたのですが、その資料について、「これは一体どういうもんなんだろう?」というのを、われわれはあまり知らなくて。立岩さん(立岩真也)とかはご存知なんですけれども。一体それはどういうものなのかということを、作った方にぜひともお話を聞きたいということで、鎌田さんをお呼びしたということになります。実は、りぼん社★1からも最近、資料を引き継ぎまして。

鎌田:そうみたいですね。そのインタビューはたぶん、読んだと思います、立岩さんとの。 櫻井:その中にもやっぱり『ビギン』の冊子のものがあって。そちらに置いてあるのは、立岩さんが保管していたもので。あと、これがりぼん社からのものとなっていまして。あとはこの『ジョイフル・ビギン』というのもある、ということです。
 今度、先ほどお渡しした中に『生存学研究』★2という雑誌がありまして、そちらの第2号で、アーカイヴィング・メソッドについての特集を組むことになりました。そこでビギンの資料についてご紹介できればな、というふうに思いまして。そのためにちょっと色々とお尋ねしたいなと思い、こちらにお呼びしたということになります。
 一応、われわれの自己紹介から、まずしていった方がいいですかね。私、櫻井悟史と申します。こちら、院生の塩野さんと、 塩野:はい、よろしくお願いします。 櫻井:こちら生存学の、渡辺さん。 渡辺:渡辺と申します。 鎌田:すみません、私名刺持ってなくて。ありがとうございます。いただきます。 櫻井:もう1名、伊東さんという方がおられて、世界的な精神障害者のネットワークの研究されている方なんですが。その方も本当はここに来たかったということなんですが、ちょっと今台湾の方で障害学国際セミナーに参加していて、参加できないとのことでした。ただ、事前に質問はいただいていますので、それもあとで聞かせていただければと思います。
 早速なんですけど、鎌田さんご自身のことを最初にお尋ねしてもよろしいでしょうか? ビギンにいつ頃から関わられたのかとか、その辺りから教えていただければと思います。

鎌田:それはできたときに、職員ということで入職したのですけれども。入職するきっかけというか、経過としては、全障連★3とかとはずっと昔から、私が学生時代から関係はあって。どっちかっていうと、私、ろうの人たちとの付き合いが長かったのですね。ただ、それと同時に、自立生活をしている人の介助にも入っていました。
 全障連の大会には、確か79年が京都大会だったと思うんですけども、その時からずっと参加はしていました。全障連の中心的なメンバーだった一人に岐阜の戸田二郎さんという方がいます。今も岐阜で活動している方です。この方が、自身は肢体障害で、昔は松葉杖で歩いていた人ですけども、この方が、地元で手話サークルにも関わっていました。全障連大会の中で、昔は障害別交流会っていうのを夜やっていたんですね。それで、聴覚障害、ろうの関係の交流会ということで、全国から集まった人たちが、一堂に会して、そこでお互いに色々知り合ったり,情報交換したり,運動課題について議論したりしていました。そして、運動課題があればお互いに支援したりという活動がありました。その頃岐阜でちょうどろう者が被告人となっている裁判が二つあったのです。
 一つが、ろう者が、昔のトルコ風呂ですね、そこの女の人を殺してしまったという事件。もう一つがそれとほぼ同時期に、中学校に盗みに入ったろう者が、その後でその学校で火事が起きたので、その窃盗と放火で起訴された。本人は「自分は放火はしてない」と、「盗みはしたけれども放火はしてない」という主張をしたので「これは冤罪じゃないか」ということでその裁判支援という、ちょうど二つが、79年、80年頃にあったのです。それが、全障連のその障害別交流会でも戸田さんから報告されました。東京でも「じゃあ、支援しよう」ということで、ろう者と裁判、刑事裁判を考えるための集まりを作りました。そのほかいろいろと障害者運動と関わってきています。
 それで、ビギンができたのがたぶん93年だったと思うんですけども。その前に、「障害者の10年」★4っていうのが、81年からでしたっけ?

櫻井:はい、81年でした★5。 鎌田:そうですよね。東京でもその関係で、石毛^子★6さんですとか、あとは東京にいる全障連の人たちとかが中心となって。あれ、10年研っていうの、大阪だったかな? ちょっとはっきり覚えていませんが……、そういう研究会みたいなものがあって、そこにどういうきっかけで出るようになったかは、ちょっとあんまり覚えてないんですけども、そこにも時々顔出すようになっていました★7
 そこで例えば、全障連ですと、大賀さん★8とか矢内さん★9という方ですとか、大会に出れば顔は見るような人たちとも知り合うようになりました。その頃私は、今もそうなんですけれども、聴覚障害の弁護士がいて、そこで仕事をしていたのですが、「辞めようかな」って思っていた頃にその矢内さんから声をかけられたのです。……、DPI日本会議の準備会ができたのもそのちょっと前ぐらいじゃなかったかなと思うんですね。93年のちょっと前ぐらいだと思います。DPI日本会議ということで、少し運動体の再編成をしていこうという流れがあって、もう一つは、運動体とはちょっと違って、その政策研究とかをしていくような団体も必要じゃないかという話が出てきていたようです。それでこういう情報ネットワークのようなものを作るということのようでした。
 私も「そろそろ仕事辞めようかな」と思っていた頃で、「じゃあ、専従やらない?」ということで。それで弁護士の事務所を辞めて、ちょっと間を置いて、情報ネットワークができた時に専従ということで入った、という経過です。

櫻井:専従は、鎌田さんお一人なんですか?

鎌田:できてすぐのころは、私一人で。最初は事務所が、斎藤明子さん。その斎藤さんが、自分で持っている事務所のようなマンションがあって、そこの机一つ借りて始まったのが最初なんです。そこから、1年も経たないうちだったと思いますが,新宿区の山吹町というところに事務所を借りて移ったのです。
 そのときから上薗和隆さんという、全盲の点字使用の方です。この方と二人で専従職員になって、やっていました。 櫻井:お二人でされていたということですか。 鎌田:はい。 櫻井:お仕事はどういったことを、例えばされていました? 鎌田:仕事としては、『月刊ビギン』の編集と、それから資料集め、これが主ですかね。 櫻井:資料の発送などの手続きも? 鎌田:もちろん私と上薗さんの二人で。上薗さんは主に点字印刷の方をやっていたんです。今もDPIの中で、点字印刷ビギンという名前で、点字印刷をなさっています。
 資料を集めたり、発送したり、また連絡を受けたりしたりとか、印刷を発注して取りに行ったりとか。『ジョイフル・ビギン』ができるようになってからは、その印刷とか、これは現代書館に発売元をお願いしたので、現代書館との打ち合わせですとか。それから、これ一応一般書店の販売をできるようにしてもらったので、印刷会社から上がってきたものを、出版取次会社に運んだりとか★10。あと、政策研究集会という集会を情報ネットワーク主催でやっていましたから、そういう行事があれば、その行事の準備ですとか。まあとにかく、何でもかんでも(笑)。

櫻井:すごい仕事量ですね。当時、立岩さんの書いている文章で、鎌田さんのお仕事を、「自分なんかめまいがしてしまうよ」って書いてあって、お聞きするとまさしくそんな感じかな、と。じゃあほとんど、この辺りも全部そうですか?

鎌田:そうですね。例えば、原稿上がってきたらそれ校正して。ちょっと直してほしいところは著者に言って直してもらったりして原稿仕上げて、それを印刷会社に渡したりとか。

櫻井:そのお仕事は、ビギンが終わるまで、ずっとされていたんですか?

鎌田:いえ、途中で辞めたんです。確かね、98年…、98年ぐらいだと思いますけれども。まあやっぱりちょっと煮詰まってきて(笑)。結局、ほっとする時間がないんですよね。何か終わっても、例えば土日で集会やって、じゃあ月曜日休むかっていうと、月曜日はまた仕事して、っていう感じで。そのうちにまあ段々とやっぱり、ちょっとまあ、将来のことも考えるようになって。確か98年で辞めています。私が退職したすぐ後頃に、山吹町の事務所から高田馬場の事務所に移って、上薗さんはそのままですけれども。そこで、情報ネットワークそのものは確か2004年かそのぐらいまで続いていたと思うのですけれども。

櫻井:そうですね。この最後のものが2004年になりますかね。

鎌田:そうですね。情報ネットワークは結局、DPIと一体化することになったのかな。今まで一応別だったのが、DPIとも一体化することにして、その高田馬場の事務所もやめて、総評会館で、今も総評会館っていうのかな★11、駿河台の辺りにあるんですけれども、そこにDPIと一緒に入ることになって。そして2004年で終わったと思いますけども。

櫻井:鎌田さん抜けられたあとは、誰か引き継ぎで入ったんですか?

鎌田:上薗さんは残りました。あとは、引き継ぎっていうか、金政玉(キム・ジョンオク)★12さんとかが確かDPIに入ってきたんじゃなかったかな。彼はもともと、山吹町にいた時にすぐそばに在日韓国人人権センター、名称は不正確ですが在日関係の運動体の職員をやっていたのです。その時に彼とは知り合っているのですけれども、そこを辞めて、DPIに入ってこられた。高田馬場の事務所には、彼は通っていたと思います。あとはアルバイトの人が何人か、学生さんが何人か入ってきて、それでやっていたと思います。

櫻井:そうしたら、資金なんかは、会員さんから集めたお金とかですか?

鎌田:そうですね。会費と、それからやっぱりカンパということで、労働運動からのカンパがけっこうあったと思います。自治労とか、そういう系列ですね。

櫻井:そこから、全部それで賄っていたという。

鎌田:うん、そのはずです。

櫻井:資料を作られて、その郵送なんかもされていたと思うんですけど、かなりお金かかったんではないかと思うんですが。

鎌田:立岩さんのあれ★13にもありましたが、A会員、B会員とそれから購読会員と、賛助会員という区分を設定していました。A会員というのは年会費が3万円で、資料が確か3千枚までと郵送料がいくらまでなら会費の中で、という設定。でもそんなに、どんどんどんどん資料請求が来るというほどではなかったという記憶があります。B会員の人がスポット、スポットで必要な書類が欲しい時に請求されて対応していましたね。B会員の人はコピー代と送料の実費もらいます。潤沢ではないけども、それでどうにもならないということではなかったと記憶しています。それに財務面は、矢内さんが担当していたので、私も今ひとつ分からないんですね。お金の流れのようなところは。

櫻井:例えば資料を請求されていた人たちというのは、どういった方が多かったでしょうか?

鎌田:障害者運動に関わっている人ですとか、それから、地方の議員がいたと思います。あと研究者の方もいたと思います。この3つぐらいですよね。他の人、それ以外の人ってそんなにね、関心もないでしょうから。

櫻井:ひっきりなしに請求がきたというわけではなくて、ポツポツと?

鎌田:それはあんまりよく覚えてないですけどね。コンスタントにずーっと請求は、何かかにか来ていたというふうに思いますけども。その辺はちょっともう、具体的にはあまり覚えてないですね。
 ただ毎回、けっこうな量の資料のリストは載せているんですよね。だから、特に主管課長会議というのが、厚労省で毎年1回、たぶんあれは概算要求★14の前後じゃないかな、と思うんですけども、こういう政策をやるよというようなことを、各都道府県のそういう担当部門の課長を集めて、説明会を毎年開くんですね。で、その時に配布される資料というのはけっこうな量ですけれども、これはやっぱり関心がある人にとっては、大げさな言い方をすれば「宝の山」で。やっぱり当時はそう簡単に行政文書っていうのは、政府の文章とか手に入らないもんですから。やっぱりそれを持ってきてリストに載せると、必ず請求がかなり来たなっていう記憶はあります。主管課長会議資料ってやつですね。今はもうネットですぐに取れますけども。あとはやっぱり、概算要求の資料ですよね。

櫻井:現在はネットでということなんですが、やはり当時は、ネットでそういった情報というのはなかなかなくて……

鎌田:確かほとんどなかったはずです。

櫻井:そうですよね。例えば、集めた資料なんかを、当時どのぐらいできたのか分かりませんけど、インターネットで配信するといったことは特になかった?

鎌田:たぶん、90年代の半ばでしょう? Windows 95が出た頃なので、私も、Windows 95を使っていた記憶はあるし、インターネットも繋がってはいたんですけれども。この前上薗さんともちょっと話したのですけれども、例えば、こういう『月刊ビギン』の版下なんかを、立川にあるかいらす企画という、個人がやっていて、障害者運動、高橋修さん★15なんかと親しくしてた方がいて、その方が個人で印刷業をやってらっしゃったのです。その方がPCで版下を作成する作業を、頸損の人に出していたんですね、伏見さんっていう方ですが、その方のところにいったんデータを送って、その方が版下に整えたものをかいらす企画の藤田さんが印刷して、それをこちらに納品してくれるという流れだったんです。その藤田さんなり、伏見さんに「版下データをどうやって送っていたかね?」って上薗さんと話した時に、「どうだったかなあ?」って。「メール添付かな? でも、あの頃そんなおっきいの、メール添付できたかな?」ってね。

渡辺:そうですね、無理ですね。

鎌田:だからたぶん毎月、フロッピーか何かに入れて、伏見さんの家に持っていって、やってもらっていた。実際、伏見さんの家にはよく行って、色んなおしゃべりもしていた記憶があるので、たぶんそういう形でやっていたので、他の方々に資料を、メールなり、インターネットの形で送るっていうことはしてなかったと思います。そういう説明もたぶんしてないと思うので、もう必ず「コピーの郵送」というのが、それしかなかったんじゃないかなあと思いますけどね。

櫻井:ビギンのその資料のリストを整理していた時に、途中から「TT」という「テキストデータを提供していますよ」というマークが付いていまして。そこは一体どうだったのかな、と思いまして。 鎌田:いつ頃ですか、それ? TTがあるのは。これ、いいですか?いただいて。 櫻井:ああ、どうぞ。最近ちょっとエクセルで、全部リストをまとめたんですが。

鎌田:ああ、素晴らしい。

櫻井:たしか、どこいったかな? ただ結構早い段階からやっているみたいですけどね。

鎌田:そうですか。じゃあ何らかの形でテキストデータ……、

櫻井:1994、5年あたり、と思うんですが。当時、その視覚障害者の方がパソコンで読むというのは、Windowsの前からかなり、

鎌田:できていました。

櫻井:ですよね。それの関係で、そのテキストデータも提供していたのかな、というふうに考えていたんですが。

鎌田:そうですね。いや、どうやってテキストデータ入力していたんだろうな。一応システムとしてOCR★16とかはあったけれども、ほとんど使い物にはならなかったはずなので。この前、上薗さんと話していた時に、その高田馬場の事務所に移ってから、アルバイトの人たちが、やることがないので、その「資料をそのまま丸ごと入力していた」っていう言い方をされたんですね。「え、そんなことしていたの?」って言ったんだけど、「確か、していたはずだ」って言うのですね。ただそのMO★17という媒体、今はもうほとんどないですけども、MOという媒体に溜めていて。で、「そのMOという媒体が今DPIの事務所のどっかにあるはずだけれども、どこにあるか分からない」って言い方をされてましたですね。

櫻井:もしかしたらアルバイトを使って、テキストデータ化していたかも? 鎌田:そう。ただ私がいた時はいなかったんですけどねえ。だから、どうしたんだろうな。TT、テキストデータ……、 渡辺:もしかすると、視覚障害者の団体の方で、どこかにお願いして手助けしてもらっていたっていう可能性もあんまりないですか? 鎌田:うーん、どうかなあ。それほどのお金はなかったと思うんですねえ。

渡辺:ないですかね。

鎌田:テキストデータで……

渡辺:具体的に、何がテキストデータだったか分かる?

櫻井:ちょっと待ってくださいね。TTというマークが途中から付き始めるんですよね。

鎌田:何とかね、視覚障害の人に対応しようとして、色々模索はしていたと思うので。そこの中でいくつかできていたのかもしれないですが。

櫻井:これが「提供T」って書いてあるの、これですよ。

鎌田:ああ、これが。なるほど。「提供T」、

櫻井:このテキストファイル、ああ「入手しました」ってことがここに書いてあります。

鎌田:ああ。「はかい氏が作成し」だ。これだと、どなたかが作って、ニフティサーブの障害者フォーラム★18に掲載されたものだから、こちらで作ったものじゃないですね。要するに、当時誰かがやっていたのを見つけて、それでこういう形で提供していたっていうことだと思います★19

櫻井:結構限定的というか、ビギン自体では特に……

鎌田:やってなかったと思うんですよねえ。これもTかなあ。老人保健福祉……、これも老人保健福祉審議会ですね。だからこの、「はかい氏」っていう人がその辺に興味があって、一所懸命やっていたってことかもしれないですねえ。なるほど、障害者フォーラムのやつか、それを使っていたのか。

櫻井:ちょっとそれと関連してなんですけども、どういった方々から資料の提供があったんでしょうか。

鎌田:そうですね、まず多いのは、国会議員さんです。三人。堀利和さんが参議院議員だったのが1989年から95年と、間があいて1998年から2004年。それから石毛^子さんが、衆議院議員が1996年から2005年と、2009年から2012年。この二人から議員会館の通行証というのを出してもらっていました。この二人の事務所にはしょっちゅう行っていました。それからもう一人が朝日さん。この方は自治労系の議員で、確かご自身は医師だったと思います。この朝日さんの事務所からも色々と提供は受けていました。ただ、朝日さんの事務所には私はほとんど行ったことがなくて。たぶん、上薗さんがよく行っていたと思います。ここからが主な、特に政府関係のものは、このお三人からが主でした。
 向こうから「こんなのがあるよ」って来たり、こっちが「こんなのない?」って聞いたり、というような形でのやり取りで収集するということと、あとは、自治労の方から来たりとか、各地元の方(かた)から「こんなのがあるよ」って来たりとか。
 それと、「テーマを決めて、例えば各基礎自治体の障害者制度のしおりみたいなものを集めてみようか」ということで、ある程度集めたことがあった記憶があるんですね。それから、まちづくり基本条例とか、そういう関連のその広報資料をですね、それらも集めてみようかということで集めてみたことがあったという記憶があります。
 また、新聞や何かで、こういう審議会が開かれたっていうのが出ると、それを見てこちらが、この審議会の資料取りに行ったり、リクエストが来て、「あの審議会の資料が欲しい」っていうことで、それを、国のものだったらばこの三人に頼んで取ってもらったりというような形でやっていました。

櫻井:なるほど。石毛^子さんの話なんですが、以前ちょっとメールでお聞きした時に、「シンガポールに今、行っていて」という方がいて。立岩さんに聞いたところ、それは秋山愛子さんだっていう話を。 鎌田:そうです、秋山愛子さんです。 櫻井:秋山さんも、データ提供されていたんですか? 鎌田:石毛^子さんの秘書だった方です。 櫻井:なるほど。そうだったんですね。やってくる資料、たくさんあったと思うんですが。段ボールで今回もらって、開けてちょっと驚いたのがやっぱり封筒ごとに入って、かなり整然とまとめられていまして。あれは、どういう……

鎌田:あれはですね、私が、まだ斎藤さんの事務所で、立ち上げたばかりの頃に野口悠紀夫という経済学者の『「超」整理法』(中公新書)★20を参考にしました。

渡辺:ですよね?(笑)あれ見た時に、「あっ、これ『超整理法』だ」と思ったんです(笑)。やっぱり(笑)。

鎌田:あれです。「どうしようか」と思った時に、あの本がちょうどベストセラーか何かになっていて、読んでいて。

渡辺:そうですね。だと思った、時代的に。

鎌田:ね。「ああ、これだ!」。「分類するな」っていうのが基本で。確かに「分類をどうしようか」って考えていたときに、「分類するな」って書いてあって、「あ、そうだな」って思って、あれにしたんです。

櫻井:ああ、なるほど。やっぱりそうだったんですね(笑)。

渡辺 僕が大学生の時にやっていたっておっしゃったんで。「これ、超整理法じゃないかな?」って。なるほど。

櫻井:なるほど、じゃあ、番号だけつけて。

鎌田:そうです。で、あとはもうリストに書けば、こちらでもリストはデータベースで整理していますから、「何番」とか「何とか」って言ってくれればいいし。表題で検索もできますから、データベースで。だから「これでいいや」って思ったんですね。

櫻井:ああ、なるほど。それで、たまに集めたものを、例えば「このテーマで集めよう」とかっていうので、リストも何度か重複しているところがあって。それは、「このテーマで集めるとこんなふうになりますよ」というのを、部分的に提示されていたというか……

鎌田:そうなんですか。ちょっとね、記憶がない。 櫻井:重複っていうのは、番号が重複しているというよりは、 鎌田:中身がですね? 櫻井:県で集めると、そういうようなことだったりするのかな。何回か、出てくる。

鎌田:そうですか。

櫻井:「これを集めよう」と思って集めた時もあったし、やって来るものを……

鎌田:ほとんどは、アットランダムというか、テーマに関わらずでした。ただ、さっき言ったように、主管課長会議と概算要求と、その後予算案ですね。予算案で決まった後のものについては、必ずそれは取るようにはしていましたけども。で、予算案も、全体の、分厚い本体ではなくて、関係する部分だけを細かく抜き出した資料があるんですね。それの分野ごとに取ってもらって、提供していたっていうことですね。

櫻井:ということはやっぱり、その頃集めていた資料というのは当時、色々と政策が動いている時だったので、喫緊の課題に対応するためというのがあったり、色々大きいものとしてあったと。

鎌田:そうですね。

櫻井:例えばビギンが始まった頃や、始まったあとの頃の状況というのは、どんな感じだったのかなと思いまして。つまり、例えばどういったことが一番話題になっていたといいますか。

鎌田:確か93年が、心身障害者対策基本法から障害者基本法になった年だと思うんですけれども。だから、その辺でちょうど堀さんが現役の議員で。彼もかなり中心になって動いていたところですので、その辺の資料というのは来ていたんじゃないのかな。この辺ですよねえ。

櫻井:そうですね。堀さんの事務所の封筒とかもかなりあったりは……

鎌田:はい、そうですね。たぶん、できたばっかりの頃というのは、それが一つの大きなテーマだったと思いますけども。基本法になるということですね、対策法から。

櫻井:これは、障害者基本法ができたから、というよりは、その前からビギンは動きだしていたということなんですかね。

鎌田:ちょうど同じくらいじゃなかったかな、と思いますね、時期的に。違うかな。

櫻井:ほぼ、かぶってはいるんですけど、とにかくビギンを作るってなった時のきっかけとしまして、「これからこういう法律ができるし」というので作ったのか、それとも、それとは関係なく「とりあえず資料を集めておかないと」というので作ったのか、そのあたりはどうでしょうか?

鎌田:その辺は、なんで創ろうとしたかっていう動きの中には、私は入っていませんでしたので,正確にはわかりません。やっぱり一つ大きな運動の流れとしては、それまでの抗議とか糾弾とかという運動だけではなくて、もっと自分たちが主体となってその、政策提言ということをしていかないと、やっぱり行き詰まっていくんじゃないかっていう、そういう雰囲気はその頃からできてきていたと思うんですね。そういう中で、じゃあそのためにやっぱり基礎的な政策資料、情報というのを集めていく、集約していくところが必要なんじゃないかっていうことで、運動体とはまた別に、そういう団体とか集まりを拠点というか、そういうのを創ろうということになった、というふうには聞かされていますけども。つまり自分たちがやっぱり、ちょうどその頃、障害者の議員というのも地方でポツポツ出てきて。やっぱり、当事者から政策提言していくっていう動きが見えてきた、そういう意識が出てきた時期だったのだと思います。単に要求とかね、批判とかだけじゃなくてね。そういう流れにもなってきていた時期だったのだろうと思います。

櫻井:『ジョイフル・ビギン』の最終号で、二日市さん★21が、もともとこのビギンとDPI日本会議というのが、同じ組織の別動隊というような形であったので、色々な都合で二本立てでやってきた、という話をされています。先ほど、運動体とはちょっと別の形で、ということでしたが、もともと一つでやっていくというような話にはやっぱりならなかったというのはどういう事情か。もう少しその辺りを聞かせていただけたら、と思うんですけど。

鎌田:その辺は、私は議論にあまり入っていないのでね、分からないんです。

櫻井:雰囲気とかでもいいんですが。

鎌田:どうなのかなあ……。ちょっと分かんないですね、そこは(笑)。誰か、それこそ尾上さんあたりに聞かないと、分からないですねえ。そうですね、もう三澤さん★22が亡くなって、楠さん★23が亡くなって、ということですからね。今残っている……、二日市さんも亡くなっているし。尾上さんぐらいじゃないかな、その辺知っているの。矢内さんも亡くなっているし。ぎりぎり知っているのは尾上さんぐらいじゃないかな、今では★24

櫻井:その辺り、ちょっとわれわれもよく分からないところがあって。後々統合されるんであったら、最初からやっていくという方策もあったのかなと思うんですが、やっぱり分かれていったのは、何か特別な理由があったのかな、と。

鎌田:あんまり、不思議な感じは持たずに、とりあえずは分かれているけれども、そんなに「分かれている」という意識もこちらではあまり持ってなかったので。まあ「役割分担」というぐらいにしか考えてなかったんですけどね。

櫻井:たしかに二日市さんの文章を読んでも、別に仲悪いとかそういうわけでもなさそうでした。やっぱり、そういう役割分担が重要だったというか……

鎌田:そうですね。だいたいどっちも同じような人間が関わっていますからね。

櫻井:ちょっと話戻りますが、資料いろいろ請求されたということで、当時の予算の話とかいろいろとあったと思うんですけど、実際に資料が活用されていたような事例とかもしあったら、教えていただきたいんですが、どうでしょうか。たとえば、「法令、こんなふうに使われているな」といったようなことを思ったことは?

鎌田:そういうエピソード的なものは、ちょっと記憶にないですね。「いろいろ便利だった、助かった」っていう声は聞きますけれども、その程度ですかね。やっぱりそれまで新聞読んでこういう審議会が開かれた、こういう会議があったっていっても、そこで配布されたのはどんな資料なんだろうなっていうのは、なかなか知ることができないし、それをどうやって手に入れたらいいのだろうということは、やっぱりわからない人が多かったと思うんですよね。そんなときに「とりあえずここに言えば、手に入るぞ」っていうことはだんだんとわかってもらえていたんだとは思いますけれども。

櫻井:やはりビギンのように情報発信を行っている他の団体というのは、なかったとうことでしょうか?

鎌田:「WAM NET」★25ができたのが、いつでしたかね? たぶん似たようなことやっていたとしたなら、リハビリテーション協会★26ですか、あそこもやっていたかもしれないですけどね。まだその頃は運動の流れがけっこうはっきり分かれていて。全障研系★27、全障連系、それと政府と一体と見ていた日身連★28とかって分かれていた。それぞれがそれぞれでやってはいたんでしょうけれども、入っている流れが違うとあまり交流がないような状態が続いていて、それがけっきょく権利条約が2016年でしたっけ、批准が2016年か。その前、もっと前ですよね、できたのはね。その前の策定過程のあたりからだんだんとそういう運動体の流れが統合されていったという状況がありますけれども。その前はやっぱりはっきり分かれていたし、お互いにお互いのことあまりいいと思ってなかったから。(笑)ちょっと他でどんなことをやっていたかっていうのはよくわからないです。リハビリテーション協会なんかは、そういういろいろな情報を、それなりに発信していたんじゃないかなという印象はありますけれども。

渡辺:二日市さんとやりとりとかっていうのは? 代表だったわけですよね?

鎌田:そうです。

渡辺:事務局にはちょくちょくいらしていた?

鎌田:そんなには。ご自身も仕事があったので、翻訳という。そんなに事務所にちょくちょく来るということはなかったです。私の方がご自宅によく行って、連絡とったり打ち合わせしたりとかいうのをしていました。

渡辺:イメージはやっぱり、二日市さん代表のイメージがあったので。(笑)全面的に現場に、その場にいた?

鎌田:ってことはないですね。

渡辺:用事あったときにちょっと?

鎌田:そうですね。

櫻井:この『ジョイフル・ビギン』とか『月刊ビギン』の編集もされたということだと思うんですけど。鎌田さんご自身も文章書いてこられていたんですか?

鎌田:書いてないんじゃない?

櫻井:署名とかは特になかったと思うんですが?

鎌田:ちょこちょことしたものは、埋め草的に、必要あれば書いてたと思いますけれども。

櫻井:その辺りの、例えば文章とかっていうのは、Mとかってあるんですけど。これは?

鎌田:これはたぶん大賀さんでしょうね。Oというのは。

櫻井:署名ないところとかは、編集していた人が書いたということでしょうか?

鎌田:そうなのかな。ちょこちょこ書いていたかもしれません(笑)。うちも全然残ってないんですよね。うちっていうのは、私個人的にはね。これですね、こういう感じで。こんなことをやってみたりなんかしていたんです。これしか集まってない。それからこれは番号ふってないんじゃないかな。

櫻井:こういうのも全部残っているんですかね?

鎌田:そこはわからないんですよね。けっきょく私は最後まではいなかったので。

櫻井:まだ開けてないダンボールがいくつかあって、その中に入っているのかもしれないなと思って。

鎌田:こういう資料もこっちに来ているんですか?

櫻井:そうです。これ全部来ているんです。封筒に入った状態で来ているんで。だから、鎌田さん作られたの、来ていると思います。

鎌田:上園さんが「あれで結果むしろどうなったの?」というから、「だからあのときにバイトの人、みんな打ち込んでいたぞ」とか言うから、「まさかそんなことしないでしょう」と言ったけど、「いや、他にやる仕事ないからやらせていたはずだ」とか。でもしないと思うんですけどね。だからあるんですね、ここにね。そうかわかりました。こちらあとで帰ったら伝えます。

櫻井:それもあって、この資料今後どうやって活用していこうかなと、どうやって保存していこうかという話をお聞きしたいと思いまして。

鎌田:もう古いですよね。使えるのかな。

櫻井:我々としましては、歴史資料として貴重なものだと思っております。当時必要とされた意味とは別の意味で貴重なものとして、必要であるかと。特にネットとかに残っていないものになりますし。

鎌田:そうですね。さっき、金政玉さん、ここに在日コリアン人が、これがやっぱり同じ、住所としては山吹町になるんですけど、歩いて4?5分のところにあって。明石市の課長さんですけど。(笑)

渡辺:生存学の客員研究員とかで。

櫻井:『ジョイフル・ビギン』についても、お尋ねしたいんですけども。これは編集会議とかそういったものをして……

鎌田:確かしていましたね。

櫻井:どういった方たちが? 尾上さんとか?

鎌田:そう、尾上さんが中心でやっていたんですよね。確か必ず出ていたかな★29? なんとなく記憶では必ずしも私は編集会議に出ていたとは限らなかったような記憶があるんですよね。だから尾上さんとか、それこそDPI関係のとか全障連の東京にいる人たちとプラス尾上さんで「今度なにを特集しようか?」っていうことを決めていたと思うんですけれども。

櫻井:原稿依頼とかも?

鎌田:原稿依頼も、尾上さんがしていたんじゃないかな、と思います。表紙のデザインは斎藤明子さんがデザイナーの仕事をもともとされていた方で、その辺のつながりでデザイナーの方を紹介してもらって、尾上さんと一緒に行って打ち合わせしたという記憶はありますけどね。

櫻井:読んだ感想とかも来ましたか?

鎌田:来ていたかな?そんなに来てなかったような気がします。

櫻井:あとその書庫の中に『ジョイフル・ビギン別冊』というのがありまして、これはどういった位置づけのものなんでしょうか?

鎌田:あれは政策研究集会のときの資料集のようなものじゃないですか? 記憶だとそうだと思うんですが。

櫻井:全部揃ってはなさそうでして。

鎌田:そうですね。これはですね、あ、これは「主管課長会議要資料4」か。やっぱり主管課長会議っていうのは大事なので、その資料を読んだ、解説書のようなものとか、資料そのまま収めたものを別冊という形で出していたのです。テーマを決めて、ときどき出していたのです。どのくらいで出していたんだろうな。

櫻井:これについては総評会館で。

鎌田:もう総評会館ですね。

櫻井:こっちが……

鎌田:ないですね。同時に出ています?時期的に?

櫻井:時期的にどうですかね。

鎌田:99年までならまだ同時に出ていますね。たぶんこれは請求されて出すんじゃなくて、この資料はみんなに見てほしいという資料、主管課長会議ですとか、バリアフリー法ですとかっていう、これはやっぱりみんなに知ってほしいっていう資料だけを集めて、それにちょっとした解説をつけてそれで別冊という形で出していたんだと思います。で、別冊という形にしたのは、障害者郵便物の郵便料金の関係で★30

櫻井:やっぱり郵便料金の話とかは、大きかった?

鎌田:そうですね。関西でも関東でも団体を作って、SSKとかいう番号を郵便局から発行してもらって出すわけですけども。関東のそういう取りまとめ団体の事務所が二日市さんのお宅にあったんですよ。それもあって、二日市さんのお宅に行ったりしました。二日市さんの家には、普通学校……「障害者を普通学校へ」★31かな? あの団体の事務所もあそこにありましたし。

渡辺:しんていきょう?

鎌田:身定協★32、そうそう。

櫻井:刊行物を郵便で発送するというのはずっとその形態で?

鎌田:そうですよね。そうでないと料金が全然違いますので。だからこの郵便料金、やっぱり郵政省なり郵便公社なりがやめたいわけですけども、そのせめぎ合いがずっと続いていると思います。特に不正事件がありましたよね★33。あのときは、かなりピンチに立たされたはずです。

渡辺:その辺りのお話もほんとうはね、二日市さんに。ほんとうは最近ちょっと。もう10年前に亡くなって。

鎌田:そうなんですね。もう10年経ちますかね。

渡辺:8年ぐらいじゃないですかね。

鎌田:それぐらいですかね。おもしろい方でしたね。あの方もね。

塩野:それぞれをテーマを決めて資料を集めてという。そのテーマを決めるにあたって、いろいろな背景があるのかもしれないんですけれども。どういうふうに決めていた?

鎌田:誰が決めたかっていうことだよね。

櫻井:前のはちょっとないみたいです。

鎌田:誰が決めたかって、誰っていうことなくて、この当時ですから三沢さんですとか、尾上さんとか矢内さんとかっていうような、その辺の人たちが話し合って、大賀さんも入ってね、たぶんね。決めていたと思うし。主管課長会議なんかは必ずですし。自然にその辺は出し続けてれば決まってくるというか、大きな節目っていうのは、バリアフリー法のときでもありますから。たぶんだいたい自然に決まってくるんじゃないかなと思いますけれども。

櫻井:当時の時代状況で。

渡辺:その辺りをメンバーの名前とか、DPIですね。

鎌田:そうなんですよ。けっきょく、たとえば全障連も全障連として個体での活動っていうのがなかなか厳しくなってきている時代でもあって、そうすると、視労協(視覚障害者労働問題協議会)★34、堀さんは視労協ですから、とか、尾上さんは全障連でもあるけど、大阪の方でずっとやってこられた方ですし。あと大賀さんフィクサーがいて。(笑)二日市さんって大御所がいてっていうような形で。その辺の人がやっぱりだんだんと集まって、一つ塊にしないともう力が持てなくなってきているということもあったと思うんですよね。

渡辺:なんかぼくの中では、1号から4号って、前もってできているんですか?特集は第1号みたいに。特集はもう、第4号まで作っていて。5、6、7、8あたりがなんか先ほど言ったような、ちょっとその辺りの、思いつきって言っちゃうとあれだけど。ここのあたりは政策とかずっと特集しているので。じゃ流れがあるのかな、ここら辺に?

櫻井:それは時期によって違うということですか。

鎌田:4号までは決めていましたから。

櫻井:特集なのに目次が書いてある。

渡辺:もうできている。特集が。

鎌田:これは現代書館から出すというときに、現代書館としては『福祉労働』もありますから、かぶらないようにということは厳しく言われて。かぶってなかったかどうかわからないですけれども。

櫻井:まちづくりとかは『ジョイフル・ビギン』独特のものだったんですかね?

鎌田:一応こちらはその当事者団体に出すのだという位置づけで、棲み分けをしましょうっていう話にはなっていたんですよね。基本的にだいたい書いている人も当事者が多いんだと思いますけれども。研究者的な人はあまりいなかったんじゃないかなと思うんですけども。

櫻井:それで例えば旅行とかの体験記なんかは、そういう当事者の方が実際行って書かれた、と。今ちょっと障害者の方の観光とか、そういうのに興味を持っていまして。けっこうそういう資料がたくさんあるなという印象をもちました。最近あった空港の話とかも、もうすでにこの頃からされているなと思いまして。すみません、話を戻しますと、当事者の方が書くということがポイントだったということですね?

鎌田:そうですね。その視点でっていうことは一応押さえていて。できたときのエピソードなんですけど。朝日新聞にこういう団体ができましたって記事が出て、二日市さんの写真が載って。『月刊ビギン』っていう名前で、月刊誌も発行していくんだっていうのが紹介されたです。その前に読売かなんかでも同じように出たんですが、そのときはほとんど反響がなかったのが、朝日に載ったらもうどんどんどんどん(笑)、ただその中の一つ、ある出版社から抗議がきまして、『月刊ビギン』はだめだって。「?」って思ったら、『月刊ビギン』っていうのは、うちで出しているもんだって。誰も知らなくて。本屋にいったら確かに出ているんですよ。その時々の流行り物を紹介する雑誌で『月刊ビギン』っていうのは世界文化社かなんかから出ていて。「この名前使うな」って言われて。「えっ? そんなのあったんだ」って(笑)。いや、でも「全然違うし一般売りもしないし。勘弁してくださいよ」って言って、話していちおう勘弁してもらったっていう。

櫻井:そうか、これは『ジョイフル・ビギン』か。

鎌田:これいいんですけどね、こっちなんですよね。これが朝日新聞に載る記事の中でドーンと出たもんですから。だめだったって言われて。

櫻井:でも雑誌と……

鎌田:全く違いますから。一般売りもしないしってことを話して、

櫻井:それはおもしろいです。当時、検索機能とかもないですよね。(笑)最初に聞けばよかったんですけども、現在鎌田さんは、どういったことをされているのでしょうか。

鎌田:仕事としては、その聴覚障害の弁護士のところに、また戻りまして。あと運動とか活動的なことは、どっかに入ってなにかやっているということではないんですけれども。聞こえない人とのつながりがあったりとか。地元の自立生活センターの定義に当てはまらないけれども、それらしいような活動やっているNPOの役員やっていたりとか、そんなところですね。

櫻井:それで長野県の方に?

鎌田:ええ、あとで資料お見せしますけれども、その話をすると、ずっと刑事裁判の中での聴覚障害者の権利に関心を持っています。あるとき東京の新聞では小さかったですけれども、大阪市で二人殺して一人傷つけたろう者が捕まったっていう記事を読んで、こりゃ大変だって思って。二人だと死刑だなというふうに思ったものですから。それで本人に手紙出したりとか、仕事柄読めていた障害問題関係の弁護士のメーリングリストの中でもちょっと話題になって、知り合いの人が弁護人についたことがわかったりなどして関係を作っていきました。一審の裁判員裁判の傍聴をしたり,大阪拘置所に面会に行ったりしました。無期懲役になんとかなって,長野刑務所に入れられたので、今は1年に1度ですが,面会に行っているという状態です。

櫻井:参加できなかった伊東さんという方が、そのいわゆる獄中の障害者の方たちとの関係といいますか、そういうのをちょっと作りたいといった話をしていまして。もしよろしければそういったことも紹介していただければ。それもあとで。

鎌田:そのつもりで資料持ってきました。

櫻井:そうですか。今は弁護士の方のところで働いている?

鎌田:そうですね。通訳は自分の仕事ですね。

櫻井:こちらが用意してきた質問は、全部だいたい終わって……ビギンの会員が何人いたかとか、そういうのはデータ残ってないですか?

鎌田:たぶん、MOにあるんじゃないかと思うんですけどね。DPIのどっかに眠っているらしいんですけどね。

櫻井:もう探したしてもそれを読み込む機械が……

鎌田:そうなんですよね。

渡辺:でも誰に送ったか、みたいなのは、あんまり外には出さない?

鎌田:そうかしれませんね。

渡辺:本は大学とか図書館とか?

鎌田:団体でも加盟していた、労働組合とかは、加盟はあったと思いますね。大学っていうのはあんまり記憶がないな。それは個人だったかもしれないですね。

渡辺:議員さんの事務局宛とかみたいな感じ?

鎌田:事務所、議員事務所ですか?

渡辺:事務所とかに送ったってこと?

鎌田:地方の議員の方なんかは何人かいましたけど。地方議員ですから、もう個人ですね。

渡辺:府議とか市議とかそのレベルですか?

鎌田:はいそうです。国会議員は自分で取れますからね、資料ね。

渡辺:どっちかって、社会とか、社民系とか、共産とか?

鎌田:そうですね。

渡辺:強いですかね?

鎌田:堀さんが最初は社会党ですよね。で、初代の民主党に移って。石毛さんは初代からかな。私たちがつながっていたのは、こっちだけですけども、運動的にはいちおう自民や公明にも接触はしていたと思いますけれどもね、やっぱりそっちのへんも動かさないとなんにもできないので。

渡辺:でも意外と議席…公明党とかも総選挙区で、

鎌田:いますよね。

渡辺:そういうのは市議レベルというか…。

鎌田:市議レベルではいたんだと思いますけれどもね。

渡辺:地元がそっち系の人もいたって感じ?

鎌田:そうですね。

櫻井:最終号あたりになると、労働組合のところとは、ちょっと仲が悪くなったみたいなことがそもそも書いてあったりして。

渡辺:ちょくちょく(笑)仲良くなって、(笑)そうだった、録音してるんだった。(笑)

櫻井:でもこの頃は鎌田さんもおそらく関わっておられないかと思いますが。

鎌田:もしかしたら見ていないのかな、これ。今、上薗さんと話したときに、「2004年の3月か4月に終わりの会をやったでしょう」って言われて、記憶がなくて、手帳を見たんですけど、手帳にも書いてないので、呼ばれてなかったのかなぁ(笑)

櫻井:この記事書いたの誰だったのかなと思って。ここには事務局と書いてあって、それは上薗さん?

鎌田:たぶん違うと思いますね。尾上さんじゃないかな、書いたの。書けるとしたら、尾上さんか宮本さん、宮本泰輔さん★35いろんな国に行っている人。今アフリカにいるのかな? あれはDPIのあれはA4判かB5判の機関紙が出ていた。今終わりましたけど。あれの中に海外事業で長瀬さん★36の他に宮本さんっていう人が、アフリカの様子を書いている。彼あたりが書いたのかもしれませんけれども。奥山さん★37という人もいる。事務局で関わっていた人。この人は、所属としては視労協と、それから自治労の障害連。自治労の中の障害者組員の集まりがあるんですよ。この人も必ず会議には出ていた人です。奥山さんまだ亡くなっていません。田中邦夫さん★38、この方、難聴の国会図書館職員で、たぶん「障害と人権」っていうことについてきちんとしたまとまった論文を書いた初めてぐらいの人じゃないかなと思うんですけどね。国会図書館の調査立法考査局から『レファレンス』という冊子、論文集を定期的に出しているんですね。あのなかに「人権と障害者」っていうことでずっと連載で論文を書かれたんですよ。難聴プラス身体障害、呼吸器系とあった方で、もう亡くなりましたけどね、この方も。

櫻井:先ほどから名前がでている方たちは、だいたいその名前を出して、雑誌とかには書いているんですけど、鎌田さん自身はそこまで名前は出されていなかった?

鎌田:ほとんどないと思います。

櫻井:鎌田さんがなにを書いているのかなと思って見たんですけど、特に名前が発見できなかったので。

鎌田:そうだと思います。

櫻井:さっきの立岩さんの文章以外では特に、

鎌田:あれを私もたまたま、あ、宮本さんってこの人ですね。宮本泰輔さん。この方、障害者じゃないんですけれども、関わってる人で。私が辞めたあとくらいから、DPIとかに関わり持っている人です。あれ読んで、「わ!自分の名前ある」と思って。

一同:(笑)

櫻井:例えばインタビューの内容をちょっと引用して、生存学特集の方に。例えば資料の成立過程とかも……。そのときに鎌田さんの名前は出さない方がいい?

鎌田:それは全然構わないですけどね。出したところでなんの意味もないですけど。歴史的事実として書いてくれて構わない。立岩さんと最初にお会いしたのは、その斎藤明子さんのところに間借りしているときに、なんかでいらっしゃって、だからあのときは千葉の方に勤めていたところかな。「あぁそうなんですか」って感じで、ちょっとご挨拶もなんどかはしたぐらいなんですよね。

渡辺:逆に立岩さんはなにをしにきていたんですか?(笑)

鎌田:なにしにきたかな? たぶん斎藤明子さんに、私とか情報ネットワークにきたというよりも斎藤明子さんになにかで、来ていたんだと思うんですけども。

櫻井:でも実はビギンの活動とか見ていると、あんがい生存学研究センターと似ているところがあるなと思いまして。情報発信なんかも。今こちらはネットで発信しているんですけど、情報をためて、例えば雑誌にまとめたりとかいうことをしていますしね。そんな意味ではビギンの資料が生存学研究センターに来たというのは……

鎌田:すごいな。大変ですよね。

櫻井:だからその、一つざっくりとした質問なんですけど、ビギンに関わっておられたときに、なにか大変だったこととか、印象に残っているエピソードとかはあるでしょうか。

鎌田:大変だったのは、毎日大変だったですよね。とにかくさっきも言ったけど、息継ぐ暇なかったって印象があります。それでもう嫌だって。

櫻井:ずっと毎日働いているような?

鎌田:そういう感じでしたね。なんか達成感っていうのがないんですよね。「あ、終わった。次、あ、終わった」ってそういう感じで。
それでもね、いろいろ情報、こちらでは直接なにかできなくても。なんか例えば今でも心残りなのは、まだその頃、そんなに広く取りあげられてなかった高次脳機能障害。夫が交通事故かなんかで高次脳機能障害だって言われて。でも「いついつもう退院しなさい」って言われているんですけど、「なにかないでしょうか?」ってその妻から電話もらったときにも、いやぁ名前は聞いたことあるけれども、ちょっと力になんにもなれなかったですね、あのときはね。自分の情報持ってなかったから。ちょっとなんて答えたかわからないけど、とにかくまともな答えができなかったなぁと思うんですけど。でもある程度答えられることもあって、「あ、それはあっちの方に聞くといいですよとか、こっちもいったらいいですよ」っていうようなことを答えることはできたりとかっていうことは何度かあったと思うんですけども。なんかできたなって思うこと、覚えてないんですけども、高次脳機能障害で電話かかってきた人に対してはちゃんとできなかったのが、いまだにね、心残りですね。けっきょく病院としてはすることないから、出て行ってくれとなっちゃうんですよね。その治療というレベルではすることないから、もう出て行ってくれって言われて。でも日常生活ね、いろいろ大変なことがたくさんあるわけで。途方に暮れてらっしゃったですよね。

渡辺:そういう質問もあったんですね。

鎌田:どっからどういうふうにきたのかはわからないですけれども、なんかそれは記憶に残っていますね。

渡辺:なにかしなくちゃいけないんだけど、なにをしたらいいかわからないってことで?「どこに当たったらいいんですか」みたいな?

鎌田:そうですね。たぶんいろんな人をね、なんかわかれば、なにかわかるんじゃないかってかけてきますもんね、そりゃいろんなところにね、とにかくね。そこでなんとかどっかに横につなげていければいいんですけどね。そこができなかったことが、そこは記憶がありますね。
あとはあんまりその頸損の人たちとの付き合いっていうのはそれまでなかったんですけども、仕事していて何人か頸損の人と付き合うと、みなさん自己紹介で「私はCの何番です」とか「Cの何番です」ってけっきょく障害部位を言うんですね。「え!?」って一人だけかと思ったら、けっこう頸損の人みんなそう。(笑)自己紹介で、もうそういう文化なんだなって。

櫻井:なるほど。でもたしかに生存学研究センターの方でも、難病関連の情報とかも集めているんですけど病名がたくさんありすぎて、もう集めるのが難しい。認知されてないものも大量にありますし……

鎌田:ありますからね。

櫻井:だからそういった部分はたしかに、なにか言われても「それはわからんです」と言わざるを得ないというのはありますよね。先ほど問われたときに、なにもお答えできなかったときにもうちょっといい情報があったらと思い、それもあって情報ネットワークを作って……

鎌田:なにかそういう情報の交差点みたいなね、形になれればとは思っていましたけども。

櫻井:さっきできたことについてはあまり覚えてないということだったんですけど、特にこういう問い合せが多かったなみたいなものってありましたか?

鎌田:けっきょく基本的な資料ですよね。「こういう資料が欲しい、ああいう資料が欲しい」とか、「新聞で見たこれが欲しい」というのは、そういう資料は問い合わせっていうのは、日常的にあったと思いますけれども。で、こちらで知らなかったものだったらば、問い合わせるし、こちらでもう掴んでいれば、「あぁそれはありますよ」というような形でね、応えられたりとか。会員以外の方からも、もしかしたらそういう問い合わせがあって、会員に入ってもらったっていうこともあったんじゃないかとは思いますけども。

櫻井:この『ジョイフル・ビギン』の最終のやつを見ると、地域への情報提供があまりできなかったみたいなことが書いてあって。

鎌田:結局やっぱり関心の濃度が、それぞれの地域によって、たとえば大阪だとか奈良だとか、その辺だと濃いとか、ちょっと遠くの方だと、九州の方だとあんまりそうでもないとかいうのはあるかもしれませんし、なんとなく印象ですけれども、よく使う人、ほとんど登録しているけれども使わない人っていうのはあったと思います。その辺の発送、とくにB会員の方に発送した場合には請求書とか出しているわけですから、その辺のデータっていうのは必ず作ってはいたので、それが何らかの形で残っていればね、その辺わかるんですけどね。

櫻井:MOに入っているかもしれないですね。

鎌田:使っていたデータベースソフトは,パラドックス(coral社)でした。

渡辺:ロータス123?

鎌田:ロータス123も使っていたんです。ロータス123と、あとロータスの作っていたワープロソフトがあって、これが使いやすかったんですね。タブでページ管理ができるんですよ。エクセルみたいに。それで、これは便利だったんですけれども、だからワード、エクセルもそんなに使っていなかったと思うんですけどね。パラドックス。今はもうね、ないんです、たしか。いまはもう廃れてしまったんです。その頃は、そこそこメジャーのリレーショナルデータベースソフトで、それを使って会員管理とか請求事務をやっていたんですね。

渡辺:ウィンドウズの3.1じゃないですかね?

鎌田:いや、95ですね。

渡辺:でも、使い出したのがその時期だから……僕もとんでいますね、記憶が。すごいマニアックな話なんですけど、郵便とかのあて先は、入力して印刷してそのシールを貼ってって感じ?

鎌田:いや、じゃなくて窓封筒で。

渡辺:窓封筒?

鎌田:窓付きの封筒ってありますよね? あれに合わせた書式をパラドックスで設定してやっていました。

渡辺:じゃあ紙に印刷して、そして透けて見えると?

鎌田:そうです、そうです。

渡辺:じゃあデータは残っていますよね?データは捨てないと思うので。

鎌田:必ずデータはあるはずなので、それもデータベースソフトで書式作って……。

渡辺:障害者の種別によってというのがあると思っていて、たぶん聴覚障害とかですと、先ほどの話にもありましたけど、聴覚障害の雑誌とかなんとか新聞とか…。

鎌田:全日本ろうあ連盟の日本聴力障害新聞。

渡辺:それとか、ミミ★39とかそういうのも出しているじゃないですか。そういう人もそういう単位でまとまっていたのか、それとも聴覚障害関係のとか、視覚障害もたぶん1つのあれがあると思うんですけど、基本は身体系の障害なのか、みたいな。そのあたりはどうでしたかね?

鎌田:結局DPI日本会議に集まってきた人たちは、全身性の人たちとか脳性まひとかあとは視覚障害ですね。視覚障害もやっぱりまだそのころは運動が別れていて、日盲連★40という団体があって、それと相容れない人たちが視労協などを作って拠点にしていた。その人たちが合流してきたという感じですね。聴覚障害の関係は、やっぱりまずは全日本ろうあ連盟っていうのがどーんとあって、それと中途失聴、難聴者の協会っていうのがあって。そこはそこでいろいろ行政からの委託事業とかも受けながら、お金はそこそこあってという…。それで、日本聴力障害新聞とか、ミミっていうのは新しい名前で、その前は季刊ろうあ運動、そういうのを出してはいましたけれども。例えば私たちが関わっている人たちっていうのは、全日本ろうあ連盟ともちょっとうまく相容れないような人間がこぢんまりと集まって。でも、こことはほとんど関係していないですけどね。

渡辺:あと、院生の伊東香純さんがやっている内容なのでぼくが代理で質問しますけれど、精神障害の方とかはどんな感じだったでしょうか。山本さんが…。

鎌田:山本眞理さんもいたかな、たぶん。あ、深雪さんの方ですか。あと、東京だと山本眞理さんあの頃はどうだったかな、それよりも当事者ではないけれど、小林信子さんだったかな。精神障害者人権センターは、大阪か、会報出していましたよね、平仮名の名前だったような気がするんだけれども。それを出しているPSWなんかの人たちで、小林信子さん★41という人たちなんかがけっこう関わっていたんですね。

渡辺:その辺の人の集まり方や障害種別、元ある団体もDPIっぽい感じですね。

鎌田:そうなんですよね。そういう流れの人たちがみんなDPIに集まって来たっていう感じで。

渡辺:そういう中でこの雑誌とかもたぶんできていくという。

櫻井:この方ですか、小林信子さん?

鎌田:そうです、そうです。

櫻井:なるほど、(arsvi.comに)ページある。おりふれ通信?

鎌田:おりふれ通信、そうです。おりふれ通信なんか送ってもらっていました、ビギンにね。それで目を通していましたけど。

渡辺:じゃあ、そういう他の団体からこういう資料のリクエストがあったりとか? こちらから送ったりとか?

鎌田:やっていたんじゃないかな、とは思いますけども。

渡辺:情報のやりとりはあったのか、みたいな雰囲気ってどうですかね? けっこう生々しい話ですみません。

鎌田:たぶんやっていたと思うんですけどね。そうだと思うんですけども、どうだったかな。たとえば、おりふれ通信に何か出していたかといったら……だめだ、そういう個別のことはおぼえていない★42。でも、たとえばここは窓口の1つですから、いろんな人と結局つながっていますから、いろんなところで。そうするとその辺のルートから行ったりとか。たとえば、ちょっとあの人に送っといてって言われたのがあったりとか、ということはあったと思いますけどね。例えば堀事務所にしろ石毛さんの事務所にしろ、そういうところとは全部つながっていますから、こことは別に資料請求してということもあったと思います。

櫻井:だから、ここを通さずに堀さんから直接もらうとか。

鎌田:それはもう十分あったと思いますよ。

渡辺:そうですよね、独占していたわけではないですからね。

鎌田:そうです、ここでなきゃだめってわけじゃないですから。

櫻井:このビギンの資料というのは、封筒に入っているもの以外にもかなりたくさんあったんですかね?

鎌田:いや、基本的には全部封筒に入れたものだけで、あとはそのさっき言った、それぞれの基礎自治体の障害者のしおり的なものは、やっぱりちょっと分厚かったりもするので、それは封筒に入れていなかったと思うんですけど。それは、それだけの本棚に棚を作っていたという記憶があります。

櫻井:けっこう部屋が手狭になっていたのではないかと思いますけど?

鎌田:そうでもなかったですね。広さ、あれどのくらいあったのかな? 20平米はなかったと思うんです。で、机が2つあって、本棚がこれより少し狭いぐらいのが2竿くらいの感じだったんじゃないかと思うんですけれども、あって。あと、テーブルがあって、コピー機があって。で、台所のようなところのちょっとしたスペースに点字印刷機を置いて、というような配置で。それほど手狭だという印象は、私がいる間はなかったですけどね。

櫻井:先日、りぼん社さんに本をいただきに行ったときに、資料を詰め込んだりとかしていたんですけど、かなりぎちぎちに詰められていたんで、やっぱり資料を保管していくってたいへんだなと思ったんですね。

鎌田:それはそうだと思います。

櫻井:そんなに手狭ではなかったんですね。

塩野:資料収集のことにちょっと戻ってしまうんですけれども、先ほど主に議員の方から提供を受けていたってことがあったんですけれども、たとえば会員側からこういう資料があるってことが提供されたりとか?

鎌田:あったと思います。

塩野:会員募集要項を見たときに、会員が受け手だけではなくて発信者でもあるというような位置づけをしていたので、そういうやりとりっていうのは実際どれくらいあったのかなと。

鎌田:あったと思いますけど、ほんとうにおぼえていなくて。特に地方のものっていうのは、こちらでもわかりようがないことが多いと思いますので、そうすると向こうからこんなものがあるよって送ってきてもらったものをリストに載せるということは、当然あったと思いますけどね。

櫻井:ビギンの1号の前に、○○とかあるんですけど、これは0号という位置づけでいいんですかね?

鎌田:これは発送していないから、まだまったく別扱いというか。

櫻井:パーティーで配ったりしたという……

鎌田:かもしれないですね、設立のときの。

塩野:立岩先生の文章には5月にっていうことが書いてあったんですけど、その5月あたりに何かイベントが?

鎌田:設立記念パーティーはやりました。山吹町…関口ではない…これが斎藤明子さんのマンションなんですね。だから、山吹町に移ってからやったんじゃないのかな。山吹町に、たしか日教組関係の建物があって、そこを借りてパーティーをやって。料理は、私が介助に入っていたのが、好きが高じて自分でカレー屋を始めたやつがいて、それに頼んでいろいろ料理を作ってもらったのを運び込んで食べたという記憶がありますね。

櫻井:けっこうパーティーは人数が多かった?

鎌田:そこそこ…人数まではちょっとおぼえていないですけどね。

渡辺:どういう人が集まったのかなって?

鎌田:まあ、この辺の人たちと、あとは日教組とか自治労の人たちとか。

渡辺:斉藤懸三さんもいるんだ。共同連ですよね?

鎌田:そうですね。ビギンの名付け親は二日市さんなんですよね。こじつけがありますよね?

櫻井:たしか名前の由来みたいなことが書いてあったような。

塩野:発刊号にも書いてあった記憶が。

渡辺:なんとかネットワークみたいな…一個一個…ここでしょ?

塩野:ここがわかりやすいですね。略称がビギンですね。

櫻井:基本的な本質的な情報、つながり。

鎌田:翻訳家らしく……。

櫻井:そしたら別の出版社から怒られたっていう。

鎌田:それは戸惑いました。面喰いましたあのときは。やっぱり載る媒体によって読む人の反応もぜんぜん違うんだなっていうのをそのとき実感しましたね。たしか最初に読売か何かに載ったときに、けっこうかまえていたんですけれども、ほとんど反応がなくてあらーっと思って。それで、朝日に載ったら、もうてんやわんやになって。

櫻井:それおもしろいですね。

渡辺:読者層がすごくわかりやすい。

鎌田:本当にわかりやすいと思いました、あのときは★43

櫻井:イメージ的にもぴったりという感じで。

鎌田:そうですね。

櫻井:これもちょっと生々しい話ですけど、会費3万円ってけっこう当時でも高めだったのかなという気もするんですけど、でもそれくらいじゃないとちょっと厳しいということだったんでしょうか?

鎌田:たぶんそういう位置づけだと思いますけれどね。でも、そんなに少なくなかった記憶があるんですけどね。もちろんB会員がいちばん多いですけれども。払える人は払えるんだなという感じで。

櫻井:いまでだいたい1時間半くらいすでにインタビューさせてもらっていますけれども、何かこれを聞いとかないとみたいなものがあればぜひ……。

渡辺:先ほどはいろいろ生々しい話を。

鎌田:それがおぼえていなくて申し訳ない。

櫻井:それだけやっぱり忙しかったということですよね。(笑)
 では、このビギンの資料を現在使うとしたら、どんなふうに読まれたりするといいなというお考えはありますか?

鎌田:やっぱり制度史みたいなものですかね。例えば主管課長会議のものを何年かずらーっと通し読みすれば、制度の変わり目が、節目節目がわかるのかなと思いますけれども。

櫻井:資料としましては、政府とかからの資料が多くて、当事者団体からというよりはそっちの方が多い?

鎌田:そうですね。

櫻井:そういう意味でも制度史?

鎌田:やっぱりみんな関心があるのは、国の制度がどうなるかっていうところなので。それがわかるものがほしいから、こういう形で特集組んで、みんなにも配布していたということになると思うんですね。たぶんこういうのを作ったのは、一つには、少し活動が低調になってきて、何らかの活性化の一つだったんじゃないかと思うんですけれども。ただ待つだけじゃなくて、こっちからも資料をどんどんと読んでいってもらおうという位置づけや目的があったんだろうと思うんです。そうじゃないと、ただお金をもらって、請求しない人は請求しないだけですから。やっぱりそれじゃあ存在意義がないんじゃないかっていう議論があったんじゃないかなと思うんですけれども。これもいなくなったあとなので、わかんないけれども。

櫻井:さきほどの塩野さんの話にもありましたけれども、情報発信するといったこともかなり意識されていて、つまり単に情報をもらうだけではなくて、そのもらった人たちがそれを読んで、それを分析とかして発信するという……

鎌田:活かしてほしいっていうのは考えていたと。

櫻井:それは『ジョイフル・ビギン』とかの位置づけでもあったかと。双方向というか……

鎌田:そうですね。まだまだこの辺はそんな簡単に資料の入手ができない時代だったんだと思うんですね。

櫻井:せっかくなんでビギンの資料を一回見てもらって、これは当時のものだったのかということを……

鎌田:ぜひお願いしたいと思います。

渡辺:いったんじゃあインタビューを……。

櫻井:どうもありがとうございました。

[註]
1) りぼん社は、映画「さようならCP」(監督:原一男、1972年上映開始)の上映運動から資料センターとして1973年に設立された(関西上映事務局解散、再出発委員会 1973)。『そよ風のように街に出よう』(1979年〜2017年)などを発刊してきた。
2) 立命館大学生存学研究所が2017年から発行している紀要である。
3) 全障連は、全国障害者解放運動連絡会議の略称である。「74年、大阪の第八養護学校建設に反対して関西青い芝の会連合会と関西「障害者」解放委員会が共闘したのを契機に、この2団体と八木下浩一が全国的な組織の必要性を訴えるよびかけ文を配布する。74年「二月に全国代表者会議を開き準備会発足を決定、全国代表幹事に横塚、事務局長に楠敏雄を選出、75年に7回の全国幹事会を開き、76年8月の結成大会をもって正式に発足する。各地域ブロックの連合体として構成され、各々が役員組織、事務局をもつ。と同時に、毎年夏に各ブロックの持ち回りで開催される全国(交流)大会で全国役員、事務局長が選出される。」(立岩 1990: 342)
4) 1981年、国連総会は同年を「完全参加と平等」を掲げた国際障害者年と位置づけた。翌年には、「障害者に関する世界行動計画」を採択し、それを実行するために1983年からの10年間を「障害者の10年」と宣言した。
5) 脚注4にあるとおり、ここは櫻井の記憶違いである。
6) 1996年に衆議院議員(民主党)に初当選した。(参照:2021年2月8日取得,http://www.arsvi.com/w/ie02.htm
7) 鎌田氏が研究会に「参加するようになったきっかけは,故人になりましたが副島洋明弁護士に誘われた」からだという。
8) 大賀重太郎氏:「1951年兵庫県生まれ。1972年から障害者問題に出会い、青い芝の会運動等と共同。1976年から全国障害者解放運動連絡会議(全障害)事務局。1981年障害者問題を考える兵庫県連絡会議に参加。1995年に被災地障害者センターを発足、1999年にNPO法人となり事務局長を経て専務理事。2005年拓人こうべに名称変更。NPO法人姫路自立生活支援センター副理事長。社会福祉法人えんぴつの家評議員他」(似田貝 2006)(参照:2021年2月8日取得,http://www.arsvi.com/w/oj01.htm
9) 矢内健二氏
10) 鎌田氏後日談:「余談ですが,こうして取次に納入するため車で移動していたカーラジオでオウムの地下鉄サリン事件の第一報を聞きました。」
11) 現在は「連合会館」と呼ばれている。(参照:2021年2月8日取得,https://rengokaikan.jp/
12) 金氏ウィキペディア:2021年2月8日取得,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%94%BF%E7%8E%89
13) 立岩(1992)
14) 各省が財務省に提出する、翌年度の政策実施のための予算の見積もりのこと。
15) 高橋修氏(1948/07/25〜1999/02/27)は、三多摩自立生活センター代表、三多摩在障会代表、自立生活センター立川代表などを務めた。(参照:2021年2月8日取得,http://www.arsvi.com/w/to01.htm
16) 光学文字認識(Optical character recognition)は、画像から文字を読み取り、テキスト化するものである。
17) MO(光磁気)ディスクは、フロッピィディスクと同時期利用された記録媒体である。
18) ニフティサーブは、パソコン通信サービスであり、ハンドル名を使って会員同士がコミュニケーションのできるフォーラムという場が設定されていた。その1つが障害フォーラムであり、ここでは匿名で情報交換をしたり、そこで知り合った者同士が実際に会ってさらに交流を深めたりといったことがおこなわれていた。
19) 鎌田氏によると、提供媒体は、メール送信ではなく、フロッピィディスクであった。
20) 野口(1993)
21) 二日市安氏は、BEGINの代表の他いくつかの障害者団体、自立生活センターで活動した他、「後藤安彦」名義で翻訳者としても活躍した。
22) 三澤了氏(1942/04/01〜2013/09/30)は、1973年に頸髄損傷者連絡会したほか、DPI日本会議議長などを務めた。(参照:2021年2月8日取得,http://www.arsvi.com/w/ms13.htm
23) 楠敏雄氏(1944〜2014/02/16)は、1973年に視覚障害者として全国で初めて公立普通高校講師になる。全障連の事務局長や副代表幹事、DPI日本会議事務局長などを務めた。(参照:2021年2月8日取得,http://www.arsvi.com/w/kt11.htm
24) 鎌田氏によると、堀利和氏もBEGIN設立当時のことを知っている数少ない人である。
25) WAM NET(Welfare and Medical Service Network System)は、独立行政法人福祉医療機構が2000年から運営している、福祉や医療についての情報サイトである。(参照:2021年2月8日取得,https://www.wam.go.jp/content/wamnet/pcpub/top/
26) 日本障害者リハビリテーション協会は、調査研究や国際協力のための団体として、1964年に設立された。(参照:2021年2月8日取得,https://www.jsrpd.jp/
27) 全障研(全国障害者問題研究会)は、1968年に教育学、心理学者の田中昌人によって1968年に設立された。(参照:http://www.arsvi.com/o/jadd.htm
28) 日身連(日本身体障害者団体連合会)は、「昭和33(1958)年6月23日創立されました。現在では全国62都道府県・指定都市の障害者を中心とする当事者団体と公益社団法人日本オストミー協会、一般社団法人全日本難聴者・中途失聴者団体連合会の計64団体をもって構成されています。」(日身連 2021)
29) 鎌田氏によると、尾上氏が編集長だった。
30) 鎌田氏によれば、別冊資料の作成は大賀氏の発案であった。
31) 「障害児を普通学校へ全国連絡会」は、「1981年8月、"障害児が普通に学校に行けるように"を共通の願いとして、会員相互のネットワークづくりと情報の共有を目的に結成され」た(障害児を普通学校へ全国連絡会 2021)。
32) 身定協(身体障害者団体定期刊行物協会)は、1974年に設立された。「障害者団体向けの郵便料金割引制度のいわば窓口になるような団体であり、二日市さんはその最初の事務局長だった」(杉野 2009)。
33) 不正事件については、杉野(2009)などの研究報告がある。
34) 参照:2021年2月8日取得,http://www.arsvi.com/o/srk.htm
35) 参照:2021年2月8日取得,http://www.arsvi.com/w/mt26.htm
36) 長瀬修氏(参照:2021年2月8日取得,http://www.arsvi.com/w/no01.htm
37) 奥山幸博氏(参照:2021年2月20日取得,http://www.arsvi.com/w/oy13.htm
38) 参照:2021年2月8日取得,http://www.arsvi.com/w/tk07.htm
39) ミミ(MIMI)も全日本ろうあ連盟が発行している季刊雑誌である。
40) 日盲連(日本盲人会連合)は、1948年に視覚障害者によって設立された組織である。2019年に「日本視覚障害者団体連合」と名称を変更した。
41) 参照:2021年2月8日取得,http://www.arsvi.com/w/kn07.htm
42) 鎌田氏によると、BEGINにはおりふれ通信以外にもいくつかの団体の会報類も送られてきていた。
43) 『世界』にBEGINについてのインタビュー記事がある。記事では、どうしてBEGINのような活動が必要なのか、この活動に対してこれまでどのような活動があったのかといったことが語られている(二日市ほか 1994)。

[文献]
二日市安・三澤了・鎌田真和・齋藤明子,1994,「情報を発信することの大切さ――インタビュー障害者総合情報ネットワーク」『世界』593:254‐256.
関西上映事務局解散、再出発委員会,1973,「『さよならCP』上映運動(2)」(2021年1月22日取得,http://www.arsvi.com/1900/7200cp2.doc).
日本身体障害者団体連合会,2021,「団体概要」(2021年1月23日取得,https://www.nissinren.or.jp/org.html
似田貝香門編,2006,『ボランティアが社会を変える――支え合いの実践知』関西看護出版.
野口悠紀雄,1993,『「超」整理法――情報検索と発想の新システム』中公新書.
障害児を普通学校へ・全国連絡会,2021,「『障害児を普通学校へ・全国連絡会』結成の背景」(2021年1月23日取得,http://www.zenkokuren.com/about/about1.html
杉野昭博,2009,「DM不正の行政責任と障害者団体向け郵便割引制度の沿革」障害学会第6回大会・報告要旨(2021年1月23日取得,http://www.arsvi.com/2000/0909sa.htm
立岩真也,2012,「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也編『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店,258-353.
立岩真也,1992,「障害者ネットワーク・他――自立生活運動の現在・7」『季刊福祉労働』61:153-158.

*作成:伊東香純
UP:20210407 REV:

生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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