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『週刊/ALS患者のひとりごと』2007

佐々木 公一

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last update: 20190217


◆2007/01/04 『週刊/ALS患者のひとりごと』200
 ALSのリハビリテーション
◆2007/01/22 『週刊/ALS患者のひとりごと』201
 受験
◆2007/02/12 『週刊/ALS患者のひとりごと』202
 産む機械と石原都知事と優生思想と
◆2007/02/23 『週刊/ALS患者のひとりごと』203
 文字盤受験物語/合格しました
◆2007/03/13 『週刊/ALS患者のひとりごと』204
 「うらやましい」
◆2007/03/24 『週刊/ALS患者のひとりごと』205
 「五年二組のみなさん、こんにちわ」
◆2007/04/02 『週刊/ALS患者のひとりごと』206
 ごあいさつ/あいあい研修会
◆2007/05/07 『週刊/ALS患者のひとりごと』208
 ご挨拶/還暦・入学祝
◆2007/05/21 『週刊/ALS患者のひとりごと』209
 「『生きる力』贈呈の添文」
◆2007/06/25 『週刊/ALS患者のひとりごと』210
 少し長めのご挨拶/新潟県支部総会
◆2007/07/02 『週刊/ALS患者のひとりごと』211
 ご挨拶/わの会総会
◆2007/07/15 『週刊/ALS患者のひとりごと』212
 老人と尊敬
◆2007/07/24 『週刊/ALS患者のひとりごと』213
 ボールの気持
◆2007/08/03 『週刊/ALS患者のひとりごと』214
 参議院選挙雑感
◆2007/08/12 『週刊/ALS患者のひとりごと』215
 義母をALSの告知さえせず死なせた医者
◆2007/09/05 『週刊/ALS患者のひとりごと』216
 呼吸器切り替え入院
◆2007/10/01 『週刊/ALS患者のひとりごと』217
 たばこづくり/昭和20年代の終り頃
◆2007/10/03 『週刊/ALS患者のひとりごと』218
 むかし 桑のトンネルを毎日歩いた
◆2007/10/10 『週刊/ALS患者のひとりごと』219
 新しい呼吸器と旅して
◆2007/10/20 『週刊/ALS患者のひとりごと』220
 15才おめでとう/結一郎へ
◆2007/11/10 『週刊/ALS患者のひとりごと』221
 健康とはなんだろう
◆2007/11/24 『週刊/ALS患者のひとりごと』222
 東海大学現代教養科目社会基礎論のみなさん
◆2007/12/05 『週刊/ALS患者のひとりごと』223
 ヘルパーの賃金



 
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   第200号                         2007年1月4日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
    今日は/お世話になります
 発行 佐々木公一   ブログ http://blog.livedoor.jp/alsinfo/ ホームページ http://www.arsvi.com/w/sk13.htm  メールアドレス hamu@shikoku.interq.or.jp

ALSのリハビリテーション

 リハビリテーション本来の意味が/権利の回復/である(患者学のすすめ)ことを知って、ショックを受けました。ジャンヌ・ダルクのリハビリテーションという言葉もあるそうです。イギリスの教会が「ジャンヌ・ダルクの『魔女判決』を撤回、教会に復帰、そして真の権利の回復」とすでに上田敏先生(リハビリ医)が紹介されています。

 前から気になっていたのですが、ALS患者のリハビリテーションについて、現在使われている意味の身体機能の回復でさえ、ほとんどされていないことです。ましてや本来の意味のリハビリテーションは、まったくされていません。もし「あなたはどんな新しい人生をつくりますか」と問いかけられていたら、そしてもしリハビリテーションチームと共有できる目標をもつことができたら、ALS患者の人生は、ずいぶん変わるだろう、と思いました。

 仲間のリハビリテーションや介護の現状が、気になります。/まともなリハビリ(リハビリテーションチームの存在も含めて)/を受けているALS患者は、どのくらいいるのでしょうか。いま生きている患者が7000人もいてこの現状というのは、どこかおかしいと思いませんか。ALS患者の医療、リハビリ、介護などの記録を、統計学的に整理し、推計学的に有意義性の確認をして、共通する項目を引き出し、法則化することは、可能だと思いませんか。

 という訳です。皆んなで協力すれば素晴らしい仕事ができるかもしれません。(仲間への手紙)

障害者が外に出る時、社会が変わる
 私のALS仲間に、北谷好美さんという素敵な女性がいます。娘さんの授業参観などで行くたびに学校が変わります。バリアフリーが広がり、ついにエレベータもつきました。
 私も介護についてもっと勉強する必要性を感じました。それで東海大学大学院(社会福祉学部)を受験します。車椅子で、呼吸器で、文字盤でというのは前代未聞だそうで、特例がいくつも生まれそうです。様々なバリアフリーが広がりそうです。

 障害者、患者が発信し、外に出る時、社会は変わるようです。

 昨年わの会のとりくみはデイサービス、ヘルパーステーション、ネットワークわの会など、引き続きその『わ』を広げてきました。新しい年皆んなで話し合いながら利用者、患者、仲間たちが、「外へ」「前へ」向かう活動をすすていきましょう。
 人の助けを必要としない人びとをスタンダードとする社会、しかもそれぞれの人生の人の助けを必要としない時期をスタンダードとする社会は、その根本のしくみが、間違っているのですから。
わの会ニュース新年号より

 あとがき ご報告が、遅くなりましたが、忌引き(母他界)により年末年始のご挨拶を控えさせていただいております。本年もどうぞよろしくお願いします。昨年は個人的には激動かつ超多忙な一年、ただわの会活動や息子とのキャッチボールなど、不十分なこともたくさんあり、反省こめて新しい年がんばります。引き続きご指導よろしくお願いします。受験勉強ですが、社会学や心理学などこれまで無縁だったから新鮮かつ難解です。よい報告が出来るようがんばります。



 
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   第201号                         2007年1月22日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
    今日は/お世話になります
 発行 佐々木公一   ブログ http://blog.livedoor.jp/alsinfo/ ホームページ http://www.arsvi.com/w/sk13.htm  メールアドレス hamu@shikoku.interq.or.jp

受験
 発症2年め(1997年)に「希望の会(患者会)」「府中地域福祉を考える・わの会」を結成して、自分なりに外向き、前向きにとりくんできた。しかしALSの進行に苦しむ中、発症3年半の時、府中小金井保健所の難病患者団体の会合で初めて「講演」、初めて自分と病気を語った。語れた。ALSが闘いの相手でなく、つきあいの相手になった。思えばこれが/私のALS人生物語/のはじまりだったきがする。絶望の縁からの本当の脱出だったきがする。

 気管切開し呼吸器をつけた2000年に「週刊/ALSのひとりごと」発行(現在200号)、「介護通信」発行(現在80号)、02年吸引問題署名運動に、手紙とメールで参加(5500人分集める/傍聴にも参加)、何度も国会へ行く(吸引問題、在宅郵便代筆投票、障害者自立支援法など)、東京都、府中市や保健所などとの直接交渉、講演活動/自分と病気を語る活動(三幸福祉カレッジ、東海大学、明治学院大学、徳州会病院、各地の患者会など)、04年「きらっと生きる」NHKテレビ出演、そして06年初めての出版「やさしさの連鎖」、ALS患者の体験記「生きる力」出版などがあった。

 その「生きる力」は、全国のALS患者10人がインターネットで連絡をとりあいながらつくった。/進行性のゆえに、機能の喪失の日々の確認の作業をとも(なうALS)。……昨日できたことが、今日できなくなった悲しみ、今日できることが、明日できなくなる恐怖。(そういう中での)35名のALS患者家族の『生きるための物語』、『告知前後の困難にどう向かい、どう乗り越えてきたかの物語』(「生きる力」はじめにより)/つまり進行性神経難病ALS患者家族の『可能性への挑戦物語』になった。

 一昨年から昨年、私の主目標は、「やさしさの連鎖」出版、「生きる力」の原稿集めと出版だった。出版後主目標は、介護学習、受ける側の介護学習に変わった。その後ナラティブ学習が加わった。さらに縁あって東海大学健康科学科を受験できることになった。もし合格したら障害者福祉を専攻したい。車椅子で、呼吸器で、文字盤で、しかも還暦目前での受験というのは前代未聞ということで、いくつか特例が生まれた。生きるとは、可能性に挑戦することだと最近思うようになった。とりわけ障害者福祉の前進へ、私のALS人生物語/可能性への挑戦物語を続けようと思っています。
 
ばかをいうな!
 「領収書なんかつけたらこーんなになって(両方の手を大きく広げて)めんどうで大変」伊吹大臣がこう言った。家賃のかからない国会の議員会館を使った数千万円もの高額の事務所費疑惑の中での発言だ。当然ながらそのカネは税金だ。その税金を「納める」側の国民は1枚の領収書の欠落も認められない。調査の時、金の流れは徹底的に追及される。年間の預金量の増減と借入金の有無と増減、自動車、機械等の買入、買い替え、代金の支払い状況、土地、家屋の購入や新・増築、家族構成、生活費、地代、家賃、資産の取得や冠婚葬祭、子供の入学・進学など徹底的に追及される。約20年税務署に対峙することを仕事ととしてきたものの実感である。/ばかをいうな!/。

 あとがき 昨年秋から多くALS患者家族から取材中だった「生きる力」の放送予定日が決まった。ETV特集 「”生”のかたち 〜難病患者たちのメッセージ〜(仮)」2007年2月24日(土)22:00〜23:30(教育テレビ)です。
願書を出した。試験は2/16。いざ。



 
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   第202号                         2007年2月12日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
    今日は/お世話になります
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産む機械と石原都知事と優生思想と
 産む機械/「女性は子どもを産む機械、装置」などとの柳沢厚生労働相発言を聞いた時、たぶんと思った。「結婚して子どもを2人以上産む」のが健全と述べた時、さらにその後の国会質疑を聞いた時、この根本にあるもの、それは「優生思想」だとおもいいたった。最初の発言は子どもを産まない(産めない)女性(その家族)の存在を否定するもの。後の発言は、国(政治、経済、文化をふくむ国家権力総体)に役に立つかどうかのみを規準にしている。規準からはずれるものは、否定される。もちろん否定の対象は「女性」にとどまらない。社会保障費や障害者福祉の連年の削減は端的な証明だ。

 人格はあるのか/すぐに思い出した。(府中療育センターを視察した後、重い知的障害と重度の身体障害をあわせ持つ子供や大人たちについて)「ああいう人たちに人格はあるのか」と記者たちに問いかけ、「西洋人はこうした患者たちを切り捨てるのじゃないか」との石原都知事発言(1999年)を。かつて、「老人医療は枯れ木に水をやるようなもの。率直にいえば老人は早く死んでくれたほうが国は助かる」故渡辺大蔵大臣(現在の渡辺大臣の父親)は、こう言っている。なんとわかりやすいだろう。なお/優生/とは「遺伝的に優良な形質を保存しようとすること」と辞書にある。ナチスドイツのユダヤ人虐殺、旧日本軍の中国人、朝鮮人虐殺などの根にある思想である。

 革新都政と障害者/1967年4月革新都政が生まれた。直ちに「憲法をくらしの中に」のタレ幕を都庁にかかげた。革新都政は、住民とともに・対話集会を206回、3万3千人とおこなった。革新都政は、老人医療無料化(69年12月)を実現した。1973年革新都政は、「全身性障害者介護人派遣事業」をつくった。施設ではなくて地域で暮らしたい、家から独立して地域で生活していきたいという重度障害者の願いにこたえた。まず「脳性麻痺者等全身性障害者介護人派遣事業」として都の単独事業として開始、地域で家族の力に頼らず1人で生きていく人が介護人を利用要する、その人に対して自治体が金を払うという制度であった。いま障害者への「支援費制度」として全国に広がり、障害者の生活を支えている。
 
 自閉症とはなにか
 われわれはようやく冒頭にあげた疑問「自閉症児ということばは成立し得ても、何故、胃腸障害者ということばが成立し得ないのか」に答えることができる。要するに、その発見過程が異なるのである。つまり、まず疾病が発見されるのか、それとも排除すべき人間として先に定められるのか、である。いうまでもなく、自閉症は後者の典型例である。社会的に排除すべき一群の子どもが析出され、医学的にラベルされるべき存在として範疇化される。もし、社会的排除過程に、医学的論理が適合しないならば、医学的概念の方が改変させられることになろう。そして、まさにこのようなことが自閉症論をめぐって歴史的にみられた事実なのである。「自閉症とはなにか」より

 あとがき 2億4千万円の豪游と4男の公費海外 出張で話題の石原都知事、閣僚時代に弟裕次郎を自衛隊機を飛ばせて病院に搬送するという家族愛を発揮したこともある。変わっていない。自閉症の文章は、発達障害、認知症、自閉症、統合失調症などの勉強の中での衝撃の文章です。いっしょに考えて下さい。「受験」への激励に感謝。「生きる力」2/24午後10時教育テレビ。



 
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   第203号                         2007年2月23日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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文字盤受験物語/合格しました
 最初の問題は/いじめ問題/の朝日新聞の文章を要約して、意見を述べよ(2時間)、ふたつめの問題は、障害の受け止めとプラスイメージにするための状況、条件をのべなさい(1時間半)、面接(約1時間)という内容でした。試験の方法は、私が車椅子で試験官の正面に離れてすわり、その右前に家から持参したベットサイドテーブル(高さが変えられる)、その上に書見台(問題を読むため)、そして私の正面にヘルパーさんが文字盤をかまえ、声に出して読む。私の左側で、妻が答案用紙に書き込む。書いた文章をみながら考える、消したり書いたりする、などができないので苦労しました。

 当日の「チーム佐々木」は、ヘルパー3人、運転手、妻と私の6人。5時起床、準備、7時全員集合そして出発。9時すぎ到着。会場につくとNHK、読売新聞、共同通信の取材のみなさんが待っていました。それでその日のうちの報道となりました。NHKニュースでの「老人が尊敬れ、障害者が尊重される社会をめざす」というのは、最初の問題のあとの休憩時間でのインタビューでした。対して東海大学側からは、試験官4人以外に、事務関係から3名の他に医療関係者が待機している、という念のいれようでした。1人の受験生への対応として異例でした。別に隣の教室を控え室に用意されていました。

 「目に見えないところでは、誘導の方が、駐車上の確保のために朝早くから動いて下さっていました。そして、大学院の先生方が、佐々木さんの受験がスムーズに出来るよう、話し合いを持っていました。今回の沢山の異例が、学びたい誰もに『学び』を保障できる足跡になりました」

 なお受験勉強は、1日約6時間もっぱら本を読みました。リーダブルがベットの下に入らないので、ヘルパーさんや家族にめくってもらいました。深く深く感謝申し上げます。アンダーラインが引けない、書き抜きができない、同時にほかの本や資料にあたれない、等の不便さもありました。 
 論文を書くため文字盤に「」と()を加えて、とても役に立ちました。ところが原稿をみたらマスメいっぱいに書かれており、あせりました。マジックペンを借りて 改行 を加えて事なきを得ました。ヘルパーさんの速くて正確な文字盤読みと妻の、意を汲んだ書き取りのおかげでした。文字盤は30分交代にしました。

 「老人が尊敬され、障害者が尊重される」ということに、深い意味を感じています。エジプトでピラミッド建設に参加した市民の頭蓋骨に外科手術の跡があったこと、病気治療などについての市民の屈託のない日記が存在したこと。さかのぼって人類の祖先のひとつネアンデルタール人のシャニダール(イラク)で発掘された第一号は身体障害者であり、この遺体の上には、弔意を示す供え物がおかれていたこと。そして第三号もまた身体障害者であり、第一号は、約四〇歳(現在なら約八〇歳)だったこと。などに心惹かれています。

アルゼンチンから
 はじめまして。私は今アルゼンチンに住んでいます。先ほど佐々木さんの話題をNHKニュースで見ました。日本で看護師としてALSの方と多少関わってきたもの複雑な思いがあります。…

 あとがき 16日受験、17日東京都支部役員会、18日わの会新年会と少しばてましたが、なんとか元に戻りました。3段めは東海大学下西先生のメール。すべての皆様に感謝です。



 
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   第204号                         2007年3月13日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
    今日は/お世話になります
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「うらやましい」
 NHKテレビ「生のかたち」の感想に同じALS患者から「うらやましい」が少なからず届いた。ちょうど読んでいた本の一節が浮かんだ。わかりにくいけどとても納得できた。

 /A-0「私ができること」は肯定される。A-1 「私が《X自らによって/他者の補いや機械の利用などによって》できること」もまた肯定される。A-2 「私が《X自らによって/他者の補いや機械の利用などによって》できることを、私が《Y自らによって/他者の補いや機械の利用などによって》決定できること」もまた肯定される。A-3「私ができることを否定するような、《手段X》《手段Y》による遂行」は否定される。/(「ケアってなんだろう」p218より)
 例えばA-1 をALSにあてはめると、自分の判断により/医療、看護、介護その他のあらゆる福祉制度や呼吸器などの機械等社会資源を使って できることは よいことだ。さらにA-2判断するために 他者の補いや機械の利用により、判断できることも よいことだ。となる。希望すれば必要な「他者の補いや機械の利用」が普通にできる。その上でこそ呼吸器も在宅も論じられる。

お礼
 おかげさまで2月16日の受験から23日の合格発表、24日の 「生のかたち」の放映後まで、300通を超えるメールと電話とお便りに圧倒されました。ブログへのアクセスも100から500に増え、部屋はお花などがいっぱいです。まるでなにかに優勝したかのようです。身にあまる光栄です。ありがとうございました。

 「”生”のかたち〜難病患者たちのメッセ> ージ〜」放映後は、「涙がとまりません」「襟をただし心して見ました」「胸の詰まる思いで涙もこぼしながら拝見しました」など重い感動をこめた感想が、たくさん寄せられました。アルゼンチンからもメールが来て、びっくりしました。「都内の小学生たちが、佐々木さんの手紙を送りたいそうです」、こんな連絡もありました。当日全国各地で撮られたたくさんのビデオやDVDにより、記録として、記憶として、さらに広がります。

 介護、看護、医療にあたられているみなさん、お世話になっているすべてのみなさん、呼吸器患者の受験を受け入れ、特別な体制を組み、迎えていただきました東海大学のみなさん、報道いただきましたみなさん、放送や新聞をご覧いただきましたみなさん、なにより全国のALS患者、家族、ご支援いただいているすべてのみなさんに、深く深く感謝申し上げます。

 私は、受験勉強の中で、/ケアや介護/をする側、される側の両方からの視点を意識して、本を読みました。何人もの患者、家族を思い浮かべながら読みました。同時に認知症を中心に病気の勉強もしました。その中で「生きがたさ」を生きている人たちが、こんなにもたくさんいること、デイサービスで会うあの人たち、ヘルパー会議で聞く利用者の苦しみのなかみは、こんなことかもしれない、と少し思い描けるようになりました。「する側、される側の両方からの視点」を大切に、勉強していこうと思っています。

 それから、パソコンでなく文字盤で論文が書けたことに、喜びと展望を感じることが出来ました。「チーム佐々木」に感謝です。すべてがこれからですが、がんばります。今後ともよろしくお願いします。2007年3月 あとがき 町田の小5のクラス全員からのお手紙に感激。4/5入学式、通学は週二回。いざ。



 
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   第205号                         2007年3月24日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
    今日は/お世話になります
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五年二組のみなさん、こんにちわ
 みなさんのお便りに感激しました。私の人生の宝物にします。心よりありがとうを言います。筋萎縮性側索硬化症というむずかしい病気のことを理解してくれたこと、たくさん応援をいただいたことに感動しました。

 受験勉強の中で、おじさんは、何人もの患者、家族を思い浮かべながら本を読みました。ALS以外の病気の勉強もしました。その中で「生きることのつらさ」を生きている人たちが、こんなにもたくさんいること、デイサービスで会うあの人たち、ヘルパー会議で聞く利用者の苦しみのなかみは、こんなことかもしれない、と少し思い描(えが)けるようになりました。
 「この時、この場面で自分ならどうする」から「この時、この場面であの人たちの悲しみや苦しみは、どんなだろう」と考えながら、本を読むことができました。少し成長しました。

 おじさんはこんな夢を見たことがあります。古代人たちが楽しそうにくらす風景です。老人も子どもも障害者もいました。
 実際に、シャニダール(イラク)で掘りだされた人類の祖先のひとつネアンデルタール人の第一号は、身体障害者でした。この遺体(いたい)の上には、お花がそえられていました。そして第三号もまた身体障害者でした。当時障害者はふつうにいて、第一号は、約四〇歳(現在なら約八〇歳)まで生きぬいたのでした。
 あとの時代、エジプトのピラミッド建設に参加した市民の頭に、手術のあとがあリました。病気やけがの治療(ちりょう)などをかいた市民の日記もありました。ここにはいじめも差別(さべつ)も感じられません。

 すべてがこれからですが、みなさんの熱い応援を胸にきざんでがんばります。今後ともよろしくお願いします。古代の人びとのようなみなさんのやさしさ、思いやりを、たくさんの人に広げてください。ずうーっと友だちでいられるよう、心より願っております。  ALS患者佐々木公一

32人の手紙から
/ふつうの人より何倍や何十倍も努力したことがとてもよく伝わりました。やっぱり、努力すればいろいろなことができるようになることも、佐々木さんから教えてもらいました。/
/「がんばってください佐々木さん。じんせいこれからですよ」私は、いたいほど佐々木さんの気持ちがわかります。まだ59才というわかさで病気になって、私がおてつだいをしてあげれば、おてつだいをしてあげたいです。私は体がふじゅうな人は、みとめられないと思っていたけれど、がんばってどりょくすればなんでも出来るということをおそわりました。こういう話を聞いたら人だすけの仕事をすごくやりたくなりました。/
/東海大大学院の健康科学研究科に合格して、そこで研究しているうちにALSをなおすほうほうが見つかるかもしれません。ぼくは、そう願っています。/

 あとがき 20日相原小(町田市)へ行ってきました。素敵な飾り付け、式次第もありました。大歓迎されました。先生も5〜6人おられて何人かはずっと泣いていました。子ども達からは、拍手また拍手でした。初めての経験でした。22日東海大学で/私の就学の安全と成功のためのプロジェクト/がおこなわれ、過分のご配慮をいただきました。附属病院からの医療対応もふくめ万全の対応に感激しました。「チーム佐々木」への研究室解放と言う破格の待遇もいただきました。



 
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   第206号                         2007年4月2日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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ごあいさつ/あいあい研修会
相手を知り、病気を知り、病気の段階を知ること

 障害受容論というものがあります。一般に人は重大な病気を宣言(告知)された時、とまどい、怒り、あきらめなどの感情を経て、受容、そして現在へと至る、という。

 病気や病名の宣言を受けたものは、まず、激しいショックを受け、茫然自失(ぼうぜんじしつ)の状況になる。そして「違う。そんなことはない」と否認する。
 次に怒りの時期をむかえる。憤り、せん望、恨みなどの否定的な感情が沸き上がってくる。「なぜ、私が」「なぜ、今なのか」「なぜ、こんな病気が直せないのか」などといった感情である。
 ついで、この病気は直らないんだ、と理解しあきらめる。そして人生目標、人生物語の書き直しにむかうものと、あきらめたままのものにわかれる。ALSの場合呼吸器をつける、つけないもまた問われる。なおその判断は現在の福祉制度、社会資源に色濃く規定される。「何とか子どもの結婚式に出たい」「せめて孫(子ども)の顔をみたい」などの取り引き的感情になることもある。
 このようにして受容つまり受け入れるのである。病気を、とりまくすべての現実を受け入れるのである。こうして病気とのたたかいが終る。ここまではこの論のとおりだ。

 だがそれから人生目標、人生物語の書き直した人びとの新しい人生の物語がはじまるのである。そのQOLは病気以前に回復、まれにそれ以上のケースもある、と報告されている。それは苦しみは多いけれど、神秘的で可能性に満ちている、と私は思う。

 患者の人生そのものが多様で、病気もその受け止めもまた多様であるなら、ケアのかたちも多様でなければならない。そして必要なケアが必要な人に、必要な質と量のケアが届けられなけばならない。相手を知り、病気を知り、病気の段階を知ることが、とても大切に思えてきた。

 このように新しい年度、新しい風を起こしながらがんばりましょう。引き続きよろしくお願いします。 2007年3月30日 NPO法人わの会 理事長佐々木公一

タミフルとラムズフェルド
 カリフォルニア州に本拠を構えるバイオテック企業ギリアド社は、インフルエンザ治療薬として現在世界中から注目されている『タミフル』の特許を所有している。ラムズフェルド前国防長官は、その大株主で、タミフルが売れるつまりインフルエンザが流行るたびに儲かるしくみになっている。重要なことは、米国政府が世界最大のタミフル購入者であるという事実だ。昨年7月には、米国防総省は兵士への配給用に、5,800万ドル分のタミフルを注文している。日本政府も2500万人分の備蓄をめざしている。先のあやしげな厚生労働省研究班の報告、寄付金疑惑もあわせて、とてつもない背景が浮かんでくる。なおタミフルの値段は1カプセル364円。

 あとがき 25日卒業祝う会A、27日週間『女性自身』より取材、29日卒業祝う会B、30日月刊『女性のひろば』より取材、ヘルパーステーションあいあい研修会、31日あいあい総括会議、訪問看護ステーションほっと理事会。めまぐるしい日程を無事終了。「私を待っていてくれる。だからがんばれた」……。5人の学生が旅立つ。高校の入学式以来、入学式、卒業式、入社式には縁なく来たから4/5は楽しみ。妻の介護福祉士合格通知がきた。勉強に終点はなさそうだ。



 
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   第208号                         2007年5月7日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
    今日は/お世話になります
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ご挨拶/還暦・入学祝
 「感動しました。涙が出ました。励まされます」「本当に佐々木さんの生きる力の本質、パワーを垣間見る思いです」「『生きる力』の出版、ALS世界大会出席と大変な中、受験準備も進められていたなんて・・・驚きです」「多くの方々に感動と指針と光明を与えた事と存じます」「新しい扉を開けて、レールを引いて下っていることに大きな意義を感じています」「ALS患者の新しい目標を作って頂き、有り難うございます」「我ら同志の先人と成してください。可能性に挑戦する心意気に乾杯です」「後に続く方々の生きる指標となりますね」「笑顔が素晴らしかったです」

 「チーム佐々木、素晴らしいですね!……身近で支えていらっしゃる奥様を心から尊敬します! もちろん、ヘルパーさんや運転手さんの皆様にも頭が下がる思いです」「われわれ患者の一人,S氏が大学院に合格された。還暦?の近くなのに、この崇高な理念、このファイト。未だ衰えぬ向学心と、ポジティブな人生観」「文字盤の威力(素晴しさ)を証明してくれましたね」「ALSの歴史が変わるような気がします」

 このようにして、おかげさまで2月16日の東海大学大学院健康科学研究科保健福祉学専攻受験から23日の合格発表、24日の「生のかたち」の放映後まで、300通を超えるメールと電話とお便り(上は全国の患者のみなさんからのうれしいお便りです)に圧倒されました。アルゼンチンからもメールが来て、びっくりしました。たぶんこの頃から/私の通学が個人の仕事でなくなった/感じがします。

 NHKテレビ「”生”のかたち〜難病患者たちのメッセ> ージ〜」放映後は、「涙がとまりません」「襟(えり)をただし心して見ました」「胸の詰まる思いで涙もこぼしながら拝見しました」など重い感動をこめた感想が、たくさん寄せられました。

 /「がんばってください佐々木さん。じんせいこれからですよ」。私は、いたいほど佐々木さんの気持ちがわかります。まだ59才というわかさです。私がおてつだいをしてあげれば、おてつだいをしてあげたいです。私は体がふじゅうな人は、(社会に)みとめられないと思っていたけれど、がんばってどりょくすればなんでも出来るということをおそわりました。こういう話を聞いたら人だすけの仕事をすごくやりたくなりました。/小学生からこんなお便りをいただきました。

 受験勉強の中で、たくさん気づいたことがありました。患者の人生そのものが多様で、病気もその受け止めもまた多様であるなら、ケアのかたちも多様でなければならない。そして必要なケアが必要な人に、必要な質と量のケアが届けられなけばならない。国の義務として。そして例えば難病患者に対する時、「あなたはこれから、どんな新しい人生をつくりますか。そこにはつらいこと、苦しいこともあるけれど、神秘的で可能性に満ちています」、と言ってあげられる、こんなケアの理論をめざして、勉強します。

 本日はご多忙中にもかかわらず、昨年の/出版記念/につづいて、たくさんのみなさんのご参加をいただきました。深く深く感謝申し上げます。49年の健常者人生、11年のALS(障害者)人生、なのですが、気持ちはいつまでも青年です。改めて振り返ると、人生のそれぞれのステージでの出合いひとつひとつが、とても貴重なものでした。変わらぬご支援に深く深く感謝申し上げます。そしてたくさんのやさしさに包まれてきたことを、とてもありがたく幸せに思っています。心よりお礼と感謝を申し上げます。 2007年5月6日 ALS患者佐々木公一



 
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   第209号                         2007年5月21日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
    今日は/お世話になります
 発行 佐々木公一   ブログ http://blog.livedoor.jp/alsinfo/ ホームページ http://www.arsvi.com/w/sk13.htm  メールアドレスhamu-s@jcom.home.ne.jp

『生きる力』贈呈の添文
「先月、夫がなくなりました。発症が昨年7月、進行が早く駆け足のALS闘病記になりますが、私が経験したことが少しでも役にたってくれれば……」、静岡県の杉山紀子様のこのお便りから、そしてこのような願いをこめて『生きる力』の物語ははじまりました。

 2005年秋、「たくさんの患者、家族の体験を集められたら、きっと役に立つと思っています。一緒に呼び掛けませんか。大勢で呼び掛けられたら、とてもありがたいです。最近仲間の死の知らせが、多い感じがします。発信できる仲間が減りつつあります。仲間の発信が増えること、発症、告知の困難を乗り越えることを、切に願っております」と全国のALS患者10名が、連名で呼び掛けました。

 その後10人がインターネットで連絡をとりあいながらつくりました。/進行性のゆえに、機能の喪失の日々の確認の作業をともなうALS。……昨日できたことが今日できなくなった悲しみ、今日できることが明日できなくなる恐怖。(そういう中での)35名のALS患者家族の『生きるための物語』、『告知前後の困難にどう向かい、どう乗り越えてきたかの物語』(「生きる力」はじめにより)/つまり進行性神経難病ALS患者家族の『可能性への挑戦物語』になりました。

 今年2月『生きる力』をもとにして、NHKテレビ「”生”のかたち〜難病患者たちのメッセ> ージ〜」が放映されました。「涙がとまりません」「襟(えり)をただし心して見ました」「胸の詰まる思いで涙もこぼしながら拝見しました」など重い感動をこめた感想が、出演者に、日本ALS協会に、NHKにたくさん寄せられました。このようにして『生きる力』は昨年11月に出版されて1万部を売り、今年2千部増刷しました。インターネットのアマゾゾ医学書部門でずっと1位(今でも2位)でした。

 そこで日本ALS協会に寄付をした『生きる力』の印税(定価の約10%×部数)の有効利用について話し合ってきました。そして発起人会のみなさんはじめ関係の方がたの快諾を得まして、本日の全国の支部への贈呈(全額をこれにあてる)の運びとなりました。
 支部は「生きる力」をALSの啓蒙に役立て、また本の売上げを支部活動の資金とし、更にALS協会会員の獲得のために皆で頑張りましょう。支部総会の時期でもあります。よろしくご活用お願い申し上げ ます。

 ところでこの本には、『著者割引』というのがあり、書かれている人は2割引で買えます。つまり書いた人にお願いして買ってもらい、支部で販売すれば、1册につき168円、1000冊販売すれば、168000円の利益、つまり支部の活動資金にすることができます。ALSのことを知ってもらいながら、利益にもなるという訳です。なお日本ALS協会経由でも『著者割引』を使えるようになっています。

 みなさん、力をあわせて『生きる力』のいっそうの普及をめざしてがんばりましょう。なお『続生きる力』のとりくみもこれから相談してまいります。(文責/東京都支部佐々木)2007年5月 日本ALS協会 体験記/生きる力発起人会

 あとがき 生きる力はいくつもの偶然のおりなす不思議な糸と奇跡的幸運により生まれました。全国77人の賛同者はじめALSMLの皆様の熱烈なご支援をいただきました。心より感謝です。



 
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   第210号                         2007年6月25日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
    今日は/お世話になります
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少し長めのご挨拶/新潟県支部総会
 本日は支部総会お招きいただきまして、ありがとうございました。/ 第8回J ALSA講習会交流会新潟大会(9/13〜14)に参加した。講習会400名、交流会200名との報告があった。なお患者の参加47人、うち呼吸器をつけた患者31人とのことであった。/……あれからもう4年になります。お久し振りです。東京府中市の佐々木公一です。発症12年め、呼吸器をつけて8年めです。今年10年ぶりに、身分が無職から学生になりました。最近小学校5年の女の子から「がんばってください佐々木さん。じんせいこれからですよ……」、こんな手紙をもらい、とても元気になりました。

 障害受容論というものがあります。一般に人は重大な病気を宣言(告知)された時、とまどい、怒り、あきらめなどの感情を経て、受容へと至る、というものです。病気や病名の宣言を受けたものは、まず、激しいショックを受け、茫然自失(ぼうぜんじしつ)の状況になる。そして「違う。そんなことはない」と否認する。次に怒りの時期をむかえる。憤り、せん望、恨みなどの否定的な感情が沸き上がってくる。「なぜ、私が」「なぜ、今なのか」「なぜ、こんな病気が治せないのか」などといった感情です。ついで、この病気は治らないんだ、と理解しあきらめる。そして人生目標、人生物語の書き直しにむかうものと、あきらめたままのものにわかれる。このようにして受容つまり受け入れるのです。病気を、とりまくすべての現実を受け入れるのです。こうして病気とのたたかいが終ります。

 みなさんは自分はどの段階だと思いますか。ケアもこのような段階を理解すると効果的です。でも実際にはこのように単純にはいきません。病気に、負けたり、勝ったり、負け続けたり、負けなかったり、です。私の受容と思われるものは、つぎのようでした。

 発症2年め(1997年)に「希望の会(患者会)」「府中地域福祉を考える・わの会」を結成して、自分なりに外向き、前向きにとりくんできた。しかしALSの進行に苦しむ中、発症3年半の時、府中小金井保健所の難病患者団体の会合で初めて「講演」、初めて自分と病気を語った。語れた。ALSが闘いの相手でなく、つきあいの相手になった。思えばこれが/私のALS人生物語/のはじまりだったきがする。絶望の縁からの本当の脱出だったきがする。(週刊/ALS患者のひとりごと201号より)

 もしALSを、1950年代以前に発症していたら、例外なく死んでいた。呼吸器がこの世の中になかったから。もしALSを、1970年代以前に発症していたら、ほとんど死んでいた。呼吸器が使いものにならなかったから。もしALSを、1990年以前に発症していたら、金がないと死んでいた。呼吸器が医療保険の対象にならなかったから。だから前を向いて、と思っています。

 いま私は、こんなことをめざしています。患者の人生そのものが多様で、病気もその受け止めもまた多様であるなら、ケアのかたちも多様でなければならない。そして必要なケアが必要な人に、必要な質と量のケアが届けられなけばならない。そして例えば難病患者に対する時、「あなたはこれから、どんな新しい人生をつくりますか。そこにはつらいこと、苦しいこともあるけれど、無限の可能性に満ちています」、と言ってあげられる、こんなケアの理論をめざして、ともに勉強できたら、こんなうれしいことはありません。 2007年6月17日 東京都支部 佐々木公一

 あとがき かねての約束どおり同じALS患者の山崎さん宅に宿泊。ウエルカム新潟会には山崎家4人、ケアマネ、訪問看護師2人、新潟県支部3人、チーム佐々木5人、感動、感激、感謝。



 
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   第211号                         2007年7月2日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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ご挨拶/わの会総会
  松原湖畔で「発病以来初めての旅行です」とパーキンソン病とたたかいつづけるご主人のハモニカをふく姿をみつめるTさんの奥さん。「楽しかった。今度は元町や港の見える丘公園にも行きたい」と、横浜中華街での昼食会の帰り道、目を輝かせるIさん。「どうしても巨人戦をみたい」という願いを、みんなで知恵を出し合い、巨人軍や東京ドームへ要請するなどして、ついに車椅子での観戦を実現したSさん。わの会のカウンセリングの中で、視力障害を克服すべく、点字学習を通じて人生の再構築にのりだしたTさん。
 これは11年前わの会の初年度のとりくみです。その後デイサービスやヘルパーステーションの活動も加わり、地域福祉の中での役割は、飛躍的に大きくなっています。そこでわの会の原点である「自立」の活動を思い出してみました。

 わの会の考えている「自立」とはこういうことです。いままでできなかった小さな一つのことができるようになる。次の段階でまた何かができるようになる。それを自立とみていくことが大切です。自立とは努力の方向であり、経過であり、結果ではないのです。それは、一人ひとりのもっている残された可能性を、最大限どこまで生かせるかというリハビリテーションの基本理念にも通じるものです。

 病気や障害を受け入れるためには、つぎの4つのことが必要だといわれています。1、病気や障害を正確に理解していること。2、病気や障害の表れを軽くする工夫をしていること。3、病気や障害を屈託なく離せること。4、新しい人生の目標を持っていて、そのために努力していること。みなさん、ケアにあたられるみなさん、いかがでしょうか? 

 そこで少し提案があります。 金儲けをしよう!商売をしよう! ぼちぼちですが。
一、何を売るか1、いま米を売ってるようにいろいろ考える。/ただし儲けなければならない。各自の出身地のなにか。必ずある。2、各家の庭で作っている収穫しないものをもらって売る。/柿、花梨、ザクロなど3、関係者の本 生きる力(840円)は1册売れば、168円 やさしさの連鎖(1500円)は1册売れば、500円儲かる。
二、誰に売るか。/素晴らしい条件に満ちている1、150人の会員、ヘルパー、職員、ボランティアあわせてゆうに200人を超える。固定客になる可能性がある。よい商品なら広がる。スケールメリットを仕入れにも販売にも生かす。2、商品の配達は、わの会全体で工夫すれば、安くできる。3、りんりん(輪凛)とわの会の近所にもっとたよらなければならない。ニュースを配る、行事を知らせる、からはじめよう。
三、誰が売るか。どこで作業するか。1、わの会に販売部をつくる。2〜3人ではじめる。2、作業、荷造りは、わの会または、倉庫でおこなう。
四、金儲けの目的1、東京都の補助金なしを想定して。2、労働条件改善/当面一時金年3か月分の実現。3、車など必要な備品の購入。
 昔の楽しかったことも思い出しながら、協力者を飛躍的に増やして、思い切って様々に仲間たちと分担しあい、助けあってまいりましょう。6月24日 NPO法人わの会 理事長佐々木公一

 あとがき 17、18新潟県支部総会、19授業を休む、20東海大学社会福祉学部で講演、21授業(東京新聞取材)、24わの会総会、26授業、28授業、30日本ALS協会東京都支部総会、7/1東海大学「障がいをもつ学生支援プロジェクト」で講演、目紛(まぐる)しく。



 
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   第212号                         2007年7月15日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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老人と尊敬

 言葉も文字もない頃、人類はこよなく老人を尊敬した。生きるためのたくさんの知恵が老人たちの頭につまっていた。どの木の実が食べられるか。どの草は毒があるか。猛獣からどう逃げるか。動物や魚をどのように捕まえるか、またどのように料理するか。季節を知り、天候を読んだ。若者たちはなにかあると、老人に教えを請うた。知識の量は年輪に比例して老人の脳に蓄積された。

 歴史をみる。古代ヘブライ人は老人を、長命.敬意.知恵として見ているが、ギリシャ人は、不遇.虐待.不名誉.悲惨としてみている(但し、スパルタでは、敬愛の対象であったとつたえられている)。ローマ人は全体として、老年に対する見方は好ましい。ローマの著作家は長寿者を豊富に引用し、中でも、キケロの「老年について」においては、幾多の立派な老年の例や、反面、老年のもたらす悪についても述べている。

 ギリシャ人の老年に対する非好意的態度の原因は「快楽.富の追求」という人生哲学に在ると書かれている。ソクラテスは、青年期の良さを賞揚し、プラトンは老年の悲嘆の原因はその性格によると言い、アリストテレスは、老人の身体理論や老人の好ましくない面を強調している。中世においては人間の平均寿命短く、また、老人は、ほとんど尊敬されなかった。中世における老人像は、一般的に老いぼれ、衰弱、精神的不健康として見られていた。「快楽.富の追求」という人生哲学と老人が尊敬されなくなることの関係は、興味深い。

 歴史の中で、老年に対する態度、見方は価値的にみて次の2つに大別される。その1つは、老年とは、軽蔑.無視.弱者.無益.化物.鬼.恐怖.残酷なもの、という見方であり、もう1つは、崇拝.尊敬.人格者.威厳.自信.知恵.名誉.卓越.権威.愛情といった言葉で表現される見方である。

 いま人類に訪れている高齢化社会の波の中で、「老年学」という学問が1950年代にアメリカに生まれ、世界に広がっている。その中で代表的名著とされている‘journal of Gerontology’の表紙に、/年齢に生命を加え、生命に年齢を加えるなかれ/とかきそえられていた。

 生活にあたらしい工夫をこらすことによって、老人は老人自身の要求や興味や能力に対応するものをみいだすとともに、また老人をして自分の社会的地位や権利義務を自覚させ、それぞれの立場で自分自身の生き甲斐を開拓していくようにしむけ、従って強制的な隠退(退職など)によって生ずる生活活動の萎縮早老を防止しようというところに、この老年学の実践的課題がある。以上「老年学」を読んで。

富はどこへ
 実は昭和58年以前は、最高税率が所得8000万円超75%が、現在最高税率が所得1800万円超37%、単純計算(控除なし)だが、課税所得10億円の場合、昭和58年には約7億500万円であった税金が、今は約3億7000万円となり、実に約2億8000万円もの大減税、低所得者の税率は変わらないのだが。この5年間で庶民5兆円増税、大企業・大資産家4兆円減税との報告がある。住民税に続いて来年国民健康保健料が、介護保険が上がる。
 あとがき /選挙があるから年金が回復できた/もはや政治とは呼べない。内閣の知性を憂う。



 
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   第213号                         2007年7月24日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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 ボールの気持
 /木曜日の「ボールの気持ちになれ(ヨガの先生の言葉として記憶されておられる)」とは、本当によい言葉わかりやすい、実践的な言葉だと思います。これまで「相手の立場に立て、相手の気持ちを考え」、とよく言われまたよく言ってきましたが。身の回りのものでを考えてみました。ボールがよくわからなかったものですから/(先生へのメールから)

 目の前の置き時計の気持
 1、せっかくだから、針を正確にあわせてくれ。2、電池は大丈夫か、予備はあるか。3、時々ふいて、たまにはみがいてくれ。気持ちよく働きたいから。
 テレビの気持
 1、気持よく見てもらいたいから、画面をいつもきれいにしてくれ。2、体も時々ふいてくれ。意外によごれるから。3、見ない時には、電源を切ってくれ。休みもほしい。4、たまにでいいから、体の中のほこりを吸い取ってくれ。誰も気がついてくれないよ。
 扇風機の気持
 1、長い時間は疲れる。少しは休ませてくれ。2、羽根がよごれて困る。時々はずして洗剤で洗ってくれ。3、体もたまにはふいてくれ。4、一年に一度くらい、油をさしてくれ。
 眼鏡の気持
 1、よくふいてくれ。2、たまには洗ってくれ。3、ネジの具合も時には見てくれ。
 
 ここまできて/「ボールの気持ちになれ」が少しわかる感じがします。
 打つ時 1、ボールの芯を打ってくれ。2、こねたり、こすったりしないでくれ。
 捕る時 1、グラブの真ん中で捕ってくれ。2、なるべくボールの正面で捕ってくれ。
 投げる時 1、相手が捕りやすく、投げやすいように、グラブの中心をねらって、投げてくれ。2、ひねらず、真直ぐ投げてくれ。
 打たせまいと投げる投手の投げる球の気持はとてもわからない。

 こんな風にものをみると、それぞれへの手入れ(ケア)の内容も変わる感じがします。ものと対話するというか、内なる声に耳を傾けるようになる感じです。より丁寧によりケアフルに、という感じです。それぞれの役割を果たせるようにするお手伝い、とりあえずの結論です。

 さらに目を広げてみる。3年めのつきあいの我が家の軒下の燕(つばめ)に聞いてみる。1、昔は家の中に巣が造れて居心地がよかった。いまはビニールクロスだから造れないぞ。2、団地が多くて場所がないぞ。3、田んぼがなくなり、藁(わら)もなくて、粘土が作れないぞ。4、緑が減って、子どもに食べさせる虫が見つけにくいぞ。なお我が家は、多摩川が近く前と横が水田だ。

 さらにその水田の稲は、その他の植物は、動物は。なにより環境は、地球は、と考えると興味深い。政治は、参議院は、選挙は。発想を180度変えてみると見える世界も違ってみえる。/参議院選挙/の気持を聞いてみたい。良識の府にふさわしい人を選べ、平和を守れ、憲法を守れ、と言うだろうか。

 あとがき 今週で春授業が終わる。4科目12単位が終了する。日々感動日々新鮮でしたが、授業以外も忙しく、ほっとしている。身に余るたくさんの応援もいただいた。全てに感謝。



 
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   第214号                         2007年8月3日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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参議院選挙雑感
 参議院議員選挙を久し振りに自民党の大敗北が見られる、と事前予想、出口調査などから、少し楽しみにしていた。しかし結果はすべての予想を超えていた。

 自民党の大敗北は当然。理由は第一に、年金のでらめさ、住民税などの大増税、様々な赤貧物語の頻出、第二に、すべての予想を超えた小泉、安部と続く真の悪政による痛みへの怒りの広がり。第三に、引き続きテレビに連日マスコミに登場した豪華林道やムダ遣い、乱脈を極めた事務所経費問題、第四に、自民党幹部の「赤城と閣僚(の失言)にやられた」の発言ような失言(すなわち本音)続出。第五に、福島社民党党首がいうような、安部政治の「ぼくちゃん政治」ぶり、憲法も消費税もその他も、この男の発言は聞くたびにわけがわからなくなる。

 私は2人の議会人としての行為、発言を許せないと思っている。ひとりは東京選挙区の丸川某、少くとも過去3年選挙を棄権している。もうひとりは赤城大臣(元)の「明日投票にいくか」との質問に「えっまあ、体調がよければ」と答えた。私は人生60年、ALS12年やっているが、一度も棄権していない。29日は土砂降りの中雨宿りを繰り返ながら投票した。

 私たちはこれまで4回/突風選挙(どうにも手がつけられない、誰がでても当選する)/経験している。89年の「山が動いた(日本社会党土井委員長)」のマドンナ旋風(参院選)、日本新党が初登場した総選挙、小泉郵政解散の総選挙、今回の参院選である。いずれも現状に対する不満を基礎に新しいもの、よりましな政治を求めてダイナミックに人びとが動いた。今度の場合、憲法を変えようとする民主党へ、消費税をやがて引き上げるという民主党へ、多くが飲み込まれた。

 冷静に結果をみよう。以上を含む最近のとりわけ小選区制以降の獲得議席数は、衆議院、参議院ともいちぢるしく歪められている。例えば今度の参議院議員選挙を全国単純比例代表制(最も民意に近い)で議席をあてはめてみると、以下のようになる(ヘルパーさんに計算してもらった)。なお( )内は今度の獲得議席数である。自民34(37)、民主党48(60)、公明党16(9)、共産党9(3)、社民党5(2)、国民新党3(2)、新党日本4(1)。自民党と民主党しかないかのようなマスコミ報道と現実はなんと違うだろう。恐らくマスコミ露出度は、自民党、民主党がほとんどだった。2つ以外の政党及び支持者をマスコミ政治難民にしてはいけない。

 それでも確実に国会は変わる。民主党が国民の側に立ち続ける度合いによりその内容も変わる。私が最も楽しみにしているのは『テロ特措法』の扱いだ。イラクでの米軍などの武器弾薬、兵隊などを日本自衛隊すべて無料で運んでいる。インド洋で米軍などの艦船に無料かつ無制限の給油サービスをやっている。これらの根拠が『テロ特措法』であり、その期限が今年11月1日で切れる。対応は2つ。参議院で審議未了、廃案の道か参議院で否決の道かである。前者は廃案、後者は生返りの道、つまりもう一度衆議院で審議、3分の2の賛成で可決する。廃案にしなければならない。

 少しわくんわくする。というのはアフガンでもイラクでも戦争加担の予算も決算も発表されていないからだ。イラクの自衛隊には数千億円、隊員の出張手当ては1日2万8千円だと報道されたことがある。インド洋の給油もすべてが秘密だ。「おにぎりが食べたい」と餓死させられた北九州市の52才、毎日のようなガソリン値上げに脅える私たち。国内の現実だ。

 あとがき これを7/30に書いた。事実や数字の確認に手間取った。やはり病気は不便です。



 
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   第215号                         2007年8月12日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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義母をALSの告知さえせず死なせた医者
 「全身の筋肉が動かなくなる神経難病「筋委縮性側索硬化症(ALS)」を発症した京都市西京区の女性に対し、親族で主治医の医師(54)が、病状の告知や人工呼吸器を使えば長く生きられることを伝えず、女性がそのまま死亡していたことが1日、分かった。「告知は最初から患者と家族に同時に行う」とする日本神経医学会のALS診療ガイドラインに反している。医師は「ALS患者に人工呼吸器を着けると寝たきりのまま、いつまでも生き続ける。命の選択を一律に本人に強いる風潮はこれでいいのか。問題提起をしたい」と話している。

 医師は神経内科医で、長岡京市で内科の医院を開業、ALSを2003年に発症して在宅療養する当時59歳の義母の主治医となった。 医師によると、主治医になってすぐ、インフォームド・コンセント(説明と同意)をしないことや人工呼吸器を装着しないことを決め、義母以外の家族の同意を得た。義母は四肢まひが進行し、昨年10月に呼吸困難で死亡した。死の前日まで判断能力や意思もはっきりして、よく会話をし、笑顔も見せたという。

 医師は今年5月号の医学雑誌「神経内科」に、近親者として義母のALSをみとった経過を投稿。「自己決定の過酷さを避け、近親者が総意として望んだ結果」「自己決定をあくまで尊重する対応とは正反対の旧来型の対応」と記している。
 
 京都新聞社の取材に対し、医師は「ALSでの呼吸器選択は、がん末期と違う。装着すれば平均で5年は生きるし、管理が良ければいつまでも生きる。寝たきりか死かを本人に選択させるのは過酷」と話している。 以上京都新聞(07/8/2)より引用した。さらにこの主治医の手記も載っている http://www.arsvi.com/d/et-2007n.htm をご覧ください。朝日、毎日、日経の各紙夕刊に記事が出ているようだ。

 疑問がたくさんある。第一に、なぜ告知をしないことが許されるのか。第二に、同様に呼吸器をつけるかどうか、つまり生きるか死ぬかをなぜ本人ぬきで決められるのか。第三に、「できる限りのことをして,ALSとしての自然な天寿を全うさせてあげることができた」との本人(主治医)の手記にあるが、根拠はなにか。判断の規準はなにか。第四に、「ALS患者に人工呼吸器を着けると寝たきりのままいつまでも生き続ける」とはなんという無知であろうか。呼吸器をつけ懸命に生きる世界中のALS患者への冒涜だろう。私もALS12年、呼吸器8年だがヘルパーステーションを経営し、訪問看護ステーションの運営にも参加、今年4月から学生もやっている。第五に、死ぬことを確実に予測したこれらの行為は、これは不作為にせよ消極的にせよ殺人ではないのか。

 あとがき この事件とりわけ手記を読んで衝撃を受けた。「以上、ALSを専門領域とする諸氏のご参考,またはご批判の対象になれば幸甚です」、こうも書いているから反論を求め手紙を書く。



 
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   第216号                         2007年9月5日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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呼吸器切り替え入院

 無事退院しました。呼吸器切り替えはうまくいったのですが、やや入院疲れしました。新しい呼吸器は、名前をLEGENDAIR(レジェンドエア) といい、フランス/エアロック社製(IMI社販売)、今年3月新発売です。伝説の空気という意味らしです。重さが5キロ(これまでのLP6は15キロ)、内部バッテリーで6時間、外部バッテリーで6時間もちます。値段を聞いてびっくりでした。呼吸器(197万円)、バッテリー(23万円)、呼吸器のカバー(3万円)だそうです。考えてしまいます。医療保険が効かなかったらどうなっただろうと。1990年呼吸器が医療保険の対象になった時、呼吸器利用者は200人から2000人に増えたそうです。

 入院してこまったことがあった。吸引が看護師さんがやってもうまくいかない。ネブライザー(霧をのどに送って痰をやわらかくするもの)や胸押しを家にいる時程やらないという事情もあるが、すっきり取りきれない。入院前から予測していたことだが。実は吸引チューブ(カテーテル)に問題があったのです。私が使っているのは少し太めの穴がひとつのもの。ところが病院で使われているのは先端部分と少し手前の3カ所に穴があり、吸引力が分離してうまくとれない。2年前、使用した吸引チューブを病院でガス滅菌することが、東京都の予算が出なくて機械の更新ができないとの理由で中止になり(患者の意向一切無視で)、やむなく自宅で消毒して使っている。

 もう一つ大切なことがある。それは使い捨てだということだ。私の場合呼吸器をつけた時たくさん買ったものを、その後買い足しながら繰り返し使っている。数年前までは回路全体(呼吸器からのどに空気を送るじゃばらの太い管など)もこの病院でガス滅菌してもらい、繰り返し使ってきた。どちらが患者の、利用者の体によいかはわからない。そういう視点での説明を受けてないからだ。だがつぎの2点は言わなければならない。第一は、患者にはそうする以外に選択肢がないことである。膨大な自己負担を背負わない限りは。第二は、医療器機の多くが近年特に/使い捨て/になりつつあることだ。

 消毒して繰り返し使うのとどちらがよいことか、さらにいえば地球環境にやさしいかは、自明と思う。注射針や注射器はやむを得ないにしても、医療までもが、効率化、経済性の波に飲み込まれようとしている。いまもくりひろげられているばかげた光景(プロ野球の応援で使われているたくさんのジェット風船/吸引チューブなどと同じく石油製品)、さらにそのことに誰も何も言わないことにも辟易(へきえき)している。自分だけが繰り返し使うものくらいは消毒、再利用したいものだ。という訳で私は少くとも吸引チューブ(カテーテル)は、消毒して繰り返し使っていこうと思っている。

 あとがき 振り返ると96年10月ここ(都立神経病院10B)への検査入院がはじまりだった。「相変わらず検査につぐ検査。ただしそれ以外にやることがないから、ただただ懸命にリハビリにとりくんだ。病院のリハビリのほか10階までの階段の昇り降り、壁投げキャッチボール、病院を出て数キロの散歩など。/直る病いと直らぬ病い、直す(直る)入院、ただただ結果を待つ入院/、ほかの患者の顔を見るたびについこんなことを考えていた」こんなことを書いていた。今回病院全体の接遇は素晴らしくよくなっていた。看護師さんの苦労は相当なものだろう。深夜勤は3人で32人の患者に対応していた。「背中に手を入れてくれる人はALS患者にとって神様だ」、リハビリの先生の言葉が印象的だ。寝ても起きても背中は布団や車椅子と常に密着している。



 
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   第217号                         2007年10月1日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
    今日は/お世話になります
 発行 佐々木公一   ブログ http://blog.livedoor.jp/alsinfo/ ホームページ http://www.arsvi.com/w/sk13.htm  メールアドレスhamu-s@jcom.home.ne.jp

たばこづくり/昭和20年代の終り頃

 まだそこ冷えのする3月、2間(けん)×5、6間(けん)ほどもある苗床(なえどこ)にたばこの種をまいた。高さ5、60センチほどの枠のなかは落ち葉などで作られた堆肥(たいひ)が分厚く敷き詰められ、不思議な温かさがあった。毎日水をかけた。井戸からつるべで汲んで何回も往復してかけていた。やがて水道ができてこの仕事はよほど楽になった。

 まもなく小さい緑の双葉のたばこの芽が無数に顔を出した。4、5センチにもなったころ、一本づつ分けて植えた。はじめ薄い木の枠を使っていた。何年か後にはビニールになっていた。15センチにもなろうとするころ、はれて大地に出る。約5、60センチの間隔に分けて植えられる。その同じ畝(うね)には2、30センチに麦が育っていた。この麦がたばこの霜除けにもなるのだ。

 麦は霜に強い。霜が降れば麦踏みだ。ざっくざっくと踏む感覚がいまでも浮かぶようだ。だがたばこはからきし霜に弱いので、霜が降りそうな深夜から早朝にかけて古いタイヤを燃やしてたばこの上を煙りで覆うなどして防いだ。

 7月たばこの茎は大人の背丈よりも高くなる。たばこの花は白くてきれいなのだが咲かせる訳にはいかない。養分は花にはやれない。それであらじめ花の部分は切り取ってある。やがて少し黄色めくと/稔り/となり収穫だ。だがこれからが大変だ。たばこの葉は下から一枚ずつ取る。上からでなく横から丁寧にかぐ。手はヤニで真っ黒になる。ここもポイントである。2〜30枚になると畝(うね)の頭のところに集める。さらにリヤカーに山盛りに積んで家に運ぶ。

 これからがたばこ農家独特の工程となる。納屋(なや)一面に土間に筵(むしろ)がしかれ、一定の間隔にたばこの葉が山積みにされる。もちろんすべての葉の茎が手前にされる。さあはじまりだ。たばこ農家から手伝いが来てくる。全員で専用に作った縄(なわ)に葉を1枚づつはさんでいく(はせると言った)。多い時は20人近くもいた。やがて山と積まれて今日の仕事は終わる。翌日はこの一連の作業のヤマ場を迎える。「つり込み」という縄にはさんだたばこの葉を乾燥室につるす。横に2列に3〜50センチくらいの間隔でつるす。その数は思いだせない。

 これから3〜4昼夜室温を6〜70度に保ち続けるべく大きなかまどにマキを燃やし続ける。これも大変な仕事だ。やがてバーナーを買ってからずいぶん楽になった。土曜日や夏休みなどに手伝いをした。なおこの仕事は家内労働だ。さてたばこの葉が乾くと鮮やかな黄色になる。それで「つり降ろし」もまた協力してやる。縄から丁寧にはずして天井らに大切に保管する。これからは家内労働、乾いた葉を等級に分けていく。1枚1枚丹念に延々と2〜3か月も続く。

 このようにして出荷を迎える。とても大きな収入源だった。そしてその年一番成績のよかった家がほかの仲間や家族を招待する。当時特別のご馳走/すき焼きを大人も子どもも男も女もみんなで食べる。たばこ農家至福の時だ。いつまでも談笑は止まない。

 あとがき 母の法事で帰省して思い出した。振り返ると共同作業と家族作業の見事な組み合わせに感心する。田植えや日常の多くのことを当時共同して、助け合っていた。こういうものをふくめて多くを破壊してきた感じだ。1960年の穀物自給率79%、2005年27%。どこか狂っている。9/22〜23に大阪、香川へ旅をした。呼吸器をめぐる珍道中となった。次号で報告。



 
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   第218号                         2007年10月3日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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むかし
桑のトンネルを毎日歩いた
 家を出ると川があった。その川を横断して暗渠(あんきょ/四角い水のトンネル・昔のコンクリート)があった。その上を歩いて川を渡った。細い道が続いていた。途中に小川があった。いつも澄んだ水が流れていた。近所の人びとが、野菜などを洗っていた。左手は畑や野原、右手には畑に続いて民家が2軒あった。左に曲がると、さらに細い坂道が続いた。自転車一台、人ひとりが通れる坂道であった。坂道を登り切ると一面に桑畑が、広がっていた。桑のトンネルを毎日歩いた。秋には、桑の実を、舌を紫色に染めて、食べた。桑畑をぬけるとお寺があった。お寺の境内を通り、門をくぐって通りに出て、学校に向かった。昭和30年代はじめ、こんな風景が、広がっていた。

名前を/いちはし/という
 家を出ると細い野道があった。その野道に出ると右に孟宗竹の竹やぶ、左に畑があった。どちらもネコの額ほどの広さだった。野道は竹やぶぞいに右に折れ、急な極く短い坂道を下ると暗渠(あんきょ)があった。それが野道の続きだった。水が暗渠を超えると、ずぼんをめくり、裸足で歩いた。向こう岸も同じようになっていた。右に急な極く短い坂道を登ると野道に出た。大水が出ると通れなくなった。そこで近所の人びとが、相談して橋を造った。最初は木の橋だった。大きな角材をつないで造った。木の隙き間にタイヤをとられるなどして、よく自転車が、転落した。人も落ちた。なにより困ったのは、洪水のたびにこの橋が、壊れることだった。何度も何度も補修した。その後2代目、3代目は、コンクリートにかわった。3代目は、車が、1台とおれた。けれど狭かった。車が、何回か転落した。それで4、5年の歳月をかけて不釣り合いなほどりっぱな橋になった。初めて橋に名前がついた。/いちはし/という。役場の要請を受け尊敬する伯母が書いた。

むかし我が家に牛がいた
 むかし我が家に3〜4頭の牛がいた。毎日牛乳を出荷していた。にわとりも飼っていた。味噌も醤油も砂糖も油も自家製造であった。そしてこれはどこにでもある風景であった。牛の散歩が小学生の私の大切なお手伝いであった。牛から直接乳を自分で搾って飲んだこともある。牛の出産も見た。昭和30年代はじめの四国香川でのできごとである。

むかし裏の川で毎日泳いだ
 むかし、裏の川で、毎日泳いだ。ふなもはやもうなぎもなまずもいた。めだかもあめんぼもいた。小さな小川もあった。そこで母たちが洗濯をしていた。川の水はそう多くはないが確かに/川は流れていた/。なによりも螢がいた。たくさんいた。ある年突然様子が変わった。/川は流れなくなった/。流れが止まり大きな溜り水となった。川というより草原になった。同じころ、近所の池で泳いだ。夏の終わり、池が田んぼへの給水の役割を終えた頃池の水がなくなり、魚をとるため日を決めて解放された。みんなででかけてどろどろになって魚をとった。鯉、鮒、うなぎなどがおもしろいようにとれた。当然ごちそうであった。1960年代のある年上流にダムができたころから様子も風景も変わっていった。ともあれそんな時代が確かにあった。

 あとがき 敗戦の後日本にこんな時代があった。やがて高度成長の波に飲まれる。18世紀の産業革命以来人類は工業科、近代化、武器開発、戦争、環境破壊を繰り返してきた。いま地球上の鳥類の12%、1200種、ほ乳類の25%が絶滅の危機に瀕している(『地球白書』より)。



 
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   第219号                         2007年10月10日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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新しい呼吸器と旅して
 午前4時起床、夜勤のヘルパーさんと一緒に準備、荷物の準備とあわせて私の食事、洗面、トイレ、着替えもすすめる。最後にいつもの電動車椅子に乗せてもらって完了となる。5時半前運転手の高橋さん、山崎さん、ヘルパーの張さん、福島さんが次々に到着、準備が加速する。私は車椅子でリフトに乗り1階へ降り、玄関のせまいホ−ルを妻が大きな車椅子を器用に操作して、玄関の小型のリフトに後ろ向きに乗り、約30センチほどの段差を越える。このようにして晴れて、そしてやっと外に出る。9月22〜23日大阪、香川へ出発だ。すぐにリフトカーに乗り込む。車椅子の位置取りが決まれば、それっと荷物の積み込み開始だ。一泊なのに驚くほどの荷物だ。

 かくして出発、約5分で中央道国立府中インターに乗る。ところがすぐに大渋滞、下りのこの地点からの渋滞はあまり記憶にない。ハプニング続きの今度の旅の最初のハプニングだった。私はほどなく眠ってしまったのでよくわからないが、中央道から名神高速に出るころ3番目のハプニング発生、社会福祉学会(於大阪)に間に合わないかもしれない、との声が。実はその前に2番目のハプニングが発生、呼吸器の電源がつながらない、呼吸器の会社と連絡してみると、車のバッテリーが弱くなっているらしい。呼吸器のバッテリーの残り時間をみながらの旅となった。

 名神高速に出たとたんにまたしても大渋滞、社会福祉学会の時間はほぼ絶望になってきた。残念ながらあきらめ2つめの目的である「母の法事(於香川)」に向かうことにする。やがて明石大橋(神戸と淡路島を結ぶ世界一長い吊り橋/約3700メートル)を渡る。だがのんびりしてはいられない、呼吸器の充電をしなければならない。合計12時間あるバッテリーの能力(内部6時間、外部6時間)だがすでに大渋滞で約10時間分を使い果たしていた。で淡路島インターのレストランで充電させてもらいやれやれだ。

 充電もでき一路実家に向かう。淡路島縦走に約1時間、左はそれぞれの湾と港とたくさんの島、右側に時々見えるのは夕陽の中の瀬戸の島々。のんびり眺めていたいが一泊2日ではそうもいかない。やがて鳴門海峡をわたる。昔は海沿いの道を瀬戸内海を眺めながらののんびり旅だったが、いまは高速道路を一直線、山あいを突き進む。先住民のはずの動物たちの「おらたちの住まいや餌(えさ)や遊び場をかえせ」、叫びが聞こえてくるようだ。

 やがて昔なじみの風景を通り実家へ。全員(といっても4人、一番多い時8人家族だった)でおで迎え、いつもは地域の福祉施設から電動ベットを借りて泊まるのだが、一泊なので近くに宿(悪名高い厚生年金のホテル)をとる。食事に出かけそのまま宿へ。相変わらずベットづくりでひと苦労。水平では眠れないため傾斜をつける。電動ベットのありがたさいや必要さを痛感する。ただ呼吸器のセットはよほど楽になった。 

 そのようにして翌日午前10時実家へ、法事へ。昨年8月から多くの人とは3回めとなる。久し振りにお経の意味をと聞き入ったがむずかしい。1時間ほどで引き上げ帰京の途に。とにかく一泊の旅は忙しい。同じ道路を帰る。淡路島インターで充電をすませ、帰路へ。途中名神高速で約1時間集中豪雨にあう。なお中央道は不思議なほどすいていた。が甲府を過ぎた頃19キロ渋滞表示、呼吸器の残り2時間。悪い予感。4番めのハプニング発生。料金所を過ぎてついにバッテリー切れ、家につくまでの約30分アラームは鳴り続けた。かくしてなんとか無事たどりついた。
 あとがき チーム佐々木のみなさんに感謝。貴重な体験にも感謝。嵐の如き旅かく終る、です



 
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   第220号                         2007年10月20日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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15才おめでとう/結一郎へ

 お前はいつでも笑っていました。いつでもみんなの自慢のにこにこゆいくんでした。こっこおばさんも、いつも自慢していました。よく知っているように、結一郎 の 結 は、ひとやものごとをむすびつける、たばねる、という意味です。

 お父さんもお母さんも再婚で、お前が生まれた時、姉が3人いて、みんなと仲良くしてくれています。かわいがられています。お父さんもお母さんも、とっても喜んでいます。生まれたところは日鋼団地、赤井さん、大崎さん、杉村さんやたくさんのみなさんのお世話になりました。たばねるまではいかないけれど、大切な役割をはたしています。

 まもなく四谷のこの家に来て、保育園(四谷)、小学校(日新)、学童(日新)、八中(四谷)に休まず、友だちとも仲良く通ってきました。特に小学校の2年からはじめた野球を8年間(いまのところ)やりぬいたことを、お父さんは心から尊敬しています。うらやましいとも思っています。

 お前が4才の時、お父さんがALSになって、最初の2年間はたくさん旅行に行きました。東北も四国も、伊豆も、長野も、京都も、奈良も。でも小学校になって、2年から野球をはじめてから旅行はすっかり減りました。それでお前が1年生の時入院して、2年の時家で療養(りょうよう)をはじめてからすぐに、お前は「おらも吸引ができるぞ」と吸引を覚えてくれました。それからいままでよく介護を手伝ってくれています。

 病気がALSとわかったころ、お父さんはバイクや車の運転をしている時、お前とキャッチボールもジョギングもできなくなるのか、と思うと、涙が止まらないことが何回もありました。いつでもいまでも心の中で侘(わ)びています。やってもらうだけで何もやってやれないことを。2000年の長い入院から帰ってから一番うれしかったことは、お前の吸引だったよ。

 ほかの子のようにいっしょに一度も練習も応援もしてやれなかったのに、2つのチームの中心選手でがんばりぬいたことは、得がたい人生の宝物です。目標と覚悟は決まっているのだから、もうなんでもできる感じがします。のびのびと明るく高校に向かいましょう。

 最後ですが、15才の誕生日、心からおめでとう。
2007年10月17日 父より

あとがき 長崎の泉さん、6才と4才のお子さんの楽しそうな様子がよく伝わります。父親役割みごとです。我が家も4才で発症、父親らしいことをあまりできずに、反省ばかりです。できるだけ手紙を書くことを心がけてきました。4〜5才の頃「病気はなおるの」「いつなおるの」とよく聞かれて答えに困りました。泉さんのことをALSの「父親子育てモデル」として注目です。香川の松川さんから呼吸器をつけるうれしい決断のお便りをいただきました。町田相原小学校みなさんの33人のお便りに感激。京都の医者から真摯な返事あり。内容は後日。福島の佐川さんから「私の好きな昔は、、、田植え前の土をたがやした土の香りと風景〜」と素敵な散文をいただきました。「患者さんが協力していることを知り、すばらしいことだと思いました」故郷の友よりの激励。



 
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   第221号                         2007年11月10日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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健康とはなんだろう

 健康とはなんだろう? 様々なみかたがあるが、大きくわけるとつぎのように3つに整理できるように思われる。第一は、体の問題である。身体に病気や障害がないことである。生物学的・客観的に病気や障害がないことである。第二は、心の問題である。気持の持ちかたである。実感的・主観的なみかたである。健康的(不健康な)考え、のように使われる時のような内容である。第三は、努力の問題である。健康またはよりよい状態をめざし努力している状態が健康である。なお第二、第三のみかたが、近来特に難病ケアの中で、注目されている。

 ALSの場合を具体的にみよう。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の治療方法は薬を含めて世界で研究されているが、いまのところ/まだ/である。日本で7400人、世界で約30数万人という人数から、あまり利益を生まないことも影響しているだろう。

 以下第二、第三のはざまを生き抜く、つまりALSの受容から人生の再構築にむかう仲間たちの記録を抜粋する(「生きる力」/06年岩波ブックレット)。
 和歌山県和中 勝三さんの場合/私自身も気管切開するまで「死にたい、外へ出たくない、人と会いたくない」と言っていました。治療がないと知ったときは思いきり泣き、絶望感に襲われ家内にあたり困らせたこともありました。私が乗り越えられたのは、私が死にたい呼吸器を着けないと言いはっても何も言わずに黙って辛抱しながら介護して支えてくれた家族がいたからです。
 愛知県、藤本栄さんの場合/そして、何故私が立ち直れたかというと、人間は不思議なもので落ちる所まで落ちてしまうと、それ以上落ちる事が無いので、失いつくしたら今度は得られる事に目がいくのです。また、得られる喜びに感謝できる様にもなるのです。
 千葉県、舩後 靖彦さんの場合/“筋萎縮性側索硬化症発症者として、後から発症なさられた方達のお役に立ちたい”と言う自分で自分に課したものだ。そしてその具体的活動として“ピアサポートとしての私の詩や俳句の配信”を、“つないだ命持つ者の務め”として、時には“僭越だ”とのお叱りに耐えながらも地味に続けている。
 東京都、 長谷川進さんの場合/それならば病気とともに生きていくしか方法がないと病気を受けいれ,できることをあせらずやることにし、絵を描くことをはじめました。
 東京都、北谷好美さんの場合/私は主婦であり、子育てをする母であり、夫にとっては悪妻であり、ALS患者としては活動家?(ようやく活動を始めたばかりですが)として、障害に負けずに自立してやlって行こうと思っています。こんなに過酷な病気でありながらも、在宅で療養生活を過ごせるということが、生きる力を与えてくれるのです。

 かにかくに 逞(たくま)しくまた 意義深く こんな句が浮んできました。

 「われわれのこの世で薄氷を踏むような在り方を認めることが知性の始まりであり、その事実の前にいささかもたじろかないことが勇気の始まりである。」と言った人がいる。このような知性と勇気を 生きる力 の32人の手記(呼び掛け人のうちの5人から抜群)から読み取ることができる。都立神経病院の林院長が書かれているような「新しいALS観」が無数に生まれつつあるのかもしれません。そしてみんなの合わせれば、新しいALSの理論が生まれるかもしれません。

 あとがき 「病気の中の健康」「静けさの中の躍動」(今勉強中)、確かにあるとこの頃思う。



 
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   第222号                         2007年11月24日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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東海大学現代教養科目社会基礎論のみなさん
 当大学院健康科学研究科保健福祉学専攻/ALS患者 府中市の佐々木公一です。

 最近こんなことをよく聞かれます。「えっ! 通っているんですか?」。そこで通学の様子をまずご報告します。火曜日と木曜日、往復3時間(約105キロ)を通います。春に休んだのは1日だけでした。通学の日このようにはじまります。
 午前7時起床、パソコン、9時半荷物の準備とあわせて私の食事、洗面、トイレ、着替えもすすめる。最後にいつもの電動車椅子に乗せてもらって完了となる。私は車椅子でリフトに乗り1階へ降り、玄関のせまいホ−ルを妻が大きな車椅子を器用に操作して、玄関の小型のリフトに後ろ向きに乗り、約30センチほどの段差を越える。このようにして晴れて、そしてやっと外に出る。すぐにリフトカーに乗り込む。車椅子の位置取りが決まれば、それっと荷物の積み込み、11時半出発です。今日はヘルパーさんと運転手さん。私はすぐに爆睡、目覚めたら到着がいつものパターン。

 ここから普通と違います。そのまま2階の教授の研究室へ。その一番奥が/2年間特別に「チーム佐々木」に貸与された控え室(研究室)/、そこに入る。今日は火曜日3、4限、谷口教授が来室されて、全員でテーブル、椅子、黒板、DVDやビデオ用のテレビなどの配置を確認してから「高齢者福祉」を学ぶ。この授業の生徒は私ひとり。ヘルパーさんが文字盤で通訳してくれる。さらにこの夏3つの集中講議(1日5限×3日連続)を5時起きでやりぬけたことが、とても大きな自信になりあました。なお『障害をもつ学生支援委員会』をはじめ東海大学のひとかたならぬご支援のおかげです。心より感謝しております。

 これからですが。「呼吸器をつけたら生きられます。しかしベット上につながれ天井だけを見て暮らすことになります。家族に(介護のことで)迷惑もかけます。それでも呼吸器をつけますか」、このような内容の告知が多くのALS患者にされています。数日前40代の女性から「明日呼吸器をつけます。希望はすてます。明日からカーテンレールの輪だけを数えて生きて行きます」、こんな手紙をもらいました。これを「呼吸器をつけても楽しく生きられます。旅行もできます。飛行機にも乗れます。外国にも行けます。工夫してがんばれば何でもできます」と変えたら、ALS患者のその後の人生は劇的に変わると思います。

 ヘルパーステーションや訪問看護を経営して難病患者をサポートを続ける仲間がいます。全国の患者へのぴあカウンセリングを続ける仲間がいます。パソコンと文字盤で引き続き会社経営を続ける仲間がいます。看護学校や大学で講演や文字盤教室を続ける仲間がいます。全国、時には外国までALS患者の激励を続ける仲間がいます。ALSになってから子どもを産み育てる仲間がいます。放送大学大学院の受講を続ける仲間がいます。毎日短歌や俳句をつくり配信を続ける仲間がいます。写真を撮り配信を続ける仲間がいます。100人をこえるALS患者が本を出しています。

 みなさん。私はいまこんなことをめざして、修士論文の準備をはじめています。例えば難病患者に対する時、「あなたはこれから、どんな新しい人生をつくりますか。そこにはつらいこと、苦しいこともあるけれど、無限の可能性に満ちています」、と言ってあげてほしいのです。

 あとがき はじめて福祉、看護以外の学生(約90人)に講演、新しい発見が多くあった。週2の授業以外に16ヘルパー交流会、17都立病院民営化反対集会、18ALS患者への出前コンサート、21東海大学で講演、23わの会ミニコンサート、目が回りそう。なお妻は通常勤務です。



 
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   第223号                         2007年12月4日
           週刊/ALS患者のひとりごと
 
 
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ヘルパーの賃金
 いまハローワークの福祉コーナーに行くと一人の休職に対して5人の求人があるという。つまり1人のヘルパーを5つのステーションなどが奪いあうという状況だという。ヘルパーが足りない、募集しても来ない、福祉系職場に深刻な悩みが広がっている。当然ながらそのしわよせは患者=利用者に集中する。必要な時間にヘルパーがいない、なにもできない。命の危険もある。

 では福祉労働者は奪いあわれるほど恵まれているのか。答えは反対である。いますべてのヘルパー(常勤、非常勤あわせて)の平均月収はわずか13万円という。あるデイサービス職員(男37才、生活相談員、大卒)の10月の給与明細だ。支給 基本給 205,000 役職手当 10,000 残業 6,721 通勤 2,000 計223,712 控除 健康保険 9,840 厚生年金 17,995 雇用保険 1,342 所得税 2,800 住民税 6,800計47,777 差引支給合計 175,936

 昨年度(06年)の統計でいま日本に328万人の福祉労働者がいる。だが昨年度20%が増えたが実に28%の人たちが福祉現場を去っている。昨年新たに47万人が介護福祉士の資格を取得したが、27万人しか福祉現場で働いていない。他方で要介護要支援高齢者は410万人、加えて現在日本の障害者は600〜700万人いる。恐らく数百万人単位でヘルパーなど足りないだろう。なお日本の非正規雇用労働者は1600万人、労働者の3人に1人、その平均賃金は約103万円。深刻な格差社会を構成する。その中に福祉労働の大半が含まれるという異様な現実がある。

福祉労働者の賃金はなぜ安いか
  日本の労働市場は、終身雇用制度の崩壊と細分化された労働時間(細切れ時間の切り売り、パートや派遣、フリーター、非常用雇用が常態化している)によって労働条件が悪化した。このため労組の組織化が困難になり、労組が弱体化した結果、雇用者との交渉力が低下した。国も労組も電気・機械・自動車・鉄鋼など大手企業の論理で労働条件を計測している。つまり、労働生産性・効率性・収益性だけを基準に価値判断をしている。
 福祉や医療産業、あるいは農林漁業のように労働集約的で生産性基準だけで評価できない分野は低賃金が当たり前のようになってきた。最近考えられない企業モラル・モラルハザード(企業倫理、労働モラルの低下)がニュースになる。社会の安定や安寧、さらに、自然環境保護、人命尊重は企業の論理では解決されないのである。森や水、海、空を守る理念と平和と命を尊ぶ快適な社会とは共通の理念や制度で結ばれていなければならない。
  医療や福祉の制度は、個々の命と幸せを保障するだけではなく社会そのものを維持存続させるものである。従って北欧諸国のように国も企業もそれぞれも目標は生まれて死ぬまでの過程(乳児、学童の健康と教育、さらには就業、老後)一人ひとりの諸権利を保障することを行動規範にしなければならない。そのための制度、政策の確立が必要であろう。   田村久平中央学院大准教授

あとがき 福祉労働の賃金について中央大学の先輩田村さんに聞いた。本来市場原理にそぐわない福祉労働(憲法を貫く中心理念/いわば福祉労働は国の第一義的義務の代理執行者でもあるのです)を市場にもちこむ政府と資本の意図に無理があるのです。その結果90年代以降深刻で膨大な格差社会の下層部分に福祉労働を引き入れることになります。私は1600万人に及ぶ非正規雇用労働者(安くいつでも首にできる)の土台を成す派遣労働を法律にし度重なる改悪を重ねてきた勢力を天才的悪魔だと思っている。あたかも江戸時代の士農工商エタ卑民の差別政策に似ている。だが実は出口ははっきりしている。介護報酬を国家公務員福祉職を参考に引き上げる以外にない。


UP:20070106 REV: 20190217
佐々木 公一  ◇ALS 2007  ◇ALS
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