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『障害の地平』No.98

視覚障害者労働問題協議会 編 19990425 SSK通巻第1381号;身体障害者定期刊行物協会,24p.

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視覚障害者労働問題協議会 編 19990425 『障害の地平』第98号,SSK通巻第1381号;身体障害者定期刊行物協会,24p. ds. v01

■全文

表紙
 SSK―障害者解放運動の理論的・実践的飛躍のためにー
 子宮から墓場までノーマライゼーション!
 ―視労協―
 障害の地平 No.98
 99年度スタートライン
 視覚障害者労働問題協議会
 一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
 一九九九年四月二五日発行SSK通巻一三八一号

もくじ
 視覚労協25年の歩み 込山光広・1
 はり・きゅう科新設に反対する運動に参加して 森登美江・7
 素直さと優しさと苦悩の日々3 大里暁子・9
 あんなこんな視労協 的野碩郎・14
 まちづくり分科会報告 森登美江・20
 生活分科会報告 江見栄一・21
 教育労働分科会T報告 桑原崇・22
 教育労働分科会II報告 ・23
 久々の視労協大会 野々村好三・24
 編集後記

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 視労協25年の歩み(1)
 込山光広
 1.始めに
 今年の10月26日で、視労協が結成されてからちょうど25年目に入る。4半世紀になろうとする視労協運動の歴史の中には、様々な出会いがあり、思想、主義、主張や感情などの行き違いから沢山の別れがあった。運動、活動の質も人間関係も大きく様変わりした。しかし、結成当時から変わらず脈々と生き続けているものが、確かにあるようにわたしには感じられる。
 昨年、総会において視労協の解散が提起された。活動に係われるメンバーが限られ、その人たちに大きな負担がかかっていることや雇用を中心にすえた視労協の役割は既に消滅したと思われること、また会員相互のつながりの薄さ、活動に対する意識の希薄さなどが、主な理由ではなかったかと思う。わたしは、事務局の解散方針の提案を一定理解しつつも、双手を挙げて賛成するという気分にはどうしてもなれなかった。状況的に、自らが責任をもって活動に係われない以上、「視労協を残してほしい」と言ってみたところで意味がない。活動を担う仲間がいなければ、解散もやむをえない。残念な結論だが、そうなるだろうと予測した。だがそんな時、視労協の存続を強く願い、「何としても残したい」という声のあることを知った。わたしの判断は、「活動を担える人が全くいないならばともかく、これからも視労協として運動したいという仲間がいる限り、強引に解散すべきではない」だった。視労協が活動を始めたころの若々しいラディカルな精神は、必ずや受けつがれていくであろうし、そもそも解散するなら、小さな総会でひっそりとするのではなく、大イベントで大爆発するなら納得できる。そんな思いだった。
 あれから1年、視労協はこれまでとは一味違ったユニークな活動を着実に展開して来たようにみえる。1会員として存在するだけで殆ど活動に関わらなかったわたしからみると、いくつか注文をつけたいところはあるが、

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 それよりも事務局を中心に「良く頑張ってきたこと」を評価したい。今年3月27・28日の交流大会に結集した仲間も多士済済。今後の活動が大いに期待される。
 さて、わたしの手元にはいま何の資料もない。この間の「視労協の歩み」を書くと言っても、20数年の活動経過を順序だてて書くことまできない。気の向くまま、思いのまま、頭に浮かぶことを著したい。あくまでもわたしの視点からの主観的な「視労協の歩み」であり、それも「つれづれなるままに」書き進めるのである。
 2.何かが起るかも知れない社会
 1960年代後半から70年代にかけて、「黒い霧解散(東京都議会の解散)」に象徴される汚職事件、政治腐敗が次々と明かるみに出た。また、ベトナム戦争が激化し、70年の安保(日米安全保障条約)の改定や72年の沖縄返還の問題をめぐって、戦争に巻き込まれ加担させられるのではないかという不安が国民の間に広がっていた。第2次世界大戦後曲がりなりにも守って来た我が国の平和な社会が一挙に崩され、強権的な軍事国家の下、再び戦争の惨禍に見舞れるのではないかとの危惧はかなりのものだった。全国に市民や労働者の反戦の声が上がり、各地で抗議行動(ストライキ・デモ・集会など)が盛んに行なわれた。
 大学でも状況は同じだった。産学共同路線(企業に従順に奉仕する大学のありかたや学生の育成)や大学の組織の非民主性、大学の経理の不透明性や不正などに学生が強い反発を示し、全国の多数の大学でバリケード封鎖による建物占拠と学生による自主管理が行なわれた。そして、学生・労働者・市民は、学校・街頭・米軍基地・国会周辺・港・羽田や「成田」空港で、国家権力の尖兵たる警察や機動隊と激しくわたりあい、果敢なる闘争を繰り返した。
 世に言う「学園紛争(闘争)」は学生の気分を高揚させ、労働者・市民と連帯してのベトナム反戦・沖縄解放の戦いは大きなうねりとなり、今の社会(我が身に最も引き付けて言えば、視覚障害者[以下視障者と略]

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を差別する社会)を変革できるのでは、の一縷の望みを抱かせるものであった。
 いまにして思えば、当時のラディカルと言われた思想や行動が直接障害者解放に到るとか結び付くと言えるものではなかったが、初期視労協活動家たちに与えた影響は少なからずあった。
 3.視障者の運動は何をしていたか
 戦後いちはやく日盲連(日本盲人会連合)が結成された。日盲連は後に「物取り主義」との批判をあびるが、各種の割引、福祉手当て・福祉年金の支給、三療業既得権益の保護などで大きな力を発揮し、「盲人福祉」を漸進させた。しかし、60年代になると、日盲連の「強い者にはまかれろ」式で保守政権べったりの姿勢に疑問をもったり、嫌気がさした視障者も現れるようになった。
 60年代の半ばには、日盲連に対抗するかたちで、全視協(全日本視力障害者協議会)が、平和を守り民主主義を実現することによって(それは、ある革新政党を支持することによってだが)、視障者の生活と権利を守ろうと主張して誕生した。日盲連の(お願い調だが、確実に利益を得る)ではなく、全視協は国民の民主的な運動で要求を実現しようとした。しかし、権利は主張するものの差別を糾弾することには否定的で、あくまでも「民主的な理解」が主眼であり、実際の運動としては物足りなさを感じるものであった。
 文月会(日本盲人福祉研究会)は、大学を卒業した(盲大学生を含む)視障者を中心とした集まりで、視障者の大学進学や環境整備、就職問題で粘り強い活動を続けていた。晴眼者の偏見を正して理解してもらうことに力を注ぎ、大きく社会を変えていこうとするような動きは見られなかった。
 視読協(視覚障害者読書権保障協議会)は1970年に結成され、「視障者が公共図書館を利用するのは権利である」ことを明確にし、具体的に視障者が利用できる図書館づくりの運動を進めた。読書権を前面に打ち出した闘いは、当時しては画期的だったと言える。

p4
4.なぜ視労協をつくらねばならなかったのか=その必然性
 わたしたちが生きて行くには、食べねばならない。食べて行くためには、働いて収入を得ねばならない。視障者と言えども、働かずして暮らすことはできない。視覚者が働ける環境・条件は、社会が整えねばならない。それは、当たり前のことである。
 社会問題とは、労働問題のことである。医療・福祉・住宅・環境など、すべての社会的問題は、労働問題に取り組むこと無しでの解決はありえない。
 視障者に係わる社会的な問題を解決するためにも、基本的に取り組まねばならないのは、労働問題、すなわち、社会に視障者に対する「労働権」を保障させることである。視労協は、具体的に東京特別区や東京都を点字で受験したいと望む者の個別支援に始まった運動がきっかけで結成されたが、本質的には労働(特に雇用)問題が社会制度・社会意識を変えていく最も重要なポイントであることを見ていた。そして、視障者にも当然「職業選択の自由」があり、それが完全に保障されない限りは、三療業によって視障者の生活が守られなければならないとした。運動スタイルとしては、従来の視障者団体とは異なり、ラディカルにわかりやすく、お願いや単に理解を求めるのではなく、視障者にも当然のこととして労働権が保障されるべきであり、労働現場から視障者を排除するのは基本的に差別である、と訴えた。この考え方は、「視障者は働けない」と思っている者や温情的に視障者を雇用しようとする者にとっては、きわめてショックであり、更には許せないものであっただろう。個人を具体的な問題できちんとした理論(裏付け)とラディカルな行動によって支援することが、個別問題を社会的な問題として大きく浮かび上がらせることになった。そういう視労協の運動スタイルは、自治体や医療・福祉関連雇用者の偽善をしばしば暴露したため、穏やかに物事を進めようとしていた視障者たちからも無意味で的外れな批判を受け、「過激派」のレッテルを貼られたこともあった。

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 1975年視労協誕生当時の主張は、現在のノーマライゼーションの理念と「完全参加と平等」の考え方にほかならない。わたしから言わせれば、今みんな(国、自治体、福祉関係者など)が言っていることは、視労協が過激派と批判されながら、20年以上前に主張していたことなのだ。そういう意味では、視労協には遠い将来を見通す力があったと言っても過言ではない。
 5.若々しい力で一点突破を
 視障者が自治体の職員になることは、盲学校の教員やマッサージ士など、特別の職種を除いては無かったし、それを望む視障者もまずいなかった。
 1970年代に入り、東京都は心身障害者センターで点字指導などの仕事のため、福祉技術として視障者1名を採用した。続いて当事者からの要望もあり、74年に開館予定の都立障害者福祉会館の職員として、視障者を採用するために、福祉指導Cの職種で、初めて点字受験を認めた。この試験を二人が受験し、成績が優秀だったため、両人とも採用され、1名は都立中央図書館に配置された。東京都は点字受験を継続して認めるつもりはなく、「点字の試験はこれで終り」のつもりだった。
 1973年に東京都で初めて点字受験が認められたことは、視障者たちには朗報であった。あたかも都はこれからも点字試験を実施するかに思われていた。わたしもその話を聞いて、都の試験を受けてみようと申込みしようとしたが、「今年は点字の試験はない」と言われた。
 翌1975年夏、わたしは東京特別区を受けたいと思い受験申込みをし、特別区人事厚生事務組合(いまは人事委員会)と話し合いをもったが、当局は視障者を採用するつもりは全くなく、「活字で出題される試験問題を読むことができず、試験は受けられないことは明白」との理由で、受験票の公布すら拒否された。つまり、見ただけで視障者とわかる者は、欠格条項に何も書かれていないにもかかわらず、初めから一切取り合わないことを意味した。これは明らかに視障者への差別であり、おそらく地方公務員法の「受験妨害」に当たるだろう。

p6
 次にわたしは東京都に受験希望を伝えたが、都は「今後視障者を採る予定はない」と言い、都人事委員会も「視力を必要としない職員の欠員(需要)がなければ、点字試験は実施しない」という回答だった。特別区受験、区との交渉や受験拒否の不当性を社会に訴えるために既に結成されていた、わたしを「支援する会」が本格的に動き出したのは、それからである。当局と交渉をかさねたが、回答は相変わらずであり、なかなか進展しなかった。わたしたちは何とか局面を打開しようと、東京都職員労働組合民生局支部や現場(都立心身障害者福祉センター)で働く人たちからの支援を獲得していった。当局は「視障者の需要はない」と突っ張っていたが、現場から「視障者の需要はある。実際にうちの職場では働ける」との声を出してもらい、当局を論理的に追い詰めていった。結局、都人事委員会は民生局(いまは福祉局)からの「需要」に基づき点字試験を実施せざるをえなかった。
 この点字受験を認めさせる過程で、視労協が生まれた。個人に係わる問題であっても、単に個人を支援するのではなく、社会的な問題として捕らえるためにも視労協は必要であった。そして、視障者の団体としては珍しいことであるが、視労協は労働組合とのつながりをもち、また他の障害をもつ仲間と運動を共有し、視障者運動を深め、その広がりをもたらした。
 視労協は都に点字受験を認めさせ、毎年一人は視障者を採用させるという大きな成果を上げた。しかし、視覚障害関係者の中には、「都は74年から積極的に視障者を採用し始めた」かのような発言や記述をして、わたしたちの成果を歴史の闇に葬りさろうとしている人々がいる。だが、もし視労協がなければ、視障者が毎年東京都福祉職に採用されることはなかっただろうし、他の自治体での採用も大きく遅れただろう。そういう意味でも、わたしたちは大きな仕事をしてきた。そのことをしっかりと自覚し、どんなに厚い、堅い壁であっても、何処かに風穴をあけることによって、広い道が開けて行くものであることを確信して運動を進めたいものである。

p7
 はり・きゅう科新設反対運動に参加して
 森登美江
 福岡の柔道整復師養成学校がはり・きゅう科新設の申請を出し、行政は不指定処分としました。それに対し福岡地裁は法に規定されていない拡大解釈であるとして取り消しを命じました。
 それは昨年10月17日の「参議院国民福祉委員会」での宮下厚生大臣の「按摩師等法19条にははり・きゅうも含めて考えられるべき」という見解がくつがえされる結果となりました。
 その事は晴眼はり師・きゅう師の養成学校を増設させる起爆剤として十分すぎるほど確実なものです。法19条の見直しをはじめ、全国的に反対運動が広がろうとしています。私たち視労協としてもこの時にしっかり三療問題に取り組んでいかなければなりません。実は恥ずかしい事ながら日頃病院勤務のサラリーマン的暮らしに慣れっこでいつ自分自身に解雇問題がふりかかってこないとも限らないのにもかかわらず、足下を見失いがちな私です。しかし、この問題が起こって緊急集会や緊急シンポジウムに参加して私自身にとってもこの事は非常な危機感を持って迫ってくるものでした。
 好景気の時代、三療業は晴眼者にとってとてもおいしく見える職域だったようです。「儲かる」仕事としてこの業界にどっとなだれこんできました。私はよく「儲かって笑いが止まらないでしょう」とか「私もマッサージ師にでもなろうかな」という言葉を聞いたものでした。もっと以前には"盲人=按摩"というイメージが定着していて多くの人が認めていたのではない

p8
でしょうか。晴眼者も何かのきっかけで目が見えなくなった時自分も按摩になるのかといった感じを持ったことでしょう。情報や機動力をいかして手を広げていく晴眼三療師が増えて視覚障害三療師の生活を圧迫していく事になりました。
 「職業選択の自由」を掲げて発足した視労協にとっては認められることではないでしょうが私は"当分の間"、三療業を私たちの「専業」とは言わないまでも確実に優先される保障が欲しいと思います。それは私たちが選択しうる職業がまだまだ非常に少ないという事があるからです。専業論については多くの皆さんと一緒に考えてみたい事の1つです。
 また、視覚障害者の業界にあってもピラミッド社会のように見えます。技術を磨くこと知識を高めることはもちろん重要なことだとは思いますが、何よりも生計を維持する手段としてこの業にたずさわっている視覚障害者は日々の暮らしで精一杯です。仲間内の格差を生むような発想をピラミッドの頂点に立つ人達がしていないでしょうか。その事も大きな問題だと私はいつも感じています。
 挿絵省略

p9
 素直さと優しさと苦悩の日々3
 大里暁子
 3回目のインタビューは、移動についての最終決着となりました。1学期も始まり、子供たちの名前や特徴も徐々にわかる中で、相変わらず通勤の苦労や資料の朗読、そして、何よりも自分の体力・体調のコントロールに苦労されているようです。今のところ休んだりもしていられるようですが、学校の受け入れ態勢が比較的スムーズのようで、職場での話では暗さがないのが、周りをホッとさせる点だと思います。(文責的野)
 *移動したということですが、結果としてどうなりましたか?
 「今までの区のとなりの区の小学校・身障学級にチームティーチングとして動きましたが、いわゆる定数外配置ということだそうです。」
 *定数外配置って?
 「移動の際の条件として、品川より住んでいるところに近いところで正教員を1人つけてと、東京都教育委員会から打診がありました。私は納得しないけれど、その話を聞きましたと区の指導課長に答えました。その結果、子供6人に担任2人+チームティーチングで私という形になってしまいました。チームティーチングは学級が1つしかないところには使わないし、身障学級には当然チームティーチングはありません。」

p10
 *障害者への配慮という意味合いでは定数外配置についてどう考えればいいんでしょうか?
 「多分、品川区から他の区へ私を移すための苦肉の策だったのではないでしょうか。」
 *移動の時の先生の条件は、たしか現任校なみかそれ以上、つまり講師・嘱託・介助員が最低ラインだったと思いますが、この結果はその立場からどう考えればいいんでしょうか?
 「そういう意味でいえば、後退したと言えると思います。品川の時は私が担任をするために人的配置、つまり講師・嘱託がついたけど、今度は学校としては1人教員はついたけど、私は"プラスアルファ”として位置付けられているので、私つきの条件整備はありません。実際問題、私以外に2人の担任がいるわけですから、私はあくまで"プラスアルファ"です。その中で、やれることをやっていきなさいということです。」
 *でもそのことはこれから2人の担任の先生と話を積み重ねていく上で実のあるものになるということでしょうか?
 「でもチームティーチングであろうと介助する人がいなければ、自分の仕事はできません。」
 *チームティーチングの相手の先生には介助という意味合いは含まれていないんですか?
 「担任は担任で、担任という仕事をするわけで、私の仕事の介助をしてくれるわけではありません。」

p11
 *移動先の校長に面接の時に会われたと思いますが、どんな話があったのでしょうか?
 「話し合いをしながら、私の受け入れ体制を作ろうと思っていただけているようですが、障害のこと、その他聞かなければ解らないことでしょうからどんどん言って欲しいという言葉でした。話し合いの最後では、困ったなぁーという感じになっていたので、どうなるのかなぁーという不安がいっぱい残りました。このところは、私たち障害を持つ教員に100%仕事をしなさいという人は減ってきたと思いますが、仕事が何%であろうと補助なり介助なりがつかなければ視覚障害者にとっては難しいと私は思います。制度化するにも同僚に助けてもらうにしても本当に難しいと思います。」
 *それらも含めて、4月5日からの前日出勤からの話し合いということですか?
 「"何ができますか?"と聞かれたので1人では難しいと答えました。"誰か手助けをしてくれる人がいれば"と言っておきましたが、具体的な話はまだです。」
 *移動になって不安感は当然あるとは思いますが、出たとこ勝負ですか?
 「取りあえず行ってみようと思います。」
 *話が後先になりますが、現任校にいたいと思っていたはずが周りの動きによって徐々に変わってきたと思いますが?
 「いえ、除々ではなく内辞が出るまでは現任校にいたいと思ってい

p12
ました。多分、私は現任校でなければ、体力的にも条件整備的にも現任校が1番と思っていました。噂では、現任校のもう1人の担任が移動するので代わりの先生が早めに決まって、その先生は私と組んでもいいという話とか、嘱託の先生が私の移動が正式に決まるまで待っていてくださったりということだったようで、現任校にいられるような気もしました。」
 *現任校にとどまるには周りの組合や障害者団体の協力なしではなかなか難しいものがありますよね?
 「はい、周りの協力なしではとても難しいと言えます。現任校だけを推し進める人や移動という制度の中で条件整備を考える人や様々いました。時にはパニックになってしまうことも事実ありました。」
 *障害を持つ教員という立場での取り組みということは周りの協力者たちにじゅうぶん伝わりましたか?
 「じゅうぶん伝わったとは言えませんがあるところは身分保障を前面に押し出してやっていただきましたし、あるところは条件整備、あるところは精神的なフォローをしていただきました。すべて一致団結というわけにはまだまだいきません。」
 *障害者にとっての移動とは?
 「まず、私の体力その他ではもう移動はきついと思いますが、10年という強制移動ではなく、移動したい時に移動させてほしいし、移動したくなければその場にいられるというのがいいですね。教育委員会の言う適材適所とはどんな意味か疑問です。新しい学校に行って"ゼロ"から始めるのはとてもきついことです。私はゼ

p13
ロから話し合いをして行きたいので問題の整理をしているところです。」
 *これから通勤の道筋も慣れなくてはいけませんし、子供の特徴も覚えなければいけないし、校内での移動やそれから人間関係のこととゼロでははありますが、がんばって挑戦してください。
 「私にはがんばるという言葉は当てはまりませんが、人間関係がうまくいけばとさえ願っています。」
 *今日は本当にお疲れ様でした。またお話を聞かせてください。
 「は・はい、…。」
 挿絵省略

p14
 あんなこんな視労協
 〜1999年度方針をみる〜
 的野碩郎
 1
 1998年度の視労協が何とか終わりました。解散と継続という2つの主「」(校正者注:「」内穴が開いているため、表記不可)のすえに継続となったことは読者の知るところではありますが、その98年度が終わったということは、ホッとするつかの間の一時でもあります。しかし視労協の内部をのぞいてみれば、複雑な思いは否めまぜん。少なくとも継続を支持した人達によってこの1年が運営されてきたはずなのですが、その時のつまり、解散と継続の2つの考えがぶつかりあって、それぞれが主張した思いや勢いや立場性はいつの間にか薄らいで、決まった少数の人が担うというモードに落ち込んでしまったとまた言わざるを得ません。
 それでも、1999年度はスタートしました。方針も無事総会を通過しました。この方針がどんな意味合いで提起され、今年度具体的にかつ確実に実行されることを強く願うとともに、さいさん言い続けてきた担い手づくり・仲間づくり・視労協づくりに多くの皆さんの協力と会員自身の主体性による差別を無くすための運動づくりがあればと願うところです。
 東京港区のJR田町駅5分にある東京都障害者福祉会館(略して”障館”とか”都障福”と言う)の会議室や印刷室を利用して活動内容の学習・討論などを深めたり、それぞれの生活の困ったことや不安なことを話し合ったりして交流を重ねています。また、機関誌や通信を出して情報や主張を届けたり、会の動きを報告したりという作業も積み重ねられています。定例会は月1回第2日曜1時から、事務局会議(だれでも参加できます)は第4土曜5時からと原則として決めてありますので、障害者でも健常者でも気楽に参加できます。ぜひのぞいてみてください。

p15
 2
 方針というと少し堅いイメージがある人もいるのでしょうが、つまり今年度こんなことをしようということです。昨年度の柱はまちづくり・交流・学習会という3つでした。解散騒動のあった年度としてはそれなりにがんばれたと思います。いまだ、視労協は解散したと思っている人がいるのはとても残念ですが…。さて、今年度はどんな方針が上がったかというと(1)労働問題(2)まちづくり(3)機関誌100号記念ならびに発足25年イベント(4)会の基本的な事柄の整理(5)交流(6)その他の6項目です。咋年度の柱の1つである学習会は無くなったわけではなくそれぞれの項目の中に含まれているので、それぞれの担当者あるいは班会議の中で消化していくつもりです。ただ、お互いの日程や内容でダブったり、会として取り上げなければならない重要な学習会があるかもしれませんので、学習会担当は位置付けておきたいと思います。何にしても学習会も軽んじたというわけではありません。ましてや今、DPIの取り組んでいる福祉関連の法改正や見直しは学習会無しでは理解しにくいと言えます。
 方針の"(1)労働問題"で取り組もうとしていることは三療(あんま・マッサージ・指圧、はり、きゅう)・教育問題・公務員問題・一般就労問題の4項目でかつて視労協のもっとも中心を担っていた活動だったと言えます。なぜまたこの時期に労働問題を出してきたのか、担い手も少ない中でとすぐに反論されそうですが、1つには視労協の労は労働の労であるということからです。世間では老人とか浪費という陰口を叩く人もいるようですが、それでもあえてこの方針を掲げたわけです。2つ目は視覚障害者にとって三療は唯一の職業であると言えるほど重要なものでその問題も山ほどあります。晴眼者(目の見える人)の三療師を養成する学校が全国的に乱立すると視覚障害者の三療を業とする人の生活が著しく圧迫されてきます。また、カイロプラクティックのように講習会を受けただけで指圧に似た仕事ができるものがあったり、無資格でマッサージまがいをやる韓国エステやサウナや、売春を目的としたファッションマッサージなどたくさんの問題を抱えています。このことはどこの視覚障害者団体でも活動の1つとして掲げてはいますが、技術論になったり、自分達の会の立場だけの強調になったり、いわゆる視覚障害者の立場に立きったという大前提が見えてきません。技術向上だけでは裾野にいる人は切り捨てられていきますし、

p16
一部の有識者や視覚障害者団体幹部だけの意見でも裾野の人にとっては未来は見えてこないと思います。四角障害者の立場に立ちきる視労協でなければなりません。(最近、僕を独裁政権とあざ笑う人もいますがいかがなものか)
 また、視覚障害者は一見他の障害者に比べて楽で自由がきくという人がいます。行政の交渉内容においても四角障害者問題は比較的軽んじられているように見えますが、労働問題(労働問題が取り上げられるだけましだという人もいますが)は本当に先が見えにくいのです。だからまた方針に掲げました。障害を持つ教員問題も同様です。ただ、情報が少なくてその実情もなかなか世間に伝わりません。孤立して休職・退職へ流れてしまう実態も例え現場に残っても針のむしろ・差別の山という地獄があります。公務員も職域はまだまだ狭く、受け入れる門戸は狭いままです。障害者枠の公務員試験もいまだ視覚障害者には厳しいものがあります。一般就労は指折り数えられるほどで、いまDPIでも障害の欠格条項撤廃の運動に取り組み始めたところでもあります。
 とにかくどんな問題があるのかを知ることから始めたいと思います。わかったふりはしたくありません。情報収集・分析・学習・具体的行動、皆さんの参加を待っています。
 3
 昨年度の中心テーマには"まちづくり"がありました。点検活動は公園、ホーム・道路の点字ブロック、まだ企業が実験中の音声誘導システムと大きく3種類の活動が中心となりました。東京だけではなく愛知県、大阪、山口県、福岡県、鹿児島県と全国的点検活動を展開しました。その共同点検の相手も組合であったり、学者・研究者であったり、他の視覚障害者団体であったり、企業であったりとしました。様々な形態を見ました。ただ主体的まちづくりという立場を捕らえるならどこか他人まかせ的な部分も含んでいたのではないのかと思います。たてかたには大きく現社会の中の現建物・現ホーム・現道路を見直していく運動と、一定の未来を見つめてまちを障害者を含んだ形で創造していく、それに向かって活動していく方法と取りあえず2通りあると思われますが、比較的前者での取り組みはてまひまかかりますがやりやすいと判断されやすい、

p17
でも場当たり的で統一した・一貫したとらえ方に乏しいと思います。いま視労協まちづくり班はそのところにぶつかって悩んでいるようですが、今年度も地道な活動と若干の方向性の提起と情報の一端としての通信は欠かせないように思います。公園のバリアフリーを想像してみても公園がまちの中でどう位置付けられていてそのまちが障害者とどう一体感を持っているのか、本とに視労協にとっては厄介なテーマかもしれません。運輸省もそれなりの見解を出し始めています。その見解を正す力もこれまた重要だと思います。
 また、今まで取り組んでこなかった生活の中のまちづくりはさらに困難性を抱えています。日常の日々の生活の中での接点をどのように点検し度のように分析し度のような方向性をお互いにあるいは行政の間に作るのかが問われてきます。障害者が当たり前のように権利を主張し当たり前の生活を送るにはまだまだ遠い距離があるとは思いますが、まちづくりがそこに踏み込んでこそ差別をなくしてゆく事へとつながると思っています。
 4
 機関誌「障害の地平」が今号で98号となりました。今年度10月末で予定としては100号となります。それとともに10月26日に発足25年目に入ります。よくぞここまできたという思いがあります。何らかの形で祝いたいと思います。素直に祝いたいと思います。視労協に関わりあった多くの人達で祝いたいと思います。是非ご参加いただければと思います。すました形式的な事はとてもできそうにありませんが、心地好い一時となればと思います。予定では10月31日(日)午後1時と考えて場所や費用や内容を考え始めている段階です。
 5
 再生視労協の昨年度、積み残した基本手な整理があります。会員の住所も定

p18
期購読を含めると20〜30住所がわからずに帰ってきています。通信に1度名前を載せて皆さんにご協力いただこうと思っています。また、視労協の案内文も新しく作り直さねばなりません。特別、時代に合わせようとは思いませんがわかりやすい物にしなければなりません。また、財政の立て直し、機関誌や通信の見直しとやらなければならない事だらけです。
 6
 交流は昨年度の柱の1つです。遊び人金さんならぬ視労協もいいかもしれませんが、会員が増えていくような、また会員が元気の出るようなそんな交流であればいいし、今まで運動体があとまわしにしてきた文化や芸術の障害者自身の声による想像がもっとも問われていると思います。
 話は横道にそれますが、私が「障害者の誕生を祝う会」会長を呼かけた時、福祉に力を入れている有識者の方に「十分がんばってやってきたし、がんばっているのでそんなとらえ方をしなくても」とわざわざ電話をいただいた事もありましたが、私は思わず反論をしてしまった事がありました。当然障害者の間にも文化や芸術、身近な事でいえば交流やレクリエーションというものを軽視する人がいる事も確かですが、前記の労働やまちづくりにせよ生活を障害者自身の主体性に作かえていくとするならば大事なテーマではないでしょうか。
 7
 その他の方針の中で特にあげられる事はDPI日本会議への学習会やシンポジウムの積極的な参加があります。今の視労協の力量からいうとそれ程えらそうに言える在り方をしているわけではありません。常任委員をこれからどうするのかを含めて考えていかなければなりません。
 組合や他の障害者団体への共闘・協力も前に述べた事同様適当にするわけにはいきませんが、何が今視労協にとって必要かは内部討論をしなければなりま

p19
せん。水戸・滋賀・和歌山に代表される人権問題や今国会での重要法案であるガイドラインの事などなど学習しながら視労協として何ができるのかを考えるべき事、行動するべき事が山積みになっています。多分似たような現象がどこの会にもあるのではないでしょうか。解散した団体、変貌した団体、低迷を続ける団体とあるようですが、差別を無くすという大前提あるいは視労協の普遍的テーマ”障害者開放は今の視労協にどう関わりがあるのかなど1999年度活動方針をみる時思い起こさなければならない事だと思いました。
 最後に一般読者にとってこの一文が退屈なものになったかもしれませんが、必ずこの文章の中に重なるところや考えなければならないところがあると勝手に信じて終わりとします。なお、定例会への要望や会への要望も是非寄せいただければさいわいです。
 挿絵省略

p20
 第15回交流大会より
 まちづくり分科会報告
 森登美江
 関西からパネラーとして参加していただいた会員の野々村さんから95年大阪市営地下鉄で起きた転落事故の一事例について報告を受けました。その直後4月8日に報告のあった当事者佐木さんが大阪市を相手どり、駅ホームの安全を求めて大阪地裁に提訴し支援グループも組織されました。視覚障害当事者相互の議論を深めるとともに命を守る重要な裁判に注目する必要があります。
 また、東京の"荒川やさしいまちづくりの会"の代表高見さんから車椅子にとっての快適で安全な移動や生活面を含めて他の障害者との話し合いや協力の必要性が提起されました。
 さらに、建築家の目からバリアフリー・ユニバーサルデザイン等に注目し地域のまちづくりに積極的に取り組んでおられる東京清瀬の飯田さんから車椅子使用者や視覚障害者とともに清瀬駅周辺の再開発に伴うバリアの指摘や改善をはじめとする活動についてお話しいただきました。
 個々の地域で積極的に取り組まれているまちづくり活動のネットワーク化の実現がこれからの大きなポイントになります。そして障害者にとってさらにはすべての人々にとってのまちづくりとはどうあるべきかを考えるてがかりともなるはずです。真の意味で人が「生きている」まちを目指して活動を進めていきましょう。

p21
 生活分科会報告
 江見栄一
 同時進行をする企画が裏側にないために多くの参加を得る事ができました。
 今回の生活分科会のテーマは「生活の中での利便性」という事でそれぞれ参加者に生活の中で便利なもの不便なものをあげてもらいその理由を皆で話し合いました。
 視覚障害者が大多数参加されていたので、目を使わずに操作できるものでしかも新製品のものに話題が集中し情報交換の場ともなりました。
 タッチパネルやタッチセンサー使用という現代ふうのものには不便さがあるものの、点字のカタログや音声の説明やテープ付の生活必需品には興味が強いという話し合いにもなりました。
 車椅子使用者はやはり段差やスロープ・手すりという主張が中心でしたが、段差に関しては道路での2センチ問題もありますので、障害の違いによる違いもクローズアップされました。この事は弱視と全盲にもあって、クーラーやテレビ・ビデオ・CD・扇風機などなどほとんどの製品がリモートコントロールになっている事が指摘される中、弱視は比較的使いやすいと言い、全盲はそのリモコンがどこにあるかが定かでないので不便でもあるという意見もだされ、決まった場所にという決まりきった回答ではないそれぞれの今の生活状態がのぞけた事は興味深いものがありました。
 短い時間の話し合いでしたが、次回機会があれば地域における障害者の生きざまの話もしたいものです。
 
p22
 教育労働分科会T報告
 教育労働分科会Tでは、当初6人の先生方から、自らの経過と現状について報告していただく予定でしたが、都合により埼玉の宮城さん・新井さん・川田さんと広島の松田さんの4人から、ご報告をいただきました。
 時間の関係で、質疑の時間が充分とれませんでしたが、4人の先生方からは職場の同僚や友人などの協力を得ながら、勤務を続けているが無理が多く、公的な制度を確立しなければ、働き続けられないこと、又、障害の状況を無視して異動の命令を出すなど、学校当局や教育委員会に障害者を理解する姿勢がみられないなど、厳しい状況が報告され、障害を持つ教員の現状を参加者の皆さんの間で、共有化する事ができましたので、大変有意義な集会になったと思います。
 (桑原)

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 教育労働分科会2報告
 テーマ「障害を持つ教員が普通学校で働く意味」
 パネラー慎英弘氏大里暁子氏的野碩郎氏
 慎さんからは「統合教育の歴史」について報告された。我が国においては、明治の学制の制定以来、普通学校に対して廃人学校を作り、健常児と障害児が別の場所で学ぶ分離教育が開始された。小学校の義務化が実施された時は重度障害児は修学免除制度がもうけられている。戦後の学校教育法においては、普通学校の他に盲・聾学校が発足している。そして、79年に養護学校が義務化されるまで一貫して分離教育制度が続いていると報告された。文部省は障害に応じた教育をするといって、障害児を養護・盲・ろう学校に振り分けているにすぎないわけだ。
 東郷と分離教育の長短については議論されているが、世界的には統合教育が大きな流れとなっている。どのような子供も普通学校に通い、障害児に対してはその障害に応じた教育も保障するという流れである。
 視覚障害や人工透析など2重3重の障害を持つ大里さんからは、小学校の障害児学級で担任をしており、嘱託や介助員などの配置がされているが、障害に対する理解が進まず、職場で孤立している大変な状況が報告された。
 長い盲学校生活の経験を持つ的野さんからは、寮生活に象徴されるように同じ障害を持つ仲間と寮母さんとの楽しく暖かい環境で育ってきたが、外の社会に出たときに、どうしても違和感を無くすことができていない。分離され続けてきた結果であり、共に学ぶことが自然だと痛感すると言うことだった。
 会場から、障害者が働く制度が無い中で、障害があっても働き続けている教員が何人か存在するが、働くための条件や組合の積極的な支援がない厳しい現実をどのように打開するかと問題が提起された。これに対する答えとしては、分離教育の結果として作られてきた現状を考えれば、とにかく周囲の理解を深めることが重要だといえる。障害のために出来ない部分を明確にして、障害に応じた労働を承認させ、職場介助者の配置などの条件整備を実現し、やれる部分を責任を持ってやることで解ってもらえるようにしていく。このところで当該者と支援者のまさに苦しい闘いが欠かせないと言うことである。

p24
 久々の視労協大会
 野々村好三
 みなさんこんにちは。関西から参加した野々村です。僕にとっては、5年ぶりの参加で、久しぶりにみなさんとお会いすることができ、とても懐かしく思いました。
 今回は、教育ネットと合同ということもあり、内容も充実していて、多くの問題を共有することができたと思います。昼間ばかりでなく、夜も含めて盛り上がり、視労協の力強さに励まされ、パワーをもらって帰ってきたような気がします。また、解散論議を経て最スタートした視労協の存在意義を改めて再確認できた二日間でもありました。
 実働人数が少ないとのことですが、みんなで会を盛り立て、共に戦って行きましょう。これからもどうぞよろしくお願いします。
 挿絵省略

裏表紙の裏
 *編集後記*
 昨年度を受けて今年度はかなり具体的方針が総会で確認され、すこしづつ準備が進んできています。ひと味違う99年度作りたいものですね。
 世の中が少しづつ変わってきているかも知れません。例えば、行政が市民の声を表面的には聞く姿勢を見せるようになったとか、障害者や高齢者などにとってハンデになっている今の社会の状況をマスコミが取り上げるようになったとか、弱い立場の人の事を知ろうという姿勢の人達が出てきたとか…。でもそういう表面的な現象を手放しで喜んでいいか…。私たち視労協の差別を許さない戦いの姿勢からいえば、今こそしっかりと現実をつかんで運動を組み立てねばなりません。私たちがまちを歩けば「お前ら、こんなところをうろつくな」とあからさまに言われたり、「ババア、どけよ」と女子高生に小突かれたり、世の中全体がイラついている現実も確かです。
 ののしったり小突いたりする人だけを避難できない今の社会のイライラ現象を何とか無くしていきたいものです。
 そんな時代だからこそ私たちは元気に活動していきましょう。自然のぬくもりにふれ、緑あふれる5月の香りを楽しむ心も忘れないように1人でも多くの人達と出会う視労協にしていきましょう。
 前回の呼び掛けどおり3月の交流大会では新しい出会いがたくさんありましたよ。
 (森)

裏表紙(奥付)
 1999年4月29日
 定価200円
 編集人視覚障害者労働問題協議会
 東京都練馬区東大泉6ー34ー28
 陵雲閣マンション
 的野碩郎気付
 発行人身体障害者団体定期刊行物協会
 世田谷区砧6ー26ー21
 視覚障害者労働問題協議会



■引用



■書評・紹介



■言及





*作成:仲尾 謙二
UP: 20210528 REV:
障害学 視覚障害  ◇身体×世界:関連書籍  ◇『障害の地平』  ◇雑誌  ◇BOOK  ◇全文掲載
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