「長野県青い芝の会が発足したのは一九七五(昭和50)年
五月二十七日で、カナダ旅行に出る三カ月前前だった。集まったのは私を含めて七名。男性三名、女性四名である。集まったほか六名は、「自立」とはどういうことなのかまだよくわからなかった。年金についても、自分がいくらもらっているのかも知らないのだった。
そのとき私が書いた文章が残っている。次のような内容だ。」(本多[2005:203])
cf.『そよ風』8(81.9.10):80 によれば1974年
一九七七(昭和52年)、川崎駅のバスターミナル 210
「青い芝の会は全般的に、一九六〇年後半(ママ)から八〇年(ママ)の半ばまでめざましく活躍した。ところが、一所懸命に活動していた人たちが年をとって、亡くなったり病院通いをしたり寝たきりになったりして、しだいに衰えた。
私よりあとの世代は養護学校出身者が多く、「彼ら」や「彼女たち」には、心底から差別を味わっていない人が多かった。もちろん養護学校のせいばかりではないが、現実には障害者に対する差別はあるのに、表面に現れないため肌で感じない差別は心を深く傷つけず、運動していくことを面倒に感じるようになったのではないかと思う。」(本多[2005:229])
「長野県青い芝の会の会員たちは、その後それぞれが施設に入り、いまでは解散したと同じだ。周囲に何もないさびしいところにある阿智村の重度障害者施設「阿智養護園」に入った人もいる。それにしてもどうして障害者施設は人が住んでいないところに建設されるのだろう。」(本多[2005:230])
◆本多 節子 20050201 『脳性マヒ、ただいま一人暮らし30年――女性障害者の生きる闘い』,明石書店,262p. ISBN-10: 4750320390 ISBN-13: 978-4750320397 2100 [amazon] ※ d d00h