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「ケアマネジメント」について


last update: 20161029


■「ケアマネジメント」について

 19990803 障害学のメイリングリストへ

★ 立岩です。「ケアマネジメント」について。詳しく論ずる余裕
がないのですが。
 例えばまず,誰がそういうものが欲しいと言って始まることにな
ったのか,誰か切実にそれをほしがっている人がいるのか。そんな
ことを考えてみてもよいだろうと思います。

★ 以下御参考まで。

 ヒューマンケア協会ケアマネジメント研究委員会,
 199801
 『障害当事者が提案する地域ケアシステム──
 英国コミュニティケアへの当事者の挑戦』,
 ヒューマンケア協会・日本財団,131p.,1500円

 の後半
 「ケアコンサルタント・モデルの提案──
 ケアマネジメントへの対案として」の「緒言」
 は次のように始まります。

 「第1章では、イギリスにおけるケアマネジメントのシステムに
も言及しつつ、主には厚生省社会・援護局更生課と日本障害者リハ
ビリテーション協会による『身体障害者ケアガイドライン──障害
者の地域生活を支援するために』(1996年3月、以下『ガイドライ
ン』と略)を検討する。★01
 イギリスではケアマネジメントが既に実施されており、そのシス
テムが具体的なものとしてある。私たちは、イギリスのシステムに
ついては、これと同様のシステムが取られた場合の問題点を指摘す
るために、最低限度において言及する。他方で、わが国の『ガイド
ライン』は中間報告として提出されたものであり、まだ具体化され
ていない部分、曖昧な部分があり、それゆえの問題がある。また、
全体として曖昧な中にもいくつか具体的な問題点があり、これを指
摘する。
 この『ガイドライン』を読む人の中には、この中に、「専門職主
導のモデルではなく利用者主体の「生活モデル」」(p.6)といった
表現もあり、「エンパワーメント」「ノーマライゼーション」など
障害者が獲得してきた理念が見られることから、これは悪くないも
のだと思う人がいるかもしれない。また、「ケアマネジメント」が
いわゆる「縦割り行政」の弊害を解消するものであるなら、受け入
れてよいものだと感じる人がいるかもしれない。
 しかし『ガイドライン』には、以下に記すような様々な問題点が
あり、明確にされるべきところが明確にされていない部分がある。
これが解決されないまま、あるいは曖昧にされたまま実施に移され
るのであれば、障害をもって地域で暮らす人、暮らそうとする人に
好ましくない効果を与えうる。私たちはこうした危機感をいだいた。
だから、これを検討し、より問題の少ない、より効果的なサービス
を提供できるシステムを開発する必要があると考えた。
 そして、この『ガイドライン』が障害をもって暮らす人々の生活
の実情を反映したものではないこと、サービスの利用者にとって脅
威となりうるものでさえあることを、もしかすると、理解できない
人がいるかもしれない。もし、ケアマネジメントのシステムができ
たして、そこでケアマネージャーになる人が、この『ガイドライン』
やその延長線上にあるシステムに疑問を感じず問題点を直観する感
覚をもたないなら、このこともまた懸念すべきことである。ゆえに、
以下は、直接サービスに関わる人々やサービス・システムの立案に
関わる行政職の人に対しても書かれるものである。
 第1章における検討を踏まえ、第2章では私たちの対案を提示す
る。サービス供給にあたっての原則を明確にさせるとともに、サー
ビスの利用者の側に立って利用者を支援するケアコンサルタントを
置くことを提案する。この案の基本についてI「基本枠組み」で述
べ、IIでサービス供給の基本原則とシステムを示したのち、III で
ケアコンサルタントを含む支援システムを提示し、IVケアコンサル
タント・システムの具体像を明らかにする。」

 この報告書は立岩が委託されて販売しています。1500円+送料
 です。御注文はEメイルで。
 (『NPOが変える!?』といった報告書はなんだかよく売れる
 (1000部印刷したがほとんど在庫がなくなってしまった)の
 ですが,こういうしぶいのはなかなか…。)

 ちなみにこの報告書の前半は,英国でのコミュニティケア,ケア
マネジメント,ダイレクトペイメント…について。長瀬さん御贔屓
のヴィック・フィンケルシュタイン氏のお話(「コミュニティケア
は失敗している」〜「新しい文化の創造をめざして」といった内容)
も採録されています。

★ もうひとつ。昨年度からはじまった「東京都障害者ケア・サー
ビス体制整備検討委員会」というところ(私も委員)では,国の方
からやってきた,「ケアマネジメント」(1997年に「身体障害者介
護等サービス体制整備支援施行的事業実施要綱」というのが出た)
をどうやって骨抜きにするか&税金の無駄使いにさせないかという
まったくほんとに楽しくなくまったく消耗な仕事をさせられてしま
った。消耗のすえできた「東京都障害者ケア・サービス体制整備指
針」(1999年3月)確定版,私は受け取ってない。明日,今年度の
初会議(今年も委員だ,東京都民じゃないのに)で聞いてみます。
入手できたらホームページに掲載します。

★ 私は,ケアマネジメントであるとか,要介護認定であるとか,
そうしたものが「いるのか」「あってよいものなのか」といった問
いを例えば「社会福祉学」が考えられるところまで考えるのでなけ
れば,その「社会福祉学」は,「障害学」から,「所詮業界の輩が
自らの仕事を確保し増やすために存在するだけのものだ」と言われ
て当然だと思う。私自身は,「社会福祉学」を愛したりしていない
ので,そう言われても悲しくないですが。ただ,そんなことはとも
かく,そういうことを考えないとまずいんだと思う。

 昨年書いた
 「分配する最小国家の可能性について」
 1998/12/30
 『社会学評論』49-3(195)(特集:福祉国家と福祉社会)

 には次のような部分があります。(全文はホームページで読めま
す。)直接には日本における「ケアマネジメント」についての言及
でなく,「判定〜決定」にかかわることですが。(英国の場合,二
者は連続している。このことについては上記の報告書。)

 「■15 判定から逃れようとすること
 次に社会サービスについて。資源をどのように使うかを自分で決め
るといっても,その資源をどれだけ受け取ることになるのか。ここで
は一律に支給するということにもならない。個々の人にサービスを供
給するか否かの決定,そしてどれだけを供給するのかの決定をどう行
うかという問題が残っている。
 自分の金なら無駄に使いたくはないから一定に需要が抑制されるが,
この場合にはそうではない。利用する人の申請通りに認めると,その
人が過度にあるいは不正に使用し,費用が不要に膨張する可能性をま
ったくなくすることはできない。この指摘を否定できない。この可能
性を考慮しないのはたしかに非現実的かもしれない。とすると,「ニ
ーズ」を算定し,評価・査定し,「要介護認定」等々を行うことは避
けられないように思われる。
 しかし,決めざるをえないから決めるとするなら,それは,どのよ
うな生活を基準とし,それ以上は認めないという線引きをすることな
のだから,結局生活それ自体を算定し,査定し,生活のあり方に介入
するのと同じではないか。一人一人の必要が個別的なものでありまた
主観的な要素を含むものだとすれば,それを一定の基準によって測り,
供給量を査定することをそのまま認めることがためられわて当然であ
る。本人の申告に応じて支給する,あるいは実際の利用に対して支給
することは不可能か。
 これもとても大切な主題なのだが,それほど考えてこられなかった。
一歩一歩の前進をようやく認めさせてきた間は,そもそも供給量の上
限が必要量に達していないから,どれだけが供給の上限であるべきな
のかは問題にならなかったということもある。しかし,供給水準が上
がってくるとこの問題は現実のものになる。ところが,この業界には
査定し認定することを少しも疑わない人たちの方がずっと多い。それ
以外の可能性を考えない。そしてそれ以外を考えてみようと言われた
としたら,そんなことは無理だと言うだろう。
 しかし,例えば医療保険については,サービスを受けるに当たって
審査があるわけではない。もちろん医療と福祉とで異なった事情はあ
るが,共通点がないのでもない。こうしたサービスは,あればあるほ
どその当人にとって好ましいというわけではない。費用の転用さえ防
げれば──そのためには利用者に対する直接的な現金支給よりも,選
んだサービスへの支給の方がよいかもしれない──申請の通りに認め
ても問題は生じない可能性がある。また,医療において供給過剰の問
題が生じているのは,供給量に応じて収入を増やせる供給側が決定の
実質を握っていることによる。この問題が生じないような工夫をする
ことも可能である。供給の切り下げへの恐れから多めに申請すること
がありうるが,これに対してはむしろ希望に応じた供給の保障が有効
になる。等々。★21
 監査あるいは審査の類いがまったく不要であると主張するのではな
い。ただ,どんな方法をとっても無駄はある程度生じるだろう。どの
程度の無駄と何とを引き換えにするかである。このように言うと,い
つものように,資源は限られていると言われる。しかしそれがどうい
う意味で言われることなのか,多くの場合明らかでないことは11で述
べた。」

★ 旭さん,その厚生省の役人の発言はなかなか「興味深い発言」な
ので,そのうちお問合せすることがあるかもしれません。そのせつは
よろしく。

 以上,「なんだ長いメイルも書けるじゃないか」と思われたかもし
れない,立岩でした。でも,これは,まがりになりにもこれまで考え
たり,書いたことのあるテーマだからね。だいたい,大部分が引用だ
ったでしょ。では。

                          立岩

  ▲↓このホームページの最初の頁*へ
  *http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm




■補足

 19990809 障害学のメイリングリストへ

★ 立岩です。こないだ書いたことに補足。しょうしょう異なっ
た文脈でではありますが,次のようなことを書きました。(前に
も記しましたが全文をホームページで読めます。最初の頁の「立
岩」のところから。)

 「分配する最小国家の可能性について」
 1998/12/30
 『社会学評論』49-3(195)(特集:福祉国家と福祉社会)

「■13 さらに媒介と弁護を直接に使う
 これに対して,この方法は「自律的な個人」を前提にしている,
そんな人ばかりではない,だから云々,といったことがよく言わ
れるる。前半はある程度は正しく,云々の後は多くの場合間違っ
ている。
 以下を認めよう。第一に,自分でいちいち決めるのは,人によ
って,人が置かれている状況によって,難しいことがある。そし
て面倒なことがある★18。第二に,消費者による選択を可能にす
るだけでその人の権利が確保されることが保障されるのではない。
 これらの事情があることが,利用者による選択という機構を採
用できない理由とされてきた。「福祉の世界」には自律した消費
者たりうるクライエントは少ない。だから,私たちは,その人た
ちの代わりに仕事をしてきたのだ。むしろこうした場面こそが本
質的であり,意志をくみとり代行する仕事が社会サービスの仕事
であり,私達はそれをやっている。弁護する人たちはこのように
言う。
 こうした指摘の過半は外れている──つまり,利用者を見くび
っているだけである──が,それでも全部が外れているわけでは
ない。だが,それを認めることがすなわち従来の機構を認めるこ
とになるかと言えば,そんなことはまったくない。今までつなが
らなかったものをつなぐ仕事,様々に側面から支える仕事は求め
られており,あって当然だが,それは今まで通りの方法ではうま
くいかない。
 ……」

 補足の補足をいくつか。

 1)(少なくともこの国の)障害者運動に自己決定を旗印に掲
げることとそれをためらうことの両方があったこと,そのことを
どう考えたらよいのかについては,拙著および特に昨年かなりた
くさん書いた文章の中に記しました。これは私にとってもかなり
気になり続けてきたことで,相当前に書いた文章,例えば「自立
生活(運動)」というものについて書いたことになっている『生
の技法』という本でも,自立=自己決定という図式は,自覚的に
使っていないのです。この辺りのことについては,昨年あたりの
いくつかの論文そして『障害学への招待』に書いた文章の他,
『福祉社会事典』(弘文堂,1999)中の「自立」「自立生活運動」
の項目を御覧いただければさいわいです(これは出版社に遠慮し
てホームページに掲載してこなかったけれど,掲載してもいいん
じゃないかという気がしてきた。弘文堂の宣伝つきで。)

 2)それと似てもいるし異なってもいるところから頻繁に語ら
れる,「だって自己決定できる人ばかりじゃないでしょ」といっ
た言明については,上記の引用で少し。中身はこの後に続くので
すけれども。「だって自己決定できる人ばかりじゃないでしょ」
に,「うれしそうな雰囲気」があるような気がする,というよう
なことは上記の文章に書いてあるのかないのか…。

 3)「ケアマネジメント」(をめぐる諸問題)については今積
極的に語りたいと思いません(語りだすと,けっこうややこしく,
長たらしくなるのだが,それでそう益があるのでもない…)が,
でもまあそのうち。ということで御勘弁。
 でも,直接関係ないですが,やはり上記論文から。(ちなみに
当事者は,障害をもっている当の人,そして/あるいは,社会サ
ービスを利用している当人といった文脈で使われています。もち
ろん両者は等しくはありませんが。)

 「……しかし,例えば障害をもっていることにおいて同じ「当
事者」であっても,供給側にいる時と利用側にいる時の利害は異
なる。昨日まで指弾する側にいた者たちが,今日は指弾される場
にいることもある。」
 「微妙な状況に置かれているのは,とくに当事者たちの運動で
ある。どの方向でいくのか,当事者自身がサービスの供給や政策
立案過程に加わっていく中で,考えざるをえなくなっている。こ
れはよいことであり,重要なことである。だが,実現するあての
ない大目標を掲げつつ,ものとりに徹してきた今までの運動の方
が気楽ではあったかもしれない。かれらは厄介な仕事を抱えこん
でしまった。……」

★ それはそうと『翻訳語辞典』とかいう辞典で「自己決定」を
担当することになっているのですが,これがいわゆる安請けあい
というやつで,なんにも知りません。なにかご存知の方がいたら
教えてください。(このメイルちょっと長いので,この部分飛ば
されそうなんで,また,別便でお願いにあがります。)

★ 赤松さんが書かれていた<思想,哲学…なき福祉>というの
は,私が思っていることと同じなのかもしれない(違うのかもし
れない。)上に少し引用した論文の表題の中の「最小」という言
葉,またその論文の拡張版として半年くらい書いている(けれど
まだどうにもなっていない)「退屈な福祉国家のために」(仮題)
の「退屈な」という語はそんな意味です。どんな?。アバウトに
言うと,生の方向を定めない,というようなこと。「大切で危険
なQOL」(ホームページで読めます,「立岩」のところさがっ
ていくと99/05/31のところ)といった文章(話したことの再録で
すが)も同じような気分で書いた(しゃべった)ものです。「自
己決定がなんぼのもんか」といったものも。(というふうに最初
の★につながる。)
 しかしそのように思い主張すること自体が,もちろん,あたり
前のことですが,一つの「価値」の表明です。そしてこの水準に
おいては,どんな営みも「価値」や「思想」から逃れることはで
きない。これは好き嫌いの問題でなく必然です。そんなたいそう
なことじゃない。「思想しないこと」も「思想である」「思想で
しかない」といったようなことです。
 ではまた。

                 立岩 真也


REV: 20161029
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