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茨城青い芝の会


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last update:20211205


■目次

年表
報道
筑波技術短期大学着工阻止闘争

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■年表

年表は茨城青い芝60周年記念誌「大いなる叫び――茨城青い芝の会の障害者解放運動」から巻末の年表から作成した。ただし、年表を元に一部を改変している。
■茨城青い芝の会 20210630 『大いなる叫び 〜茨城青い芝の会の障害者解放運動』,251p. 1000 ※


1957年
11月、東京大田区で青い芝の会が結成される

1958年
未就学脳性マヒ児のための塾を開設(約5年間運営)

1959年
毛糸織物、アケビ細工、授産を開始。生活訓練キャンプを始める(以降毎年)

1960年
大会で生活保障要求決議をあげる
【茨城】折本昭子らが12月10日「県南障害者の会」を創立する。土浦市中央公民館に22名が参加した。初代会長は土浦市の新堀重雄

1961年
【茨城】8月、出島村(現かすみがうら市)歩岬の青年研修所にて30名以上でキャンプを行う。大仏空が初めて参加。  東京からの参加者や大仏和尚から、県南障害者の会を青い芝の会に移行することを提案される。後日、役員会で了承し、茨城青い芝の会が発足する。
【茨城】12月、筑波山登山。自衛隊にジープや医療隊を協力させ、大きく報道される。
・厚生省交渉を開始。親睦活動と平行して国などへの要求闘争を始める。
・国立の授産施設設置要求の署名運動に取り組む
・慈善チャリティー公演を始め、この後も度々行う
【茨城】大仏和尚や小山正義らが、筑波の閑居山にコロニー建設構想を始める

1963年
12月、全国青い芝の会が結成される
【茨城】新治郡千代田村(現・かすみがうら市)上志筑463、閑居山願成寺に脳性マヒのコロニーを発足し、のちにマハラバ村と言われる。
【茨城】5月、上田重蔵の子を中心に20名以上で「古川青い芝の会」を結成。10月、海老沢敬一を中心に「水戸青い芝の会」を結成。

1964年
【茨城】前年12月に成田澄江が閑居山に移り住む。翌年1月に折本、3月に矢田竜司、4月に横田弘、5月に横塚晃一が参加する。 住民票を映して生活保護を申請し、本格的な共同生活が始まる。

1965年
障害年金増額要求運動

1967年
【茨城】マハラバ村で3組の夫婦に子供が生まれる。

1968年
・会員女性が九州へ行く途中に列車から降ろされる事件があり国鉄当局に抗議する。
・住宅問題や脳性マヒ者の雇用要求などについて都に抗議行動。
【茨城】大仏和尚がマハラバ村で傷害事件を起こして逮捕される。

1969年
マハラバ村出身者を中心に、青い芝の会神奈川県連が発足する。
【茨城】マハラバ村の大半が全国に散り、数人が残る。

1970年
・横浜市の障害児殺し事件で母親への原型嘆願運動が起き、これに対する反対運動を展開する
・神奈川が4つの行動綱領を発表。全国綱領となる。

1971年
映画『さようならCP』の制作が開始される

1972年
優生保護法改悪反対で全国的な運動を展開する

1973年
・全国青い芝の会総連合会を結成する
・『さようならCP』の上映運動が全国で開始される

1976年
障害種別を超えた初めての当事者組織である全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の結成に参加

1977年
川崎市でバス乗車拒否に抗議し、全国結集で28台のバスを占拠しストップさせる

1979年
・養護学校義務化反対闘争で、文科省前坐り込み闘争を闘う
・3月、全国青い芝の会、全障連から脱退する

1980年
国の身体障害者実態調査に対して全国で反対闘争に取り組む
【茨城】里内龍史(現・茨城青い芝の会会長)が滋賀から茨城のマハラバ村へ移住する

1983年
【茨城】閑居山で共同生活していた古川康夫の障害基礎年金を行政が勝手に親元に送金したことに抗議して、30名で県交渉を闘い、 生活福祉部長室に徹夜で籠城する部長が謝罪し改善の誓約書

1984年
【茨城】7月6日、大仏空和尚が無くなる
【茨城】12月、里内が閑居山を出て千代田村で自立生活を始める
【茨城】建設予定の遺伝子組み換え施設P4建設反対運動

1985年
【茨城】つくば科学万博に対して「障害者殺しの祭典」と反対闘争を行う。土浦市で関東中部ブロック「障害者にとって科学ってナーニ?」を開催する

1986年
折本昭子(全国副会長)が全国常任委員会にて「関東各地の運動が停滞しているのは、若い人々が作業所に組み込まれているから」など定期と討論を行う
【茨城』2月、桜村で「さようならCP」上映会
【茨城】6月、実態調査反対などで県と交渉

1987年
【茨城】里内龍史が折本昭子の後任の会長になる

1988年
【茨城】つくば市の遺伝子組み換え実験の強硬に反対して抗議
【茨城】茨城青い芝の会が提出した「土浦駅へのエレベーターの設置及びスロープの開放」に関する請願について、土浦市議会が不採択とする
【茨城】8月、磯原海水浴場・水沼ダム・五浦で2泊3日のキャンプを行う
【茨城】視覚・聴覚障害者だけを対象とした筑波技術短期大学建設に反対して闘う。11月の現地闘争では車椅子5台でダンプを止める
【茨城】筑波大学の学園祭で「さようならCP」上映と講演会を行う

1996年
【茨城】障害者本人が推薦する介助人派遣制度を要求して「障害者の介助制度を確立する茨城連絡協議会」を立ち上げる

1997年
土浦市で第12回青い芝の会全国大会が開催される

1999年
石原都知事による重度障害者への人格否定発言に抗議

2001年
【茨城】知的障碍者の県立高校進学実現に向けて、茨城「障害者」の高校進学を実現する会(奥山栄子代表)と共に県交渉などに取り組む

2005年
自立支援法反対闘争に取り組む

2009年
【茨城】5月、県南学習センターで、劇団態変(金満里監督)による『マハラバ伝説』茨城公演が行われる。


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■報道

2021 NEWSつくば 「権利獲得目指した障害者運動の歩み語る 「茨城青い芝の会」60周年記念誌」.[外部リンク]
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■筑波技術短期大学着工阻止闘争

◇年表

1986年 「調査費」として筑短に予算がつく
1988年10月2日 建設工事が始まったのを筑波大生が発見する
1988年10月4日 茨城青い芝の脳性マヒ者5人と筑短反対闘争実行委員会の筑波大生らが建設予定地で座り込みをする
1988年10月6日 東京から筑波身障者短大構想に反対する連絡会の古賀氏が茨城に訪問。三団体合同の作戦会議が開かれる。
1988年11月30日 車椅子三台と筑波大生が座り込みをする。
1988年12月13日 集会、筑波大構内でのアジ演説やビラまきをする。
1988年12月20日 茨城青い芝の会で予定地の前の空地で芋煮会をする。

◇解説

 筑波技術短期大学着工阻止闘争は、主として茨城青い芝の会によって行われた筑波技術短期大学(以降、筑短と呼ぶ)の開校を阻止するための闘争である。筑短は茨城県つくば市天久保に本部が置かれた日本の短期大学である。筑波大学と極めて近い場所に位置する。1990年に設置され、2010年に廃止された。ただし、2006に設置された筑波技術大学に組織的に移行しており、廃校となった訳ではない。
 筑短は聴覚あるいは視覚に障害を持つ人のための3年生国立短期大学であった。反対に言えば、日本で唯一健常者が入学できない短大であったと言える。

◇文献

◆茨城青い芝の会・1104筑短直接行動参加者一同・筑波短期大学反対闘争実行委員会 , 「『筑短』建設強行に対する抗議文」.

「われわれは11・2筑波技術短大の着工を絶対に許すわけにはいかない。障害者を一般大学から排除することによってのみ成り立つ『障害者のための新しい高等教育機関」などまったく認めるわけにはいかないのだ。
『養護学校義務化』によって、障害者は学校まで『健全者』から隔離され、日常生活において差別され、抑圧されているのである。この上、さらに、「筑短」開学によって全修学期間、障害者を「健常者」から隔離しようとすることなど絶対に許すわけにはいかないのである。
 さらに「筑短」は障害者の中に分断を持ち込むものである。筑短開学で狙われているのは、障害者を『使える者』(視覚・聴覚障害者の『優秀な』者)と『使えない者』(脳性マヒ者などのその他)に分断することであろうと言わざるを得ない。これを黙認するならば『使える障害者』は産業資本の為に動員され、『使えない者』と判断された障害者は社会から抹殺される存在になってしまう。
 どんな障害者でも周囲の人の協力があれば社会的な日常生活をおくることができるし、またそうする権利を持っているのだ。「健常者」もまた障害を持つ人たちと共に生きることによって、真に人間らしく生きる権利と義務があるのだ。
 われわれは抗議する。文部省と筑短当局はただちに工事を中止し、障害者差別制作の産物である筑短構想を白紙撤回せよ。
 右をもって抗議とする。
 一九八八年十一月四日
 11・4対筑短直接行動参加者一同
 茨城青い芝の会
 筑短反対闘争実行委員会」

◆筑波大学附属盲学校, 19960708 , 「4年制大学へ向けた基本構想(まとめ)」. 
外部リンク
 1970年11月,本校将来計画委員会は,社会情勢の変化等に対応するため,「将来計画の基本方針」をまとめて筑波大学附属盲学校(以下「附属盲」)の専攻科を3年制短期大学に昇格発展させることを決定した。一方,日本理療科教員連盟(以下「理教連」)は,1971年に実施した全国盲学校高等部在学生へのアンケートの結果(専攻科の短大昇格を望む声76%)を受けて,翌1972年に「理療科3年制短期大学制度確立に関する件」を決議した。以来,附属盲専攻科の昇格を前提として短大構想が検討されることとなり,1978年には,筑波大学内に「筑波大学身体障害者高等教育機関設置調査会」が設置されるに至った。

 しかし,議論が進むにつれ本構想は,国際障害者年に係わる国の施策とも重なり,しだいに,当初掲げた「専攻科の発展」「附属盲専攻科の昇格」の理念とは無縁の方向へと質的に転換していった。本校をはじめ多くの盲学校や関係団体は疑問を投げかけ構想の白紙を求めて反対の意向を表明したが,1987年,予定を5年遅らせて,視覚障害部と聴覚障害部を併設した「筑波技術短期大学」(以下「技短」)が開学した。ここに,国立における視覚障害者のための理療師・理学療法士の養成定員は倍増し,生徒数が減少する中,学生の確保等をめぐって附属盲と技短は競合の時代を迎えることとなった。


◆里内 龍司 19890401 「障害者だけの大学「筑短」はいらない――筑波技術短期大学着工阻止闘争」,『季刊福祉労働』42:143-148.

「ところで、国立で初めての障害者だけの大学が、何故つくばという土地に建設されようとしているのでしょうか?日本の将来をかけて建設した筑波大学を中心に、つくば研究学園都市があり、そこでは最先端のいろいろな学問研究が行われています。もちろん、障害者に関連する研究も行われています。たとえば、筑波大学で生まれ、確立された発達論をベースにする心身障害学という障害者の存在を否定する学問があり、筑短は筑波大学の心身障害学系の教授が作ったのです。筑短に優秀な障害者(?)を集めて、心身障害学の研究対象としています。つまり、筑短に入学した障害者は、心身障害学という学問を研究している人々、そしてそれを後押ししている国家・現政府のモルモットになることを意味します。」(p.148) 

福島智さん 2019/01/08 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館・書庫 福島智さん 聞き手:立岩真也.

「福島 そう、筑波の附属の進路指導部が、まずは内的に打診したら、盲ろうの生徒を受け入れたことがないから、あの、受け入れられないということで、とにかく細かいことはわかんないけど、断ってきたんです。「共通1次だけ受けるんであれば、それでもいい。2次は受けてもらえないけれどね」みたいな、そういうものすごい失礼な(笑)、返事だったんです。それで、僕と塩谷先生と周りの人間は、「筑波大学なんか絶対に行くか」という、(笑) その時に決めたんですね。まあ、心身障害学系が幅をきかせているね、頃ですね。佐藤泰正とか。筑波、筑短問題とかって、ご存知ですよね。
立岩 はいはいはい。多少は知ってます。
福島 まあ、だからもし、筑波に行っていたら、私の人生はひどいことになっていたかもしれませんね。(笑) などと言うと悪いけど。とにかく断られたんですよ。」

◆天野誠一郎 古賀典夫 篠原睦治 201903** <討論>私たちが直面している「障害者」問題. 社会臨床雑誌, 26, 3.

古賀 [前略] そして、「筑波大学身体障害者短期大学」構想でも、そうですね。
篠原 この構想は、古賀さんたちが学生の頃、出てくるんだけど、あなた方、視覚障害学生と聴覚障害学生が中心になって、「盲ろう短大設置反対」の運動を起こしていくんだよね。ぼくも、あなた方に巻き込まれて発言していったっけ。
◆視覚障害者労働問題協議会 編 20000123『障害の地平』No.100-2 SSK通巻第1509号;身体障害者定期刊行物協会,53p.

1981年(さらに連帯の輪を広げる視労協)
 ◎筑波身障短大構想に反対する連絡会の結成
 1月15日視労協を含む5団体により、筑波身障短大構想に反対する連絡会の発足。
 1月24日、文部省に5項目の反対理由を含む要望書提出。
 その後、87年秋の筑波技術短大の開校まで、ほぼ年に2〜3回の総決起集会。1.2カ月に1度の文部省前や筑波現地での抗議行動、署名活動など身障短大構想に反対する運動は、視労協の闘いの重要な課題の一つとして取り組みが続けられる。

◆筑波学生新聞, 19881100, 「筑短建設工事始まる 障害者団体等が抗議活動」.

◆大橋 由昌 19880410 『盲学生憤闘記 キャンパスにオジサンは舞う』,彩流社,223p.

「各論とは、いわゆる「筑波短大」問題であり、これは文部省が”可及的速やかに”開学の準備を推し進めている、国立の視・聴覚「障害者」のための「筑波技術短期大学」の問題についてであった。私は、本構想を知って一九七九年の十月に、聴覚「障害者」を含む二人の友人と共に筑波短大問題研究会を組織し、以来その代表の立場で反対運動の一翼を担ってきた。私達の反対運動の理由は、視・聴覚「障害者」の個別的なものを除けば、本構想が@盲ろう学校の矛盾を高等教育の場にまで先送りすること、A文部省の隔離教育政策を容認する結果になること、B統合教育を求める多くの「声」に逆行すること、C「障害者」間に新たなる格差をもたらすこと、そしてD「一般」大学の「障害者」受け入れ拡大の弊害となることなどである。」(p.222)

◆点字ジャーナル, 201206xx, 「日盲連竹下会長の驚愕人事情報部長に「毒舌論客」」. 第43巻6号(通巻第505号).

「 実は本誌先月号での竹下新会長インタビュー時に、特に大橋氏を名指ししたが、「彼の方が1歳年上かな? 昔からの親しい友人ですよ」とさらりとかわされてしまった。その時点で、鈴木氏が情報部長を退くことは決まっており、後任は誰かと話題になっていたので、私にとってもこの人事はサプライズだった。
 大橋氏は大学卒業後、病院勤務を経て朝日新聞に勤務するが、一貫してあはきの現場を歩いてきた。そのかたわら筑波技術短期大学(筑波技短)設立反対闘争に象徴されるように、在野で活発に運動を展開する一方、NHKラジオ第2放送の「視覚障害者のみなさんへ」(当時)のコメンテーターとして、長年活躍したことはご存じの通りである。」
「 昭和45年(1970)の春、附属盲の専攻科に20歳で入学。時は70年安保闘争に沸く政治の季節で、彼はすぐに音頭をとり社会問題研究会を組織し、当時頻発した目白駅からの転落事故を取り上げて駅長交渉などを行う。そして昭和47年(1972)には附属盲でも学園闘争が起きる。当時、同校には中途失明者で、大学で全共闘運動を身近に体験してきた生徒もおり、留年者まで出す激しいものであった。  このような経験から何かと附属盲の教師に頼ることの多い東京の大学ではなく、京都の大学を目指したもののようだ。  彼の名を一躍全国区にしたのは、筑波技短設立反対闘争を通じてである。大学を卒業して、東京に帰って間もない昭和54年(1979)の10月、彼は筑波短大問題研究会を立ち上げ、附属盲の組合と共闘する。また、昭和57年(1982)には、早稲田鍼灸専門学校にあはき課程を設置するという問題も起こり、昭和62年(1987)10月に筑波技短が設立されるまでは、なにかと盲界は慌ただしく、その中心にはいつも彼がいた。」
「 筆者が初めて大橋氏を見たのは、筑波技短設立反対闘争の集会だった。典型的なアジテーターに見えたので、個人的には敬遠が無難と思った。それでも年に数回様々な会合で会ううち、20年ほど前からはかなりうち解けて、表の顔と随分違う人だということを知った。意外なことに、彼は気のいい、よく配慮のできる、サービス精神旺盛な人なのだ。しかも多様な情報源を持つ早耳で、附属盲の組合やNHKディレクターと阿吽の呼吸で、アジテーターや辛口コメンテーターとして、場合によってはトリックスターとしての役回りまで演じた。名演であればあるほど敵役は憎まれることも、あえて飲み込んだ上でのことだ。」

◆点字ジャーナル, 200706xx 「(座談会)理療料教員養成の在り方を考える(藤井亮輔、吉川惠士、神崎好喜、大橋由昌)」. 第38巻6号(通巻第445号) 

「?本誌:藤井さんと吉川さんはシンポジウムにおける指定発言者で、当事者として最前線に立っている方です。一方、神崎さんと大橋さんは当日フロアにおられさかんに質問の手を挙げておられました。神崎さんには当方の期待としては当事者以外の盲学校代表として、大橋さんには筑波技術短期大学(以下、短大)設立時からの因縁浅からぬものがあり、批判的な視点も必要だと思い参加してもらいました。それでは、まず大沼学長が命名したいわゆる「藤井プラン」について、本誌前号の記事を補足する意味も込めて、簡単に藤井さんからご紹介ください。
?藤井:これはまず学内のコンセンサスを得るために作った素案ですが、なにも私1人の案ではなくて保健科学部の中に昨秋できたワーキンググループの最終案です。骨子は短大から大学になったことで理療科教員養成の環境が整い、保健科学部の上に2年課程の専攻科を置いて、理療科教員免許状を出すようにしたということです。一方、盲学校専攻科を卒業した人たちが入れるように、学部の横に特別別科という2年課程を置く。これは編入学ができるまでの過渡期的な措置です。ただ、これには2つ問題があり、一つは養成施設との競合で、これについては養成施設や筑波大学と協議をします。二つめは授与する免許状の問題です。本来、専攻科では専修免許状を出せるわけですが、特別別科では専修免は出せません。したがって、当面は別科にあわせて専攻科も1種・2種にせざるを得ないという問題です。その意味でもなるべく早い時期に専攻科ないしは教職修士に一本化できるような環境整備をする必要があります。
?本誌:養成施設とは完全に競合するし、平行してはあり得ない。筑波大学には養成施設のバックになる学科がなく、正規ルートにのせられなかったが、技術大にはそれがあるので統合できないかということですね。
?吉川:養成施設は1903年にできましたので104年の歴史があります。戦後、形としては指定教員養成機関ですが、これは本来臨時的な措置で、非常に不安定なものなのです。教員養成は本来は学部学科ですべきですが、それが盲学校の理療科教員の場合はできませんでした。日本の教員養成は教員養成学部で養成するのと、一般の学部学科で国語や社会科などの免許状を出すという2通りの方法があります。筑波大学では教員養成学部は作らない方針なので、養成施設のバックとすべき学部は医学部か、体育学部か、しかしそのどちらも現実問題としては難しい。それでは心身障害学系かというと、そこは小中教育の研究者中心なので職業教育は難しい。そういう意味では技術大ができましたので、文学部で国語の免許を取れるような形が可能になったのです。教員養成は専門スタッフの周りに関連領域のスタッフが大勢いて、何重にも取り巻くことによって、教員および教育の質を確保していますが、そういう意味でも養成施設は難しいのです。いずれにしろ、養成施設の将来像については、筑波大学の中にワーキンググループを作って現在検討しているところです。
?本誌:先のシンポジウムで、神崎さんもさかんに手を挙げておられました。しかし、結局時間切れになりましたが、どんな質問だったのですか?
?神崎:技術大は視覚・聴覚障害者に特化した国立大学ですね。私は理療科教員の中に晴眼者がいることはいいことだと思っています。ただ便利ということでなく、健常者の理療科教員を通じて盲学校と社会の双方が互いを知り合う、ある種のノーマライゼーションという意味でも必要なのです。しかし技術大で晴眼者の教員をどのように養成できるのか? 二つめは、シンポジウムで特に香川先生とか皆川先生が言われた、特別支援教育の中で理療科だけでなく自立活動にも長けた教員になって欲しいという意見がありましたが、はたして技術大の2年間のコースでそういった教育を含めて対処できるのでしょうか? 私は1973年に養成施設を卒業しましたが、点字以外に、当時「養訓」といったいわゆる自立活動は習いませんでした。」
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*作成:山口 和紀
UP:20210826 REV:20211030, 1205
青い芝の会 『大いなる叫び――茨城青い芝の会の障害者解放運動』 事項
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