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アカデミア・小さな学校




※以下,伊藤志野1996「フリースクールの現在──教育のオルタナティブ」(千葉大学文学部社会学研究室『NPOが変える!?──非営利組織の社会学』第15章)から一部を引用

「アカデミア・小さな学校は,学習障害(Learning Disabilities=LD)やそれに似た症状があるために,今の学校教育制度では勉強についていけない子供を特に対象としたフリースクールだ。LDに関しては後ほど触れるとして,ここではまず創立の経緯を見ていく。アカデミア・小さな学校の教師である渡部さんは,以前は「フリースクール・飛翔」の責任者だった。渡部さんは,飛翔の発起人ではなく,「学習障害児親の会」のメンバーから学習障害児の学校をつくるから協力してくれないか,と頼まれたことから学習障害児との付き合いが始まった。

渡部「みんなが出来ることが出来なかったとか,わかんない,いじめられた,仲間はずれにされたっていう子供たちは今までにもさんざん見てきたから,じゃあ,そういうLD児の専門家でもなんでもないけど,誰も引き受けてくれないのでっていうので引き受けたわけです。」

初めは,不登校ぎみだったり,勉強の分かりにくい子供を持った親が,勉強会や講演会を開いていたが,その親達から会をつくってLD児の存在をもう少しアピールしていこう,という動きが生まれ,各地で親の会がつくられていった。「学習障害児親の会」が発足したのは,1989年だった。そこで親は,学習障害がどういうものなのか,親としての対応の仕方を学び,無理に子供に勉強を教えることはやめたが,しかしそれでは子供が救われないのではないか,何かこの子たちに応じた能力の発達の仕方はないかということで,小学校の親を中心にとにかく中学校をつくろう,という動きになったという。

渡部「LD児のための通級学級施設を公立中に求めたり,私立中に受け入れを打診したけれども返事ももらえなかったと聞くと,私も3人の子持ちであり公教育の教師をしたり,教育専門誌の記者をしたりと,好むと好まざるとにかかわらず,教育・学習・子供たちの状況に塾以前から関わってきた者として,聞きのがせないものがあった。勉強の分からない子にはいやというほど接して,自己の限界を越えるような日々に心身をすりへらしてきた。そんな私がフリースクールで午後4時まで教え,その後は自分の塾で夜中まで教えるという生活をとってしまったのはなぜかというと…こんな学校つくったらろくなことにはならないっていうのは私には分かっていたんです。ただ,問題の困難さがあまりに分かるので,問題が見え過ぎるがゆえに,現場の引き受け手がいないという事実で私は引き受けた。」

 「フリースクール・飛翔」が開校されたのは1991年4月で,母親たちの親の会が運営の中心となり,渡部さんを含めて3人の教師と8人の生徒で学校が始まった(その後1年間の軌跡については『東京新聞』1992-3-22〜4-10 の14回の連載「学習障害児の学校・・飛翔の1年」)。渡部さんはその後間もなく飛翔をやめ,同じく飛翔の講師だった宇田川さんと共に「アカデミア・小さな学校」を創立するに至った。この「分裂」についてはVで触れる。フリースクール飛翔は,今では中等部の他にも高等部も併設している。校舎は,川崎市の町工場が並ぶ多摩川近くの借家を中等部が,近くの町工場の2階を高等部が借りてやっている。学年制をとらずに,主要5教科の授業は到達度ごとに5人程度のグループに分けている。読み書きの基礎に戻って,欠けている部分を指導する一方,選択授業でコンピューターを学ぶ子もいる。書くことが困難な子供には,ワープロを使うことを教えると,次々と文章が書けるようになったそうだ。高等部は,都内の高等専修学校の関連校としてカリキュラムが組まれているため,3年目にそこに通って修了すると,専門学校や大学の受験資格も得られるという。飛翔の会(学習障害児の自立を支える親の会)は今後,講習会の開催や読み書き障害の調査・研究,教材づくりに取り組んでいくという(『朝日新聞』1994-12-5:7)。飛翔もまた,開校して4年目となり独自の歩みを続けている。」

…(以下略)…

アカデミア・小さな学校──学習障害児と共に

 1 アカデミアの小さな風景
 2 学習障害児の立場
 3 アカデミアのジレンマ



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