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全国「精神病」者集団ニュース 2001.11


last update:20101204


全国「精神病」者集団ニュース 2001年11月
 
 ごあいさつ
 気持ちのいい秋空に恵まれた毎日ですが。皆様のお住まいの地域はいかがでしょうか?
 戦争が始まりテレビの映像におびえておられる方もいらっしゃるようですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
 前号と少し趣を変えた内容のニュースとなりました。イラストを入れてほしいというご意見もありましたが、手間を惜しんだため、今回は字だけのニュースとなってしまいました。
 読者の皆様で絵やイラストのお得意の方は、文章だけでなく、イラストのご投稿もいただけたらと存じます。
 学校教育法施行令が改悪されようとしています。施行令は国会で議論されることなく文部省内部で勝手に決めることができるそうです。いま現在普通学校に通っている子供たちも「障害児だから」あるいは「対人関係に問題があるから」ということで追い出されようとしています。ノーマライゼーションや人権という言葉だけは流行っていますが、実際にはどこでも「厄介者」と一方的にレッテルを貼られた人間の追い出しが進められようとしています。特別立法、運転免許、そして学校からも、精神医療であれ学校であれ、何か問題があると、その問題と真正面から取り組むことなく、そこにいる患者や生徒の一部に問題の「原因」があるかのような物語を作り上げ、そしてそうしたものを追い出すことで問題が解決するかのような「妄想」を振りまく、本当に精神医療と教育は似ています。いずれも「本人抜きの対策」そして「本人抜きの本人の利益判断」です。
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北から 南から 西から 東から
あなたに
  新潟 A
たとえどんな所に
  いてもやる者はやる
    のですから
あなたのその小さくて 大きな
  努力を
ちゃんと見ている人は
  見ていますよ
たとえ病を持っていても
  たとえどんなに大変でも
あなたは、あなたです
  まじめに頑張っている
あなたを神様は
  ちゃんと見ておられますよ

世界革命戦争宣言
  静岡 小川愛彦
ブルジョアジー諸君
われわれは世界中で君たちを革命戦争
の場に叩き込んで
一掃するためにここに公然と戦線を布告するものである
君達の歴史はもはやわかりすぎている
君達の歴史は血塗られた歴史じゃないか
君達の間での世界強盗戦争のために
我々をだまし
互いに殺し合わせてきた 嘘だとは言
わせない
我々はもうそそのかされだまされはし
ない
君達にアフガニスタンの難民を好き勝
手に殺す権利があるなら
我々にも君達を好き勝手に殺す権利が
ある
君達にブラック・パンサーを殺し
ゲットーを戦車で押しつぶす権利があ
るなら
我々もブッシュ・小泉・明仁・シラクを
殺し
ペンタゴン・防衛庁・警視庁・君達の家々

爆弾で破壊する権利がある
君達に琉球の民を銃剣で刺し殺す権利
があるなら
我々にも君達をナイフで殺す権利があ

いつまでも君達の思い通りになると思
ったら大間違いだ
君達の時代はすでに終わった
我々は最後の戦争の為に
世界革命戦争の勝利の為に
君達をこの世から抹殺する為に
最後まで戦い抜く
我々は自衛隊・機動隊・米軍諸君に公然
と銃を向ける
殺されるのが嫌ならその銃を後ろに向
けろ
君達をそそのかし後ろであやつる豚ど
もに向けて
我々を邪魔する奴は障害者を除き容赦
なく抹殺する
世界革命戦争宣言をここに発する
(原詩は上野勝輝さん。小川が少しだけ手を
加えました)
 
精神障害者の雇用の促進について
  長野 KT
 坂口厚生労働相は、障害者雇用促進法において法定雇用率を算定する際に精神障害者が入っていないことについて、「精神障害者の雇用を採り入れることを前提に、どう進めるか検討している」ことを7月8日岐阜県大垣市でのタウンミーティングで明らかにした。
 現在、障害者の法定雇用率は1.8%以上と定められている。
 障害者人口は身体障害者317.7万人(人口比2.5%)、知的障害者41.3万人(同0.3%)、精神障害者217.0万人(同1.7%)である。従来のレベルを維持する法定雇用率を単純に人口比から計算すれば「2.9%」となる。
 この数字はぜひ守りたい。
 仮にこの数字を前提に話を進めるが、更に、障害者雇用の偏りを防ぐため、2.9%を義務付けた上で、障害者の人口比に応じて、身体障害者1.6%、知的障害者0.2%、精神障害者1.1%と、それぞれの障害別に法定雇用率を定めるべきであると考える。
 ただし、精神障害者には「かくれ精神障害者」が少なからず存在する。このことを考え、精神障害者の法定雇用率は上記に述べた数字以上の数字とすべきである。
 また、現在、障害者雇用促進法においては雇用義務を果たさなくても罰則は無く、制度として十分機能していない。雇用義務は果たさない企業には罰則を設けるべきであると考える。
 しかし、精神障害者の雇用促進については、雇用促進法を改正するだけでは不十分である。
 現在、多くの企業の就業規則において、「精神病に罹患した者は就業させない(休職させる)」という規定があり、更に精神障害者は休職期間を過ぎれば労働能力如何を問わず、無条件に解雇されている実態がある。就業条件における精神障害者差別規定等は雇用促進の障害となり、禁止すべきである。
 更に、労働基準法にも問題がある。
 労働基準法第3条は「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱いをしてはならない。」と定めているが、これは差別してはならないのは「国籍、信条、社会的身分」を理由として、であると限定的に解釈されている。これが就業上の差別規定をも正当化し、障害者の雇用促進を図るうえでの障害になっているのである。憲法第14条第1項においては「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定めている。憲法における例示(人種、信条、性別、社会的身分、門地)はあくまで例示であり、憲法はすべての国民は平等であり差別されないことを定めているのである。また、「法の下に平等」とは法の定立に当たってその内容そのものにおいて人を差別してはならないという意味を含む、と解釈されている。
 労働基準法の改正も必要である。
 そのほかにも障害者の雇用を防げる法令はあるであろう。
 小泉政権の下、弱者の失業を前提とした「構造改革」が進められようとしている。
 放置すれば障害者は真っ先に解雇の対象となる。現状においてもそういった話を聞く。
 精神障害者の雇用を守るための諸制度の改正は急務であると考える。
 
  仲間のメディア紹介
 「エポック」という精神障害者に対する偏見のない「新時代」という意味の新聞を作っています。詩や思っていること短歌など原稿も募集しています。その場合ペンネーム実名でいいかなど書いてください。
 「エポック」ご希望の方は80円切手を同封してお申し込みください。
 申し込み先
 〒059ー0905 北海道白老郡白惡老町大町4ー1ー7
  笹原美香子様
 
連載(1)
充実した日々を送るために病気と共存という視点に立ちそのなかで新しい生き方を考えよう

  大阪 Y
目次
1ー1 最初の発病にいたるまで
1ー2 最初の発病で感じたこと
1ー3 必死に生きようとした日々
2ー1 2回目の発病のきっかけ
2ー2 薬を飲まない日々とその理由
2ー3 何度も再発するなかで
2ー4 薬を飲む決断から道が開ける
3ー1 共存という視点に立とう
3ー2 前向きに考えることから
3ー3 現在の活動と生活
3ー4 全体を振り返って思うこと
1ー1 最初の発病にいたるまで
 幼い頃の僕は、視力がとても悪く、いつもそのことに劣等感を感じていました。また、口下手で、小学校のときは、話すときによくどもっていて。それらの影響から、勉強するときは、常に一番前に席を置いてもらってました。また中学校1年ぐらいまでは、クラスの役員ひとつさせてもらってなかったと思います。そうしたなかで、いつも後ろ向きの考え方をしていたように記憶しています。
 中学2年のとき、とっても好きな人ができて、その頃から、少しずつ前向きに考えることができるようになったと思います。
 しかし、英語がどうしても苦手で、クラスで最低点ばかりだったりとかでした。といっても、外の教科はそれなりにできていたように思います。でも、英語のことがあり、工業高校に進学することにしました。
 高校生活は、かなり活発で、工業高校に入ったということもあり、成績が上位でしたから、クラスの役員とかにも何回もなりました。またクラブ活動では、1年の終わりごろから、以後将棋クラブの部長として、大会とかにも参加しました。2年の途中からは、生徒会役員にもなり、書記として、生徒会新聞とかを発行したり、他の高校との、交流会とかにも積極的に参加していた思い出があります。
 しかし、視力悪く、常に少しの劣等感は持っていて、そんな中、就職試験に最初落ちて、どうしようもなく眼科を変え、コンタクトレンズにしてから、ある程度見えるようになり、就職できました。
 けれど、就職してからすぐ、その企業が不景気になり、半年目から半年間よその会社に出向しに行きました。そして希望退職があり、転職しました。
 転職先では、交代勤務がありましたが、仕事はそれなりにしていて、職場の勉強会とかも、積極的に参加しました。そんななかで、神奈川県の本社に転勤しました。それからしばらくは、自然にできていたのですが、交代勤務で、寮生活の毎日の中、眠る時間が短くなり、だんだん眠りにくくなってきて、その上に、昔苦手だった英語を、当時小田原から横浜まで通い勉強してました。若さもあったのですが、眠れなくても、仕事は自然にできていたように思います。
 しかし、1日3時間ぐらいの睡眠が、8ヶ月ぐらい続いた後、幻聴幻覚が見えてきました。具体的には、未来の新聞を読むような幻覚がありました。あとで話しますが、阪神大震災なども、日時や、死者の数までこのとき知らされていて、そうしたこともあり、また、明るい未来についても、いろいろ知らされていたように思います。そしていよいよ眠れなくなり、入院の数日前からは、行動までおかしくなりました。
 そんな中、最初の入院の、前の日までは、仕事をしていたのですが、昭和63年6月17日、最初の入院を、上司と父親に付き添われてしました。
 当時を振り返って、周りから見たら自分はすごく異常だったと思います。しかし、自分が病気であることには、全然そのときは、気がつくことはできませんでした。4日間ほど眠り続けて、気がついたときも、自分がどこで何をしているかなんて、判断できていなかったと思います。こうして、最初の入院が始まり、5回のなかで一番長い、8ヶ月半の入院生活を体験しました。
 今では懐かしい思い出ですが当時は必死だったと感じています。
1ー2 最初の発病で感じたこと
 入院してから、1週間ほどは、保護室に入っていました。そのあと1ヶ月は、自分自身を振り返ったとき、かなりそう状態だった上に、自分がどこで何をしているかという判断が、まったくできていなかったように思います。そうしたなかで、薬が増えていき、気がついたときには、言葉が話せないような状態まで、薬で抑えられて、ようやく冷静な判断が少しずつですができるようになっていきました。
 この後元気がなくなったこともあり、元気の出る薬を追加されて、先生から、そのときの状態をつけられたように記憶しています。そして薬について、3ヶ月入院したら、最低でも3年は、薬を飲まなければいけないということを告げられ、これから薬を減らして調整に移りますということを告げられて、薬を減らしてもらった途端、薬の反作用から、身体がおかしくなり、ほんの数日で、トイレすらいけない状態になり、先生から、薬を減らさない状態で、退院に向けて調整するので、もう少し退院を伸ばしますと告げられました。
 一定期間が過ぎて、退院が迫った頃、今度は、退院に対するプレッシャーから、うつになり1日トイレにもいけない状態になりました。そうした経過があり、退院の予定が伸びて、注射などの応急処置などで、すぐある程度回復しましたが、退院に対する不安がでて、その不安の解消のために、自分でリハビリメニューを、社会復帰センターに加えて作り、1日に縄飛び1000回以上(200回を5回以上)歩行訓練30分以上毎日することを続けました。
 また入院中は、すばらしい看護婦さんがいて、当時、僕が入院して2週間目から入られた看護婦さんですが、僕の担当で、長い日は半日以上、短い日でも1時間以上ぐらい、いつも傍らにいてくれました。そのため、小田原で入院していたのですが、さびしくなかったように感じています。その看護婦さんはいつも僕に、物事に対して、いろいろな方向から見て考えることが必要で、10人いたら10通りの考え方があるから、自分の意見を通すだけでなくて、人の意見を聞くことが大切だということを、いろいろな角度で話してくれたり、僕の意見をいつも聞いてくれました。退院の日に、彼女が休みで、最後の日にありがとうといえなかったことが、今でも心残りです。
 最初の入院では、この看護婦さんに会えたことで、病気に対する絶望の考え方ではなく、立ち直って頑張って生きていかないといけないという、勇気を与えてもらったように思います。入院したことは、周りから見たら不幸だったかもしれないけれど、ひとつの出会いで、僕はその後何度もある絶望という危機を、乗り越えられるだけではなく、それを人生の勝てとして考えるような、前向きな考え方ができるようになるきっかけを与えてもらったように感じていて、振り返ってみて、幸せだったんだと記憶しているのが現実です。
 精神病について、このときから、前向きに考えるきっかけが芽生えて、その後の体験を通して、その考え方が少しずつ成長して、何度も挫折しましたが、また立ち上がり、自分を見つめなおしながら歩んでいこうと考える土台を、成長させていけたのだと感じています。
1ー3 絶望のなかで
 退院して、10日間ほど休んだ後、福知山に帰り、会社に復帰しました。しかし、精神病で入院していた僕を、受け入れてくれる部署がなく、無理やり通して仕方なく、出荷作業の仕事場で、雑用を命じられていました。
 ここであえていいますが、僕は1日32錠の薬を飲んでいましたし、それまでは入院生活が長く、仕事場で立っているだけでも、8時間というのは、想像を絶するぐらい苦しかったです。それでも最初のうちは、周りが大目に見てくれたので、仕事場に行っても、苦情は言われませんでした。しかし2ヶ月目ぐらいからは、仕事がまともにできない僕は、周りからの攻撃の的でした。
 振り返っても気持ちが悪く、そのときの会社の人を見ただけで、今ですら気持ちが悪いんです。自殺を何度考えたかなんて分りませんし、なぜ自殺しなかったかの方がずつ減らしていってもらえる薬が、なんともいえずしか不思議なんです。3年間ほどは、本当に地獄にいたように思います。
 嬉 なぜ必死に食らいついていけたかというと、あの看護婦さんを思い出して、死ねなかったのと、3ヶ月に一錠ったです。
1ー4 必死に生きようとした日々
 そして、薬が減るたびに少しずつ元気になっていく自分自身を、いつも誉めながら、いろいろなことに挑戦していきました。
 手話サークルに戻り、宗教を勉強して、詩を書いたり川柳を書いたりとかもして、詩集なども作ったり、会社での屈辱的な自分を、少しずつプライベートな面で盛り返していきました。
 そして4年目ぐらいに、周りの人の3分の1ほど仕事をさせてもらえるようになりました。その頃に、会社の発表会や、社会外でのQC発表会で、発表者として前にでた体験とかもあります。そうしてある程度仕事ができるようになり、薬も十分減ってから、転職しました。
 その時の薬の量は、今と同じぐらいだったように思います。レベル的には分りませんが、1日1回寝る前に2錠まで減らすことができました。
 ともかく6年以上かけて減らしていったんです。砂をかむ思いを何度も何度も繰り返しながら、今でもあの一歩一歩を振り返ったら、涙が出てくるんです。
 あんな体験は繰り返したくありません。
 この病気になって、普通に8時間働いて続けている人を見ると、尊敬します。あの苦しみを乗り越えることは、並大抵では無理だということを、身体が覚えているんです。
 その後いろいろな体験がありますが、あのときが一番つらく苦しかった日々です。
1ー5 薬を減らしてもらえた理由
 ここで客観的に見て、薬を減らしてもらえた理由を書きます。
 一つ目には、ドクターとの関係がよかったことです。最初は毎週通院していました。
 その後2週間に1度になり、月に1度に減りましたが、常にドクターとの診察を欠かしたことはありません。その中にいろいろなことを報告していたことが大きいと思います。
 二つ目が、薬を減らしてほしいことを切実に訴えたことです。ドクターとの関係がいくらよくても、減らしてほしいということを伝えなければ、薬を減らしてもらうのは無理です。僕はどうしても薬を減らしてほしいと、切実に伝え続けたことが、減らしてもらえた理由の二つ目です。
 三つ目が、減らしていく過程において、発病しないで、常に仕事を続けていっていた現実です。最初の発病から七年間は、再発していません。薬もきちんと飲んでいましたし、カウンセリングも受けて、仕事も続けていましたから、ドクターも少しずつ減らすことには抵抗がなかったのだと思います。
 四つ目が、減らすことにあせらなかったことです。最初から常にドクターの支持されるペースで、7年かけて、3ヶ月に一錠平均でしか、減らしていっていません。減らすことを急がないで、少しずつ様子を見ながら減らしていったから、減らしていけたのだと思います。
 5つ目が、人間関係でのトラブルが、ほとんどなかったことです。その間父親は死にましたが、葬式とかも無事に過ぎましたし、友達関係もうまくいっていたように思います。このことがとても大きかったです。
 こうした要因が重なり、運もよかったと思います。薬はどんどん減っていきました。
 もしこの期間がなかったら、薬は減ってませんし、今の安定は考えられません。
 精神病で、薬を減らすことは、簡単なことではないのです。根気よく一歩一歩進まないと減りません。僕自身、7年かけて減らしていったんです。それは一歩一歩の積み重ねであり、一度に減っていったのではないのです。
 これから薬を減らしていきたい人も、どうか根気を持って、少しずつあせらないことを心がけてください。そして何年かかけて、ドクターと相談しながら、考えていってください。道は開けると思います。
 
転載
 解放出版社が差別記事を掲載した写真誌を発行した件について、「大精連ニュース」62号より転載いたします。
 
精神障害者差別を助長する記事を掲載した写真誌を発刊した解放出版社を糾す
  ぼちぼちクラブ編集局
 被差別部落問題を中心に人権問題について図書を発行している解放出版社(〒556ー0028 大阪市浪速区久保吉1ー6ー12 http://www.blp.co.jp/)が昨年、人権の目で見る写真誌「hunet」(ヒューネット 2000年10月18日発行)を発行した。
 記事は、総論部分と個別事件を扱った各論部分から構成され、6ページにわたって精神障害者に対する差別と偏見を助長する主張が展開された。
 ぼちぼちクラブでは、2000年12月20日に、解放出版社と話し合いを持ち、文書と口頭で、「抗議と要望」を行い、解放出版社からの回答を持って2度目の話し合いを持つことになった。
 それに対し、2001年4月上旬に回答書が送付されてきたが、なぜこのような記事を掲載するに至ったかについての事実経過と今後このようなことを二度と起こさないための手立てが具体的に示されておらず、2度目の話し合いを持つにいたっていない。
 ここで、精神障害者に対する差別記事、有田芳生「『17歳』差別意識と犯罪までのディスタンス」の一部を紹介するとともに、ぼちぼちクラブがこの記事に対して行った「抗議と要望」を掲載する。
 
解放出版御中
2000年12月20日
 大阪精神障害者連絡会(ぼちぼちクラブ)
  代表 塚本正治
 大阪市東成区今里1ー15ー22
 電話・ファックス 06ー6973ー1287
「Hunetvol.1」における精神障害者に対する偏見と差別を助長する記事に関する抗議と要望
 貴団体におかれましては、人権社会と人権文化の創造にむけご奮闘のことと存じ上げます。
 私たち、大精連は1991年より準備会をはじめ、93年に正式結成し9年にわたる「障害当事者の当事者による当事者のための活動」を積み重ねてきました。そのなかで「たけしのTVタックル差別発言事件」をはじめ精神障害者に対する偏見や差別と抗ってきました。
 貴誌の「Hunetvol.1.1における特集1差別社会と少年.17歳差別意識と犯罪までのディスタンス.有田芳生氏著.P11ー16」に対して、私たち精神障害者はひどく憤っています。
 それは、この記事が@精神障害者に対する社会的偏見をはじめ差別の現実をなんら見つめることなく少年事件を評論することで精神障害者に対する社会的偏見と差別を助長し、A「学校ー家庭ー医療機関が日常的に連携をとる必要がある」(P12 4台6行目)と主張し「少年事件防止のために精神医療を手段化しようとする社会防衛的で危険な主張」が展開されているからです。
 有田氏の各事件での展開を見てゆくと、
1.加害者、被害者とも実名が掲載されています。実名を掲載する根拠も明らかにされておらず、人権の視点が大きく欠落しています。(京都小二殺害事件.12P、愛知県豊川主婦刺殺事件.13P、ほか)
2.少年事件と精神疾患との具体的な関わりを一切示すことなく、「精神科の通院歴」が書かれており、「精神障害者は何をするか分らない、危険な存在」という精神障害者に対する社会的偏見を明らかに助長しています。
3.「精神鑑定」「精神分裂気質」「人格障害(13P)「解離性障害」(15P 下段)などの擁護が何の説明もなく、ましてや批判的・疑問的な視点もなく使用されており、精神障害者に対する社会的偏見を「専門性」を装い助長するという悪質なやり方です。
4.それぞれの少年事件について「貴誌の主旨」に沿うならば、反差別・人権擁護の視点から丹念に取材し、事件の本質ー社会的背景に迫る記事を掲載することが社会的使命であるにもかかわらず、そのような形跡が見当たりません。
 有田氏の文章に対する憤りとともに、このような精神障害者に対する偏見と差別を助長する記事を掲載し、全国的に販売している解放出版社の社会的責任は大きく、「人権教育・啓発法」の定義や基本理念すら踏みにじり、自ら「人権の視点」を投げ捨てていくものと憤りを持って考えざるをえません。
 以上を抗議とし、以下の要望をします。
1.出版社として、有田氏の文章掲載にいたるまでに事実経過を明らかにしてください。
 ・出版社編集サイドは、貴誌においてなぜ少年事件を取り上げようとし、どのような議論がなされたのですか。
 ・その上で出版社は、有田氏にどのような趣旨の原稿依頼をしたのですか。
 ・出版社は有田氏の記事についてどのように評価し、掲載することになったのですか。
2.出版社として、精神障害者に対する社会的偏見と差別を助長し、精神医療を社会防衛の手段とする記事を掲載したことについて、どのような見解を持っているのですか。具体的な詫びと償いを明らかにしてください。
3.出版社として、私たち精神障害者と有田氏の話し合いの場を作るのが、差別記事を掲載した側の義務です。文章当事者との話し合いの場を設定してください。
  以上

京都小二殺害事件
 九九年一二月二三日、京都市伏見区の日野小学校で事件は起きた。校庭で遊んでいた 君が、近づいてきた小柄な男にいきなりナイフで刺殺されたのだ。数十人の子どもたちがいるなかでの凶行。目撃証言から犯人は中学生ではないかとも報じられたが、警察は遺留品の自転車購入ルートから、宇治市のビデオショップに登録していた二一歳のを早くからマーク、行動確認を続けていた。
 京都府警は年が改まった二月六日早朝、岡村に任意同行を求め、公園で説得していたが隙をついて逃走されてしまった。岡村は近くのマンション一四階から「自殺」。逮捕状を取りに行っているあいだに起きた「自殺」だったこと、公園での説得など捜査上問題があったという指摘も多い。捜査員が追いつめるなかでの事故死だったという見方も払拭できない。
 自宅からは、犯行を示唆する手紙などを押収。高校を中退したかったのに卒業させられたことへの恨みが書かれていた。この母校の対応への反撥を、なぜか大阪府内の高校に送るなど、その行動には理解不可能な点も多い。
 犯行声明文で名乗った「てるくはのる」とは、名言名句辞典の索引末尾の一字を左からつなげたものだとわかったが、なぜ 君だったのか、など細かい動機は闇のなかに閉じこめられてしまった。
 遺族となった     さんは「聞け、"てるくはのる"よ」(新潮社)を出版。ここには  容疑者の兄の証言によって、精神科に通っていたこと、家族に自殺をほのめかしていたことなどが明らかにされている。
 さらに「犯行告白文」「証拠の手紙」もはじめて公開。「その事件は僕が犯人だと確認してほしいのです」などと髪の毛や血のついた爪などを残していたことが書かれている。  さんは警察、検察にこうした証拠類を被害者家族に開示することを求めてきたが、法の壁が阻んでいる。
 
シンポジウムへのお誘い
  「海外の精神保健福祉に学ぶ」
※日時:2001年11月11日(日)
10:00?17:00(9:30開場)
※会 場:久留米市総合福祉センター
※参加費:500円
※定 員:90名
※報告 「三者三様の体験から」
「欧米のユーザー活動に触れて」
話し手: 長野英子 さん
「デンマークにおける個人主義」
話し手: 小笠原嘉祐 さん
「ニュージーランドの友人たち」
話し手: 新開貴夫 さん
主催:ニュージーランド報告会実行委員会
問い合わせ先:新開(090ー5020ー2066)
※夜9時以降にお願いします。
 
水が、流れゆく
  東京 神谷麻衣
 その瞬間は、まるで"水"が流れるようにして起きた。
 それまでの苦しみや痛みが嘘のように、全身に水が駆けめぐるような、何かから解き放たれたような感覚があった。
  第1子出産から13年目の今年。二度目の妊娠が判明してから13日目。
 私の中でおきた、初めての"死"だった。
 流産が、自分の中で起きた"死"であることに気づいたのは、流産してから2週間ほど経てからである。
 それまでは不思議なほど、悲しくなかったし、友人の僧侶がお経を詠んでくれたときも、涙ひとつこぼれなかった。
 今思うと、悲しみの感情を抑圧していたのかもしれない。
 おじいちゃん子だった私なのに、祖父が死んだときも私は泣かなかった。人目をはばからず遺体に取りすがってなく母を見て、「あんなに祖父に虐待されていたのに、なぜ母は泣くのだろうか」とクールな眼で見ていた。
 私に悲しみが訪れたのは、それから1ヶ月後の老人ホーム自習で、ベッドに横たわる祖父と近い年齢の老人たちと会ってからだった。
 それまで、自分の中のどこにそんな感情がしまってあったのか、と思うくらい人前で泣いた。それが第1子が産まれた同じ年の13年前だった。
 15年ほどヘルパーという仕事をしてきたせいなのか、育った家が祖父の開業する診療所で、いつも病気や死と隣り合わせだったせいなのか、私にとっては"死"はいつも"解放"と同義語なのだった。
 長く患った寝たきりや末期ガンの患者や家族にとって"死"は"解放"であるという意識が、私には強かった。昔の医者だったからなのか、彼の死生観によるものなのかは今となって走るすべもないけれど、祖父は、無理な延命治療を嫌っていて、なるべく患者が自然に死ねるような治療方針をもっていたようだ。必要以上の点滴をしないで自然に枯れるように、最後の命の炎が燃えつきるのを待つ。それが祖父のやり方だった。
 切迫流産になりかかっているといわれ、流産止めをもらって、絶対安静を言われてた私であったが、安静が保てるような状況にはなく、結局、受診して4日後に流産した。
 木曜日に受診したときは、子宮頚部に、2つの大きなポリープとびらんが認められ、切迫流産がおさまり次第、そのポリープの切除手術をすると初診時の医師は診断した。
 ポリープ手術を回避したかった私は、かかりつけの東洋医学治療の友人に連絡し、対処方法をあおいだ。彼女からは、断食と玄米スープ他、食養生をしてみることをすすめられた。1日半、断食したが、全身のエネルギーが抜け、頭に血が上り始めたので、断食を中止し、食事を摂った。
 そのほか、二人の友人に頼んで、遠隔治療(ヒーリング)をしてもらった。遠隔治療とは、離れた場所から治療エネルギーを送る方法で、施述者(ヒーラー)の学んだやり方によってさまざまな方法がある。
 自分自身では、温灸や家族による手当てを必死でやっていた。それでも3日目の土曜日の朝には、出血が増えてきたので、これはもうダメかもしれないと覚悟を決めた。
 二人の友人が遠隔ヒーリングをしてくれているのに、出血するということは、きっと流産したほうがよいということなのだろう、と思った。流産から私が学ぶべき何かがあるのかもしれない、と。
 出血は止まったり、多くなったりしながら日曜日に持ち越した。連絡を取った病院の医師から「流産が始まったら、もうとめることはできないから、なるべく出きってしまってからのほうが手術しなくて済みますよ」と言われたので、できるかぎり自分の力で流しきってから病院に以降と決心した。
 大量の脂汗と出血で、何度も着替え、シーツ交換した。布団までじっとり湿らせるほどの脂汗を、かいてかいてかきまくった日曜の夜、その瞬間が訪れたのだった。
 4日間の格闘の末に。
 子宮のなかで"パン"とはじけるような体感が会った。そして、ザーっと水が流れるように、身体が解放された。痛みではなく、その瞬間だけは、気持ちよいという感覚だった。
 翌日、受診して処置を受けた。自然に排出したものは胎盤だったようで、胎児は子宮口にひっかかっており医師が取り出した。
 頑張った甲斐あって手術はせずに済み、いまどき珍しい自然流産だといわれた。
 子供は8週目くらいで、もうすでに人の形になりかけていたらしい。
 流産はしたが、子宮頚部にあったポリープは形跡もなく消えており、医師から、誤診か見間違いであろう、と言われた。そのときは所持していなかったが、しっかり証拠写真もあるので、ポリープは4日の間で消えたことになる。断食と遠隔治療と温灸によって、奇跡的に消えたのであろうが、医師にはそのことは伝えなかった。
 妊娠が分ったことで、それまでに飲んでいた向精神薬を中止することができ、ポリープも消すことができた。妊娠もあきらめていたし、薬も、もう一生の付き合いで、やめることはできないだろうと思っていた。
 自分がかかわったクライエントが、向精神薬の長期服用による副作用でパーキンソン症候群になっているのをまのあたりにしていた。どうにかして薬をやめたいと、他の治療法も同時にやりながらの闘病であったけれど、やめるとリバウンドがあって、かなりきつい状況になるので、やめては飲みの繰り返しだった。
 今回、流産することによって、今までの薬の蓄積も流れたのだろう。珍しくリバウンドがなく、医師からも、せっかくだから薬を復活せずこのペースを保っていこうといわれた。
 赤ちゃんは天からの授かりものだといわれる。私にとって、今回の妊娠は"恩寵"という表現が一番ぴったりくる。
 私は、妊娠というのは偶然の所産でなく、ある種、宇宙的なエネルギーの産物であると思っている。第1子を妊娠したときもそういう感覚があった。
 第2子は、いわば母の長年の身体の毒気を浄化して、天に還っていったといえる。
 今、こうして、薬を飲まず、何とかやっていられるのは、あるひとつのいのちの芽吹きが、私に与えてくれた癒しを感謝しているからだ。
 第1子は、日々成長という"生"の表現をもって、私を癒し、第2子は、自らの存在の"死"と引き換えに私を癒してくれた。
 女性の新体制というものは、生み出す存在であると同時に、"死"を常にはらんでいるのだと初めて気づく。毎月ある月経も、着床しなかった卵細胞の"死"であるともいえる。
 "いのち"は、どんなに努力しても何かの犠牲の上に成り立ち、生き長らえている。
 多くの"死"によって成り立っている。
 私が"死"と成りえている第1子の存在も、実は日々の奇跡の中で、成り立っている。改めて、困難な環境のなかで、無事育ってくれている中学生の息子の存在が有り難い。
 妊娠した女性の半分近くが流産していると聞く。しかし流産に対する情報はほとんどなく、ケアもない。出産に対するケアは前よりはよくなってきている部分もあるのだろうが、多くの女性が、ひっそりと流産し、ひっそりと中絶している。
 自然の力が妊娠の継続を阻んだにしろ、女性の意思が妊娠を継続しないと決定したにしろ、無事、出産までこぎつけたにしろ、どれも平等にケアされてしかるべきものだったと私は思う。
 今回、私は流産したことによって、流産を経験している女たちと出会うことができた。何とそれは、私に遠隔ヒーリングをしてくれたり、長いこと私を治療してくれている友人たちだった。
私たちは 出会ってゆく
悲しみの中でも
いつも そこで 出会っている 彼女たち
奥深く まだ 出会っていない
新しい 彼女たちへとー
追記
 流産後、自宅を解放し、私にケアをしてくれた私の親友のことを誰よりも書きたかった。だが、特筆すべき彼女に関しては、流産後の3日間のことだけでも、一つのエッセイが書けてしまうので、次号に寄稿できたらと思っている。
 
窓口から
☆例会日程

10月例会
 10月27日(土)、28日(日)
12月例会
 12月22日(土)、23日(日)
 10月例会は京都事務所。12月例会の場所は未定です。事務局員が参加できないため、何らかの組織的な決定はできませんが、保安処分のことなど政治的な問題だけでなくそれぞれの地域や個人の抱えている問題などいろいろと出し合えたらいいと思います。
 参加なさりたい方はファックス、メール、電話でご連絡くださいませ。場所その他をご案内いたします。
 全国「精神病」者集団ニュース読者の「精神病」者はどなたでも参加できます。
 
☆窓口係山本真理入院予定
 まだ日程は不明ですが、10月末より11月半ばまで、窓口係の山本は入院を予定しています。したがって資料請求やお手紙への返事がその間と滞りますので、お含みおきくださいませ。
 
☆ニュース前号の号数は間違い
 ニュース前号はvol.27No.4と成っていましたが、これは番号の付け違いで、正しくは前号はvol.27No.5です。


*作成:桐原 尚之
UP: 20101204 REV:
全文掲載  ◇全国「精神病」者集団 
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