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『障害の地平』No.91

視覚障害者労働問題協議会 編 19970529 SSK増刊通巻 号;身体障害者定期刊行物協会,24p.

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視覚障害者労働問題協議会 編 19970529 『障害の地平』第91号,SSK増刊通巻 号;身体障害者定期刊行物協会,24p. ds. v01

■全文

表紙
 SSK増刊ー障害者開放運動の理論的・実践的飛躍のためにー
 子宮から墓場までノーマライゼーション!
 ー視労協ー
 障害の地平 No.91
 就職へ、ファイト!
 視覚障害者労働問題協議会
 一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
 一九九七年五月二十九日発行SSK増刊通巻   号

目次
 視労協的気分 森 登美江…1
 全精連のあゆみーゆっくりいこうよー 加藤 真規子…4
 就職戦線苦戦中 高橋 倫花…8
 私の就職について 原 正吾…10
 水戸事件で不当判決 奥山 幸博…12
 田舎の大往生 A 的野 碩郎…13
 「心で見る美術展」を開催するにあたって 小野澤 せつ子…16
 ボランティアとして参加してみて 久野 彩子…18
 書評「爆笑問題の日本原論」 梅林 和夫…20
 資料 東京盲ろう者友の会 郵政省への要望書及び回答…21
 資料 障害者の雇用の促進等に関する法律の一部を改正する法律について…24
 会費・定期購読費納入のお願い
 編集後記

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 視労協的気分
 森登美江

 私が視労協の会員として活動するようになってから7年半が過ぎました。入会当初は会議の内容など全く理解できず、どうなる事かと不安だったのを昨日の事のように覚えています。それまで妻だったり母親だったりしながら夫に対してまた、子供達の保育所や学校などで自分の立場や状況に疑問を感じて悩んだりしてきたものの、きっちり向きあって解決するとか抵抗するとかというような行動もしてこなかった長い年月がありました。学生時代もさして問題意識も持たないまま過ごしてきたような気がします。
 そんな中で視労協会員としての私の活動はスタートしたのです。
 単純作業が好きな私は(というより、それだったらがんばれる事だからかもしれませんが)みんなで集まってわいわい作る機関誌作業が楽しい事の一つでした。長年かかわってきている会員にとってはめんどうなだけの事かもしれませんが、みんなでなにかをするのは楽しい事だと私はいつも思います。最初の2・3年はそんな感じでみんなに付いていったと思います。
 数年前の交通アクセス行動に参加して車椅子使用者の仲間たちのパワーを知って、私達視覚障害者もデモの後ろをだらだら歩いているだけではなく、独自のアピールがしたいと切実に感じさせられました。そこで提起したのが視覚障害者の立場での駅点検でした。それが視労協のまちづくり運動への取り組みの

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一つのきっかけとなりました。駅点検を重ね、交通アンケートにも挑戦してみました。他の団体にも呼び掛けて学習会も行ないました。東京都福祉のまちづくり条例制定の動きに対しても、他の視覚障害者団体と協力して研究を重ね要望書づくりをはじめ微力ながら参加してきました。また、都営地下鉄の点検を東京都交通局の組合員といっしょに行なったり、都立公園を東京都建設支部の人達と歩いてみるなどの取り組みによって障害者団体はもちろんのこと、住みやすい町や安全な交通機関を求めて運動している健常者との出会いも増えて着実に輪が広がってきています。
 このように、まちづくりは私の運動のほとんどの部分を占めています。これからもそうかもしれません。それと同時に私の中で長い間どのように取り組んでいったらいいのかと思い悩んでいる課題があります。それは障害者としての運動と同時に女性としてこの世の中を換えていく運動の組み立てです。私個人としては離婚という体験から受けた痛みをばねにする事です。そして、どうあっても許せないレープ事件をはじめとする女性に対する男性の様々な差別意識と戦う事。視労協の男性諸氏の中でもときおり女性に対する差別的発言ではないかと思われる会話が聞かれます。冗談として通りすぎればいいという人もあるでしょうが、差別を許さない運動に携わっているのであればなおさら思いや言葉に心を配るべきではないでしょうか。そういう所から運動が始まるのではないでしょうか。そんな話ができるような場が欲しいと思っています。こんな事ばかりいっていると男性からだけではなくて女性からもうっとおしがられる

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事がありますが、それは女性自身が解放されていない証拠の表れだと私は思ってしまいます。という私自身もまだまだ自分の持つ差別性をみつめきれていないし、恥姦に対して消極的な防衛しかできていないというような悔しい状況です。また、中絶の問題をどう考えるか、出生前診断などがなにを意味するのか、今の世の中では女性はまだまだ子孫繁栄の道具であり、障害者が生きる事は否定され続けているという事を視覚障害者として女性として自分の考えをしっかり持つ必要に逼られていると思います。理解できる事から、感じた事から自分の中で整理していきたいと思っています。
 視労協の女性会員を中心に日頃の思いや体験を話し合う事から始めてみんなで運動につなげていけたらいいなと考えています。「優生保護法」が「母体保護法」となり「臓器移植法」が審議されるなど命の在り方が問われる法律が改正されたり新しく作られるというような動きが次々と行なわれています。情報収集に勤め議論をしていかなければならない状況です。視労協も高齢化が進んでいて大変ですが、傍観者ではいられません。
 偉そうに書いてしまいましたが、「みんなでいっしょになにかをしたい」というのが私の思いです。「みんなでいっしょに」というのは大人の集まりの中ではけっこう難しいものがあるようです。そこをなんとか素直に自由に思いを語り合いたいものです。呼び掛けていこうと思っていますのでみなさんぜひ参加してください。

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 全精連の歩み―ゆっくりいこうよ
 全精連 加藤真規子

 (1)はじめに
 田園都市線の梶ケ谷駅からパスで二〇分。それからまた二〇分程歩いたところに「ハピネス野川」があった。「ハピネス野川」。全国組織準備会の事務局と憩いの家と、私の家でもあった。周辺は、田園が切り開かれ、住宅地になりつつあったが、「川崎のチベット」といういい方がその交通の不便さをうまくいいあてていた。
 不便な代りに、私は、すっかり忘れていた霜のおりる現象を見ることを体験した。はじめ地面が一面白くなるのを見て、何だろうと思った。田舎育ちの私は、「ああ、霜だな」とすぐ気がついた。都心に近くても空気が澄んでいた。秋になると青空がぐーんと広がった。そんな町の坂の上の、路地の奥にあった、二軒長屋に、仲間が「ハピネス野川」と名づけ、四年間、私はそこに住み込んで活動をおこなった。
 ここでは、主に全国精神障害者団体連合会(以下全精連)の準備の様子と、全精連の展開を記したい。

 (2)全国組織準備会
 日本には、一六〇万人の精神障害者がいるといわれている。そのうち三十三万人の人々が入院している。宇都宮病院、大和川病院、越川記念病院、栗田病院と、精神病院の不詳事が続いている。それは、精神病院の閉鎖性隔離性、収容主義がひきおこしていると思う。精神保健法も、保護者制度があり、国の責任を放棄している精神病院でできることには限界があるのに、その限度があいまいのまま、何十年も精神病院に入院している。精神病院が住居のようになっているのは、間違っていると思う。どこまでが治療か、リハビリテーションか、どこから先は障害を持ちながら地域で暮らしていくものなのかの整理が精神領域でははっきりしない。
 一つには基本的に地域での社会資源が圧倒的に少ないため行くところがない。人権が守られていないために、息をひそめるように、在宅でひっそりと生活している人々が多い。私は基本的に人権の問題は地域の問題だと思っている。マスメディアを通して市民に知らされる精神障害者の姿は、差別と偏見を助長している。法律も欠格条項で二百以上、精神障害者であるがゆえに、つけな

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い仕事がある。家族との縁も切れていて、アパートの保証人になってくれる人がいない。福祉的な配慮も、他の障害者と比べて、立ち遅れている。手当もないし、有料の介助サービスも、行っているのは、東京都世田谷区ぐらいだ。
 精神障害者自らの手で、声を出していこうという願いをもって、全国組織準備会を発足したのは一九九〇年一月のことだ。前年の全国精神障害者社会復帰活動連絡協議会(以下全精社連)の埼玉大会で、「精神障害者本人の会を作ろう」と全精社連に参加している仲間がよびかけた。全精社連は、ソーシャルワーカーの人が代表で、一年に一回、実行委員会形式で、各地で大会を開いてきた。主に生活に根ざした話題が多く、恋愛と結婚、仕事のこと、家族のこと、趣味のこと、一人暮しのことなど語りあった。懇親会が楽しみだった.「今年もあえたねえ」というのが何より嬉しかった。
 実行委員会のメンバーが、作業所の通所生、作業所のスタッフが多くなり、私には、私たち精神障害者ではげましあえば、日常活動をもっている精神障害者本人のネットワークがつくれるのではないかと私には思われた。精神障害者本人に知らされる情報は、余りにも少なく、一方で、精神障害者本人のプライバシーは、秘密厳守といわれながら、カルテも本人が見ることができない。何の病気か、何故薬をのむのか、どんな経過をたどるのか医師や医療従事者がにぎっていて、知らされない(インフォームドコンセント)ということが、多すぎる。奈良県で病者名簿が流出したように、本人のプライバシーが守られていないことがある。
 各地で、精神障害者本人同士の支えあう活動も見えてきた。私の入っている精神障害者本人の会でも、レクリエーション(私は遊びはすごく大切だと思う)だけでなく、友人の見舞いをしたり、外泊の手伝いをしたり、部屋の掃除をしたりするようになっていた。「拠点が欲しいね、憩いの家が欲しいね」と言う声がでてくるようになっていた。
 全精社連でも大会の最後に、県や国への要望をまとめて、代表の仲間が、県や国に持っていくようになっていた。厚生省に要望書を持っていった時、「皆さんは皆さんのできることをやって下さい。私たちは、ディケア活動を充実させたり、社会復帰施設をふやして、そこから、皆さんたちのような活動をしていく人々ができたちいい」といわれたことを今でもよくおぼえている。私は、今、振りかえると、こんなに全精連と共に歩む人生になるとは思っていなかった。厚生省が、私たち精神障害者におよぼす影響がこんなにも大きいということには無自覚だった。
 私たちの全国的なネットワーク作りに危惧を抱く人もいた。

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「患者会の活動は虫の活動で、全国組織は鳥の活動だ」といわれた。虫の活動である単会活動を大切にして、全国組織の事務局は情報の交差点のようになればよいと私は考えていた。
 準備会は、月に一回、話しあいをもった。規約作りを主に話しあった。各々の会のミーティングの持ち方の違い、代表者は意見を委任されているグループもあれば、いったんグループに持ちかえって決めたいというグループがあり、ギクシャクすることも多かった。ミーティングの様子を知らせる便りを知ってる限りの患者会におくった。年数がたった活動する人の多い患者会はよいが、できたての会では、全国組織作りに参加するのは、シンドかっただろうと、今にして思えば痛感する。
 もめたあと、「漁り火」という飲み屋に必ずいった。そこのお姉さんが気さくな人で、懐かしい。
 厚生省の人が、「一度、ハピネス野川をみてみたい」と野川まで来たことがあった。ケーキをおみやげに。私たちは憩いの家をみたいということだったので川崎の仲間と夕食の準備をしてむかえた。私がその時のことで今でもよくおぼえているのは、一人のメンバーが「加藤さんがいなくなると困るけど、このままだとかあいそうに思う」といった言葉だった。厚生省の人々は、メンバーが口々にいう生活の様子を夕食を食べながらきいて、「頑張って下さい」と一人一人に握手してかえっていった。疲れた何人かの仲間が泊った。私も疲れて、次の日、遅くまで眠った。「私がかあいそうにみえるのではいけない」と思いながら……。
 私はいくつかのパートをかけもちしながら、ハピネス野川の生活をおくっていた。通信をワープロで打ち、パート先で印刷させてもらって、発送は川崎の仲間が手伝ってくれた。
 パートという中途はんぱな立ち場に身をおいて、時間は自由に使えるようにしておきたかった。金曜の夜から、土、日は完全に憩いのおばさんになりきった。家賃が支払えないで待ってもらったこともある。なるたけお金を自分たちで支払って自由にやりたいというメンバーの意志を尊重して、出資者はカギをもって、クラブ活動の部室のように自由に出入りし、泊まることもでき、運営は精神障害者自身の手でやっていた。
 全国組織準備会、ハピネス野川が有名になるにつれて、相談の便りや相談の電話がふえた。私はポストをのぞくことがこわくなった。「ひとりぼっちの人がこんなにたくさんいる」便りの返事を、勤めの時間をぬって書くのがやっとだった。緊張していたせいか張りあいがあったせいか、私は、必死だった。野川から東京のはずれの江戸川区まで仕事にいった。いつ結成するかで、仲間の意見がわかれていた。もっとみんなの意見をきこうという仲間、

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もう二年も時間をかけたのだ結成しようという意見にわかれていた。一九九二年十月に横浜で拡大準備会をひらいて、一九九三年四月に結成しようということになった。「もうソーシャルワーカーら医療従事者の保温器からでよう」という北海道の仲間の声が決定につながった。

 (3)結成大会から今日まで
 結成大会の前日まで、私は電話と名簿作りに追われた。各新聞もNHK、ラジオ短波も好意的にとりあげてくれた。私は、やらなくてはならないことが山積みになって迫ってくるような気がした。朝の七時から十二時まで電話相談におわれたのだった。精神保健センターの人も、家族会の人も、作業所の人も、様々な人が手伝ってくれた。
 六百名ぐらいまで数えることができたが、あとは、当日にならないとわからなかった。少しずつ日本社会事業大学にあつまってきて千二百名の人があつまった。
 結成大会の日、私は前日いそいで買ったサマーセーターとジーパンで働いた。結成大会にも分科会にもでられなかった。ずっとあとになってから、「厚生省の人が、結成して下さってありがとうございますというのはおかしい」という話を何人かからきいた。確かにおかしい。厚生省の人に頼まれたから作った全精連ではない。私たちは必死でやってきて同じ年の夏にあった世界精神保健会議に間にあわせて作るなんていう気持ちなど、みじんもなかった。後日、厚生省の人から「私の言葉でご迷惑をかけて申しわけありませんでした」といわれた。どうでもよいことだ。一歩ずつ、二歩進んで、一歩後退するペースで今、みんなの意見をききながら、全精連をつくりつつあるんだという気持ちが私には強い。
 ふと、いつまで全精連と歩むのだろうと思うことがある。経済的基盤がぜいじゃくで夜、眠れないこともある。
 しかし、新しい後輩がでてきている。この春、私は谷中周辺の緑の森を骨粗しょう症の八十四才の母親と歩きまわった。エネルギーを緑から吸収したこと、私だけだったら十五分でいけるところを三十分以上かかる母の歩み方に、全精連の歩み方を納得したような気がする。
 ゆっくりボチボチ、みんなで話しあいながら歩んでいこう。

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 就職戦線苦戦中

 高橋倫花

 私は現在、某私立大学に在学する女子学生である。今年4年生になった私は、目下就職活動に邁進している。最近私は、自分は普通の女子学生ではなく、重度の視覚障害を持つ女子学生なのであるという点を痛感している。そう、今さらのようにである。そこで今日は、重度の視覚障害者である私の就職活動の実態について、少し書かせていただきたいと思う。
 私が本格的に就職活動を始めたのは、まだ3年生だった今年の3月頃である。それまでにも私は、公務員試験に向けての受験勉強や、大学主催の就職セミナーへの参加等はしていた。だから、さらに企業に対する資料請求や、OB・OG訪問などの活動を始めたのである。
 まず私は、東京学生職業センターを訪れ、求職登録すると同時に、昨年の「新規大学等卒業予定障害者求人一覧表」という資料を入手した。私はこの資料を基にして、私の条件に合う企業を選定し、資料請求の手紙を出した。私はどちらかといえば、業種よりも職種で企業を選んだ。
 資料請求の手紙には、資料請求用の通常の文章に加え、私個人に関する以下のような内容を明記した。
 1.私の視力(両眼共に0)および障害等級
 2.私は公共交通機関を利用して、単独での通勤が可能なこと
 3.私は9時から5時までを基本とした通常の勤務時間に対応できること
 4.私が働くために、建物設備の改造は必要ないこと
 5.私は点字・録音テープ・音声装置つきパソコンなどを用いて、学業や生活に関する情報を収集・管理していること
 6.希望の職種・私にできそうな仕事(事務・電話交換など)
 私は現在までに計44社に資料を請求し、15社から回答があった。その中でも、現状では重度視覚障害者の採用は不可能という回答が、9社から寄せられた。一方私は、残りの6社のうち、1社の面接を受け、あとは今のところ企業からの連絡まちの状態といえる。私はこのような結果の詳細をパソコンの住所録管理ソフトを利用して、データ化している。
 反面OB・OG訪問は、たくさんの先輩たちに対して行っているわけではない。私の場合、OB・OGといえば大学の先輩よりも、企業で働いている視覚障害者である。しかも、私の希望する職種で、全盲か強度の弱視の人の話でないと、あ

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まり参考にはならない。そうするとかなり数は限られてくるが、何人かの人に電話で話を聞いてみた。雇用連(全国視覚障害者雇用促進連絡会)発行の機関誌や、文月会の名簿がこんなときに役立った。
 率直な感想として、現在も働き続けている人は大体、それなりに仕事をしているらしいのでほっとした。私は、重度の視覚障害者でせっかく就職しても、あまり仕事をさせてもらえず、数年もしないうちに退職したという例をいくつか聞いたことがある。なんとか就職できても、その後仕事をさせてもらえるかどうかは判らない、そう思うと私は眠れなくなるほど不安だったのである。
 最後に、先日参加した障害者の就職フォーラムについてふれる。最初に障害者の就職に関する型どおりのシンポジウムがあり、その後企業説明会が開催された。当日は四十数社の企業が参加し、会場はさまざまな障害者でとても賑わっていた。私は9社の人事担当者と面談した。何しろどの企業のところにも列ができているので、実際に面談するまでに時間がかかる。
 それで、手ごたえがあったのは半分くらいだった。断られるというのはやはりショックである。私は、これまでにも多数の企業から門前払いされてきたので、大方慣れているとはいえ、眼の見えない人間なんて存在する価値もないんじゃないかと、絶望的な気分になってくる。でも、こんなにつらい思いをしたのだから、絶対それ相応の結果を手にしてやるといった執念もある。
 また、いかに日頃自分が普通にやっていることが、一般の人々には普通でないかをあらためて実感した。企業の人事担当者との面談で、全盲の私が日常単独で歩行し、一人でくらしていると話したら、にわかには信じられない様子だった。それから、音声装置をつければ、画面が見えなくてもある程度パソコンが使えると説明したところ、音声装置とはキーボードからではなく、声で入力するもののことだと誤解されてしまった。私はしばし、人事担当者を相手に、画面音声化ソフトと音声合成装置について、講義する羽目になったのだった。
 さて「身体障害者実態調査結果の概要(平成3年11月1日調査)」によれば、視覚障害者の就業率は、障害者全体の就業率の平均を下回っている。他の障害者の就業率と比べても、視覚障害者の就業率は一番低い。私の就職活動もたいへんきびしいと感じている。しかし、私は就職する。私は一般の学生がやる就職活動は、全部やってみようと思っている。一般の学生が20社受けるなら、私はその倍以上受ける覚悟をしている。
 こんなわけで、私の苦戦はもう少し続きそうである。今後も私は、昂然と大胆に、用意は周到にを心がけて、就職を目指して努力を重ねる所存である。

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 私の就職について
 原 正吾
 私は初めてこちらに原稿を書かせていただきます原 正吾といいます。私の簡単な経歴をお話しますと、小・中学校は普通校を卒業し、高校から某都立の盲学校に入学しました。そして同保健理療科・理療科を経て本年度より某団体職員のヘルスキーパーとして働いています。
 就職するにあたっては特にこれといって苦労したとか、特別なにをしたとかと言うことはありません。ただ一つ言えることは、私は理療科入学時にマッサージの免許を持っていたことと、やりたい仕事がある程度決まっていたのでそのことが有利に働いていたことは確かのようです。三療一つを取ってみたって働く場所によって役割やアプローチのしかたがちがうので、早めに自分のやりたい仕事を見つけることがよい就職を見つける一番の近道だと私は思います。
 私の仕事の内容は、『職員の健康を維持するためにマッサージを施す。』という事をしています。実際、職員の多くは過去にぎっくり腰や五十肩の経験がある人が多く、正直いって私自身驚きました。また、高血圧や糖尿

p11
病などの予備群的存在の人が多く、日常より医学的管理の必要な人も多数います。そういった意味でも、今後ヘルスキーパーの存在が重要視され、それと共に職域が広がることを強く望みます。そのためには実績を少しでも上げなければならないと思います。今のところ私自身は実績を上げる努力はなに一つしてませんが、今後色々と頭の中で考えている事を実行して行きたいと思います。
 今、私が困っているのは職場の人の顔がなかなか覚えられない事です。男性はみんなスーツだし、女性は普通の事務員の着るような制服を着ているので、少しでも離れると誰が誰だか分からなくなる事です。初めは同じ人に名を二度三度とお聞きするのがとても恥ずかしかったのですが、今は人ちがいをするよりはまし、と割切っています。あとは好き勝手にやらせてもらっているのであまり困ったりもしていません。
 ヘルスキーパーの仕事はその日によって人が来たり来なかったりとかはありますが、私はあまり深く考えない性格なのでそれなりにうまくやっていけると思いますし、考えすぎないぐらいの方がこの職種は向いているのかも知れません。

p12
 水戸事件で不当判決
 奥山 幸博

 3月28日、水戸地方裁判所において、アカス紙器(現・水戸パッケージ)の元社長、赤須正夫に対する判決公判が行われた。被害者や家族をはじめ100名を越える支援者の前に示された判決内容は、「懲役3年・執行猶予4年」(求刑、懲役3年)というものであった。助成金詐取と暴行など4件だけが起訴され、女性障害者への性的虐待については、告訴していたものがすべて不起訴処分になったという状況の中で、今回の不当判決につながったものと考えざるを得ない。踏みにじられた人権は救済されなかったのである。
 「知的障害者」ゆえに権利を侵害され、訴えは届かず、通り一遍の捜査と裁判で片付けられてしまった。何とも痛ましく、悔しい。
 判決の前日、3月27日に、水戸職安の所長名で関係者に対する謝罪文が、そして、4月1日には茨城県が障害福祉課長名で同じく謝罪文が提出され、被害者約15人から虐待された状況などを初めて直接事情聴取したという。こうした行政の対応は一体どういうことなのだろう。「なぜ今頃になって」と感じるのは私一人ではないだろう。
 判決当日、1名が器物破損で、その後支援活動の中心的な役割を担ってきていた2人が、暴行、監禁などで逮捕された。私達は障害当事者として、この事件に関心を持ち、カンパや署名活動に協力してきた。しかし、現地を中心としたとりくみには十分に関わりきれす、こうした事態を招いた事は非常に残念であり、反省もしなければならないだろう。
 被害者や家族にとっては民事での損害賠償請求の闘いが引き続き行われるであろう。滋賀事件では、被告である国、県と既に実刑(1年6ヶ月)が確定し服役中の元社長の3者が原告(被害者)の主張を否定。国は棄却を求める構えという。いずれもきびしい闘いになりそうだ。私達は今後ともこれらの闘いに注目し障害者運動として何ができるのか、何をしなければならないのかを議論するとともに、できる限りの支援をしていきたい。

p13
 田舎の大往生 (2)
 的野碩郎

 始めての火葬場が父の死であったというのもなにか皮肉っぽい。盲学校小学部時代、寄宿舎と寮というのがあって、施設としての寮は裏側が火葬場で毎日のようにもくもくと煙をだす煙突があったことを思いだした。が、今は電気で焼いている。「お待たせしました」と係りのおじさんが部屋に案内した。まだ暖かい骨が解剖の標本のようにあって、軍手をしたおじさんが色々と説明する。「どこか悪い所があれば黒っぽい所があるんですがねえ」といいながら骨の中でも小さい部分を1箇所に集め、箸でつまみやすいようにしてくれている。箸から箸へわたして骨壺へという話を聞いていたのだが、それも簡略化されて一人一人拾っては骨壺へと入れていく。死んでしまえばただ骨でしかないと僕は思った。係りのおじさんはためらいもせずに頭骸骨を箸で細かく砕いて骨壷に入れやすくしてくれた。これも父である。
 親戚一同はそれぞれが乗ってきた自家用車に乗って我が家へと帰ってくる。祭壇も棺桶があった形から骨壺を迎える形と変わっていた。葬儀屋さんも少しずつ片付けをしはじめている。この後夜は初七日となる。
 初七日は和尚さんは一人でこちらは親族と親戚。親戚といってもほとんどが福岡県内でそのまたほとんどが近所に住んでいるのだからさして変わり栄えのしない顔触れ。賽銭という形でみんな小銭を上げて拝んでいく。初七日はあっという間に終っ

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て今度は「精進落とし」となる。これも葬儀屋が参加人数に応じて刺身をなん皿、揚げ物をなん皿と指示を与えてそれに残り物の精進料理が盛られ酒とビールがだされる。親族は下座で接待役をして酒のかんつけやお酌までして回る。
 次の日も朝早くから片付けが始まる。借りたテーブルや鍋などを返しにいったり、葬儀屋が最終的なチェックつまり、葬儀代の請求にくる。朝の忙しい中よその葬儀屋、分厚いパンフを持って売り込みにくる。この町にはいくつも葬儀屋があるとは、思えないが。僕達も葬儀のために片付けたものをまた元通りの位置にもどす。お袋は自分たちの部屋へ籠もってでてこない。
 昼過ぎから香典の台帳づくりが始まる。父の時代の台帳は墨を擦って筆で書かれているが、今回は筆ペンで書いていく。一人が香典袋を空け、一人が名前と住所と金額を書いていく。また、他の一人が金の仕分けしながら束ねていく。この台帳にはお金だけではなく酒や花など事細かく書かれ、香典を持ってきた人があるいはその家族がなくなったらその額を参考にこちらから香典を持っていく事となる。現に香典台帳を作っているうちに1軒なくなった人がいて、早速その台帳が役に立ってくるという事である。
 借りたものを返すにも、色々と助言をしてもらった親戚にどのぐらいのお返しが…という話題がお袋と兄の間で大騒ぎ。
 昨日の初七日の後、和尚さんとの打ち合わせでは二七日・三七日と49日まで毎週七日をする事になったのだが、その事をセットするのも大変だが地域に密着する寺や神社にとっては大事な大事な稼ぎ時なのである。49にちをやるにも3つの月に

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股がってはいけないとか、49日を勤め人の都合で49日を過ぎてやってはいけないとかまだまだ難問はあるようだ。僕はさっさと東京へと帰ってきてしまったが、その後は兄夫婦がえらい苦労をした事はいうまでもない。お袋は父の遺産の点検、特にお金関係を捜しまわっていて古い家特有の男性天国でどこに通帳があるのかさえ、どんな種類の通帳があるのかさえ知らないようでこれまた兄を困らせているようである。
 僕はとりあえず8月の初盆と1周忌には帰ろうと思っているのだが、父が死んでしまうと少しずつ田舎が遠退いていく気がする。
 他の田舎と違う盆踊りは踊り子たちが初盆の家々を回ってその庭で踊っていくのだが、今年の夏はその風景を見る事になるのである。父に連れられて踊り子の後を付いてたんぼ道をあちこちの家を回っていった事をつい昨日の事のように思いだす。
 (続く)

p16
 「こころでみる美術展」を開催するにあたって
 府中市 小野澤 せつ子
 「芸術と自然とは人々を健全へと導く」とは古来よりの名言であるが、まさにそうであると思い、私は自分の生活の場、地元府中市で「森のお話会」、「朗読の会」、「府中国際マイムフェスティバル」等、様々の芸術文化活動をやってきた。
 美術に関しては市の美術館建設検討協議会の委員として、基本構想に参画したが、一年程前から是非企画展をやってみたいと思っていた。それには「あなたにとって表現するとは?」というテーマがあり、それに添うて作家の方々に創作して頂きたかった。しかし実行する手掛がりが見つからずにいた。
 そんな折、昨年9月〈ギャラリー・TOM〉における「全国盲学校生の造形作品展」の新聞記事が目に止まった。「これだ!是非この目で碇かめたい。」と思ったが、実際に作品をみることができたのは12月に入ってからであった。直に作品をみて思わず抱きしめたいという衝動に駆られ、魂の奥底から大きな感動が湧き上がってきた。と同時に生徒さん達の作品を府中で展示し、是非多くの市民の皆さんにみて頂きたいと思った。そしてこの2月、その思いに20名もの皆さんが共鳴して下さり美術展開催のための実行委員会をつくった。その中に森 登美江さんもいらっしゃる。私にとって今回森さんとご一緒に活動出来ることは、とても貴重であり大きな喜びとなっている。
 生徒さん達の作品は世に言う名品ではないが、みる者に大きな感動を与えてくれる。そして「かたち」とは何か、「みる」とはどういうことなのか、「触感」とは等、様々の問題をも提起してくれる。今度の美術展ではこれらの作品が、みる人の心

p17
に強く働きかけてくることに特に注目したい。これらの作品と向き合う時、人は自分の心の一番大切な部分で感じていく、そして自分の心の大切な部分に気付く。このような人の心の動き、人の心が生き生きと動くことは、閉塞的な現代社会においてはとても重要なことではないだろうか。生き生きとした心こそ創造力を生み、明日を切り拓くエネルギーになるからだ。このように人々の心に大きく働きかけてくる生徒さん達の作品こそ、本当の意味での芸術作品と言えるのではないだろうか。
 今回美術展を開催しようと思ったもう一つの動機がある。それは今度府中市に美術館が建設されるということである。博物館や美術館は社会教育の理念に基づいて建設される施設である。人の潜在的欲求を探りそれに応えるのが社会教育である。私はこの社会教育の理念に基づく美術館は、人々が生きていく上で絶対に必要であると思っている。そこは人々にとって楽しい学びの場、創造と発見の場である。そこに展示される作品は多くの人々の心を深く感動させるものである。そしてそこはすべての市民に開放されている。特に障害を持った市民には、企画の面からも施設設備の面からも充分な配慮がなされている。今度建設される市立美術館は是非このようなものであって欲しいと心から願い、今度の美術展を開催することにした。今回この願いに具体例をもって助言して下さる、ニューヨーク・メトロポリタン美術館の学芸員アン・ピアソン女史の講演会が美術展の前に行われる。今回の美術展・講演会の開催のことでは、村山 治江館長さんはじめ<ギャラリー・TOM>のスタッフの皆さんには多大なご協力を頂いている。感謝である。美術展・講演会共、是非とも成功させたいと心より思っている。

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 ボランティアとして参加して
 ルーテル学院大学3年
 久野 彩子

 こんなに多くの視覚障害者の方と会うのはとって初めてでしたし、ボランティアとしてこれほど喜ばれたことはありませんでした。私のボランティアとしての役割は会議に出席する視覚障害者の方を会場まで誘導することでした。朝の8時半ぐらいから駅で障害者の方を待ち、バス停まで誘導するボランティアでした。2人づつ手分けをして誘導しました。しかし、多くの視覚障害者の方が来る中で、2人で一度に誘導できる人数は決まっています。ホームから降りてきた障害者の方を改札口の所で待たせてしまったこともありました。だけど、待っていた障害者の方に一声かけ、「バス停まで誘導しますよ」と言うと、笑顔になって心から感謝してくれました。

p19
会議が終わった後、視覚障害者の方といっしょに食事をする機会がありました。視覚障害者の方の脇に座り、障害者の方のために出てきた料理を取ったり、飲み物を注いであげたり…。私たち健常者からすれば、出て来た料理を取り、食べることは何でもないことです。しかし、視覚に障害を負った方にはそれがなんであるか、どのような形をしているか目で見て確かめることはできません。
 「あなた、目、見えますか?見えるのならて、手伝っていただけませんか。」と言って私に助けを求める障害者の方もいました。
 一人の労働者として、一人の人間としてこの社会を障害を持ちながら生きぬくことは大変なことだと思います。だから、私たちは障害者の方も社会を形作る1人なのだということを認識していく必要があうのではないでしょうか。より多くの障害を持った人が元気良く街を闊歩するような社会を私たち、そしてみんなで作っていくことが大切だと思いました。

p20
 爆笑問題の日本原論
 著者 爆笑問題
 題名からでは何の本かわからないと思う。まあ、早い話、「漫才」の本である。それもかなり毒々しい代物である。よって、あまりテレビではお目にかかれない。
 もともと芸としての笑いにはある種の毒がある。差別意識との近似として。さて、今回は分析は置いて中味の紹介するだけにする。

 「オウム裁判始まる」の巻
 田中ーそうだよね。未来の子どもたちは、学校の授業で習うんだろうね。
 太田ー先生が黒板に[1995年、地下鉄サリン事件]とか書いちゃって「いいか、コレは試験に出るからな」なんて言っちゃったりして…。
 田中ーそう考えると変だよね。
 太田ー「覚え方としは、人食い急行(1995)、地下鉄サリンだ!」なんて。
 田中ー不謹慎な覚え方さすなよ!
 (梅林)

p21
 1997.4.2
 〈資料〉
 平成9年4月24日
 東京盲ろう者友の会
 会長 山岸康子様

 郵政省貯金局
 システム設備室
 室長補佐 岩口光則

 貴職、貴会及び会員の皆様におかれましては、日頃から、郵政事業、特に郵便貯金事業に対し、深いご理解とご協力を賜り厚く御礼申し上げます。
 また、郵便貯金をご愛顧いただき、重ねて感謝申し上げます。
 さて、平成9年4月6日付け郵政省貯金局あての「郵便貯金のATM・CDに関する要望書」に関しまして、私がATMの開発・企画に直接関係しておりますので、回答させていただきます。
 なお、ご要望の趣旨及び会員の皆様のATMご利用の態様につきましては、本件要望書及び通訳介助派遣事業事務局浅井様との電話連絡で内容は承知しております。
 つきましては、ご要望につきまして、下記のとおり回答いたします。
 記
 (ご要望)
 1 ATM従来機には、キーボード式の操作キー、キーボード・カード挿入等の操作部への点字表示、点字ピンによる金額点字表示、受話器やイヤホーンによる操作誘導や金額確認等、視覚障害者の利用を配慮した工夫が施されております。受話器やイヤホーンによる音声の使えない盲ろう者も、点字表示や経験・勘を頼りに何とか点字ピン表示付きのATM従来機を利用しております。新型器の開発に当たっては、盲ろう者も使いやすいように、ATM従来機の機能のほか、操作手順の指示や確認等、点字ピン表示の機能を充実させてください。
 (回答)
 ○@点字ピン表示機能(点字金額確認器)のある新型ATMの開発が可能であるか否か、並びにA点字金額確認器に操作手順の指示や確認の機能を付加できるか否かについて、メーカーの意見を聞く等早急に検討いたします。

p22
 (ご要望)
 2 ATM・CDには、普通の活字で操作手順の説明等が添付されておりますが、普通の活字が読めない盲ろう者にも操作手順が理解できるように、点字や拡大文字によるマニュアル等も備え付けてください。
 (回答)
 ○点字ピン表示機能が作動する専用の点字カードは、盲ろう者や視覚障害者の方からのご請求に基づき発行し、送付されますが、カードとともに、別添の「郵便貯金キャッシュカードのしおり」が送付されます。
 このしおりには、ATM・CDの点字表示位置や操作手順などが記載されていますので、ご活用ください。
 (ご要望)
 3 点字ピン表示のないATM新型機の開発はバリアフリーの時勢に逆行するものですので、中止してください。介添え者と共に行動することの多い盲ろう者といえども、ATM・CDを操作しての現金預け入れ・払い戻しは、自力で出来るようにしたいものです。
 (回答)
 ○新型ATMについては、点字の読めない方、高齢者や弱視者の方などより多くの万にも利用しやすくするため、点字カードがなくても操作ができるよう改善したものですが、盲ろう者の方の要望の趣旨に沿って、点字ピン表示機能のある新型ATMの開発が可能であるか否かについて、メーカーの意見を聞く等早急に検討いたします。
 (ご要望)
 4 新型機の導入に当たっては、それぞれの郵便局には点字ピン表示付きのATM又はCDを少なくとも1台設置してください。予算・スペース等の関係でそれが無理な場合は、点字ピン表示付きのATM従来機の設置されている郵便局での点字ビン付きのATM新型機への移行をお願いいたします。
 (回答)

p23
 @全国のほとんどの郵便局には、ATM又はCDが少なくとも1台は設置されており、全てのATM・CD従来機には点字ピン表示機能が付いています。また、比較的大きい局には2台以上設置されています。
 AATM・CDは、8年サイクルで新型の機器に更改しており、また、郵便局ごと、機器ごとに更改時期が異なるので、点字ピン表示機能付きATM・CDが、一度に消えるわけではありません。2台ある局は1台残る可能性があります。
 B点字ピン表示機能のある新型ATMが設置されるまでの間、最寄りの郵便局で点字ピン表示機能のあるATM・CDをご利用いただく方法があるか否かを検討いたします。

p24
 〈資料〉
 障害者の雇用の促進等に関する法律の一部を改正する法律案について
 T背景
 障害者の雇用の促進等に関する法律に基づく雇用率制度については、身体障害者のみを対象として法定雇用率が設定され、精神薄弱者はその算定基礎には加えられていないため雇用義務はないが、精神薄弱者を身体障害者とみなして実雇用率にカウントできることとされ、その雇用が進み、その職域も拡がりを見せている。しかしながら、その一方でこのような取扱いが身体障害者の雇用促進に対して影響を及ぼすに至っている。
 また、精神薄弱者への雇用率制度の適用を求める社会的気運が盛り上がり、平成7年12月に障害者施策推進本部において策定された「障害者プラン」及び平成8年5月に総務庁よりなされた行政監察結果に基づく勧告においても精神薄弱者を含む雇用率の設定について検討するべきこと等の指摘がなされた。
 これらの状況を踏まえ、精神薄弱者、精神障害者を中心とする障害者の雇用の一層の促進を図るため、以下の改正を行うこととする。
 U概要
 1雇用率制度の拡充
 (1)精神薄弱者を含む法定雇用率の設定
 その算定基礎に精神薄弱者を加えた法定雇用率を設定し、事業主は身体障害者又は精神薄弱者の実雇用率が当該法定雇用率以上であるようにしなければならないこととする。
 (2)特例子会社の認定要件の緩和
 実雇用率を算定するに当たって、子会社が雇用する身体障害者又は精神薄弱者を含む労働者を親事業主の雇用する労働者とみなす場合の当該子会社の認定要件について、「親会社と営業上の関係が緊密であること」という要件を廃止することとする。
 2福祉的就労から一般雇用への移行のための支援体制の充実
 市町村レベルで授産施設等における福祉的就労等を一般雇用に結び付けていくための相談・援助を一貫して行う障害者雇用支援センターについて、その設置主体に社会福祉法人を加える等、その指定要件を緩和することとする。
 3精神障害者に対する雇用施策の充実
 精神障害者については、短時間労働者も助成金の対象とすることとする。
 4その他
 @助成金の整理、A調整金・報奨金の支給基準の変更等所要の整備を行うこととする。 

 V施行期日
 ・1(1)及び4Aについては、平成10年7月1日から施行する。
 ・1(2)については、平成9年10月1日から施行する。
 ・2、3及び4@については、平成10年4月1日から施行する。

裏表紙の裏
 会費・定期購読費納入のお願い
 □会費 年4.800円(学生は半額)
 (機関誌代を含む)
 □定期購読費 880円(年4回発行 送料込み)
 □郵便振替口座 00180ー6ー92981
 加入者名 視覚障害者労働問題協議会
 (同封の振替用紙を御利用下さい)
 夏のボーナスカンパもよろしく!
 編集後記
 人権擁護施策推進法に基づく審議会が設置され、20名の委員が選任されました。学識経験者、行政関係、法律家などで構成されています。DPI日本会議として障害当事者を、そして様々な分野から「当事者」を委員として選任するよう取り組んできましたが、結果として実現できませんでした。人権問題を中心とするこの審議会の動向に注目していく必要があります。
 医療保険、介護保険、脳死・臓器移植、NPOなど、重要法案の決着が不透明なまま国会の会期末が迫ってきました。私達の生活や運動にとって関わりの深い、これらの問題にも関心を持ちながら、引き続き地道な活動を進めていきたいと思います。
 「梅雨」の季節がやってきます。皆さん元気におすごし下さい。(奥)

裏表紙(奥付)
 1997年6月10日
 定価200円
 編集人 視覚障害者労働問題協議会
 〒239 横須賀市長沢115グリーンハイツ2ー7ー405
 奥山 幸博気付
 発行人 身体障害者団体定期刊行物協会
 世田谷区砧6〜26〜21
 視覚障害者労働問題協議会


■引用



■書評・紹介



■言及





*作成:仲尾 謙二
UP: 20210528 REV:
障害学 視覚障害  ◇身体×世界:関連書籍  ◇『障害の地平』  ◇雑誌  ◇BOOK  ◇全文掲載
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