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『障害の地平』No.102

視覚障害者労働問題協議会 編 20010202 SSK通巻第1700号;身体障害者定期刊行物協会,28p.

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last update: 20210528



視覚障害者労働問題協議会 編 20010202 『障害の地平』第102号,SSK通巻第1700号;身体障害者定期刊行物協会,28p. ds. v01

■全文

表紙
 SSKー障害者開放運動の理論的・実践的飛躍のためにー
 子宮から墓場までノーマライゼーション!
 ー視労協ー
 障害の地平 増刊 No.102
 「別れ、そして出発」
 視覚障害者労働問題協議会
 一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
 二〇〇一年二月二日発行SSK通巻1700号

目次
 さまよえる視労協気分 的野 碩郎 1頁
 視労協交流大会ご案内 視労協事務局 4頁
 心も身体も安心元気の町を目指して 森 登美江 7頁
 益田 毅さんをしのぶ 視労協事務局 10頁
 超人益田 毅の一日 的野 碩郎 12頁
 誌上インタビュー ー益田毅さんに聞くー(第1回) 16頁
 誌上インタビュー ー益田毅さんに聞くー(第2回) 19頁
 誌上インタビュー ー益田毅さんに聞くー(第3回) 23頁
 編集後記 28頁

p1
 さまよえる視労協気分
 的野 碩郎
 私達はついに21世紀をみました。幾度と雪のちらつく2001年1月は、間違いなく私達にも訪れました。しかし、その現実と違うもう一つの現実。視労協にとって21世紀は、どうなのでしょうか。活動する会員は激減し、活動を細々と続ける人達は年齢を更に重ね、一人何役を体力とは無関係に、こなしていかなければなりません。視労協とは一体なんなのですか。精神力も肉体の衰え同様弱ってきます。それでも個別課題は次から次へと現れ、目の前にはいくつもの悲痛な叫びで助けや協力を求める人達が、立っています。
 少し前には障害者解放運動や差別を許さないというスローガンがあって、そのことを柱とする思想があったと思います。今は、あてがわれる活動に参加することで満足をして社会そのものを憂うこともなく、自己中心の毎日が充満しているようです。視労協を解散することも視労協を脱会することも陰口としては、あるものの、単なる無責任な野次馬にしかすぎません。21世紀が心をどう扱うか、とても重大な課題だと思っています。逃げることもカッコつけることも強がることもいいでしょう。でも、身体や心の弱っている人を守るくらいの余裕が欲しいです。職場で生活の場で助けを求めている人と、一緒に闘うことぐらい当たり前のことだと思います。さまよえる視労協。2001年からひと味違います。
 (1)
 今年も結局視労協大会を開催することになりました。いまの力量では担い手の意識では少し無理があるのではという意見を押し切って、やることになりました。人も時間も金もありませんが、やることを決めた以上元気のでるイベントにしたいと思います。
 3月3〜4日、東京国立にある多摩障害者スポーツセンターで宿泊とリレートークならびに討論とし、中心をまちづくりに絞りました。他の障害との主張の違いと妥協点、同じ障害のなかでの意見の違いと本物さがしを是非試みたいと思います。歩道の段差や点字ブロックの必要性や点字表示の不十分さ、音声・音響式の信号機などなど、未だあいまいなままになっている問題点を時間のある限り討論しようということです。宿泊は無料だし、交流もおまけつきです。是非是非ご参加ください。

 (2)
 交流大会が今回まちづくりに絞られたように、都営地下鉄大江戸線・三田線の点検、東京国分寺・国立・立川での地元視覚障害者との共同点検。福島県いわき市での自治労との共同点検と地道ながら重要な活動も続けています。また、車椅子障害者団体とのバスの点検もかなりの回数となりました。どれも冬の点検では、肌身にこたえるところがありますが、安心と安全の確保にかなりの時間を費やしています。また、触地図や手すりの点字表示など正確に現在地や方向を表すには、的確でないモノも多く、少しずつではありますが、意見書を作るための点検も大事な活動となっています。業者の利潤追求や障害者をはずしての基準作りには、断固とした心構えで挑まなければと思います。
 (3)
 東京都港区にある都直営の障害者福祉会館民営化反対の運動も2度目の署名集めに入りました。2001年度も反対の戦いの中で都直営の継続となりましたが、もたつく情勢のなかには、赤字財政をたてに廃館や企業売却といった選択肢があるような噂も飛び交っています。東京都の予算の一律カットのなかで会館の事業計画の縮小や職員激減、予算のカットが明らかになりつつあります。ましてや私達のような小さな会やボランティア団体の意見を言う場も与えられずに、推進されようとしています。是非署名の協力お願いします、詳しくは事務局へご連絡下さい。
 (4)
 全国晴眼者のマッサージや針灸の養成学校の新設増設が、野放しになって視覚障害者は地域の開業に脅威を覚えています。また、法の網の目をかいくぐって、もぐりのマッサージが急増しているのも確かです。韓国・中国・タイなどの名前を借りたエステや足ツボ療法や頭マッサージなど無免許者の入り込みやすい環境が、不況を背景に急増していますし、その波は温泉場街にも押し寄せています。視労協鬼怒川支部からは、その生々しい実態が次から次へと伝えられています。ほとんどの視覚障害者団体は無資格者の一掃を掲げていますが、厚生省との交渉以外になかなか十分な運動が組み立てられていないようにみえます。早急に視労協としての運動の組立が必要です。

p3
また、このことと平行して障害者雇用促進法の助成金制度の犠牲となった仲間からの訴えも出てきました。低賃金で雇いながらも結局辞めるように巧妙な手が使われてしまいました。当該との十分な話込みの中から、これからを一緒に動いていきたいと思います。
 健康ランドで働く会員からは、数多く無資格の存在やそのことを悪利用する経営者のことや免許保持者への手当など、巧妙な手口も伝わってきます。ホントにもっと私達の力が欲しいと痛感する次第です。
 (5)
 購読者の皆さんには、機関紙の発行・発送が遅れたり誤字脱字に加え、乱丁と大変ご迷惑をおかけしています。大事な活動と思っているものの、チェック機能の重要性の欠如。晴眼者のいない中での作業など、何重にも重なった事柄が適当な機関誌となっていると深く反省します。もちろん内容の希薄さもご指摘のとおりですが、なかなか脱皮できる条件整備ができません。もう少し長い目でお読み下さることをお願いする次第です。また、住所の保管や整理も滞っていて重ねてご迷惑をおかけしています。この場を借りてお詫びします。点字版・一般活字版と25年間出し続けることの自負はありますが、今後の課題が悲しいほど山積していることも事実です。
 (6)
 生活の中による文化・芸術と障害者とのありかたの追究や旅行や各種イベントでの障害者とのありようと、なかなか手のつけられない分野にも積極的に実践的に取り組んでいます。このことは、誰にでもとっかかりやすいテーマであり、活動でもあります。軽視することなく切り開いていければと思います。
 視労協21世紀も是非あたたかく見守って頂き、ご支援ご協力をなにとぞよろしくお願い致します。なお会費・購読料・カンパも変わらずよろしくお願い致します。

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 視労協交流大会ご案内
 視覚障害者労働問題協議会
 代表 的野 碩郎
 実行委員長 宮 昭夫
 大寒の候、皆様方におかれましては、ますますご健勝のことと推察致します。
 さて、21世紀の幕開け、視労協にとって大事な行事である「視労協交流大会」を本年も実施することとなりました。なにぶん準備期間が短くなってしまい、ご満足のいく催しとなるかどうか不安ではありますが、皆様方のご支援ご協力を賜り実施することがかなえばと思い、ここに呼びかけをさせて頂く次第です。
 昨年、バリアフリー法なるものが成立したことは、皆様方の周知されるところであります。そしてその中身づくりへと場面は移っています。中身づくりへの障害者の十分な参画の課題をはじめ、障害別の抱えている問題や障害の違いによって生まれる相違点など、多方面にわたって解決しなければならない事柄が山積しています。この壁は視労協の抱える大きな課題の中から、あえて「まちづくり」を取り上げて徹底討論の場を設けたいと思います。例えば、点字ブロックの形・材質、敷設方法、手すりなどの点字表示の内容とプレートの材質、階段踊り場の点字ブロックの有無、ホームドアをめぐる課題などなど。
 また、信号機をめぐる音声あるいは音響の問題、車いすや松葉杖などの使用者と視覚障害者の段差の接点はどこに。視覚障害者内のどこに設置や敷設の判断基準を置くのか?などなど「バリアフリー法」の問題点を含めて大検証したいと思います。
 皆様方にはお忙しいこととは存じますが、万障お繰り合わせの上、参加ご協力を切にお願いする次第です。
 なおプレイベントとして、別紙の通り楽しい企画を準備しましたので、あわせて参加頂ければ幸いです。

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 記
 日時:2001年3月3日(土)〜4日(日)
 会場:東京都多摩障害者スポーツセンター
 (東京都国立市富士見台2ー1ー1 電話:042ー573ー3811)
 宿泊:会場隣接の宿泊棟
 プログラム
 テーマ:徹底討論「まちに出て恐かったこと、困ったこと、腹の立ったことーバリアフリー法にもの申す」
 日程
 3月3日(土)
 待ち合わせ 15:45 JR中央線国立駅南口改札外(送迎バス16時南口駅前より)
 受付 16:30〜17:00 受付
 17:00〜18:00 視労協総会(会場:宿泊棟・桜の間)
 18:15〜21:00 交流会(夕食を含む。会場:桜の間)
 3月4日(日)
 待ち合わせ 8:50 JR中央線国立駅南口改札外(送迎バス9:10南口駅前より)
 9:30〜10:00 受付
 10:00〜12:00 徹底討論「まちづくりマラソントーク」(会場:センター内会議室)
 12:00〜13:00 昼食(同会議室にて弁当)
 13:00〜16:00 第2部徹底討論「まちづくりフロアディスカッション」(同会議室)
 コーディネーター:今福義明さん(アクセス東京)
 堀 利和参議院議員、宮 昭夫さん(視労協)、麦倉 哲さん(東京女学館短期大学助教授・交渉中)
 16:00〜16:15 閉会
 17:00〜 反省、交流会

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 参加費:資料代300円、交流会費(3日)1,500円、朝食500円、昼食800円、なお、宿泊費は会の負担とさせて頂きます。
 宿泊申込締切:2月28日(水)
 ★駐車場あり。
 ★各地からの報告や個別活動報告は交流会の中に含みますので、資料のある方はできるだけはやめに準備をお願いします。
 問い合わせ・連絡先:視労協事務局 東京都練馬区東大泉6ー34ー28
 稜雲閣マンション403 電話・fax:03ー3925ー3522

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 心も身体も安心元気の町を目指して
 森 登美江
 3月3日(土)、4日(日)恒例の視労協交流大会を開催します。4日(日)は珍しく、まちづくり1本に絞った1日が企画されています。
 「困っをたこと、怖かったこと、腹の立ったことー交通バリアフリー法に申す」をテーマに各自の体験を通してより具体的に提起してみようと言うのが焦点です。
 視覚障害者独自の課題、高齢者や車椅子使用者をはじめ、他の障害を持つ人達との相違点を踏まえて接点を模索します。高齢者や障害者にとって安心して生きられる町は、全ての人にとって安心して生きられる町、間違えなく。そう言えるまちづくりを着実に進めていかなければなりません。私達視労協は常にそういう思いを基本にまちづくりに関わり続けています。
 「視覚障害者独自の課題」
 点字ブロック、点字表示、音声案内と大きく3つに分けられると思います。それらは全てより正確な情報を簡単にスピーディに受け取ることを基本に設置されていなければなりません。
 点字ブロックは徐々に絞込みが当事者間で、そして行政の間で進められつつありますが、材質や敷設のし方など、クリアしなければならない課題が多くあります。材質は当事者が黙っていれば安くて簡単な溶着式のものが広まってしまいます。そして、敷設のし方も一定の基本を元にその敷設箇所によって、どうするのが分かりやすいか当事者と各管理者、そして直接携わる業者との間で話し合わなければ実際に使いこなせないものが出来あがってしまう危険性が十分考えられます。まだまだ「付けてありさえす

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れば」と言う当事者抜きの考え方がはびこっているからです。
 点字表示も鉄道駅の階段手すりに多く見られるようになりましたが、情報内容の不充分さが見とめられます。判り易く的確な表現やプレートやシールの材質も合わせて当事者側から提起する必要があります。点字を知らない業者が逆に取りつけてしまったり、全く違うところの情報の案内板を取りつけてしまったりしているケースもいくつも見ました。それは、一つ間違えば事故につながります。
 音声案内は鉄道駅入口や改札、そして階段を知らせる「東京から千葉方面を走る総武線など」誘導チャイムから食地図に音声の組み込まれているもの、トイレを知らせるもの、交差点の青信号を知らせるものナドナド、更には音声誘導システム(磁気、赤外線、電波など)に至るまで、様々あり大きな課題となります。今、私達は複雑な交差点での音声による信号案内を実際にあるものを検証したりしながら、より安全なものを実際に設置場所を上げて具体的に進めているところです。
 「高齢者、障害者共通の課題」
 最も大きな問題は歩道段差のこと。私達にとってフラット化は歩車道を区別するのに妨げになります。交差点などでは車道に出て信号待ちをしかねない状況であり、接触事故は免れません。白線で区切られているだけの通りなど私達にとっては、全く無関係です。さて、そこで、どの程度の段差なら高齢者がつまづいたり車椅子が引っかかることなく移動できて私達にも歩車道が分かるのかと言う点が問題です。一応2cmが最大と言われています。それも本当にどうなのか、一緒に調べていく必要があります。
 その他、エレベータのボタン、私達は触っただけでついてしまうものは困ります。指の力のない人にとっては触れるだけで反応

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してくれないと困る。大きなことから小さなことまで拾い出したら、たーくさんあります。
 そして共通は放置自転車問題。
 紙面の都合でかなりはしょってしまいましたが、あれこれ出し合ってそれぞれの立場を思いやり接点を見い出しながらこれからのまちづくり活動を広げて行けたらと思っています。
 挿絵省略

p10
 益田 毅さんをしのぶ
 視労協 事務局
 私達の中間である益田さんが亡くなったのがつい昨日の様に思えます。活動の日々の中で「それじゃ益田さんだよ」とか「益田さんはこうやってきたよな」とかいくどとなくその面影をしのぶ事があります。今もこの追悼文を書くにあたって脳裏にはそれぞれの場面場面がおもい浮かんできます。それだけ強烈な印象を残して亡くなられたのだと思います。個性的で一言では言い尽くせません.
 追悼の集まりをした時、参加された皆さんから次から次へと間のあかない話しが語られました。武勇伝やその独特な動きやら一心不乱な活動や人情味あふれることがらやらと、ほんとに次から次へとでした。
 人の死というものは、日々がたつにつれ薄れてきます。またそれがあたりまえかもしれません。でも日々の生活の場面にその面影が登場するという強いインパクトを私達に知らず知らず与えていたのだとあらためて認識したしだいです。
 視労協的にはほとんどの活動に率先して参加して頂きました、いくつかの活動の担当も担ってもらいました。特に、視労協の機関誌「障害の地平」を販売する事に多くの時間をさいて頂きました。機関誌の残部のほとんどは益田さんが売り尽くしてくれました。その金は私達の活動費としてつまり視労協の財政の中心を担っていました。益田さんがなくなってからその重要な任務に穴があいてしまい会としてどうしたらいいのか不安を抱えた状態となってしまいました。逆に言えばそれほど私達は頼りきっていて売り方の手法やさばける集まりなど詳しく話す事なくお別れとなってしまいました。
 会の活動も、もともと小人数で動きをつくっていたため益田さんの一人分の穴はきついものがあり残念でたまりません。それでも残された私達は力をあわせ視労協の元気を何とか取りもどしたいと思います。
 視労協という会にとどまらず、視覚障害者運動全体として元気をだせればと思っています。そうする事が益田さんのおもいにこたえ引き継ぐ事になると思います。
 21世紀2001年に入ったとはいえ、私達の生活は不景気のあおりで今だ厳しい状況を強いられています。特に、はり・マッサージで開業される会員にとっては家賃をつくり出すことにより多くの労力を費やすのが現実です。全国的には晴眼者のはり・灸・マッサージの養成学校が新設・増設され視覚障害者三療師にとっての危機感を一層あおっています。益田さんは常にその戦いの重要性を持ち続けておられ他団体の学習会や決議集会、行政交渉へと率先して参加されていました。私達の事務局へ残された遺品のはり箱にはその長い間の盲界の歴史と共に歩いた益田さんそのものがあるように思われます。その遺志を引き続き戦いを展開させていくのもこれまた私達の課題だと思います。

p11
 益田さん東京の冬は暖冬と言われながらも雪がちらつき北風が吹きつける毎日となっています。視労協が抱える幾つかの個別課題もなかなか解決の方向へと進みません。何とかしなければというあせりが一層歩みを阻んでいるように思えます。精神的にもきつさが増している様です。肉体は高齢化へ向かっていてこれまたきつさを増しているのが現実です。益田さんのあの超人的気力にはほんとにいつもいつも学ぶものがありました。1日に2つも3つも会議や活動に参加されこなされていました。私達には真似のできない事かもしれません。
 益田さん、安らかにお眠り下さい。私達が益田さんの遺志を引き継ぐにはあまりにも情ない力しか持ち合わせていないのかもしれません。それでも何とぞ私達を見守って下さい。
 それぞれの力を最大限発揮できるよう努力して行きたいと思います。
 あの大きいリユックはどこにありますか? あの白い棒状はどこにありますか? コンビニの白い御飯はどこにありますか? 署名を会場で回す時のあのボールペンはどこにありますか? 顔中しわだらけにしての笑いはどこにありますか? 独特なしゃべり口調はどこにありますか? もはや私達には探すすべがありません。私達の心の奥底に残すしかありません。
 益田さん、お別れです。ゆっくり ゆっくりとお眠り下さい。

p12
 超人益田 毅の一日
 さる2000年8月8日に肝臓ガンのため、お亡くなりになられた益田毅さんを偲んで、生前展開された人生模様を私たちの心にしっかりと残すために、ここにその1日を追ってみたいと思います。読み方次第ではエピソードや武勇伝となりますが、一歩間違えれば嫌味にも捉えられるのかもしれませんが、あえてのぞき見ることにしました。そうすることがいつまでも益田さんを忘れない方法であり、私たちが益田さんの分も元気を共有できるような気がします。
 私が聞き集めた事柄なので十分な確かなことでないところもあるかもしれませんが、ご了承願うとともに遺族の皆様そして仲間の皆様と生前を偲び、つかの間の時を過ごしたいと思います。
 益田さんの朝は早い。いつ頃かあるいは最初からなのか、腕時計を持っているところを見聞きしたことがない。朝の3、4時頃にはふとんの中で目を覚まし、ゴソゴソとまわりをなでまわす。もちろんあのスーパー袋のチャリチャリという音も当然聞こえてくるわけだ。
 最初にラジオに手がいく。朝一番聴くのはバロック音楽である。誰々のバロックはイイと、よく音楽好きの仲間と会話をしているのを耳にした。なぜ、バロックなのか私には見当がつかないが歌謡曲はペギー葉山と、どう一致する感覚なのかちょっとわかりかねる。
 たぶん、歯を磨いてもいなかったと思う。集会や会の合宿で一緒に宿泊しても見聴きしたことがないからだ。永六輔も同じだそうだ。
 益田さんは、自炊を数えるほどしかしていない。以前たまごスープに三つ葉をちらしたモノを作ったことがあると聞いたが、それも不確かである。さっさと自分が大家であるアパートを出て、最初の会議やバザーや集会所へと出かけていく。時計がないせいもあるだろうが、やけに早いおつきである。早くついたからといって時間を無駄に過ごすわけではない。まずは、朝飯がはじまる。いつもまとめて買い込むホカ弁の銀シャリ。おかずはない。いや、ないというのは私の感覚である。どんなものも益田さんにとれば、重要なおかずである。塩分や糖分は必ず食べ物にはついているわけだから、それで十分なのだ。クラッカーやピーナッツという酒のつまみも上等なおかずに変身する。銀シャリを2パックにクラッカーが5枚なんて、さすがである。この食事につきものなのが、飲み物である。リュックの中からはサイダーがまず1本。まわりに人がいれば、必ず補充を忘れない。晩年は、たぶん栄養を考えたのかジュース類を注文。また、駅弁につきもののお茶の入れ物を持ち歩き、集会所でのお茶を頂き補充。ちょっとでも渋ければもったいないと言ってお湯をよく足していた。
 朝食が終わると益田さんお得意の署名取り。会の機関誌売り。冊子売り。署名取りは内容はさまざま。労働者の解雇撤回もあれば、ロス疑惑の三浦和義もある。自民党もあれば共産党もある。すべて困っている仲間の正義の味方である。

p13
 ただ回りに座った人も慣れてきてやりたくない署名はさっさと突き返してくる。「これ前にやりました」といって。それでも益田さんはすごい。この署名取りは集会所に限らず人が集まりそうな所ならどこでも行われた。電車に乗ってすぐさま一人で動いて席を探しに。座ったら今度は隣の人にいきなり「これは何でしょうか」と署名を見せる。見たら最後、すかさず「署名をして下さい」と畳み込む。超人益田ここにありである。本当にご苦労さまである。
 機関誌売り冊子売りもすさまじい。一体益田さんはいくつの会に所属しているのだろうか。私が知っている限りで言えば日盲連、全鍼師会、全病理、視労協、グループ飛躍、教育ネット、全視協まだまだある。
 それぞれの会の機関誌を大きなリュックにつめ、或いは手提げの大袋に詰め込んで署名同様売り歩くのである。持ち歩くだけでも体力の要ることである。そのお陰で財政の潤った会も少なくないだろう。いつだったか池袋駅構内で全盲の人が強引に冊子を売っているのを如何なものかと言う投書が朝日新聞にあったことがある。私は「これは多分」と邪推してしまったがもしそうであるとすれば必死さに敬服つかまつるである。当然わかってもらえていると思うが本人の名誉のために売り上げは全て会や依頼主へ全額渡されたのは、言うまでもない。何冊売れば何割なんていうケチな話ではない。
 超人益田の会議中の有名なことは、上手に睡眠をとるということだ。あるときは、おでこをテーブルに何回もぶつけるという悲劇もあったが、晩年は本当に体力が衰えたのか、畳の部屋などではゴロリと申し訳なさそうに横になり、具合の悪そうなイビキをかいていた。いま考えれば相当調子が悪かったに違いない。
 益田さんは、食事をきっちりと時間どおりとるタイプなのか、会議中にもスーパー袋がチャリチャリといえば、必ず食事か飲み物となっていた。
 会議中でおもしろい話がもうひとつある。行政との交渉中、珍しく益田さんがメモの点字を書き始めた。目の見える仲間が一瞬驚いたという。なんと、点字用紙の代わりにプレイボーイ誌という雑誌のヌードケラビアが挟まれていたというのだ。点字用紙節約の意味もあってそうされたのだろうが、仲間の驚きはまだしも行政のお偉いさんはニヤケたに違いない。だが、それから益田さんが点字器を使っているところを見たことがない。なんでも、なくしたという話であった。ということは、電話番号やすべてのスケジュールは、頭の中に納められていたということになる。いやいや、恐れ入った。
 1日のうちに、いくつもの集会やバザーを渡り歩く。ガイドヘルパーを使いこなしながら東へ西へである。交通費だけでもたいした物いりだったに違いない。
 失礼ながら益田さんは、地主兼アパートの大家。ちょっと考えれば裕福な一人暮らしである。だが、しかし、本当は大変だったに違いない。店子はほとんどが生活保護の人たちで、高額な家賃というわけにはいかない。立て直したアパートででも、同額家賃で住んでもらっていたようだ。時々障害者運動関係で治療に出張する話もあったが、それもたまだったと思える。超人益田は、そうなると仙人で、霞を食っていたのかもしれない。そうとも知らず私の仲間の冗談は養子に入ろうとか同情をかける代わりに、なんていう酒のつまみになる話が飛び交ったも

p14
のである。
 このへんで、ちょっと浮いた話を書いておこうと思う。益田さんは、ずーっとひとりものだったようだ。障害者を集めたお見合にも何回か参加していたようだ。「どうでしたか」と聞くと相手の女性の話よりも、見合いの席で出たすべてをボロクソけなして「視覚障害者にあんなもの出すなんて非常識だ」と声を荒げ話をそらしていたのを思い出す。また益田さんは正田美智子さん(いまの皇后)がやけに気に入っていた。もちろん天皇制には反対だったに違いないが、声の質やしゃべりかた、そして特異な血液型がお好みであったようだ。その延長上で全障連のイノさんにずいぶん思いをもっておられたようだ。一度は「頬をさわらせて欲しい」と直談判。あげくは肘鉄をくらったという話がある。さらには、今年50周年を迎えたペギー葉山だ 。得意のラジオで特番があることをわたしが教えた時も何度も何度もお礼を言われたこともあったし、益田さんみずからコンサートに出かけるというのめり込みようだった。ただ、益田さんはカセットコーダーやステレオいじりが慣れていないのか、テープやレコードを集めるという趣味は、なかったようだ。
 さて、会議が終わるとまたもや一人会議室に残って休憩。たぶん時間調整をしていたに違いない。あの大きなリュックにはラジオの他にトイレットペーパー(時には国民の紙、ザラ紙の束が、入っていた)銀シャリ、ジュース、機関誌の束、それに空きペットボトルや空きタッパー。ざーっと並べると、こんなものである。そうそう、忘れてならない七つ道具のひとつ、益田毅の名刺がある。これには「乳もみ」という一行が入っていて、もらった人たちは一様にこれに反応を示した。とりあえず想像したことは、エッチに違いない。乳もみは、赤ん坊を生んだあとの乳の出を助けるためのマッサージのことである。いまどきマッサージのお世話になっている人は少ないのだが、貴重な名刺だったといえる。しかも行き当たりばったりに名刺を渡すものだから、一人で10枚集めたらハワイヘ行けるなんて冗談まで飛び出す始末だった。それにしても会議の後の、あの休憩。真っ暗な中にうずくまっていた孤独な。私は何度も心が苦しい思いをした。
 さて、次はバザー会場ヘガイドヘルバーとともに。カバンやオーバー、靴など超安値はもちろんのこと、なぜか女性ものの洋服まで買って着ていたのである。その買い物は洗濯屋に渡り、そして身近な女性に洗濯代と交換にプレゼントされるのである。自分だけの利益ではなく、必ずそこには人を思う心がある。超人益田は、泣かせるね。
 バザーで買った下着のメッシュのピンクのランニング。仲間に冷やかされていたが、気に入っていたのがいつまでも1枚きりで、出かけていたのを思い出す。私はバザーにお供したことは 1 回もないのが残念でならない。
 益田さんの大好物は、ドラエモンと一緒でどら焼きである。果物はスイカ。昨年の夏以前から約束をしていたスイカをやっとおごることができた。だが、そのときも張り切って食べたあと、他の集会にまわるために早めに席を立って玄関にたったとたんに、吐いてしまった。たぶん早くも調子の悪さが現れていたのかもしれない。超人益田さんは、動物のように具合が悪いとドーっと寝たままで

p15
 幾日かを過ごすようだった。亡くなる1カ月ほど前も布団から離れることができず、電話にも出ることができないくらいだったようだ。
 夕方になると時々銭湯に出かけていたようだ。あるとき、風呂帰りにすり切れた短めの白杖をついて帰る途中、工事中の穴に落ちてケガをしたことがあったが視覚障害者誰もが体験するホームからの転落はまだなかったと思う。たぶん転落しなかったのは、いつでもどこでも誰かをつかまえてしまう益田さんの得意技のたまものかもしれない。しかし、そのことがアダとなった話もある。また、全障連が東京豊島区に事務所を構えていた頃、会合で集まるたびに、益田さんは、おまわりさんと登場して仲間からブーイングにあっていたようだ。後にそのことと事務所の入り口手前にあった八百屋だったか洋服やだったかのオバさんのものの言い方が悪いということで怒って手をあげたことがあって出入りを断られたことがあった。
 益田さんの毎日は、こういう繰り返しに違いない。たまに、海へ海水浴についてきて甲羅干しならぬ、かゆいところを日に干したりしていたが、合宿以外の純粋な旅行には一緒に行ったことがない。超人益田さんは、障害者手帳を持っていない。長距離でなくても手帳が必要な乗り物も顔パスで通過である。この世で超人を知らない人はいないのだ。まだ誰もやっていないのは昔の有人改札の中で駅員の代わりに座り込み銀シャリを食べたという事実である。駅長室や改札横にイスを借りて座っていたのも超人であるし、山手線のトイレは必ず高田馬場というのも超人のなす技である。週一回程度の床屋での剃刀をあて、頭を五分刈りは、裸の大将、山下清風でもあった。万年床の回りに山と積まれた墨字と点字の資料。何もかもひっくるめて日本点字図書館点字課へ。
 妹さんが煮てくれたというサメ(鱶)の煮物は、未だに私の感覚器をくすぐる。超人益田毅、実にあっばれである。
 2000年秋、私をはじめ数十人の耳に、秋の夜を鳴きとおす虫の声を耳にしながら、今日一日をほろ酔い加減で終わろうとする。超人は、ほんの2、3杯のビールで顔をくしゃくしゃに豪快な笑いをする。私たちのすべての感覚器は、今日、超人益田毅を祈った。
 2000年10月1日 益田毅さんを偲ぶ会
 文責 的野 碩郎

p16
 誌上インタビュー
 ー益田 毅さんに聞くー(第1回)
 聞き手 奥山 幸博
 知る人ぞ知る益田さんにインタビューを敢行。ついに機関紙に登場させることになりました。何せ長〜い人生経験を持っている益田さんのこと、とても1回だけで話を聞くのは無理です。シリーズ形式でこれからものせていきたいと思いますので楽しみにしていて下さい。
 (奥)=奥山 (益)=益田
 (奥)まず生い立ちから伺います。
 (益)生まれは1926年(大正15年、昭和元年)の6月6日です。
 (奥)視力の障害は生まれた時からですか?。
 (益)いえ、翌年の時あたかも4月29日、昭和天皇の誕生日に失明したそうです。親から聞いた話ですが。
 (奥)原因はわかっているのですか?。
 (益)私の祖母という人は明治の女性として権利意識もしっかり持った立派な人でした。私にもいい人でした。祖母は早くに未亡人となり、私の父は一人息子(女の子はいましたが)でした。そんなことで私の母親は食物などで気がねしたようで、その結果栄養不良ということだったようです。視神経の萎縮でした。
 (奥)子供時代のことで印象に残っていることは?。
 (益)昔のことではっきりした記憶はありませんが無性に泣いたのを覚えています。それは手術の時だったようです。
 (奥)手術はいつしたんですか?。
 (益)1927年です。私は父の最初の子で、家に帰ってくるのを楽しみにしていて散歩に連れていったそうです。いつもは顔をみるとニコニコしていたのですが、その日に限って様子がおかしいと気づいたそうです。当時、大森の馬込に住んでいたのですが、近所の2軒の医者に連れていったけれど目は開くし何ともないと言われたそうです。ですが、やはりおかしいと思い東京へ出て、あちこち眼科をかけず

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りまわったそうです。当時眼科の名医であったコウモトさんに診てもらいましたが「わからない」と言われたそうです。それでコウモトさんの弟子で慶応のスガヌマという医者へ紹介されて再び診てもらいました。その医者によれば半月の間に手遅れになってしまったとのことでした。両親はショックを受けたそうです。ところがコウモトさんは「まだ見込みがあるかも知れない」と言って、毎日投薬をしてくれました。父の友人にその話をしたところ、その薬が梅毒の薬だったことがわかって父が怒鳴りこんだそうです。コウモトさんが言うには「眼というものは大体3つの原因がある。梅毒か、妊娠中の事故か、栄養不良いずれかで、とりあえず梅毒の薬を使ってみた」という説明だったそうです。
 (奥)結局、自分で物を見たという記憶はないんですか?。
 (益)そうですね。ただ光は感じて、一時眩しいので黒いメガネをかけていたこともあります
 (奥)話は変わりますが、学生生活はどこで?。
 (益)現在の付属盲の予科(現在の幼稚部)から初等部6年、中等部4年をすごしました。中等部1年からハリ・あんまを教えられました。西洋マッサージは2年からでした。中等部の4年間で学校は卒業しました。
 (奥)当時の免許のとりかたは?。
 (益)学校を出た者は警視庁の試験というものを受けました。当時は内務省で警察が監督官庁でした。厚生省ができたのは昭和14年ですから。
 免許のための試験は中学4年の時だったと思います。
 (奥)卒業後の仕事については?。
 (益)私が免許を取ったのは1944年(昭和19年)の秋でした。当時、あんまとマッサージは別でしたね。戦争中でしたから疎開で1945年の1月29日に東京を発って島根へ行き、そこで開業することになりました。地元の駐在所で手続きをとりました。
 (奥)そこに何年位居たのですか?。
 (益)1947年11月いっぱいいました。
 (奥)患者さんはいたのですか?。
 (益)母の父親という人が村に尽くした人だったので、その関係の人が多かったです。

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 (奥)視覚障害の多くは兵隊になれないわけで戦争に協力すると言うのは具体的にどのような方法で行われたのですか。
 (益)マッサージですね。当時は職域奉公という言い方でした。軍需工場で働いている人のマッサージをしたり、失明傷痍軍人の慰問をしたりなどです。盲学校の中に失明傷痍軍人の教育所も作られました。昭和14年だと思います。その人達の多くが三療師になりました。日盲連の幹部にもそういう人が多くいます。傷痍軍人教育所でも師範部のような部門もあり教員になった人もいます。
 (奥)目が見えたらお国のために戦争に行くんだと言う気持はあったのですか。
 (益)子供の頃はそんな感じもありましたが、初年兵教育のひどさなど話に聞いていたので嫌だと思っていました。目が悪くて兵隊にいかずにすんだという気持でした。盲学校の生徒の中にも軍隊経験のある人も居て何かというと人を殴ったりしていました。
 (奥)晴眼者からの嫌がらせみたいなことは。
 (益)陰では言っていたかもしれませんが面と向かってはなかったと思います。中にはそういう扱いを受けた人もいたようです。徴兵検査の時目が見えない人を「白痴」と決めつけた陸軍中将もいたそうです。
 (奥)防空訓練とか、実際に避難した経験は。
 (益)盲学校にも防空壕を沢山つくりました。訓練はしょっ中やってました。紐でつながって全盲と半盲が順番になってました。東京では空襲にあったことはありません。島根でも警報サイレンは鳴りましたが実際に避難するようなことはありませんでした。
 (奥)障害があるという事での戦争に対する想いは。
 (益)校長がこんなことを言いました。「分院(東大)と盲学校が悩みのタネだ」と。
 (奥)身近な人で戦死した人は。
 (益)いませんでした。
 (奥)今日は戦争中の盲学校の様子などを話していただきました。ありがとうございました。

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 誌上インタビュー
 ー益田 毅さんに聞くー(第2回)
 聞き手 奥山 幸博
 前号の誌上インタビューはいかがだったでしょうか。今回は「戦争」をテーマに聞いてみました。
 (奥)=奥山 (益)=益田
 (奥)「戦争」という言葉から浮かんでくるもの、結びつくものは何ですか。
 (益)日本は今回初めてひどい目にあったでしょう。一般国民は戦争を甘く見てたと思う。一部の人達はスポーツの大規模なものくらいに考えていたのではないでしょうか。今考えれば子供っぽいようなことを大人が平然と言っていました。一種のデマみたいなものですね。
 (奥)子供の時戦争というものをどう感じていたのですか。
 (益)父親に言った事があります。「戦争ってどんなものかな、なってみたら面白いな」などと。国内でなく外でやっていたからあまり実感がなかったんですね。ひどくなってきたのは太平洋戦争が始まってからです。昭和16年の12月8日に始まりましたが、翌年の4月18日の土曜日に敵機が来て、付属盲学校の校庭に爆弾の破片が落ちたんです。その時は警報も出ませんでした。幸いにして土曜の午後だったので怪我人は誰も出ませんでした。当時中等部でしたがクラスで一番目の良い高木君という人が心配して家に見にきてくれました。
 (奥)それまでは戦争を実感することはなかったのですか。
 (益)昭和12年頃は勝った、勝ったでした。14年くらいになるとやられてくるし、いいかげん終わってくれればいいと思ってました。この調子でアメリカとでもやったら大変なことになると話していました。軍部は国民のそのような考えを心配していました。太平洋戦争(大東亜戦争)となって、負けても勝ったと言っていたわけですね。
 (奥)ニュースみたいなものはどのようにして聞いていたのですか.
 (益)それはやっぱりラジオですね。こういう話があります。昭和17年に爆弾が落ちた時政府は「極力そういうことのないよう気をつけるか、場

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合によっては前ぶれ警報もなしにこういうことがあるくらいの覚悟はしてもらいたい」と国民に言ってました。クラスに共産主義思想の人がいましたが、彼は「政府がそのようなことを言う事は、自分の無能を告白したようなものだ」と言ってました。担任は「不穏当な発言だ」と注意していました。
 (奥)普段の生活の中で食べる物など困ったと感じだしたのはいつ頃ですか。
 (益)昭和13年の10月から米が配給になりました。大人一人が一日2合3尺でした。発育盛りの私達にとっては辛かったです。それから闇米というものがでてきたわけです。農家はいいと言う話になります。
 (奥)盲学校の中で教師は戦争についてどんな話をしていましたか。
 (益) 建前としては一生懸命やらなければいけないと言っていました。私は通学生だったのでそれ程でもありませんが寮にいれば余計にそんな雰囲気だったと思います。
 (奥)軍事教練みたいなことは。
 (益)やりました。隊列を組んで真中に半盲生(弱視)を入れて、ゲートルを履いて行進しました。「カシラナカ」「おそれおおくも校長先生が閲兵される」と言った調子です。体育の先生が中心にやっていました。体育の時間のほとんどが教練にあてられました。昭和17年から始まったと思います。
 (奥)そういうことをやることについては何の不思議もなかったのですか。
 (益)我々もこれくらいのことはしておかなければ恥をかくだろうという感じでした。敬礼の仕方とかね。
 (奥)実際には視覚障害の人は兵隊には行かなかったと思うのですが。
 (益)視力のいい人が2人くらい行きました。第3乙種でした。本人は盲学校からも出たということで名誉だと言っていました。数え年21才になると徴兵検査の通知がくるわけです。先輩の人に聞いたら診断書を出せば大丈夫だと言われました。私は19才の時通知が来ましたが診断書を出して検査には行きませんでした。それをやらなかったためにひどい目に会った人が沢山います。
 (奥)全盲の人でも検査に行った人はいるのですか。
 (益)ビンタをくらった人もいたようです。弱視の人は一応見えるので受けさせられました。全盲で当局の手違いで一通り全部受けた人もいました。

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 (奥)それは一人でやっていたんですか?。
 (益)そうです。それで父から東京に家を買ったので上京するようにと話があり、その年の12月に東京に戻りました。
 (奥)東京に帰ってまたすぐ開業したのですか?。
 (益)すぐにということではありませんでしたが、開業しました。ずっと自宅で一人でやってきました。病院や治療院にいたことはありません。
 (奥)昭和20.30年代、視覚障害者の就職先はどうでしたか?。
 (益)同級生の中には師範部を出て教師になった者もいます。僕も実は師範部を受けろと言われたんです。なぜ、受けなかったかと言うと戦争中、燃料がないでしょう。点字が手がかじかんで読めないんです。それで断念しました。また病院に勤めた者もいました。
 (奥)全盲の人でも病院に勤めていましたか?。
 (益)あの頃の方がかえって居たと思います。昔ほど全盲は病院が多かったと思います。だんだん弱視や晴眼者になっていきました。
 (奥)またまた話は変わりますが視労協と出会ったきっかけは?。
 (益)全障連の方が先だったかも知れまぜん。ふみづき会に参加したのがきっかけでした。おそらく視労協ができて2年後位だったと思います。
 (奥)視労協の活動の中で印象に残っていることは?。
 (益)最初は公務員の点字試験でしたが、堀氏と宮氏が「職業選択」の本を書いたり、三療に関しても重要視していることは立派だと思う。マッサージユニオンを創ったことについては他の団体の人達も評価していますよ。
 (奥)個人的なことを聞きますが趣味は何ですか?。
 (益)僕はクラシックのバロック音楽です。好きになった理由は盲学校時代キリスト教の日曜学校に行き、そこで賛美歌を聞く機会が多かったんです。宗教音楽の断片ですね。どちらかといえばドイツよリイタリアの古いものが好きです。
 (奥)集会に参加するのは趣味ではないんですか?。
 (益)好奇心が強いんでしょうね。たまには旅行に誘われたりしますが、あまり行きませんね。
 (奥)集会ばかり出ていて仕事をする時間がないんじゃないかと心配する

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んですが。
 (益)2階を貸しているということもあるけど、月20日位は仕事してますよ。
 (奥)仕事は主に家ですか、それとも往診という形ですか?。
 (益)昔は家でやったんですが、色々物が増えて、今は外へ出てやっています。組合の老人の奉仕など。
 (奥)食事を自分で作ったという経験はあるのですか?。
 (溢)あります。家にいた人が御飯の炊き方を教えてくれました。おかずも作りましたよ。
 (奥)最近はほとんどお弁当屋さんのようですがあきませんか?。
 (益)そんなことないです。あきないようなものを選んでますから、カマボコとかソーセージが好きですからあまりあきません。
 (奥)それでは今回はこれくらいにしておきましょう。また機会を作りますから話をして下さい。
 (益)わかりました。
 挿絵省略

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 誌上インタビュー
 ー益田 毅さんに聞くー(第3回)
 聞き手 奥山 幸博
 インタビューも3回目になりました。今回は「益田流アクセス」についてお聞きしました。
 (益)=益田 (奥)=奥山
 (奥)昔に比べて、視覚障害者は街中を歩きやすくなったと思いますか。
 (益)車が増えたということが大きな意味を持っています。国障年以降、声をかけてくれる人が増えました。戦後の一時期、健常者にゆとりがなかったせいか、障害者に対する接し方が、私達にとっては辛いような事もありました。最近は地下鉄などで「御案内しましょうか」と声をかける人が多くなりました。
 (奥)外を歩くことはどうでしょう。昔は点字ブロックなどなかったと思いますが。
 (益)昔は歩道の方がかえって歩きにくかったですね。終戦直後などは車もほとんど通らなかったので、車道を歩いた事もありました。大きな通りでは、歩道もそれなりに広いのですが、裏通りの歩道は狭いし、電柱もあったりして危険ですね。大きな道路から一つ中に入った少し大きめの裏道を歩くのがいい方法だと思います。これも時代によりますが、現在のように家が沢山建っているといいのですが、何もなくて原っぱになっていると困ります。
 (奥)駅を使ったり、電車に乗ることで感じていることはありますか。
 (益)よく利用しているのは、JRでは田端、地下鉄では千代田線の千駄木です。三田線では千石を使います。千石は使いやすい駅だと思います。三田駅では3番線に着いたり、4番線に着いたりします。そうすると、降り口の位置が変ってしまうので、必ず3番線に着くのか、4番線に着くのかを言ってもらいたいと思います。まだまだ言わない車掌もい

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ますので。僕の場合は脇のお客さんに「終点までいらっしゃいますか」と聞きます。そして何番線に着いたのか見てもらいます。勘違いして、転落して怪我をした人もいるようです。
 (奥)駅での券売機や改札、ホームヘの案内などはどうですか。
 (益)僕の場合は、大体晴眼者に買ってもらいます。20年ほど前、視覚障害者の集まりの時にこんな事を言った人がいました。「点字表示などができることによって、多くのものを失うことに気付かないか。見方によっては一歩前進かもしれないが、それまでの駅員との関係なども失われてしまうことになる。他の乗客も、自分達の手が省けるというように理解してしまうかもしれない。」
 (奥)自分でキップを買うことはほとんどないわけですか。
 (益)そうですね。周囲の人か、あるいは駅員に頼みます。
 (奥)改札は、有人、自動のどちらを通りますか。
 (益)都盲協で説明会があり、その際「皆さんは有人改札を通って下さい」という話がありました。最初は有人を使っていましたが、最近は自動にも少し慣れてきたので、そちらを使う事もあります。
 (奥)ホームで柱や自動販売機にぶつかったり、線路に落ちた経験はありますか。
 (益)柱などは逆に目安になります。降りる駅の階段の場所をあらかじめ駅に電話で確かめておいて、適当な車両に乗るようにしています。乗る時は、例えば一番後ろに乗って車内を移動するわけです。これは人に教えてもらった事ですが、「我々はホームを歩くよりも、車内を移動した方が安全である」と。晴眼者は車内を歩いているのを見かけると、出入口を捜しているのかと思ってしまうようです。「出口はこちらです」とか「席が空いていますよ」などと声がかかりますね。そうするとこちらの事情を説明するようにしています。
 (奥)話は戻りますが、線路に落ちた経験はないのですか。
 (益)あります。最初は盲学校の遠足の帰りです。上野でした。半盲の人と一緒に歩いていたのですが、彼が先に出ちゃったんです。僕を捜しに戻ったらしいんですが、僕もいつまでももたもたしていたらいけないと思って、動いたんです。そうしたら落ちてしまいました。同級生の父兄が助けてくれました。2番目は田端駅で、10年ほど前です。駅員2人で上げてくれました。

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 (奥)それはどういう状況だったんですか。 
 (益)まだ一番端ではないと思って歩いていたら落ちてしまいました。
 (奥)バスの停留所の位置はどのように確かめますか。
 (益)最近は「あんどん型」が増えたので安全ですね。まわりの人に聞きます。椅子のおいてある所も多くなったのでわかりやすくなりました。
 (奥)バスで不便を感じることはありますか。
 (益)不便というよりも、最近は運転手の態度が良くなりましたね。昔は横柄な人がいると会社に電話をして「今こういうバスに乗ったんだが対応が悪かった」とクレームをつけました。バスを降りてからの事ですが、工事などでバス停の位置が時々変る事があるんですが、これは困りますね。近くの客に駅まで案内してもらうこともあります。
 (奥)タクシーについてはどうですか。
 (益)大勢並んでいる時は、前の人に頼むと、「どうぞお先に」と言われてしまうので、後の人に頼むことにしています。後にいない場合には前の人に頼みますが、後に来たらその人に頼んで、「後の人に頼みましたから」と前の人に伝えます。
 (奥)路上で止める時は。
 (益)大体人に頼みます。
 (奥)では益田さんの基本パターンは、まわりの人に頼んでしまうということですね。
 (益)そうですね.
 (奥)タクシーに乗ってトラブルになったような事はありますか。
 (益)ずっと昔に一度ありましたね。こちらが少し文句を言ったら、「だから私達も乗せるのが嫌なんですよ」と言ってました。しかし、トラブルみたいなことはほとんどありませんね。
 (奥)飛行機に乗ったことは。
 (益)一回あります。刑法改悪に関する集会が九州大学で行われた時です。新幹線で行くつもりでしたが、間に会わなくて精神科のお医者さんと一緒に行きました。
 (奥)何か交通機関のことなどで気になることは。
 (益)乗換えですね。夢にみたこともありますよ。かなり気になっていたんですね。秋葉原で総武線に乗り換えたりする場合、近くの客に誘導を頼みます。地下鉄は比較的そういうサービスをよくしてくれます。

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JRも大部変りました。駅員は減ったかもしれませんが、サービスは良くなったように感じます
 (奥)歩道の自動販売機などはじゃまになりませんか。
 (益)商店の看板が出ていることがありますが、あれは困りますね。
 (奥)音の出る信号も増えましたが。
 (益)特に便利とは感じません。人に頼みますから。荻昌弘さんという評論家の弟という人に誘導してもらったことがあります。声がよく似ていました。
 (奥)ガイドヘルパーについて何かありますか。
 (益)比較的利用しています。以前は1日4時間という制限がありましたが、最近はなくなりました。何人いても足りないという気がします。主婦の方が多いので夜間はむづかしいようです。
 (奥)制度面で改善すべき所はありますか。
 (益)講習を受けなければならないことになっていますが、緩やかでもいいと思っています。
 (奥)どうもありがとうございました。一応3回目ということでインタビューは区切りにしたいと思いますが、機関誌などについて御意見があればおねがいします。
 (益)こういう形で取り上げてもらって感謝しています。できれば自分で文章を書いてみようかという気になりました。
 (奥)是非書いて下さい。それでは終わります。

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 挿絵省略

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 編集後記
 会員並びに読者の皆様の2001年のスタートはどのようなものだったでしょうか?
 「障害の地平」102号、ようやっと発行することができました。世紀を越えて四苦八苦の出来映えです。大変遅れてしまいました事を深くお詫び申し上げます。
 さて今号は視労協を力強く支えて下さった故益田毅さんを偲ぶ号として大事な一冊となります。皆様と共にご冥福をお祈り申し上げたいと思います。尚、「紙上インタビュー」はバックナンバーより転載させていただきました。
 もう一つお知らせです。私達事務局は息切れしながらも21世紀最初、恒例の、「3月視労協交流大会」を企画し、呼びかけさせていただく事になりました。詳しくは紙面に掲載しましたのでご確認下さい。私達がこれまで出会った多くの団体、個人の皆様と共に「ユニバーサルデザイン」「バリアフリー」そして「交通バリアフリー法」などについて日頃の体験を通して話し合ってみたいと思います。ご参加、ご協力、是非々お願い申し上げます。
 また、会費並びに機関紙購読料の納入をお願い致します。会費、年間4800円。機関紙購読、点字年間800円、墨字880円(郵送費込み)そしてカンパも合わせてお願いできれば幸いです。
 振替番号:00180ー6ー92981
 視覚障害者労働問題協議会

裏表紙(奥付)
 2001年1月31日
 定価 200円
 編集人 視覚障害者労働問題協議会
 東京都練馬区東大泉6ー34ー28
 陵雲閣マンション403
 的野碩郎気付
 発行人 身体障害者団体定期刊行物協会
 世田谷区砧6ー26ー21
 視覚障害者労働問題協議会



■引用



■書評・紹介



■言及





*作成:仲尾 謙二
UP: 20210528 REV:
障害学 視覚障害  ◇身体×世界:関連書籍  ◇『障害の地平』  ◇雑誌  ◇BOOK  ◇全文掲載
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