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『治癒の現象学』終章レジュメ(野崎泰伸


last update: 20120219

■『治癒の現象学』終章

20111030 身体論研究会

1. 歌とは何か

「ジュネの『意味』生成は対人関係の喪失を前提とし、治癒ではなく刑罰をもたらす犯罪を希求する、あるいはここでは犯罪と刑罰こそが治癒となる。このような『意味』生成のことをジュネは『歌』と呼んでいる」(p.158)

「歌によってジュネは牢獄や犯罪、犯罪者といった世界から排除された存在者を称揚し、美へと高める。現実を『意味』へと変換することで受容するプロセスそのものは、本書の議論と一致する。しかし疎外から救われるわけではないし現実を居住可能なものとして受容できるようになるわけでもない。別の仕方の『意味』として『歌』が生成する」(p.159)

「存在し得ないはずの現実は歌において実在化する。ところがひとたび歌として実在化してしまうと、元の現実はまたもや存在を失うことになる」(p.163)

「犯罪や汚辱といった秩序のなかに場を持ちえない現実に対して名前を与えること、名をとおして未知の実在の秩序を作り出すこと、これが歌という『意味』生成の形式的な枠組みである」(p.163)

2. 歌の条件

「ジュネの詩作は犯罪という非場所を実在化するだけでなく、母の不在によって虚空に支えられている。日本でも漱石や芥川がそうであるように、ジュネに限らず多くの偉大な芸術家においては、本来創造性を支えるはずの構造に欠損やゆがみを抱えている。しかしそれゆえに創造性を喪失するのではなく、逆に芸術的創造性そのものの条件へと反転している」(p.165)

「歌になる以前の行為それ自体も芸術でなくてはいけない。芸術とは、未知の秩序を産出する運動であり、既存の規範秩序からの逸脱である」(p.166)

「規範的秩序からの逸脱こそが、無意識の欲望を示しメタファーという未知の秩序の創造を支える」(p.167)

「歌が語る犯罪や苦痛も存在のなかに場を持ち得ないが、犯罪という規範からの逸脱も、詩という言語慣習からの逸脱も同じ運動で成り立っている。法と母国語は非場所を作り出すための条件なのである」(p.168)

3. 歌――二人になることで独りになる技術

「死刑への不安という弱さが薔薇へと反転したように、裏切りは裏切りへの後悔ゆえにダイヤモンドへと反転する。不安や後悔そのものが聖性なのではなく後悔を力づくで『意味』へと反転するがゆえに聖性となる。物乞いの屈辱や妬みも、それを攻撃的な怒りとして表現するのではなく、攻撃性を消した美へと反転することで文学的な昇華が可能となる」(p.169)

「ただしジュネにおいては対人関係の切断がそのまま肯定されるがゆえに、作品が特異な強度を持つことになったのである」(p.169)

「現実に伴う耐え難い情動を消去することで、現実は詩として結晶化する」(p.170)

「そもそも歌だけでなく、犯罪や刑罰といった現実水準の行為そのものが、大きな力を必要とする。先ほど、盗みが怒りの消去を媒介する装置であることが明らかになったが、そのような盗みもまた大きな力を必要とする」(p.170)

「歌も犯罪行為も情動を打ち消す逆向きの斥力を必要とする」(p.170)

「この(情動を消去する斥力)に名づけられた名前が『愛』である。ジュネにとって愛は情動の一種ではない。情動を括弧入れする治癒的な働きである。愛という語を添えることで、屈辱や怒りという情動語も、それが本来持っていた荒々しい情動を剥奪されるのである。文中では斜線を引かれた情動になる。愛の対象である限りにおいて、愛人の苦痛や汚辱、そして彼を裏切ったジュネの汚辱も美へと反転しうる。愛のおかげで、妬みや恨みのない晴れやかな犯罪と詩作とが可能になる」(p.171)

「愛とは病的な情動から距離を取る仕組みのひとつである」(p.171)

「犯罪も詩作も、社会秩序という紐帯から逸脱するので孤立化する。さらに遺棄された単独者である詩人や倒錯者は死者に取り囲まれるがゆえに創造性を支えるはずの二者関係からも逃れる。対人関係172<<173に伴う情動を消去する愛は、社会からの逸脱と人間関係の切断を肯定する。情動こそが最終的な人間関係の紐帯だからである。愛において二人であろうとすればするほど歌の結晶化のなかで歌い手は独りへと純化する。独りであることは、二者関係の純粋状態として見出される。生者との関係も情動という夾雑物を取り除くと孤独が残る。他者を希求するということは最終的には切断においても希求することであるがゆえに、あらゆる二者関係はその核においては孤立なのである」(p.172-173)


■コメント

・全体的によくわからない。いまある社会秩序とは別の秩序を作り上げろ、ということなのか。比喩的な表現が多すぎて、よくわからない。

・「法や母国語」という「規範的秩序」の問題点があるのはわかる。ただ、このような問題を精神分析的な手法で解こうとするには、限界があるように思われる。

・犯罪と歌とは、反社会的行為かどうかで違いがあるような気がする。たとえば、人を殺すというような犯罪にもこのようなことが言えるのか、言ってよいのか。

・治癒の本質を、歌による意味の生成というのなら、その当否はともかくとして、すでに河合隼雄らが言ってきたこととどう違うのか。



*作成:野崎 泰伸
UP: 20120219 REV:
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