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『障害の地平』No.86

視覚障害者労働問題協議会 編 19960323 SSK通巻第659号;身体障害者定期刊行物協会,24p.

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視覚障害者労働問題協議会 編 19960323 『障害の地平』第86号,SSK通巻第659号;身体障害者定期刊行物協会,24p. ds. v01

■全文

表紙
 SSK増刊−障害者開放運動の理論的・実践的飛躍のために−
 子宮から墓場までノーマライゼーション!
 
 ―視労協―
 障害の地平 No.86
 QUESTION1 あなたにとっての視労協とは?

 視覚障害者労働問題協議会
 一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
 一九九六年三月二三日発行SSK通巻増刊六五九号

目次
 視労協的気分
 まちにアクセス、時代にアクセス、1996 奥山幸博‥‥‥1
 学校時代から少しづつ変ってきた 中学校生活 森本おりえ‥‥3
 おりえのその後 パートU    森本たつ子‥‥6
 就職活動の体験を通して     田中美穂‥‥‥8
 「障害者における大学問題を考える会」の活動  大河内直之‥11
 障害者運動のつながり       佐藤光子‥‥13
 飛べ、飛べ、視覚障害者(その7)   加藤けんじ‥16
 情報交換ポケット(3)
 東京電力が毎月の検針票点字化  森登美江‥‥19
 書評「オウムと全共闘」      梅林和夫‥‥20
 〈資料〉視覚障害者誘導ブロック(点字ブロック) についての視覚障害者の考え  ‥‥‥‥21
 視労協活動日誌        ‥‥‥‥‥‥‥‥24
 編集後記

p1
 視労協的気分
 まちにアクセス、時代にアクセス 1996(第12回交流大会報告)
 奥山幸博

 3月2日、3日の2日間、「東京都府中青年の家」において第12回視労協交流大会を開催した。記念講演や分科会の詳しい報告は次号で行うこととして、本号ではその大まかな様子を報告しておきたい。
 最寄りの駅が3つあり、歩くとそれぞれ20分はかかる。バスもあるのだが、すべての駅で誘導や待ち合わせの体制をとるのはむずかしく、結局東京、新宿方面から来るのに一番便利の良さそうな西武多摩川線の「是政」という駅1ヶ所を待ち合わせ場所とした。2日間とも日本ルーテル大学の学生達の協力によって、駅ホームや改札での誘導、車での送迎などがスムースに行われほっとしたところである。学生の皆さんに紙面を借りて感謝申し上げる。西武多摩川線というのは通称「是政線」、または「ギャンブル線」などとも呼ばれ、競馬や競艇の開催日には交通機関や道路は大変な混雑となるそうだ。これにぶつからなかった事も幸いしたようだ。
 2日の午後は3時過ぎから約2時間、「ハーフマラソントーク・何でもスピーチタイム」。大げさなタイトルだったが、20人ほどの参加者によるマラソンならぬ駅伝形式の長めの自己紹介といったところ。前の人の話を一応は引き継ぐ形でそれぞれの紹介が行われていった。話題は盛り沢山であったが、「アパートなどを借りることについていくつか話が出された。不動産屋、大家との対応、家賃補助制度の活用、盲導犬のことなどが話されたが、視覚障害者に対する理解不足から、なかなか借りる事ができなかったり、制度が活用しにくいという状況が明らかになった。進路、就職などの問題では、大学を出て企業に勤めたものの十分な仕事が与えられず、改めて盲学校の理療科へ進んだという話や、この4月から盲学校の理学療法科へ進むという全盲の人からの報告もあった。

p2
 夕食は青年の家の食堂で揚物中心の750円也の決ったもの。 (勿論アルコールなし。中にはアルコールなしでいきなり夕食を食べたのは10年ぶりという人もいたようだ)。夕食後は、「障害者における大学問題を考える会」の平川雅子さん(東大)からの活動報告と質疑。(別ページに大河内さんの文章があるのでそちらを参照のこと)。最後に老若男女混じえての楽しい?ゲーム大会でこの日のプログラムは終了。その後はどうしたの?に関しては読者の御想像にお任せするしかない。
 3日の午前中は、300人収容の体育館の端の方に40人ほど参加して、視労協総会、記念講演、連帯あいさつ。暖房がほとんどきかない寒さの中で約2時間半の難行。かぜが悪化したり、ひいてしまった人は居なかったかと事務局としては心配と反省のみである。参加された皆さんには本当に申し訳のない事であった。
 総会は提案通りあっさりと終了。役員は代表の込山氏が療養中のため、宮副代表を代表代行に、あとは若干の若返りといった配置に。記念講演は「国際視覚障害者援護協会」事務局の山添和夫さんと、留学生二人、中国からの李雁雁(リ イェンイェン)さんとネパールからのザヌカ プラサイさんからそれぞれお話をうかがう。協会は95年7月現在で、留学終了10名、留学中12名、その他4名の合計26名という実績があり、今後の発展が期待されている。二人の留学生からはもっと話しを聞いてみたいという思いを持った参加者もいたようだ。連帯あいさつは、全障連矢内事務局長、障害連新田さん、障教連宮城事務局長、都庁職民生局支部人見支部良から、そして東京ユニオンと大谷強先生からのメッセージを頂いた。みなさんお忙しい中(また寒い中)、本当にありがとうございました。今後ともよろしく。
 午後からは「教育」、「まちづくり」、「労働」、「三療」の4分科会での討論。「教育分科会」での森本さん親子をはじめ多彩な顔ぶれの討論となったようだ。次号での報告を期待されたい。
 何はともあれ2日間をとおして60名(ボランティアを除いて)ほどの参加で無事終了する事ができた。大会でも言われていたように、「視労協の存続をも含めた運動のあり方」を避ける事のできない課題として討論していかなければならない。今回の大会を通して新たに出会った人達もいることをふまえて、それなりにしっかりとした歩みを続けていきたいと考えている。

p3
 ○「教育分科会」レポート
 小学校時代から少しづつ変ってきた中学校生活
 
 森本おりえ

 みなさんこんにちは、はじめまして、森本おりえと言います。ご存知の方も多いと患いますが、私は小学3年の頃から、盲学校から普通校への転校を希望していて、やっとおととし5年越しの願いが叶えられ、普通中学校へ転校できました。今日は小学校時代の頃の事を少しと、今の中学校生活の事をお話します。
 小学校時代の始めの方は、友人も沢山いてよかったんですが、小5の時に自主登校をしたのがきっかけとなり、友人ともあまり遊んだりしなくなってしまったのですが、やはり小5の3学期が一番私にとっては辛い日々でした。なぜかと言うと、私はずっとクラスの中の一部の人達にいじめられていたからです。盲学校の担任の先生に言っても、あまり真剣にはとりあってもらえなかったのです。当時は今以上に気がきつく生意気で意地っ張りだった私の事ですから、あまり自分の方から普通学校の担任の先生にも言わずにいて、まわりでいじめられているのを見たある人がみかねて先生に言って、はじめてわかった事だったのです。これが発端で、6年に上っても友達関係はあまり良くはありませんでした。でも中には、話しかけてくれたりする女子もいました。やはり男子が何かふざけて、わけのわからないような事を言ってこっちへ近づいてくる時は、どきっとして恐ろしかったです。ちょうど当時、もやもや書きと言って、自分の思った事など紙に書いて先生に出すというものをやっていたのですが、やはり私に帰ってくる返事は、やっている事と言っている事の矛盾を感じさせるようなものだったように思います。ある時は、クラブにも生徒会役員にもなっていなかった私が、いっぺんそういう仕事をやらせてもらいたいという事を書いた時、先生の返事は、「そういう風にして、これからももっと意欲をもてるようになって下さい」といった内容の事が書かれていました。まるで自分達は何もせず、他人事のように思っている先生達の姿がありありと頭の中に浮かんできました。あともうひとつは、卒業式に私がみんなと出ない事を、私のいない日にみんなの前で言ったらしく、「おりえちゃん、卒業式に出やへんのやろ?」という事をまわりの人から聞

p4
かれ、これはおかしいと思い、その事を書いて先生に出したところ、数日後に返事がいつも返ってくるはずなのに、この時は返ってきませんでした。何だかとてもさみしかったです。この事を書いた自分って一体何だったのだろう、ちゃんと先生の返事が欲しいという私の思いは、伝わっていなかったのかと思うと空しさを感じずにはいられませんでした。卒業式が終ってからも、「普通の中学校へ行けるのかなあ」とずっと不安でした。でも行けると両親から聞いた時とても嬉しくて泣いてしまいました。

 やがて中学校生活がスタートしました。みんな始めのうちは点字というものに驚き、「なあ私の名前点字で書いてみて」などと珍らしがり、休み時間になるたびに私の所へ寄ってきてくれました。ちょっとそれで有頂天になりかけていた私は、1年の1学期の中頃になると、気分的にもだらだらとした状態になり始めてしまいました。自分でも信じられないほど、提出物や宿題の出が悪く、先生にもその事で何回も注意を受けました。一方、教科書の方はみんなボランティアの人達にずっと点訳をお願いしているような状態でした。秋になり、創作ダンスをやっていた時チームの人が私の事を心配して、「踊りちゃんと覚えやな、みんなについていけへんよ」と言われた事もあり、その時は返す言葉がなかったのですが、終ってから、あの時にちょっときつい事言われたけれど、その言葉がなかったらダンスうまくいっていなかったやろなと、思いました。3学期になり、私はちがうクラスの友達がいじめにあっている事を知り、迷ってはいたものの先生にその事を言いました。実は先生に言ったら、今度は自分がどうなるのか、彼女がどんな目にあうかととても恐ろしかったのですが、何かが起きる前に先生に言っておいた方がいいと考えたのです。先生は真剣になってこの問題について考えてくれました。やっぱり先生に言ってみて良かったなと思いました。でも今思うとちょっと私のした事は彼女にとっては「余計なお世話だ」と、思われていたのかも知れません。家庭科の時間に始めてウォールポケットを作りました。最初は、「これ本当にうまくできるかなあ」とすっごく心配だったのですが、何とか辛うじてうまくできてよかったと思っています。
 やがて2年生の春がやってきました。最初クラス替えの時に、誰となるのかずっとドキドキしていました。その時に友達になった一人の人がとても仲の良い友達になるとは、当時思ってもいませんでした。自己紹介も終り、学

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級役員を決める日がきました。私は副級長に立候補しました。その後何回も先生とも電話や放課後に残って話をしたりしました。ある日、明日の予定などを黒板に書いたりなど、できないことをどうするかについて話し合いを持ちました。副級長になった時に、「森本さん、書く峙はどうするの?」という疑問の声があったため、覚悟はできていたのですが、話し合いの結果、副級長を変えるということになり、私は最後まで立候補しておきながら、責任を果たせなかった事のくやしさと空しさで、学級会が終ったその日、先生の前で涙を隠しきれずに帰る間際まで泣いてしまいました。
 教科書の方は、音楽、数学、社会、国語を買う事ができました。1学期はクラス替えの時に知り合った人と親しくなり、帰りも一緒に帰るようになりました。今まではずっと一人で帰っていたので、なんだかとても一緒に帰ってくれる日は、安心でもあり楽しくもありました。教科係の仕事もずっと彼女と一緒に、聞きに行く人と書く人を二人で分担してやっていたので結構うまく連絡も伝わりました。しかしひとつ失敗してしまった事もあります。コーラスコンクールの時に、ピアノの伴奏者を決めた所までは良かったのですが、私その時に、本当に自分ができるかどうかも考えずに立候補してしまったのです。楽譜を見てみたら、すっごくという所まではいかなかったのですが、結構むずかしくて、夏休みの登校日先生にちゃんと話をし、それからしばらく自分でも考え、もう一人の立候補していた人にその旨を伝え、変ってもらいました。自分でもこれはすごい大失敗だと思い、今でも心の中にしまってあります。この事を教訓に、これからはよく考えてから行動に移ろうと思います。
 いよいよ2学期になり、体育では陸上競技の選択授業が入ってきました。最初だったので、少し戸惑いながらもみんなに教えてもらいながら、グループの計画を書きました。走る時はグループのメンバーが交替で一緒に走ってくれました。なのでとても助かりました。また、器械運動の選択授業でも、倒立、前転ができないので練習していたら、横で見学していた人が、「もうちょっと足上げた方がいいよ」など、色々助言をしてくれやっとできたものです。1年の時あまりそういう事がなかったため、とても嬉しかったです。クラス替えをした最初の日に知り合ったという友達とは、その後もずっといい関係が続いていて、当時は私が小学校の頃に受けたいじめ話や、その他お互いの辛い事なども気軽に話せるようになり始めました。しかし、提出物の方は1学期に比べルーズになってきてしまったので、3学期になったらがん

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ばろうかなと思いつつありました。
 3学期がスタートしました。最初の日は、お年玉をいくらもらったか、宿題はどれだけやってあるかなどの話で盛り上がりました。友達の中には、「私なあ、お年玉もらったその日にいきなり『貸して』なんて言われたんやで」などと言う者もいたりして盛り上がりました。また、学校へ行く時も友達と誘い合いながら行く事も多くなりました。提出物の方は少しづつですが出せるようにがんばっています。最後にこれからももっと色々な事を話せる友達を沢山作りたいと思います。どうもまとまらなくてすみませんでした。

 おりえのその後 パートU
 (「共に」こだわり続ける中から)

 森本たつ子

 なりもの入りで入学できたのもつかの間、普通学級に自分の机がある、この当たり前とも言えるはずの場と機会を獲得する為に闘いに埋没した日はなつかしく、今中学生活も折り返し地点にきています。
 1年生の時、先生の配るプリントに対し、「あれ、私のは」と普通に反応したつもりが、「点訳者の苦労わかっているの」、「特別扱いしてほしいから普通校にきたんじゃないの」、「校長はOKしたかわからんけど、私はOKしてない」。おりえとの共生にかなりマイナスの反応が出てくる中、「森本が強くならんでもいいクラスにしたらええんや」、「人は皆平等に生きる権利を持っているのだから、あれこれ言うのはおかしい」、そんなごくひと握りのクラスメートに支えられての学校生活。思うように仲間作りができず、一人で歩いていたような気がする。そんな毎日の中から、一人、二人と肩を貸してくれたり、移動を手助けしてくれる、「委員会の仕事をフォローしてくれる、また帰り際に「森本、自転車に乗せたるわ」と、校則違反もおかまいなしに二人乗りで帰る事もしばしば。夜も遅い頃に友達といつまでもしゃべったり、親ははらはらの連続です。そんな娘の姿を通し、小学校までは交流学習もしてきて、確かに顔見知りもできたけど、日々を共にすごす友達はできなかった。交流生や特殊学級という位置づけでは、このようにならなかったと思う。学校では喜怒哀楽を共にできる生活の場面があります。皆と一緒

p7
にそれらを共感できる、その中から私としては、「イやな子もおるけど、いい子もおるんや」という思いを持てる事が大事じゃないかと思うのです。人はいろんな思いをして生きていく事をつかんでほしいと思う。寄り道したり、失敗したり、また戻ってみたり、そこでくやしかったり、切なかったり、嬉しかったり、そんな気持の積み重ねを自分の豊かさにできるような。それにはしんどいながらでも、クラスにいる事でしか共に生きていく関係は育たないし、その延長線上に地域社会があり、その事を当たり前に受けとめていけるようになる為にも一緒にいる事は必要不可欠なのです。

 (編集部注――この二つの文章は3月3日に行われた視労協交流大会の分科会レポートとして書かれたものを使わせて頂きました。)
 (校正者注:挿絵省略)

p8
 「就職活動の体験を通して」
 田中美穂
 私は、1996年4月1日付で自治労への採用が内定しました、田中美穂です。現在は、和光大学の人文学部人間関係学科に在籍しています。なんとか卒業の見通しがついたということもあり、とりあえず今はホッとしているところです。
 それでは、私の就職活動体験と今後の抱負について、少し書いてみたいと思います。
 私が就職活動を始めたのは、昨年の3月頃からでした。といっても、自分の能力が社会にどの程度通用するものなのか、又どのように自分を売り込んでいけば良いのかなど、私自身の中にも迷うところが多くあって、実際には情報誌を見て葉書を出すといった程度のことしかしていませんでした。
 職業安定所や学生職業センターなどの相談会は、5月頃からあちこちで開催されていました。私もそれらにできる限り出席し、計20社ほどの企業と面接しました。どこの企業も、一通り話を聞いてはくれるのですが、十日前後の期間をおいて「採用できない」との連絡が入る、その繰り返しでした。視覚障害というのは、他の障害と比べて一人では何もできないというイメージを企業側に与えがちなように思います。それだけに、「何ができて何ができないか」、又「どのような配慮があればどれだけのことが可能になるのか」など、視覚障害の性質も含めて、自己の能力をもアピールしていくことが大切なのだと感じました。
 その後、相談会で面接した中の1社から、会社で面接試験を行いたいとの返事を貰い、職域の開拓などについての話し合いが何度か持たれま

p9
した。人事担当の方が私の能力を評価し、採用について前向きに検討してくださっていたことは大変嬉しく思いました。しかし、会社の意向などもあり、話し合いはなかなか進展しないまま、何カ月かが過ぎました。
 こうした状況の中で、私があせりを感じ始めた7月のある日、知人から「自治労の試験を受けてみないか」との話がありました。自治労とはどのような組織なのか、そこでどういった仕事が私にできるのかなどということは全くわかりませんでしたが、チャンスはできるだけ生かしたいと考え、受けてみることに決めました。
 面接は9月11日に行われ、幸い私は採用していただけることが決まりました。一般学生の就職活動の厳しい現状を身近に見ていただけに、こんなにも早い時期に内定が貰えるなど、信じられないことでした。就職したいと強く望む一方で、不景気、ベビーブームの世代であることに加えて、障害者ともなれば、当然スムーズに決まるはずがないという諦めにも似た思いが、私の中にあったのだと思います。
 その後、何度か職場の方たちとも会い、仕事内容や職場環境についての話し合いも、徐々に行われています。障害者雇用は初めてとのことで、あらゆる事柄が慎重すぎるほど慎重に進んでいます。不安な思いを抱いているのは私だけではないのかも知れないと安心する一方で、様々な部分にこれからの私の行動が影響してくるのでは、というプレッシャーも感じています。
 組織・機関の関係や、自治労の果たす役割、その中での私の位置づけなど、一般企業とは異なるだけに、正直、今の私にはあまりよくわかりません。懇親会の席などで、自分のあまりの知識不足に情けない思いをしたりしています。しかしここが私の職場となる以上は、精一杯努力していきたいと思っています。

p10
 半年間という短い期間でしたが、人並みに就職活動を行ったことは、私にとって貴重な体験となりました。それまでは、どちらかというと消極的で、目立つことは極力避けてきた私が、自分の長所や能力を売り込み、しかも「できる」ではなく「やりたい」という意思を強く主張した最初だったからです。社会人になってからも、この体験を生かして、積極性を持ち続けながら、適度に肩の力を抜いて仕事ができればと思っています。
 ずいぶんと勝手なことばかり書いてしまいましたが、実際社会に出てみれば、今の私には、思いもつかないようなことも多くあると思います。今後とも、よろしくご指導くださいますよう、お願い申しあげます。
 
 (校正者注:挿絵省略)

p11
 「障害者における大学問題を考える会」の活動 〜アンケート調査を終えて〜
 1996年1月 大河内 直之

 私たち「障害者における大学問題を考える会」は、障害者を積極的に受け入れている大学に学ぶ学生達が、お互いに情報を交換する中で障害者の大学受験や学内環境について大学側とも協力しながら考えていく、という主旨のもとにあつまり、2年半ほど前に発足した学生のサークルです。現在メンバーは10名ほどで、集まっている大学数も5大学とまだまだ小さなサークルですが、細く長くをモットーに地道な活動を続けております。
 発足してからの2年半は、各大学側の状況を知るために、視覚・聴覚障害者について東京の108の大学(109の学部)にアンケート調査をおこないました。そして、66大学(67学部)から回答を得ることができました。
 アンケートの主な内容としては@視覚・聴覚障害者の受け入れ(受験等)についてAまた受け入れ後の学内環境について、の2点としました。特にAの学内環境については、障害者を受け入れている大学が少ないということもあってあまり調査されておらず、私たちとしてもかなり興味深く感じながらアンケートを作成しました。そして昨年の秋、そのアンケート結果を集計したものがやっと完成しました。Aの学内環境についても、障害者を受け入れている大学の協力のおかげでかなり細かな部分まで調査することができました。そして、これまで私たちの知らなかった状況や問題が明確になってきたのです。
 今、アンケートを集計してみて改めて感じたことは、視覚障害者や聴覚障害者が大学を受験したり大学生活をおくったりするのにはまだまだ問題がたくさんあるということでした。しかしそれと同時に、少数ではあるものの、障害者を積極的に受け入れようとする大学も着実に増えているということを実感しました。視覚障害者を受け入れる意思のある大学は回答を寄せた66大学中55大学、聴覚障害者に関しては49大学にのぼっています。
 このように、障害者における大学問題は受験等に関する問題から細かな学内生活の問題へと拡大しつつあります。こうした現実をふまえて、私たちはこれからも多くの障害者が大学に入学し、よりよい学内生活のもとで学べるよう、各大学をはじめさまざまな方々と協力しながら活動を続けていきたい

p12
と考えております。
 次の目標としては、肢体不自由に関するアンケート調査を行うつもりです。学生の作るサークルです。未熟なところも多々あるとは思いますが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。また、私たちの活動に興味をもたれた方はぜひご協力ください。特に、学生のみなさんの生の声をお待ちいたしております。

 (私たちの集計したアンケート結果をご覧になりたい方は大河内までご連絡ください。お送りいたします。)
 連絡先:大河内 直之
 TEL 03-3899-3857
 FAX 03-3899-6514

(校正者注:挿絵省略)

p13
 障害者運動のつながり
 佐藤光子

 1995年12月9日の第1回障害者政策研究全国集会で第4分科会「引き継がれる障害者運動」に参加した。その前、11月に弱視者問題研究会のメンバーたちと話をした時に、「今の弱問研の中で障害者解放運動や視労協のことを知っている人はほとんどいないよ」という話が出た。若者が少なくて苦労している視労協と違って世代交代を果たした弱問研だが、「運動の歴史は継承されているのかな?」と思わせる言葉だった。しかし今の視労協の中で「視労協宣言」や教員採用試験点字受験についての東京都教育委員会交渉のいきさつを覚えている人も少ないよう(私もうろ覚え)だからよそのことは言えない。
 分科会でのパネラーたちの話を聞いて、20年ほど前に、青い芝の会の人に聞いたことを思い出した。話題は青い芝の会の運動の過激さについてのことだった。「女性差別や部落差別との闘いは世代を越えて親から子へと同じ立場で闘いを続けることができるけれども、障害者の場合は、子供が健常者である場合の方が多いので、運動は一代限り。故に過激に焦らざるをえない」というような内容だった。どちらかと言うと引 っ込み思案もちょっとすねて保守的な生き方をしていた私が、言動ともに過激さを身につけたきっかけの一言だった。そして、自分が子供を生んで育てたとしても、その子が必ずしも同志になるとは限らないのだと悟って、マジに寂しさを感じた記憶がある。
 私が障害者運動に関わるきっかけになったのは、音楽だけでは自分が満たされないと感じ、他に何か自分のやるべきこと、いるべき場所があるのではないかという焦燥感のようなものにつき動かされて社会福祉を学んだこと。

p14
 その大学の点訳サークルで初めて盲学校出身の視覚障害者に身近に接して、自分も視覚障害者でありながら視覚障害者のことを何も知らずに育ってきたことに愕然とした。まさに、隔離教育の成果(?)ではあった。サークルでは、視労協が現在力を入れている街づくりにもつながってくるのだが、大学内で障害者が自由に対等に学習や移動ができることを目指して、点字のレポートと事務書類の公認、危険箇所の点検と改善、点字ブロックの敷設、手話通訳と対面朗読サービスの導入、段差のスロープ化などを大学当局に求め、学内にもPRした。そのころ関西障害者解放委員会ができていて、サークル仲間とともに統合教育支援や大原闘争を体験する中で、社会構造そのものの差別性にも気づかされた。
 サークルにいた視覚障害学生は、「どれほど設備や制度が整っても資本主義である限り差別はなくならないだろう」と冷ややかに言ったものだが、社会環境や生活が人の意識を決定すると信じていた当時の私はそれなりの希望を持っていた。また、彼は、「重すぎる荷物は持つな」と忠告もしてくれた。今、障害者の社会参加のための政策や制度がやっと整えられ始めたが、彼の言葉は今もまだ私の心の中でくすぶっている。私が生きているうちに差別がなくなることはあるのだろうか、と。差別をなくすには青い芝の会が主張していたように、労働観・能力観の変革が必要なのではないだろうか、と。
 もう一つ、分科会でのパネラーの話の中で、『障害者に迷惑な社会』という書籍にもふれられた。このタイトルのような発想は、以前から私自身が統合教育反対者への反論として用いていた言葉なので、この本を知ったときにはうなづきながら読み、後輩のためにと下手な録音までしたものだ。仲間はけっこういるものだなと、意を強くした次第。
 設備環境が変わり、制度が変わり、社会構造が変わり、人々の意識が変わる時まで、た

p15
とえ重すぎる荷物であっても生きている限り少しずつでも担いで行かなければならないのだろう。
 ため息とともに年齢・体力を 実感するよ 視労協。

(校正者注:挿絵省略)


p16
 飛べ、飛べ、視覚障害者その7
 加藤けんじ

 はじめに
 前回、私は幾分宗教的雰囲気のする文章を敢えて掲載した。私がいかなる宗教団体とも無縁であることを、お断わりして置きたい。
 しかし、宗教的体験の中には、論理や既成概念にとりつかれた人聞を解放へと導く技術が隠れている。私は、それを抽出したいという宗教に対する冒涜行為を目指しているのだ。
 私の体験を幻想として読むのもいい、しかし、私の幻想は、現代社会における、「平等」や「平和」と言う幻想とは、質が違うのだ。人間を解放する幻想と、人間を搾取する為の幻想の差とでも言うべきか。そこまで言えば、只の自画自賛である。さて、そろそろ本題に入ろう。

 赤ずきん
 「赤ずきんちゃん」と言う童話を、知らない人はほとんどいないだろう。この話では、赤いずきんを被ったかわいい少女、赤ずきんちゃんが、おばあさんのところへ行くのだが、そこには、狼がいて、おばあさんはすでに喰われていて、赤ずきんちゃんも喰われてしまうと言うお話、元々は、ここで終わっていたのを、これでは、救いが無いと言うことで若い猟師が現れ狼を退治し、狼の腹を裂いて、おばあさんと赤ずきんちゃんを助けると言う話が付け加えられたそうだ。
 現在、狼に喰われると言う言い回しは、そのまま、悪い男に騙されると言うような意味に使われている。
 この話が出来たのも、かなり昔の話で、女性の権利など、否定されていた時代である。男による性的暴力への警告としても機能していたのであろう。
 この話を、人の心の深層として読むことが出来る。今回は特に赤ずきんちゃんが被害者であると言うことを、主眼に置いて考えてみたい。

 日常の中の被害者意識
 被害者意識を癒すと言うことは、ヒーリングの中で大きなテーマの一つになっている。多くの人の深層に被害者意識があり、それを乗り越えることで素晴らしい癒しを体験している。
 特に女性たちの多くは、男性の中にある権力思考によって、被害

p17
者的な立場に追い込まれると言うことを少なからず体験しているし、性別に関わらず、権力に馴染むことに反感を持つ心があるなら、意識的で無いにしろ被害者意識を感じている訳だ。そう言う訳で、ほとんどの人が被害者意識をもっているのだ。それを癒していくことは十分意義あることなのだ。
 この癒しの第一歩は、日常の中で「いかに自分が被害者意識を感じているか」と言うことに気づくことから始まる。私がヒーリングに詳しい友人{女性}と一緒にCDショップにいたとき、彼女が、「ねえ、この音楽、すごーくいいよ。買いなよ。それで私に録音して。」と言う。私はそのCDを見て、買うことを決めて、レジでお金を払った。彼女は「買ったの。良かったね。」と言う、私は「買わされたみたいだな。」と答えると、彼女が「まだ被害者をやってるの。」と聴いてきた。私は苦笑しながら「被害者を楽しんでるんだ。ほっといてくれ。」と答えた。
 日常の中の、些細な出来事の中にも被害者としての振舞いが見られるものである。「何々を、やらされた。」と言う言葉の言い回しには、被害者意識が表現されているのだ。

 被害者のエクスタシー
 赤ずきんちゃんは、なぜ狼に襲われたのか、もしかしたら、わざとそうしたのではないか、そう考えるとこの話の解釈はぐんと、面白味をましてくる。そもそも狼におばあさんの家を教えたのは、赤ずきんなのだ。その時には、狼さんが悪者だとは想わなかったともとれるが、逆に、こわいもの見たさで狼を誘ったともとれるのだ。
 もし、後者を取るとしたら赤ずきんちゃんは、なぜ、狼を誘うような危険を犯したのだろうか。こう考えて行くと答の一つとしてこんなものが導き出される。    
 「赤ずきんちゃんは、きっと狼に喰われる快感を味わいたかったのだ。」少々乱暴な答だ。更に乱暴な展開をすれば「被害者になることはある種のエクスタシーを伴う。」と言うことが浮かび上がるのだ。

 猟師の救い
 被害者のエクスタシーとして、「赤ずきん」を考えるとき、一つの新たな意味が見えて来る。それは、被害者のエクスタシーとは、「猟師の救い」を前提として、存在するものなのではないかという発想だ。「この不幸な私をいつか誰かが救ってくれる。」と言う願望こそが、被害者意識の根底を流れるエクスタシーなのではないだ

p18
ろうか。
 被害者意識の強い病気の一つとして「むちうち症」があげられる。自動車事故後遺症としてよく現れるこの病気は、頸椎の損傷という物理的問題もさることながら、「私は悪くないのにぶつけられた。」と言う被害者意識が強い時、症状を長引かせるようだ。治療師は、猟師の役割を演じる訳だが、時として狼の手先としての役を演じることもある。
 「この不幸な私を救い出すことの出来ないあなたは加害者の手先」ということになるのだ。そして治療が完了するのは、患者が以下の考えに達した時である。以下の考えか意識の深層に達した時、症状は改善するのだ。
 「この不幸な私を救うのは私自身でしかない。私自身が私の救済者になろう。この不幸は大したものではない、ちょっとしたハードルだったんだ。」

 障害のエクスタシー
 障害者の欠点を見ていくと、障害者の中には、親や社会に甘える傾向。「やってもらうのが当り前」と考えて、感謝の気持ちを表現しない傾向というのがあることが解る。障害者であると言うだけで多くのサポートが受けられるのだから、この気持ち良さに甘えてしまうのも道理なのだろう。私たちは、それを一部の障害者の問題として見るのではなく、自分の問題として反省していく必要がある。これらの傾向は、被害者の甘えでもあり、そのまま私たちが、被害者のエクスタシーをどこかで感じているということをも物語っているのだ。障害者の甘えはそのまま、障害のエクスタシーともいえるだろう。そして、この障害のエクスタシーを超えた時にこそ、真のエクスタシーが現れるのではないだろうか。
 昔、「障害者は被害者意識を捨てられるか?」という問を誰かにしたことがある。彼は「捨てられないだろう。捨てたら面白くも何とも無いよ。」と答えた。彼の答はもっともだと想う。私が被害者意識を超えると言う時、それは被害者意識を抹殺するということではない。それは、「只、超える」と言う意味だ。障害をハードルにして、飛び超えるのだ。障害はハードルに過ぎない。もし障害を生きてしまったら、障害のエクスタシーに溺れることになる。障害の地平を踏み越えて先へ進もうではないか。そこにこそ、真のエクスタシーがある。スローガンは「飛べ、飛べ、視覚障害者。」

p19
 情報交換ポケット(3)
 ―東京電力が毎月の検針票点字化―

 東京電力では、1985年9月からお客様サービスの一環として毎月の検針票を申し出があった場合、点字で対応しています。
 「検針票を我々にもわかるようにしてほしい」という視覚障害者の要望を受けて検討した結果、都盲協に具体的な協力を依頼して実施したものだそうです。都盲協の笹川さんのお話では、「検針したその場で書き入れる方式なので、検針係のすべての人に点字をおぼえてもらわなければならなし、それは急にはむずかしいので、今のような方法で行っている。読みにくいという問題は残るが」ということでした。
 事前に書き込めるもの、例えば、氏名やお客様番号などの書いてある用紙に、使用料や検針日などの数字を貼りつけていく方法になっています。既に書き込まれている数符(数字である事を示す符号)の後に、活字の併記してある1から9の点字シールを使用料や検針日に合わせて選び出し、貼りつけていきます。難点は、笹川さんも指摘されていたように、点字器で書き込むのとはちがって、ぴったり合わないので読みにくいという事です。もうひとつその工夫ができれば、応急的にはかなり有効な方法だと思います。8千数百世帯がこのサービスを受けているそうです(95年2月現在)。
 この方式は色々な場面で応用できそうです。例えば郵便局の不在通知。今は受付局の電話番号しか書かれていませんが、そこに荷物取扱い番号だけでも書き加えられれば、問い合わせの時要する時間がかなり短縮されると思うのですが、いかがなものでしょうか。
 次回は郵便局で行われているサービス、その他について考えてみたいと思います。
 皆さんからの情報や体験をお寄せ下さい。
 (報告・森)

p20
 書評
 『オウムと全共闘』小浜 逸郎 草思社刊
 梅林 和夫

 いまさら、「オウム」でもあるまい、とは思う。世の関心事は「住専問題」、「薬害エイズ」へと移っている。しかし、これらの問題は戦後日本の官僚、会社、政治家の癒着構造の端的な顕れであり、分析・批判を加えるのみなら、事はそれほど難しくはない。
 「オウム問題」はそうはいかない。地下鉄サリン事件以降、多くの識者達(多くの一般大衆)はオウム真理教を山師的宗教家にマインド・コントロールされた犯罪者集団とみなした。しかし、@なぜ、知的に優秀な数多くの若者が、あれだけたやすく、麻原彰晃のような山師的宗教家のもとに「絶対帰依」することができたのか。Aなぜ、平和でそれなりに安定した(はずの)いまの日本社会で、このような非融和的・閉鎖的な教団が成立する必然性をもつのか。これは多くの市民にとって、そしてこの本の著者にとっても切実な疑問だった。
 著者はこの問いに答える時、自らの世代体験(全共闘と左翼的観念に染まりかけた体験)の否定的総括とそれ以降の社会の変化の分析をとおして語る。そしてそのなかで左翼崩壊以降(社会主義体制の崩壊)の知識人(吉本隆明等)がオウムのような新々宗教に対してどのような態度をとってきたかという問題も検討される。
 結論的に言えば著者がオウム批判のよりどころとして提出した思想は「ささやかな豊かさと、退屈を持ちこたえる方法を、時間をかけて案出すること。そのために、近代文明のよきものを性急に否定しないこと」ということになる。
 過去に左翼的傾向を持っていたか、現在持っている人には、一読するに面白い本である。このような全共闘経験者が出てきたということが。しかし、そうで無い人には面白くない。そういう本である。
 (終わり)

P21
 〈資料〉
 視覚障害者誘導ブロック(点字ブロック)についての視覚障害者の考え

 (編集部注―この資料は本年1月28日「手をつなごう集会」主催で行われた「視覚障害者まちづくり研究集会」のものです。29日にはこの内容に基づいて、運輸省、建設省、厚生省との話し合いが持たれました)。

 【目的】
 第1条 この「視覚障害者誘導ブロック(点字ブロック)についての視覚障害者の考え」(以下、「考え」という。)は、視覚障害者誘導ブロック(以下「点字ブロック」という。)の基本を定めることにより、視覚障害者(弱視者を含む。以下同じ。)の歩行の安全と利便の確保に寄与し、もって視覚障害者の社会参加と平等を促進することを目的とする。

 【定義】
 第2条 点字ブロックとは、視覚障害者の歩行における安全と利便の確保を目的として、歩道、駅舎、建築物内、その他の床材に敷設される点状突起をもつブロック(以下、点ブロックという)、または線状の突起をもつブロック(以下、線ブロックという)であって、その形状等及び敷設方法が一定の基準を満たすものをいう。

 【基準】
 第3条 点字ブロックについての第2条第1項における「基準」とは、次のものをいう。
 〈点字ブロック〉
 1 点字ブロックは、全盲者及び弱視者並びに晴眼者が、触覚(白状及び足底。以下同じ)及び視覚によって、その特定が容易にできるものでなければならない。
 2 点字ブロックの材質は、滑りにくく、磨耗しにくく、触覚及び視覚による確認が容易なものであり、かつ、点字ブロックの周囲の床材は、点字ブロックの材質との対比が容易に確認できるものでなければならない。
 やむを得ず、インタロッキングブロックまたは駅ホーム側端にあるような

p22
滑り止め等、点字ブロックとまぎらわしい床材を使用する場合においては、点字ブロックの両サイドに巾30cmの平らな緩衝帯を配置し、触覚による確認が容易なように配慮しなければならない。
 3 点字ブロックは、吹付方式またはペイント方式等、見かけだけの類似品の使用は認めない。
 〈形状〉
 4 点字ブロックの形状は、30cm角、正方形のものとする。
 点字ブロックの突起の高さは5mm以上とし、その一部または全部が3mm以下になった時は、ただちに補修しなければならない。
 5 点字ブロックの色は黄色系統のものとし、周囲の床材は点字ブロックの色とのコントラストが映えるものでなければならない。やむを得ず黄色系統以外の色のものを採用する場合においては、点字ブロックの両サイドに巾30cmの緩衝帯を配置し、視覚による確認が容易なように配慮しなければならない。
 6 点字ブロックは、その点または線の突起部分のみを黄色とする類似品の採用は認めない。
 〈敷設方法〉
 7 点字ブロックは、埋め込み式のものとし、突起の底面が歩道路面の高さに一致するように敷設しなければならない。
 8 点字ブロックは、視覚障害者が自らの定位を誤らせない範囲内で、できるだけ曲がりや分岐点を少なくし、単純に連続して敷設するものとする。
 9 点字ブロックは、その敷設にあたって、放置自転車等の放置物が置かれないようにするため、「ものを置かないで」等のPRシール付のものにするよう努めるものとする。
 〈点ブロック及び線ブロック〉
 10 点字ブロックのうち、点ブロックは警告または位置表示用に用い、線ブロックは直線歩行における方向指示用に用いるものとする。
 〈点ブロックの形状〉
 11 点ブロックは突起の数を25点 (5×5) 、32点(千鳥配列)または36点 (6×6)とし、かつ、ドーム形または円錐台形とし、ただし、危険防止用の駅ホームの側端表示用のものは、32点・千鳥配列のものでなければならない。
 〈線ブロック〉

p23
 12 線ブロックは、突起を28cm 4列とし、かつ、蒲鉾形または台形とする。
 13 線ブロックは、いわゆる「小判型」のものは、点ブロックと混同しやすいためその採用を認めない。

 【参加】
 第4条 点字ブロックに関する基準・指針の採用にあたっては、立案の段階から、視覚障害者、歩行訓練士、盲学校・視覚障害者関係施設等の中から、複数の委員の参加を求めなければならない。
 A点字ブロックの敷設にあたっては、計画の段階から、視覚障害者、歩行訓練士、盲学校・視覚障害者施設関係者等の中から、複数の意見を求めなければならない。

 【細則】
 第5条 点字ブロックについて、この「考え」に定めない事項は、別に細則で定める。

 (校正者注:挿絵省略)

p24
 視労協活動日誌
 (1995年9月から1996年3月までの主な活動)
 ○9月2日 まちづくり討論集会(視覚障害者が安心して歩ける東京を作る会)
 ○9月6日 東京都社会福祉基礎調査説明会
 ○9月10日  DPI常任委員会
 ○9月24日 定例会 機関誌84号印刷
 ○9月26日 「第一回障害者政策研究全国集会」実行委員会
 ○10月16日 マッサージユニオン理事会
 ○〃 日本障害者協議会(JD)との話し合い(DPI)
 ○10月22日 20周年記念イベント
 ○〃 「雇用連」主催のフォーラム
 ○10月25目 カイロ等無資格業者撲滅大会
 ○10月24日〜27日 全国自治研集会(自治労、長野)
 ○10月29日 障害連総会
 ○11月12日 定例会
 ○11月25日 政策研究集会実行委員会
 ○12月2日 視覚障害者が安心して歩ける東京を作る会(要望書集約)
 ○12月3日 全国交通行動
 ○12月4日 東京都へ要望書提出(まちづくり条例)
 ○12月8日 障害者総会情報ネットワーク総会
 ○12月9日 第一回障害者政策研究全国集会
 ○12月11日 交通アクセス中央交渉
 ○12月23日 定例会、機関誌85号印刷、忘年会
 ○'96年1月14日 定例会
 ○1月16日 マッサージユニオン理事会
 ○1月21日  DPI常任委員会
 ○1月28日 視覚障害者まちづくり研究集会
 ○1月29日 「点字ブロック」について、建設、運輸、厚生省との話し合い
 ○2月11日 定例会
 ○2月25日 助成金不正受給、障害者への暴行事件会議(水戸)

裏表紙の裏
 ○3月2日〜3日 第12回交流大会
 ○3月17日 定例会、機関誌86号印刷

 視労協事務局と連絡先
 〒239 横須賀市長沢115 グリーンハイツ2-7-405
 奥山 幸博気付 視労協
 〈連絡先〉(どちらも昼間のみ)
 奥山 0468-22-6711
 宮  03-3780-0585(木曜日を除く)
 〈会費等の振り込み〉
 郵便振替口座 00180-6-92981
 加入者名 視覚障害者労働問題協議会

 ―編集後記―
 住専問題と言い、薬害エイズ問題と言い、政治と企業などとの関わりがきびしく問われる状況になっています。選挙をやって「みそぎをうけた」などと言わせてしまわないような、市民サイドのとりくみが重要でしょう。
 障害者施策についても、行政や専門家主導の展開は終りにしなければならない時期に来ています。前にも書きましたが、「あなたのまちの障害者計画」について、策定されているのかどうか、当事者の声は反映されているかなど是非検証してみましょう。そして声を上げましょう。
 視労協も21年目のスタートとなりました。今一番必要なのは会員一人ひとりの「声」です。今年もよろしく。(会費、購読費も忘れずに納入して下さい)。
 (奥)

裏表紙(奥付)

 1996年3月23日
 定価200円
 編集人 視覚障害者労働問題協議会
 〒239 横須賀市長沢115グリーンハイツ2‐7‐405
 奥山 幸博気付
 発行人 身体障害者団体定期刊行物協会
 世田谷区砧6〜26〜21
 視覚障害者労働問題協議会



■引用



■書評・紹介



■言及





*作成:仲尾 謙二
UP: 20210528 REV:
障害学 視覚障害  ◇身体×世界:関連書籍  ◇『障害の地平』  ◇雑誌  ◇BOOK  ◇全文掲載
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